第223回 イタリア研究会 1999-03-12
ミケランジェロを撮る-ローマ30年の軌跡-
報告者:写真家 岡村 崔
第223回イタリア研究会(1999年3月12日 六本木・国際文化会館)
岡村 崔 写真家
「ミケランジェロを撮る-ローマ30年の軌跡-」
司会:それでは研究会を始めたいと思います。今日の講師は岡村 崔さんです。岡村『たかし』という字は山かんむりに隹(ふるとり)を書く、読めなくても,この字を見て「あ~、写真を撮っている人」と分かる方もいると思います。最近では読売グループのSISTINA礼拝堂修復の写真をずっと一緒に撮っていたと、こう解釈していいですね。岩波から出ている本は1万9千円です。今日本を何冊かと思ったのですが、図書館は貸出禁止とか、1番重い本は25kgあるとききまして、だめでした。高級な写真集を出されています。ただ、国立西洋美術館の高階館長さんの文章に岡村さんの撮った写真がついているとか、そういう形でもかなり出ていますので、よろしくお願い致します。ROMAに30年お住みになり日本に戻られ今はは静岡にお住まいです。それではお願いします。
岡村:今日皆さんの前でどんなお話をしたらいいのか。とりあえず、私がROMAに移りまして30年、ともかくあそこで過ごしました。その間に美術全集の出版、そういうものに関わって、だいたい15年、それからシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの修復に関わって15年、これで30年過ごしてしまいました。その間に私がどんな事をして、どんな風に写真を撮ったのか、ということを皆さんに情報公開という形でお知らせしたほうがいいと思います。
ノリとハサミがあれば美術全集ができるわけではないので、私たちも取材で苦労することが、非常に多いのです。ものによってはまるでミステリーみたいなもので、特に個人所蔵の物というのは、税金の関係もあるのでしょう、その家を訪ねますね。イタリアの場合ですと、まず家に入ることがなかなかできないものですから、ボタンを押して、「実はあなたの家にピカソがあるのではないかということで来たのですけれど」、「あ~、あれはおやじがもう売ってしまったからないよ」と言われれば、それきりなのですね。もう調べようがないのです。「売った場所はどこですか」と、それを聞いて訪ねて点々とヨーロッパ中を駆け回ったこともあります。ともかくイタリアは非常に不思議なところがありまして、展覧会を外国でやって戻ってこないものが随分あるということを、前のイタリア文化会館の館長のデ・マルキス氏がよく言っておりました。まあ、そんな中で仕事をしておりました。私がそういう仕事をしておりますと、日本はお金持ちだからこういうものを売ってくれないか、その橋渡しをあなたにしてもらえないかという話もいくつか来ました。もう驚くべきもの、なんかオペラコンプレータに載ってないものが随分ぞろぞろとあるので、大変怖くなって、「私はこういう仕事をしている以上こういうことには関わりたくないから、勝手にしてくれ、放っておいてくれ」と言いますと、「では、写真だけでも持っていって欲しい」と言って、ある時は頼まれまして、絵葉書くらいの大きさの紙焼きを日本へ大変な枚数を持って来たこともあります。ある財界の本当に大物の手にそれがいったのだろうと思いますけれど、一括して買って欲しいという言い方をイタリアがするので、なかなかそれはできなかったのだろうと思います。そんなことをしながら、私がなぜROMAへ移ったかというお話からミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の修復が終わるまで、ということをこれからスライドでお話したいと思います。
〈スライド〉まずどうしてモンブラン山群の岩峰が出てくるかと申しますと、私が初めてヨーロッパに行ったのは山に登りたくて行ったのです。そもそも私は、日本のヒマラヤ遠征隊、マナスル遠征隊というのがありましたけれども、その候補に選ばれたのです。ですけれど、あくまでも候補であって、日本で待機するという大変みっともない候補だったのです。マナスルはだめ。その後、南極探検という話が出てきました。これも候補で終わってしまいました。それでは、ヨーロッパ・アルプスを、ということで、アルプスに出かけました。考えてみたら、ヒマラヤに行っていたら、今頃はチベットのマンダラか何かと取り組んでいるのではないかと思いますけれども、アルプスに行ったということで、ヨーロッパ文化に触れることができた、しかも、私はアルピニストでしたから、この岩壁の持つ魅力にとっても惹かれました。例えばここにあるのは標高差大体700m-1,000mくらいあります、この岩壁。日本にはどこを捜しても1,000mの落差のある岩壁というのはございませんので、こういうものに魅かれて出かけていきました。これも同じようなものです。こういうとんがった所を登るわけです。私が初めて岩登りしながら4,000mを越したというのが、あの真ん中にとんがっているのがありますけれど、ダン・デュ・ジュアンという山ですけれど、あの岩壁を初めて登りながら4,000mという標高を越えました。私にとっては非常に思い出のあるところです。これが有名なモン・ブランです。
そんなことでヨーロッパに魅かれて何回か通っているうちに、石の文化というものに取り組んでみたいと思いました。それで私は例えばロマネスクの彫刻などを撮りたいと思って出かけたのですけれど、なかなか現地に住んでいないと情報も入らないし、許可の問題もあるし、設備の問題もあって、なかなか日本にいたのでは思うようにできないから、では、引っ越してしまえ、とヨーロッパに引越しました。引っ越す場所はいろいろ捜してみたのですけれど、私には機材の問題もありますから、都会でなければ住めないし、といって、あまり大都会でも困る。それから、山に登っていましたが、ヨーロッパへ行くときは山をやめたつもりなのですけれど、アルプスの近くにいますと日本の「悪い」仲間たちがどっと押し寄せてきて仕事どころではなくて毎日ペンションか何かやらなければならないような状態になるので、アルプスからは少し離れたいと思いました。
あちらこちら探しましたけれど、結局ヨーロッパの文化を取り組むにはキリスト教というものがわからなければダメだろうということで、ROMAを候補にしました。そうしましたら幸いROMAで私を面倒みてくださるという方がおりましたので、その方を訪ねてROMAへ行って、最初は2-3年のつもりでおりましたが、それが30年に伸びてしまったのです。
最初は今申し上げたようにロマネスクを撮るつもりでおりましたが、結局ROMAに引越してわりあいすぐあちこちロケハンしている最中に、日本からある出版社の美術部長が来まして、「美術全集のきちんとしたものを作りたいと思うからやってくれないか」という申し出がありました。”渡りに舟”で、私はその仕事に取りかかることにしました。これが学研の『大系・世界の美術』という本です。未だに書店にはまだあるかもしれません。というのは、戦後『世界の美術全集』としては平凡社のものがあって、その後角川のものがありました。これはほとんど写真を向こうから入手した本だったのですけれど、学研の場合は全部現地でロケをして、撮影をしようと、今までなかったようなものを作ろうではないかということで作り始めました。全24卷くらいありました。これが7年かかりました。その後、今度は小学館から彫刻全集というものをやろうという話が持ち上がりまして、これが3年半、これでもう10年という時が経ってしまったのです。
ここに今イタリアの地図がございますけれど、私がこれからお話しする大変面白いことが起きたところは、この先にOTRANTOという小さな村があります。漁村ですね。これはイタリアの1番東側の町だといいます。考えてみたら、TRIESTEはこの辺にあるのですけれど、こう下がってくると決してこれより東に寄るようなことはありません。ここにOTRANTOという小さな村があります。そこに、教会がありまして、これ教会の床です。これは私が撮ったものではなくて、ここの教会にあったものを利用させていただきました。ここが入り口です。床全体に、これ全部モザイクです。これはずっと教会の1番奥までつながっています。奥の方はこうなっています。この辺が、こちらから祭壇にいきますがかなりのモザイクの量です。私はこの時、ここの教会に行って神父さんと相談をしました。「できたら、これの全体を撮りたいのだけれど、どうしたらいいだろう?」と言いましたら、その神父さんが私の手をしっかり握りましてね、「おまえ、幾日かかってもいいからいろ。何でしたら屋根の瓦を取って、そこからカメラを入れたら、これ全体撮れるはずだから、好きなだけいろ」と言って、手を握って離さないのです。私は身の危険を感じまして、その時、これは長居はできないと思って、そんなことしなくてもいいから、ともかく撮影をさせてくれと言って、撮影をしました。しましたのは、この部分、ここに『ノアの方舟』があります。これが教会の図面ですけれど、結局ここに全部モザイクで埋められているわけです。撮りましたのは、こういう部分です。これは『大系・世界の美術』のロマネスクの卷にこれをのせました。日本では確か初公開だと思います。本当でしたら、少しねばってきちんとしたものを撮れば良かったのかもしれませんけれど、日にちもかかるし、ちょっと不気味だったものですから、私は早々にここを引き下がりました。
でもこの時私がOTRANTOへ行って一番驚きましたのは、その前にギリシャにいて、ギリシャのアテネとかクレタとかミケーネとか、そういうところを周りながら写真を撮って、ここに戻ってきて寄ったのですけれども、ギリシャで撮影中、常にドイツ人にいじめられました。ギリシャの美術館は、開館中に撮れということをよく館長が申すもので、皆さんが入っている最中に私は機材を置いて、あるいは、物によっては黒い布で全部周りをかこってしまって外光が入らないようにして、その物だけを撮影するということがしょっちゅうありました。その時見物に来ているドイツ人に「おれはこれを見に来たのですけれどどうして見られないのだ」といって、随分食ってかかられましたのでドイツ人に少し恨みを持っていたのですけれど、このOTRANTOへ行きましてここはドイツ人はいないだろうと思いましたら、ちゃんととバス1台をチャーターしてドイツ人が来て、こと細かにこれを見てましたね。ドイツ人の見物の仕方というのは、ベデガーのガイドブックのようにということ、よくいわれます。ベデガーはたしかに3歩前へ行ったら左を見ろとか、右を見ろとか書いてあります。その通りに彼らは歩くのです。きちっと歩いたということに誇りを持っている、やはりドイツ人って、ちょっとおかしいと思いますけれど。このOTRANTOでドイツ人っていうのはやはりすさまじいものだと思いました。
今の日本人はかなり海外旅行に行きますけれど、ベデガー的な見方というのはしてないと思います。それよりもどこかで安売りを探すとか、そういうことの方に情熱を燃やしているようなのです。これは同じところにありますモザイクの部分です。ノアとその息子たちです。これが例えばシスティーナの最後のコマに『ノアの泥酔』という場面があって、酔っ払っているノア、畑を耕すノア、息子たちという絵がありますけれど、同じノアと息子でも随分違うものだと思います。これがノアの別のところに見えるアップです。ここまでですと、モザイクというのがよくわかります。モザイクの撮影というのは種明かししますと、私たちはこういう時霧をまきます。霧を吹きますと、モザイクの色が甦ってきます。皆さん、洗濯物を水につけたとき、汚れがよく見えるのと同じです。水につけますと、よく見えます、こういうものは。大きな画面ですと非常に大変になります。ライトをセットしている間に片方が乾き始めてくるとか、いろいろなことがありますので。農薬用の水を散布する機械がいる場合もあります。ここにアレキサンダーが出てきます。このOTRANTOにどうしてこういうのが出てくるのかよくわからないのですけれど、このアレキサンダーがいますし、それから、これはナポリのアレキサンダーですね。ここにはアーサー王が出てきます。今のはやりのケルトのものを読んでいますとアーサー王の文献の中にこのOTRANTOのモザイクがあるということが書かれています。それがこれです。こういうところを見ますと、歴史の深さというか、そうくものを本当によく感じます。
ここは、シチリアです。シチリアにPIAZZA ARMERINAという場所があります。そこにROMAの別荘の跡がありまして、こういう非常に素晴らしいモザイクがあります。これ、いろいろな画面がありまして、例えばビキニの女性がいる場合もあります。ここの撮影の時は私は本当にOTRANTOの神父さんよりももっと気持ちの怖い思いをしました。というのは、ここに行きましてこの管理している事務所に行って、許可は誰に求めたらいいのだと言いましたら、「町の広場へ戻って、-非常に不思議な言い方ですが、con cravattaの人を捜せ」と言うのですね。ネクタイした人に言え、と言うのですよ。何のことかよくわからなかったのですけれど、ともかく町へ戻りました。町のセンターに行って「ネクタイした人はいませんか?」と言ったら、「今映画館にいる」というのですね。「俺が呼んできてやる」と言うのですよ。その方が出てきました、映画館の中から。「何だ?」って言うから、「実は、あのモザイクを撮影したいのだ」と言ったら、「分かった。俺に任せろ。今夜、現場で会いましょう」と言って別れました。半信半疑で夜現場へ行きました。管理人ももうほとんどいませんから、真暗です。私は夜を主張したのは、昼間はこの上が半透明の屋根があります、それを支える鉄のパイプがありますので、それが影として出てきてしまうのですね。ですから、こういう大きな画面は撮れません。どうしても夜撮影がしたいのです。どころが困ったことにこの横の通路の下に蛍光灯が入っています。蛍光灯でやると良い色が出ませんので、私たちは写真用電気を使ってきちんとやりたいから、この蛍光灯は切って別のコードを引いて作業をしたいんだ、しかも水もまきたいんだということを話したら、「わかった、俺に任せとけ」というのですね。現場へ夜行きました。そうしたら、真っ暗な入り口のところに真っ黒い背広を着て、真っ黒いソフトをかぶった男衆がたしか5人くらいいましたね。「あなた方は?」と言ったら、「あなたの仕事を手伝いに来たのだ」というのですね。非常に見事にその人たちは動きました。管理の人たちと関係のない人たちなのですけれどね。きちんと水をまく設備を持ってきて、一晩かかって撮影が終わって、終わりがけに「あなた方にいくらお礼を差し上げたらいいのだ?」と言ったら、「日本人から金をもらうつもりでやったのではない。シチリアを誤解しないでくれ」と言われまして、「申し訳ございません。」と、そのまま私は引き下がってきました。こういうものが撮れたので、大変感謝しております。出会った人の印象というものは非常に大切だと思います。
これは、全然場所が変わります。VENEZIAです。恐らくVENEZIAへかなり行かれた方でもここへは行ってないと思います。これはVENEZIAの、どちらかといいますと、かなり沖合へ出たところにある島です。これはアルメニア人たちだけが住んでいる修道院です。そこにこういう写本がありますので、これを、やはりリストに選ばれたので、私はこれを撮影に行きました。どのようにして行っていいのかわからないくらい探して、やっとモーターボートでこの修道院に着いて、お話をしましたら「あ~、日本からよく来ましたね。どうぞ、撮って下さい」と言って、この写本を出されました。大変重いものなのです。これ、いわゆる羊の皮ですから、それにこういう絵が描かれているわけです。もう本当に、ヨーロッパの本は私がさっき申し上げたように、私が作ったミケランジェロの本は25kg、たしかそのくらいしますけれど、例えばFIRENZEの図書館あたりに行って、大きな本を出してくれというと、ちっとも出てこないのでいらいらしていると、トロッコに乗って本が出てきます。それくらいやはり本は重いのです。羊の皮を重ねたものですから、非常に重くなります。この羊の皮というのは削ってまた書き直すこともできます。
余談になりますけれど、例えば私がVATICANの図書館の館長にある時お目にかかったら、テーブルの上にある本を、――かなり厚い本だったですーーたたきながら、「君この本がわかるか?」と言うのですね。「わからないですよ」と言ったら、「これはな、シャルルマーニュが使っていた聖書なんだよ」と言うのですね。これね、こういう話になりますと、何かまゆつばみたいな話になりますけれどね、それで、この方は大変まじめな、本当にまじめな学者の方ですから、そんないい加減なことは言うはずないと思います。そのページをポッと開けますと、何も書いていないページがあるのです。「これが何故削られたか、俺は研究しているのだ」と言う、何か、本当に雲を掴むようなお話を私になさったことがありましたけれどね。それくらい羊皮紙というのは、いろいろな所に使われていますので。本の、例えばイタリアあたりの修復技術というのは大変なものだと思います。これもやっとVENEZIAでアルメニア人の神父さんの好意で、これを撮ることができました。
これは、同ではっぱりVENEZIAにある島です。これも皆さんご存知だと思いますけれど、若桑みどり先生のリストでこれを私が探しました。なかなかこの島がわからなくて、あちこちでどうやって行ったらいいのだ、と聞くと、皆ニヤニヤしてしまうのですね。よくわからなくて、ともかくやっと行く方法を見つけて、この島に上陸しました。上陸してすぐ、まっすぐ行くと病院なのです。その病院で最初出てきた人に話をしたら、何か随分とんちんかんなのですね、話が。こちらのイタリア語もダメでしょうけれど、向こうも何かわからないとんちんかんな話をしていたら、中から白衣を着た人が出てきて、「彼に話をしても無駄だよ。ここをどこだと思っているのだ?」とその白衣の方が言うのです。聞きましたら「ここは、精神病院の島なんだ。皆、精神障害者だから言ってもダメだよ。何で来たのだ?」と言うから、「実はこれを撮りに来たのです」と言ったら、「あ~、わかった。それではこちらだよ」と案内してもらいました。これはその病院の礼拝堂の浮き彫り彫刻でした。(写真1)
ですからすんなり行けるところは楽ですけれど、そうでない時というのは本当に大変です。このときも私はVENEZIAをかなり、この彫刻全集も含めて、飛び歩いていまして、ともかくVENEZIAにあれだけ橋があるところを、荷物を運んでいくのがどれくらい大変かということもよくわかりまして、VENEZIAのポーターの車を結局チャーターして借りて、それで運びました。あるいは遠いところは水上バスではなくて、水上トラックですね、大きな船に機材をのせていきました。そういうようにしてVENEZIA中を歩いて、最後は知り合いのゴンドリエーレから「ゴンドラ売りたいのだけれど、おまえ、買わないか?」と言われました。今から約30年くらい前で60万円ですね、円にしまして。「これは漕ぎ方まで教えてその値段ですけれど、おまえ、買わないか?」と言うのですね。ゴンドラというのはVENEZIAで見ますと小さいように見えますけれど、実寸を測ってみますと大変に大きいものなのですね。”王様と私”という映画の中で王様がベッドにしてゴンドラの中で寝ていますけれど、左右前後が余るくらい大きなものですから、とても当時の私のROMAの家にはそれが入りきらないので、その時アッティコにいましたけれど入りきらないので、それは断りました。船を漕ぐのは自身があったのですけれどやめました。
そんなことをしながらイタリア中あちらこちら歩いていました。ここはご存知の通りFIRENZEの中心地です。横にこういうものがあります。これからお見せする写真はここで撮った『サビナの掠奪』(写真2)ですけれども、これを撮りました。で、撮ったものがですね、こういうものなのです。今からやはりこれ、30年近く前です。これが何と猥褻罪で、僕はひっかかたのです、羽田で。当時の日本の官憲というのはまじめといえばまじめだったのです。それとも僕の腕がものすごくて、非常にワイセツに撮れたのかナ、と思ったりしました。ともかく通過ができないのですよ、この写真が。それで説明しました。「冗談ではない、FIRENZEでは町中にあるのだよ、と。通る人、皆見ている、それを写真に撮ったらどうして日本に入れないんだと。ポルノではないのだ」ということを言ったのですけれど、なかなか信じてもらえなかったのですね。やっと通ることができました。当時はこの中にどんどん入れました。今は入れません。この中にこのように柵がありまして入ることはできないのですけれど、昔はここでアイスクリーム食べたり、いろいろなことをしていました。
これはまたROMAに戻ります。これは大変貴重な絵画がROMAのグレゴリアン大学にあります。真ん中に座っておられるのは教皇様。ここにいる、これ、日本人です。これは天正使節として描いている絵です。天正の少年たちというのは、こんなに歳をとってはいなかったのですけれど、これはちょっと後に描かれたものですから、こういうように描かれたのだと思います。これもVATICANにあります。今のはグレゴリアン大学ですけれど、これは、VATICANの美術館に入りますと図書館の前を通ります。そこに、シスト5世の部屋というのがあります。その1番奥のルネッタにこの絵が描かれています。これは天正使節が来て、時の教皇様に会って、この3日後くらいに亡くなられるのですね。それでシスト5世が今度また教皇に立たれます。教皇が決まりますと、VATICANから、ラテラーノまで行列をするというしきたりがあるらしくて、それに日本の少年使節たちが参加しているという、この3人がそうです。これは4人ともいわれます、3人ともいわれます、いろいろです。ともかく、1人病気であったことは間違いないのです。ですからこの人物を見ますと、近づいてみますと、ヒゲをはやしていましてね、とても少年ではないです。この3人はまさに本当に若い青年に描かれていますから、この3人がそうだと思います。というのは、これと同じ銅版画があります。これはPARISの図書館にあるのですけれど、それがROMAで私がある時、シスト5世という展覧会がありまして、その展覧会に行きましたら、これと同じ銅版画が出ていました。その下に、銅版画はここに名前を書く囲みがあって、そこに名前が入っていて、これが天正使節であるということを間違いなくそこに書かれてましたので、私も確認できて、その展覧会に行って良かったと思っています。
この天正使節がいろいろ問題になりますのは、例えばこういう本があります。これはこの次の次にここでお話になる国立西洋美術館の越川倫明さんに教えていただいたのですけれど、ここにこういう絵が描かれているのです。もう1枚はこう描かれている。これを見ますと、ここにきちんと、日本から来た大使が持って来た絵による、と書かれています。ですから、これが問題の狩野永徳の安土屏風の写しだということがいえると思うのです。これはその、さきほどの天正使節たちが間違いなく持ってきて、狩野永徳の絵を信長から預かってきて、法王庁に差し出していることは間違いありません。ただ現在は行方不明で、私もまだ探してはいますけれど、なかなか見つかりません。仮に私が見つけたら、それを撮影する権利をいただいて、私は一生食べていけるだろうと思っているのですけれど、これは未だに見つかりません。これが、その天正使節がVENEZIAを去るときに、VENEZIAで歓待を受けたときのお礼の書面です。これは現在、川崎の市立美術館ですか、あそこの展覧会に出ております。ザビエルの展覧会の中に、会場の奥の方に、たしかこれがあったと思います。私がこれを撮ったときは、先程申し上げた、シャルルマーニュのバイブルの館長だった方の時ですけれど、手が震えました。というのは、ここにきちんとラテン語、この花押は読めません、私たち日本人でも、でもここにきちんと4人の署名があるということ、これも彼らが書いたのでしょう、恐らく。ここにきちんと日付もあります。この後ろの方に、無事に日本へ帰ったらこのVENEZIAなどの話を日本の人たちに伝えたいと思います、ということが書かれています。これなかなかスラスラっと読めないのが、大変残念なのですけれど、これを天正の少年たちが持ってきて出したということ、あるいは現場で書いたかもしれません、そういうことを自分の手で触れたということで、私がROMAに30年いて1番感動したのは、これを受け取った時が最高だったかもしれません。
で同じく、これは支倉常長の絵です。これは模写ですけれど、この支倉は天正使節の後、伊達政宗のこういう書を持ってきています。これ、昔は図書館のシスト5世の部屋にあったのですけれど、今は中にしまってしまわれてしまいました。昔はいつでも見られたのですけれど、今はなかなか許可を求めないと見られないです。
これは、ここに日伊協会の専務理事田辺健さんもいらっしゃいますけれど、これはTARQUINIAの取材を私がしていまして、常々気になっていたことがあります。というのは、これはTARQUINIAの”故地”というタイトル、古い土地というタイトルで例のチャタレイ夫人の恋人のローレンスがここの文章をよく書いています。それを読みますとですね、もちろん英文でもいいですし、日本語でも翻訳がありますので、3人の日本人に会う、というくだりがあります。私は3人の日本人がとっても気になりました。というのは、こういう例えばTARQUINIAの写真を撮っていまして、これを最初に見た日本人は誰だろうな~と、よく思いました。例えばこれ、”鳥占いの墓”(写真3)です。今恐らく入れないかもしれません。これがそのアップです。(写真4)これ天井に頭がつかえるくらいの低いところですから、ライトを立てるのがなかなか大変で。これは原寸よりはるかに大きいものです。こういうお墓もあります。これはLEONESSEという、要するに”メスライオン”というタイトルになっています。ここに男性と女性が踊っています。このエトルスクの絵は白抜きの身体は全部女性です。この赤銅色をしたのは全部男性です。そういうきちっとした決まりがあります。これがそのアップです。薄衣の書き方なんていうのは、なかなか見事です。これが顔のアップです。きちんとイヤリングしています。これが紀元前恐らく4世紀くらいの絵でしょうから、大変なものです。フレスコというのは、これくらいもつものなのですね。ですから、ミケランジェロが保ってあたり前なのです。中にはこういう非常に何か仏画のような描写も出てきます。こういうのは私は大変好きで、特に東洋のものが感じられるものを中心に撮っていましたら、これはエトルスクの壁画という岩波で出した本なのですけれど、この時は細かいデータの調べはドイツ人がやりまして、日本からは今の東大の副学長の青柳先生が出て、それから私がイタリアで写真を撮るという、日独伊で作ったようなものですけれど、ドイツ人はこういうのを見せますと、なんでこんなものを撮るのだ、と言うのですね。もっと全体を撮らなければダメではないかっていうようなことをよく言うのですけれど、僕はこれ、敦煌の壁画みたいな感じで撮ったのですけれど。そういう所はなかなか意見が合いません。(写真5)
これはCERVETERIです。TARQUINIAは全部下にもぐってお墓ができるのですけれど、このCERVETERIはこのドームの下、ここにあります、並んでいます、こういうのが全部そうです。この下に柩があって納められていたものです。で、最も有名なのが、”浮き彫りの墓”(写真6)というもので、ここに当時の生活用具、そういうものが全部浮き彫りされています。例えばここに枕があります。ここに草履があります、ここに杖があります。恐らく飼っていた番犬なのでしょうかね、そういうものがいる。それからここは盾ですね、これカブト、これ冑、ですから、武将だったのでしょうね。そういう人のお墓がこういうところにあるということで、このCERVETERIは有名です。そこをローレンスが訪ねて書きました。それでその中に3人の日本人に会ったという描写が出てきます。私は大変気になりまして、この日本人はどなた、誰であろうかということを調べました。やっとわかりました。こういう方でした。これはですね、ここの年号が大正12年8月です、それから昭和11年5月まで、山口県の防府の塩の研究所の所長さんをしていた方です。この方だという確信はですね、ローレンスが書いたのは、日本の年号でいいますと昭和2年、1927年に書いています。この方がその前後1年以上の出張をなさってイタリアに行かれたことも、その出張の報告書にあります。ただこの久保田さんの報告書にはローレンスに会ったということは書いていなかったのですけれど、で、間違いなくこの方であろうということで、私はこの方をその時ローレンスに会った日本人の代表ということを思っております。ローレンスも日本から来た人たちは政府のお金で来て塩の研究をしていると書いています。ですから間違いなくこの方です。この方がその場長の時に渡って、TARQUINIAの海岸のところで、当時塩、確かにあそこで作っていましたから、その勉強をなさったのだろうと思います。これは今でも専売局の塩を扱っていた組織の当時の文献が全部残されていますので、それを拝見すると、この方のやったことがよくわかりまして、ともかく1年間塩を訪ねて本当にすごいですね。船に乗ってあらゆるところで塩を汲んで、そこで塩の含有量を計ったり、いろいろなことをして、ヨーロッパへ往復なさっているという、今の我々の旅行などは申し訳ないと思うくらいダメなものだと思いました。もしTARQUINIAの本を読まれたら、そこに出てくる日本の方はこの方だというイメージを持ってお読みになってください。
いよいよ話がVATICANに移ります。これはある年の新年の日だったと思います。ここに法皇様が出ています。当時はこういうように大勢集まります、新年の寒い時ですけれど。私がこれからお話するシスティーナの礼拝堂というのが、ここに少し見えます。ここの屋根に煙突がありまして、この煙突から教皇様が決まると白い煙、決まらないと黒い煙、コンクラーベの間中、その煙がたかれるというので、非常に有名なのですけれど。私は最初の1980年に撮影したシスティーナの申請をした時に教皇様が2人亡くなられて、今のジョヴァンニ・パオロ2世になって初めて、この仕事ができたのですけれど、このシスティーナというのは教皇選挙をやる為に閉じてしまいますので、とても撮影どころではない、外部の人も一切入れないようになっていますので、そのために私はずっと許可もなかなかOKが出ないし、撮影もいつ始まるかわからないという状態でいました。やっと、結局1980年の2月からおよそ半年くらいかかってこの中で撮影をしたのですが、それが、最初のシスティーナの本格的な撮影でした。結局システィーナはここに当たります。
今ROMAに行かれますと、このSAN PIETROの正面は全部覆われています。というのは、今年の12月25日から聖なる年が始まりますので、それに向けてここをきれいにしようということで洗浄が始まっています。この回廊も洗浄が始まって、今ここら辺ですごい勢いでやっていました、この間1月に行ってみましたら。聖なる扉というのは、ここにある扉がそうなのです。ここが開くことになります。これは、SAN PIETROの例の大きな天蓋の下の左側にある彫刻ですけれど(写真7)、これはサンタ・ヴェロニカです。キリストの顔を自分が掛けていたショールでぬぐったら、そのショールにキリストの顔が写ったという伝説があります。これは十字架の道行きの中にもヴェロニカが顔を拭うというくだりがありますけれど、その時結果がこういうことになった、ということなのです。ということは、私にとっては世界初の映像です。写ったのですから、ここに。ですからサンタ・ヴェロニカというのは我々写真家の守護聖人です。
日本では守護聖人という言葉をなかなか使いませんけれど、ヨーロッパの人たち、特にフランス人、イタリア人というのは、しきりにそういうことを言いますので、「俺たちのパトロンはサンタ・ヴェロニカだよ」ということをよく言います。で、私も確かにこの映像から見たら最初の映像製作者ですから、間違いなくヴェロニカだと思います。これはVATICANにあるヴェロニカの絵です。彫刻の方が何かリアルな感じがします。これやはりヴェロニカの布に顔が写ったということを、こういう絵にして残されています。たしか東京の西洋美術館にも1点ヴェロニカの絵はあると思います。これは、ついでに申し上げますけれど、これはサンタ・ルチアです。サンタ・ルチアって、歌の文句ではなくて、聖女ルチアということなのですけれど、彼女は12月13日ですから、彼女は私のパトロンなのです。大変におもしろかったのは、ルチアというのは、イタリア語でいいますと、要するにLUCEですね、光のことです。彼女は必ず自分の目をくりぬいてお皿の上にのっけているという、あまり良い趣味ではないと思うのですけれど、そういうところがあります。目をくりぬいた理由が凄いのですね、私が美人で多くの男が私を振り返るから、私はそれを避けたいと思って目をくりぬいたという、大変誇り高き女性ですね。彼女は光の神様でもあるわけです。私たち写真も光がなければ撮れませんので、全く私にとっては良いパトロンだと思います。皆さんも何か西洋のダイアリーを見ますと自分の生まれた日に必ずその聖人の名前が書いてあります。あれを見ると自分のパトロンがカソリックでは誰であるかということがわかると思います。お暇なときにやってみて下さい。ちなみにこの絵は、これはUFFIZIにあります。これが今そのアップです。この下に、これ目ん玉があるのです。でも上にもありますから、何かおかしな話です。
再びシスティーナに戻ります。これがシスティーナの外観です。これが中の建てているところ、これが昔の銅版画にあるシスティーナの状態です。つまり、ここの上にはまだミケランジェロは描いておりません、ここも。ここはイタリアの15世紀の人たちの絵が描かれていて、ここにそれぞれの代々の教皇の絵が描かれているというところだったのですね。天井はこんな具合に星が描かれていたというのをコンピューター・グラフィックみたいなものでおこしますと、こういう感じになります。これが入口の方を振り返ったシスティーナです。かなり汚れが目立ちます、こういうところに。汚いところ、部分が随分あります。私は結局通算15年くらいこの中で、ここと関わっていろいろなことをしてきました。主に洗浄する前を全部これを撮りました。それで、これは講談社からインターナショナルの本として出しました。
さきほど申し上げたように、25kgある本です。値段もキロいくらではありませんけれど、日本で出したとき78万円という値段でした。競争相手の小学館が’なんと80万’というタイトルでこの本を紹介したくらいですから、それで非常に有名になりました。ただし日本語版は200部です。英語版が全世界に向けて400部作りました。400部作って、これ大体5,000ドル前後でアメリカあたりでは売りました。そうしましたら、これはAPが出した記事だったのですけれど、あるアメリカの貧しい村の図書館がどうしてもこの本が手に入れたいというので、皆から寄付金を募るというキャンペーンを起こしました。やっとその5,000ドルのお金を集めてこの本を購入したというのが、アメリカで記事になっておりました。大変何か申し訳なかったような気がしますけれど、でも、それに値するような本だと思います。特に今になってみますと、洗う前の映像というのはもうありませんので、とても貴重な本になっていると思います。ですから、その本を出した後で、VATICANで仕事をしていたときにも、「私はドイツの図書館の館長なのだけれども、あのシスティーナの本を作ったのはあなたですか?」と、声をかけられたこともあります。重いのと高いので有名になったのかもしれませんけれど。でも、亡くなったケネス・クラークは、ミケランジェロのヴェールをはいだのは岡村だ、ということをあるところで書いてくれましたので、私も満足いたしました。
その時私がテーマにしましたのは、ミケランジェロが描く位置、筆を出す位置に私が立ってカメラを構えると、そういう所で撮るということで、撮りました。もちろん、こういう写真は離れて撮りますけれど、ディテールは全部ここにやぐらを組みまして、仕事を続けました。1日、6時間かかって1カット撮れるか、2カット撮れるか、そんなような状態で進行していきました。これが洗う前です。細かいディテールは別にしまして、これくらい違うのです。こういうことをお話しても誰も信じてくれません。
ここで皆さんにお教えしたいのが、ここに細いテラスがあります。(写真8)これはゲーテのイタリア紀行を読みますと、システィーナに2度目に行ったときにゲーテが、ここに乗せてもらってとっても嬉しかったと、ここに距離が近くなって、大体10m近くなりますから、それでよく天井が見られて、私は本当に幸せだったというようなことをイタリア紀行の中に書いております。ゲーテはこのシスティーナの絵を、というか、ミケランジェロの仕事を本当に礼賛しておりました。これを見るまでは人間がどんな大きな仕事をできるかわからないのだぞ、というようなことも彼は言っています。
これ一種の、天井画は騙し絵でしてね、こうして見ますと、こういう部分は出っ張っているように見えていますけれど、これ全然出っ張っていません(写真9A)。やはりフラットです。これはデルファイの巫女ですが、私はこれを見てびっくりしましたのは、ここの手、ここの手、この手と同じなのです。ダビデの手が、ここでそのまま再現していますね(写真9B,9C,9D)。あるいはミケランジェロの手抜きかもしれませんけれど。これだけの人間を描く、あるいはポーズを取る為に、もうほとんどこれと同じものを描く、これと同じようにやっています。これは私も何回か撮りましたけれど、私はこのツムジの位置まで知っています。これくらいまで足場を組んで撮ったことがありますので。
この天正使節がいろいろ問題になりますのは、例えばこういう本があります。これはこの次の次にここでお話になる国立西洋美術館の越川倫明さんに教えていただいたのですけれど、ここにこういう絵が描かれているのです。もう1枚はこう描かれている。これを見ますと、ここにきちんと、日本から来た大使が持って来た絵による、と書かれています。ですから、これが問題の狩野永徳の安土屏風の写しだということがいえると思うのです。これはその、さきほどの天正使節たちが間違いなく持ってきて、狩野永徳の絵を信長から預かってきて、法王庁に差し出していることは間違いありません。ただ現在は行方不明で、私もまだ探してはいますけれど、なかなか見つかりません。仮に私が見つけたら、それを撮影する権利をいただいて、私は一生食べていけるだろうと思っているのですけれど、これは未だに見つかりません。これが、その天正使節がVENEZIAを去るときに、VENEZIAで歓待を受けたときのお礼の書面です。これは現在、川崎の市立美術館ですか、あそこの展覧会に出ております。ザビエルの展覧会の中に、会場の奥の方に、たしかこれがあったと思います。私がこれを撮ったときは、先程申し上げた、シャルルマーニュのバイブルの館長だった方の時ですけれど、手が震えました。というのは、ここにきちんとラテン語、この花押は読めません、私たち日本人でも、でもここにきちんと4人の署名があるということ、これも彼らが書いたのでしょう、恐らく。ここにきちんと日付もあります。この後ろの方に、無事に日本へ帰ったらこのVENEZIAなどの話を日本の人たちに伝えたいと思います、ということが書かれています。これなかなかスラスラっと読めないのが、大変残念なのですけれど、これを天正の少年たちが持ってきて出したということ、あるいは現場で書いたかもしれません、そういうことを自分の手で触れたということで、私がROMAに30年いて1番感動したのは、これを受け取った時が最高だったかもしれません。
で同じく、これは支倉常長の絵です。これは模写ですけれど、この支倉は天正使節の後、伊達政宗のこういう書を持ってきています。これ、昔は図書館のシスト5世の部屋にあったのですけれど、今は中にしまってしまわれてしまいました。昔はいつでも見られたのですけれど、今はなかなか許可を求めないと見られないです。
これは、ここに日伊協会の専務理事田辺健さんもいらっしゃいますけれど、これはTARQUINIAの取材を私がしていまして、常々気になっていたことがあります。というのは、これはTARQUINIAの”故地”というタイトル、古い土地というタイトルで例のチャタレイ夫人の恋人のローレンスがここの文章をよく書いています。それを読みますとですね、もちろん英文でもいいですし、日本語でも翻訳がありますので、3人の日本人に会う、というくだりがあります。私は3人の日本人がとっても気になりました。というのは、こういう例えばTARQUINIAの写真を撮っていまして、これを最初に見た日本人は誰だろうな~と、よく思いました。例えばこれ、”鳥占いの墓”(写真3)です。今恐らく入れないかもしれません。これがそのアップです。(写真4)これ天井に頭がつかえるくらいの低いところですから、ライトを立てるのがなかなか大変で。これは原寸よりはるかに大きいものです。こういうお墓もあります。これはLEONESSEという、要するに”メスライオン”というタイトルになっています。ここに男性と女性が踊っています。このエトルスクの絵は白抜きの身体は全部女性です。この赤銅色をしたのは全部男性です。そういうきちっとした決まりがあります。これがそのアップです。薄衣の書き方なんていうのは、なかなか見事です。これが顔のアップです。きちんとイヤリングしています。これが紀元前恐らく4世紀くらいの絵でしょうから、大変なものです。フレスコというのは、これくらいもつものなのですね。ですから、ミケランジェロが保ってあたり前なのです。中にはこういう非常に何か仏画のような描写も出てきます。こういうのは私は大変好きで、特に東洋のものが感じられるものを中心に撮っていましたら、これはエトルスクの壁画という岩波で出した本なのですけれど、この時は細かいデータの調べはドイツ人がやりまして、日本からは今の東大の副学長の青柳先生が出て、それから私がイタリアで写真を撮るという、日独伊で作ったようなものですけれど、ドイツ人はこういうのを見せますと、なんでこんなものを撮るのだ、と言うのですね。もっと全体を撮らなければダメではないかっていうようなことをよく言うのですけれど、僕はこれ、敦煌の壁画みたいな感じで撮ったのですけれど。そういう所はなかなか意見が合いません。(写真5)
これはCERVETERIです。TARQUINIAは全部下にもぐってお墓ができるのですけれど、このCERVETERIはこのドームの下、ここにあります、並んでいます、こういうのが全部そうです。この下に柩があって納められていたものです。で、最も有名なのが、”浮き彫りの墓”(写真6)というもので、ここに当時の生活用具、そういうものが全部浮き彫りされています。例えばここに枕があります。ここに草履があります、ここに杖があります。恐らく飼っていた番犬なのでしょうかね、そういうものがいる。それからここは盾ですね、これカブト、これ冑、ですから、武将だったのでしょうね。そういう人のお墓がこういうところにあるということで、このCERVETERIは有名です。そこをローレンスが訪ねて書きました。それでその中に3人の日本人に会ったという描写が出てきます。私は大変気になりまして、この日本人はどなた、誰であろうかということを調べました。やっとわかりました。こういう方でした。これはですね、ここの年号が大正12年8月です、それから昭和11年5月まで、山口県の防府の塩の研究所の所長さんをしていた方です。この方だという確信はですね、ローレンスが書いたのは、日本の年号でいいますと昭和2年、1927年に書いています。この方がその前後1年以上の出張をなさってイタリアに行かれたことも、その出張の報告書にあります。ただこの久保田さんの報告書にはローレンスに会ったということは書いていなかったのですけれど、で、間違いなくこの方であろうということで、私はこの方をその時ローレンスに会った日本人の代表ということを思っております。ローレンスも日本から来た人たちは政府のお金で来て塩の研究をしていると書いています。ですから間違いなくこの方です。この方がその場長の時に渡って、TARQUINIAの海岸のところで、当時塩、確かにあそこで作っていましたから、その勉強をなさったのだろうと思います。これは今でも専売局の塩を扱っていた組織の当時の文献が全部残されていますので、それを拝見すると、この方のやったことがよくわかりまして、ともかく1年間塩を訪ねて本当にすごいですね。船に乗ってあらゆるところで塩を汲んで、そこで塩の含有量を計ったり、いろいろなことをして、ヨーロッパへ往復なさっているという、今の我々の旅行などは申し訳ないと思うくらいダメなものだと思いました。もしTARQUINIAの本を読まれたら、そこに出てくる日本の方はこの方だというイメージを持ってお読みになってください。
いよいよ話がVATICANに移ります。これはある年の新年の日だったと思います。ここに法皇様が出ています。当時はこういうように大勢集まります、新年の寒い時ですけれど。私がこれからお話するシスティーナの礼拝堂というのが、ここに少し見えます。ここの屋根に煙突がありまして、この煙突から教皇様が決まると白い煙、決まらないと黒い煙、コンクラーベの間中、その煙がたかれるというので、非常に有名なのですけれど。私は最初の1980年に撮影したシスティーナの申請をした時に教皇様が2人亡くなられて、今のジョヴァンニ・パオロ2世になって初めて、この仕事ができたのですけれど、このシスティーナというのは教皇選挙をやる為に閉じてしまいますので、とても撮影どころではない、外部の人も一切入れないようになっていますので、そのために私はずっと許可もなかなかOKが出ないし、撮影もいつ始まるかわからないという状態でいました。やっと、結局1980年の2月からおよそ半年くらいかかってこの中で撮影をしたのですが、それが、最初のシスティーナの本格的な撮影でした。結局システィーナはここに当たります。
今ROMAに行かれますと、このSAN PIETROの正面は全部覆われています。というのは、今年の12月25日から聖なる年が始まりますので、それに向けてここをきれいにしようということで洗浄が始まっています。この回廊も洗浄が始まって、今ここら辺ですごい勢いでやっていました、この間1月に行ってみましたら。聖なる扉というのは、ここにある扉がそうなのです。ここが開くことになります。これは、SAN PIETROの例の大きな天蓋の下の左側にある彫刻ですけれど(写真7)、これはサンタ・ヴェロニカです。キリストの顔を自分が掛けていたショールでぬぐったら、そのショールにキリストの顔が写ったという伝説があります。これは十字架の道行きの中にもヴェロニカが顔を拭うというくだりがありますけれど、その時結果がこういうことになった、ということなのです。ということは、私にとっては世界初の映像です。写ったのですから、ここに。ですからサンタ・ヴェロニカというのは我々写真家の守護聖人です。
日本では守護聖人という言葉をなかなか使いませんけれど、ヨーロッパの人たち、特にフランス人、イタリア人というのは、しきりにそういうことを言いますので、「俺たちのパトロンはサンタ・ヴェロニカだよ」ということをよく言います。で、私も確かにこの映像から見たら最初の映像製作者ですから、間違いなくヴェロニカだと思います。これはVATICANにあるヴェロニカの絵です。彫刻の方が何かリアルな感じがします。これやはりヴェロニカの布に顔が写ったということを、こういう絵にして残されています。たしか東京の西洋美術館にも1点ヴェロニカの絵はあると思います。これは、ついでに申し上げますけれど、これはサンタ・ルチアです。サンタ・ルチアって、歌の文句ではなくて、聖女ルチアということなのですけれど、彼女は12月13日ですから、彼女は私のパトロンなのです。大変におもしろかったのは、ルチアというのは、イタリア語でいいますと、要するにLUCEですね、光のことです。彼女は必ず自分の目をくりぬいてお皿の上にのっけているという、あまり良い趣味ではないと思うのですけれど、そういうところがあります。目をくりぬいた理由が凄いのですね、私が美人で多くの男が私を振り返るから、私はそれを避けたいと思って目をくりぬいたという、大変誇り高き女性ですね。彼女は光の神様でもあるわけです。私たち写真も光がなければ撮れませんので、全く私にとっては良いパトロンだと思います。皆さんも何か西洋のダイアリーを見ますと自分の生まれた日に必ずその聖人の名前が書いてあります。あれを見ると自分のパトロンがカソリックでは誰であるかということがわかると思います。お暇なときにやってみて下さい。ちなみにこの絵は、これはUFFIZIにあります。これが今そのアップです。この下に、これ目ん玉があるのです。でも上にもありますから、何かおかしな話です。
再びシスティーナに戻ります。これがシスティーナの外観です。これが中の建てているところ、これが昔の銅版画にあるシスティーナの状態です。つまり、ここの上にはまだミケランジェロは描いておりません、ここも。ここはイタリアの15世紀の人たちの絵が描かれていて、ここにそれぞれの代々の教皇の絵が描かれているというところだったのですね。天井はこんな具合に星が描かれていたというのをコンピューター・グラフィックみたいなものでおこしますと、こういう感じになります。これが入口の方を振り返ったシスティーナです。かなり汚れが目立ちます、こういうところに。汚いところ、部分が随分あります。私は結局通算15年くらいこの中で、ここと関わっていろいろなことをしてきました。主に洗浄する前を全部これを撮りました。それで、これは講談社からインターナショナルの本として出しました。
さきほど申し上げたように、25kgある本です。値段もキロいくらではありませんけれど、日本で出したとき78万円という値段でした。競争相手の小学館が’なんと80万’というタイトルでこの本を紹介したくらいですから、それで非常に有名になりました。ただし日本語版は200部です。英語版が全世界に向けて400部作りました。400部作って、これ大体5,000ドル前後でアメリカあたりでは売りました。そうしましたら、これはAPが出した記事だったのですけれど、あるアメリカの貧しい村の図書館がどうしてもこの本が手に入れたいというので、皆から寄付金を募るというキャンペーンを起こしました。やっとその5,000ドルのお金を集めてこの本を購入したというのが、アメリカで記事になっておりました。大変何か申し訳なかったような気がしますけれど、でも、それに値するような本だと思います。特に今になってみますと、洗う前の映像というのはもうありませんので、とても貴重な本になっていると思います。ですから、その本を出した後で、VATICANで仕事をしていたときにも、「私はドイツの図書館の館長なのだけれども、あのシスティーナの本を作ったのはあなたですか?」と、声をかけられたこともあります。重いのと高いので有名になったのかもしれませんけれど。でも、亡くなったケネス・クラークは、ミケランジェロのヴェールをはいだのは岡村だ、ということをあるところで書いてくれましたので、私も満足いたしました。
その時私がテーマにしましたのは、ミケランジェロが描く位置、筆を出す位置に私が立ってカメラを構えると、そういう所で撮るということで、撮りました。もちろん、こういう写真は離れて撮りますけれど、ディテールは全部ここにやぐらを組みまして、仕事を続けました。1日、6時間かかって1カット撮れるか、2カット撮れるか、そんなような状態で進行していきました。これが洗う前です。細かいディテールは別にしまして、これくらい違うのです。こういうことをお話しても誰も信じてくれません。
ここで皆さんにお教えしたいのが、ここに細いテラスがあります。(写真8)これはゲーテのイタリア紀行を読みますと、システィーナに2度目に行ったときにゲーテが、ここに乗せてもらってとっても嬉しかったと、ここに距離が近くなって、大体10m近くなりますから、それでよく天井が見られて、私は本当に幸せだったというようなことをイタリア紀行の中に書いております。ゲーテはこのシスティーナの絵を、というか、ミケランジェロの仕事を本当に礼賛しておりました。これを見るまでは人間がどんな大きな仕事をできるかわからないのだぞ、というようなことも彼は言っています。
これ一種の、天井画は騙し絵でしてね、こうして見ますと、こういう部分は出っ張っているように見えていますけれど、これ全然出っ張っていません(写真9A)。やはりフラットです。これはデルファイの巫女ですが、私はこれを見てびっくりしましたのは、ここの手、ここの手、この手と同じなのです。ダビデの手が、ここでそのまま再現していますね(写真9B,9C,9D)。あるいはミケランジェロの手抜きかもしれませんけれど。これだけの人間を描く、あるいはポーズを取る為に、もうほとんどこれと同じものを描く、これと同じようにやっています。これは私も何回か撮りましたけれど、私はこのツムジの位置まで知っています。これくらいまで足場を組んで撮ったことがありますので。
これがいよいよ私が仕事をしているところのものですけれど、例えばこれはもうあちらこちら洗っています。例えば、これ、ヨナ、ヨナは洗った後ですかね。ここに黒い所がありますけれど、これが元の色です。それくらい違うのです。こういうようにして足場を組んでやります。1番高いときは18m組みます。ですから日本のビルでいいますと、約6階建てくらいですかね、その上に立って仕事をします。ただし、長いシャッターは上で切れませんので、これ揺れますので、シャッターを切る度に私は下へ降ります。ですから3枚撮るとしたら、3回上り下りをして、セッティングして下で揺れを止まるのを待ってシャッターを切ります。いくら上で一生懸命やっても、揺れているやぐらではボケの写真しかできませんので。10分くらい待つこともあります。こういう所です。ですから、ここまで近づきます。もうこの上はこのときで16mくらいあると思います(写真10)。少し隅に寄っていますので、18m立てるとあたってしまうので、1段落としていると思います。
この隅の撮影のときは少しラクでした。というのは、床まで降りずに、先程申し上げた、その10mのところにあるテラスというのはこれなのです。ここへこちらから移って、そこでシャッター切れば少し時間が稼げるということで、こういうところでやっていました。これも真ん中辺に立って、これはかなり高い、18mに近いところです。ここに床からずっと上がって行きますと、この辺から縄が4本渡されて、このやぐらが倒れないようになっています。私の安全ではなくて、絵の安全の為にやった紐ですけれど。私がそもそもVATICANで割合皆さんの中に話題になったのは、最初に『大系世界の美術』のときのイタリア16世紀の卷でここに、システィーナに行きました。
撮影するときに現場から足場を組む人たちが出てきて、どんどん組み始めていって、適当な所で「あなた登ってみて、高さを決めてくれ」と言われたことがあります。その時は上に手すりがなかったのです。何もなくて板が1枚上がっているだけだったのです。そこに私が立って上を見て、もう1段積んでくれ、というようなことを言いました。そしたら下にいた美術館の人達が「何故怖くないのだ?」ということを言うのです。私には言いませんでしたよ。一緒に来た人達ひに言って、その一緒に来た人が、「あれはアルプスに登っていたから全然平気なんだよ」というようなことを言って、何か高くても全然平気な、やぐらが平気な変なgiapponeseが来たぞ、というので一躍VATICAN美術館の中で有名になって、ずっとそれで得しました。これがじっとしていないから困るのです。揺れますから。それと、これを移動してみますと、いかにシスティーナ礼拝堂の床がうねっているのか、よくわかります。これが傾き始めたら、なかなか元に戻りません。下に16ヶ所くらい、確か足があるのですけれど、その足を出したり引っ込めたりしながら、なるたけレベルを保とうとするのですけれど、なかなかだめです。上が狭いですから、1m50平方くらいしかないようなところですから、カメラを移動して物の下に入るということはできなくて、やぐらを移動するということを考えますので(写真11)。10cm移動するにも1時間くらいかかるというのもあります。
同じようなカットですけれど。それで今度、これはもう洗い終わったところの部分なのですけれど、ここに今はありませんけれどレールがあります。これは左右、こちら側にもあります。ここに穴があいていて鉄の杭がうまっています。これはミケランジェロがあけた穴なんだそうです。ミケランジェロもここへ丸太を入れて、こういうものを置いて、それで天井画を描いたといいます。反対側もこうなっています。ちょうどこれがこのルネッタの下のところにあるわけですね。ここの壁、絵も描かれていなくてボロボロのところがあったりしますので、きちんとこれが見つかったのだと思います。これが、それをやっている最中ですね。左右にこういう橋をかけてしまいます(写真12)。このベニヤの中側でも板が貼ってあってそこで修復の、洗浄の人たちが作業をしたわけです。日本テレビの映像撮影もそこでやりました。ここなどもわかります。ここが洗った部分、こちらは洗っていないところです。これだけ違います。これが近づいてみると、こうなるわけです。もう手を伸ばせば頭に触れます。
これから少し洗浄前と洗浄したらどうなるかということを少しずつお話します。これは最初の、神様が生まれるところです(写真13)。その神様の顔がこうなります。これが、こうなるわけですから、かなり違います。全体ではこうなります。これは違うところの、これは『月と太陽を生む』という場面だと思いますけれど、そこの神様の顔です。ここでよくわかりますのは、ミケランジェロの技法がよくわかります。ここにへこんでいる部分があります。ここにもあります。これは、下絵をここに貼って、漆喰を塗りましてまず、それから下絵を貼って、その下絵の上、線のところをへらでこすった跡です。これが輪郭線になります。それからもう1つの方法は、この下絵に穴をあけます。点々と、要するに、ステッチをかけるように穴をあけて紙の上からカーボンを入れますと、そこに点が残りますので、それを輪郭線にして描く、という方法で描いています。それがこうなってしまいます。ですからむしろ、洗う前の方がよくわかったような所もあります。ですからあるアメリカの人が書いた本にミケランジェロはどこかへいってしまった、みたいな書き方をした人がいますけれど、そうとられても仕方がないというところもあります。これは、私にとって非常におもしろい体験は、この神様がこのようにいます、それでこれは神が去っていくところです。同じ神様です。これは、要するに右から左へ、神様が移動するところですけれど、ものすごいスピードで神が去っていくということを私たちは感じられます。このとき私はミケランジェロの持っている宇宙観みたいなものを本当に感じました。凄まじいものを持っているな、と思って。
幸い私の友人がハレー彗星のときヨーロッパ・ジョット号という観測衛星を発信しました。そのジョット号に関わっていた天文学者が私の友人、イタリア人におりまして、彼にこのことを聞いて、「ミケランジェロは宇宙をどう感じていたか、あなたはまじめに答えてくれよ」ということをある時彼に話しましたら、彼が「それは奇跡と思った方がいいよ」ということを言いました。やはり似たようなことを言うのだなと思って、私もそういうように感じました。とても天才でなければ、あるいは奇蹟でなければ、これだけの感覚はつかめないのだろうと思います。
あと100枚くらいありますので、急いでやります。これはご存知のように『楽園追放』の場面です(写真17)。ここでイヴの顔をご覧になってください。これが古いときのイヴです。私がおもしろいな、と思いましたのは、ここに三角に白いところがあります、これはこのシスティーナの天井画を保存するためにある時期にニスを塗りました。透明のニスだったために、大きな箒のようなもので塗っていったのでしょう、ですからどこを塗ったか、塗り忘れたかという判断がつかなくて、ここは塗り残したところなのですね。後世そのニスが変化を起こして黒くなってしまったのです。ところが、ニスのかかっていない部分がむしろ、肌色を残してこういう風に残っていたのですね。今はそのニスをすっかりおとして、こういう顔に出来上がっております。信じられないくらいに新しく甦ります。ここなどもはっきりヘラの跡があります。強烈に残っています。ここにはお持ちしなかったのですけれど、先程申し上げた、点線でカーボンをくっつけるという下絵の取り方と、このヘラとを比べますと、ヘラの方が線が生きているように私には感じました。でもやはり、その場で描く線ですから、下絵からはみ出ている部分も随分あると思います。ですからそういう意味ではこのヘラの線が生きていると考えていいと思います。こういうように変わります。ここの点線などはそのカーボンの点線だろうと思います。ここにも残っています。それからよく見ますと、例えばここに穴があります。これはこの顔の下絵を打ち付けた釘の跡です。これは天井を向いて、こういうところにあるものですから、落ちてしまいますから、『最後の審判』と違って。ですから釘で留めないとだめなので、至る所にこういう穴があります。このシスティーナの釘の穴という論文を書かれた人もいるくらい、いっぱいあるわけですから。
いよいよ修復の話になります。1980年に私が全部くまなく撮りました。それでその後VATICANで、簡単に申し上げますと、1980年の壁の状態というのは全て岡村によって撮られたから、これを洗ってしまおう、という議論が起きてきました。それでこの洗う作業を始めました。これは印刷物から撮ったので、粒子が荒れていますけれど、だんだんにこういうようにきれいになっていくのです。ここまでいってしまうのです。ですから、古い状態を知った方がいきなり全部洗われたシスティーナへ行ったら、何かしらけてしまう感じがするかもしれません。洗いすぎではないかなと思ったりするかもしれません。ただここまで近づいて撮っていますと、洗う前と洗った後というのは、そんなに差がないのですけれど。部分によってはこれくらいの差でおさまっているところもあります。ただ、こういう亀裂が激しいですからなかなか大変です、洗うのも。ただこの亀裂が私には大変助かりました。8インチ10インチくらいのカメラ、フィルムで、これを撮るわけですけれど、これだけ割れていますと、カメラを操作しながらここのフォーカスとここのフォーカス、ここのフォーカスと割れ目を頼りに撮ることができるのですね。ここではフォーカスとれません、もう。今のインスタントカメラと同じで、ここでやろうとしても、私でもいくらルーペを覗いても見えませんので。こういうところが割れているので大変ここは楽をしました。 私にとって撮りにくい絵というのはターナーの絵です。あれはだめです。ロンドン・ナショナルギャラリーで泣きました。
これも神様です。それがこうなってしまうのです。私が最も好きな”リヴィアの巫女”の顔ですね(写真14)。これは一時期、八重洲のブックセンターの入った正面に原寸で、私おかせていただいたことありますけれど、今はありません。この巫女、預言者についてお話しますと、これは1番祭壇に近いほうです、向こうへいきますと、例えば”デルフォイの巫女”などがあるわけです。こちら側から描いていったと思います、ミケランジェロは。最初の方の巫女・預言者というのは、割合小さく描かれています。きちっとはめられたように描かれていて、こちらへくるに従ってだんだんはみ出していきます。そのつじつまをどうとったのかと思いますと、ここの台の下に今度はこのそれぞれ巫女・預言者の名前を持ったプットーが立っています。プットーが台の上に立っています(写真15A,15B)。そのサイズをごまかすことで彼はつじつまを合わせてこれをどんどん大きくしていって有効に描いていると思います。これなども先程申し上げたニスの塗り残しの部分ですね。これは1番奥にある”ヨナ”です。こうなってしまいます。ここだとよくわかります。これが元の色です。これは鉄の杭ですから、これは別ですけれど。ここが元のままです。これくらい黒いのです。これは再び神様ですね。これもヘラの跡がきちっと残っています。これは手だけのアップで、これは実際この手は落ちたのですね、一度。これは横のルネッタの部分です。この女性はこういうようになりました。これが問題になったのは、これだと乳房が見えなかったのが、洗ったらでてきたよという、ここに出てきています。そういうことで大変に感動する方がいますけれど、僕はむしろこの色に感動しました。ミケランジェロの色を受け継いだのはポントルモであるということがいわれていますけれども、ポントルモの色というのは、確かにこういう色なのです。ミケランジェロと同じような色を使ったのかと思いますけれど、洗ってみると確かに、素晴らしい色を彼は使っています。
これなども、目の部分がどうもちょっと難しい修復だろうと思います。ここは亀裂を埋めていますので、そのために少し変わっているのではないですかね。どちらかというと、日本人というのは古びたものを好みますので、だから洗ったものがいやになってくるのかもしれません。ここは特別にお話したいと思うのは、これは例の巫女・預言者の左右にこういうプットーが立っています。これを私がこちら側を撮影して、反対側を撮影して、ネガをフィルムを合わせてみましたら、まったくミケランジェロはこれを表に、向こうへ持っていって描いていました。そういうことがわかりました(写真16A,16B)。このときの修復の学者のマンチネッリに「ミケランジェロ、手抜きをしているぜ」と言ったら、「ん~、どうして?」というから「こうだよ」と、そのフィルムを見せたのです。ピッタリ一致するのです。ですから間違いなく下絵を逆に描いたのだと思います。ここにプットーが立っているのですね。これが『デルフォイの巫女』の洗う前です。洗ったらこうなるわけですから。この辺も預言者です。
いよいよ、もう時間もありませんので、『最後の審判』の方に移ります。これが『最後の審判』の洗う前の状況です。ここは随分、VATICANも気を遣ったと思います。というのは、晩年に彼が描いていますので、完全にフレスコで描いているかどうかも疑問な部分があったりしました。それから画面のところは、例えばミケランジェロが全く描いていなかったものを後で埋めています。そういう問題もありまして、割合慎重にやりました。
これは1番上の部分です。私が1980年に撮影したときのすぐ後に、芸術新潮がここのところを表紙にして私のことやミケランジェロの話を書きましたけれど。これが洗う前です。こうなってしまうのですね。本来このルネッタは、この下に別の絵があったのですね、ミケランジェロが描いた。それをこの『最後の審判』を描くので、ここのルネッタの部分は前にあった絵を取ってしまって、ここの画面をのせていると思います。これが隣りのルネッタです。こういうように、目の覚めるような青空になっていく、変わるわけですね。これは日本テレビが取材中のところを私が撮ったのです。このときは、本来はこの足場があって、この下にもう1つ足場があって、その中間にこのキリストを洗うために1つの中間の足場を作って、それで始めました。結局この洗浄作業は1番最後、ここをやったのですね。洗浄作業をするレスタウラトーレが3人おりましたけれど、彼がチーフなのですけれど、彼はやはりきちんと、顔はいつも彼が洗うのです。その下の人は胴体を洗うとか、その下は足を洗うとか、いろいろ分かれておりました。これは1番下のところです。ここなど私何か、最初から気になっていたのは、ここ、白いところがあるのですね。色がとれてしまっているところ、これ、洗浄前ですから。試しにやってみたら、白くなってしまったので、びっくりしてやめたのだというような話があったくらいですから。これを今後こう処理するのか、非常に気になっていました。でも見事に甦ってきたのですけれど。
これはその横の部分です。これも洞窟の中がこういう状態でわけわからなかったのですけれど、こうしますとよくわかります。特にここにいる地獄の鬼などもよく出てきます。こうなるわけですから。はっきりわかります。ここなどは、1番下にある、石の下にあるのですかね、墓石を、墓のふたを持ち上げようとしているのですかね、これがこうなるわけですから。ここではおわかりだと思います、これが元の色です。これだけ違うわけですから。確かによく見えるようになったことは間違いございません。でも、何かその、迷宮から天国へ上げられていくという感じが、むしろ薄れているような気もします、きれいすぎて。これは一連のあの、マリアの着衣などを洗っている状態、そこのところをいろいろ取材してみたところですね。最初、洗浄液というものを塗ります。科学的にはいろいろいわれていますけれど、私は細かいことを知りません。それを塗りまして、それから、ここに紙が貼ってあります。これは日本の紙です。これを貼ります。それで確かね、インスタントラーメンではないですけれど、3分待つのです、確か。それでストップ・ウォッチできちんと正確に測っていましてね、「はい、時間ですよ」というと、この紙を剥ぐのです。それでこの紙にある程度染み込んでいた洗浄液が下の壁に、また定着します。それをスポンジ、これはスポンジで、その洗浄液を、紙を置いて塗っているところですね。ですから日本の紙もこうしてお役に立っているのです。ここまで近づきますと、本当にやはりすごい迫力というか、じつに見事なものを感じます。ただこの足はちょっと洗いすぎだと思います。特に白く見えます。こうしますとだんだん色が甦ってくる段階がよくわかります。一度にきれいにしてしまうのではないですから。何回かやっていきますから、色の差がかなり出てきます。これは1番下に戻ります。これはいうなれば『地獄編』のところです。これが洗い終わると、こういうようになります。
ここが、普段ですと皆さん、入ってくる入口です。ここが祭壇です。この祭壇のロウソク立ては、今撤去しているからありませんけれど、普段はここにロウソクと十字架が立っています。洗い終わって初めてこの辺の顔がよく見えるようになりました。例えばこの影なんか、見えなかったのです。くどいようですけれど、これが洗う前です。この色でず~っと、あったわけですから。ここで、今度いらっしゃったらご覧になるといいと思いますけれど、ここに横の壁があります。ここの出っ張りの出方が違います。この『最後の審判』はいうなれば手前へ傾いています、天井の部分から。実測してみましたら、25cm離れていました、ここで。そうするとほこりがつかないですね。その代わり、下で焚いたロウソクの煤はついたのでしょうけれど。ほこりは確かにそれで免れていたと思います。
これが問題の教皇庁の儀典長ダ・チェゼーナをモデルにしたミノス王です。ミケランジェロを非難したために地獄に落とされて急所を蛇にかまれるという風に描かれてしまった問題の絵です(写真18)。得いった?人がこういう風に描かれてしまったという、非常に話題性を持った人です。こういうようにして出来上がりました。これが横の壁に描かれている、これはシスト4世ですか、その紋章ですね、ここに、一種の騙し絵があるのです。これは、模様は全部連続模様で描かれています。ただ陰影のつけ方によって、ここに皴がよっているように見せています。ですから、よく見ますと、模様に歪みがなくて、陰影だけでカーテンがたるんでいるように描かれています(写真19)。
そこで、騙し絵のお話をちょっとしますと、例えばこれはパラッツォ・バルベリーニの大広間にある天井画です。ピエトロ・ダ・コルトーナですが、これ、天井がこういうように大きくふくらんでいるわけではないのです。フラットなのです、ほとんど。でも、描き様によって、こういうように見えます。最も激しいのは、サン・イグナツィオの天井画です。有名な騙し絵として、我々よく騙されます。これは1度上から降ろして修復したことがあります。そのとき実測しますと、確かこことここ、25cmしかありません、差は。それくらい奥にずーっと高いように騙し絵で描いています。
これは真ん中のさきほどから何回か出てきたキリストとマリアの洗浄前の写真です。私が1980年にそういう本を出しまして、日本語が200部しかなかったので、大勢の方に見ていただこうと思って、その撮った写真に基づいて、大きな、かなり原寸大にした写真の展覧会をやりました。池袋の西武の美術館から始めて、全国九州から北海道まで、ずっとあちこちで点々としてやることができました。その時一番驚いたのは、旭川でやったとき、ここに、キリストに聖痕があるのですけれど、-釘に打たれた跡-、ここから光が出ましてね、会場で、本当に光が出たのですね。それで、北海道の新聞はそれを書きました。朝日が、これが解明できなかったら全国版に記事にする、といって騒いだのですけれど、結局光の反射で、あちこちから反射してきた光が、ここで元へ戻ってこう出ていったらしいのです。私はその現場へ行っていませんけれど。返事としては、「おへそから出なくて良かったね」と、言ったのですけれど。そういうこともありました。奇蹟が起きたのかという、騒ぎになりました、一時。
これも洗い終わるとこういう聖痕がはっきり出てきます。これがその反射した元です。ここなどもいろいろ議論があるのでしょうね。線が2本あります。どちらが本当であるか、洗い終わってもそのままになっていると思います。ここにきちんと2本残っています。キリストは確かに、洗われてから若返りましたね(写真20)。非常に好青年になって、我々の印象の”頬がこけた”というのではなくて、大変美男子でおわすという、何か仏様みたいになって。その下にはこういうものがあります、有名なミケランジェロの自画像だといわれている。
この聖人は今でもヨーロッパでは革製品の守護聖人・パトロンです。きちんとこれ、皮ですからね。一枚皮ですから。人間の皮は、どこもつないでないですから。この辺が問題になった「覆い」の一件なのですけれどね、私は一度全部取ってみて、もう一度描き加えればいいのではないか、と言ったのですけれど、なかなかそうはいかなくて、割合ここを避けてやっていましたね。
これなども男性だと思ったのが洗ってみたら女性だったというそうです。これが日本テレビの取材陣です。ですから、ここでもおわかりになるように、ここに立ってここを見ますと、これアダムの顔ですけれど、顔しか見えません、この下に立ちますと(写真21)。だから彼はどうやって胴体のバランスを考えたのかなと思いましたね。こういう状態で見えるわけですから。これはたまたま天皇皇后が見えられて、この現場に来られたときです。この時は私は3日間連続でお目にかかりましてね、ここでお目にかかったら、「あっ、今日もあなたか!」と言われましたよ。この方が、この修復の最高責任者だった方です。修復が終わって、大々的に発表した、大きなパーティをやったそのすぐ後、亡くなられました。そのパーティの終わったときに、「さあ、今度はお前だよ!」と、僕に言ったのですね。というのは、それが終わってからでないと、私が全部の撮影できなかったものですから。色の調子を見てからやろうということになって。それで再びシスティーナに十字架が戻って、ロウソクも戻って、こういう状態になりました。
これが、最後になりますけれど、私が再びROMAで興奮した時の新聞の記事です。これが、私が最初作った、その78万円、英語版で5,000ドルの本なのです。それをパーパがポーランドのヤルゼルスキーに見せて、お互いポーランド語で語って、ここからヨーロッパの解放が始まったわけです。そこにこの本が置かれていたということは、私にとってはもう、本当に鳥肌が立つような興奮でしたね。これ、テレビのニュースで見ましてね、カラーですからこの箱の色も何も、全部見えたわけで、間違いなくあの本だと思って、確かに教皇様に1冊差し上げてありましたので、それをここに持ち出してきて。このとき修復の作業はずっとやっていたのですけれど、そうでなくて昔のものを、こうしてヤルゼルスキーに説明している、という場面だったのですね。何か世界が変わる瞬間に私がやった本がここにおかれていた、ということは、幸せというか、驚きだったですね。
これは、現在、徳島に大塚陶業の美術館がありまして、陶版で焼いたシスティーナが原寸で飾られております。写真は私の写真を使ってやったわけですから。こういうようになっております。何でしたら、ぜひご覧になって下さい。入場料あんまり安くないのですけれどね。
これは本当に私事です。これが私がシスティーナで最後のシャッターを切るところです。これで私は、終わりました。この後シャンペン飲んだのですけれどね、皆で。私はこういう時が来るというのはわかっておりましたから、このときどんな気持ちになるだろうと思ったら、あんまり感傷的にはならなかったですね。そういうことで私のお話は終わります。
司会:どうもありがとうございました。それでは質問を受けたいと思います。どなたかありますか?
質問者:私、残念ながら25kgの本は持っていませんけれど、西武の展覧会は見せていただきました。私は素晴らしい修復だと思うのですが、岡村さんは古い方の壁画も撮られて、そちらにも愛着があると思いますけれども、この修復が終わって、率直なご感想といいますか、その出来上がりといいますか、それについて岡村さんの率直なご感想を、ちょっとお伺いしたいと思うのですけれど。
岡村氏:洗浄作業が始まってしばらく経ってから、いろいろな方から問い合わせが私の所にありました。中にはアメリカ人のジャーナリストが「私は反対意見の論文を書きたいと思うけれども、あなたはどう思っているのだ?」というようなことを言ってきました。人によっては洗いすぎだということもありますし、私にとっては、500年経った、そのホコリ、あるいはスス、というのは、やはり歴史だと思うのですね。それを取ってしまうということは、私はあまり賛成ではありません。ただ、洗っている方たちは本当におもしろかったろうと思います。1拭い1拭い、きれいになっていくわけですからね。こうやっている最中に「おい、ミケランジェロの指紋が出てきたぞ。掌の跡が出てきたぞ」というようなことがあります。穂先が出てきます。彼が打ちそこねたクギの跡が出てきたり、そういうことがあるので非常におもしろかったろうと思いますけれど、全体に見ますと、私はむしろ、前のままで良かったと思っているほうです。ただ鑑賞ということ、あるいははっきりミケランジェロの描かれたものを見るということにおいては、床から見るのでは洗った方がすぐれていたかもしれません。その辺、非常に疑問なのですけれどね。ただ私はある人には申し上げたのですけれど、洗っても洗わなくてもミケランジェロだよ、という返事をしたことがあります。これはもうどうしようもないことですからね。ただもう、地球というのは、永久に残るわけではありませんので、いつかはなくなるわけですから、それまでどうやって持ちこたえるのか、あと10年で地球がなくなるという時に修復を始めるのかどうか、そういうところもわかりませんので、私にとっては”洗っても洗わなくてもミケランジェロ”、どちらかというと、前のときの状態の方が私はインパクトが強かった。というのは、前の状態を、例えばゲーテが見ているわけです。そういうことにおいて、今の洗った状態ではゲーテは見ていないですからね、ゲーテがどう感じたか、我々にはわかりません。そういう意味で私はむしろ、幸せ者だと思います。古い状態を知っていて、新しい状態も知っているわけですから。今までご覧になれなくて、例えば明日システィーナへ入られたら、洗ったあとしか見られないわけですから。そういうことで私は本当に幸せな人間だと思っています。
ですから、どちらかというと、前の方が好きです。というのは、前の撮影をしている時に、私は感じだけだったのですけれど、ミケランジェロに会っているのです、足場の上で。18mの足場の上に立っている、カメラを構えています、そうすると、周りは真暗です、上だけライトがついていますから。足場のうしろにミケランジェロが立って、お前何やってんだ、というようなことを僕に問いかけたような印象がありまして、僕は思わず振り返ったのです、足場の上で。横にいたアシスタントが「何があったのですか?」と言うから、「今、ミケランジェロがうしろへ来たぜ」と言ったら、「そうですか」と言って、彼は黙っていましたけれど。彼にとってはその揺れる足場の方に恐怖があったものですから、あんまりミケランジェロだっていうのはわからなかったのかもしれません。でも私にとってはミケランジェロがうしろに立ったということは、ミケランジェロが寝転んで描いているとき、上から漆喰は落ちる、顔料は落ちる、目に入ってくるのを拭いながら、あるいはヒゲにたまった漆喰をハンマーでたたき割ってやりながら描いていた、それと同じ姿勢で私は撮っているわけですから、いうなれば、ミケランジェロの追体験をしているようなものですから、あるいはミケランジェロが何か物好きで出てきたのかもしれません。私には「何してるのだ」といわれたように感じられました。結局、私はミケランジェロと出会った後すごく仕事が楽になりました。その前までは本当に重たい気持ちで家を出ていきます。家を出ていっても、システィーナまで距離は5kmしかありませんので、10分足らずで着いてしまいます。心の整理ができないままにシスティーナの、誰もいないシスティーナに入るわけですね。そして、ミケランジェロと格闘するわけです、私が。そういう意味で大変重い気持ちでいたのが、彼がうしろに現れてから軽い気持ちでどんどん仕事を進めていく、精神的にはすごくラクになりました。
システィーナに関わっていたために、例えばいろいろな有名な方に私はお目にかかることができまして、そういう意味でも大変幸せだと思います。現在も講演してミケランジェロに食べさせていただいているわけですから。本当に僕は幸せな人生を過ごしたと思っています。
質問者:洗うことの1番大きな決め手になったのは何なのですか?宗教的な、イタリアには、洗う伝統というものがあるのですか?
岡村氏:よくわかりません。あるとは思いませんけれど。ただフレスコに関しては非常に高い技術を持っていますね、イタリアは。例えば、高松塚が出たときにはイタリアからTARQUINIAのメンバーが来て、あそこの修復のことを関わったのですから。イタリアの教会などに行きますと、教会にフレスコが描かれています。その隣にこれが下絵だよ、というのが出ています。ということは、下絵の上を剥がしてこちらへ転写しているわけですね(写真22A,22B)。そういう技術を彼らは持っているわけですから。フレスコを触るということを何の抵抗もなく、触れるのだろうと思います。ですから汚れたら洗おうや、ということはあったろうと思います。ミケランジェロに関しては修復ということより洗浄が主だったろうと思います。洗浄でしたらミケランジェロを変えるわけではないから、ということだったのでしょうね。例の研究者、あるいは専門家たちはよくいうのですけれど、「これがミケランジェロが描いた色だよ」と言うけれど、「冗談言うな。500年前、誰がわかるんだよ」と、僕はよく言っていたのですけれどね。ただし、ああいうものを大事にしようということはあります。ここで申し上げていいかどうかわかりませんけれど、それに対して日本テレビがどうして300万ドルも出したか、それは僕よくわかりません。VATICANも非常に計算高いところですから、きちっとお金が集まってからやろうという、人のお金でやろうとしていますから。
これから、今年の12月25日から、アンノ・サントが始まりますけれどVATICANはやはりかなりお金の計算をしているのでしょう。アンノ・サントを半年延ばそうという説が今出ていますから。半年延ばしたときの経済効果も考えているかもしれません。システィーナが完成した時にVATICAN美術館がやったことは、アメリカあたりからVATICAN美術館の中で食事をして洗い終わったシスティーナを見学するというツアーを、積極的に呼びました。私はその被害者になりましてね、仕事のためにシスティーナへ入ります。そこへ見学団が来るわけですね。もういっぱいvinoを飲んで、酔っ払ってくるのもいますから、それが30分も1時間もそこにいます。その間僕は仕事できませんので。ボーッと立っていると、中にアメリカ人が「あんたは何故ここにいるの?」というから、「おれは、これを撮っているんだよ」と言ったら、「あっ、では、あんたを撮らせてね」と、今度、僕にカメラを向けるような旅行者がいたりしましてね。だからそのとき、VATICANのいろいろな人たちが、ここには神様がいなくなってお金がいるようになってしまちゃったね、というようなことを言った人もおります。
今もさらに例えばstanza Raffaelloも修復をしています。現在例えばシスティーナは出来上がった時のシスティーナより色は落ち着いています。今年の1月半ば、私、行ってみたのですけれど、発表されたときよりずっと落ち着いた色になっていますね。あそこの堂守と話していたら、彼はこうやりましてね、「ほら、ホコリがあるんだよ。これがもう絵にもついているんだよ」ということを彼言っていました。ホコリを取っただけで顔料は取れていないということをしきりにVATICAN側は言いました。断層の断面の顕微鏡写真など見せまして、「ここが色だ、ここがホコリだ、ホコリがまだ1番上に少し残っているのだから、下の色は関係ないのだよ」ということを私には説明してくれましたけれど、ホコリが取れるということは、印刷でいえば、スミハンがなくなったようなものですから、非常に鮮やかな色になります。
質問者:日本の和紙ですね。何回くらいその紙は取り替えられるのですか?
岡村氏:それは汚れ具合によってですね。1回できれいになるときもあります。和紙が汚れを吸い取るよりも、その後スポンジで、水で拭くのです。そうすると、そのスポンジが入っていたバケツが真黒になります。ただこれ、黒いからいいのですけれど、私が昔ASSISIで修復の学生たちがやっているのを見たら、スポンジを絞ったら青い汁が出てきましたからね、これはジョットのブルーがどこかいってしまうのではないかと思って気になりました。そういうことはシスティーナでは割合なくて、黒い水でしたから大丈夫だったろうと思います。
質問者:1番最初に石の文化とおっしゃいましたね、興味をお持ちになった。それと今度のシスティーナの洗浄というのは、木の文化と違って石の文化だからそういうことが可能だ、という意味でおっしゃったのですか?
岡村氏:そうではなくて、広葉樹林に我々がいるわけですから、常に木の文化の中にいて、ヨーロッパの岩登りしながら岩壁にふれて石の厳しさ、日本にない石の見事さ、そういうものに感じて、石で何が作られたか、ということで、当初の目的はロマネスクの彫刻だったのです。それを撮って本にしたら日本に帰ろうと、まあ3年いたらいいだろう、ということで3年のつもりで出かけました。出かけて、最初の不幸は、その本をやろうとした美術出版社の大下さんが全日空の羽田沖の事故で亡くなってしまいました。それで私もハタと困りましてね、どうしようかと思っているうちに、学研から話が出てきましたので、では、そちらをやろうと。やりながら、ロマネスクはロマネスクで考えようというので、もちろんロマネスクの巻も出てきますので。そこで満足したらそれでもういいと、その他にやるものがあったらもっとやってみたいと思うようになって、それが例えばエトルリアの壁画になったり、まあミケランジェロになったりするわけです。
これ、大体15年くらい温めました。美術全集の中で、わずかの3ページ、4ページのことですまされる問題ではないということを感じますので、それで、そういうところの欲求不満みたいなものが、私みたいなのめりこみタイプですと、これをどうしてもやろうというのが出てくるわけですね。それが許されれば、出版社と話し合い、許されればそれをやることになります。私の中では、もうとても実現できないと思いますけれども、パルテノンから鎌倉まで、というテーマがあるのです、仏像の。これはユネスコがバックになってもできないかもしれません。
私が考え始めたときに、アフガニスタンの問題が出て来たり、いろいろな問題が出てきまして。それから NHKが中国でお金をばらまいたために、安い金ではとても取材ができないという状態になりましたので。そういうことで私の仕事はうまく進まないだろうということで頓挫しています。アメリカの中国美術史のい学者で「麦積山石窟」などの著書があるマオケル・サリヴァンという学者がおりますけれども、その話をしたら「それは君がやるしかないよ。ヨーロッパのものをわかって、漢字も読めて、仏教徒なのだから。仏像の変異というのはあなたしかやる人がいないだろう」といわれました。もうこの歳になるととても体力はないと思いますのでこれからの方にやっていただきたいと思います。
質問者:今日本にお住みになって,何をやっていらっしゃるのですか。
岡村氏:昔のフィルムの整理です。私たちの世界は急激に変化しておりまして。デジタル化ということで大騒ぎをしております。それとイナターネット。この問題も例えば版権の問題が少しも処理できないので、手探り状態にある。もうこの歳ですから乗り遅れてもいいのでしょうけれどそれでは少しさびしいので、今後どうするのかを模索しながら、古いデータを全部まとめて我が家でコンピュータの中に整理しております。むしろ私の家内がそれをやっているのですけれども。
文献によってサイズが違う、作家の名前のスペルが違う、どれが本当なのと怒られるのですね。例えばパラッツオ・バルベリーニの天井画、コルトーナのサイズを調べようと思ってあらゆる文献をひっくり返したのですけれども、どこにも出てきません。システィーナも奥行き40メートル、高さ20メートル、横幅16メートルくらいですか、といっても割合測っている人少ないですね。私は巻尺で測ってみましたが。壁が傾いているのはどれくらいか、ということもなかなかみなさんやっていませんので。私のような野次馬がそいうことで一生懸命になってやっていました。
【報告者プロフィール】
岡村 崔
写真家。
1965年からローマに住む。
95年12月に帰国するまで30年余りヨーロッパ美術の撮影を続ける。
「大系世界の美術」「フィレンツェの美術」「ミケランジェロ・システィナ礼拝堂(全3巻)など多数の作品を出版。
ダンテ・アリギエリ文学・芸術国際賞、マルコ・ポーロ賞などを樹S郷受賞。
日本写真家協会会員。地中海学会会員
この講演内容は印刷物としても発行されています。
イタリア研究会報告書No.83
2000年3月15日発行
企画編集 イタリア研究会
発 行 スパチオ研究所・伊藤哲郎
(目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)
事 務 局 高橋真一郎
(横浜市青葉区さつきが丘2-48)