北イタリアから学ぶもの

第216回 イタリア研究会 1998-10-12

北イタリアから学ぶもの

報告者:アルカンターラ社副社長、イタリア日本人商工会議所副会頭 小林 元


イタリア研究会報告書

No.78

北イタリアから学ぶもの

報告者:アルカンターラ社 副社長

小林 元

1998年10月12日

第216回イタリア研究会(98年10月12日 学士会館) 

アルカンターラ社(ミラノ) 副社長 小林 元

「北イタリアから学ぶもの」



司会 それではお待たせしました、第216回イタリア研究会を始めたいと思います。実は英・前イタリア大使から小林さんがミラノから短期間帰国されるということで、急きょ入れた会合になりました。講師の小林さんをご紹介しますが、英さん、それからここにいらっしゃる松浦さん、皆さん慶応大学経済学部の同窓生でして、経済原論で有名な千種義人という先生がいますが、その方のゼミだそうです。1962年に慶応大学を卒業された後すぐ東レに入りまして、36年間海外事業、そのうちミラノが12年間ですね。実は東レアルカンターラが何をやっている会社かといいますと、僕もあまりものを見たことがないのですが、自動車の中の人工皮革のレザーとかそういものです。

小林 内装、シートとか、天井とかです。3割が三井物産、東レが7割の出資です。

司会 実質東レの子会社だそうで、実はミラノでは優良、優秀企業として知られていまして、330万の中小企業がイタリアにはあるそうですが、そのうちのトップクラスということです。きわめて優良会社です。小林さんは現在副社長でいらっしゃいます。ここに著書、「人世を楽しみ懸命に働くイタリアーニ」、3カ月か4カ月前に出たばかりですが、ビジネスマンの交渉過程というのか、イタリア人というのはどういう風に議論をするのかとか、いろいろな注意深い面白いものが書いてあります。この本は日経BP社から出ています。東レから大変に優秀な事業内容であるということで社長賞を小林さんがいただかれたということです。宜しくお願いします。


小林 小林です。実は私もイタリア研究会のメンバーでございまして、今回は90年の12月からミラノに行っているのですが、その前確か89年、90年代に4、5度、イタリア研究会に出た記憶があります。それからお話しする前にちょっとお断りしておきたいのは、ミラノに少し長くなりまして、イタリア人と時々、イタリアでは怒鳴るというのが仕事の一つなものですから、喉をちょっと痛めまして、咳払いをしますので、ちょっとお聞き苦しい点もあるかもしれませんが、ご容赦願います。

今日のお話は5つに分けて話をさせて頂きたい。まず初めに私とイタリアとの出会い。これは先ほど、紹介いただいたアル・カンラーラという会社を通じてイタリアと出会ったわけですが、その経緯をまずお話ししたい。それから二番目にこのアルカンターラという会社がどんな会社か、先ほど紹介がありましたけれども、現地で高い評価を得ておりますので、なぜうまくいったのか、どんな状態かというのが二番目です。それから、そのうまくいった理由に、北イタリアの物づくりとマーケティングの手法があるわけですが、その北イタリアのマーケティング手法とか、物づくりとはどういうものかということを、私は通算13年、正確にいうと12年8カ月くらいですがミラノに居りますので、そこで体験したイタリア的物づくり、イタリア的マーケティングとは何かということについて、私の見解を述べたいと思います。それから4番目にイタリア的物づくりとマーケティングの手法の背景にあるイタリアの企業文化というのはどんなものかにもちょっと触れたい。最後に5番目、現在日本はイタリアブームというふうにいわれていますけれども、その背景にあるのはなんだろうか、これについても私の見解を申し述べたい。以上5点を中心に約一時間ほど話をさせて頂きたいと思います。


まず私が今までどんなことをして来たか。どうしてイタリアと出会ったかということをお話ししたいと思います。私は東レという会社に今から36年前に入りまして、この間かなり変わった経歴で、海外に工場を作ること、それだけをして来た人間でございます。海外に工場を12ばかり作りまして、特に私がやって来た地域というのはアジアを除く地域、つまりアフリカ、中南米、ヨーロッパを専らやってきまして、エチオピアとかケニアとかモーリシャス、エルサルバドルに工場を造り、中南米ではブラジルとかコスタリカとかベネズエラ、ヨーロッパでは英国に2つの工場、フランスに一つ、イタリアに一つと、そういうような事をやってきました。まあこの業界では海外事業屋と呼ばれているのですけれども、我が東レでもこういうことしかやってないというのはおそらく私の他に一人か二人いるかくらいで、かなり変わった経歴かと思います。こうした経歴から、私は大企業にいるわけなのですけれども、ちょっとモノの見方が大企業にいる人と違っているようです。二つの意味で変わっているのではないかと思います。一つは中小企業の経営者のようなモノの見方をしている。つまり私が海外に企画して造った会社とか工場は多くて1000人止まりの従業員、普通200人から300人の工場です。中小企業を企画してそれを運営するという考え方になる。ですから大きな企業にいますとね、給料というのは25日になると自動的に払い込まれるもんだと思ってしまいますけれども、私は海外で資金繰りの難しい工場も会社も運営してきましたから、やはり自分の給料を含めて、給料というのは調達しなければいけないものというような、いわば中小企業主的な見方になっているのではないかと思います。

 もう一つは海外の仕事ですけれども、輸出とか輸入ということではなくて海外に資本を投下して現地で労働者を雇って事業をやっているわけですから、輸出でしたら物をきちんと納めてL/Cをもらって代金がもらえれば終わりですけれども、私がやっている仕事は現地で、例えばアルカンターラは500人イタリア人がいるわけですが、その従業員をいかにうまくやる気にさせて働いてもらうか、その土地の文化や社会構造にある程度入っていかざるを得ないというような、そういう考え方が多少なりとも私の考え方にある。まあこういう二つのことを考えながら、私も12年半くらいミラノにおりますので、またちょうど今年は60歳の還暦になりましたので還暦祝いに、先ほどちょっと紹介がありましたけれど、日経BP社から「人生を楽しみ懸命に働くイタリアーニ」という本を出しました。この題目は実は私自身は「個性をビジネスにするミラネーゼ達」という題目がいいのではないかと思ったのですが、日経BP社には別の考えがあって、こういう題になりました。帯のところにアサヒビールの樋口会長に北イタリアの活力の秘密がここにあるということを書いて頂きました。要はこの本は二つの内容を持っていまして、一つは最近日本でも議論が盛んになっています北イタリアの中小企業論、もう一つは北イタリア、特に私が12年住んでいましたミラネーゼのライフスタイル、この二つの視点から書いております。

二番目にこのアルカンターラという会社ですが、この会社は日本ではもともと東レが70年代始めに開発した人工皮革、日本ではエクセーヌというブランドで売っているのですが、合成繊維をスエード状にした製品です。74年に現地で会社を造りまして、75年から操業開始して、ですからかれこれ23年、24年になる会社です。本年度の売上規模からいいますと約230億円、従業員は510人くらいおります。ミラノのリナーテ空港の近くに本社があるのですが、ここに約100人の社員がおりまして、経理・財務、購買それからマネージメントなどの機能があります。それから工場はウンブリア、アッシジとか最近話題になっています中田のいるペルージャ、これはウンブリアの北の方の都市で、私どもの工場はもうちょっと南のほうのテルニ市という、これはイタリアが独立した後国営近代製鉄所が初めてできたところですが、このテルニ市の郊外にありまして、ここに約400人の従業員がいて研究開発と生産をやっております。先ほど申し上げましたように6割は家具、あと3割が自動車の内装、シート、天井張りなど、あと1割が衣料とか鞄、靴などです。家具でいいますと、イタリアおよびヨーロッパの超一流の家具屋さんが競って使ってくれてまして、イタリアではB&Bとかあるいはフランスのロゼーエとか、車で言いましたらヨーロッパの一流メーカーはことごとく使っております。つまりランチャ、プジョー、シトロエンそれからアウディ、ベンツ、ボルボとこういったところです。あとでご紹介しますけれども、彼らは今やアルカンターラを車の内装にのせないと、少なくともオプションで含んでないと車が売れないというような大変な人気になっております。需要が極めて旺盛なので昨年の春くらいから約120億円使って設備を倍増しておりまして、これが今年の7月に完成し、順調に動き出しております。

もう一つのこの会社の特徴は、資本は100%日本なのですが、経営を徹底的に現地化しているということです。イタリアで政財界に非常に尊敬を受けているプロフェッサー・コロンボを非常勤会長に仰ぎ、この人に月に一回くらい来ていただいて経営指導をしてもらっています。社長および部長15人はすべてイタリア人です。私は副社長として株主の一種のお目付け、日本側の株主の戦略をきちんとやってもらおうとした。つまり日本側の株主の戦略はこうだよということを十分説明してわかってもらった上で、実際のデイリーオペレーションはイタリア人にすべて任せる。あとは結果をフォローする。こういうことをやっております。技術関係で工場に一人、日本人がいます。23年もたってようやく試行錯誤の結果なのですが、私ども東レという会社は海外に約35くらいの工場があり、会社としては60くらいあります。内外の関係会社を合わせると、200社くらいあるのですけれども、そのなかで幸いにして利益率がもっとも高い会社、利益の絶対額でも三指に入るような好業績をあげております。そして日本の企業は約180社イタリアに進出しております。私は滞在が長いので、在イタリア日本人商工会議所の副会長をさせられておりますが、幸いにして私どもアルカンターラ社というのは日系企業の最大の成功例ということが言われております。昨年10月、ご存知だと思いますがプロディ首相とファントッツィ貿易大臣以下5、60人のイタリアのミッションが来日し、その最大の目的は日本からの製造業の投資を誘致したいとのことでした。

イタリアでは最大の社会問題が、失業率が高いということですから。そのときにファントッツィ貿易大臣から電話がかかってきまして、東京に行って話をしてくれと、日本の企業を誘致するには一番うまくいっている企業の話をするのが説得力があるからということで、私昨年の10月15日くらいだったと思いますが、アルカンターラ社の話を約20分、日伊ビジネスグループということろでやりました。イタリアの経済雑誌でイル・モンドというのがあります。また、英語の雑誌でロンバルドというのがミラノで出ていまして、これがイタリアの企業のランキングを毎年発表しています。イタリアには約320、30万社の中小企業がありまして、このなかには非常に優秀な企業があるのですね。しかしその中でも、全ての会社の財務諸表を見るわけにはいきませんから、ある程度規模の大きい会社でかつ財務諸表がとれるもの2500社選びまして、その2500社のランキングを発表していますが、我が社は93年に11位から7位、4位、2位とあがってきまして、昨年度はついにイタリア中堅企業ナンバーワンという評価をロンバルドから頂きましたし、イル・モンドからはナンバーツーという評価をいただきました。これは非常にありがたいことだと思います。イタリアの方に今度会ったら聞いて頂きたいのですが、アルカンターラという名前を知らないイタリア人は恐らくいないだろうと思います。しかもこれがなかなかいいところだと思うのですが、大体のイタリア人は、あれはイタリアが開発した誇るべき技術でイタリアの会社だ、思っている。これがミソかと思います。


 次に、この会社がうまくいった理由は、私は四つあるのではないかと思いますが、一つ目にはやはり東レが開発した大変ユニークな技術、これはどのくらいユニークかといいますとね、私どもが作っている糸というのは大変細くて、マイクロファイバーといいますが、どのくらい細いかといいますと、4グラムの糸が月まで届く、それ程細いのです。つまり技術屋の中には、大変なことを考える人間がいまして、ちょっと常識では考えられないような極細という繊維を作り上げた。その繊維が天然のスエードよりももっとスエードらしいと、それが製品のベースになっている。しかもイタリア人およびヨーロッパ人の好みにぴったり合ったということかと思います。東レが開発した大変ユニークな技術でこれはイタリアへ行ってから23年にもなりますけれども、ヨーロッパのメーカーが競って同じような技術を開発しようとしましたけれども、まだできていない。それほどユニークな技術です。 それから二つ目はやはり日本の製造業が持っている現場の生産管理。従業員のやる気をおこして、均一でコストの安い物を作り上げるという現場の生産管理を徹底的にこの会社に導入しました。 それから三つ目が先ほど言いましたように、イタリア人の持っている、特に北イタリアの中小企業が持っている物づくり、マーケティング力というものを徹底的に生かしたということです。それを生かすためには、四つ目に経営の現地化、日本人がトップになってはやはり殺してしまうので、イタリア人をトップにして我々は基本的なる売上げとか利益とか戦略をイタリア人に守ってもらい、物づくりとか売り方はイタリア人に任せるということです。この四つの要素ではないかと思います。

それで具体的に、イタリア的な物づくり、マーケティングというのはどういうものであったかということを私は本に書きましたので、ちょっと長いのですが引用させて頂きます。アルカンターラの製品が、アルプスの北の国々つまりドイツとかフランスとか北欧へ輸出を始めてから二つの波がありました。第一の波は70年代後半から80年代前半にかけて西ドイツの衣料、ブレザーとかコートの用途に爆発的に売れたわけです。あとで述べますが、70年代というのは北イタリアの中小企業が50年代から60年代にかけて新しい物づくりのシステムを作り出し、輸出を本格的に始めた時代であり、その当時目覚しい経済成長を遂げつつあったアルプスの北、特にドイツが経済成長したわけですけれど、そこに物を売っていった時代です。で、我が社のイタリア人販売スタッフもこの例にならって、西ドイツ市場に注目しました。極めて高価なものです。私どもの売値というのは実はメーター5000円でありまして、メーター5000円というのは高くて、織物というのはせいぜい500円とか800円というのが販売価格であります。ところが5000円というのは毛織物の一番高いのと同じくらいの値段であります。従って値段が非常に高いものだから、それが買えるのはどこかという、当時高度成長を遂げつつあった西ドイツ市場に注目した。彼らは、地中海文明圏の人々とは異なり商品の機能性で物を買う人々である、という認識をイタリアのマーケティングやっている人たちがはっきり持っていることに、実は私もびっくりしました。つまり彼らによると、地中海地域の人々つまりイタリア、南フランス、スペインというのは主として感性、つまり見た目の美しさとか肌触りとか、そういうもので物を買う人々、一方アルプスの北、ドイツ、北欧それから北フランス、英国というのは機能性で物を買う人々だという非常にはっきりしたコンセプトを彼らが持っていて、このアルカンターラという素材を見て、これは機能性でドイツ市場を狙うべきだと提案して来たわけです。彼らが注目した機能性というのは、しわになりにくいとか、つまり飛行機に乗ってごろんとなってもしわ目がつかない、洗濯機で洗える、虫がつかない、こういう機能性ですね。この作戦が実に見事に成功して、ドイツでは80年代の初めの広告代理店の調査結果がありますけれども、アルカンターラというブランドは、コカ・コーラに次いで知名度第二位というほどの広く知れ渡ったブランドになりました。

今度は第二の波ですけれども、さすがに辛抱強いドイツ人も、このアルカンターラを7~8年も着ますと飽きがきまして、飽和状態になって売上げが落ちてきたわけです。操業度が下がったので、「おまえが遂行したプロジェクトだろう、操業度が下がって利益が減ってきた。おまえ行ってなんとかしろ」ということで83年から87年までミラノに出向きました。私自身はヨーロッパのマーケットもよくわからないので、イタリア人の販売のスタッフおよびコンサルタントを使いまして、衣料の次は何を狙ったらいいんだということを検討させました。そして彼らが今度目をつけたのが、家具と自動車の内装だったのです。今度は何をアピールして売るのかというと、この製品の色と風合いだというのですね。今までヨーロッパの高級な家具とか自動車の内装に使われて来たのは天然のスエードであったわけで、彼らがいうには天然のスエードというのは、動物の皮であるために染色できるのは極めて限られた色しかでない。例えば真っ赤なスエードってのはできないし、真っ白もできないし、しかも深みのある色というのはなかなかでない。ところが我々の製品は人工製品ですから、どんな色でも出る。だから深みのある色を出せばかならず売れる。それからもう一つ、天然のスエードというのは動物の皮ですから、なんとなくヨーロッパ人には暑苦しいと、けれども我々のものには清涼感がある。この清涼感とか色の深みというのは一種の感性です。

ところで、彼らが今度どこの市場に狙いを定めたかというと地中海地域、まずイタリア、南フランス、スペイン、という販売戦略を言ってきたわけです。私もこの戦略を決めるのを側で見ていて、つくづく北イタリア人のビジネスマンたちの血の中に流れているヨーロッパビジネスに関する蓄積というものを感じないわけにはいかなかった。衣料素材として西ドイツ市場へは機能性を持って売り込む、それから感性では地中海地域である。彼らは、ヨーロッパのそれぞれの国の地域の消費者の消費構造、とりわけそれぞれの国の階層別の消費構造を実によくわかっていて、高級品に対するヨーロッパ各国の趣向、上層階級がどういうのものを欲しがっているのかを実によく知っているという印象を受けました。これは恐らく、ルネッサンス以降イタリアが政治的経済的にはヨーロッパの片隅に追いやられて来た。政治的にはブルボン王朝とかハプスブルグ家によって分割支配されて、国の体をなしてないあるいは経済的にもヨーロッパの片隅に追いやられてきたけれども、ある特殊な高級品、例えば馬具とかですね、絹織物とか刺繍とか、あるいはガラスとかこういう高級なものをヨーロッパに供給して来たわけです。17世紀から18、19世紀の前半において。彼らがルネッサンス以来、高級品の供給者の中心的位置を占めて、各国の上層階級に製品を納めてきた経験の一つ一つがノウハウのようになって語り継がれ、彼らの血の中に伝わっているように私には思われます。そしてこの家具、車について結果はどうなったのかというと、車とか家具に入る、我々の言葉でスペック・インといいますが、入るにはかなり時間がかかるのですね。家具では3年、車では5年位かかりました。

大量に売れ出したのが家具で90年に入ってから、車で本格的に売れ出したのが90年の半ば頃からです。私は、アルカンターラの販売部長に家具および車の販売用途であるアルカンターラ製品の色彩がセールス・ポイントになるというのはどういうことなんだ。色彩がセールス・ポイントというのはよくわからない、説明してくれといいました。彼らの答えは、自動車とか家具はヨーロッパではステータス・シンボルになっている。自動車のメカというのはヨーロッパのどのメーカーも今や差がなくなっているので、ステータス・シンボルとして他人と差別化するのは、今や家具の色とか車のインテリアの色であるという説明なのですね。もうちょっと説明してもらうとですね、結局家具の色とか車の内装の色とかの趣味のよさというのが大変重要な意味を持つらしい。例えば家具の色の趣味のよさということは、特に家具が家の中の他の調度品といかに調和しているかということ、これが大事なのだと。

イタリア人の家に招待されると、まず必ずといっていいほどサロンの家具を説明して見せてくれる。いわゆるアミーコともなると、寝室の調度品まで見せてくれる。そのときサロンの調度品の色が他の物といかに上品に調和しているかといことが、その家の住人の趣味のよさを示す。いかに高級な素材を使っていて、いかに趣味のよい色を選んだかが重大な関心事になっている。どうもこの趣味のよい色というのがポイントのようです。趣味のよさというのはイタリア人にいわせると、その人の教養、階級、その人の文化を示す。昔は私は伯爵でございというようなことがあったわけですけれど、今はそういう制度もなくなったし、口に出していうわけにはいかないけれども、要はそういう趣味のよさということで間接的に自分を表現していく。その用具が車の内装であり、家具なんだ。こういうことのようです。彼らが狙った地中海地域、まず先にイタリアで売れて、南フランス、次にスペインの順で売れていきました。私は、家具、車の内装では売れたけれども、地中海地域の感性がわかる人たちに所詮限られるのではないか。そう見ていたのですが、二年くらい前、95年の半ばくらいからもう様子が変わり始めてきました。車でいうと初めはランチャとかプジョー、シトロエン、スペインではセアットなどが主なマーケットだったのですが、95年ごろからドイツ、北欧のメーカーが使いたいと言ってきた。普通、自動車会社の購買担当取締役などという人は工場などには来ないですが、そういう最高責任者が来て、是非ほしいという。どうも様子がおかしいので、私はある自動車会社の購買責任役員に聞いてみたんです。そしたらその人がいうには、だいぶ前から地中海地域のディーラーからアルカンターラを使ってほしいという声が強かったのは事実だ。しかし最近はドイツ、北欧のディーラーまでもアルカンターラがカタログに載っていないと戦えないといってきた。だから欲しい、とこういうんことなんです。つまり私はこれをこういうふうに解釈しているのですが、今やヨーロッパの消費財市場は衣料から装身具、これがイタリアのファッション・グッズといわれて80年代前半からヨーロッパおよび世界に非常に受け入れられているわけですけれども、この衣料や装身具だけではなくて、今や自動車および家具に至るまで感性を組み入れたイタリアン・テーストが人々の心を捉えていたようだ。消費財市場のイタリア化現象がヨーロッパで起こっているのではないか。その流れはアメリカや日本にも及んでいるのではないかと私はそんなふうに思っています。



三番目の北イタリアのマーケティング手法というのはどういうものか、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。それに入る前に北イタリアの中小企業の生い立ちというもの、これは日本でもかなり研究されていますのでご存知の方も多いのではないかと思いますが、念のためちょっと申し上げますと、60年の初めころまではイタリアは南と北という二つの地域、南イタリア、北イタリアといわれていたのですが、最近はお聞きになったことがあると思いますが、第三のイタリア、「テルツァ・イタリア」というものがあるのではないかというようなことがいわれています。これはいわゆる産業革命がイタリアに及んで来たのは北西部、つまりトリノ、ジェノヴァ、ミラノを中心とした地域でした。北東部、つまりヴェネトとか北東部は、つい2、30年前まではかなり所得が低いところ、例えば70年代前半、私がミラノへ行ったころはよくヴェネト州出身のお手伝いさんなんてのはミラノにいましたけれども、まああまり働き口がないので来ていたということかと思います。ところが70年代の半ばころからですね、いわゆる第三のイタリアという新しいタイプの中小企業が輸出によって市場を拡大し、力をつけてきた。そしてそれは北東イタリアから中部イタリアにかけてまたがっていると言われていますが、そこに60とか70の産地があって、そこに産業が集積しています。

第二次大戦後、イタリアは経済の奇跡といわれている高度成長を遂げて、これは松浦保先生が詳細に分析して本を出されていますが、この戦後の53年から67、8年の高度成長というのはむしろ重厚長大、つまり自動車、家電、化学繊維、ケミカルなど、そういう大企業中心で経済成長を遂げてきたといわれております。ところが69年から70年に入って、むしろ労働力不足から過度の労働者保護の社会憲章などがつくられて、ストが頻発したり石油危機がそれに加わって年30%とか40%のインフレ、外貨不足、リラ安、政治テロ、イタリアはつぶれるのではないかという時代があったわけです。イタリアは高度成長を遂げていた時代に、第三のイタリアの北東部とか中部の中小企業群は、高度成長の影に隠れて、いわゆる伝統産業といわれるアパレルとか織物とか靴とか鞄、こういった産業ですけれども、成長のカヤの外に置かれていたといわれています。ところが70年代になってこの中小企業が非常に元気になっている。その過程をですね具体的にアパレル、今日本で有名なベネトンとかマックス・マーラを通じてどういう過程を経て生まれて来たのかということをちょっとお話したいと思います。先ほど言いましたように、17世紀、18世紀、19世紀の間もイタリアの田舎の産地から例えば毛織物、刺繍こういった高級素材が、当時はパリがモードの中心だったのですが、パリに供給されていたわけです。第二次大戦の以降も、50年代、60年代にはイタリアにおいてもいわゆるオートクチュール、つまりフランスのデザイナーブランドによる高級注文服というのがイタリアのモーダの中心を占めてきたわけですけれども、これに対して50年代、60年代に新しい芽が生まれてくる。例えば有名なベネトンですけれども、1955年にですね、一台の編み機を家族で買うわけですね。これがベネトン・ビジネスの始まりなわけです。ルチアーノ・ベネトンは何を目をつけたかというと、イタリアの50年代の経済成長のおかげで経済的に余裕のある中産階級が出てきた。今までの堅苦しい服、つまりオートクチュールというのはどちらかというと特権階級の服でしたから、階級を示す堅苦しさがある。

ところがここに生まれて来た中産階級はカジュアルな肩の凝らない服を求めた。それで、彼が考えたのは、そういった受動者層に対してカラフルなニットを供給すれば売れるのではないかということです。つまり時代の流れ、消費者の趣向の変化をよく捉えたということだと思います。それからもう一人、今日本で非常に売れているマックス・マーラですけれども、現在も社長をやっておりますアキレ・マルモッティ氏というのは、今もう83くらいのおじいさんですが、今なお非常に元気な人です。マックス・マーラのは始まりというのはレッジョ・エミリア、ボローニャとミラノの間の人口1万か2万の小さな町ですけれども、彼はもともとボローニャ大学で法学を学んでいたのですが、英語を学ぶためにスイス・ローザンヌに行きました。そこでたまたま近代工場でのレインコートの縫製工場を見たのです。彼の家は仕立て屋で、彼のおばあさん、お母さんも仕立ての学校をやっていた。おばあさんは、我々は生地をヨーロッパに供給しているけれども、どうして服を作らないのと、これからは服を作る時代ですよと常に言っていたらしいのです。

このアキレ・マルモッティはレインコートの工場を見て、非常なショックを受けて、一つのインスピレーションが湧いたと。つまり次の四つの要素を結びつければ新しいタイプのビジネスができるのではないか。一番初めは家代々に伝えられていた職人の手作りの服作りの技術。それから二番目が先ほど言いましたように、イタリアが供給してきた生地。それから三番目はようやくそのころパリの影響下を離れてイタリアに帰ってきて、イタリア的なデザインを生み出していたデザイナーたちが居るわけですね、このイタリア的なデザイン。それから先ほど申し上げた工場規模での効率的な服作り。この四つを結びつければイタリア型プレタポルテができるのではないか、というインスピレーションが浮かんだと言っています。ここで大事なのは工場規模といっても何百人、何千人の大規模な工場生産ではなくて、せいぜい100人位までの中規模工場。今までの近代的縫製工場というのは、とにかく省力化、人を使わないのが優れていることだ。それが近代的な工場の概念だと。彼の考え方が非常に革新的なのは工程によって、美しさとか、着心地の良さを出す工程はかたくなに職人の手作りにすること。ところが着心地だとか美しさに関係ないところ、例えばカッティングや原料倉庫、製品倉庫なんていうのは無人倉庫にしてしまう。コンピュータを使って徹底的に省力化する。彼はこれを「インダストリーと仕立て屋の結婚」と呼んでいますけれど、このコンセプトが非常に新しかったのだと思います。彼が考えたのは、戦後女性が家庭から解放され、たくましく職場へ進出しつつあった。こうした女性を対象にこなれた値段で、しかも着心地がよくて美しいというものを作って売っていると。こういうマーケットというのは、それほど大量のマーケットではないわけなのです。いわゆるニッチのマーケットですけれど、こういうニッチに的を絞って売るというのが彼の基本的なコンセプトで、60年代にわたって徐々に工場を大きくして、70年代に入ると拡大していったというのがマックス・マーラの歴史です。

これに対して70年代になると、イタリア型プレタポルテの波に乗ってヴェルサーチとかアルマーニなどのブランドが確立してくる。そして80年代になると世界的に販路を広げるというのが簡単にいうとこういう歴史だと思います。

スライドをお願いします。ここに従来の経営スタイル、従来の経営スタイルというのはいわゆるマスプロ、マス生産のスタイルですが、これに対して今お話ししました第三のイタリアの中小企業の経営スタイルの比較表というのを作ってみました。従来の経営スタイルというのは若干抽象化しすぎている面があるのはお許し願いたいのですが、基本思想は産業革命の継承であって、市場はマスマーケット、生産はマスプロダクション。こういう体制は一般的に「大衆機械文明」と呼ばれるようですが、それに対して第三のイタリアはニッチマーケット、そして作り方も先ほどマックス・マーラで言いましたように、「インダストリーと仕立て屋の結婚」というような新しいコンセプトのシステムになっているわけです。これこそ私は、産業革命を超えるものと思っています。

今我々は大衆機械文明から高度情報化文明に入りつつあるといわれていますけれども、まさに高度情報化文明の一つではないかと思っています。で、商品の特性ですけれども、すでに申しましたとおり従来の経営スタイルはいわゆるコモディティ汎用品でありまして、つまり製品の機能性、品質の均一性、低コスト、こういった数値で測られるという商品特性を持っているのに対して、第三のイタリアの商品特性はいわゆるコモディティに対してスぺシャリティ・グッズ、特別品であります。色とかスタイルとか使い勝手のよさですとか、遊び心を掻き立てるものなどを独創性が商品特性ではないか。これらは数値で測られないもの、いわゆる感性ではないかと思います。そうして生産のシステムは従来の経営スタイルというのはむしろ生産者側からの発想で、つまり消費者は好むはずだという機能を消費者に押しつけているという面があったのではないか。従って商品設計はえてして自分の生産体制マスプロに都合のよいものになっていたのではないか。

これに対して第三のイタリアの方は、徹底的な消費者優位の発想、本当に消費者が求めているもの、ここから発想する。従って従来の経営スタイルではなかなか許容しなかった小ロットとか特別仕様にも応ずる。マーケット情報の活用と商品の販売経路を一つにしてご説明しますが、従来の経営スタイルというのはどちらかというと消費者に行くまでにですね、問屋とか二次問屋とかそういう何段階かを経る場合が多い、それに対して第三のイタリアの特徴は自らが経営する直営店もしくはチェーン店へ直接販売している。その結果としてマーケット情報は、従来の経営スタイルの場合には何段階も経ているから途中の段階でマーケット情報が消えてしまうか、大きな組織でやっていますから組織の中で埋没してしまう。これに対して第三のイタリアの方は、情報が極めて速く伝わる。消費者の趣向の変化や動きを直接つかんでいる。つまり直営店もしくは小売店にコンピュータを置いて、売れ筋をその日のうちに本社が掴んでいるわけですから、その直接つかんだデータで色とか柄を変えるし、もしくは生産量や在庫も変えていくと。まあ小さな組織の中ですばやく例えば商品化する。こういう特色があると思います。それから生産体制はもう一つ、従来の経営スタイルは見込み生産に対して、第三のイタリアは基本的に受注生産。それから従来の経営スタイルの少品種大量生産に対して第三のイタリアは多品種少量生産。

それからもう一つ非常に際立った特徴は、今までの生産システムでは人の手を使うのは遅れているという思想、従って省力化するのが近代化だと。ところが第三のイタリアではむしろ感性つまり色とかスタイルとか使い勝手のよさとか、そういうものを物づくりに生かすのは人の手である、職人であるという考え方。ですから私はこれを物づくりにおける、ちょっとオーバーな言い方ですが人間の復興、再評価と考えてもいいのではないかと思います。そしてこの事業の担い手はいうまでもなく大衆機械文明の場合は大企業主体であって、中小企業はどちらかというと下請けとして組み込まれて、自主性は少ない。それに対して第三のイタリアは中小企業が主体をもっている。そして下請けに組み込まれることをいさぎよしとしない。一社に100%下請けになるということはまずない。いくら一つの会社の下請けになっても3割くらいを限度としているというふうにいわれていますけれど、つまり発注主のいわれるままにならないというコンセプトがはっきりとあります。それから資本家は多数の外部小株主集団、これは日本の株主市場を見ていただければおわかりになる思います。それに対して第三のイタリアは家族資本が主体である。大きな企業は上場しているのもありますけれども、それでもマジョリティを握って離さないというのは一般的であります。それから優先経営目標は最近日本でも少し変わってきていますが、売上げ極大化、このために操業度極大化がまず優先されて、価格維持は二次的なものになる、つまりフル操業するために価格をある程度下げても売れというのが一般的なビヘイビアであるのに対し、第三のイタリアの場合は利益極大化が目標であって、価格維持は至上命令。日本ではどちらかというと価格は部長とか、場合によっては担当者までいじれるというような、ある意味では権限の委譲かもしれないけれども、これ対してイタリアの中小企業を見ると価格変更は社長権限。価格を維持するために操業度は下がってもに構わない。そして価格を維持して商品を長い目で育てていく。日本の場合はややもすると価格を下げて過当競争に入って商品の寿命を短くしてしまうという、こういうビヘイビアがあると思います。


次に四番目のこういったマーケティング手法とか、物づくりの背後にある企業文化というものですけれども、私は次のように考えています。先ほど申しましたように基本的に、今までのマスプロ、マス生産というものは、数値で測定できるものが客観的であって、測定できない美しさとか使い勝手のよさなどというのは、物づくりの基準とはなり得ないという考え方があるように思います。このように数値で測定できるものが客観的であるという考え方は、いわゆるデカルトを代表する近代合理主義の思想であると言われています。この近代合理主義の元祖はルネッサンス時代のガリレオ・ガリレイであり、自然をありのままに観察して数式化することを始めて、これがルネッサンスの精神の重要な一部分をなしていた。こうした思想を背景とした自然科学の発展がいわゆるアルプス以北の国々が産業革命をおこして、フランス、ドイツにおいて今日の大衆機械文明をもたらしたといわれています。物質的に豊かな機械文明をもたらした。いわゆるガルブレス教授のいう豊かな社会が到来したわけです。しかし豊かな社会に住み慣れた消費者は消費行動を変えてしまったのではないか、かつては消費者は生産者によって与えられた物の効用、先ほど言ったようにしわにならないとか長持ちするとか、そういう効用に満足していたのだけれども、今や物余りの時代になって、消費者はむしろ自分自身の生活価値とかライフスタイルの基準を持つようになって、そのライフスタイルを実現するために物を自分の考えによって選ぶようになってきている。つまり主客が転倒してしまったのではないか。ところが物づくりの方は相変わらず商品の機能性に偏ったやり方に固執しているゆえに、消費者と生産者との間にミスマッチがおきているのではないか。これが今日本でも物が売れないという状況、いろいろな理由がありますけれども、一つには私はそういう理由があるじゃないかと思います。

1970年代にヨーロッパでこうした状況がおこっていることを敏感に感じ取って、従来とは違う物づくりのシステムを作り上げたのが第三のイタリアです。ルネッサンスの精神の中には上記の近代合理主義、つまり理性による物づくりということの以外に、実はもう一つのコンセプトがあるのではないかと思います。これは美を至上の価値とするというコンセプトです。ケネス・クラークという英国人の美術評論家が書いたレオナルド・ダ・ヴィンチという本を読んでいましたら、こういうことが書いてありました。つまり、ダ・ヴィンチはご存知のように、武器の製作とか城の設計とか人体解剖とか運河の設計とかいろいろなことをやり、かつ大変な芸術家であったわけですけれども、彼は若いころは、当時フィレンツェで支配的だった次のような思想を抱いていた。つまり自然を最も単純に測定可能要素に還元し、それを互いに調和する関係に配置すれば足りる。たとえば数値化する。こういう考えにむしろ傾いていた。これは理性に基づく近代合理主義の考え方であると思います。ところがレオナルドは、こうした考え方にいつまでも安住できなかった、なぜならば彼の生命感と相容れなかったからです。彼はフィレンツェの美術家達、すなわち美術がとらえる動きは優美さをあらわすものでなければならない、と次第に考えるようになる。これはむしろ感性である。あのモナリザの神秘的な微笑みは後者からきているといわれています。どうも我々はルネッサンス時代というのを理想化して、一つの調和した境地に達した人たちとか芸術とか考えるような傾きがあるように思いますけれど、実態は、このレオナルド・ダ・ヴィンチに見られるように彼の内面では二つの相反した考え方、つまり感性と理性という二つの相矛盾するのものの激しい葛藤があって、その葛藤こそが、彼のおびただしい芸術作品を生むエネルギーであったと。こういう見解をこのケネス・クラークはしております。私が言いたいのはアルプスの北の近代合理主義というのはこのルネッサンスが持っていた理性と感性という二つの側面のうち、理性の方を受けついで非常に純化して理論的な体系を築いていき、それが産業革命をおこして物質的に豊かな大衆機械文明を作り上げたのではないかと思います。

ところがイタリアは、ルネッサンス以降、ブルボン王朝とかハプスブルグなどに分割され、政治的、経済的には欧州の片隅に追いやられてしまったわけです。しかし、ルネッサンスの伝統、つまり理性と感性という、二つの面を持つという伝統をかたくなに守りつづけてきたのではないかと。特に地方の小さな地方、イタリア語でパエーゼといいますけれど、この小さな地方での物づくりにおいて上に述べたような考え方を守り続けて来たのではないか。たとえばコモとかマントヴァとかクレモナというような都市はこれにあたると思うんですけれども。そして時あたかも50年代から60年代に入って、ヨーロッパが豊かになり、消費者が今までの大量生産、大量販売に飽き足らなくなって、新しい自分の個性に合ったもの、自分だけの物というものを欲しいという消費者思考の構造が変わってきたときに、三世紀にわたってかたくなに守ってきた自分たちの美の感性を、物づくりの中に再現したのではないかと思います。ヨーロッパの消費者はそこに、数世紀に渡って忘れてしまっていたルネッサンス文化の香りを嗅いだのではないかと私は思います。これは従来の物づくりのシステムとその根底にある思想に対する一つの挑戦であって、「革命」ではないか、つまり高度情報化文明の一つのモデルとして重要な示唆を含んでいるというふうに思います。

最後に日本におけるイタリアブームについて私見を述べさせて頂きますと、今ヨーロッパに向かう日本人観光客の約半分はイタリアに来るそうです。ある統計によると年間100万人といわれているそうです。このあおりを受けまして、われわれミラノに住んでいる日本人は、ブランド品を買えない。トリノへ行って買うとか、ヴェローナに行って買わないとブランド品は買えないという状態がおきています。このイタリアブームは当初ファッション・グッズから、今や家具とか料理とか、そういうところまでいって、もうライフスタイルまでその興味は及んでいるのではないかと思います。ところで北イタリアのビジネスマンに、ウイークエンドなどの機会に京都とか金沢などに案内しますとね、非常に驚きの声をあげる人が多い。つまり彼らの言葉でいうと、日本文化はモルト・ラフィナート(非常に繊細)な文化だというのです。こうした繊細な文化を持っているのはおそらく世界にイタリア人と日本人、あるいはフランス人の一部に居るかどうかというのが彼らの感想です。日本は明治維新以来、欧米に追いつくために富国強兵政策をとったのですけれども、その過程で本来日本人が持っていた室町とか江戸時代に生んだ、感性の文化、つまり例えば茶の湯とか着物とか、こういうものを心の底におしやってきたのだと思うのですね。そのおしやられてきたわれわれの感性を呼び覚ましたのが、イタリアのファッション・グッズだったのではないかと。それが昨今いわれるイタリアブームなのではないかと私は考えています。



司会 どうも小林先生ありがとうございました。何か質問ありませんか。


質問者1 四つ成功している理由という技術のことなんですけれどもね、今その技術自体は日本ではどういうふうに使われているのですか。

小林 日本でも作っています。同じ基礎技術で岐阜に工場があります。ヨーロッパほどではありませんけれども、家具、自動車あるいはブレザーなどに使われております。

質問者1 ヨーロッパほどでない理由は何なのでしょうか。イタリアほど売れない理由。

小林 いやそれはですね、先ほどいいましたように自分をそれほど差別化する必要を感じていないライフスタイルだからではないですか。差別化するためにお金を使う人々ですから、イタリアの方は。ヨーロッパ人は基本的にそうですけれど、イタリア人は最もそういう人と違う自分を表現するためにお金を使う人たちですから、そこが根本的に違うと思います。

質問者2 実は私も小林さんと同時期でミラノに、私はローマにいたのですけれども。日伊産業協力というまさに小林さんが日本に戻ってこられてお話された、そういうことをやってたんですが、どうも合わないといいますかね、日本の産業というのはまさに先ほどの小林さんの図でいくと左側の産業なのですね。それをイタリアに呼んでこようというのは、どうも無理があるという。逆に私がその産業協力の仲介をしていてですね、出てきた話というのは逆の方がむしろ数が多かったのです。イタリアでこういう面白い話しがあるよ、面白い技術があるよ、日本でやってみたらどうだろうという話はちょこちょこ来るのですね。日本の産業を呼んでくださいというのは実際その後どうなっているのかをお聞きしたいのですけれども。

小林 確かに非常に本質的に違うもの作りの思想がありますから、難しいのですけれど、日本の製造業も違うからといって現状のままでいいかというと、消費者の方の消費構造が多様化して少ロット多品種になってきていますから、もうそのようなことをいっていられない時期にきているのではないかというのが私の見解です。このアルカンターラという会社で実現しましたように基本的なもの作りの基礎技術というのは日本の方がはるかに開発力はあるわけですよ。例えば合成繊維などは、彼らはギブアップしていますよ、はっきり言いまして。基礎技術は日本でやってくれ。ただ先ほどいったシートを作りとか、ソファを作るとか、そういう時の物づくりは非常に優れていますから、そういうところで彼らの力をフルに活用する。ところが正直言いましてあそこにいてですね、日本側と間に問題は起こります。日本というのは物づくりの細部まで自分でやりたい人たちだから、現地の人に任すというのはなかなか出来ない傾向がありますけれども、僕は真ん中にいて、これ以上は口出すなと。これ以上口出してはイタリア人のよいところを殺してしまう。日本のマスプロ、マス生産のままでいいという時代は過ぎている。だから好むと好まざるとにかかわらず生きていくためには、特に消費財に関係した産業はですね、イタリア的なものを取り入れざるをえないと思います。


質問者3 経済学的な理論でいいますと、あなたがおっしゃっていることはディファレンシエーションのプロダクト、生産物の差別化ということによって独占的な地位をその分野で確保してですね、そこで非常に利益が上がっていると思うのですよ。

小林 そうだと思います。

質問者3 そうするとそういう差別化という問題に必ず競争者が出て来るのではないかと。だからいつまでもそういう地位に甘えていることができるだろうかと。もう一つはアメリカとかそういった所のマスプロダクションの側から、そういうものを狙った、企業進出があるのではないだろうか。そうすると結局小規模のままでいることができるだろうかという問題なのです。で、過去は過去であなたが言っているように、あなたの会社はうまくいっていますし、イタリア的手法ということで表現しているけれども、果たして将来の問題としてそういう手法は生きていくかもしれないけれども、あなたの会社自体はどうなのかという、ひとつの分野を確立してきた、たまたまディファレンシエーションということをして東レの技術というものとイタリア人の感性というのがうまく合って、そして成功して来たのであって、これからどうなるかという問題がまだよく理解できていない、日本的な経営というのがどのような意味で、あなたが経営をしていて、イタリアにぴったり合ったのだろうか。

 一つはイタリアの資本主義はファミリーキャピタリズムというのですが、オリベッティにせよみなイタリアのファミリーキャピタリズムは失敗しているのですよ。せいぜい成功してフィアット、フィアットもどうか分かりませんけれど。こういうふうに日本的な経営と呼ばれている心的関係を基礎にした、学閥とかなんとかというのを基礎にしたそういう経営方法というのは、イタリアの本当に家族的資本主義、家族的経営ってものと合致しているのだろうか。せいぜい500人くらいの会社はいいけれども、これがもう少し大きくなったらそれがうまくいくのだろうか。今日本型経営というのが非常に批判されているのですけれども、そういう意味でイタリアのこういう経営というのは将来限度があるのではないかというのが第二の点です。それで他にもうんちくのあるお話で、ルネッサンスのことも質問したいのだけれど、とにかく非常におおざっぱに抽象的にでいろいろな問題があるのですが、とりあえずこの二つの問題お話いただけますか。

小林 まず第一の問題点、将来このアルカンターラはどうなるかと、おっしゃるようにこれだけ高収益企業だとコンペティターが鵜の目、鷹の目で入ってきて、現在はファイバーを作る技術自身は日本の産業基盤でないとできないものですから、今のところは日本のコンペティターが3、4社作って、これを日本から輸出している。東レ自身も新しいファイバーを開発する力がありますから、それをさらにイタリア的マーケティング力を再度適用して、より高度の物を作る。もしくは別の業種に入る、消費財ビジネスですが別の業種に入って行く可能性もありますし、それについては将来についてまったく安心というわけではないけれど、そんなに悲観していません。

 それから二番目の問題は、実は非常に根本的で難しい問題なのですが、いわゆる日本的経営というものは僕はヨーロッパにいて考えると、今、日本が陥っているような総悲観になる必要はないと思います。特に現場主義に基づく、現場のいわば従業員をモチベートして、ある程度チームワークを勉強してもらって、ある程度ですね。個人的なイタリア人に個人主義をギブアップというのは無理ですから。ある程度チームワークを学んでもらって、そして日本的経営の特徴である現場主義による生産管理というのはスティル・ワールド・ワイド・ヴァリッドだと思っています。特に意外なのはですね、このイタリアの幹部の人々は、この人々はENIやモンテディソンから来た人たちなのです。あとマーケットから採った販売部長とかいますけれど。彼等はもちろんイタリア的な中小企業から非常に学んでいるし自信を持っているけれども、日本的なものに大変関心を持っている。特に今いった日本人の生産管理および意外なことにですね、彼らは大企業から来て、しかもそのイタリアの大企業ってのは、特に生産現場は、ある意味でうまくいっていませんから、今松浦さんがおっしゃったように、今までのイタリアの大企業のやり方に満足していない。現場がコンフロンテーション、対決の固まりなのですよね。そういう人たちから見ると、日本の現場の生産管理というのは初めは、いわばスエットショップという言葉がありますよね、つまり女工哀史みたいに搾取の固まりで日本の生産現場の競争力、日本の製品の競争力というのは搾取によるのではないかという見方が80年代初めくらいにありましたね。ところがやはり彼らは日本的な経営ってのがアメリカや英国で力を発揮しているのを見て、これはなにかあるぞと気づいたのですね。それで非常に勉強した。アメリカとか英国の経営学者の本を読んだのですね。僕らから見るとちょっと美化しすぎているくらい日本的な経営というものに関心と興味を持っています。労使関係と現場での人の使い方です。それに松浦さんがいわれた平等主義。これが非常に彼らにアピールしている。やはり僕はイタリア人の中にそういう平等主義を善とするという考え方があると思うのですね。特に戦後のイタリアにおいては。そういう観点から見ると、僕はあれから来ているのではないかと思う、ウマニズモという言葉がありますが、人間主義、つまり人間的でなければいけないということから見て、労使関係も会社の人間関係も、それから人間的でなければならないという考え方を非常に感じますよね。そういう所から見ると日本の経営者とか日本の経営の仕方ってのは非常に人間的である。これが彼らの心を捉えていて、しかもこの人たちはいわゆる伝統的な上層階級の人ではなくて、中の上の出身ですね、しかし非常に才覚があって国営企業とが大企業の管理者にのし上がって来た人たち。この人たちに非常にアピールしている。だから僕は、100%日本資本に対してもう少し抵抗があるのか、アレルギーがあるのかと思ったら、そうではなくて、もう資本の国籍はいいと。しかも日本のマネジメントは長期的な視野で短期に成果を問わないと。というようなことで、意外に彼らの心を捉えている。そういうことが彼らがよく働いていることの根底にあると思います。

質問者4 私出版社に勤めております小高と申します。ちょっと遅れてきましたので、最初のお話に出たかどうか分かりませんけれども、最近新聞など見ておりますと、とにかくEU統合に向けてですね、イタリアも非常に厳しく経済を運営していると、失業率も高くなっていると、プローディさんも不信任されたということですが。今かなりイタリアの景気は悪いのでしょうか。最近のそういった景気状況をお聞きできればありがたいのですけれど。

小林 今年の前半は、今年の経済成長2.5%っていっていましたけれども、この数ヶ月、秋になってから2%に下方修正しまして、下方修正したのはやはり今言っているようなイタリアのファッション産業とか、そういう産業のアジア向けの輸出が減っているということで、やはり生産指数が少し低迷しているということがあります。ただし、まだ2%とやや強気な見方は変えていないと思いますが、おそらく私の個人的な意見ですけれど、来年は、ごく最近ではロシアとかね、意外にイタリアはロシアと関係が強い、それとアメリカがちょっと嫌な感じになってきていますから、来年はさすがのヨーロッパもですね、世界的な低成長に巻き込まれるのではないかというような感じは持っていますが、少なくと現時点ではそんなに景気は悪くありません。


質問者5 私もいろいろ食品の工場とか、イタリアで訪問する機会が多いのですが、なかなかうまくいってない所が多くてですね。ちょっとお伺いしたいのですが、日本的な手法といいますか、例えばTPMとかサークル活動とか、そういう例えば下からの提案制度を取り上げるとかですね、その目的でずっと4段階で目標をチェックするとか、そういうことはなさってるのでしょうか。ちょっと教えて頂きたいのですが。

小林 これは実は非常に時間がかかります。われわれも80年後半からやって、10年かかって、ちょっと定着して来たかなという感じです。やはり彼らの生き方の基本的な部分に触れることですから、つまり大変な個人主義の社会ですから。それを基本的な考えの変革を迫っているわけです。ただ一つ意外だったのは、よくイタリアでいわれていますけれど、残業をしろといったらしないけれど、任せたらよろこんで残業するとこういう人たち。ですから先ほど言ったように伝統的に働くことに意義を見出すという伝統が残っていますから、それは主として中小企業に残っていたのだけれども、大企業では非常に対決的な雰囲気が強かった。従って意外に田舎で事業をやると、そういう田舎に残っている伝統的な労働観、働くことに意義を見出すという風土をうまく使うと非常に働くと思います。だから持って行き方、一番いけないのは、外資が押し付けるというとぜんぜん働きません。そうではなくて、やはりあなた方の伝統的にこういう考え方あっただろうと、それを言ってるのですよ、というような持っていき方すると、わかったと。やはりいかに彼らの言葉で彼らの論理体系でわかってもらうか。僕は先ほど言った日本的経営の中でもあるものは彼らの基本的な思想に合うものがありますからね、例えば平等主義とか。それから人間の、なんていうかな、センチメントを非常に大事にするというか。

 時として仕事しているとですね、議論するときは大変な激しい議論しないといけない社会です。たとえば私の部屋に、イタリア人の部長が予告なしにドアを開けて、こういう考えを持っているのだけれどどう思う、という議論をふっかけてきます。あるいは事前に書類を回してきてそれを元に議論をふっかけてきます。日本だとですね、書類が回って来たのを適当に読んでいればいいことが多いのですけれど。書類が回って来たら、皿眼にして厳しく読んで、それに対して自分がどういう考えを持とういうことを考えておかねばならない。いきなり入ってきて、「どう思う、こないだ書類回しておいた考え方は」などと言ってくる。それに対して自分はこう思う、あるいはイエス、ノーだとか、これは違うと思うということをはっきりいわないと、むこうも私の人間というのを評価してくれないし、まあ株主の代表だからそこそこの評価はするけれど、本当の評価はしてくれないし、その過程においては先ほどいったように怒鳴ることも仕事のうちだし。日本は非常にコンセンサスを重視する社会といわれていますけれど、戦国時代には道ですれ違った侍が、いきなり、あれ居合いというのですか、刀で切りかかったことがあったわけで。イタリア人の仕事の仕方というのはそういう感じがします。いきなり切りかかってくる。それに対してこちらも刀で切りかけなきゃいけません。しかし意外に思うのは、怒鳴ることも含めて激しい議論と立会いをやった後で、7割か8割議論をしたなと思うと、そのあとは非常に驚くほど現実的な妥協をしてくる。非常にこちらの立場を考えた、また非常にデリカシーのある妥協を目指してくるというのが私の印象です。えてして日本から来るビジネスマンがその激しい自己主張にたじたじとして、そこでやられてしまうという例をよく見ますし、またある人はあんな激しい自己主張をするなら仕事をやっていられないという人もいるけれども、それはやはりきちんと自己主張し論理で戦って、そして7、8合目まで来るとバランス・オブ・パワーを見て妥協してくる、それに慣れないと仕事は出来ないと思います。

司会 他にありますか。私お聞きしたいのですが。今年一月もそうだったのですが、ボッコーニ大学を出た若い投資顧問会社の人間がミラノの駅に夜7時に特急列車にですね、ローマに行くために送りに来てくれて、これからどうするのかと聞いたら、今から会社に戻って、日曜日にですよ。今から会社に戻って報告を書くと言ったのです。イタリアのエリートというか、一番上の階層とそうではない人との間に厳然と差があるような気もするのですが、その辺を少し。例えば外務省でも一人や二人は真夜中まで仕事をしている、でもあとは二時半に消えてしまうとかですね、それは本当の姿なのかどうか。

小林 それは本当の姿だと思いますよ。うちの会社でもですね、時々、朝8時半から昼サンドイッチを食べながら、夜7時か8時まで議論するというようなことありますし、土曜日に出勤すると、管理職がおそらく3人や4人は出てきている。彼らはですね、やはり自分が納得して、自分の仕事だと思ったら残業もいとわない。土曜日、日曜日に出勤するのもいとわないという人たちだと思います。もう一つ私の実感は、単なる管理職だけではなくて、特に私が見ているミラノの人ですけれども、一般の従業員も残業しろというと不服そうな顔をしたり、私はアップンタメントがあるからと断られることがおうおうにしてあるけれども、自分が納得した仕事、これはやらねばならぬと思った仕事については一般の従業員でも喜んで残業する。こういう人たちだと思います。この本の中にちょっと書きましたけれども、今やヨーロッパではミラネーゼは、イタリア人は本当に働くのかというのをはるかに通り越して、「狂気のように働くミラネーゼたち」というのがヨーロッパのビジネス界の定評です。一つのエピソードをこの本に書きましたけれども、ある日系商社が、いわゆる高校を出た女性社員ですけれども、非常に意欲があるので日本にも研修に数ヶ月出して、ある商品を任せた。そうしたら夜遅くまで働いて、もう30歳近くになってきているので婚期が遅くなるのではないか心配していたら、結婚するというんでやれやれと思っていた。支店長が例のイタリア式の5、6時間かかる結婚式から解放されて帰ってきて、ギリシャに新婚旅行、サントリノ島に送り出した。翌朝9時会社に行ったら彼女から電話がかかってきて、支店長私のところに「東京からファックス入ってないかしら」と、「おまえ、今、新婚旅行中だぞ、いい加減にしろ。で、彼はどうしてんだ」と言ったら、「なんか疲れてぐっすり横で寝ているわよ」とかなんとか言っていたらしいけれど、こういう仕事気違いがかなりおります。だから僕は管理職だけではないと思います。


司会 他にございますか。

質問者6 今日はありがとうございました。私は実は洋菓子のメーカーやっていまして、単純な質問なのですが。どうやってもデザイン、色の使い方、それから線のとり方というのですか、かなわないですね日本人のデザイン屋さんでは。もちろんその伝統の環境とかいろんな意味で日本とは比べものになりませんけれども、どこからあのセンスは生まれてくるのかなって。そういう極めて単純な疑問を抱きながら、もっと日本のデザインよくなったらいいなということで、単純に向こうのデザインをこちらに頂いてしまうというような、極めて安易なことをやっている方もいらっしゃいますけれども。なんでしょうね、あの色の使い方、デザイン。こんなのは単純な質問で一番難しいと思いますけれど。

小林 学ぶというのはあきらめたほうがいいじゃないでしょうか。無理だと思います。まあ少なくとも人間は語学でもそうですけれど、12歳までの体験というのが大事なのだそうです。ですから20歳くらいになって、たくさんの人がデザインとか芸術とか学ぶといっていますが、まあその中で100人に一人くらいは何か体得するかもしれないけれど、所詮やはり感覚というのは、小さいときからあの環境の中で会得するものであって、後天的に学ぼうとしても無理ではないでしょうか。むしろそれをいかにうまく活用させていただくかという方に力を注いだほうがいいと思います。私も12年になりますが、女房に「あなたは本かなにかにイタリアの色のセンスとかファッションとか、かっこいいこと書いているけれど、全然センスがよくならないわね」って、言われていまして、これは無理だと思います。諦めています。


質問者7 先ほどからミラネーゼという言葉が出てきます。それからイタリアーニ、著書のタイトルにもイタリアーニとなっていますが。クリスマスとか、あるいはパスクア(復活祭)、そういう時になりますと、大移動といわれて、皆、故郷へ帰る。相当南のほうから、シチリア、プーリア、カラブリアからミラノに労働者が入っていますね。特に御社の中で500人ほどイタリア人が居る、そういう場合に、経営の一つの手段として特に勤勉な地域の人を集めるとかですね、いやそういうことはなくて南、北地域に関係なくですね、イタリア人の中に任せれば熱心に仕事に打ち込む普遍性があるのかと、その辺のお話しをちょっと頂きたいと思います。

小林 工場は当然のこととしてウンブリアの人がほとんどですね。違うのはミラノで、これはナポリの人もいますし、レッジョ・カラブリアの人も居るし。ただ僕は思うのは、出身地ではなくてですね、ミラノにどのくらい居るか、南の人もミラノ的になっている。例えばですね、これはフィレンツェの人ですけれども、フィレンツェというのも結構ミラノあたりに比べると、なんていいますか、地中海的というか、家族主義というか、もう少しミラノの人というのは組織的なのですよね。フィレンツェから来た男ですが、こういうふうに言っていましたね。「フィレンツェで仕事をしていた時には、いわゆるアミーコには商品を安く売る。こういうのがまかり通っている。ところがミラノではもう少し組織的な仕事の仕方をするからアミーコであろうとも値段は変えない。だからフィレンツェから友達が来て、値段をまけてくれっていわれるのに辟易するんですよね」と。これは一つの例ですけれども。やはりミラノに5年もいると(ミラノもある統計によると4割くらいは南部出身の人が居るそうですが、出身別に見るとね)、やはりミラネーゼというある一種の独特な雰囲気にだんだん染まってくるのではないでしょうか。

司会 それではそろそろ時間がきましたので、今日は本当にいろいろな貴重なお話を小林さんに伺いました。本当にありがとうございました。

著者プロフィール 


小林 元(こばやし・はじめ)


 慶應義塾大学経済学部卒業。1962年、東レ入社。36年間海外事業一筋。アルカンターラ社を立ち上げ。現在アルカンターラ社副社長。イタリア日本人商工会議所副会頭。





この講演内容は印刷物としても発行されています。


イタリア研究会報告書No.78

1999年6月30日発行

企画編集 イタリア研究会

発  行 スパチオ研究所・伊藤哲郎

     (目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)

事 務 局 高橋真一郎

     (横浜市青葉区さつきが丘2-48)