529回例会 

日時: 3月例会 は 実会 場と ビデオ会議システム Google Meetで ハイブリッド 開催します。

2025年 3月 6日( 木 19:00 21:00 JST・質疑応答含む)

 

オレのトスカーナ~歴史とワインに魅せられて

講師:佐藤 真一 さとう しんいち クリマ ディ トスカーナ オーナーシェフ

講師略歴:

 

青森県出身。青森高校卒業後、赤坂のトラットリアを経て 98 年渡伊。アンティーカ オステリアデル ポンテ、ダル ペスカトーレ、エノテカ ピンキオーリなどで 5 年半に渡り修行を積み、帰国。 2006 年南青山リストランテ イル デジデリオのオープンと共に総料理長に就任。カジュアルでも本物を。という信念のもと 15 店舗展開。 2017 年 12 月オーナーシェフとしてクリマディトスカーナを文京区本郷にオープン。イタリア、日本の文化、風土を大切にし、素材と背景の想いを皿に描く料理人。自店、台湾での料理教室をはじめ、イタリア料理の普及活動にも力を入れる。 J.A.S. のソムリエ資格取得し、料理とワインの最高のペアリングを提案する。

 

概要:

小学 2年の時に料理人を志し、 20歳に渡伊。歴史好きの私が、最初の修行先に選んだイタリアの都市はフィレンツェ。洋食と言えばフランス料理という時代。イタリア料理がイタ飯という言葉で少しずつ認知してもらい始めていた頃。フランス料理がこんなに洗練され、高い地位を築いたきっかけに、フィレンツェのメディチ家が関係しているという記事を発見。天下のフランス料理の礎の 1つとなった世界はどんなところ?トスカーナ州フィレンツェからイタリア愛、トスカーナ愛の沼にはまりました。前知識が無い 20歳でイタリアデビューしたことは、良しも悪しもどっぷりとその土地の色に染ま るという事。トスカーナの郷土料理の深さに埋もれ、サンジョヴェーゼの魅力に染まり、絵画の系譜に触れ、トスカーナの丘に心を奪われたお話をさせていただきます。私が最初に開いたレストラン「クリマ ディトスカーナ」の序章になるイタリア時代 1998~2003年頃のお話です。(佐藤 真一)

 

 

3月6日、第429回イタリア研究会例会がハイブリッドで開かれました。イタリアといえばイタリア料理と考える方も多いと思います。イタリア研究会でもこれまでワインや食材、スローフードなど料理に関する講演は多々ありましたが、じつは現役シェフによる講演は、僕が知る限りこれが2回目です。今回は本郷のリストランテ「クリマ・ディ・トスカーナ」のオーナーシェフ佐藤真一さんにお話しをお願いしました。演題名は「オレのトスカーナ〜歴史とワインに魅せられて〜」でした。

佐藤さんは青森の生まれで、母親や祖母の料理を手伝ううちに人を喜ばせる料理の魅力にとりつかれ、小学2年生で料理人を目指します。高校卒業後に東京で働いて資金を貯め、20歳でイタリアに渡りましたが、最初の滞在先がフィレンツェでした。ここではトラットリアで働きましたが、もともと歴史好きだった佐藤さんはフィレンツェの歴史と美術にすっかり魅せられてしまいます。そして名だたる有名店に手紙攻勢をかけ、「アンティカ・オステリア・デル・ポンテ」「ダル・ペスカトーレ」「エノテカ・ピンキオーリ」「サンドメニコ・ディ・イモラ」で働くチャンスを得ました。ときは2000年代初めの事ですから、働き方改革などどこの世界の話という感じで、まさに休む間もなく働いたそうです。しかしレストランが休みの日にはメルカートに出かけ、食材を眺めながら、自分だったらどういうコースを作るかを考えて実際に調理をして、仲間に食べてもらっては批評をしてもらい、その中でその土地特有の食材の歴史と意味を知り、それを活かす事が料理である事に気付きました。

フィレンツェが位置するトスカーナは地理的にもイタリア半島の中心ですし、現在の標準イタリア語がトスカーナ方言を元に作られた事からも分かるように、歴史的に文化の中心でもありました。フランス料理の元が、フランス王に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスがもたらしたフィレンツェの宮廷料理である事は、よく知られています。トスカーナ料理には特有の香りがあり、それは肉やキノコなどの食材そのものにもありますが、ハーブ類は欠かせません。ローズマリー、サルビア、ネビテッラ、タイム、エストラゴン、ミルトなどで、佐藤さんは契約農家から仕入れて、欠ける事がないようにしています。またパスタひとつにしても、コースの中の位置づけによって、使う粉、使う水の温度、卵の有無、練り方まで考えなければ、本物とは言えません。また日本ではなじみの少ない食材、豚の血のソーセージやウサギ肉、春に生まれる仔羊、仔牛などの料理も広めていきたいとの事です。

イタリア料理にはもちろんワインは欠かせませんが、トスカーナ料理に合うワインといえばサンジョヴェーゼです。古くからトスカーナで栽培されてきた品種ですが、ワイナリーによる味の違いも顕著で、佐藤さんもそれに圧倒され、日本でも繰り返してワインメーカーズ・ディナーを開きその紹介に努めてきました。また日本では単一品種のワインが好まれる傾向がありますが、トスカーナではサンジョヴェーゼにカベルネ・ソーヴィニヨンを加える方式で作られているワインが16世紀からあり、単一品種のワインだけが正統ワインではなく、気楽に楽しく料理と一緒に味わって欲しいそうです。現在の佐藤さんのモットーは「伝統、郷土、想い、未来」で、日本の食材を使ったイタリア料理をさらに進化させるとともに、イタリア料理協会(ACCI)での活動、小学生対象の「本気の社会科見学」などにも力を入れています。講演後に若い時にイタリアに渡った事に意義があったかと質問したところ、「まったく後悔はしていないけれども、日本である程度の経験をしてからイタリアの行く方が無駄がなく、若い人にはそれを勧めている。そうでないと日本に帰ってきた時の進む道が限られてしまう可能性がある」との事でした。

佐藤さん、面白いお話をありがとうございました。みなさんもチャンスがあれば、本郷の佐藤さんのお店を訪ねてみて下さい。https://www.clima-di-toscana.jp/

 (橋都浩平)

 

528回例会 リアル会場とGoogle Meetでハイブリッド開催

日時:2025213日(木)19:0021:00  JST 質疑応答含む)

場所:ビジョンセンター東京日本橋 602号室
    中央区日本橋1-1-7 OP日本橋ビル6

+オンライン(Google Meet

講師: 村松眞理子氏(東京大学大学院総合文化研究所 教授)

講師略歴

1963年 東京生まれ。東京大学人文科学研究科博士課程終了、文学博士。イタリア国立ボローニャ大学博士課程修了、 Ph.D。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はイタリア地域文化。主な著著書に『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』 (角川書店 )、『現代国際社会と有機農業』『世界文学を読む―古典編』 (共著、放送大学教育振興会 )、 Segni e voci dalla letteratura italiana UTCP)、イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(白水社)、 Matsuo Basho, Poesie. Miyazawa Kenji, Il violoncellista Goshu e altri scritti La Vita Felice)など。

 

演題:「アウグストゥスのヴィラなのか?

   ーソンマ・ヴェスヴィアーナ古代遺跡東大チーム発掘調査の新展開ー」

概要:東京大学は 2002年から初代皇帝アウグストゥスゆかりの地域であるソンマ・ヴェスヴィアーナ市で古代遺跡の発掘調査を行っています。初代リーダーの考古学・古代美術史の青柳正規先生に率いられたプロジェクトは、古代社会史の本村凌二先生、古典文献学の高田康成先生にひきつがれ、現在は私が責任者として考古学・古代美術・修復学等の同僚や現地の研究者たちと研究にあたっています。

ヴェスヴィオ山の5世紀の噴火で埋没したヴィラ建築ですが、壮麗な建築遺構・神話的題材の壁絵・幾何学模様の床モザイク・デイオニュソス神の大理石彫刻等の貴重な発見に限らず、古 代の生活や産業に関わる遺構が、自然災害と人間の共生について多くの知見を提供してれます。そして近年ついに、アウグストゥス帝時代の大規模遺構が姿をあらわしつつあります。

希望とサプライズと仮説の書き換えを繰り返してきた今日までの経緯と、火山噴火と考古学・文学の学際的な関わりについてお話し、古代の「記憶」と文化遺産の保存についてご一緒に考えてみたいと思います。(村松 眞理子)

 

2月13日、第528回イタリア研究会例会がハイブリッド形式で行われました。演題名は「アウグストゥスのヴィラなのか?ソンマ・ヴェスヴィアーナ古代遺跡東大チーム発掘調査の新展開」、講師は東京大学大学院総合文化研究科の村松眞理子教授です。前文化庁長官で当時東大教授だった青柳正規先生によって始められたソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘調査の現在の責任者が村松教授です。古くから古代遺跡は人々の関心を呼んできましたが、それがさらに注目されるようになったのは、近代国家が成立して、かつての栄光の時代が国家のよすがとなった事が大きかったのです。日本人としてそれをどのようにとらえるかも大きな問題ですが、明治初期の岩倉使節団もポンペイを訪問しており、関東大震災後には、ポンペイの上下水道を視察するために使節団が編成されたという記録も残っており、近代の日本人は古代遺跡に大いなる関心を抱いていた事が分かります。

 

東大には古くからカンボジア、パルミラなどアジア各地を初めとして中南米の遺跡発掘などの実績があります。2002年に青柳先生がこの地の発掘に手を付けたわけですが、じつは1929年にここの発掘が試みられたものの、資金不足とムッソリーニの失脚によって頓挫したという経緯がありました。文献的にはアウグストゥスのヴィラがこの辺りにあり、彼が14年にそこで亡くなった後に遺骸がローマに運ばれたという記録が残っています。発掘を続ける中でディオニソス像、ペプロフォロス像が見つかり色めき立ちましたが、火山・地震学者の研究でこの層は5世紀のヴェスヴィオ山の噴火で埋没した事が分かり、アウグストゥスのヴィラである可能性は無くなったかに思われました。しかしさらに発掘を進めると、その下にアンフォラを並べた倉庫と思われる部屋や、風呂の窯と思われる遺構が現れ、これがかの79年の大噴火で埋没した事が判明しました。これはこの場所に住宅もしくはヴィラがあった事を示しており、アウグストゥスのヴィラ説には「?」が付いたままですが、更なる発掘の進展により新しい展開が期待されています。

 

最初はいささか冷淡であった地元の自治体や住民も、成果が積み重なるにつれて協力的になり、地元の駅名が「アウグストゥスのヴィラ」と変わり、遺跡の見学者も増えています。しかしここは遺跡公園ではなく発掘の現場ですから、見学者のリスクも発掘現場の破壊のリスクもあり、それをどう折り合いをつけるかは簡単な問題ではありません。また極端に言えば土石流で一瞬のうちに凍結されたポンペイ遺跡はきわめて例外的であり、どの遺跡も長い時代の遺跡が積み重なった重層的な構造になっています。ですから発掘はある意味で破壊を伴う行為となり、これに対する配慮も重要になります。いずれにしてもこれまでの発掘現場を保護し、更なる発掘を進めるためには莫大な資金が必要であり、ぜひ東大基金への寄付をお願いしたいというのが村松教授からの切なるお願いでした。

この日は北風が吹きすさぶ寒い日でしたが、懇親会でも熱気にあふれた話が続きました。村松先生ありがとうございました。(橋都浩平)

 

527回例会 ZOOMでオンライン開催

日時:2025113日(月・祝)15:0017:00 JST 質疑応答含む)

講師:川合 真木子氏(千葉大学大学院人文科学研究院 教)

講師略歴

2008年 3月東京学芸大学教育学部環境教育課程文化財科学専攻卒業。東京藝術大学大学院美術研究科芸術

学専攻、ローマ大学「ラ・サピエン ツァ」文学部にて美術史を学ぶ。 2017年 3月東京藝術大学美術研究科博士後期課程美術専攻修了(博士「美術」)。同大学美術研究科大学院専門研究員、美術学部教育研究助手を経て 2020年 11月より千葉大学大学院人文科学研究院助教。

専門は 17世紀イタリア絵画。『アルテミジア・ジェンティレスキ――女性画家の生きたナポリ――』(晃洋書房、 2023年)にて、第 6回フォスコ・マライーニ賞受賞。

 

演題:アルテミジア・ジェンティレスキ ーバロック最大の女流画家の知られざる素顔ー

 

アルテミジア・ジェンティレスキ( 1593-1654以降)は、 17世紀イタリアを代表する女性画家である。彼女は明暗のコントラストの強い劇的な画風で知られており、特に《ホロフェルネスの首を斬るユディト》(ウフィツィ美術館)は、敵を討ち取る英雄的な女性を描いた代表作といえる。

この《ユディト》をはじめとした若い頃の作品は、あからさまな暴力をリアルに描いたものも多く、しばしば彼女が受けた性的暴行とも結びつけられ、ある種の悲劇性と復讐心に満ちた画家の神話を形成してきた。

しかし、改めて美術史やジェンダー史研究の成果を通してみると、アルテミジアは自分の才能を利用して男性中心社会を生き延びた、極めて冷静な職業人としての顔を持っていたことがわかる。彼女は生地のローマのみならず、フィレンツェやヴェネツィア、また晩年には二十年以上もナポリで活躍した。

アルテミジアはいかにして、スキャンダルを乗り越え、国際的な名声を獲得していったのか。彼女の生涯を振り返りつつ、新たな史料やこれまで着目されることの少なかった晩年の作品を読み解きながら、その知られざる素顔に迫る。 

(川合 真木子)

 

1月13日、第527回イタリア研究会例会がオンラインで開催されました。演題名は「アルテミジア・ジェンティレスキ バロック最大の女性画家の知られざる素顔」、講師は千葉大学准教授の川合真木子さんです。アルテミジア・ジェンティレスキ(以下アルテミジア)は17世紀にイタリアで活躍した女性画家ですが、1997年の彼女を主人公とした映画の影響もあり、レイプ裁判の当事者として「me too 運動」のヒロインに祭り上げられてしまい、肝心の画家としての業績が見えにくくなってしまった嫌いがあります。川合さんはこれまで知られる事の少なかった彼女の後半生とくにナポリ時代の地道な研究を長年続け、それが「アルテミジア・ジェンティレスキ 女性画家の生きたナポリ」という大著として結実し、第6回フォスコ・マライーニ賞を受賞しています。

 

アルテミジアは1593年にローマで生まれました。彼女の父親オラツィオ・ジェンティレスキも著名な画家でカラヴァッジョとも親交があり、画才のあった彼女はカラヴァッジョ派の画家となる運命を背負わされていたともいえます。その側面が最も顕著に現れているのが有名なウフィッツィの「ホロフェルネスの首を斬るユディット」でしょう。彼女はフィレンツェで画家としてのキャリアをスタートさせ、フィレンツェ男性と結婚して4人の子を出産しますが、なぜかその後に夫は失踪してしまいます。アルテミジアはその後短期間ヴェネツィアに滞在した後にナポリに移り、ここで画家として精力的に活動を続け、この地で亡くなったと考えられています。当時のナポリはスペイン支配下にありましたが、パリに次ぐヨーロッパ第2の大都会で文化的にも繁栄を迎えていました。実際の支配者はスペイン副王で、画家が注文を得るためには副王と親しくなり評価される事が必要ですが、彼女には2人の副王の庇護があった事が知られています。またナポリ以前には個人のパトロンの注文に応じて肖像画や神話、聖書をテーマとした比較的小規模な作品を制作していましたが、ナポリでは聖堂内に祭壇画を描くチャンスを得ました。

 

ナポリの隣にポッツォーリという街がありますが、ここにギリシャ神殿を転用した大聖堂があり、その大改修に際して、アルテミジアが他の画家とともに祭壇画を描く事になったのです。現在残っている彼女の作品は3点あり「円形闘技場のサン・ジェンナーロ」「聖プロクロスと聖ニケア」「マギの礼拝」です。中でもナポリの守護聖人であるサン・ジェンナーロの殉教をテーマとした第1の作品は、ポッツォーリに実際に残っている円形闘技場を絵の背景としていると考えられ、ナポリとポッツォーリとの政治的関係を視覚化したと解釈する事ができる興味深い作品です。この他にナポリでの有力な個人のパトロンとして、シチリアのルッフォ家、プーリアのアクアヴィーヴァ家があり、古文書からも彼女の制作過程を確認する事ができます。この中でアルテミジアは臆せず値段の交渉も行っており、したたかな職業人としての一面もかいま見る事ができます。またナポリにはかなり大きなフィレンツェ人コミュニティがあり、銀行の記録や教会の受洗記録からも、彼女がフィレンツェ以来のフィレンツェ人脈も利用していたことが分かります。

 

20世紀初頭にアルテミジアはイタリアでは「好色でませた小娘」と呼ばれ、21世紀にはアメリカで「フェミニズムのアイコン」として持ち上げられる事になりましたが、その実像は知性と実務性を備えたプロフェッショナルな画家であったと考えるのが良さそうです。研究が進んでいなかった後半生のナポリ時代を中心としてこれからも研究が進む事が期待されます。川合さん、地道で実証的な研究も踏まえた面白いお話をありがとうございました。 

(橋都浩平)