第242回 イタリア研究会 2000-09-30
中世シチリアの異文化交流
報告者:東京大学大学院助教授 高山 博
第242回イタリア研究会(2000年9月30日 六本木・国際文化会館)
東京大学大学院助教授 高山 博
「中世シチリアの異文化交流」
司会 それでは第242回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は高山博先生です。資料がお手元にあると思いますので、いろいろなことが最初の部分に書いてありますが、中世シチリアの、特にノルマンの関係のことが専攻というふうに伺っております。最近「中世シチリア王国」というのを、講談社現代新書から出しています。後東大の出版界から2冊、そういうふうに書いておられますが、これでいきますと、エール大学の大学院を終了して、歴史学博士。現在は東京大学の大学院の人文社会系研究科助教授でいらっしゃいます。早速先生にお渡しして始めたいと思います。よろしくお願いします。
今日のテーマ
高山 この講演を最初に依頼された時には、「イタリア研究会」ということでしたので、専門家向けの話をすればいいのだろうと思っておりました。ところが、その後詳しく話を伺ってみますと、会員の方たちは必ずしもイタリア史の専門家ばかりというのではなく、いろいろな方がいらっしゃるということなんですね。それで、どういう話をしようかと、少し迷いました。通常の一般向けの講演であれば、あまりシチリアのことをご存じでない方たちを念頭において話をすればよいのですが、この研究会は、イタリアのことにかなり詳しい方もいらっしゃるということですので、どのような話題を選ぶべきか考えました。
結局、今回は、あまりシチリアのことを御存じでない方にも、ある程度御存じの方にも、新しいことを知って頂けるよう、最初にノルマン期のシチリアの大まかな状況をお話し、その後に私の研究のことをお話することにしました。私が、ふだん大学で学部生や院生に話しているような内容にしたいと思っております。
それでは、早速、このレジュメに従って話を進めていくことにします。まず、私の専門の話から始めたいと思います。私は、ずっと西洋中世史の専門家としての教育と訓練を受けてきておりますので、専門は西洋中世史ということになりますが、その中でも特に中世のシチリア、ノルマン期のシチリアを20数年研究しております。ここにいらっしゃる方はだいたいシチリアがどういうところか御存じだと思いますが、一般の方たちはほとんど御存じないですね。
私が「シチリアの研究をしている」と言いますと、「マフィアの研究ですか」と聞き返されます。だいたいそういう反応がほとんどなんですね。私が20数年間シチリアのことをやっていると言いますと、たいていの人が驚かれて、なぜあんな小さな島を20数年かけてやっているのかと聞き返されます。イタリア人でさえそういう質問をすることがあります。
そのため、私は、自分がどうして中世のシチリアを長年研究してきたのかを、いろいろなところで話してきました。今回も、その話をさせていただきます。なぜ、中世のシチリアなのか。そこには、どういう面白さがあるのか。一般的な面白さだけでなく、歴史学の研究対象としてどういうふうに面白いのか。そういうことをお話したいと思っています。
I.中世のシチリア
ノルマン時代の遺跡・遺物
シチリア島の大きさは、だいたい四国と同じ位ですね。私たちが地中海に対して持っているイメージのかなりの部分がシチリア島に当てはまります。ただ、シチリアは、他の地中海都市と違うところもかなりあります。
これからスライドをお見せしますが、シチリアの特徴をよく表しているものの一つは、アラブ・ノルマン様式と言われる、四角い建物の上に赤い丸屋根が乗ったものです。それから、教会の中にあるモザイクもそうです。このモザイクを御覧になると、多くの方がその美しさに驚かれるのではないかと思います。北イタリアのラヴェンナにも有名なモザイクがありますが、シチリアのモザイクは、それと同じビザンツ様式のモザイクです。ただ、シチリアには、ラヴェンナのものとは少し違ったものがあります。たとえば、ノルマン王宮の「ルッジェーロの間」にある狩猟をテーマにしたモザイクです。このようなシチリアに特徴的なものを、まず、皆さんに御覧になって頂こうと思います。
最初の写真は、パレルモの町です。モンレアーレ大聖堂のある丘の上から撮ったものですが、パレルモの町のだいたいの外観を知って頂ければと思います。
次のスライドは、先程お話したアラブ・ノルマン様式の建物です。これは、パレルモの旧市街の真ん中にあるサン・カタルド教会です。手前がサン・カタルド教会ですね。その向こう側に塔が見えますけれど、あれはラ・マルトラーナ教会です。このラ・マルトラーナ教会の中には美しいモザイクがありますので、また後で御覧になって頂きます。
このスライドは、サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会です。5つの赤い丸屋根が特徴的ですが、これはノルマンの王宮のすぐそばにあります。この建物の下には庭がありますが、かつてノルマン期に作られたアラブ様式の庭だと言われています。かなり崩れていますけれど、こういう形で残っているんですね。
こちらはパレルモの旧市街から少し離れたところにあるサン・ジョヴァンニ・デイ・レブロージ教会です。これも典型的なアラブ・ノルマン様式のものです。
また戻って参りましたけれど、このスライドはサン・カタルド教会ですね。そして、これがその隣にあるラ・マルトラーナ教会の中のモザイク画です。ラ・マルトラーナ教会の中に入ると、大きなモザイク画が二つ目に入りますが、そのうちの一つがこれです。聖母マリアの方はすぐにわかりますね。その下に黄金虫みたいな感じではいつくばっているのは、ゲオールギオスというノルマン・シチリア王国のギリシャ人宰相です。そして、このモザイク画と対をなす形で、反対側にもう一つ別のモザイク画があります。これがそうですね。ルッジェーロ2世がイエス・キリストから直接王冠を授けられている場面です。このモザイク画は、いろいろな書物に取り上げられていますし、私も自分の本の表紙に使っています。
次のスライドは、同じラ・マルトラーナ教会の天井のモザイク画です。この写真は、日付けが入っていますが、実は私が自分自身で撮ったものなんです。この時はめずらしくうまく撮れました。教会の写真はこれまでに相当な数を撮りましたが、まともに写っているのは本当に少ないですね。教会の中は暗くてしかもフラッシュが届かないケースが多く、なかなかうまく撮れないんです。これは数少ない成功例です。さて、次に、いくつか天井のモザイク画をお見せします。これはプロが撮ったものですが、聖人の絵がモザイクで描かれています。これもそうです。
観光客になったつもりで、ざっと見ていって下さい。かなり用意してきていますので、余り説明なしで先へ行きます。
これは、ノルマン王宮ですね。今は、シチリアの州議会議事堂として使われています。そして、これが先程申しました「ルッジェーロの間」ですね。ここに狩猟をテーマにしたモザイク画が描かれています。そのいくつかお見せします。御覧になってすぐおわかり頂けると思いますけれど、今日お見せする他のモザイク画とはかなり趣きが異なっていますね。旧約聖書や新約聖書のモザイクとは全然違っていて、何となく砂漠のオアシスを想起させるようなイメージです。これは、同じルッジェーロの間の天井です。
このスライドは、ノルマンの王宮の中の回廊の一部です。この同じノルマンの王宮の中にノルマン時代の王宮礼拝堂があります。その礼拝堂は、イタリア語でカッペッラ・パラティナと言われていますが、その内部のスライドをいくつか御覧になって頂きます。これは後ろの方から正面を撮った写真です。これは皆さん良く御存じのノアの箱舟ですね。上の方にアダムとイブの図があります。そして、これはカッペッラ・パラティナの天井です。天井は木製なんですが、人物や動物、宴会の場面などの絵が描かれています。また、アラビア文字も書かれています。
これは最初に皆さんにお見せしたパレルモの町の写真を撮った場所にあるモンレアーレ大聖堂です。ここはもともと修道院でしたので、こういう修道院の回廊があるんです。この写真はその中庭の部分、これはその回廊の柱のモザイクですね。それから、これはアラブ様式の噴水だと言われています。次にお見せするのはそのモンレアーレ大聖堂の内部です。非常に大きい聖堂ですけれど、その壁面がこのようなモザイク画で覆われています。先程のカッペッラ・パラティナよりはるかに大規模で、感動的ですよ。シチリアに行かれたら、ぜひ御覧になって下さい。
このモザイク画はキリストの顔を描いたもので、パントクラトール(全能の主)と呼ばれています。これは、それを拡大したものですね。次は、国王グリエルモ二世を描いたものです。これは、よく見ないとわかりませんが、大聖堂の、かなり上の方にあるモザイク画です。左が国王グリエルモ2世です。このグリエルモ2世がこの大聖堂を作ったので、それで彼の姿がここに描かれているわけです。これもそうですね。マリアに大聖堂を捧げている場面です。
これから少し違ったスライドをお見せしますけれど、私の研究とかなり密接に関わっているものです。これはお墓の石です。お墓といっても教会の床に当たる部分ですが。これは4つの言語で書かれていて、当時のシチリアの状況を象徴的に示しています。1番上がヘブライ語で、そして左側がラテン語、右側がギリシャ語、下がアラビア語です。これらの言語が別々の石版に刻まれているのであればそれほど不思議ではありませんが、同じ石版にこういう形で4つの言語が刻まれているとなれば、話は別ですね。非常に興味深いものです。
書かれてある中身自体は非常に単純なものです。ある聖職者の母親が亡くなって、ある教会に埋葬された。そして、その後この教会へ移された。そういう非常に単純なことが書かれているんです。
これも私が使っている資料ですが、これはスライドが裏返しになっていますね。ギリシャ語が読める方はわかるかもしれませんが・・・。これはラテン語の羊皮紙文書です。これもスライドが裏返しになっていますね。この羊皮紙文書には、ギリシャ語とアラビア語で人の名前が書かれています。農民の名前が羅列されていて、その下にはアラビア語の文章が書かれています。
さて、スライドを御覧になっていただきましたが、中世のシチリアの状況がある程度ご理解頂けたのではないかと思います。では、これからシチリアのノルマン王国の話に入ることにします。
ノルマン・シチリア王国の成立
まず、レジュメの地図を御覧になってください。これは、12世紀の地中海とヨーロッパを表したものです。ノルマン・シチリア王国はちょうど地中海の真ん中にあります。この王国は11世紀の初頭に作られた王国ですが、その王国の領地はシチリア島とそれからイタリア半島の両方にまたがっていたため、両シチリア王国とも呼ばれています。11世紀に北フランスのノルマンディからノルマン人たちがこの南イタリアにやって参ります。当時、この南イタリアはいろいろな国が入り交じって戦争をしている状況です。
2枚目の下の地図をご覧ください。これはノルマンが入ってくる以前の大まかな政治状況を示しています。シチリア島はイスラム教徒の島でした。一方、カラブリアとプーリアはビザンツ帝国領になっていました。そしてカンパーニア周辺には、いくつかのランゴバルド系の国々、そしてかつてはビザンツ帝国領だった都市国家があります。このような状況の中で、さまざまな政治勢力が、お互いに戦争していました。そういうところに、ノルマン人がやってくるんですね。
この11世紀には、巡礼が非常に盛んになっており、多くの人々がエルサレムやその他の聖地に巡礼していました。当時、巡礼者たちが地中海を行き交っていたんですね。ノルマン人の場合には、ノルマンディのモン・サン・ミシェルと同様に大天使ミカエルを奉ずる南イタリアのモンテ・サン・タンジェロへもやってきました。彼らの故郷ノルマンディでは、当時、領主の次男、三男が領地を相続できないために、国外に出かける風潮がありました。一獲千金を夢みて若者たちが積極的に外の世界へ出かけていたんですね。
こうして、南イタリアとノルマン人が結びつくことになります。南イタリアに立ち寄ったノルマン人が、戦争をやっている一方に味方して活躍する。そういうエピソードが幾つか残っております。結局、ノルマン人たちが数多く南イタリアに入ってきます。このノルマン人というのは非常に勇敢であるという評判があって、いろいろな君主に雇われるのですね。ビザンツ帝国にも雇われました。それから先程のランゴバルド系の国の君主にも雇われます。だからノルマン人どうしが戦うこともありました。
このように傭兵として南イタリアへやってきたノルマン人の子孫が王国を作ることになります。子孫と言っても2代目です。ノルマンディからやって来たノルマン人の1人がシチリア伯になり、その息子がシチリア王国を作ったんですね。王国ができますと、この2枚目の地図のこれらの地域はすべて王国の一部となりました。つまり、かつてイスラム教徒の支配下にあったところも、ギリシャ人(ビザンツ帝国)の支配下にあったところも、ランゴバルド系の国々に治められていた地域も、全部王国の一部になってしまったのです。
このノルマン人の最初の3人の王の時代に、シチリア王国は繁栄を迎えました。そういう状況の中で、先程皆さんに御覧いただいたアラブ・ノルマン様式の教会やモザイク画が作られるわけです。
II.中世シチリア研究の視点
ノルマン人冒険物語
このノルマン王国は、かつては中世の血沸き肉躍る冒険物語の一部として語られていました。ノルマンディでは土地も何も持っていなかった一介の騎士が南にやって来て、領地を得て、伯になって、その息子は王になったという話です。この話は中世の時代から人気を博し、いろいろな年代記に書かれています。
実際、この冒険物語は非常におもしろいですよね。傭兵として北からやって来た無一文のノルマン人が、どうやって領地を獲得し、伯や公になるか、そしてその息子が王になるかという話ですから。現代でもそういう冒険物語としての書物が書かれています。このような関心が、中世から現在に至るまで、ずっと存在しています。そして、それが中世のシチリアを研究する1つの動機になっているとも言えます。
異国趣味
それから、先程皆さんに御覧になって頂いたモザイク画とか不思議な建築物、つまり、異国趣味も、研究を始める同期の一つとなっています。なぜあんな変わったものがイタリアにあるのか、シチリアにあるのかということで、ヨーロッパの歴史家たちにとっては非常に関心をかきたてる原因になっているわけです。皆さん御存じのように、ヨーロッパ人の意識の中では、ギリシャとかローマというのは自分たちの祖先、ある意味ではヨーロッパ文明の中心です。そのヨーロッパ文明の中心に何か異質なイスラム風の変わったものがある。それはなぜなのだろうと考えてしまう。
なおかつ、モザイクを御覧になって皆さんも同感されると思いますが、非常に洗練されている。中世と言ったら、極端に言えば暗黒時代だったはずなのに、なぜあの時代にシチリアにはあんな華麗できらびやかなものがあるのだという、そういう疑問がわいて、やはりこれが研究を始める1つのモチべーションになっています。そこで、モザイク研究とか、建築の研究が盛んに行われてきました。
東方文化の受け入れ口
それらは昔からあった問題関心ですが、今世紀になって、歴史家の間で新たに大きな関心の源になるものが出てきました。西洋中世史を勉強している人であれば、ああそうなのかと思うでしょうが、一般の人々にとってはあまりぴんとこないものかもしれませんね。つまり、この中世のシチリアが、ヨーロッパにとって、2つの意味で非常に重要だったということです。
1つは、このシチリアを通って、当時の先進的な文化、つまり、アラブ・イスラム文化とギリシャ・ビザンツ文化がヨーロッパに入っていった。このシチリアやスペインでギリシャ語、アラビア語で書かれたものがラテン語に翻訳されて、ヨーロッパに入っていったということです。プラトンやアリストテレスの著作も、こうして、ヨーロッパに入っていきました。イスラムやビザンツの工芸、技術もヨーロッパに入っていった。
実は、このノルマン・シチリア王国が成立12は、ヨーロッパがいろいりな面で急拡大した時期なんですね。人口が増加し、都市が増えている。経済活動、文化活動も盛んになっている。その中に、12世紀ルネサンスと言われる文化活動があります。これはヨーロッパ中世関係の本をお読みになられた方は御存じだと思いますが、15・16世紀のルネサンスよりはるか以前の12世紀に、ルネサンスと同じような大文化活動がヨーロッパにあったという話です。その12世紀ルネサンス論の中で非常に重要なのが、先程の翻訳活動なんですね。
11世紀の終わりから12世紀にかけて、ギリシャ、イスラムの学問をヨーロッパが導入して、吸収して、消化して行く。そして、それを元に近代ヨーロッパができたという見方なのです。このように、ヨーロッパにとって、このシチリアは、先進的な東方文化を取り入れる場として、非常に大事だったと考えられているわけです。江戸時代に、長崎の「出島」を通って、中国文化、ヨーロッパ文化が日本に入ってきたように、シチリアを通ってイスラム文化、ギリシャ文化がヨーロッパに入ってきたんですね。
近代国家組織の揺籃の地
それだけではなくて、もう1つ重要なポイントがあります。近代国家組織の原型となるようなものが、このシチリアにあったのだという議論です。
ヨーロッパの歴史学を発達させてきた原動力は何かと言うと、自分たちの国がどうやってできたかという過去の探究なのですね。これが19世紀にヨーロッパの歴史学を飛躍的に発展させたのです。その時歴史家たちは、フランスはどうやってできたのだろう。フランスの源はどこにあるのだろう。あるいはドイツ、イギリスの元はどこなのだろう。さらには、この19世紀に、世界で最も先を行っているヨーロッパ文明の源はどこにあるのだろうという議論をやっていました。
そのような問題意識の中で、中世が盛んに研究されるようになります。フランスの国家組織、官僚制、あるいは軍隊の組織、こういったものがいつ頃どこでできたのか。近代になって世界を制覇するような、こういう優れた国家機構というのはどこから始まったのかということで、歴史家たちは中世を探りました。当時はナショナリズムが非常に強いですから、例えば、イギリスの歴史家とフランスの歴史家はその源を探って、フランスの方が先だとかイギリスの方が先だという議論をしたり、イギリスの方が先に近代化してそれをフランスが模倣した、あるいはその逆というような議論もやっています。
国の歴史を書く時に私たちの頭を悩ませるのは、どこから始めるか、どの時点を国の始まりとみなすかという問題です。19世紀の歴史家たちも、この問題を抱えていました。たいていは、国の歴史の中心にくるのは国王や国王の行政組織ということになるのですけれど、その近代的な要素は、いったいどこから始まったのかということに関心が集まります。それをずっと遡っていったら、12・13世紀のイギリスやフランスにいってしまいました。フランスの場合、12世紀に王権は非常に弱く、パリ周辺しか治めていません。当時は、ノルマンディ公の権力が、フランスの王家よりもはるかに強く、ノルマンディ公国の方が国としてのまとまりを持っていました。その後、フランスの王権が13世紀初めにノルマンディ公国を吸収しますが、その前後の時期に、そのノルマンディのシステムをフランス王国に導入した可能性が考えられます。そして、もちろん、11、12世紀のノルマンディとシチリアとの間には密接な人的関係があります。そして、ノルマンディ公によって征服された11、12世紀のイングランドもこれと結びつきます。さらに、13世紀初めに、シチリアの王は神聖ローマ皇帝となり、ドイツとシチリアが結びつくことになります。13世紀以後のドイツは、このシチリアの影響をずっと引きずることになります。
このように、ヨーロッパの近代国家の組織の元になるものを、中世に遡って調べていたら、シチリアにたどり着いたというところがあるんですね。ということで、このシチリアにおいて、近代国家の元、あるいは近代国家組織の元になる制度とか組織が作られたと考えられ始めた。そして、そういう問題関心からシチリアのことを研究する歴史家が出てきました。これが20世紀です。
今皆さんに申し上げたようなことが、このシチリアを研究している学者たちの関心ということになります。
地中海三大文化圏の接点
ただ、私自身は、全然違う問題関心から入っていきました。先程お話ししましたように、このノルマン・シチリア王国は、アラブ・イスラム文化とギリシャ・ビザンツ文化とラテン・キリスト教文化がちょうど接しているところなんですね。そのために、これら三つの文化的要素が王国の中に併存しています。
このような異文化併存の状態は、実は、世界の歴史の中でそれほど珍しい現象ではありません。海によって外の世界から遮断されてきた日本と違って、ヨーロッパやアジアではいろいろな人たちが入り交じっているというのが普通なんですね。地中海を見れば、たいてい様々な文化的背景を持つ人たちが移動しています。
ところが、歴史家が過去を研究する場合には、そういう異文化が併存している状況というのはなかなか見えてこないんです。これは少し考えればすぐわかることなんですけれど、残っている資料がたいてい征服・支配した側のものなんですね。王宮で書かれたものや王による許認可状などは残っていますが、支配された側のものはほとんど残っていません。つまり、残されている資料には大きな片寄りがあり、歴史研究者たちはその状況に制約され続けているんです。
先程御覧になって頂いた建物やモザイク画も過去を知るための貴重な資料ですが、情報量が多くて最も頻繁に利用される資料は文字資料です。そのような文字資料が、どういう形で残っているかを少し話しておきましょう。私が最もよく使うのは、修道院が保管している羊皮紙の文書です。その多くは、王や貴族が土地を寄進するときに作成する寄進状です。修道院は、この寄進状を、土地の権利証として長いあいだ大事に保管しています。この時代には、戦争が頻繁に生じ、武力によって領地が占有されることがしばしばありました。しかし、このような寄進状があると、平和が回復した時にその土地の権利を取り戻すことができるんですね。戦争の前の状態に復帰させるというわけです。このような理由で、修道院や教会が土地の寄進状などを大事に保管してきました。そして、現在、私たちがそれをみることができるというわけです。しかし、そのようなもの以外はたいてい消えていきます。何らかの保管のシステムがあるか、よほどの幸運にめぐまれないかぎり、1000年や2000年の年月に耐えて現代まで残ることはありません。
このように、私たちに残されている資料は、まったく断片的なものです。しかも、そのほとんどが支配者の側とかかわっているものということになります。このような状況ですから、民衆の生活を知りたいとか、支配されていた人々の気持ちを知りたいと思っても、それを教えてくれる資料がほとんどないのです。したがって、支配者の側で書かれたものや教会で書かれたものから類推するしかないんですね。そういう状況ですから、私たちは、支配する側だった王の歴史というのは割とわかるのです。ところがそれ以外のものはあまりわからない。
中世シチリア研究のメリット
ところで、シチリア王国には、3つの言語が併存し、その3つの言語で書かれた資料が残っています。これは他の場所ではあまり見られない特殊な状況なんですね。アラビア語とギリシャ語とラテン語で書かれた資料が残っていると、単一の言語資料からはわからないいろいろなものが見えてきます。ラテン語文化圏の他の地域の場合には、たいていラテン語のものしかありませんが、ここには、同じ内容のものが、先程の石版みたいに、異なる言語で書かれているんです。
このように、私の関心からすると、ヨーロッパの近代国家の源がここにあるということではなく、異なった文化圏が併存しているということが魅力的だったんですね。
三つの専門分野の接合
実現できるかどうかはわかりませんが、私は一つの大きな希望をもっていますので、そのこともお話しておきたいと思います。学問は一般に専門化を進めていく傾向にありますけれど、歴史学もその例外ではありません。たとえば、中世シチリアの歴史に関わる専門領域と言えば、ビザンツ史、イスラム史、ヨーロッパ中世史がすぐに思い浮かびますが、これらはそれぞれが独立した学問領域を構成しています。つまり、イスラム史の専門家になろうとする人は、イスラム学の分野で蓄積されてきた問題意識や分析手法を学ぶ必要がありますし、ビザンツ史やヨーロッパ中世史の専門家になろうとする人はやはりそれぞれの分野で同じような訓練を受けなければなりません。その結果、私はビザンツ史を専門にしていますとか、ヨーロッパ中世史を研究していますと言うと、この人はビザンツ史家やヨーロッパ中世史家としての訓練を受けているという具合に了解されます。それほどはっきりと、各専門領域が独立した学問領域を形作っているのです。
しかし、例えば地中海周辺の異なった文化を比較したいとか、異なった文化が併存するシチリアや地中海の歴史を研究したいとなると、そういう独立した学問領域が非常に大きな障害になるんですね。学問分野が研究の障壁になってしまうのです。
中世シチリアの研究をやるためにはそういう障壁を自分で崩していかねばなりません。私が希望と言ったのは、この中世シチリアの研究を土台にして、独立した学問領域を自分なりに接合することができないかとということなんです。中世シチリアの研究をしていれば、そのためのきっかけやヒントがつかめるのではないかと思っています。以上が、私の問題関心です。
王国の統治組織の研究
このように、ノルマン・シチリア王国は私にとって非常に興味深い研究対象なんです。王国研究の中でも私が集中的に研究を行ってきたのは、近代国家組織の源と言われていたその王国の行政組織、統治組織です。最初は異なる文化的な要素を比較することも考えましたが、資料的な制約が大きく、本格的な研究をすることはできませんでした。たとえば、先程お見せしたモザイク画から過去の現実を知ろうとしても、そこからいったい過去の何を引き出していくか、そして何を知るかということになると、とたんに壁にぶつかるんですね。
しかし、王の統治組織や行政組織に関する資料は多く残っています。私自身、いろいろな言語で書かれたものが、同じ事柄に関して残っているという理由でこの研究を始めました。そうして20数年がたってしまいました。
さて、この研究分野は、非常に国際化が進んでいます。すでに19世紀からいろいろな国の人たちがこの王国の統治システムを研究しており、その蓄積が現代に至っています。今は、イギリス人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人、イタリア人が活躍しています。それに日本人も加えさせていただければと思います。私のケンブリッジの友人は、かつてこの分野を「激しい戦場」と呼んだことがあります。研究者たちが、お互いに、もちろん論文の上でですけど、激しく戦っているというわけです。
研究者たちの関心の変化
では、具体的にどのような論争があったか紹介しておきましよう。最初は、先程お話ししたような理由から、シチリアの高度に官僚化した組織はどこから来たのかという問題に関心が集中していました。これが19世紀の研究者たちの問題関心の焦点なんですね。12世紀にはイングランドの行政組織が非常に先進的で官僚化が進んでいると考えられていましたので、最初のうちは、シチリアのこの高度に官僚化した組織は、イングランドから来たのではないかと考えられていました。このイングランド起源説に対して、そうじゃないのだ、ビザンツからきたのだという説が出て参ります。その後、さらに、イスラム起源説が出てきます。研究者がどの起源説を取るかは、たいていその人のバックグラウンドを見るとわかります。たとえば、イスラム史家はイスラム起源説、ビザンツ史家はビザンツ起源説、イギリス史の専門家はイングランド起源説を取るといった具合です。分かれるのはイタリア史の研究者たちですね。
こういった起源をめぐる論争というのがありまして、多くの研究者たちがこの問題にかかわっていました。非常に興味深い状況だと思います。異なった専門の研究者たちが、このシチリアのことを研究して、その先進的な制度の起源をめぐって論争していたわけですから。
ところが、ある時からこの起源をめぐる論争がなくなってしまいます。研究者たちの関心が突然変わるんです。研究の歴史というものもよく調べてみるとなかなかおもしろいと思います。1901年、つまり20世紀の初頭ですが、イタリアのガルーフィという人が、一つの論文を書きました。やはりこの人も起源論争に加わっていたのですが、その論文の中で、非常に精緻な財務行政機構のイメージを提示したのです。それを図式化したのがここにあげた図です。1番上に王宮評議会があって、これが王国全般のことを取り仕切っている。その下に財務分野を扱う特別の委員会があって、その下に監督局がある。この監督局は2つに別れています。1つは王領地関係を扱う部署、もう1つは封土関係を扱う部署です。そして、その下に財務局があります。これは、国王の役所の中の財務部門を示しているわけです。この組織図を見ると、当時の西ヨーロッパにおいては、かなりの専門化ということができます。ガルーフィは、こういう組織図を提示したんですね。これがガルーフィ説としてその後ほぼ100年近く残り、シチリアの官僚機構の先進性を示す論拠となります。
このガルーフィの論文が出るまでは、学者たちは起源をめぐる論争をしていましたが、その後は、組織構造に関心が集中することになります。この王国の財務行政の組織は、実際に、ガルーフィが考えるような構造になっていたのかということが中心的な問題となったわけです。研究者たちは、ガルーフィの組織図が正しいかどうか、どこか間違っていないか、違う見方はできないかと、資料を検討しました。そのような研究が20世紀初頭に続々と発表されました。
しかし、それからもうすでに1世紀がたちますけれど、結局はほとんどがこのガルーフィの組織図の枠組みからはずれなかったように見えます。細かい点では異論が提示されましたが、結局、このガルーフィ説が通説の地位を獲得し、ごく最近まで生きていました。
III.私の研究
私の20数年間の研究は、一言で言えば、このガルーフィ説批判だったということができます。つまり、このガルーフィの説がどのように誤っていて、実際はどうだったかを、論文や書物で提示してきたということです。
資料をごらんください。ガルーフィ説の右側に別の図があります。これは私の理解を図式化したものですが、ガルーフィが考えるように精緻なものではなくて、かなり大ざっぱな組織だったと思います。王がいて、宮廷があって、宮廷の中にドゥアーナ・デ・セクレティースという役所がある。この役所はもともとアラビア語で書かれた文書を保管管理するために作られた役所だったんですね。ノルマンの支配が始まった頃、シチリアの農民、住民の多くはイスラム教徒で、アラビア語で書かれた土地台帳や農民名簿がありました。ノルマンの支配者は数から言えばごくわずかで、そのごくわずかのノルマン人が、大勢のイスラム教徒を支配しなくてはならない。その時にかつてのイスラム教徒の支配者が使っていた土地台帳とか名簿を使った。だから、こういう役所が必要になったということなんです。
その後、かつてビザンツ帝国領だったアプーリア、カラーブリア、ランゴバルド系の国々があったカンパーニャなどの半島部が王権の支配下に入りますので、そこを治めるための役所を置く必要が出てきます。つまり、半島部を治める出先機関をサレルノに置きました。ということで、私は、ガルーフィの財務行政機構図は間違いだったと考えています。研究者たちが考えてきたほど、専門化が進んでいたわけではなく、もっと大ざっぱな支配のあり方だったということです。
研究者が誤ること
ではなぜ研究者たちは間違ってきたのか。まず、言葉の問題があります。ほとんどの学者たちはアラビア語を読めず、アラブの専門家の研究を利用していました。しかし、知らない言語の言葉は特別の用語と見がちで、テクニカルターム化する傾向があります。たとえば、ある役所を三つの言語で表すと3通りの呼び名が出てきますが、資料が少ない場合にはそれらの三つの呼び名が同じものを指していることがわからない場合もあります。同じ事柄が三つの言語できちんと対応させて書いてあれば問題ありませんが、そのようなケースはほとんどありません。実際には、ある言語には存在して別の言語にそれにあたるものがないということもあります。そうすると、対応関係が確定できず、実際以上に複雑化してしまうんですね。
それから、認識の枠組みの問題があります。近代国家組織ができる過程で、一番最初に王権のもとで作られた組織というのは何かというと、司法と財務の組織だった。つまりお金を集めるところ、これが大事でしょう。それから、人を裁く裁判所ですね。その結果、中世においてこの2つから組織というのが作られてきたのだろうと考えられた。そのため、研究者は、中世の組織をどうしても財務と司法に分けて考えたがるのですね。今まで紹介してきた組織は財務部門として処理されてきた。しかし、実際には、土地台帳を管理する役所で財務とまったく関係なかったんです。
3つ目は、時代的な変化に余り注意を払ってこなかったということです。これは仕方がないと言えば仕方がないのですけれど・・・。資料がそれほど多くないとすれば、例えば1世紀単位である時代を見るというのは仕方のないことです。しかし、このシチリアのノルマン王国では、統治組織が急速に変化していたんです。急速に変化しているにもかかわらず、王国の統治組織が変わっていないという前提で研究しますと、ルッジェーロ2世の時代にしかなかった役所とグリエルモ2世の時代にしかなかった役所を、同じ時代に2つの役所が同時に存在していたという具合に誤ってとらえてしまう可能性があります。
最後に、最も大きな問題として、研究者の思いこみを指摘しなければなりません。研究者たちが提示してきたシチリアの行政組織は、どれもみな非常に複雑なんですが、誰もこの複雑さに対して疑問を投げかけていません。実際は非常に単純だったにもかかわらず、なぜ何十人もの学者が複雑な組織構造をおかしいと思わなかったのでしょう。
これにはやはり理由があると思います。私は、彼らが研究を始めた時から、複雑な組織というのを期待していたからではないかと疑っています。つまり、このシチリアの統治システム、行政組織を研究する人たちの多くは、近代国家組織の起源に関心をもっていました。彼らは、シチリアの組織の先進性、官僚制の発達を立証したいという気持ちをもっていたのだと思います。より高度に官僚制が発達した組織図を出せれば、その人の研究の価値は高まりますが、逆に官僚制が発達していなかったということになれば、その人の研究の価値が疑われることになります。自分たちがやってきた研究の意味を否定することになるんですね。結局、研究を始める時の問題意識が、最後まで研究をしばり続けたのではないかと思います。
研究者がもつこのような傾向は、中世シチリアの研究にだけ見られる現象ではありません。フランス史やイギリス史の場合も、そういう傾向が見られます。最初の問題意識が、最後まで尾を引いてしまう。だからそれに合わないものは、意識的にしろ無意識にしろ、切り捨ててしまうことになります。
私の場合は、シチリアの行政制度の先進性を立証することが研究の目的ではありませんでしたから、そのような思い込みをもつことがなかったのではないかと思います。私は、3つの文化が併存しているということに関心があって、その状況を見るために研究を始めたわけですから。
国際学界の反応
この私の見方に対して、国際学界がどういう反応を示したかということもお話ししておきましょう。ガルーフィ説を否定する日本語の論文を発表したのは1983年、その英語版をアメリカの専門誌に発表したのは1985年でした。通説を否定した論文でしたので、その時、私は全世界から激しい反論が返ってくるだろうと予想していました。しかし、実際には、まったくと言ってよいほど反応がありませんでした。この論文が言及されるようになったのは、それから二、三年たってからでした。それも、参考文献として、あるいは、新しい研究として注にあげてあるだけで、論文に対する評価もコメントもありませんでした。
そのような状況が変わったのは、1993年に英語の本を出版した後です。この本は、1983年の論文と、それ以後書いてきた数本の論文を核にして書き上げた博士論文でした。統治システムがノルマン支配の時代に、どのように変化していったかを検討したものです。最初の論文はガルーフィ説批判を目的としたものでしたから、行政組織に関する特定の問題だけを扱いました。しかし、この本では、一世紀以上にわたって、統治システムがどのように変化していったかを検討しました。日本語版は1993年に東大出版会から出版され、英語版は同じ年にブリル社から刊行されました。その後、多くの研究者たちが私の研究を引用してくれるようになったんです。
そのいくつかを紹介します。まず、資料の8枚目をごらんください。左側はフェデリーコ2世に関する書物の一部ですが、ノルマン期の行政機構に関する基本文献としてこの本が挙げられています。右側もやはりフェデリーコ2世に関する書物です。資料の9枚目は、ノルマン・シチリア王国に関する研究動向をまとめた論文ですけれど、重要な貢献としてこの本とそれまでの論文が言及されています。資料の10枚目は別の書物ですが、ノルマン・シチリアに関する重要な研究として言及されています。
私としては不本意な利用のされ方もあります。11枚目をごらんください。ここでは、イスラム史の専門家たちによって、イスラムのヨーロッパへの影響という文脈で、私の研究が使われています。19世紀のイスラム起源説がこういう形で復活してきたんですね。私自身は異文化の併存という視点からこの研究を進めてきたんですが、90年代の終わり頃からヨーロッパへのイスラムの影響の証拠として、利用され始めたんです。
中世フランスの研究
では、最後に、私自身が現在どのような問題関心を持っているかをお話ししたいと思います。最近は、シチリアの研究に加えて中世フランスの研究にかなり時間を割くようになりました。その理由からお話ししていきます。
私はもともと異なる文化の比較、とくにイスラムとヨーロッパの比較をやりたくて、シチリアの研究を始めました。そして、ビザンツ史、ヨーロッパ中世史、イスラム史を勉強してきました。しかし、実際にヨーロッパとビザンツ帝国、イスラム世界を比較しようとすると、大きな障害にぶつかりました。同じ12世紀でもヨーロッパ内部の地域的違いが非常に大きくて、何をヨーロッパ的なもの、ヨーロッパの特徴と考えればよいかわからなくなってきたんです。研究者たちがヨーロッパの特徴としてあげるものは、実は、イギリスやフランスの歴史家たちがそれぞれの地域に見られる現象をヨーロッパの現象として一般化しているように思われます。また、その一方で、同じ時代、同じ地域を扱っていながら、フランスの学者の出したものと、ドイツの学者の出したものが、全然違うということもあります。それぞれの国の学界の蓄積は膨大ですが、同じものを対象にしていながらフランスで出たものとドイツで出たものがかなり違っているんです。
それで、私は、自分自身で地域的な違いを調べることにしました。フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリア地域の比較です。そのために各地域ごとの分析を始めました。最初はフランスを集中的に調べ始めましたが、フランスの中世もよくわからないことが多いということがわかってきました。研究者の層はかなり厚いんですが、私が知りたいことが全然わからないのです。例えば、11世紀のフランス王国の統治組織がどのようになっていたのかを知りたいと思っても、うまく説明した研究がないんです。既存の研究は、王権に関するものばかりです。王の周辺、つまり、パリ周辺のイール・ド・フランスはわかるのですが、他の地域、大諸侯領が実際にどうなっていたのか、全体としてどうなっていたのかというと、あまりわからないんですね。結局、自分で調べているうちにもう10年以上が経ってしまいました。
しかし、私自身の関心の中心は、あくまで比較なんですね。ヨーロッパ内部の比較、ヨーロッパとイスラム、ビザンツの比較、そして、最終的には、日本と中国を入れた比較研究をしたいと思っています。
IV. 現在への関心
このような比較研究への関心は、実は、自分が生きている時代を知りたいという思いからきているのではないか、と最近思うようになりました。自分の位置を確認するために、異なる時代と地域を研究し、比較を試みようとしたのではないかと思います。最初の頃はそんなこと思わなかったんですが、周りの人たちになぜ中世のヨーロッパやシチリアを研究するのかと聞かれて自分なりに考えているうちに、自分たちの生きている世界を知りたいという気持ちが心の奥にあることに気づいたんですね。中世の地中海の三大文化圏が接しているようなところに惹かれたのは、それが自分にとって最も遠い存在であり、それと現代社会とを比較することによって、自分の位置をより正確に認識できると思ったからではないかと思っています。
グローバル化と国家
では、最後に、その現在に関わる話を二つしたいと思います。まず、グローバル化の問題です。今の日本、今の世界がどのような状況にあるのか、IT革命と言われているものが社会の変化にどういう意味を持っているのか、インターネットの急速な拡大によって、私たちの社会や世界はどのように変わるのか。こういった問題に、多くの人たちが関心を持っていると思います。
私自身の最大の関心は、グローバル化によって、国という枠組みがどのように変化するかという問題です。これは私たちにとって非常に大事で大きな問題だと思います。というのは、国家が今大幅に力を失ってきているからです。現在、グローバル化によって、私たちを取り囲んでいた障壁が崩れかかっています。私たちは国外に自由に出られますし、情報もほとんど自由に入ってくる。資本も動いている。労働力も動いている。
労働市場のグローバル化という問題で、一番わかりやすいのは、インドのコンピューター・ソフト産業の例です。インドのコンピュータ産業、特にソフトの部分の水準は非常に高くなっています。日本の企業もインドにかなりの業務を発注していますが、2000年問題の時には、全世界から大量の発注を受けて、インドのコンピュータ産業は大躍進しました。
以前は、低い労働コストを求めて工場を日本から東南アジアに移すというようなことを考えていればよかった。しかし、今ではこのように、単なる生産部門のみならず、付加価値の高い複雑な業務も国外に発注して、完成した仕事がインターネットを介して発注者に送られてきます。このことは、高スキルを求められるような分野でも、日本から仕事がなくなっていることを意味しています。労働市場において、確実に、国境が意味をもたなくなってきているんですね。
国家の問題
このようにグローバル化が進むにつれて、現在の国家の機能と役割はどのように変化していくのか。これが、今の私の最大の関心事です。
かつては、日本人の活動のほとんどが国境の内側で行われていましたから、為政者は国内のさまざまな問題を日本という枠組みの中で処理することができました。日本の法律や制度を整えれば、ほとんどの問題に対処できたんですね。ところが、今はそれができなくなりつつあります。いくら日本の法律や制度を変えても、日本で生じている問題を解決できない状況になっています。たとえば、マイクロソフトのようなアメリカのコンピュータ・ソフト会社が私たちの生活を変え、ワシントンで決められたことが日本社会に大きな影響を及ぼす、そういう状況になっています。国家が、日本社会や日本の住民をコントロールする力を大幅に低下させているんですね。
このような状況は、中世ではごく普通のことでした。18世紀から19世紀にかけて、国境内に強力な支配力をもつ近代主権国家が生まれましたが、それ以前には、国家が国民をコントロールする力はそれほど強くありませんでした。
現在を相対化する
さて、ここで、まったく違った話をしましょう。今2000年ですから、ちょうどミレニアムということで、紀元1000年のフランスがどのような状態にあったか想像してみましょう。
フランスの中でもノルマンディとかフランドルという地域には非常に強力な支配者がいますが、それ以外の地域には強力な支配者はいません。大半の地域は、狭い地域を治める領主たちが力をもっていて、フランス王国は数多くの領主支配圏に分割された状況にありました。領主支配圏、城主支配圏、これらはわずか数キロ四方の世界です。お城があって、その回りに狭い領主の支配権がある。それぐらい分散しているんですね。
そして、基本的には戦乱の世だったと言ってよいかもしれません。戦いが日常茶飯事でしたから。その中で人々は非常に縮こまって生活しています。都市はほとんどありません。農業生産性は非常に低く、人口もまばらです。
人々の多くは、領主を中心とした村の共同体の中で生活しています。そこでの生活は、現代の私たちに比べれば、非常に単調なものだったでしょう。基本的には自然に合わせた生活です。太陽が出たら活動を始め、沈んだら眠る。また、夏は活動的で、冬は余り活動しない。
1年の周期を見ていると、季節に合わせていろいろな仕事や行事があります。麦刈りの時期やぶどうの収穫の時期など、ある時期に行うことが決まっています。お祭りもある時期にやることが決まっています。1年の周期があって、ある時にある決まった事柄が行われる。長くて単調な仕事の日々を区切るように祭りがある。そして、行事には、共同体の全員が参加します。人々は、時の流れを、みんなで共有しているんですね。
それに対して、現代の私たちはまったく違った環境の中で生活しています。私たちはみんなが決まった暦で動いてるわけではありません。みんなが参加する祭りもありません。現代では、皆が共有する祭りの代わりに、各人が好きなときに行けるお祭り空間が恒常的に存在しています。新宿は1年中お祭り空間です。そのように考えれば、会社は、1年中働く空間ですね。つまり、現代の私たちは、共同体の他のメンバーと生活のリズムを共有しているのではなく、一人一人が、地理的に分化した機能の場を移動しながら、個人のリズムを作って生活していると考えることができます。これは、都市化の一側面なのかもしれません。都市化が進み、かつては人間が時間によって区分していたものを、地域や場所によって区分しているんですね。
インターネットの拡大によって、このような区分が、ヴァーチャルな場で進展していくとすると、私たちの個人化はいっそう進展することになります。日本では2人か3人しかいないようなマニアックな関心を持つ人が、世界に広がったヴァーチャルな場で、集団を作ることもできますし、自分の居場所を確保することもできます。これは、個人の関心によって、私たち自身がさらに分断化されていく可能性を示しています。小さな農村共同体の中で生活しているときには、私たちの人格は共同体のほぼ全員によって認識されています。しかし、都市化が進み、家庭や学校や仕事場や遊び場を移動するようになると、場所ごとに異なる人々によって認知される自分が生まれます。もちろん、私たちは、それでも自分自身の統一性を保っていますが、ヴァーチャルな空間の拡大は、それを困難にする可能性があります。
現在、私は、授業に行かない時には、自分の書斎にほとんどいます。1日の大半はそこで過ごしています。目の前にコンピュータがあります。本とか資料がありますけれど、外界との接点というのは、このコンピュータだけです。ここで自分の関心に沿って、いろいろなところに飛んでいくわけですね。ということは、別に私がある特定の共同体の中で共有されているわけではありません。私という人格を共有されているのは、例えばこういう場であったり、大学では先生として、人格の一部分が共有されているという状況です。
先程のインターネットの話に戻りますが、私たちの人格はどんどん細分化されて、特定の関心によって、人と結びつくことが容易にできるんですね。ということは、自分で人格をコントロールするのが、非常に難しくなってきていると言えます。中世と比較して現代を見ると、そういうふうにも見えてきます。
ということで、中世シチリアから現代日本の話までさせていただきましたが、今日の話はこれで終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。
司会 それでは質問を受けたいと思います。
質問者 お話しありがとうございました。イタリア滞在を経験したものなのですが、この2ページの地図で、ちょうど南イタリアの地域とプーリアとかシチリアと合わせた地域というのは、その後、場所はちょっとよく詳しく覚えてないのですが、ちょうどイタリアが統一される時に、ガルバルディが赤シャツ隊を率いて、まずシチリアを開放しますね。結局、その当時ナポリにちょうど両シチリア王国ということで、本拠があったのですけど、ちょうどその地理的範囲とほとんど同じような気がするのですけど、このノルマン王国の領土ですよね、この南イタリアとシチリア。それとその19世紀の1850年代の、そこのリソルジメントの、あの時は確かスペインかフランスかどちらかが占領していたのですが、おそらくフランスの占領地域はまったく同じ、まったくというかかなり同じ地域というか、その中世から近世に至るまで、だいたいこの領土というのは、同じような地理的範囲で統治されてきたのでしょうかという質問なのですが、もし、近世の方まで聞いてしまって、そこらへん何かおわかりになっていたら。
もう1点は、シチリア島が先程ほとんど住民がイスラム教徒というふうにおっしゃっていましたけど、ある日、ある日というか長い時間をかけて、キリスト教に段々開化していく時期があったと思うのですけど、そういう何か特に歴史上、イスラム教からキリスト教に改宗するようなないか特定の時期があったのかなと、もし御存じでしたら教えて頂きたいのですが。
高山 まず最初の質問ですが、近現代のイタリアはほとんど専門外ですので、お答えしない方がいいかもしれませんが、大きな枠組みは残っていたと思います。
それから、2番目の質問ですが、正確に言いますと、シチリア島の西側と南側にかなり多くのイスラム教徒がいました。東側にはギリシャ人が多く住んでいました。北の方から来たイタリア人もいます。当時の資料では、南イタリア人はしばしばランゴバルド人と書かれています。ランゴバルド族と間違わないようにしないといけませんね。パレルモやトラパニなどの都市では、イスラム教徒とキリスト教徒の両方がいて、住み分けて生活しています。
王権が弱くなったり、混乱状態が起こると、イスラム教徒はキリスト教徒の襲撃や略奪を受けることが多く、12世紀末の混乱期には多くが北アフリカへ渡り、その数が激減しています。13世紀初めに、フェデリーコ2世は、シチリアに残っていたイスラム教徒をすべて半島部のルチェーラへ強制移住させます。そして、13世紀のうちに、イスラム教徒はイタリアから消えてしまいます。13世紀にもイスラム教徒の話は出てきますけれど、フェデリーコ2世の宮廷や軍隊、ルチェーラのコロニーなど、限られた場所だけです。
他にどうでしょうか。
質問者 とても初歩的な質問で恐縮なのですが、言葉、言語がたくさん混在して、共存していたということが非常におもしろいなと思ったのですが、ノルマン人が、もともとノルマンから南イタリアの方に来た時には、何語を話していたのですか。その当時、教会とか書物の上で、いろいろな言葉があったというのはわかるのですが、実際の人々はどういう言葉でコミュニケーションをしていたのかなという質問なのですが。
高山 ノルマン人は、中世のノルマンディで使われていたフランス語を話していました。最初の世代は完全にそうですね。宮廷でもその言葉が使われていたと思われます。しかし、ノルマン人の第二世代で初代の王となったルッジェーロ2世は、ギリシャ語で署名していますし、アラビア語も話せたとイスラム教徒の年代記に書いてあります。
質問者 あと名前なのですが、先生のご本には、ラテン語系の表記がされてあると思うのですが、実際その当時は、名前というのはどういうふうな形で、現地では呼ばれていたのかなという質問なのですが。
高山 呼ばれていた?
質問者 使われていたというか。
高山 イタリア語のグリエルモは、ラテン語の資料では、ウィレルムスという具合にラテン語形で書かれています。ただし、話し言葉の世界で実際に使われている名前が文字に書き記されるわけですから、きちんと統一されているわけではありません。ギレルムスと書かれていたり、ウィレルムスと書かれていたりします。表記の仕方はばらばらです。私がラテン語のウィレルムスを使うのは、資料でもっとも頻繁に使われているからです。
イタリア語のルッジェーロは、アラビア語でルジャーリと書かれています。アラビア語の場合は、母音を表記しませんので、本当にルジャーリと呼んでいたかどうか正確にはわかりませんが・・・。ラテン語ではロゲリウスとなりますが、ギリシャ語表記、アラビア語表記、ラテン語表記を見比べると、当時のイタリアではゲはジェと発音していたと考えられます。したがって、語尾変化を除いて、ロジェとかロチェとか、そういうふうに発音されたいたのではないかと思われます。しかし、そのような発音に関する大きな研究はありませんので、言語学者にやっていただけるとありがたいです。
質問者 松浦です。研究は経済学で、スコラの経済学を勉強しています。そのソコラの経済学を勉強する一つのポイントは、アダム・スミスから経済学が出発したというふうに、教科書的には書いてあるのですが、実はアダム・スミス以前のイタリアのスコラの経済学というものは、現代の経済学に向かう1つの本流ではないだろうかと。もちろん源流とかではなくて、1つのメインストリームの中の1つではないかというふうな考えを持って、スコラの経済学を勉強しておりますが、そこで先生の今日のお話で、2つ関連のある質問をしたいのですが、1つは、ルネサンスというものが、トスカーナで発生したという意味は、もちろんイタリア人はルネサンスという言葉を使わない。これはブルクハルトの影響なので、クワトロチェントとチンクエチェントとしか言いませんが、それがトスカーナに発生したということは、南からアラブがヘレニズムになって、人間主義的な思想というものを持って来た。それから北からは、ピレントが言っているような、中世都市のカトリック、それが文化的に衝突したところが、トスカーナとかウンブリアであって、定説を言っているのですが、そこにボローニア大学なんかができたのだというふうなことをいうのですが、こういう文化史的な位置付けの中で、先生はなぜこのノルマンの文化というものが、ルネサンスやなんかに、それほど大きな影響を持たなかったのか、これは1つの説明の仕方は、アラブが生活の中に入り込んでいって、ノルマンは単に国家の機構、もしくは官僚機構で支配の形の支配の人々という形で残ったから、文化的にはやはりギリシャとか何かの文化を担ったのはアラブであろうと、こういうふうに言われているのですが、先生のご意見はいかがというのが1つ。
もう1つは今の問題と関連しているのですが、実は私、現代の経済学の1つの本流と言いますか、それをスコラに持ってくるということは、今経済政策や何かの学問で、法制経済学というのがあるのですが、実を言うと、この法制経済学の発祥地がナポリ大学なのです。ボローニア大学はむしろ職人、一番最初はラ・サピエントと言ったのですが、その後ユニバーシティ、ユニバーシティというのは、職人組合という意味で、わりあい自然発生的にボローニア大学はでき上がっているのですが、ナポリ大学の方はむしろ行政官の要請、支配者の行政官の要請として、いわゆる現代の法制経済学のようなことを主張しているのです。例えばアントニオ・ジェノヴェーゼなんていうのはそういう人ですが、アダム・スミス以前ですが、そういうふうなことなのです。だから何かそういう意味で、南イタリアは、官僚組織というものが、ある組織をもってでき上がっていたのではないだろうか。その意味で、先生がおっしゃっているアラブというものを考えた場合に、私はアラブと官僚組織というものをもちろん結びつけた方がいいのかな、それともノルマンと、支配者としてのノルマンと結びつけた方がいいか、ある意味で南イタリアのナポリにそういう役人養成の大学ができたと。これはボローニア大学とまったく性質が違う。こういうことを考えると、何か今日先生の話を聞いて、私の目のうろこが取れたような感じがするのですが、しかしそこでアラブの文化というものがルネサンスに影響をしたという面を考えれば、なるほど文化的には先生がおっしゃったような意味が納得できるのですが、逆に今度は、例えば伯爵とか何かというのは、ほとんどイタリアではノルマンなわけです。そういうことを考えると、国家形成というものではやはりノルマンの文化というものが、大きな影響があったのではないか。そういうものが経済学の歴史においても、ナポリ大学のようなところに出てきたのではないだろうか。こういうふうに私は思っていたのですが、両方とも関連がある質問ですから、どういうふうにお答になっても結構でございますけれど、1つお教え願いたいと思います。
高山 今日の話の中で、シチリアの官僚制はかつて考えられたほどに精緻なものではなかったということを申し上げました。しかし、当時のヨーロッパと比較すれば、官僚化が進んでいるといえるでしょう。ノルマンは、今おっしゃったように、まさに支配者として上に乗っかるのですが、基礎の部分、あるいは中間の部分には、アラブやビザンツの影響が強く残っています。
ノルマンの文化については、今日ほとんど何も話しませんでしたが、ノルマンの文化が大きな影響力を持っていたようには見えません。洗練度において、ノルマンの文化と当時のアラブ、ビザンツ文化との間には圧倒的な差があります。文化的にも、ノルマンはアラブ文化、ビザンツ文化の上に乗っかっていただけかもしれません。
アラブ文化とルネサンスとの関係については、直接的な影響を想定するのは難しいと思います。すでに12世紀末にアラブの人口は減少し、13世紀のうちにイタリアから姿を消します。少なくとも、イスラム教徒はいなくなり、アラブ人の痕跡は資料から消えます。したがって、アラブ人とルネサンスとの直接的な結びつきは、考えることができません。ただ、書物による影響や、アラブ文化を学んだ知識人を介しての影響ということであれば、可能だと思います。実際、そのようなアラブ文化の影響を主張する研究者はいますね。
質問者 先程のスライドを見せて頂いた時に、先生がこれは裏側から写してありますから、ギリシャ語わかる人でも読めないとか、そういう関連のことをおっしゃいましたが、
高山 読める方もいらっしゃるはずです。
質問者 その問題ではなくて、なぜ裏側が出てくるのか、その点が疑問だったのですが。
高山 スライドが裏返っているだけなのです。
質問者 失礼しました。とんちんかんで。
質問者 ノルマンの時代に、サレルノにヨーロッパ最初の医学校ができましたね。その時の先生になった人たちは、ユダヤ人であり、アラブ人であり、ギリシャ人、ガレノスとか、そういう教育を受けた。その時、お隣の方の質問にも共通するのですが、共通の言語を何を使っていたのか。あるいはその当時、医学を伝播するための辞書とか、そういうものが存在したのかどうか、それから、医学校がどういう形でなくなってしまったのか、他のナポリとか周辺に吸収されてなくなっていったのだと思うのですが、もう少しその辺のことを、具体的な事例が残っているのかどうか、お聞きしたいのですが。
高山 サレルノの医学校での教育の実情についてはあまりわかっていないと思います。また、医学用の辞書のようなものが存在したかどうかについても、私はお答えすることができません。残念ながら。
質問者 お聞きしたいことは、シチリアの他に、イスラムの影響を、例えば建築とか絵画とか、そういうもので強く受けている都市があると思うのですが、そのあたりをお願いしたいと思います。
高山 シチリア以外のイタリアということですか。それともイタリア外?
質問者 イタリアです。
高山 イタリアですか。先程スライドでお見せしたようなイスラムの影響ですね。シチリア以外では、現在まで残っているものはあまりないと思います。半島部でもバーリのようにしばらくの間イスラム教徒の支配下にあった都市もありますが、その名残がスライドでお見せしたような形で残っているものはほとんどないと思います。
質問者 シチリア島というのはずっとローマ時代から大土地所有のシステムになっていて、地主は不在というようなことで、それがずっと近代まで続いてきたということなのですが、ノルマン人が来て、その辺手をつけなかったのか。彼らがそういった体制というかシステムに手を加えて、ノルマン人的な何かを残したのか、あるいはただ上に乗っかって支配しているだけなのかということ。
それから、先生の方もちらと触れておられますけど、なぜシチリアに来たのだと。どうして他の島ではなかったのか。どうしてあそこを彼らが選んだのか。何か背景と言うか、モチヴェーションと言うか、その辺は何かあるのですか。
高山 まず最初のご質問からですが、イスラムが入ってきた時に、土地所有の形態も農業のあり方も大きく変わっています。それまでは穀物栽培中心の大規模経営でしたが、イスラム教徒が入ってきて、集約型の農業に変わります。彼らは、灌漑技術とともにいろいろな種類の作物を持ってきます。野菜や果樹などが栽培されるようになり、景観まで変わったと言われています。それがまた、以前のような状態に戻るのが、12世紀末から13世紀にかけて、イスラム教徒がいなくなっていく時期です。
それからノルマンがシチリアに来た理由ですね。ノルマン人は、最初からイスラム教徒の支配下にあったシチリアに来たわけではありません。最初は、11世紀初めに、半島部で覇権争いをしている君主たちに傭兵として仕え始めます。そして、自分たちの国を作り、それまであった国々やビザンツ帝国領を征服していきます。
その頃、シチリアはイスラム教徒の島でしたが、イスラム教徒の地方君主どうしが戦争をしていました。その地方君主の一人が、ノルマン人に助けを求めてきます。それで、初代のシチリア伯となるルッジェーロ1世が、彼を助けるという形で、シチリアに入ってくるわけです。その後、ルッジェーロ1世が応援していたイスラム君主が死んでしまい、ノルマン人対イスラム教徒の戦いという図式になります。歴史家の中には、ノルマン人によるシチリア征服を、異教徒討伐や十字軍みたいに説明する人がいますが、もともとはそうではなかったんですね。
質問者 先程スライドで墓碑ですか、4つの言語で書かれているということで、ヘブライ語も入っていましたが、公用語としてギリシャ語、アラビア語、ラテン語ということで、その後ご説明頂きましたが、それはいろいろなシチリアの歴史から言っても、そういうものだなと思うのですが、そのヘブライ語でも書かれているものがかなりあるかということと、それだけユダヤ人の人口も多かったかということについてご確認したいと思います。
高山 それほど人口が多かったわけではありませんが、パレルモなど、シチリアの主要な町には、ユダヤ人の商人がかなり住んでいたようです。また、南イタリアの半島部にもアドリア海岸沿いにユダヤ人の住んでいるところがありました。当時、ユダヤ人は地中海沿岸部のさまざまな場所に住んでいました。ただ、シチリアに関してヘブライ語で書かれた資料は、それほど残っていません。
司会 脇からちょっと質問されたのですが、先生は何か国語が読めるのだろうかという質問が出たのですが。
高山 外国語はあまり得意ではありませんが、辞書を引いて何とか読めるのが10か国語くらいですか。質問はしないで下さいよ。答えられませんので。まず日本語、それから、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、それから中国語です。
司会 ということで締めたいと思います。先生、いろいろとありがとうございました。
印刷物としても発行されています。
イタリア研究会報告書No.97
2002年4月20日発行
企画編集 イタリア研究会
発 行 スパチオ研究所・伊藤哲郎
(目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)
事 務 局 高橋真一郎
(横浜市青葉区さつきが丘2-48)