プリマドンナの《声》をひろう -マンマ・シミオナートとの対話

第249回 イタリア研究会 2001-03-16

プリマドンナの《声》をひろう -マンマ・シミオナートとの対話

報告者:大阪芸術大学文芸学科教授 武谷 なおみ


第249回イタリア研究会(2001年3月16日 六本木・国際文化会館)

武谷なおみ 大阪芸術大学文芸学科教授 

「プリマドンナの《声》をひろう -マンマ・シミオナートとの対話」


司会  第249回イタリア研究会を始めたいと思います。今日は見慣れない顔がたくさ

んいらっしゃいます。実はヴェルディ協会の方々にも声がかかっているようでして、英前大使の奥さんや専務理事なども来ておられます。「2001年イタリア」のプログラムにも、ヴェルディ協会の催しがひとつ入っていますが、そんなことでよろしく。今日の講師は、武谷なおみ先生です。大阪芸術大学文芸学科の教授で、本当はイタリア文学が専攻ですが、今日は40年間、実の母娘同然につきあってきたプリマドンナのジュリエッタ・シミオナートについて、手作りのビデオテープやスライドを使って「語り部」をつとめたいということで、今日はそちらでやられます。 武谷先生に関しましては、先の阪神大震災にあわれ、家がつぶれた中で、瓦礫の中からいろいろな想い出を拾って書かれたエッセイ集が『イタリア覗きめがね-スカラ座の涙、シチリアの声』として、NHK出版から出ています。

それでは、武谷先生にお願いしたいと思います。


武谷  はじめまして、武谷です。いつもですと文字通り「はじめまして」なのですが、イタリア研究会の方々とはもうすでにメール通信で、皆様のお名前を毎晩のように拝見しています。狂牛病のことを教えて下さる小児科の先生はどの方だろう、写真家の篠さんは来ておられるかなと思ったり、こちらも興味津々で寄せていただきました。

先程ご紹介いただいた『イタリア覗きめがね』が半年前に出版になり、第1章をシミオナートに捧げている関係で、その後多くの方々から、イタリアのプリマドンナと中学生の間に芽生えた珍しい交流についてもっと語れ、というお勧めを受けました。それなら、とこちらもその気になって、ビデオなど作ったのですが、東京ではどこでお話をするのがよいか見当がつきません。それで、日頃から尊敬申し上げている竹内啓一先生と、陣内秀信さんに相談致しました。するとお二人が一致して「イタ研ですね」とおっしゃったのです。早速高橋さんに連絡して、今夜の約束が整ったような次第です。大変感謝しています。

シミオナートの話をさせていたくにあたり、話の構成に関しましては、かなり頭を悩ませました。今日ご出席の方々は、おそらく3つのグループに分かれると思います。まず第一に、オペラの生き字引のような日本ヴェルディ協会の会員諸氏の前でお話をするのは、いささか気後れ致します。でも、シミオナートの舞台をご記憶の方々に、約20時間の取材を経て編集した手作りビデオを見ていただけるのは幸せです。

2番目のグループは、私自身がそこに属すように、文学的関心の持ち主と申しますか、プリマドンナの素顔、および舞台人としての内的葛藤などを、いわば物語り的にたどってみたい方々ではないかと思います。シミオナートが生きた時代のイタリアと芸術家達が、話のなかから浮かび上がって来るとよいのですが。

それから3つ目のグループは、私が日頃学校でつき合っているような若い方々。シミオナートが来日した昭和30年代にはこの世に存在さえしていなかったけれど、イタリア大好き人間ですという人は、最近とても多いのですね。学生達からはよく「猿でもわかるシミオナート」という調子で話して下さいと頼まれます。ですからそれも頭のすみにおいて、話を展開してゆくつもりです。


さて、ちょうど今から100年前の2001年1月27日に、ミラノ市民は街路に藁を敷きつめ、馬車の音が病床の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの耳をわずらわせないよう気遣って、最期のときを待ちました。そして今年の1月27日、ミラノ市民は藁を敷いて市電を止め、俳優が当時の服装をしてヴェルディ没後100周年の幕開けを告げました。1年間つづくヴェルディ・イヤーの始まりです。

今夜の私の話もそれにちなんで、まずはヴェルディ作曲『アイーダ』の映像をお目にかけることから始めましょう。シミオナートがアムネリスを演じています。相手役は黄金のトランペットと呼ばれたマリオ・デル・モナコです。


映像 『アイーダ』第4幕 (約3分)


エッセイ朗読とスライド 「マンマ・イタリアーナ」


イタリア歌劇団の公演で、アイーダの公演を見た谷崎潤一郎は、あれが人間の声かと驚嘆したという。情念の塊のようなその声は、自分から望んだわけではないのに、神の采配で歌の道に導かれ、いつも孤独と向き合っていた女のうめき声のようにも聞こえる。イタリアはジュリエッタ・シミオナートのような天才が生まれる土地だ。中学時代、私はその声の追っかけをしながら、イタリア語を学んだ。ファンレターなんてみっともないと顔をしかめる両親の不満をよそに、オペラのレコードを集め、知っている限りの単語を並べて手紙を送った。

「私の生活は単調で、伝えることは何もありません。それにひきかえ、日常のささいな事にも意味を見つけるあなたはすごい。満開の桃の花のように新鮮だわ」とプリマドンナは書いてきた。カラヤンの信頼を受け、マリア・カラスの友人でもあったシミオナートは、今世紀最大のメゾソプラノ歌手とたたえられているが、幕が下りると、ホテルに帰って、りんごとビスケットを食べ、神経性の頭痛と戦う毎日だったという。大阪の楽屋での出会いから34年。ローマ大学への留学時代、すでに舞台を退いていたシミオナートは、私のイタリアの母になった。だが、彼女の生きざまは、今も驚きの連続である。

55才の時、83才の医師と伝説的な結婚をして、一時期心の安らぎを得た。夫の死後はミラノで3度目の結婚にふみ切り、オペラ界に復帰。去年また未亡人になったが、プリマドンナはプリマドンナであり続ける。現在の仕事場は、スカラ座が彼女に永久貸与している教室だ。あの声がレッスン場に響くと、音符が立体の情景となって立ち上がり、物語が出現する。無表情な生徒に、86才のこの教師は、サムソンとデリラは子宮で歌うのよと叫ぶのである。

「4時間ぶっ通しの授業は腰に悪いわ。年齢を考えてハイヒールはやめたら」と、時折私は母に苦言を呈する。すると相手も桃の花どころではなくなった娘の老いに気づくようだ。阪神大震災の後で、はじめてミラノに行った時、コーヒーを飲む私の顔をまじまじと見て、彼女は言った。「ああいう事があるとやはり変わったわ」。「やつれたと言う事?」と問い返すと、「いいえ、苦労した女の顔になったのよ」と諭すような口調で言った。

私の机の上には、トルコブルーとオレンジ色のクリスタルの金魚が、透明な光を投げかけている。「この先の人生、よく覚えておきなさい。これは象徴的な贈り物よ。時には黙って我慢する事。この魚のようにね」と、出発の朝、イタリアの母は言った。彼女は今日も若い歌手に苦しみの表情は大声で歌うだけではだめと教えているのだろうか。世界を感動させたプリマドンナの声の秘密が、私にもやっと、わかりかけて来たような気がする。


武谷  ありがとうございました。大変な美声で私の幼稚なエッセイに花を添えてくださいます朗読者の瀬野光子さんをご紹介致します。関西の高名なソプラノ歌手で、大阪芸術大学の同僚でもある瀬野さんは、シミオナートの崇拝者でもあられますので、今日は東京まで行ってあげるわと申し出て下さり、友情出演がかないました。

今のエッセイで述べたように、谷崎潤一郎が関西の宝塚ホテルに宿をとり、劇場通いをしたのは、1956年の秋、第1回イタリア歌劇団来日公演の折でございました。「谷崎はシミオナートに憧れ、機嫌のいい時はいつも『アイーダ』の行進曲を口ずさんでいましたのよ」と後年、未亡人の松子夫人からもうかがいました。

 1956年のイタリア歌劇団による『アイーダ』や『フィガロの結婚』の上演は、日本オペラ事始めと名づけても過言ではありません。当時の新聞も、これに多くの紙面をさいています。まずは10月10日づけ朝日新聞からご紹介しましょう。「イタリア政府はこの歌劇団の日本行きに約1500万円の飛行機代の補助を出し、マルティーノ外相は今回の日本公演が成功すれば、今後は定期的に歌劇団を日本に送り、政府援助も今回以上に増額したいと永田会長に語ったと言われる」

また、大阪の毎日新聞は「衣装何と一千点、宝塚大劇場は改造騒ぎ」というタイトルで、次のような記事を載せています。「第一番に困るのは、日本の劇場がオペラを上演するようにできていない事だ。そこでこの公演のために約300万円かけて宝塚大劇場を一部改装する事になった。というのは、N響のフルメンバーを入れるオーケストラボックスを作る必要があり、その費用が約130万円、他に楽屋の改装も大変で、イタリア側の要望では主役級の個室を10幾つ作れという。それも部屋に鍵のかかるという条件付。また、宝塚の楽屋は少女歌劇用だから、タタミ敷きで、化粧用の鏡は全部座るようにできている。イタリア人に正座ができるワケはないから、鏡に全部足をつけることになり、これに数万円」 

こんなふうに、今では想像できないような話が載っております。でも、会場が宝塚で助かったのは、ご承知のように宝塚は温泉町ですから、『アイーダ』でエジプト兵やエチオピア兵に扮したエキストラが体を流す大浴場には事欠かなかったそうです。まさに日本オペラ事始めですね。東京芸大美術学科の学生たちや東大生まで動員して行われた『アイーダ』第2幕の凱旋行進は、体型といい所作といい、現代の私たちの目には、邪馬台国の兵士の行進のようにも映ります。


第1回目のイタリア歌劇団公演のときには、私はまだ小学校3年生で、シミオナートのシの字も知らずに過ごしました。でもその公演が大成功を収めたので、1959年の第2回公演の際も、彼女は来日致しました。『カルメン』がテレビで流れた晩のことです。妹と遊んでいた私に祖母が、ちょっとおいで、と声をかけました。その昔、上野の音楽学校で勉強した祖母が、「5分間だけ辛抱してテレビを見なさい」と命じるのです。10歳の私は、番組がオペラだと知って逃げ回りましたが、首根っこをつかまえるようにして座らされ、「5分たっても気に入らなかったら、遊びに戻ってよろしい」と、言われました。そして、その5分間が私の運命を決めたのです。感動のあまり「この人だれ?」と聞いた私に祖母は関西弁で、「シミオナートというイタリア人や」と答えました。

これが、私がシミオナートとイタリアに出会った最初です。10歳の子供になにが理解できたのだろうと今思うと不思議ですが、やはり、viviere(生)やmorire(死)といった単語、それから『トロヴァトーレ』の中で、シミオナートの演じるアズチェーナが何度も繰り返したsangue(血)。つまり人間の生存にかかわる言葉ですね、それらがいつの間にか脳の中に刻み込まれたという感じが致します。

先程のご紹介にもあったように、私は阪神大震災に遭遇しました。高速道路が落ちた激震地のすぐ近くの東灘区に住んでいたのですが、九死に一生をえて命からがら2日目に大阪に脱出できたときのことです。最初に目についた公衆電話に走って、シミオナートに電話をしました。そして、「マンマ・ジュリエッタ、私生きてるよ!」と、思わず叫んだのです。平常時なら一生、口にすることがないはずの言葉です。電話のむこうのシミオナートは、2日間探しつづけて気がおかしくなりそうだったと言い、ワッと泣き出しましたが、被災者である私の方は、意外に冷静でした。ヴェルディのオペラに出てくるような劇的なフレーズを自分が表現したことに驚いていたのです。そして同時に、芸術の根源にふれたという実感のようなものが、私の心を満たしました。生と死の境をかいくぐった所でオペラや小説が生まれ、人々の胸をうち、普遍的な存在となって残るのは確かです。


さて、それはともかく、今日はシミオナートという芸術家を通じて、イタリアの本物の魅力、迫力をお伝えするのが、私の役目です。プリマドンナは尊大で寄りつきがたいという見方が定着しており、それは一面、真実でもあります。ですから、シミオナートと私の関係を知った人々から、実際の素顔はどう?と、イタリアの音楽関係者からもよく聞かれるのですが,そのような時私は「昔も今もシミオナートはびっくり箱よ」と答えています。

2、3例をあげてみますと、彼女の家には、ピアノもステレオの機械もありません。いちど頂点を極めると、人間はこうも無頓着になれるものかと驚く程ですが、「あなた方にとっておもしろくても、私にとっては終わったことばかりで、なにもおもしろくないわ」と言って、自分からは決して過去の栄光を語りません。でもその一方、20世紀の生き証人であるプリマドンナには、記念式典出席の依頼やテレビ取材の申し込みがひきも切りません。高齢ですから、時にはインフルエンザにかかったりしますが、心配になった私が3日目ぐらいに電話すると、「奥様は昨日、ニューヨークに発たれました」というようなことが、80歳を過ぎてもよくありました。「旅は私の人生につきもののこと」と言って、仕事があれば出かけて行きます。そんな彼女に「旅先で何してきたの」と聞くと、「いつもと同じよ。また、賞をもらってきたわ」などと言います。でも「なんの賞?」とたずねたら、「さあ」と答えるのですね。賞の名前や内容には全く関心がなくて、「音楽に一生を捧げたからよ」という感じで、トロフィーをぽんと置いて実に無頓着。ああ、この人は普通の尺度じゃ測れない、と思うのはこんな瞬間です。

またプリマドンナの耳の良さは、90歳の今も、びっくりの源です。固有名詞でも流行語でも音として記憶されるようで、3年前、日本の衆議院選挙の翌日に私がイタリアに到着しましたら、顔を見るなり「ハシモト負けたわよ」と言うのです。日本人の顔を見るとすぐ日本の首相の名前が出る。そういう語感と言うか聴覚というか、動物的なものがあるように感じられます。ユーモアまじりに言葉を操るのも好きで、レッスンのとき音程が定まらない生徒に「そんなに音がゆらゆら揺れて、まるで心電図みたい」と皮肉ったり、「私はもう、オペラの世界じゃアニメの恐竜と同じだけど、若いあなたは歌の技術をコンピューターのように頭に組み込んでおきなさい」と、陽気に励ましたり致します。


けれども反面、彼女の歌を聴いた方はご存知と思いますが、シミオナートの歌には大変暗い面がございました。悲しみや怒りが心の奥底にマグマのように渦巻き、それが突然、噴出するというのが特徴でした。この性格は、サルデーニャ島出身の母親の血が半分、自分の中に流れているからだろうと、彼女自身語っています。本土のイタリア人に比べて内向的なのです。その上、彼女の青春時代も決して恵まれたものではありませんでした。20歳前に両親をなくし、経済的な不安をつねに抱えていました。オペラ界の頂点にあった時代でさえ、いつまで歌えるかという脅迫観念に、つねにとらわれていたのではないかと思います。今でもテレビでオリンピックの競技をやっていたり、サーカスを見たりすると、「ああ、かわいそうにこの人達、もうすぐだめになるわね」と言うのです。横でテレビを見ている私が、「せっかく楽しんでいるのに、そんなにぶつぶつ言わないで」と頼んでも、「息が短い職種だわ、彼ら、本当にかわいそう」と言うのです。

それと類似のことでしょうが、自分が人生を犠牲にして観客を喜ばせてきたのに、自分の方はギブ・アンド・テイクの法則からいったら、余り与えてもらっていない、という不満が、気分がすぐれないようなときに顕在化します。「あんなに与えたのに、あんなに与えたのに」というのは、プリマドンナの宿命でしょうか。彼女のまわりには、電話をして、ぶらっと訪ね合うような友人関係が存在しません。

私は、シミオナートのそんな生活の隙間を埋める小さな役割をはたしてきたようです。「あんたは例外」と言われるのですが、例外が可能になったのは、出会い当時、私が中学生で、しかも外国人であったこと、これにつきるのではないかと思います。有名人の彼女が私に何を話しても、スキャンダルとして周囲にもれる心配はありませんでした。はじめ私は英語で手紙を書いていたのですが、シミオナートの返事はいつもイタリア語で、彼女はまるで赤ん坊に教えるように、易しい言葉で自らの生活を語ってくれました。300通以上に及ぶそれらの手紙は、今では私の財産です。プリマドンナの素顔を知っていただくために、その内のいくつかを選んで、瀬野さんの朗読で聞いていただきます。最初にご紹介するのは、シミオナート54歳、現役時代の手紙で、16歳の私に宛てられたものです。


朗読とスライド  1964年11月3日 ロンドン 

なおみへ。水しぶきのように自然で新鮮なお手紙をありがとう。イタリア歌劇団の次の日本公演の予定はまだわかりません。私は12月までここロンドンにいます。その後はイタリアのナポリ、ミラノ、パレルモで歌い、そしてニューヨーク、パリ、ウィーンと続きます。こうして世界中を巡りながら、時々、蝶々さんがピンカートンを待ったように、私が帰るのを待っている小さななおみを思い出すことでしょう。早く会えるといいのにね。

元気で過ごしなさい。          あなたのジュリエッタ・シミオナート


朗読とスライド  1966年12月9日 ローマ 

なおみへ。おばあさんを亡くしたあなたの悲しみがよくわかります。私も親しい人達とのそんな別れをずいぶん経験して来ました。でも、この世のすべてに終わりがあるように、命にも終わりがあるのです。あなたが神様を信じているかどうかはわからないけれども、おばあさんは今頃天国であなたを見守り、あなたの幸せを祈っておられます。生は続くのですよ。悲しい傷も時と共に癒えて、ふさがっていくでしょう。おばあさんを忘れてしまうことはないにしても。こんな時に幸せなクリスマスと楽しいお正月をというのはやめて、心穏やかなクリスマスと新年をというに留めましょう。微笑んでごらん。あなたは若く、あなたの前には人生が洋々と広がっているのだから。

あなたを抱き締めます。        ジュリエッタ・フルゴーニ・シミオナート


武谷 こんな具合で、10代の私は、香水のにおいのする手紙の文字をひろいながら、遠いイタリアを夢見て過ごしました。すでに舞台を引退し、ローマでご主人と過ごしていたシミオナートの勧めもあって、ローマ大学に留学したのはそれから9年後、京大の大学院でイタリア文学を勉強するようになってからのことです。ここにお集まりの多くの方々にもご経験がおありと存じますが、2つの文化を生きる者はまるで重い荷物を背負っているように、常にどこか不安を抱えているものです。異国暮らしは楽しいけれど、東洋人の自分にイタリアがどれだけ理解できるのだろうかと悩む瞬間はよくございました。しかも先程の『アイーダ』の舞台ではありませんが、感情表現が非常に激しく、自己主張が特に強い国のイタリア人の中に入りますと、「日本人は魚みたいにおとなしい」などと、陰口をたたかれたりもします。そんな折、シミオナートが次のような手紙で力づけてくれました。私が非常に気にいっている手紙ですので、お聞きいただきたいと思います。


朗読とスライド 1973年3月8日 コルティナ・ダンペッツォ

別荘に帰って、手紙を見つけました。あなたはドッビアーコへのドライブの途中、黙りがちだったと言うけれど、私にはその気持ちがわかります。コンプレックスなど関係なく、性格や感受性の問題なのです。自然の美を前にしたり、嬉しいことがあった時、「おお!」とか「わあ!」とか「すごい」「きれい」「すてき」と感動を口にする人もいれば、黙ってしまう人もいるのです。たぶん後者の方が前者より感受性が豊かなのですが、それを理解しない人たちには誤解されてしまうかもしれません。私も、言葉数が多い人間ではありません。美しい景色や音楽やきれいなものを前にして、なんとなく悲しくなって涙を流し、不思議だなあと思うことがあるでしょう? いずれあなたも自立する日が来ます。でも、感受性は変わることはありません。歳をとっても感動したら、きっと同じ反応をするでしょう。だってそれがあなたの性格なのだから。アルプスのドライブのことでお礼を言う必要はないわ。私たち夫婦は、あなたが喜ぶ顔を見るのが好きだし、できるだけのことがしたいのです。             

ジュリエッタ・フルゴーニ・シミオナート 

追伸   焦ることなく落ち着いて、人生の良い面だけを受けとめて過ごしなさい。


武谷  この手紙を留学の2年目に受け取った私は迷いを捨て、性根を入れてイタリア文学の勉強に取り組むようになりました。留学最後の年の1978年に、シミオナートの最愛のご主人チェーザレ・フルゴーニ氏が96歳で亡くなりました。臨終の日に電話で呼ばれて駆けつけると、彼女のまわりには先妻の息子夫婦しかおらず、他人行儀でよそよそしい雰囲気のなかで、ご主人の最期をみとりました。付き添いの看護婦さんが私を廊下に連れ出し、「奥様の側にいてあげてくださいね。あなたを本当の娘のように思っておられるのですから」と呟くのです。「どうしよう」という思いがこみあげました。でも、留学生はいつか故郷に帰らねばなりません。イタリアの母を気遣いながらもローマを離れ、私が家族と日本に落ち着いて半年ほど経った頃、こんな手紙が参りました。


朗読とスライド  5月26日 レッツァーゴ

なおみへ。あなたの手紙は今もなお、私には満開の桃の花のように思えます。覚えてる? 英語で書いてきていた頃からずっとそうでした。あなたの言葉、あなたの考え、あなたのニュース、みんな私にいい作用を及ぼします。涼しげで、しかも人間的な温かみがあって、まるで、熱にあえいでいる病人が額に冷たい手をあてがわれたときのような、あんな感覚です。そしてあなたは私に、もうこの世の人ではなくなった大切な宝物を想い出させてくれます。私はまだ混乱して、方向が見出せないままでいます。こんなにも心細く悲しい人生の道を、ひとりでまた歩みだす自信がありません。

デ・アンジェリ氏が、連れ合いを亡くした者同士、助け合って寄り添いながら生きていこうと、結婚の申し込みをしてこられました。まだ、答えはしていません。知っているのはあなただけです。

日本での新しい生活は順調のようですね。坊やの発育もよく、家も見つかってよかったね。すべてがうまくいきますように。

 あなたを強くだきしめつつ            マンマ・ジュリエッタ 


 シミオナートは「びっくり箱」と、先程申し上げました。彼女は結局この求婚を受け入れ、もう後ろを振り返らないためにローマからミラノに居を移して、モンテナポレオーネ通りの近くで新しい生活を始めました。そして、これこそイタリアの都市の特徴だと思うのですが、ローマにいた時は著名人ではあっても決して特別ではなかったシミオナートの存在が、スカラ座のお膝元ではその価値を倍増します。劇場に現れるだけで観衆は喜び、スカラ座歌手養成所は彼女を顧問に迎えました。役割を自覚してか化粧法まで変えて、マンマ・ジュリエッタはプリマドンナに返り咲きました。70歳、二度目の変身でした。



ところで「シミオナートを保存しなければ」という強い思いに私が駆り立てられたのは、ふたつの要因に基づいています。個人的なことを述べるのは非常に口幅ったいのですが、私がローマで知り合って結婚した相手が文化財保存の専門家で、現在は京都にある某私立大学の歴史遺産学科で教えています。おもに考古学製品の保存修復に携わってきましたが、「文化財を大切に」という徹底した考えの持ち主で、「お前はシミオナートを保存しろよ!」が口ぐせなのです。すでに20代のローマ留学中に、当時彼が学んでいたユネスコのローマ国際保存センターにシミオナートが持っていた200枚の舞台写真を運んで、複写をしました。そんなわけで、シミオナート自身は写真にも無頓着で、散逸したものが多いのですが、私の手元にはすべて残り、今日、スライドにして皆様にお目にかけているのも、それらの写真です。

でも、私が本格的なシミオナートの保存を目指したのは、やはり阪神大震災がきっかけでした。神戸の街が瓦礫と化したとき、夫は全壊した私の実家に青いビニールシートをかぶせると、3日目位から学生を召集して、200件位の破損文化財の調査にまわりました。それを知ったイタリアの保存科学の仲間から、いろんな反応があったのですが、ある日、友人のひとりから大きな小包が届きました。その中身を皆様にお見せしたいと思います。今日は重いのを承知で持参しましたが、「広辞苑」のようなこれ、何の本だと思われますか?『イタリアにおける激震カタログ』と記されたこれは、文字通り、地震のカタログです。いつからいつまで記録されているかと申しますと、なんと紀元前461年から1980年まで。出版元は地球物理学研究所です。序文には、チェルノブイリと阪神大震災を視野に入れて、未来のためにカタログを編纂しましたと記されています。私たちはこれを見た時に、イタリアというのはすごい国だと、本当にひれ伏す思いが致しました。アリストテレスやキケロも証言者として登場し、中世以降の地震ですと、どこの町のどの教会に行けばどんな資料が残っているかまで一目瞭然、きちんと整理がなされています。

でも、これだけではありません。イタリアが保存に力を注いでいるもうひとつの例をご紹介します。昨年シミオナートが90才の誕生日を迎えた日、スカラ座でパーティーが開かれました。そのときスカラ座は、付属の資料館で彼女が出演した全オペラのポスターと写真を発掘し、写真集にまとめてプレゼント致しました。本人は家に帰ると、こんなのもある、こんなのもある、わあ、こんな写真見たことがなかったわと言って、喜んでおりました。駆け出し時代に『ワルキューレ』のフィオーレを演じた写真まで載っています。やはりこれも、徹底した保存の例だと感心しました。

ついでに、もうひとつお見せしましょう。ここにあるのは、”Tanizaki in Western Languages:A Bibliography of Translations and Studies”、「欧米語に訳された谷崎作品総目録」です。大震災の年にヴェネツィアで、谷崎潤一郎国際シンポジウムが開かれました。1995年は、ヴェネツィア大学日本学研究所が創立30周年を迎える年で、ちょうどそれは谷崎没後30年の年にあたりました。私の友人で日本文学研究者のアドリアーナ・ボスカロ教授が、谷崎に捧げるシンポジウムがかつて日本で開かれたかどうか調べてほしいと頼んできたのはその2年前のことでした。意外なことに、開かれた形跡はありません。それならヴェネツィア大学が引き受けるわ、と彼女は大規模な企画を立ち上げました。こうして開かれたシンポジウム当日には、『瘋癲老人日記』の挿絵に使われた棟方志巧の仏足石を形取ったポスターがヴェネツィアの街のあちこちに貼られ、その足跡をたどって行くと会場に到着できる演出がこらされていました。世界7カ国から、22人の研究者、作家が集まりました。5年後の去年、ようやく完成したこの目録にも、シンボルマークの仏足石が黒字に金で彫りこまれています。シンポジウムが打ち上げ花火に終わらなかった証拠に、ヴェネツィア大学がその後16か国と提携して、谷崎の作品で欧米語に訳されたもの、263点を調査、掲載しているのです。国別、刊行年順、原題と訳題による索引、訳者名による索引も可能です。有名な「刺青」の翻訳が23カ国で翻訳されている、というのもすぐにわかります。アメリカの方が製本コストが安いのでしょう。ミシガン大学が協力を申し出て、印刷発行を引き受けています。


というわけで、以上3つの保存の例、これらはおそらく氷山の一角だと思うのですが、文化財の保存に向けるイタリア人の熱意に、私は大きな刺激を受けました。たとえ小さな力でも自分にできることをやろう。地震で生き残った者として何かしようと、「シミオナートの保存」に乗り出した次第です。

震災の年の5月、シミオナートは85才になり、このときもスカラ座でお祝いの会が催されました。私は会場にファクスを送り、決意を伝えました。「マンマ・ジュリエッタ、あなたは歩く文化財、これからますます大事にします」。シミオナートはこのメッセージを、観衆の前で読み上げたそうです。

余談ですが、「歩く文化財」という言い方には、先のヴェネツィア大学のボスカロ先生から、クレームがつきました。「歩く文化財という表現は、日本語をやっている者なら感覚的にわかるけれど、一般のイタリア人が聞いたらちょっとね。博物館で古代ローマの彫像が、むくっと起き上がって歩き始めるようなイメージが浮かぶから、シミオナートさんにはふさわしくないよ」と言うのです。ゾンビみたいな印象を受けるそうです。「じゃあ、なんと言えばいいの」と聞くと、「生きている文化財」が適当と言います。味も素っ気もなくて、そんなのつまらないと思いましたが、なにはともあれ「生きている文化財」であるシミオナートの保存に着手しました。20代の学生時代にも『プリマドンナへの道』という留学始末記を出版したことはありますが、もっと緻密に確認の意味で、シミオナートの人生を記録しようと考えました。ミラノにいくたび取材を重ね、「プリマドンナの声を拾う」作業を始めたのは、そんなわけで、地震と夫の影響です。


エッセイ朗読とスライド 「ミラノにて」


半年ぶりにミラノに行った。20年前に書いたオペラ歌手の伝記に大幅に手を加えようという目論見からだ。「あんたも大きくなったし、私も成長したから、きっと良い本ができるわ。取材はいつでもOKよ」。今年86才になるその歌手は言った。ジュリエッタ・シミオナートは今世紀のオペラ史上に燦然と輝く星のひとつだが、中学生のとき大阪で出会って以来、どういうわけか波長があって、私はこのプリマドンナをマンマ・ジュリエッタと呼んでいる。

現役時代、声の維持に全てをかけて生き抜いて来た人は、取材の時も集中力の塊になった。今日は2時から7時まで仕事と決めたら、5分の休憩も取らせてもらえない。「いまだにそんな間違いをするの。あんた先生なんでしょう!」 イタリア語を学び始めた頃、私が手紙を書く度に添削をしてよこしたこの母親は、発音の小さな間違いも聞き逃さずに、顔をしかめる。「あんたがよく遊びに来ていたローマの家は、ヴィスコンティ監督の口ききで見つけたものよ。知らなかった? だって、留学中のあんたは左翼系の作家にかぶれて、貴族出身の芸術家なんて鼻も引っかけなかったじゃないの。スカラ座の桟敷にも普段着で現れて、私に恥をかかせたわ」

1970年代のイタリアでは、共産党がキリスト教民主党をしのぐ勢いで力を伸ばし、離婚法や妊娠中絶法の国民投票が行われる度に、若者が広場にあふれた。学生だけでなく、教授陣も、現代文学の講義では、貴族の作品をあまり語らなかった。「今はもうヴィスコンティの映画『山猫』を重要作品と見なしているわ。原作者のランペドゥーザ侯爵について、論文も書いたのよ」。私の言葉を受けて、シミオナートはこともなげに言う。「ランペドゥーザは私の夫の患者だった人よ。知らなかった?」

30年以上のつき合いでも、知らなかったことは山のようにある。ご主人がプッチーニの主治医だったこと。カラヤンが多忙なシミオナートの為に自家用飛行機をよこすと言ったこと。3度の結婚の顛末なども。この先、どれだけ聞き出せるだろう。過去への執着を嫌う高齢のプリマドンナは、それでも別れ際に、「思い出したことはメモをしてファックスで送るわ」と言ってくれた。


武谷  シミオナートは現在90歳。去年5月12日にスカラ座で誕生パーティーが開かれたときの、これが写真です。ご覧のように、今もシャンパン片手にハイヒールで立っています。観客席一列目の黒いサングラスの女性は、デル・モナコといっしょに日本にも来たことのある往年の名ソプラノ歌手、レナータ・テバルディ。テノールのベルゴンツィの顔も見えます。2列目のここに私がおり、お隣には、第1回イタリア歌劇団の通訳で、シミオナートたち全員がこの人だけを頼りに、東京の街を歩いたという清水透さんがおられます。

さて、1910年生まれのジュリエッタは3人兄妹の末っ子で、父親は刑務所の看守でした。すでに申し上げた通り、母親がサルデーニャ島出身でめっぽう厳しく、子供たちが悪戯をすると、わらで鞭を編んで、びしびし叩いたそうです。「マンマは私にキスをしてくれたことがなかった」と、彼女は母親に一種トラウマに近い恐れを抱いています。生後まもなくサルデーニャ島に引っ越したシミオナートは、8才までそこで育つのですが、「あんたのきんきん声、なんとかならない?」と姉たちに嫌がられ、トイレに隠れて歌っていたと言います。

 その後、イタリア中部のロヴィーゴという町に、父親が転勤になりました。すると町の教会の尼さんや軍楽隊の隊長が「すごい声の少女がいる」と噂しはじめます。その人たちが、ジュリエッタに歌のレッスンを受けさせろと両親を説得に来るのですが、そのときのお母さんの反応がすごいのです。「娘を芸人にする位なら、殺した方がましです!」と言って、追い返したのだそうです。

ですから母親が存命中は、ジュリエッタは歌のレッスンを受けさせてもらえませんでした。学芸会のようなのには内緒で出演していましたが、「マンマには言わないでね。そうでないと学校に放火に来るかもしれないから」と、先生に頼んでいたそうです。その母親が15歳の時に亡くなり、父親の方はかなり温厚な性格の持ち主だったようで、「妻が望まぬことではありましたが、それがこの子の天命ならば」と、ようやく軍楽隊の隊長のもとに、娘を入門させました。大人の歌手でも出すのがむずかしい声域の曲を楽々歌いあげる少女を前にして、先生は、お前は生まれつき音楽性に恵まれているからピアノもソルフェージュも勉強しなくていい、と言ったそうです。「そのせいで私、あまり楽譜が読めないのよ」と彼女は悔やみますが、107曲の持ち役を誇ったプリマドンナがそれらのオペラをどうやって覚えたのか、私のような素人には想像もつきません。

ただ、これだけの素質に恵まれながら、オペラ史の書物に、シミオナートぐらい我慢を強いられた歌手は例がないと記される程、頂点に立つまでの間、彼女は控えの歌手として試練にさらされました。両親を早く亡くしたうえ、時代はファシズムのさなかでした。ムッソリーニの後ろ盾のある歌手が、重んじられていたようです。「スカラ座の舞台から見て左奥の一番上の桟敷が、当時代役歌手にあてられていた席よ」と、彼女は恨みをこめてよく語ります。23歳のとき、第一回ベルカント・コンクールで優勝をはたしながら、37才になるまで、スカラ座の主役はまわってきませんでした。「ピアノ合わせ、オケ合わせ、振り付け、リハーサル、本番。代役歌手は必ず全部の練習に立ちあう義務があったのだけれど、主役はみんな元気溌剌。役を降りる人なんて皆無だったわ」と、彼女は語ります。

転機が訪れたのは、終戦の2年後、1947年のことでした。サルデーニャ島で野生児のように育ったシミオナートに、ミニヨンの役が降ってきたのです。「君よ知るや南の国」で有名な、トマ作曲の『ミニヨン』でした。新人歌手の登用を危ぶむスカラ座のお偉方の前で、彼女は動じずに言ったそうです。「皆さん方はご心配かもしれませんが、私はなにも怖くはありません。ミニヨンは私自身ですから」

公演は大成功。批評家たちは「ジュリエッタに卒業証書を!」と讃辞をおくり、その夜を境にシミオナートの生活は、3度の食事もままならなかった状態から、180度転換しました。

修行時代の鬱屈した不満や悲しみが一挙に解消されたような『ミニヨン』の録音テープがございます。鬼気せまる声に、しばらく耳を傾けて下さい。


『ミニヨン』第2幕 「ボヘミアの青年を知ってるわ」と、スライド


武谷 如何でしたか。この日、メゾ・ソプラノ界の女王となったシミオナートは、以後20年間、引退にいたるまで、年に平均80回、世界の主要劇場を行き来しました。想い出話が嫌いな彼女ですが、唯一誇らしげに語るこんなエピソードがあります。1956年の12月に、半月の間に11回、スカラ座とローマのオペラ座の間を、毎晩寝台車で往復して歌いつづけるという、信じられないような記録を作ったのです。スカラ座で『ノルマ』、ローマのオペラ座で『セヴィリアの理髪師』、ミラノのピッコロ・スカラ座で『秘密の結婚』。喜劇、悲劇をとりまぜて、3つの違う役を交互に歌ったというのです。当時のローマの駅長は、シミオナートが化粧も落とさず、マフラーとオーバーに身をくるんでプラットフォームに駆け込んで来るのを待ちうけ、プリマドンナが無事に乗り込むのを見届けた後で、ようやく発車オーライの合図を出したそうです。

何事もそんなふうに完璧に徹底して行う人ですので、先程来スライドでお目にかけています彼女の手紙。その字がいかに達筆かも、おわかりいただけると存じます。これはシミオナートが子供の頃、近所の洋服屋のおばさんから「ジュリエッタ、あんたは声がいいから、いずれサインを求められるようになるよ。そのとき字が下手だったらどうするの」と忠告され、彼女はサインがなにを意味するかも知らないまま、ノートを何冊も買い込んで、ジュリエッタ・シミオナート、ジュリエッタ・シミオナートと、繰り返し練習した成果です。美しい字体は有名で、90才を過ぎた今も斜めに乱れるようなことはありません。


では、皆様方も少しお疲れのようにお見受けしますので、ここらで5分ほど休憩を取り、第2部で、私の手作りビデオをお目にかけることに致します。


休憩


武谷  第2部を始めさせていただきます。まずは最初と同じように、シミオナート現役時代の映像をご覧下さい。私が大変影響を受け、その後シチリア作家の研究に傾倒していったいわくつきの作品、『カヴァレリア・ルスティカーナ』です。


映像 『カヴァレリア・ルスティカーナ』 (約7分) 


武谷 もっとお聞かせしたいのですが、時間の都合でここで止めます。恋人にふられたシチリア娘が恋敵の女性の夫に告げ口をして、夫が男の名誉を守るため復讐を誓う。作家のシャーシャによれば、これは現代にいたるマフィア型社会の母型です。このオペラはレーザー・ディスクで発売になっていますし、詳しい解説は私の『イタリア覗きめがね』にも記してございますので、関心がおありの方はどうぞそちらを参照下さい。シミオナートはこのオペラを演じた後は、エネルギーを消耗し尽くして、ホテルに帰って、りんごとビスケットを食べるのがやっとだったと述懐しています。

そんな彼女に「主役のサントゥッツァが復活祭の日に教会に行けないと言ったのは、お腹に子供がいたからなの? トリッドとどこで寝たのかしら」と、台本について質問してみました。「言葉に気をつけなさい、寝たなんて表現は下品よ」と私をたしなめながらも、「でも、シチリアだから草の上でやったと思うわ」という答えが返ってきたのには、思わず苦笑してしまいました。また、舞台ではあれほどシチリア娘になりきっていたシミオナートですが、私がシチリアに行くときには「今の内においしいお肉を食べておきなさい」と言うなど、北のイタリア人が南に対して抱く偏見があらわになるのも興味ぶかい所です。


それではいよいよ手作りビデオの公開に移らせていただきます。全部で20時間ぐらい取材を重ねたものを約30分にまとめた作品です。なにぶん素人撮りですので、お見苦しい箇所も多いと思いますが、今日の話のメインですので、そうぞお楽しみ下さい。



ビデオ上映 「プリマドンナの《声》をひろう -マンマ・シミオナートとの対話」

                  撮影・構成・翻訳   武谷なおみ

                     編集  島本慎二、小澤信三



導入部 1997年ミラノ シミオナート87歳のレッスン風景

喜び=Gioiaの表現を指導


年寄りの私がこれだけ息を保てるのに、なぜ若いあなたにできないの?

いちどに吐き出してはだめ。大声で叫んだりせず、甘い表情で歌いなさい。


トスカニ-ニの想い出


スカラ座に来られるたびにトスカニ-ニは、シミオナ-トはどうしているかと、聞かれたそうよ。あるとき、桟敷席の外で出会ったの。「マエストロ、私を憶えていて下さいますか?」

「もちろんですよ。今、何を歌っているの?」

「『カヴァレリア・ルスティカーナ』をジェノヴァで」と答えたわ。するとこう言われたの。「なぜ、あんなひどいオペラを。せっかくの美声をつぶしますぞ!」

- ヴェリズモの作品が嫌いだったのね。

それは確かよ。口ごもっている私を残して、彼は行ってしまわれたわ。

次の年、今度は私、スカラ座で『カヴァレリア』をやることになってね。リハ-サルの日にトスカニ-ニが偶然また、劇場に来ておられたの。そして、何のリハ-サルをしているのかと、周囲にたずねられたのよ。シミオナ-トの『カヴァレリアです』と、誰かが答えた。「おや!」と彼は叫んだそうよ。そのとき、私が舞台のそでに来てね。彼は微笑んで、こう言われたわ。「忠告を聞きませんでしたね。『カヴァレリア』をスカラ座でもやっておられるとは」

私はトマトみたいに真っ赤になって、口をもぐもぐするばかり。これがトスカニーニとのなつかしい想い出のひとつよ。


カラヤンの想い出


― カラヤンには、会ってすぐに尊敬を抱いたの?

ええ、強烈な個性の人で、たちまち魅力のとりこになったわ。舞台の上で、もし彼が「5階から飛び降りて」と命じたとするでしょう。私はたぶん目をとじて、飛び降りたと思うわ。大丈夫って、確信がもてたからよ。こんな点でも彼は少し独裁的だった。芸術的な独裁者よ。彼がタクトを握ったら、あの眼がきらきら輝くのよ。

カラヤンとはずいぶん仕事をしたわ。彼は演出にも口を出してね。ひとつの場面を演じるのに、5つも6つもの型を考え出すの。そして「どれがいいかい?」と私達に聞くのよ。カメラマンが写真をいっぱいとって、一番いいのを選ぶように演出を決めるの。歌手の方は、むろん、打ち身、すり傷、ひざが痛くて大変だったけれど。

― カラヤンとは、何語でしゃべったの?

イタリア語よ。低い声の、ドイツなまりの、早口のイタリア語でね。でも後に、彼はイタリア語の授業を受けて、ドイツなまりを矯正したわ。そんな面でも野心家だったわね。

― 野心家って、どういう意味?

すべてに芸術的であろうとしたのよ。音楽に関わるすべてに美を追求し、彼自身も美的であろうとしたのね。そしてね、カラヤンはぜったいに、歌手の楽屋を訪問しない人だったわ。『カルメン』で共演した時のことよ。公演当日に私が熱を出したの。38度半の熱。「さあ大変、どうしよう!」

スカラ座の看護婦のミランダを呼ぶと、注射をすすめるの。「だめ、だめ、注射はだめ。もっと悪くなるかもしれない」。仕方なく、おまじないを唱えたわ。「聖者のご加護がありますように!」どうなることやら、と恐れながらも、劇場に行ったの。

「インフルエンザだろうね」とみんなが言ったわ。ぼうっとして涙眼のまま、第3幕のカルタの場面まで到達したの。なんとか声は出ても、ふらふらでね。指揮者の姿が目の前で揺れるの。でも、どうにか歌い終わって着替えをしていたときのことよ。カラヤンが思いがけず私の楽屋をおとずれて、こう言われたの。「ジュリエッティ-ナ、今宵、私はあなたの前にひざまずきます。カルタの場面では、その、ひげが逆立ちました」

ふつう、髪の毛が逆立ったって言うでしょう。「ご心配のあまり?」とたずねると、「見事すぎて」とおっしゃるの。カラヤンのひげが逆立った話を、今もときどき想い出すわ。彼が亡くなって数ヵ月の間、私は、音楽を聞くことができなかった。想い出が多すぎてね。カラヤンの死は、本当にショックだったわ。


音楽挿入 『カルメン』1954年ウイーン カラヤン、シミオナート


心に残る公演


― その他の指揮者で印象に残っているのはだれ?

一流、二流を問わず、私はすべての指揮者の下で歌ったわ。なかでも、歴史的といわれる演目の共演者はガヴァッツェ-ニよ。『アンナ・ボレ-ナ』『運命の力』そして『サムソンとデリラ』。『サムソンとデリラ』のときに私は、ある決心をして彼に言ったの。演出家の同意は得ましたが、アリアを新しい方法で歌います。今まで通り椅子に座ってはなく、地面に寝そべって歌いたいのです」

相手役のデル・モナコが叫んだわ。「冗談じゃない、僕は降りるぞ! 失敗するに決まっている、無茶だ。そんな場面は耐えられない」

私は言ったわ。「マリオ、決めたからには、うまくいくわよ。神様か、聖者か、天使か、誰かはわからないけれど、きっと守って下さるわ」

「唾液がちょっと逆流しても、息が保てないのは知っているだろう」と彼。

「息の長さは自信があるわ」と私。「寝そべったままでも大丈夫よ。でも、とにかく協力してね。ひとりじゃできないから」と頼んだの。

ところが、実際に寝そべるとね、低くて指揮者が視界に入らないの。でも、ガヴァッツェ-ニは、ベルガモ方言まるだしで、こう言われたわ。「心配いらんよ、ジュリエッタ。こっちがあなたに従うから」

緑の野原で、ヌ-ドに近い真っ赤な衣装のデリラが横たわって歌うの。スカラ座中が息をのんで、私の声に聞きほれているのが感じられたわ。スカラ座で歌手が地面に寝そべって歌ったのは、あれが最初よ。

私、謙虚でありたいけれど、これだけは言っておくわ。生まれながらの音楽性にめぐまれ、演技力もあったからでしょう。指揮者でも、歌手仲間でも、私は超一流の人達の信頼を集めていたの。コ-ラスの人達からも愛されていたわ。ただし、みんな一流どころよ。その下になると妬み嫉みなど色々あって、距離をおかれていたように思うの。偉そうに聞こえるかも知れないけれど、私も自然、一流の人達を愛したのよ。


演出について


初期の頃は、10本の指をどこに置いたらいいのか、わからなかったわ。でも次第に覚えていくものよ。ヴァルマンという名の振りつけ師がいてね。振りつけと演出、両方の担当で、古典オペラの動きを教えてくれたわ。それで腕をこう、ゆっくり上げて、そのままの姿勢が保てたし、柔らかさが身についたの。

― ドイツ人だったの、その人は?

いいえ、オ-ストリア人よ。私の時代にはまだ、これ見よがしで下品な、現代風の演出は存在していなかったわ。今の舞台を見てご覧。オーバーな動きで、優雅さなんてありゃしない。カラスだって、今風の演出には影響されていなかったわ。「われこそは」と目立ちたがる人じゃなかったのよ。それどころか、彼女は、ひとり目立つより、共演者全員が最高であることを望んだのよ。

― 舞台の上を本能的に動く人だったの、カラスは?

そう。生まれながらにして、ギリシア悲劇の主人公のようだったわ。



マリア・カラスの想い出


カラスは実生活でも苦しんでいたわ。オナシスと結婚するつもりだったのに、ジャクリ-ン・ケネディが現れたでしょう。

― オナシスに会ったことはあるの?

ええ、教養のかけらもない人だった。マリアは知っていたわよ。「彼はお金のことしか頭になくて、だから、変なの」と言っていたわ。あの男のせいで破滅したのよ。マリアは音楽そのものだったのに。事実、映画に出演したときの彼女はもう、マリアではなかったわ。

― パゾリ-ニ監督の『メディア』よね?

そう。彼女は「映画を観てくれた?」と、ある日、電話をしてきてきたわ。「ええ」とだけ答えたの。「あんたの沈黙は意味深長ね」と彼女は言った。「私は正直者だからね」と言うと、「わかっているわ」と彼女も言うの。そして「自分でも、期待したほどじゃなかったわ」と、打ち明けたわ。だから私は言ったの。「ねえ、マリア。あんたは音楽そのものなの。だからケルビ-ニの音楽がないと、メディアは存在しないのよ」

「いつもながら、ごもっともね」と彼女は言って、電話を切ったわ。マリアって、そんな人だったのよ。観衆は理解してあげなかったけれど。いつもトラみたいに歯をむき出していると思われていたわ。ただ、踏みつけにされるのを好まなかっただけなのにね。


音楽挿入 『ノルマ』1955年ミラノ カラス、シミオナート


フルゴ-ニ博士の想い出


シミオナ-トは3度結婚した。最初の夫はスカラ座のヴァイオリン奏者で、妻の収入を賭事に費やした。二人は子供を望まなかったため、結婚生活は11年で破綻。当時、離婚法は存在しなかったが、教皇庁控訴院で結婚解消が成立した。

2人目の夫、チェ-ザレ・フルゴ-ニ博士は、プッチ-ニ、マルコ-ニ、ムッソリ-ニ、トリアッティなどを患者にもつ、伝説的な医師である。父親のようなフルゴ-ニ博士との恋愛によって、シミオナ-トは引退と結婚を決意。このとき新郎は83歳、新婦は55歳。

当時のマスコミは、チマロ-ザ作曲の『秘密の結婚』にたとえて、彼らの結婚を大きく報道した。

3人目の夫、製薬会社の社長のフローリオ・デ・アンジェリ氏は、フルゴ-ニ亡き後、傷心のシミオナ-トがオペラ界に復帰して、スカラ座を中心に後進の指導にあたるよう、協力をおしまなかった。

フルゴ-ニ博士との出会い


ほら、私の手を見てごらん。こうするとね、真実を意味するの。十字架の形をしているでしょう。サルデ-ニャ育ちの者にとって、これは十字架を表すのよ。だから、手をこうしている人は絶対に真実を述べているわけよ。

40歳を越えた頃から私は、偏頭痛に悩まされるようになったの。でも、どこの医者にかかっても治療法が見つからなかった。あきらめて、引退を考えはじめていたのよ。公演中、休憩時間になるとトイレに駆け込んで、吐いてばかりいたわ。吐くと、化粧ははがれるし、涙は出るし、歯はガチガチなるでしょう。でも、アンコ-ルの拍手を受けにもどって、舞台の上では、にっこり笑顔! そしてまた、トイレに駆け込むという繰り返しだったの。

― 偏頭痛は若い頃からの持病じゃなかった?

いいえ、シチリア島のカタ-ニャではじまったのよ、この症状は。

― カタ-ニャといえば、1953年頃?

その通りよ。でも私は、フルゴ-ニ医師を予約する勇気はなかった。あの人は、あまりにも雲の上の人だったからよ。その頃、イタリアに名医は二人いてね。ペンデ先生とフルゴ-ニ先生。私、ロ-マの宿で、紙にそっと2人の名前を書いて、くじ引きをしたの。すると、フルゴ-ニと出た! でも、どうやって電話をしたらいいの。

― シミオナ-トも名士なのに、なぜ、そんなに内気だったの?

私そんな点では意気地がないのよ。受話器を握る手にも汗がにじんでね。どうしよう、どうしよう。やっと決心してダイアルをまわすと、最初は話中。一回、二回試みて、やっと三度目に秘書が出たのよ。「ジュリエッタ・シミオナ-トと申します」

いばって堂々とではなく、おずおず名前を告げるとね。秘書が驚いて、「まあすてき! いつも聴いています、劇場で」と言うのよ。「次の公演地に移動するまで、あまり日がないのですが」と切り出したの。

すると秘書が他の患者の来ない日を特別に選んで、運命の日に予約が整ったのよ。聖ステファノの祝日、クリスマスの翌日だったわ。フルゴーニは私を診察して、「感情の起伏が激しい性格ですね」と言われたの。

― 第一印象はどうだった?

私はコチコチに緊張してしまってね。あらかじめ症状を書いて行ってよかったわ。相手はカリスマ的な医師だもの。


二人の交際がはじまった。ロ-マのオペラ座でシミオナ-トの『運命の力』を聞いたフルゴ-ニは、こう言ったという。「今夜、劇場にいた人はだれひとり、あなたが頭痛に悩まされているなんて、信じないでしょう。まるでコオロギみたいに、飛んだり、跳ねたりしていましたからね」

音楽挿入 『運命の力』1965年ミラノ

1966年フルゴーニとシミオナートの結婚通知状


― 年齢の差は感じなかったの?

いいえ、ぜんぜん。いま考えても例外的な人だったわ。90歳を過ぎても、あらゆる面で健康だった。そしていつも「人生は長く、人生はすばらしい」と語っていたわ。

アメリカ公演のときにはね、私はホテルに帰って、夜の11時頃手紙を書くの。一方、ロ-マの彼は、朝4時半に起きて手紙を書いていたのよ。同じ時間に両方が、互いに手紙を書いていたというわけよ。ベッド位の大きさのトランクに手紙が一杯たまったわ。いつも違った話題を思いついて、しかも愛情にあふれた文面でね。

― だけど、プロフェッソ-レは、字が下手だったわね。

まったくよね。読むのに何時間もかかるほどの悪筆だったわ。

― 手紙をまだ保存しているの?

いいえ。ロ-マのパリオリ地区の奥にアンテナの丘があったでしょう? 彼が亡くなった後で、3つのトランクいっぱいの手紙を管理人と少しずつ運んでね。あの丘の上で、大きな炎を上げて燃やしたの。その方がいいし、美しいと私には思えたからよ。


幼年時代の想い出


― 人はある年齢に達すると、幼年時代を夢に見るというのは本当?

想い出すけれど、私は夢に見ることはないわ。

― すると、夢に現れるのはどんな場面?

オペラの本番で、急に言葉が出てこなくなったり、声の調子が悪くて困っている所。そんなときは、胸がドキドキして、冷や汗をかいて、はっと目が覚めるわ。

― 両親と過ごした家は想い出すことがある?

サルデ-ニャ島のテンピオ・パウザ-ニャにあった家は覚えているわ。平屋で大きな庭の真ん中に水を汲む井戸があってね。想い出すのは、屋根裏部屋に干してあったリンゴやブドウの匂いよ。干しぶどうやマルメロの実の香りが、家じゅうに立ちこめていてね、目を閉じると、あの匂いが漂ってくるような気がするわ。そんな乾燥フル-ツをクリスマスに、家族みんなで食べていたのよ。


音楽挿入 『ミニヨン』1959年ローマ


「君よ知るや南の国」のアリアとともに、赤ん坊の頃のジュリエッタ、小学生時代のジュリエッタの写真が現れる。1933年の声楽コンクールでの優勝を知らせる姉宛の電報、「興奮して、勝利を伝えます! 妹ジュリエッタ」が映し出される。世界各地での成功のあとを辿りながら、やがて引退の日の後姿、日本訪問の写真などを紹介。

2000年5月スカラ座、90歳おめでとう! のテロップを入れて、ビデオは終わる。



エッセイ朗読とスライド 「あまりに演劇的な」

 

大阪発ミラノ行き、アリタリア航空の直行便に乗って、ベルト着用のサインが消えると、通路はたちまち身振り手振りで話すイタリア人でいっぱいになった。スチュワーデスまでがおしゃべりの列に加わって、機内サービスは一時停止。飛行機の中は社交場に変わる。やれやれ、ここはもうイタリアだ。こちらも思考のチャンネルを切り替えて、のんびり、ゆっくり、異文化の吸収に努める。2000年の歴史をしたたかに生きてきた人々は、いつも驚きの源泉だ。今回の旅ではどんな発見があるのだろう。

配られた新聞を開くと、第1面に早速、奇想天外な見出しが踊っていた。教会の鐘で精力が減退。主任司祭に有罪判決。シチリア島に住む40代の夫婦が、時を告げる鐘の音がうるさいと、神父さんを訴えた。性生活を邪魔された賠償に9か月の教会追放と、約60万円に相当する罰金を勝ち取ったと言う。冗談でしょう、と思わず何度も読み返した。

夜な夜な鐘を鳴らしていたのは、ドン・ヌンツィオという時代がかった名前の司祭。問題の教会が、天国にも地獄にも属さない大気中の魂に捧げられた煉獄の教会であることも、イタリアの劇作家ピランテッロの芝居を彷彿とさせる。訴えた夫婦は技師と教師。21世紀を前にして、こんな劇的な裁判は傍聴に値する。

ミラノ到着後は、イタリアの母を訪ねた。ジュリエッタ・シミオナートである。珍しいビデオを見せてあげようと言うので、最近ドイツのテレビ局が取材した彼女の記録映画かと思ったら、画面いっぱいに映し出されたのは、なんと目玉だった。先月受けた白内障手術の実録で、所要時間が正真正銘7分間であったかどうか、証明して見せると言う。イタリアの医学技術もまんざらではない。入院は不要。卵焼きの要領で行われた手術では、濁った白身が取り除かれ、はめ込まれた水晶体は、どこか宇宙の星の輝きに似ていた。

新しい目玉を獲得した彼女は、今年も「ヴェルディの家」へ出かけていく。3月19日はサン・ジュゼッペの日。イタリア中のジュゼッペが祝われる日だ。ジュゼッペ・ヴェルディの血のたぎる音楽で内面の殻を破り、自分のすべてを観客に提供することができたというシミオナートは、マエストロへのお礼のために、「ヴェルディの家」友好協会の会長を務めている。それは身寄りのない音楽家のための憩いの家だ。「100人の入居者に2つの共同トイレしかなくて気の毒だったから、私が資金集めに奔走。部屋数を70に減らして、各部屋トイレ付きにしたわ。台所と玄関も改修。むろんマエストロのお墓もよ」と、得意そうに語った。古さと新しさが同居するイタリア。北と南でまったく価値観が異なる土壌。2週間の旅はめまいがしそうだが、私は明日、北の商業地ミラノから、羊の群れが移動する南のシチリア島へと向かう。

武谷  「語り部」の材料もそろそろ尽きて参りました。最後に補足として、私が先月シミオナートに連れられて行ったブッセート訪問と「ヴェルディの家」見学の模様を、出来立てのほやほやのスライドでお目にかけ、ヴェルディ・イヤーの記念にしたいと思います。


スライド投影


ヴェルディ生誕の地ブッセートに、ちょうど四国の金比羅歌舞伎を思わせる、客席数が300人ばかりの小さな美しい劇場があります。没後100年を記念する最初の出し物はゼッフィレッリ演出の『アイーダ』で、シミオナートと私が行った晩は、「ヴェルディの家」のお年寄りたちが招待されていました。彼らはミラノから借り切りバスを仕立ててやって来ました。イタリアでもやはり女性の方が長生きするのか、お婆さんの姿が多いのが印象的でした。先程のビデオのインタビューで、シミオナートがカラヤン指揮で『カルメン』を歌った晩に熱を出し、スカラ座の看護婦のミランダに診てもらったという話がありました。そのミランダが「ヴェルディの家」の入居者として健在です。「私は注射をする係だったから、有名な歌手のお尻は大抵見てるわよ」と、笑って教えてくれました。

お年寄りといっても侮れません。さすがイタリア人。彼らは舞台のはねた後、隣のホテルに移動して、前菜からデザートまでゆっくり食事をするのです。ミラノに帰るのが夜中の2時頃になっても、あまり気にとめていない様子でした。基礎体力が違うのでしょうね。

そんなお爺さん、お婆さんに興味を抱いた私が、「ヴェルディの家」の中を見学したいと頼んだところ、シミオナートが気軽に同意して、翌朝、自分で連れて行ってくれました。

玄関を入ると、早速、美しい弦楽器の音に包まれました。中庭のつきあたりに墓所があり、ヴェルディがストレッポーニ夫人とともに葬られています。

老人ホームとしては、特に、病棟がとても完備していました。病気になった入居者は、自室から病棟に移り、介護士の世話でお風呂にも入れます。車椅子のまま浴びることのできるシャワーもありました。リハビリ・ルームも併設され、体操用具がそろっています。図書室には、上着や帽子を脱いでかけておくハンガーまでぶら下がっていました。

入居者の部屋はすべて個室で、各人が家で使っていた馴染の品を持ち込めるスペースがじゅうぶんにあります。シミオナートが駆け出し時代、一緒にアフリカ巡業をしたことのある95才のお婆さんが、自室に招きいれてくれました。二人はしばらく娘時代に帰ったように、想い出話に花を咲かせていました。館内には、演奏会が開かれるパイプオルガンつきの優雅な広間や食堂がむろんありますが、礼拝堂もあり、入居者のお葬式はそこで行われるということです。

ヴェルディは「自分の作品のなかの最高傑作はこれ」と、「音楽家のための憩いの家」を建設し、運営方法を遺言して、87歳で世を去りました。没後100周年を記念して、日本でも朝日新聞が来月、この家の特集を計画していますし、NHKもスペシャルを組んで、間もなく撮影隊が出発するそうです。詳しい内容はそちらでたっぷりご覧下さい。

お楽しみいただけましたでしょうか。シミオナートはびっくり箱。90歳を過ぎても気が向けば、ふと、日本に現れることがあるかも知れません。その時はぜひもう一度、直接話を聞きにいらして下さい。長時間のおつきあい、本当にありがとうございました。

朗読者の瀬野さんに、あらためてお礼を申します。また、この度のビデオの作成には、私の勤務校である大阪芸術大学の卒業生や、非常勤で教えに行っている京大イタリア語科の学生が、大勢手伝ってくれました。彼らは「先生、オナシスって誰?」と質問して私を驚かせましたが、コンピューターに詳しく、字幕を入れたり音量を調節したり、ビデオ制作に協力してくれました。その内のひとりの島本慎二君が、会場で直接ビデオを操作して、お客さんの反応を見たいと申しましたので、今日は同行致しました。どうか拍手をやって下さい。ありがとうございました。




付記: 1月に日本イタリア京都会館主催で産声を上げ、3月のイタリア研究会で東京進出をはたした私の「シミオナート語り部」活動は、その後もあちこちから依頼をうけ、昨年1年間で計10カ所、1000人以上の方々に、ビデオを見ていただきました。各会場には「かつての『アイーダ』のエジプト兵です」とおっしゃる紳士方も現われ、思いがけない出会いがたくさんありました。今年の5月12日、シミオナート92歳の誕生日には、ミラノの「ヴェルディの家」で講演する計画が進んでいます。きっかけを作って下さったイタリア研究会にあらためて感謝し、活動の経過をここにご報告させていただきます。



               主催             場所

2001年 1月27日 日本イタリア京都会館   大阪府立ドーンセンター

      3月16日 イタリア研究会      六本木国際文化会館

      5月12日 朝日21関西スクエア   大阪朝日新聞社アサコムホール

      5月30日 京都市生涯学習振興財団  京都アスニー

      6月21日 西宮東高校「木曜講座」   なるお文化ホール

      7月 7日 東京津田会        津田塾同窓会館

      8月21日 リーガクラブ       大阪リーガ・ロイヤルホテル

      9月26日 日本ヴェルディ協会    東京四谷区民ホール

     10月23日 大阪音楽大学声楽科    大阪音楽大学

     11月 1日 津田塾大学フォーラム   津田梅子記念交流館

2002年 5月12日  Associazione Amici   La Casa di riposo per

(予定)   della Casa Verdi musicisti, Milano



報告者プロフィール


武谷なおみ(たけや なおみ)


大阪芸術大学文芸学科教授

神戸生まれ、津田塾大学卒業、京都大学大学院博士課程修了(専攻はイタリア文学)

4年間ロ-マ大学に学ぶ。イタリア学会幹事、地中海学会常任委員、日伊協会評議員

著書『プリマドンナへの道-シミオナ-トのリンゴとビスケット』、『イタリア覗きめがね

-スカラ座の涙、シチリアの声―』、“La casa appoggiata al pino”                   

訳書 E.リコッティ『古代ロ-マの饗宴』、 L.シャ-シャ『ちいさなマフィアの話』、  

E.ヴィットリ-ニ『人間と人間であらざるものと』(共訳)など。




(イタリア研究会  第249回例会2001年3月16日 六本木・国際文化会館講堂)



印刷物としても発行されています。


イタリア研究会報告書No.98

2002年4月20日発行

企画編集 イタリア研究会

発  行 スパチオ研究所・伊藤哲郎

     (目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)

事 務 局 高橋真一郎

     (横浜市青葉区さつきが丘2-48)