第241回 イタリア研究会 2000-07-12
ベネトンとイタリアファッション
報告者:ベネトン・ジャパン㈱会長 遠藤 嶂
第241回イタリア研究会(2000年7月12日 六本木・国際文化会館)
ベネトン・ジャパン㈱会長 遠藤 嶂(たかし)
「ベネトンとイタリアファッション」
司会 第241回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師はベネトン・ジャパンの会長であります遠藤嶂さんです。イタリアにいた方はご存知の方が多いと思いますが懐かしいと思われる方も沢山いらっしゃると思います。遠藤さんは立教大学の経済学部を卒業されまして、西武百貨店に入社され、ミラノの駐在部の設立ということでイタリアに赴任をいたしました。1986年に西武百貨店を退職しまして、ベネトングループS.p.Aに入社されまして、1987年ベネトン・ジャパン設立と同時に社長に就任。現在はベネトン・ジャパンの代表取締役会長でございます。大変に激務でございまして、合間をぬってきていただきました。それではよろしくお願いします。
遠藤 こんばんは。ただいまご紹介に預かりました遠藤でございます。かなり仕事が忙しいので、基本的に講演は逃げて回っておりますが、ぜひということで一生懸命話をさせて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。
ご紹介に預かりましたように、もともと嶂という名前は父親が芸術家でして、父親の先生がつけた名前です。それもあってか、自分は彫刻家になりたいと思っていたのですが、父親のものすごい反対にあい、自分も才能がないのがわかりまして、それで会社に入ろうと思いましたのですが、できれば広告関係の仕事がしたいなと思いましたがかなわず西武百貨店に入りました。西武百貨店は私が入社した頃はかなり勢いがあって、大変おもしろい会社でございました。私は婦人服に配属になりまして、婦人服から、当時パリに駐在部がありまして、交代で部長が出ていまして、将来的にそれをやらせようというようなこともありまして、当時フランスで堤クニコさんとおっしゃる堤清二さんの妹さんが頑張っていらして、私もフランス関係の仕事をずいぶんやりました。例えばサンローランのオートクチュールの仕事ですとか、今では大変有名になりましたけども、エルメスの仕入れを一時やっていました。これは今から27~8年前でしょうか。まだ日本にはほとんど入ったばかりで、当時のエルメスというのはバッグとそれからネクタイとスカーフと銀製品が一部あって、西武百貨店の池袋と渋谷とサンモトヤマさんとあとは名古屋の名鉄さんかな。それと広島のヒツジヤさんというところが展開をしておりましたが高くて販売するのが難しい時代でした。本物を知った方、ファンの方はもうすでにいらっしゃいましたが、当時でもエルメスのケリーバッグというのは、おそらく20万円くらいしたと思います。本当に売れない時代の仕入れをやっておりました。
次は私がパリの駐在部長になる時期でしたので、フランス語も少し勉強したりしていたのですが、急きょイタリアに駐在部を作らなくてはいけなくなりまして、お前行ってこいと。で、私は当時イタリアというのは、大してファッションの分野ではそんなに進んだ国ではなかったものですから、パリへ行きたかったので断りましたら、お前辞めるか行くかどちらかにしろと言われて、やむなくイタリアの駐在を引き受けて、最初はフィレンツェのフェラガモの本社ビルの中にオフィスを構えていたのですが、フィレンツェは大変不便なものですから、ミラノに急きょオフィスを移動しまして、それでミラノに駐在を開いて、それから10年どっぷりイタリアにつかりました。
帰国したくなかったのですが、家内がどうしても日本に帰りたいというものですから、日本に帰って参りました。日本の企業ではもう勤まらないと思いましたので、ベネトン社のオーナーでありますルチアーノ・ベネトンさん、前から懇意にさせて頂いていたので、そういうことならぜひ自分のところの仕事をやってくれよと言われ、それで1986年から現在の仕事をやっております。
私が滞在しておりました1970年代から80年代の後半にかけて、皆様よくご存知のように、イタリアのファッションが生まれ、成長し、それから成熟期に向かうちょうどそういう時期でございました。そういう面で、大変おもしろい仕事ができました。パリに行かなくてよかったなと、途中で何度も思うことがございました。イタリア語については35才からイタリア語をやりましたので、いまだに苦労していますけれども、イタリア人というのは比較的おおらかな民族です。フランスだとフランス語をきれいにしゃべらなければあまり相手にしてもらえないというようなこともありますけれども、イタリア人というのはイタリア語をしゃべると、しゃべったしゃべったと言って非常に喜んでくれて、理解してくれます。イタリア人に本当に助けられて、いまだにベネトン社のオーナーにもかわいがって頂いて、こういう仕事をさせて頂いています。
本日は研究会という名前でございますので、なるべく話題がそれないように、イタリアのベネトン社とそれからそれにかかわる成長の過程の中で、イタリアのファッションというものがどういうふうに隆盛期を迎えてきたかというお話をさせて頂きたいというふうに思います。
ベネトン社は現在世界120か国で7000軒の店舗を展開しております。年間の生産数量はだいたい1億ピースです。ベネトン社はフレキシブルな生産体制、フランチャイズシステムによる店舗運営、代理店を使った全世界の販売網、それと低い資本支出で極めてリスクを抑えたアパレル企業というふうに言われております。競争の激しいアパレル業界で創立以来急激に成長して参ったわけですけれども、その一つの経営理念と言うか、根本は、少しでも安く、クオリティの安定した商品を、しかもトレンド性のあるものを消費者にどうやって提供していくことを設立以来30年にわたって、まったく経営方針を変えることなく続けてきた、そういう企業理念が、世界の消費者の方に受け入れられたのではないかなというふうに私は思っています。
ファッションインダストリーとしては、非常に革新的と言われております。ベネトン社は素材の調達から、生産、販売、物流システム、宣伝に至るまで、各部門がイノベーションを繰り返して、一つの新しいシステムを作り上げておりそのシステムも日々各部門で、少しでも良い方向にということで、どんどん挑戦をしていっております。そこにベネトンの力があるのではないかなと思います。普通の企業というのは、内部からどういうふうにしようかというふうに考えるわけですが、私どもは消費者の視点で企業を考えるというスタンスを常に持っております。
先週もルチアーノ・ベネトンという私どもの創立者、オーナーが日本に来ていたのですが、日本全国に散らばっている店舗をくまなく歩いて、店舗の販売の人達からいろいろな情報を仕入れて帰ります。一番その情報を持っているのは、店舗で販売されている若い女性達だということで、そういう女性達の意見というものを、常にオーナー自ら先頭に立って、いろいろ聞いて歩く。それを事業に反映させていくというスタンスを取っています。したがって、私どもにはよくアメリカでいうマーケティング部とか、そういうものは基本的にはあまりございません。すべての各部門が少しでもよりよいシステムに作り上げていくという努力を、常にしているというのがございます。
ちなみに1999年12月期の実績は、売上げ高が3兆8千380億リラ、ですから邦貨に直しますと、2130億円くらいでしょうか。それから税引き後の利益で、3220億リラ。税引き後の利益が日本円に換算しますと、180億円くらいです。ベネトン社の売上げげというのは、基本的に工場出荷価格でございます。皆さんよくご存知で今日本で大変人気のあるGAPさんだとか、それからユニクロさんですとか、それから最近ニューヨークやパリで店舗を出されて、非常に行列ができているというような、スウェーデンのH&M。それからスペインのザーラ。こういう企業は、基本的には店舗の売上げげがターンオーバーになります。私どもは基本的にはメーカーなのですね。その辺が大きな違いでございます。私どもは基本的にイタリアの自社工場で作ったものを、世界のフランチャイズに供給をしています。したがいまして、売上げげは工場出荷価格がトータルになります。その辺が他のアパレル企業とちょっと違う点だろうと思います。
売上げは国別で言うとやはりイタリアが地元ですので、35%くらいの売上げをイタリアが占めます。その他のヨーロッパの国が35%くらい。特に強いのはドイツ、フランス、イギリス、それからスペイン。アメリカは全体の構成比の7%くらい。日本は現在400店舗くらいの展開ですが、だいたい全体の売上げの5%くらいです。
次に、このベネトン社がどういうふうに成長してきたかを振り返ってみたいと思います。オーナーのルチアーノ・ベネトンは、1935年にトレビゾという北イタリアの小さな町、人口6万人くらいの町ですが、そこの郊外にポンツァノという小さな村がありますが、そこで生まれました。お父様は当時1930年代に車を何台か所有して、今で言うハーツとかレンタカーの会社を経営していました。それでアフリカへ新しくまた事業を広げるために行って、マラリアにかかって、早くに亡くなりました。それでオーナーは、中学を出てすぐ、長男でしたから家の面倒を見なければいけないということで、すぐ仕事を始めました。まず彼は最初にそのトレビゾという小さな町のブティックに勤めました。彼の妹のジュリアナ・ベネトンさんは当時ニット工場で働いておりました。ニットを作るのが非常に好きな女性で、独特のニットを作っていた。それにお兄さんが目をつけて、販売をし始めたのがベネトンのスタートです。ルチアーノ・ベネトン氏はヴェネツィアのいわゆるゾーンの生まれですから、そういうヴェネツィア商人の血が入っていたのではないかなと私は思っています。
1965年に本格的に会社としてベネトンはスタートをします。イタリアは第2次世界大戦に敗れて、戦後の復興がかなり早く重工業からスタート致しました。60年代に入りますと、北イタリアを中心に繊維産業がかなり成長し、相当競争が激しくなっていたようです。設立当時、オーナーはいろいろな人また銀行の人から、もうこういう成熟したマーケット、競争の激しいマーケットに繊維で新しく入っていくのは難しいのではないかというふうに言われたそうですけれども、彼は彼なりにまだまだ成長できる余裕があると。新しいことがいろいろできるのではないかということで、スタートをしたそうです。
1968年、北イタリアのモンテベルーノという小さな町、アルプスに近い小さな町ですが、そこでまず第1号店をオープンしました。当時のイタリアのニットというのは、高級品は全部メイド・イン・イングランドだったのです。ご承知のように、いまだに英国のセーターというのは、だいたい渋くて色も紺だとかグレイだとか黒だとか、せいぜいボルドーぐらいがあるようですが、そうではなくて、もう少し華やかな若々しい楽しい色のセーターを出したいなということで、12色のセーターを最初作って、展開をしたそうです。しかも値段を安く、その上当時高嶺の花だったカシミアの風合いを出そうということで、カシミアの感触を出すために、アンゴラの素材を入れたいわゆる紡毛というか、風合いのある毛足の長いセーターを出して、最初のコレクションをスタートしたそうです。当時イタリアの販売方法というのは、お客様が店に入ってくると、あなた何を買うのですか、何をお望みですかとまず伺って、それからやおら、だいたい大きなケースの後ろに箱があって、そこの箱の中から商品を出して売るという売り方をしていたそうですが、このモンテベルーノの第1号店は、すべてオープン販売にしたそうです。お客様は手に取ってみて、好きなものを買うという方式を採用したと。それは彼がトレビゾの販売員からスタートして、常にそういうことを疑問に思っていたのを自分のショップでトライをした。60年代の後半というのは、イタリアは学生運動が非常に盛んな時期でございまして、古い体制に反発する学生たちが町にあふれ出たという時代でございます。ベネトン社はこういう若い人達に非常に愛され、急激に成長して参りました。
1969年に早くから海外に出たいと思っていましたので、海外第1号店をファッションの都パリに出店致しました。
1975年になりますと、イタリアで200店舗を達成致しました。1970年代、ちょうど私がイタリアに入った頃は、70年代の半ばから後半になるわけですが、それまでイタリアという国は、ファッションの都パリの裏舞台というか、舞台を支える裏方のポジショニングだったのです。それは北イタリアに繊維産業が育ってきまして、パリのプレタの仕事が北イタリアのメーカーに発注されてきた。それでそういうパリのプレタを支える仕事の中で、イタリアには世界に通用するグレードの高い製品を比較的値段がこなれて生産ができるという体制ができ上がってくるわけです。そういう意味で世界的に競争力がある素材メーカーですとか、それから工場が非常に充実して参ります。そういったインダストリーを背景に、イタリアのデザイナーたちが70年代の中盤から続々と登場して参ります。
まず最初にパリでイタリアのファッションを展開したバレンチノ・ガラヴァーニ。それからもう亡くなってしまいましたが、天才的な才能のあったウォルターアルピニというイタリアのカジュアルファッションを作った人がいました。フランスから来たミスター・コーモンですとか、ニットの魔術師と言われたミッソーニさんですとか、アルマーニ。アルマーニさんはもともとはリナシェンテというミラノの百貨店の生地のバイヤーをしておりました。それから、自分ではなくて、まずはメーカーのコレクションをスタートさせて、それから70年代の中盤から独立をしていました。それから、カラブリアというイタリアの南の地域、ギリシャの文明の影響も受けたところですけども、そこから出てきて、イタリアの極めてセクシーな服を作り上げて、残念ながら亡くなりましたが、ジャンニ・ベルサーチさんですとか、それから極めて女性らしいイタリアファッションを作り上げたクリツィアのマリウッチア・マンデリさん、ルイ・ヴィトンのバッグやなんかのデザインもしていました建築家出身のジャンフランコ・フェレさんなど非常に現在も世界的に活躍しているデザイナーたちが続々と登場して参りました。
この時代、イタリアは北イタリアの経済の高度成長を背景に、豊かな階層が出て参りました。そういう人達が、こういったファッションを積極的に買い始めた。ミラノのモンテ・ナポレオーネですとか、ヴィア・サンタンドレア、ヴィア・スピーガに続々と大きなブティックができてきました。
イタリアは14世紀にルネサンスの花が開いた国です。ルネサンスというのは、一つに天才的なアーティストたちが出てきて、それからメディチ家という富がそれを支え、それからもう一つ重要なのは、非常にレベルの高い民衆がいた。この3つがイタリアのルネサンスを作り上げたのではないかというふうに私は思うのですが、ちょうどこの当時、イタリア、ミラノを中心とした地域は、豊かな消費者、非常にレベルの高い、感性の高い消費者と天才的なデザイナーたち、それから豊かになったメーカーの資本というものがあって、こういった成長があったのではないかなというふうに思っております。
これはファッションのジャンルだけではなくて、例えば家具の分野で言えば、アルフレックスですとかカッシーナですとかB&Bですとか、サッポリーティイタリアとかコンテンポラリー・リッチな家具のメーカーは非常に力をつけて参りました。インテリアでは照明器具で言えば、アルテミレスですとかフロスですとかユーロルーチェとか、そういう近代的な照明。それから雑貨で言えば、トラサルディですとか、フェラガモ、フェンディ、靴で言うと、ロゼッティですとかタニノ・クリスティ、フェラガモ。フィレンツェをベースにしたカラーノとかロマーノとかというメーカーもございます。貴金属ではブッチャラッティとかスカビア、当然ブルガリもあり、カスタムジュエリーで言うと、シャルル・パガーノですとか、レストランについてもややフランスの影響を受けたヌーベルクイジーヌ的なイタリア料理を提案したグァルティエロ・マルケーゼですとか、いちごのリゾットで有名なカレッタ、それから今度夏の研究会のワインパーティをおやりになるエノテカ・ピンキオーリ、ヴェネツィアのハリス・バーですとか、そういうレストラン。あらゆる消費の分野で新しい階層、新しい試み、新しいデザイン、新しい消費というものが作り上げられて、一つの消費文化がちょうど花開いた時代でございます。
ベネトンはそういう階級の人達にも大変好まれて、豊かな人々は普段着にお召しになったのでしょうけれど、ミラノのモンテ・ナポレオーネのお店などでは一度に5枚も10枚も色を揃えて買うようなお客様が、ずいぶんいらしたようです。
1980年代に入りますと、輸出が大幅に伸びます。1978年に2%だった輸出比率が86年には60%になりました。ちょうど80年代の半ば、大体今の規模の3分の1位だったのだろうと思うのですが、急成長して、税引き後の利益もだいたい100億円くらいの利益を出すレベルにまで成長しています。将来をにらんだ投資を盛んに行ないました。それはニットの自家工場であったり、それから巨大な、のちほど説明をいたしますけれど、ディストリビューシヨンのセンターですとか、それから人への投資を盛んにやりました。私がベネトン社に一番最初に行ったのは、79年か80年くらいだったのですが、輸出マネージャーという人がいまして、忘れもしないバッソナーレさんと言う人でしたが、お目にかかりに伺ったのですが、何を言っているか全く分からないのですね。もともとそんなに言葉は得意な方ではないですし、ヴェネト弁というのは、ご承知の方もあるかと思いますが、あまり口を開かないで、むがむがむがむが話をしている。例えばヴェネツィアのゴンドラに乗っているお兄さんたちが会話していると全くわからないと同じように、この人の言っていることも全くわかりませんでした。英語でしゃべってもらったのですが、英語は自分は堪能だというから、聞いていたのですが、英語でさえもよくわからない。非常に苦労をしたことがございます。そういうことがあったからかどうかわかりませんけども、ちょうどこの頃から輸出が増え、インターナショナル化を迫られた状況の中で、優秀な英語のわかるディレクターがたくさん入ってきまして、私もほっとした覚えがございます。
イタリアファッションも当初イタリア、ヨーロッパ、次いでアメリカで非常に成長します。80年代に入ると日本にも入って参りました。80年代のあれは中頃でしたかな、「ミスター・ドルチェという人とミスター・ガッバーナという人が、新しいコレクションを作ったよ、ミスター遠藤」という話が入ってきまして、ぜひ見て下さいと言うので、彼のオフィスへ行きまして、そうしたら二人でハンガー2本くらいのコレクションを発表した時で、ちょうど西武はイタリア展を計画していましたので、彼らの発表の場にしようということで、西武が一時ドルチェ&ガッバーナを入れたことがございます。非常に優秀な人達で、作る製品もおもしろかったので、これは伸びるなと思っていましたら、今は大変なブランドに育ち上がりました。
それから皆さんご存知のプラダは80年のはじめの頃かな、よく西武の駐在のオフィスに電話がかかってきまして、オーナーの方が、ぜひ日本からバイヤーが来たらうちのバッグを買って下さいよというような、いわゆる本当のバッグのメーカーでした。そういう生産をできる基盤があったから、デザイナーが育って、ああいうふうな今の成長につながったのだろうと思います。もともとはバッグ屋さんで、ちょうどミラノのガレリアの角にお店が1軒あっただけでした。この間たまたまミラノへ行きましたら、あっちもこっちもプラダばかりなのです。本当に成長したものだなというふうに私は思いました。
1986年にベネトン社はミラノ、フランクフルト、ニューヨーク、トロントで上場しました。この頃から企業買収を盛んに行ないました。それは現在でも行っていますが、その頃から靴のチェーンのディバレーゼ社ですとか、それからインテリアファブリックのエリオノーラ。スポーツの分野では、スキー靴のノルディカ。テニスラケットのアメリカの会社プリンス。スキーのケスレー社。それからスノーボードのキラループ社などメーカーで若い人達のマーケットを対象にした企業を主に買収して参りました。昨年ちょっと一時、日経新聞や何かで騒がれましたが、80年代の後半に、レストランチェーンの買収を行ないました。これはオートグリルという会社でイタリアを旅された時に高速道路にまたがってドライブレストランがあるのですが、そのチェーンを買収しました。その傘下にはスーパーマーケットが200軒くらいあったり、それからスピッチコというピッツァのチェーン、これも1000軒くらいあります。それと先程申し上げたレストランが600軒くらいヨーロッパで展開しております。ヨーロッパ最大のレストラン業になりますけれども、これが昨年アメリカで公開買い付けで、バーガーキングなどのレストランチェーンを展開しておりますホストマイヨットサービスを買収して、ちょっと話題になりました。
1990年代、工場の投資も盛んになって、元々はニットのメーカーでしたけれども、布帛の工場を作りました。それでトータルファッションのコレクションができるようになった。スーツですとか、それからジャケット、スカート、そういったものも生産するようになりました。だいたい年間3000万枚くらいできる巨大な工場を作りました。
それとこれは素材の方ですけども、南米のパタゴニアに90万ヘクタールというのでちょっとよくわからないのですが、だいたい100キロ四方くらいだろうと思うのですが、そういう牧場を買いまして、そこに30万頭の羊を飼い、だいたい年間100万キロのウールを取り、その素材を使って、現在のセーターを作っています。それは全体の消費量からすると10%位だそうですけども、そういう風下にも相当投資を行ないました。これはジョージュソロスと一緒にジョイントで投資をしております。なにか話によりますと、年間3000頭から5000頭は社員というかそこで働いているインディオの人達が食べてしまったということだそうです。
それから90年代に入りますと、大型店への投資も盛んに行ないました。と言いますのは、私どもは基本的にフランチャイズシステムを採用しております。なかなか大都市の店舗のオーナーの方にとって大きな店舗への投資というのは大変難しい状況でございます。日本でもそうなのですが、店舗をやってらっしゃる方に1000平米の店を空けて下さいといってもなかなか小資本のため難しいので直接私どもがパリですとかニューヨークですとか、そういうところの不動産を買いまして、そこを地元の方にやって頂くというようなことで、今盛んに大型店化をしております。これはコマーシャルになりますけれど、ベネトン・ジャパンも原宿の表参道に土地を買収して、現在ビルを建てております。地下1階、1階、2階で、1700平米クラスの店になると思いますけれども、12月2日にオープンになります。ここはベネトンのフルラインを展開する予定でございます。ぜひご覧になって頂くとありがたいものです。
それではベネトン社の戦略といいますか、ベネトン社のシステムについて説明させて頂きます。基本的に重要な戦略部門は、全部社内に集中しております。重要な戦略部分というのは、デザイン、裁断、染色、品質管理、流通管理、販売管理、それから独特のコミュニケ-ション、こういったものは基本的には全部社内で管理をしております。コレクションは基本的にはインターナショナルですがイタリアンデザインをベースにしております。そういうコンセプトでコレクション作りをやっています。
イタリアというのは、デザインでは非常に有名な国でして、自動車をはじめとしたインダストリアルデザイン、ファッションも先程申し上げたように非常にレベルの高い国なのですが、それは一つにはやはりラテン民族の血だというふうに思うのですが、フランスにしてもイタリアにしても、デザインに対する感覚は非常に鋭いものがある。負け惜しみではないのですが、やはりラテンの血なのではないかと思っています。
ファッションというのは、生活の中から生まれてきます。イタリア人の人生観というのは、アモーレであり、マンジャーレであり、カンターレであり、それから今は非常に重要なファクターとしてバカンスというものがあります。こういう人生をいかに楽しく豊かにおもしろく過ごすかという国民性、そういった民族の持っているキャラクターがファッションを生み出すのではないでしょう。アモーレ一つとってみても愛することなのですが、女性を愛して結婚をして、女性をきれいに飾り立てて、一緒に友達同士でお食事へ行く。それから家に招待をして、みんなに来てもらって、自分の家の中を見せる。人の家に呼んだり呼ばれたりするのが非常に盛んな国です。人を家に招待すれば、インテリアもよくしなければいけないし、それから食器やなにも気を使わなければいけないし、そういった住の関連の消費財が要求されるわけです。日本のように男同士で酒飲みに行くような習慣がないのですね。女性がいて、ちょっといろいろ話をしてくれて、雰囲気を盛り上げてくれるようなところというのは、一切ありません。友人同士夫妻を同伴するか、恋人を連れていくかで、女性を同伴して、食事を楽しむ。ですからゆっくり長くおしゃべりをして楽しんで帰る。家にもそういうお友達を呼んだり呼ばれたり、年中そんなことをやっています。ですから男同士で飲んだり食べたりしている風景というのはほとんどイタリアでは見ないですね。
余談ですがイタリアで女性を誘ったら、その人に気があるということに思われます。ですからちゃんとあなたが面倒を見ないといけない。若い方、もしイタリアの人に誘われたら、よく考えてから行動するように、老婆心ながらお話申しあげます。
そのように、イタリアというのは夫婦単位、ないしは恋人単位で集まって、楽しく食事をする。おいしいものを食べ、きれいなもんもを着て、夜は楽しい会話をして、家にも呼び呼ばれ、そういうところからいろいろな商品が生まれるというふうに、私は思います。
それから、イタリア人にとってバカンスというのは非常に大事なのですね。僕も日本の企業を辞めたのは、一つにはバカンスがとれないということが大きな要因でした。ベネトン本社もだいたい7月25日から8月25日までは、工場の方は別ですけれども、営業、広報、その他の部門は一切休みになります。これはイタリアは全国的にそうですから、お金のある人だろうがない人だろうが、国民ほぼ全員が夏はバカンスで休みをとります。ですから1年のサイクルがちょうど9月に新年が始まって、7月の末で終わる、そんなような感じで、若い人達はとにかくバカンスを過ごすために一生懸命働きます。
バカンスといっても1か月近く生活があるわけですから、海に行く人もいるし山に行く人もいるし。そういうことで、7月の今頃ミラノは大変な繁忙期を迎えます。1か月生活が移るので、今まで都会で着ていたものは、やはりリゾートでは通用しないですし、リゾートへ行っても、ディスコもあるし、レストランも行かなければいけないし、きれいなものも着なきゃいけないし、ということで大きな需要というものがあります。お金のある人は別荘、イタリアの中産階級というのはかなりお金持ちですから、海に、山に、だいたい別荘がありますから、だいたい半分ぐらい海にいて、半分くらい山に行くというケースがかなり多いのですけれども。そういうことで大きな需要が生まれます。私はイタリアの会社に入りましたので、だいたい3週間は休みを取ります。その3週間をサルデーニャという島で過ごします。サルデーニャというのは、ちょうどコルシカ島の下にあるところで、世界の富豪のアナカーンという人が20代の時に、ヨットであの辺を回ったらしいのですね。ごくきれいなので、50キロにわたって海岸線に沿って奥行きで1キロくらいの幅で土地を買い占めてそこにヨットハーバーを2つ作り、カーラディボルペ、ロマッツィーノ、ピットリッツィアという超高級ホテルをオープンしました。1泊おそらく今だと100万リラくらいするのでしょうか。お金のある人は1か月ゆっくり泊まって遊ぶのです。ゴルフ場を作ったり、それからショッピングセンターを作ったり、そこへお客様を呼ぶために、メリディアーナというエアラインをひきまして、イタリアの主要都市、ヨーロッパの都市から直行便があります。イタリア語でコスタ・ズメラルダ、いわゆる紺碧海岸。そこにあるホテルのカーラディボルペというさきほどお話したすごいお金持ちが集まるホテルがあるのですが、毎年コンサートがあります。レイ・チャールズを呼んだり、いろいろな世界のアーティストを呼びます。そこでディナー券を買って、夕方からコンサートを聞いて食事をして帰るのです。私はかつてサンローランのオートクチュールというのをやっていましたけれども、オートクチュールというのはこういうところでみんな着るのだ、ということがイタリアへ来て何年かたって初めてわかりました。アラブの例えばヤマニ石油相とか、アラブのミリオンダラー達が夫人を同伴しシークレットサービスを配し女性たちはオートクチュールに身をつつみ出かけてきます。
それはピンの方でしょうけど、キリの人達はお国に帰って、両親のところで過ごしたり、いずれにしてもそういう生活がある。それほどイタリア人というものは、バカンスというものを大切にしています。日本も最近は若い方は休みを取るようになってきましたけれども、本当は夏1か月くらい日本も休みにすると、相当消費が伸びるのではないかなというふうに私は思っています。
ベネトンのコレクションは、各シーズンだいたい1200アイテムくらいずつの商品を発表します。これは一般のアパレルはだいたい150から200モデルという量なのですが、それの何倍にもあたるわけです。それは一つには、ベネトン社は世界中で展開をしております。暖かい国もあれば、寒い国もあるし、もっと寒い国もある。そういう気象条件が大きくあります。それから民族によって、好みの色、形が違うのですね。例えば色一つとってみても、ラテン系の民族というのは、コントラストの強い色が好きですね。アフリカへ行くともっとすごいですし、それからフランス系の人達というのは、どちらかというとシャーベットトーンみたいな淡い色がお好きです。北欧の人達というのはクリアな色が好きです。色一つとってみても、それだけバラエティがあると。日本人というのはどちらかというとモノトーンが好きですね。黒ですとか、比較的地味な色が好きです。韓国へ行くともう少し強い色を、チョゴリの影響もあるあるのでしょうけども、そういう色が好きです。そういういろいろな民族の要求を満たすコレクションというものが必要なわけです。そのためにコレクションが多いわけですが、それ以外に各シーズン、その直近のトレンドの商品をだいたい50モデルずつコレクションを作っております。そのコレクションを生み出すのは、ウッフィーチョ・プロドットという企画部門で私どもはだいたい200名くらいのデザイナーを抱えております。それがメンズとレディース、それから012という子供のラインに分かれておりまして、更に素材別にニットだとかデニムだとかバッグだとかというふうに分かれています。ここは人種のるつぼで、イタリア人だけではなく、アメリカ人もいるし、イギリス人もいるし、いろいろな国の人たちが働いております。
私どもは世界のファッションに影響のあるロンドン,パリ、ニューヨークなどの都市にアンテナを張っております。その現地でデザイナーを雇っていたり、または企画会社と契約をしていたり、その時々のインなものの情報がベネトン社に入るようなシステムができております。それに加えて、そのプロダクトのデザイナーたちが世界中の主要な都市を各シーズン回っています。常に5~6名の単位で回っているのですが、日本にもだいたい年間に3回来て、いろいろなショップを見たり、ディスコティックへ行って若い人達がどういうものを着ているかを見たり、渋谷あたりを行って町を歩いている人を見たりインな情報を集めています。
コレクションができあがりますと、主要な代理店ですとか、販売力のあるショップの人達を招いて、意見を聞いて、このコレクションでいいか、追加するものはないか、そういう情報を入れながら、一つのコレクションができ上がるということでございます。
次にベネトンの生産システムについてお話をさせて頂きます。ファッションというのは、その年によって売れるものがまったくといってもよいほど違います。最近ではデニムの素材が人気があるようですが、デニムのGジャン、パンツ、スカート、ワンピースとか、そういうものが人気がございます。昨年はボディフィットのシャツが売れました。夏は当然Tシャツも売れますし、その時々によって、売れるものが変わって参ります。それを作るために全部投資をしていたら、これはいくらあってもお金が足らない。今年は工場はフル稼働しても、来年は全然使えないというようなことが出て参ります。そういうことを避けるために、リスクヘッジとして私どもは下請け工場を有効に活用しております。ベネトン社のあります北イタリアのトレビソ近辺には、400社くらいのベネトン下請け工場がございます。私どもの生産数量の80%くらいは、その下請け工場に発注をして作らせます。残り、独自に生産していくのは20%くらいだろうと思います。下請けに回すといっても、基本的にはデザインは私どもがやって、素材を手配して、カッティングをして、それから下請けの工場に出して、縫製をしてもらって、私どもに入ってくる。それを私どもで検品して、段ボールに詰め、それから出荷されるわけです。下請けの工場に支払う代金は、一般的には1枚いくらというように支払いをするのが普通なのですが、私どもは、1枚にかかる時間数を計算して、時間単位で支払っております。これはスピードを早くしてもらうというのもあるのですが、ちょっと他の企業には見られないやり方だと思います。
それからベネトン社がどうして今までこんなに成長したのかという点で、これが秘訣だろうといわれていることがございます。私どもは後染めのものを多く採用しております。例えば一つのセーターがあります。セーターは基本的には染めた糸を編んでセーターを作りますけれども、ベネトン社は製品染め、いわゆる生成りの段階でセーターを作って、それに色を染めて出荷をするということを当初からやっております。これは今はかなり一般的になりましたが、この時代としてはかなりユニークなことでございました。商品というのは、さきほど色の好みというものをお話しましたけれども、本当にどの色がどの程度売れるというのはわからないのです。市場に出てみて初めて、皆さんああこれがいいな、あれがいいなということで、今年はああいう華やかな色が売れています。ベージュの年もあるし、黒が売れる年もあります。それを予想せずにすべて作っていたら、売れない色は在庫の山になります。それを避けるために、オーナーに言わせればお金がなかったから苦肉の策だと言っていますけれども、まず全色を展開する。それでその動きを見て、売れる色をどんどん後染めの方式で染めて出していく。これは在庫の残品率のリスクも非常に少なく抑えられますし、それから売れる商品については、品切れをしないという強みがございます。売る方も作る方もリスクが少なく、最大限に売れるということで、当初からこういうことをやっています。ベネトン社の場合には、近くにイタリアの高級避暑地でありますコルティナダンペッツォというところがあります。たぶん皆さんご存知だろうと思います。みんなコルティナに今年の夏行くのよと言うと、ああこの人お金があるのだなというふうに思うところなのですが、そこにベネトンショップがあります。そこで7月くらいに秋物を展開するわけです。そうすると、だいたい何が売れるかわかるわけですね。やはり日本でもそうですけれども、コートはもう8月に販売をスタートします。8月に出しても売れるのですね。買われる方が結構いらっしゃるわけです。そうするとどういうコートが今年の冬は売れるのだなというのがわかります。ですから、商品をとにかく早く出して、後は追加生産をするというスタイルを、今一生懸命やっております。これはどこの国でも皆さんやってらっしゃることでしょうけども。
当初ニットの後染めでスタートしましたけども、現在では技術が向上しましたので布帛の商品についても、後染めができるようになりました。
ベネトン社は、どう商品を安く作るかということに専心をしてきた企業ですが、基本的にはすべてメイドインイタリーです。一般的に世界のアパレルは、現在はほとんど中国やベトナムなど人件費の安い国を使って、少しでも安い商品を作ろうということで作っています。ある有名な社の品はジンバブエとか、ああいう国のマーク。たまたま私もシャツを買ったら、ジンバブエと書いてあったのでびっくりしたのです。そういう国を使って、人件費を抑えて作る。しかし私どもは全部メイドインイタリーで、安く提供をしていっています。その秘訣は、要するに人手がかからない超近代的な設備をそろえて製品を作るということで、人件費がかからない。例えば1本の糸で機械にかけるとセーターができてしまうというようなシステムもございます。世界的に有名ですけれども、島精機という日本の優れた企業があるのですが、そことの共同開発でそういうものを作ったり、とにかく人手がかからない、そういうコストダウンの方向を探っていっています。
というのは、元々繊維というのは、日本も大変な輸出の国だったのです。日本の人件費が上がったら、今度は韓国に移ったのかな。それから韓国から香港に移り、香港から台湾に移る。台湾から一時タイとかマレーシアにも移った。今はほとんど中国とかベトナムとかという国で生産をしている。そんなことは面倒くさいではないかと。それだったら、少しでも自分たちで安定した商品を提供するためには、自分たちで無人化をして、機械への投資はかかりますけれども、安く商品を作っていった方がいいという考え方でやっております。
それから、先程80年代に入って、相当大きな投資をしたというふうにお話をした中で、物流センターがございます。ちょっと今日はスライドを持ってこなくて、私の足らない言葉でご説明するのも残念ですが、巨大な倉庫がございます。自社工場、ないしは下請けから入ってきた商品は、すべて私どもの検品を通りまして、長い地下の通路を機械で送られて、直接倉庫に入ります。この倉庫は、だいたい間口で言うと150メーターくらい。奥行きが200メーターくらいです。高さが50メーターくらいありまして、段ボールでだいたい30万箱ストックすることができます。そこに商品がたまりますと、入る時にコンピュータですべてどこの国のどの店の商品で品番が何番でというのが全部打ち込まれるわけですね。そこに入って、ある程度たまると、直接そこから各国のベネトンのショップに納品をされます。これはもう本当に大きなもので、私もベネトン社の規模というのはなかなかわからなかったのですが、それを見て初めてベネトンというのはすごい企業だなというのがわかったような次第です。もし将来何か機会があって、イタリアに行ってあの地域にいらっしゃることがあったら、ぜひご覧いただければと思います。
それでだいたい1日2万8千カートンくらいが出たり入ったりしております。在庫はゼロです。基本的にベネトン社というのは受注発注を行ないます。ですから、商品がその倉庫にたまるということはありません。基本的に在庫を持つということは、ベネトン社にはない。これはメーカーみなさんそうだろうと思いますが、そういうところが一般のアパレルと違うと思います。在庫は一枚も持っていません。日本は流通システムがかなり複雑です。百貨店も商品を買って売るわけではなくて、どちらかというと、置いて売ると。残ったらそのアパレルの納入先に返品をするというケースがほとんどなのですね。そういうスタイルというのは、私どもでは全くなくて、基本的に作ったものをお店に納める。お店はそれをとにかく売り切るというスタイルですので、倉庫には全然商品がございません。
そのコンピュータですべて管理された倉庫というのは、だいたい20名くらいの人間で動かしています。前は500名くらいの人間がそれにかかわっていたそうですけれども、それも精度が低くて、80年代に投資をして、そういうスタイルになって、87年くらいから稼働しています。その頃から比べると、ベネトンというのは倍くらいの大きさになっていますけれども、いまだにそれでもかなり余裕があるような倉庫がございます。
それから、ベネトン社が急激に伸びてきた販売上げのシークレットというか、秘密は、さきほども少しお話したように、販売代理店の存在があります。基本的には直営店はほとんどないという状況でございます。今直営店で持っているのは、ニューヨークの5番街にある店と、これから日本で展開するその原宿のフラッグシップですとか、あとはほとんどフランチャイズ展開をしております。一部主要な都市は、私どもでさきほども申し上げましたように借りたり買ったりしたところを、その地域の代理店ないしは販売の人にやって頂いているということです。直営店は基本的には持たないというのが主義でございます。
ベネトン社の営業部門は、イタリアではだいたい1500店舗くらい展開していますが、担当者は一人です。担当者一人に秘書がついているくらいですが、それに代わる販売をするのが、さきほども申し上げました代理店がございます。代理店というのは何をするかというと、その地域のオーダーをとりまとめて、ベネトン社に発注をする。商品は各店舗に直接納められます。当然その地域の店舗を開発することですとか、各店舗がベネトンのマニュアルに従って、きちんと管理され、売れるような体制になっているか、そういうコントロールの仕事ですとか、それから支払いがかなり厳しい時には、ベネトン社と一緒に手伝ってもらって、お金を取り立てるとか、そういう業務があるわけです。シーズンごとにオーダーを入れると、そのオーダーの金額に対して、ベネトン社からコミッションが支払われます。イタリアで言いますと、12くらいの地域に分かれております。コミッションそのものはだいたい5%から7%くらいだろうと思うのですが、ちょっと一見そんなお金で大丈夫なのかと思われるかもしれませんが、例えばミラノを中心としたロンバルディア地方のベネトンの代理店というのは、おそらく年間ベネトン社からの出荷価格で80億円くらいあると思うのですね。80億円でコミッションが5%だとすると4億円。キャッシュで入ってくるわけですね。それは長い間一生懸命彼らが広げてきた結果でそういうふうにもらえるわけですが、4億円入ってきて、社員は家族を中心にやっていますので、繁忙期は別に人を雇うとして、平均10人くらいの人間でやっているのでしょうか。日本で考えても、4億円の利益のある仕事を10人でやるというのは、かなり妙味のある仕事ですね。ですからベネトンの代理店になるというのは大変なのです。競争が激しくて。アメリカで展開した時も、イタリア人が先を争ってアメリカに乗り込んで、各地域を自分のところのテリトリーにくれということで、日参をしておりましたけれども、代理店によってはプライベートジェットをお持ちになって走り回っているような方もおります。さきほど申し上げましたモンテベルーノの最初の店の方は、南フランスを代理店として認めてもらって、この間も私はイタリアで会いましたけども、真っ黒に日焼けして、いかにも優雅な感じに見えましたけれども、かなりメリットのある仕事です。
イタリアというのは、元々問屋さんの機構が少ないところなので他のいろいろな消費財も、基本的にはそのメーカーがその地域の代理店に任せて売ってもらうというケースがかなり多いのです。ベネトン社もそれをワールドワイドに作り上げたということだろうと思うのです。販売上げのベネトンがこれだけ伸びてきた一つの理由だろうと言われております。
それから、ベネトンのイメージ戦略についてお話をさせて頂きます。ベネトンはこの数年、非常に話題のある広告をずっと出して参りました。ルチアーノ・ベネトン会長とオリヴィエロ・トスカーニという写真家が、2人で基本的には決めてやっていたキャンペーンです。このオリヴィエロ・トスカーニさんというのは、ちょうど今年契約が切れて、ベネトン社を去りました。私はやれやれというふうに思っております。84年からベネトン社は人種の問題、エイズの問題、環境の問題、直近では死刑囚の問題ですとか、いろいろな問題を取り上げて、これでもかこれでもかというふうに訴えて参りました。それで日本をやっている者としては、けっこう大変だったのです。私も一番最初にこれを出せと言われたのは、忘れもしないコンドームの広告の時でした。各シーズンだいたい6枚くらい写真が本社から届くのです。それで、その中で日本では絶対使えないものというのがあります。例えば女性の乳房が出ているものですとか、そういうものは基本的にはできないので、その都度いろいろな代理店の意見を聞いたりして決めていました。
あのコンドームの時は、これが一番無難だろうということで、青山通りのブルックスブラザースのちょうど前あたりに大きな看板があるのですが、そこの場所を借りまして、出しました。本当にどうなるかと思って出したのですが、その日朝から夕方まで、消費者からの問い合わせ、批判が5千件ありました。ベネトン・ジャパンの前身ですけれども、ベネトンの東京のオフィスは、それでまったく電話が使えないような状態になって、翌日あわててアルバイトの方を雇って対応をしました。でも比較的好意的な問い合わせが多かったですね。女性からこのコンドームどこに売っているのというのがかなり多かったのです。それもあって、後に私どもがコンドームのライセンスをオカモトさんとベネトンという商標でやっております。とにかくチ変な大変な思いをしました。死にかけたエイズの患者の方の写真を、間違って病院のそばにたまたま出てしまって、亡くなりかけていた家族のいらっしゃる方から抗議の電話を受けたり、もう本当に大変でした。一方、広告大賞ですとか、そういう賞も受けました。
なぜあんなことをやるのだろうと、皆さんたぶん思われたと思うのですが、オーナーに言わせると、広告というのは、全部同じだと。言っていることは、基本的には自分のところの商品がいかに優れて、いかに良いか。それでぜひ使って下さいと。ベネトンは、だいたいどこへ行っても店があるのだから、店が広告みたいなものだと。そんなことにお金を使ってもばからしいじゃないかと。それだったら、消費者の方に少しでも何か話題になるものを提供して、消費者の方がそれについて考え、または話をしてもらうといいのではないか、という考え方で自分はやっている、というふうに説明をしていました。あれだけ批判があって、ドイツあたりでも不買キャンペーンが起きたり、アメリカでも大きな騒ぎを起こし、バチカンからは、神父さんと修道女がキスをしているような写真で、大変怒られ、はたまたエリザベス女王の顔を真っ黒に塗った本を出し物議をかもし、本当に世界中から非難されても、本人は平気で自分は裸になり、たんすの中のいらないものを出して下さい、貧しい国にあげましょう、というキャンペーンに出たり、大変意志の強い人で、私もびっくりしました。
店舗の方は、世界中どこも同じ企画の店舗にしております。店舗でもいろいろな種類があって、大きさによって、アルチペラーゴだとかメリチェリアとかいろいろ分かれておりまして、店舗を開けたい方がいらっしゃると、ベネトン社傘下のいわゆる内装をやる会社が何社かありまして、そこに発注します。ここでも少しでも安く店舗が開けるように、コストダウンを盛んにやらせているということでございます。店舗内装は、イタリアのスカルパ氏という日本でも知られたこれは日本ではかなり有名だったデザイナーで、スカルパさんという建築家がデザインしております。、その方の息子さんとその奥様が現在やっております。
それから、世界中の販売されている商品は、一応サジェステッドプライスということで、世界的に値段がある程度統一されるように値段を指定しております。独禁法の問題がありますので、すべてこの値段にしろということはできませんけれども。さきほどの広告、マテリアルについては、すべてベネトン社で作成して、それを世界で使っております。
それから、カラーズという雑誌を出しております。これもオリヴィエロ・トスカーニさんがやっていた雑誌ですので、非常に個性の強い、時にしては問題のある雑誌でございます。見かけた方もいらっしゃると思いますが、これからもこの雑誌はオリヴィエロ・トスカーニではなく、違う人がディレクターになってやっていくのではないかと思います。とにかく日本でこの雑誌を一度だけ私は身を呈して成田の税関で止めて、焼いたことがございます。日本人が差別をされている民族に対してどう呼ぶかという呼び方が書いてあったのですね。訳したのはニューヨークに住んでいる日本人がやったらしいのですが、まったく日本の現状などわからないから、適当に訳したのですが、こんなものが入ったら大変なことになるということで、成田で止めました。それからもう一つは、大きな写真があって、やくざの親分が後ろで紋が入っているのですね。日本のやくざというのは、売春と麻薬と何かで生活をしているというふうに書いてあるわけですね。さきほどの差別の問題もやくざの問題も、日本では受け入れられない内容が日本語ででした。我々ベネトン・ジャパンが被害をこうむる以上に、店舗をやってらっしゃるお客様に迷惑がかかるだろうと。それが最大に考えなければいけないことでしたので、成田で止めて燃やしました。いまだにオリヴィエロ・トスカーニに会うと、私の雑誌を焼いたのはお前くらいだと言われて、嫌みを言われるのですが、日本の社会というのは、やはり日本人でなければわからない部分というのがありますから。やっていいことと悪いことが世の中にはあるのだぞということを、良く彼には言っていたのですけれど、そんなことを言っても、「だから社会は変わらないのだ、お前」などと言われましたけれども。
それから私どもはファブリカという学校を作りました。これは17世紀のヴィラを安藤忠雄先生にお願いして改修をし、ベネトン社のそばに開きました。ここに世界中から才能のある若い人たちを呼んで、1年か2年、自分たちの好きなテーマで自由に勉強してもらうアートスクールです。グラフィックをやっている方もいるし、写真もいるし、いろいろなジャンルでクリエイティブな部分で才能のある方たちに来てやって頂いている。日本人の方も今4人くらいいらっしゃるのかな。Tシャツのグラフィックを専門にやってらっしゃる方もいます。一人の方は何か冷蔵庫の研究をしているとか。いろいろなそういう若い方にそういう場所を提供して、自由に勉強をしてもらおうという機関がございます。
質問者 有意義なお話ありがとうございました。今年もたまたまトレビソに行く機会がございまして、いろいろ土地の方からベネトンの由来などを聞かされました。新しい話で、テルミニだとか、ミラノのセントラルの駅舎をベネトングループが買収すると。買収するというのか買うというふうな話があって、買ったとか聞いておりますが、その後どういうふうになるのかなということと、今いろいろお伺いしていると、私は食文化の方でございますので、どうもイメージが、例えばスピッチコとチャオオートグリル、その辺とベネトンの他の商品のイメージとがどうしても不一致だということで、あまりにもレベルが違い過ぎるということなので、あれはなにか将来多少変わっていく可能性があるのでしょうか。
遠藤 まず最初のご質問ですけれども、イタリアは国有鉄道を一生懸命民有化しようとしております。持っている資産を売却してという考え方がございまして、ローマのテルミニ駅ですとか、そこの建物を売却をしているわけですけれども、私どもも一部他の企業と一緒にそこに投資をさせて頂いています。それ以外にイタリアは高速道路を今民営化をしておりまして、そういう高速道路のオペレーションをする企業にも投資をしていたり、マルペンサ空港から市内まで今電車が走っていますがそういうところにも投資をしたり、それからマルベンサ空港そのものにも投資をしたり、それからこの間日経新聞にも出ていましたが、ローマ空港のオペレーションをやはり民営化しようということで、2つのグループがあって、1つはどこでしたか忘れましたが、ベネトンはそれに負けたとか書いてございましたが、そういう分野にも投資をしております。
それで駅の投資については、基本的にはショップを開けたいということがございまして、それで積極的に投資をしているということです。それからレストラン、スピッチコ、それについては、ルチアーノ・ベネトンの弟のジルベルト・ベネトン氏が今会長になっているのかな。だけど基本的にはそのレストラン業に投資をしたのであって、オペレーションは今までの通りの方が皆さんやってらっしゃる。ベネトンとはまったく別のオペレーションで、ベネトン社をやっていた人間はほとんど入っていないわけですね。ですからそういう意味で、1つの企業として、投資の対象として買収をしていますので、そこにそのベネトンの考え方というのはあまり入っていないと思うのですね。
質問 トスカーニの広告写真は評判はいかがでしたか。
遠藤 悪趣味だという声が多かったですね。女性は余りそういうことをおっしゃらないです。女性の方がやはりそういう点では弾力的に物事を判断されますね。男はやはりうるさいですね。保守的ですね。うちもですから社員は余り男性はいないのですけど。
質問 ベネトン・ジャパンの役割ですが。
遠藤 基本的にはイタリアから輸入をして、日本だけ特殊なケースで説明をしませんでしたけど、イタリアから輸入をして、各店舗に、店舗に納めるのはもう直接イタリアから入りますけれども、いわゆるインポートとショップにディストリビュートの業務が一つと、それからいろいろなライセンスの業務をやっております。先程申し上げましたオカモトさんとコンドームをやってみたり、フジフィルムさんと使い捨てのカメラをやってみたり、雑貨ですとか、靴ですとか、いろいろなアイテムをやっておりますけれども、それのコントロールと、それから企画のフォローですとか、そういった業務です。これからはさきほど申し上げましたように、原宿のお店は直営にして参りますので、日本の場合特にやはり個人のお店の方はなかなか大きな店舗投資ができないので、直接私どもがオペレーションしていこうというふうに考えております。
質問者 私は個人的にベネトンさんの名前を聞いたのは、F1のスポンサーとしてやられたのが最初にお聞きしたのですが、もしその辺の関係で何かありましたらお聞きしたい。
遠藤 F1は80年代に入りまして、独自のチームを持ち、ベネトングループの傘下にベネトンフォーミュラリミテッドという会社を作りまして、ロンドンのオックスフォードに巨大な工場を持ち、350人くらいの技術者を雇い、ルノーから来るのはエンジンだけなのですね。それ以外を全部その工場で生産をしていたのです。日本はマイルドセブンさんが巨大なスポンサーとして支援をして頂いて、今も走っているわけですが。ベネトンがまだ知名度がなかった頃、ヨーロッパを中心に世界で展開する上で、大変効果があったF1ですけど、余りにもコストがかかり過ぎるのと、やはり一般の自動車産業が参入をして参りまして、私どものように自動車産業でない企業がオペレーションをしていくのは、難しい。もう勝つこともなかなかできにくいだろうということで、ルノーに今年そのベネトンフォーミュラリミテッドを売却致しました。今年の2月だったでしょうか。今年と来年はベネトンフォーミュラチームということで走りますけれども、たぶんその後はルノーという名前に変わるのではないかなと思います。
司会 ヨットはやらないのですか。
遠藤 ヨットは、クロアチアにオーナーが50メーターくらいの船を持っているのですね。毎年バカンスに入る前にプライベートジェットでトレビゾからそこへ飛んで、そこで何日か船に乗せてもらって、夏のボーナスだなと思って、楽しみにしているのですが、そういう点で船はありますけれども、いわゆるレースやには参戦はしておりません。
質問者 イタリアにいろいろいわゆる高級ブランドがありますけれども、ベネトンは我々が感じている感じでは、そういうところを狙ってないように感じますが、その高級ブランドについてはどういうポリシーというか、考えをお持ちなのでしょうか。ベネトン社として。
遠藤 社としてですか。でもまったくマーケットが違うというふうに考えていますね。私どもは基本的には若い方々のカジュアルファッション。ですからせいぜい1万円から2万円くらい、高くてもそのくらいの商品ですし、一方ジャンフランコ・フェレなんて言うと、ブラウスだけでも30万とか40万ですから。私のたまたま家内がジャンフランコ・フェレとミッソーニとあとトッズという靴があるのですが、たまたま友達だったので、日本を手伝ってくれというので、PRをやっているのですが、オーナーがいつも家内に言うのですがこれフェレよなどと言うと、それでベネトン何十枚買えるよと。オーナーは商品を安く、良く、とにかくたくさんの人に着てもらいたいという考え方です。
逆にハイファッションの方は、限られたお客様に高価でもぜひ自分のものを買って欲しいという考え方ですから、根本的に違うと思うのです。当社のオーナーは高級品には興味がありません。10年くらい前に韓国へ行った時に、南大門のマーケットでルイ・ヴィトンの贋物のバッグを買ったのですがそれも相手に散々言って安くさせて、たまたまそれでは僕も買おうかなと思って、では2つだな、2つだったらもっと安くできるだろうと。相手の人に散々言って安く、日本円でも本当に何千円というものだったと思うのですが、買ったのをいまだに使っていますけど、誰もルイ・ヴィトンの贋物だと思いませんよね。ネクタイやなんかも、なるべくバーゲンで買うのだそうです。彼曰く、要するに個性のある商品が残るのだと。おもしろいものが残るから、自分はネクタイはバーゲンで買うと。
質問者 今お話をずっと聞いていますと、ベネトンというのは本当に世界的な巨大な会社で、お金もたくさん儲けているという印象がすごくするのですが、儲けてそれをまた次の事業に展開していくと。あるいは別な形で文化事業、企業メセナみたいな、そういうことではどんなことをやって来たのでしょうか。またこれから計画があるのでしょうか。
遠藤 一つにはさきほどご説明申し上げたアートシゥールですね。若い人達に食住を提供し自由に勉強してもらっています。後は、ベネトンファンデーションというのがございまして、図書館を運営をしていたり、後は次男の方のお嬢さんが少し障害のある方なので、そういういわゆる特別な病院を作ったり、そういうところにかなり投資をしていますね。さきほどお話したパタゴニアの牧場の話ですが、そこにも美術館を作って、プリミティブの時代からの美術館を作ったり、そういう部分部分では結構いろいろなことに力を入れてやっています。
質問者 アパレル関係の方にぜひ質問してみたかったのですが、ベネトンの話でなくて大変恐縮なのですが、ミッソーニございますよね。あのミッソーニの色の使い方というか、デザイン、特に色の配色は、どうも北アフリカのモロッコとか、あのあたりの伝統民族に非常に近いものがあるのではないかと思うのですが、そこらの関連性みたいなのがあるのではないかと私は思っているのですが、どうでしょうか。
遠藤 むろんあります。むしろ南米のウルグアイとかパラグアイとかあちらの方の衣装がかなりデザイン上のヒントにはなっていると思いますね。ファッションでもいろいろ、その時代時代で、例えばアフリカの民族のコスチュームを取り入れてみたり、今年は東洋だからといって、何か日本の着物みたいなのをやったり、そういう文化とファッションは切っても切り離せない関係があると思います。たぶんミッソーニというのは私も本当にお世話になった一家です。彼らの作品について、本当に僕も好きだし、確かにおっしゃるように、アフリカなのでしょうか。僕はどちらかというと南米のいわゆるインディオのそういう柄だとかに影響をずいぶん受けたなという印象を受けたのですが。例えばベルサーチの作品の根底にはイタリアでも南のいわゆるギリシャの文明の影響を受けた、そういうソースを感じることもございますし、いろいろな文化の影響を受け合って、ファッションというのはできてくるのではないかというふうに思っています。
報告者プロフィール
遠藤 嶂(えんどう・たかし)
立教大学経済学部卒
西武百貨店に入りミラノ駐在
1987年ベネトン・ジャパン設立と同時に社長を経て会長
この講演内容は印刷物としても発行されています。
イタリア研究会報告書No.91
2001年9月19日発行
企画編集 イタリア研究会
発 行 スパチオ研究所・伊藤哲郎
(目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)
事 務 局 高橋真一郎
(横浜市青葉区さつきが丘2-48)