第250回 イタリア研究会 2001-04-27
イタリア・ルネサンス展
報告者:国立西洋美術館研究員 高梨 光正
第250回イタリア研究会(2001年4月27日)
報告者 高梨光正 国立西洋美術館研究員
「イタリア・ルネサンス展」
司会 第250回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は高梨光正さん、後ろに今立っていますが、極めて若いという方でして、高梨さんは、東北大学の大学院を卒業されまして、94年から98年までフィレンツェ大学に留学されまして、イタリア美術史をやられました。99年の春から、国立西洋美術館で研究員をされております。まだ30をちょっと越えたばかりで、今イタリア美術史担当と言うのは越川さんが東京大学の助教授に転出したあと、今高梨さんが主任と言うか、もう1人の方と2人でイタリア美術をやっております。それで今回、日本経済新聞社が中心、あと向こうが当然やっているわけですが、ルネサンス美術展宮廷の文化展、これのお膳立てから全部されたのが高梨さんです。向こうからイタリアが書いた翻訳を基に、このカタログを作られたのも高梨さんで、大変に苦労されたと聞いていますが、今日は、どういうテーマにしますかといったら、ルネサンス展のルというふうにしてくれと、いろはのいと同じ意味だということですので、そんなことでお願いしたいと思います。先ほど申しましたが、国立西洋美術館の管理のうるさい中で、スライドを持ち出していただきましたので、非常によかったと思っています。それではお願いします。
高梨 国立西洋美術館学芸課研究員の高梨と申します。今回のイタリアルネサンス展は、前任者、越川ミチアキが開催までの政治的部分を整えたあと、私を残して飛んでいきまして、その後、作品の選定、それから今回の展示等々、それからカタログを含めまして、私がほとんど1人で責任を持ってやらせていただきました。こんな若造が本当にやったのかとお疑いの方もいらっしゃるかもしれませんが、間違いございません。そのためにカタログに多々実は間違いがございまして、これは我々どもの間違いもありますし、イタリア側の間違いも多々ございまして、今第2版で必死に直す準備を整えているところでございます。
今日はイタリア研究会の皆さんということで、おそらく仕事の関係とか、あるいは実際に向こうに住んでいらした方とか、非常にイタリアにお詳しい方がたくさんいらっしゃるだろうと思います。実際にイタリア人と付き合うには、遊ぶ分には非常に楽しくてよろしいのですが、いざ一緒に仕事をするとなると、期待を裏切って、予想を裏切らないという、その予想というのはあらゆる悲観的な予想ということなのですが、そういう中で仕事をしておりまして、実際にこの展覧会オープニングまでできるかどうか非常に危ぶまれた展覧会です。実際に作品が最終的にリストが決まったのが1月過ぎてから。要するに、記者発表の直前、あの時期でもまだ作品が決まったような、決まってないような、危ないところでした。そこ後1月残りということで、作品の輸送から、カタログから、全部私の両肩にかかりまして、なかなかイタリアと付き合うには、書面でやり取りをするというのが非常にうまく行かない場合が多いのです。つまり、こちらからFAXを送るのはいいのですが、向こうから返事が来ないのです。従いまして、こうなると、担当者と捕まえて、電話で直談判をして、その場で話を決めるというようなやり方で、結局最後何とか間に合わせたというのが率直な気分です。ですから、担当者といたしましては、開幕迎えて非常にうれしいのですが、早く作品を返して開放されたいというのも率直な気持ちです。
あまり展覧会の苦労話をすると、たぶん会期よりも長くなってしまいますので、今日はざっくばらんに、ルネサンスのルと言いながら、ちょうどルネサンスとは何かという塩野七生さんの著作も出たばかりですし、あるいは本当にルネサンスとは何かということをまじめに考えてみたときに、では一体どういう問題が起きてくるのかということを含めて、いろはのいとかけたルネサンスのルと、それからルネサンスという言葉の最初についているこのルという言葉の重みです。これをわかりやすく、簡単に話をして見たいと思います。ではしばらくお付き合いください。
しゃべってばかりいてはつまらないので、これからスライドも映しますけども、例えば実際にもうすでに展覧会ご覧になった方いらっしゃいますか。あんなひどい展示をしたのはこいつの責任だなと思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に入った部屋には初期ルネサンスのフィレンツェの美術品を集めてあります。そして、一番最後の7室、タペストリーが大きくかかっている部屋というのは、16世紀、同じくフィレンツェのメディチ家の宮廷の作品ばかりを集めてあります。
ああいった作品を見たときに、そのたった150年、あるいは170年といった期間に起こったそのとてつもない変化というものを実感するには、なかなかに難しいものがあるのです。当然人間、美術品を見たり、あるいは彫刻を見たりするときに、当然作った側の、あるいは作らせた側の、あるいはそれを大切に守ってきた人の感性が、感性の変化そのものが入っているわけですね。それを、じゃあ視覚的にすぐに理解できるかというと、これはなかなか勉強しなければわからない。そこで、今日は参考までに、最初に音楽を聞いてみて、この150年の間に、どれだけ人間の感性が変わったかというのを、多少さわりだけ聴いてみて、理解の参考にしていただければと思います。
最初は、マザッチョが生きた時代、つまり15世紀初期のフィレンツェの普通の人たちの生活の音楽です。
(音楽)
マザッチョの時代の音楽なのですね。ところが次です。
(音楽)
というふうに、明らかに人間の感性が違うのです。最初にお聞きになった曲は、エッコラプリマベーラ、春が来たというのです。これは要するに春が来たと、あたたかくなってうれしいなと、ご飯もおいしくなったし、というわけで、みんなで手をつないでおどるという曲なのです。
ところが、2曲目にかけたのは、実は1589年のメディチ家のフェルディナンド1世と、それからクリスティーナ・ディ・ロレーヌの結婚式のときの音楽なのです。これは、単に極がきれいになったというだけではなくて、音楽の構造そのものに大きな変化がございまして、実は歌っているのは、調和の寓意像というか、アレゴリーが天と地を結びつくように、要するに天宮の世界、神々の世界と、それから地上の世界をいかに平和に導くかということを歌っている曲です。つまり、高音の部分は天上の世界、そして、低い音は地上の世界、その間を動き回る音符というのは、実はアモール、愛のイメージなのです。つまりこれは明らかに典型的なフィチーノ以来のプラトン主義の考え方が浸透した結果の音楽なのですね。つまり日常生活の中に音楽とか美術品があふれているときに、その感性がその150年の間に大きくもう違っていると。つまり、初期ルネサンスと、それから盛期ルネサンスを過ぎて、それからマニエリズムを迎えたときには、それを楽しんでいる人たちも、それから作っている人達も、みんな感性がもう全然違うのです。
こうした150年の間の精神的なというか、感覚的な革命の元となったのが何なのかと。これが1つルネサンスの重要な問題になってくるのです。
日本では実はルネサンスというと、何でもかんでも復興したとか、再興したとかいう意味で使われますが、そもそもこれご存知の通りフランス語です。このルネサンスという言葉を最初に用いたのは、実は18世紀のダランベールという百科全書を編集した学者でした。必ずしもこのときはイタリアの15~6世紀をさしたわけではございませんで、むしろ13世紀、14世紀の文化のことを指していました。
イタリア人は実はこのルネサンスという概念とか言葉をこの頃持っていなかったのですね。なかったわけではないのです。実は別の言葉を使ってまして、リソルジメントという言葉を使っていました。ところが、現代ではリソルジメントという言葉は、通常19世紀のイタリアの統一運動以降のことを指してまいります。
ではなぜこの近代的な概念でルネサンスというのが、15~6世紀のイタリアの文化を指すようになったかといいますと、これがブルガハルトというスイスの学者がまとめたイタリアルネサンスの文化という書物の影響が大きくて、この書物はドイツ語ですが、これが各国語に翻訳されまして、そこから英語、フランス語、ドイツ語、すべてこの14~5世紀のイタリアの文化を指す重要な概念として捉えられるようになります。それを、イタリア人は、このルネサンスという言葉を自国語に翻訳して、リナシメントという言葉を実は作ったのですね。ですから、リナシメントと言う言葉は最初からイタリアにあったわけではなくて、やはり19世紀の学問の影響の中から、イタリア人が自分たちの文化を指すのに借用してきたという経緯があります。
ところが、では実際にイタリア人は何も考えなかったかと言ったら、そういうわけではないのです。このリナシメントの元となりますリナシェレ。再び生まれるという言葉は、もちろんすでにバザリが用いております。有名な芸術家列伝の第1版の序文の中で、コジモ1世の庇護の下で、我々フィレンツェの町に、あるいはイタリアに、諸芸術がリナシェレ、再生したという言い方で使っています。
ところがこのリナシェレ、再び生まれるという言葉、これはどういうことか。実はあまり真剣に考えられたことがないのです。つまり、再び生まれるということはどういうことかと。一度死んだ人がよみがえるときには、よみがえったとか、復活したとか、そうした言い方をするわけですね。蘇生したとか。
ところが、この場合は、そうではないのです。リナシェレというのは、一度死んだものが再びよみがえったという意味ではないのです。この言葉を実は非常に多用した文学者がおりまして、古代ローマのオウィディウスという人が、神話を集めた変身物語の中で、このリナシェレをたくさん、ラテン語ではレナースコルというのですが、多用しております。つまり、死んだものではなくて、生きているものが、姿を変えて、別なエネルギーというか、別な存在として生まれ変わること。これを指すのですね。つまり、通常我々一般的な常識的な概念としては、一度だめになってしまった古代ローマ、ギリシャの文化を、ルネサンスの時期が復活させたという認識を持ちがちなのですが、ところがバザーリがこの言葉を使っているときには、明らかに歴史意識がありまして、それまでの伝統を踏まえた上で、自分たちがそれを、その新しいエネルギーでもって、新しく生まれ変わらせたのだと。そういう意識なのです。何かが復活したのではなくて、新しく我々が作り出したのだという意識が非常に強い言葉になるのです。これが本当の意味でのルネサンス。リナシェレという言葉なのですね。
この15世紀から16世紀にかけてのイタリアの文化がこれだけ、要するにヨーロッパ文化の基礎となるだけの文化を築いたというのは、そこには非常に重要な組み合わせといいますか、問題がはらんでおります。
このときには、単に芸術だけの問題ではないのです。芸術というのは存在してないので、あくまで職人さんです。いるのは職人さんと、学者と、坊主と、それから政治家、商人ですね。要するに、お金と、技術と、それから知識と、この3つが組み合わさって初めてちょうどいい高みに至ったというのが、このルネサンスという現象なのです。
それで実際に、どういった作品が出てくるかというのを、今回出品されている作品も見ながら、映像を見ながら,考えていきたいと思います。
あまり参考にはならないかもしれないのですが、一応年表を用意しておきました。1400年からだいたい1600年まで。この時期をルネサンスといいますが、どういった作家が活躍していたか、そういったものをざっと見るだけの話です。この年表を頼りに何か話をしようというわけではありません。
むしろこちらの方の地図なのですが、要するにイタリアというのは、現在我々がイタリアと呼んでいる国は、この時期存在していなかったのだということがまず非常に重要な問題なのですね。ご覧のとおり,フィレンツェは共和制の国家でしたし、シエナも独立国家です。モデナ公国、フェラーラ、マントヴァ、ミラノ、それからベネツィアは代々共和制国家です。そして、ナポリ王国、シチリア王国。ここはナポリ王国といっていますが、実際にはスペイン領です。そして、ローマを中心として教皇領。つまりみんなそれぞれ独自の文化を築いているわけです。
イタリアと一口に言っても、イタリアにいらっしゃった方はすでにご存知かと思うのですが、言葉も違います。イタリア語という言葉は、通常標準語として勉強するときには習いますが、実際にイタリアへ行ってみると、イタリア語をしゃべっている人は誰もいないのです。フィレンツェへ行きますと、フィレンツェ弁をしゃべっていますし、ボローニアへ行けば、ボローニア弁をしゃべっています。ベネツィアの人はベネツィア弁をしゃべっているわけです。
こうした中で、要するに各地方が、それぞれの自分の文化に対する誇りが非常に強いということなのですね。従いまして、戦争ばかりやっていますし、しかし、戦争をやるには国として強力にならなければならない。そのためには何が必要なのか。もちろん経済力です。経済力と、それを誇示する場ですね。それが芸術を生み出していく原動力となって行きます。つまり国の誇りというのは、最後には知恵と文化的な、高度なレベルだということをみんな知っていたわけで、それで知識人を大事にしましたし、それから、よりよい仕事をする職人を優遇したわけです。そこに職人同士の向上心というか、競争心も生まれてまいりますし、そうした中で、いわゆるルネサンスの芸術は生まれてきたと。
特に、フィレンツェから北。この当時ローマはまだアヴィニョンに行ったり、あるいはぐちゃぐちゃして、ナポリ王国に占領されてみたり、ドイツの皇帝がやってきてみたりと、いろいろ紛争がありますので、15世紀初期というのは、ローマはさほど文化的には高度なレベルには達しておりません。むしろフィレンツェから北ですね。
面白いのは、フィレンツェというのは、一番最初にギリシャ人を招聘したのです。それ以後、随時フィレンツェ大学にはギリシャ語の講座がずっと連綿として残ります。この最初の先生はクリソロラスという人なのですが、その弟子がレオナルド・ブルーニという人で、そしてこの人が最初の1401年のコンクール、有名なギベルティとブレネレスキのコンクールによって作ろうとした洗礼堂の門の図案を考えたわけです。つまり、公共の場に、要するにカリマラ組合が、例えて言えば、経団連とか日経連とかそういった大商人の組合が金を出し合って、当時最高の知識人にアドバイスを求めて、そして、作らせるのだったら、一番腕のいい職人に作らせようということで、このコンクールをやったわけですね。そのコンクールというのは、以後、フィレンツェの伝統となって行きます。そうした中で、より良い仕事を、より良い仕事を、職人が励んだ結果、それがずっと北イタリアの方へ広がって、それぞれの土地のそれぞれの面白い文化が出来上がっていったと。
つまり、今回宮廷と都市の文化展というふうに副題をつけましたけれども、イタリアは1つではないのだと。ルネサンスというのも、ミケランジェロやラファエッロだけではないのだということを、なんとか一般の皆様にも理解していただこうと思いまして、それで各地から何とか面白いものを集めてまいりました。
例えば、マンテーニャという画家の作品なのですが、聖母子と、これはベローナですね。それからこちらはナポリのカボディモンテの聖エフェミア。このマンテーニャという画家は、マントヴァのゴンザーガ家の宮廷で第一宮廷画家という名前を拝命しまして、実際に絵を描いていたのですが、実際にはこれ何を意味するかというと、宮廷の芸術総監督なのです。つまり、屋敷を飾るのと一緒に、例えば祝祭をやるときの舞台装置、あるいは、主要な教会の装飾も手がけますし、当然主要な教会というのは、ゴンザーガ家の礼拝堂にもかかわってきますし、あるいは、彼がやったのは、実はこのマントヴァというのは、ベルギリウスというローマの詩人の生まれ故郷であるために、そのベルギリウスを称揚するために、もろもろの古代ローマの文化の研究を進めます。つまり、単に古代ローマのものが面白いとか面白くないとかというよりも、非常に郷土愛の強い思いがあってこそ、マントヴァでは古代ローマの遺跡や、それから古代の文学の研究、これを進めていくわけです。
またフィレンツェからブルネッレスキが洗練させていったという。ブルネッレスキが始めて、アルベルティが理論化して、そして絵画的にはピエロ・デッラ・フランチェスカがという、普通の美術史の本には書いてございます。実際、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品と、それから彼の透視図法論、今回出品されておりますが、こうした綿密な算術の研究と、それから、絵画と結び付けていく方向にどんどんどんどん動いていきます。つまり、絵画は絵画だけではないのです。
ここには算術の、幾何学の原理があるのですね。幾何学の研究というのは、実は絵画だけではなくて、これは何に派生していくかというと、実は航海術なのです。海図を書くための道具ですね。そうすると、海図を書くための道具として、いろいろと航海術が進んできますから、その結果がコロンブスにいたるのです。
あるいはまたこうした数学的な幾何学の図法論というのは、一方では天体の動きを観測し、それを記録するという、天文学の方向にも応用されてきます。それがどこに結びついていくかというと、ガリレオガリレイなのです。ですから今回、いろいろと天文観測機器として展示室に出品したのは、単に絵画だけではなくて、文化そのものというのは、この15世紀初期から始まったいろいろな研究の方法というのが、それがコロンブスのアメリカ大陸到達や、あるいはガリレオガリレイの地動説ですとか、そういったものすべて導いてくる原動力となったわけです。
ということで、おなじみのフィレンツェの町です。実はそのコンクールの、イタリア人のことなので、まず最初にこのクーポラの話をしようと思うのですが、ご存知の方も多いと思うのですが、当初この大聖堂の建造が決まったときに、最初の設計をしたのは、アルノルホ・ディ・カンビオという彫刻家兼建築家だったのですが、実際に彼が描いた図面よりも、作り始めたときには一回り大きく作ってしまったのですね。よくあることなのですが、イタリア人は最初にアイデアがあるのです。あとから現実にどうしようかということは何も考えずに作るのです。とりあえず大聖堂を建てたのです。建てたのですが、天蓋のデザインも決まっていました。だけど、どうやって描けるかが誰も考えていなかったのです。このドームを。こういうことは今でもしょっちゅうあるのですが、で、結局、今度誰にやらせるかということで、できる人を探したら、誰もできないわけですよ。氏かも、規模を大きくしていますから、それまで伝統的な工法では不可能な規模になってしまったわけです。誰もできないのです。最初はこれ下から全部足場を組んで、そして1つ1つドームの型を石で組んで、そこにレンガを乗せて組んでいくというやり方を考えたときに、何年かかるかわからないし、いくら金かかるかもわからないし、何人人足がかかるかわからないと。これは困ったということで、あちこちの館に声をかけまして、で、ギベルティが自分でやるといってみたり、途中でぶん投げて、最後にはブルネッレスキが新しい工法でやると提案をしますと受け入れられて、工事が始まります。ところが、やはりいつでも起こることなのですが、新しいアイデアというのは、伝統的な職人たちにはすぐには理解されませんし、受け入れられない。それでショウペルをやるのです。ストライキですね。こんな親方の仕事やってられないと。ということで、今度はブルネッレスキも管理責任を問われまして、政府から、お前何とかしろと。さもないと罰金を取るぞと、いうふうなことをやりながら、結局新しい技術でもって作ってしまうのですね。ここがイタリアの恐るべきところなのです。
つまり、この時期のイタリアのエネルギーというのは、もちろん経済的に非常に高いレベルにあります。職人ももちろん高いレベルにあります。しかし、通常不可能でできないと思えることを、あるいはどうしたらいいかわからないということを、これを新しく考えて作り出すのですね。つまり、作りたいがために技術まで発明するのです。新しい技術を生み出すのです。そこがこのルネサンスの、1400年から1600年にかけての200年にわたるエネルギーの本質とご理解ください。つまり、テンペラの絵からキャンバス画に移っていく過程でもそうですし、あるいはその典型的なのはレオナルドですが、とにかく新しい技術を発明していこう、それはなぜかというとよりよいものを作るため。ですから、すべて向上心と、それから競争心と、その中で要するに人よりいいものを作ったら、技術料ではないですけれども、あいつよりも俺の方がうまいじゃないかと。じゃあ値段をつけるのだったら、俺の方はもう少し高くしてくれということで、職人から芸術家への、要するに芸術の値段ですね。こういったものを市場経済の中で生まれてくることになるわけです。
今回出品されておりますルカ・デッラ・ロッビアの文法。これも非常に象徴的な作品でジョットの鐘楼のこの裏側のところに出ているのですが、今出ているのはレプリカです。これ今回出ているのは本物ですが、ここでなぜ文法が重要な問題かというと、単に普通の解説を読むと、中世の大学以来の自由学芸の1つとしてあげられるのですが、ところが、この時期のフィレンツェにとってこの文法という、あるいはイタリア語ではグランマーディカ、もしくは、レトリカというのですが、なぜこれが重要な要素になるのか。つまり、要するに文字が読めるということが非常に重要な問題だということを誰もが認識していたのです。ですからこれを公共の場にきちんとした形で出すのですね。師匠は、バザーリによれば、アウレリウスドナートス、ベルギリウスの注釈を書いた人ですが、それはともかくとして、先生が生徒に、要するに字の書き方と、それから字の読み方を教える、そしてその奥に、扉が少しだけ開いていますが、開いている扉の方を先生は指差しています。これが何を意味するかというと、要するに字を覚えて、言葉を覚えるということがあって、初めて次の学問のレベルに行けるのだということです。つまり、文字が書けなければ、商売もできないのです。あるいは、字が読めるということは、より深い教養と、それから知識をうることができると。そういったことを考えて、こうした学問の浮き彫りを、ルカ・デッラ・ロッビアが作成したわけです。
実際このスタイルは非常に古いのです。前任者のアンドレピサーノの作品に非常に近くて、すでに新しい画風が生まれていたり、あるいは、新しい彫刻の方向、例えばギベルティやブリネッレスキやドナテッロや、そうしたところがあるにもかかわらず、まだ伝統を大事にしている。つまりこれが先ほど申し上げたバザーリの言うような歴史感覚のはじまりなのですね。つまり断絶はしていないのです。中世以来の文化との断絶はないのです。それまでの古い文化をいかに吸収しながら新しいものを生み出していくかというその意識が、この時期に始まってきているのです。
このギベルティの今回出品されていますシバの女王とソロモンの出会いということで、この浮き彫りは、実はこれは現在洗礼堂の東扉の部分におかれてまして、現在おかれているのはレプリカで、これは本物です。ご存知の通り、ギベルティは2回扉を作ります。それはすべて洗礼堂の東門、つまり、大聖堂に向かった方の扉なのですね。最初そこにはアンドレア・ピサーノの作品がありまして、これが古臭いということで、この扉を南側に移して、新しく作ろうというわけで、カリマラ組合のコンクール、1401年のコンクールが行われまして、ギベルティが勝って、扉を作ると。ところが、もっといいのが欲しいなということで、1回ギベルティが作った扉を今度は北側に持っていきます。そしてさらに新しく東門のところに金箔を置いた、後に天国の門と呼ばれるようになるギベルティの第二作の扉をはめ込むことになったわけです。
このとき、実際完成するのは1454年、まさにフィレンツェの美術の黄金時代なのですが、やはりギベルティは世代が古いだけであって、例えばフラアンジェリコとか、そういった作家と非常に似通ったところがありまして、例えば、ギベルティの伝統的な作品というのは、粉の流れるような緩やかな絵紋ですね。こうした部分ですとか、常に曲線が非常に美しい曲線で掘り出していくのです。しかも、この当時の鋳造のやり方というのは、蝋型を使っておりますので、最初手とへらで作ってまいります。これを石膏、あるいは砂型でとりまして、で、鋳型を作って、ブロンド鋳造をすると。ですから、もとのモデルは残らないのですが、しかしその時には、出来上がったときには非常にきれいなやわらかな線が表現できる鋳造法です。
面白いのは、重要な場面はここだけなのです。他は何も関係ない人物たちの集団。そして、当時流行のというか、最新の技術である遠近法を巧みに使った教会建築の表現。こうした聖なる物語と、それから俗の場面。先ほど最初に音楽をお聞かせしたような、普通な当たり前の生活の工程ですね。普通の人たちの存在。そして新しい建築と、それから例えば、古い建築のように見えるのですが、実はこの辺はゴシック的な建築なのですが、その上にこのアキトレーブがありまして、ピラスターが乗って、ルネサンス風の三角破風をもった窓が乗ってますね。つまり、伝統的な建築と、古いと言うか、古くて新しい古代ローマ式の建築、両方組み合わせた表現が出来上がっていると。これが1450年代の方向の特徴です。
ところが、必ずしもこういった表現だけに満足しているわけではないのです。
同じころ、結局もう一方のけんかの相手、ブルネッレスキですね。とにかくこの二人が仲が悪くて有名なのですが、結局ドームを完成させまして、建築家としての名声は確固たるものとなります。その上にさらにランタンという、これも作らなければいけないということで、やはりコンクールがあって、ブルネッレスキが勝利を治めまして、おそらくそのコンクールのときの模型だろうと言われているものを今回持ってきてあります。
これだけ高いものが出来上がってしまいますと、先ほど写真で見たように、当時高い建物がございませんから、アペニンを越えてフィレンツェに入ってくる人たち、あるいは南の方からアルノを下るようにしてフィレンツェに来る人たち、かなり遠くから見えたはずなのです、このドームが。つまり、ブルネッレスキのやったことというのは、町のシンボルを作ったのですね。その一方で先ほどのギベルティは、市民のシンボルを作ったのです。つまり、市民のシンボルというか、市民の誇りを、毎日の生活の中でのシンボルを。一方でギベルティは、このフィレンツェがイタリア全土に対して誇るべきシンボルを二人で作り上げた。この誇りというのは、いまだにフィレンツェの人たちが持っている誇りでもあります。
今でも登ることができますが、歩いて登るのは大変なので、最近ではエレベータをお金を取って使うようになっていますが、中の構造を知るには、歩いて登るのが実は楽しいかと思います。ただ疲れます。
こうしてできあがった大聖堂というのは、まだファサードが出来上がっていません。出来上がったのはドームだけです。ドームとこの天辺。天辺はブルネッレスキの死後できましたから、ベロッキオが引き継いで作っていますので、完成を見ることはありませんでした。ただ実際には、この大聖堂というのは、町の優れた彫刻家の展示ギャラりーでもあったのです。つまり、あらゆるところに代々、預言者ですとか、あるいは、聖人の彫刻をずらっと並べて、町の人が、もちろん無料で見ることができたわけです。その中のいくつかを今回持ってきてあります。
こちらがナンニ・ディ・バンコと、それからその死後、ルカ・デッラ・ロッビアが引き継いだ預言者像、それからこちらが初期のドナテッロですね。実はこれポルタデッラマンドラといいまして、大聖堂の北側のヨクリョウの扉の上の部分に乗っていたものです。雨ざらしになっていたものですから、痛みがひどくて、それで大聖堂では、この彫刻を博物館の方に引き戻してあります。
ご覧になって多分わかると思うのですが、先ほど言ったようにギベルティが引き継いでいたような伝統的な絵紋の方向、少しねじれて、ロビーに展示してあるのですが、後ろにまっすぐ台を立てたのですが、この中心の軸は思いっきり右側にずれているのです。非常にバランスが悪くて、設置するときに思うように乗っからずに、2日が仮になってしまったのですが、足がここですね、ここからこういうねじれと、それから曲線美、これが伝統的な部分を残した彫刻です。
ですが、最初こうして、師匠ナンニ・ディ・バンコから引き継いで作り上げたルカ・デッラ・ロッビアも、次第に作風を変えていきます。同じことが実はドナテッロもそうで、ドナテッロでも、これ本当にドナテッロかと私に文句を言ったお客さんがいらっしゃいまして、非常に難しい問題なのです。これは議論がいまだに残っております。しかし、こちらのナンニ・ディ・バンコと違って、絵紋のひだが単に下がってくるだけではなくて、もっと動きが出てきてますね。しかも、その直立不動に対して、手の動きというのが非常に明確に出てきているということで、おそらく、あくまで個人的な考えとして聞いて欲しいのですが、ドナテッロの初期で間違いないと思います。
実はドナテッロというのは、ギベルティの工房で勉強したのです。つまり、ギベルティの弟子なのです。弟子なのですが、ですからギベルティのところで鋳造のことも勉強し、そして彫刻のやり方も勉強すると。しかし、ギベルティとは違う方向にどんどんどんどん進んで行きます。その1つ特徴的なのは、ドナテッロの場合には、輪郭線を破壊したことなのですね。初期の彫刻で、聖ジョルジョ、聖ゲオルギウスとか、やたらに表面のぬめっとした彫刻を作る一方で、この輪郭線の美しさを破壊した、シルエットのごつごつとした力強い彫刻。こういったものをドナテッロは作風として好んでいくようになります。
これは、今回出品されていないのですが、ちょっと面白いスライドがありましたので、お見せしようと思ってもってきました。この絵描き、どなたかご存知の方いらっしゃいますか。とにかくへたくそなのです。通常はアルベルティとか、あるいはチェンニーノ・チェンニーニといった1400年代初頭の理論書を読みますと、もちろんフレスコ画です。フレスコ画を描くときには、下地にベルダッチョというのですが、緑土という絵の具で、薄く影をつけておいてから、少しずつ肌色を重ねていって、微妙なグラデーションと一緒に、陰影をつけて、最後に繊細な線でハイライトをつけるというのが、ジョット以来のやり方なのです。とことがこの画家は、とにかく顔のところを塗ったくってしまうのです。そして、目もまじめに描いたとは思えないですね。要するに筆でビヨっとやって、これまつげですね、ピッピとやって、白い絵の具をべたッと塗って、中のところをまた黒でグリグリと。ぺタのこの目の下をくまを出すのに、わざと頬骨の先にハイライトを真っ白なのをおいてしまうと。それから鼻筋も、もう丁寧に描いてあるわけではなくて、ただべろっとハイライトを塗ってしまう。次お願いします。
これもそうですね。通常、これ見てどの部分かわからないと思うのですが、指先です。最初に茶色く塗ってしまうのです。どんどんどんどん影の部分を描いていきまして、最後に上から白でまたべろっと塗り重ねてしまうのですね。実は、指先ですから、ここつめがありまして、ちゃんとつめ描いているのです。描いているのですが、それ塗りつぶしてまで、手の量感を出したいのです、この画家は。通常は、輪郭線も丁寧にとるはずなのです。とるはずなのですが、影をつけることを優先したため、描いてきた輪郭線も消えてしまいますし、下側の、しかもきたない線なのですね、輪郭線とっているのですが、繊細な書き方は一切やらない。
実はこれはマザッチョなのです。次お願いします。これもそうですね。肌色を塗ったくってしまって、それで目も、この辺筆の後が見えると思いますが、目の下のくまを作るのに、茶色でペタペタと塗ってしまって、ほっぺたのハイライトはとにかく塗り重ねるのです。鼻のハイライトときたらこれですから。筆1本でぺろっとやっただけ。これがマザッチョなのです。つまり、あらゆる伝統的な描き方を、革命的と言うやり方で変えてしまったのです。実は、今日スライド用意できなかったのですが、この部分、どこかで見たことがあるかもしれないという方いらっしゃるかと思うのですが、実はマザッチョの輪郭線がなくて、陰影が強くて、色をとにかくぶつけると。そして線の1つ1つの美しさよりも、ボリュームの方を重要にすると。つまり、寄るととにかく汚いのです。へたくそなのです。ところが離れて見たときに、ものすごい量感と、それから存在感を出してくる。この描き方を実はボッティチェリは引き継いでないのです。ボッティチェリは引き継ぎませんし、フィリッポ・リッピも引き継がないのです。むしろ彼らが引き継いで言ったのは、フラアンジェリコのような繊細な描き方なのです。
マザッチョのこのとんでもない描き方を引き継いだのは、実はミケランジェロなのです。例えば、こうした色のものすごい対比と、それから線を抜いたことによって、ボリューム間を出すというこの描き方は、システィーナの天井画でものすごくミケランジェロが多用して、そのためにあれだけの距離、高い天井ですから、距離を離れて見たときに、その存在感というか、その大きさというか、そのボリュームというか、むしろボリュームというよりも、人間の体の重さが伝わってくるような、そうした描写ができるようになっていくのです。
つまりここでは、ルネサンスの中頃というのは、いろいろな選択肢が出てきたわけですね。ギベルティのような線の美しいやり方。に対してドナテッロの輪郭線を破壊した難しいごつごつとした彫刻。一方で、絵画ではマザッチョのようなへたくそなと言うか、あらゆる理論を超越した、おそらく彼は、まともに師匠のところで勉強しなかったのではないかと思うのですが、新しい描き方、理論を超越した描き方を実現したことによって、世代を通り越して、ミケランジェロへとつながる選択肢を生み出していったと。
このときに、もちろんマザッチョの作品を勉強した画家はたくさんいるのです。そのことはバザーリがもちろん書いているのですが。しかし、絵を勉強するときというのは、これが大変なのですね。輪郭線をみんな取りたがるのです。輪郭線をとらないと、形が取れないと思う。ところがそうではなくて、量感そのものの感覚を引き継いでいったのは、まさにミケランジェロだったのですね。
次に新しい分野に手をそめて、新しい技術をまた作り出してきます。これが釉薬がけのテラコッタなのですね。今回その甥に当たりますアンドレア・デッラ・ロッビアの工房が制作したフリーズの断片を出しているのですが、実は、これも同じく出品作品なのですが、ジュスウテンスのホッジャカイヤーノの風景なのですが、実はもちろんロレンツォ・ディ・メディチが注文して作ったヴィッラです。あれはもちろんオリーブとぶどうですね。つまり農園管理のために最初このヴィッラを作ったのですが、それとは別に、アグリツーリズムではないですが、別荘でのんびりするためにというわけで、豪奢な別荘に仕立てて行きます。そのまさにちょうどここなのです。この2階の、入口の正面の破風の下のフリーズ彫刻、この右端の部分がこれなのです。まさにこれ画期的な技術で出来上がってまして、焼き物ですから、割れたらおしまいなのです。しかも、焼いているときに、要するにこれだけ長いものを一直線に並べるには、形をそろえて、しかもつなぎ目を隠さなければいけない。じっさいにこれはあらゆるところにつなぎ目があるのですが、非常に目立たないやり方で、しかも非常に色目のいい釉薬で修正してあるのですね。
しかもこの内容が、プラトンのパイロンという対話編に出てくる魂のあり方についてといた部分の一場面です。こちらが良い魂、こちらが悪い魂。これはどういう場面かといいますと、要するに悪いことを考えている魂が、馬を飼って、馬車に乗っていって、天国の入口に近づいたというところで、お前みたいな悪いやつは入ってはいけないということで、神様が止めているわけです。ところが、良い魂、良いことをした魂というのは、喜んで天国の門を過ぎて、どうぞ上に行きなさいということで、指し示される。このロレンツォ・イルマニフィコの時代のプラトンアカデミーの話とか、いろいろお聞きになったりしているとは思うのですが、一方ではそれが実際にはなかったのではないかと。あるいはさほど影響力はなかったのではないかという学者もおります。しかし、実際にその生活の中に入り込んでいるプラトン主義というのは、想像を絶するものがあります。
これは単にヴィッラのフリーズですが、これは人を迎え入れるときの飾りですね。玄関先の。むしろ言い方を変えると、悪いやつは来るなよと。さもないと追い返すよということにもなりかねませんし、その一方では、良い客はいくらでもお招きしますという寛容な心をさしていると。
こうしたプラトン主義がメディチ家の周辺に、なぜこれだけ浸透していったかという問題も非常に難しい問題をはらんでいるのですが、ただしこれは一方ではプラトン主義だけではないのですね。プラトン主義の背景にある現実生活の楽しみ方というのを、要するに宗教から開放して、現世を楽しく過ごそうという考え方があってはじめて実現する態度なのです。このもとになるのは実はエピクロス主義という、一方では快楽主義というふうに訳されまして、非常に悪いイメージを持たれているのですが、ところが、このルネサンスの背景に存在するのは、このエピクロス主義をいかに肯定していったかという歴史でもあるのです。こういったことを言っているのは私一人ですので、どの本を読んでも書いてないので、本当かと思ったら、その程度で済ませておいてください。
ただ実際に、このエピクロスのこうした快楽主義的な思想を非常に深く引き継いだルクレティウスという人の描いた事物の本性についてという書物があるのですが、これが実はポッジュグラチョリーニという知識人が1416年にザンクトガレンというスイスの山奥の修道院から持ち帰りまして、フィレンツェのニッコルニッコリという知識人に手渡します。これがメディチ家の所蔵になるのですね。これがイタリアに入った最初の写本なのですが、それがどのように重用されていったかというのは、実は不明なのです。しかも、歴史的に見て、ルクレティウスの事物の本性についてという書物は、人間、あるいは人間ばかりでなく万物、原子からできていると。どんどんどんどん物を切っていくと、原子になっていくのだという考え方を展開しているのです。当然これは教会が認めるわけがないのです。世界創造の原理とはまったく断絶してしまうから。それで、1500年に、ベネツィアから初期の版本として、アールドゥス書店から出るのですが、あっという間に禁書になりまして、イタリアではほとんどその後出版されません。
ところが面白いのが、禁書になっているにもかかわらず、1641年、フィレンツェでこのルクレティウスの注釈版が出るのです。それの少し前に、ガリレオガリレイが地動説を打ち出してくると。
これどういうことかといいますと、ルクレティウスにすべて天文的な話も入ってまして、その時に天動説ではないのです。つまり、フィレンツェの生活や、あるいは学問や、そういったものを支えていったのは、このプラトン主義と、それから一方ではこうしたルクレティウス的な科学論ですとか、あるいは、日常生活論であったと考えるのが、たぶん非常に正しい考え方ではないかと私は考えております。
実際に、このルクレティウスの事物の本性についてという書物は、ガリレオの弟子の弟子がイタリア語に翻訳しまして、イタリア語に翻訳したのですが、イタリアで出版できないために、ロンドンで出版するのです。それをイタリア人はまた買うのですが、その間、出る前に、ライプニッツがイタリアに来たときに、そのマルケッティ訳のルクレティウスを見て絶賛して、やはり影響を受けて帰ると。
フィレンツェというのは非常に文化的に、この15世紀に築いた知的な文化といいますか、領域というのは、これは後々18世紀までどんどんどんどん影響を与え続けていくのです。つまり、一般的にルネサンスというのは、17世紀で終わったと。あるいは16世紀で終わったと普通に言いますが、しかし、ルネサンスというのはあくまで現象を指す言葉です。伝統を踏まえた上で、新しい創造のエネルギーでもって、形を生まれ変わらせていくという、そのエネルギーというのが連綿として続いていくのですね。
さっきの柄の話をしようと思って、途中にマザッチョのスライドを挟み込んでしまったので、ボッティチェリが飛んでしまいましたが、もっといいスライドがあればよかったのですが、本物を見て、特に双眼鏡をお持ちになってご覧になるのがお勧めです。指先ですとか、この辺きれいに輪郭線をとっています。あるいは、顎の線、マリアさんもこの指先の細い繊細な指の形というのは、実は輪郭線を描き出すことによって生まれる効果なのです。つまり、もちろんウフィツィにいらっしゃって、ビーナスの誕生ですとか、春ですとか、こういったものをご覧になってもすぐにわかるのですが、ボッティチェリや、あるいは弟子のフィリッピーノ・リッピ。こうした人たちのこのフィレンツェの後半の画家たちの独特の優美ななまめかしい感じというのは、輪郭線のとり方から生まれるのですね。つまりマザッチョの、先ほど申し上げたような描き方というのは受け入れられずに、むしろ伝統的な写本の書き方と同じように、丁寧に丁寧に輪郭線をとって、そして丁寧に色を塗っていく、このやり方が主流となっていくわけです。
しかし、もうすでにそれに対する反発というか、もっと新しい表現技法があるはずだと模索している人たちにとっては、前例としてマザッチョがすでに存在していたということです。
ですから、よくドナテッロ、マザッチョ、ブルネッレスキ、この3人と、そしてアルベルティの理論ということを、15世紀初期の大事な組み合わせとして考えるのが通常なのですが、しかし、マザッチョにしても、ドナテッロにしても、アルベルティを読めば読むほど、合わないのですね。アルベルティの理論というのは、むしろボッティチェリや、あるいはペルジーノや、そういった画家達のほうに当てはまっていく作風なのです。
ということで、今度はフィレンツェを離れましょう。フィレンツェの話ばかりしていると、言葉までフィレンツェ弁になりそうなので。
こちらはフランチェスコ・スフォルザとビアンカ・スフォルザの肖像で今回出品されておりますが、実は彼女がビスコンティ家の最後の娘でした。ビスコンティ家が、彼女の父親が、男の世継ぎを残さなかったものですから、彼女がフランチェスコ・スフォルザさんと結婚しまして、実はクレモナのお城に住んでおりました。ところが、父親が死んだときに、さて大変だと。彼女はスフォルザ家に嫁いでしまいましたから、ビスコンティ家の跡をそのまま継ぐわけにはいかなかったのですね。一時ミラノは、実は共和制国家になるのです。共和制国家の中で、早い話、選挙というわけではないのですが、順次政権移譲という形で、クレモナを出て、彼らはミラノの君主になっていくと。ところが、この2人とも、非常に優秀な方で、先見の明のある、かつ、断固たる意思を持った人たちで、その意思の強さというのは、肖像を見て非常に良くわかるのではないかとおもいますが。
美術史の話に戻りますと、通常こうした横顔での肖像画はこの時期一般的なのですが、王侯貴族がこうやって横顔で描かれるというのは、一般の説です。一般の説では、古代ローマの皇帝を描いた貨幣とか、あるいはメダルを基にして、出来上がったのだというのが、一般的な話です。ただ僕は必ずしもそうではないのではないかと思っているのです。また若造が勝手なことを言っていると思ってください。というのは、貴族、このあとエステ家の写本も出てきますが、貴族が肖像画を描くとき、大事なのはその血筋なのですね。血筋はどうやって見分けるかというと、鼻の形ですとか、目の形ですとか、顎の形ですとか、要するに人相学なのです。それをはっきりと示されるというか、示しやすい描き方と言うのは、完全な横向きのプロフィールなのですね。つまり、どこの血が入ったから、この鼻の形が出てきたとか、あるいは、この顎の形というのは、あそこの血を引いているとか、要するに、この顎はおばあさんの顎だねとか、この鼻はひいおじいさんに似ているねという、それを確かめるために、あるいはそれをはっきりと残すために、この横向きのプロフィールの肖像画、貴族、あるいは君主たちが、公式な肖像として残すときに用いたのではないかと、私は考えております。説得力があるかどうかは別として。
エステ家の系譜なんかでもみんな横顔で描いてありまして、横顔で描くことによって、人の顔が比較しやすいと。人の顔の形が比較しやすいというよさが常にあります。
ところが、もちろん絵描きとしては、表現していく内容が変わりますから、ですから、それは、この人がどういう性格の人であったかということを重要視しようと思えば、それはいろいろな向きから描いて、その表情を描き出すという方向にもちろん変わっていきます。
で、彼らの息子が、ロドビコ・スフォルザ。通称イルモーロという、レオナルド・ダ・ヴィンチの庇護者です。今回イタリア側が良く出してくれたなと思って、私は非常にうれしかったのですが、これがろドリコ・スフォルザ直筆の弁論術の手習い帳なのです。ここにラテン語で書いてあるのですが、ロドビコ15歳のみぎりの直筆なりということで、最後のページに書いてあるのですが、これ全部ラテン語で、これを15歳で手習いやっているわけですね。非常にいい字です。完全な古典書体で書いています。本当これただの白紙だったのです。フィレルホという先生と一緒に一生懸命手習いをやるのです。寺子屋で師のたまわくと、子供が練習したように、一生懸命練習したのですね。その練習帳の余白に、この父親が、せっかくだからというわけで、宮廷出入りの画家に装飾をさせるのです。つまり、子供の勉強の記念に、豪奢な装飾をほどこしまして、そして、これはビスコンティさん、これはガリアッツォですね。この人が、この人のお父さんですから、要するにスフォルザのおじいさん。で、こういったものを書きながら、一方では、古代ローマの君主の物語を、ちょこっと書いたりして、要するに偉い殿様はこうしなければいけないよというメッセージを残してみたり、あるいは、先生フィレルポと、それから、ロドビコの2人並んだ肖像画を描かせてみたり、親の心遣いなのですね。子供が勉強して、そのごほうびがこうやって記念として残って、そして、さらに子供としても、帝王学を勉強するための、一方では指針になるような、そういったものなのです。残念ながらこうした写本というのは、今回たくさんありますが、お見せできるのは1ページだけなのです。めくるわけにはいかないのです。これは美術館同士の国際的な取り決めに従いまして、そう簡単にページを変えるわけにはいかないのですね。ですから、担当者として一番楽しいのは、この作品の点検をやっているときです。他の人が見られないところを一緒にめくって見るというのが、これがやはり美術館の職員として、好きなものとしては、至福のときですね。
これはロドビコがおそらく使っていたと思われるタロッキのカードです。これはボニファーチョ・ベンボが描いたものと言われていますけれども、要するに遊び道具ですね。遊び道具とはいえ、宮廷第一の画家ですから、やはりお金があるところにはあるのですね。この細工は、みんなただ紙ですが、金に、そして、ノミで、ノミというか、型押しを1つ1つやっていくのですね。その上にさらに水彩の絵の具で色をつけていくと。ただ残念ながら、これも非常にデリケートなもので、本当はこれぎりぎりまで出るかどうかわからなかったのですよ。それで、出ると決まって、あわててまたケースのことを考えたものですから、非常に見づらいケースになってしまいまして、お客様に申し訳ないとわかっていながら、私としてもどうにもできないというお恥ずかしい話です。
それで、今度はフェラーラに参りましょう。エステ家のお宅です。これがボルソ・デステさんですね。代々フェラーラにはエステ家が、センシュというのですが、えらそうな家柄としていたのですが、最終的にローマ教皇によって公爵として認められたのが、この初代フェラーラ公ボルソ・デステです。ここは実はイタリア語で書いてあるのです。この人が何をしたかというのが。ところが、フェラーラ弁なのです。これ。普通のイタリア語だと読めないのです。実際私は何を言いたいのか良くわからなくて、ちょっと今すぐ何が書いてあるのかご説明できないのですが、例えば、彼は1471年にローマに行って、ドゥーカになったというふうに、こうずっと書いてあるのですね。彼は実際にもうローマ教皇に散々頭を下げに行って、なんとか公爵の位をくれとやるのですが、しかしその一方で、彼は、フェラーラというのは非常に土地として交通の要所ではあるのですが、なかなかいい土地ではないのです。水の便が悪いのですね。それで、彼がやったことは、治水事業を大規模にやりまして、まず水運がフェラーラまで自由に行き来できること。それから灌漑をやって、農作物が採れるようにしたこと。ということをやりますと、どんどんどんどん国としての力が蓄えられていきまして、そこでコスメ・トゥーラですとか、エルコレ・デ・ロベルティですとか、いろいろなフェラーラ派の独特の画風の作家たちが生まれてきて、活躍する場ができたと。
それが、ですから今回初めてフェラーラ派の作品を5点持ってきましたが、その中でも、コスメ・トゥーラのマウレリウスの審判という作品は、コスメ・トゥーラの本を開くと、必ず載っている作品なのです。ですが、日本ではほとんど知られていない画家なものですから、しかも見て気持ちいい作品ではないので、なかなか評判はよくないのですが、実は前代未聞の出来事なのです。このページの裏側、薄く浮いてますが、そこに今度はご先祖様の絵がずっと描いてあったり、子供の絵が描いてあったり、これを見ると、明らかに古代のメダルを意識しているなというのはわかるのですが、実際、このフェラーラと、それからマントヴァなんかでは、ピサネッロという画家をお抱えにしまして、そしてメダルをたくさん作らせます。
これは、レオネルデステの肖像と、その裏側ですね。レオネル・マルキオ・エステンシス、レオネロデステ公爵と。その裏に、要するに公爵を記念するメダルなのですが、これを作ったピサネッロという画家兼メダル鋳造家は、一方では、同じようにオップスピサーニ、ピサネッロの作品ということで、ちゃんと自分の名前を入れるのですね。つまり、もうこのころになると、職人を越えてくるのです。先ほど申したように、ゴンザーガ家の宮廷では、マントヴァではマンテーニャが第一宮廷画家としていろいろと活躍してきますけれども、一方では、その役職名を与えられることによる誇りと名誉と、それを歴然として歴史に残すことが、職人を越えた芸術家たちができるようになってきた、ということにもなります。
こちらは、ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ、ヨハネス・フランチスクス・レ・ゴンザーガ。プリームス・マルキオ・マントレ、初代マントヴァ公爵。ちゃんと入っているのですね。ついでに上には、カピタードス・マキシムス・アルミジェロールン。この当時、ベネツィアの陸軍隊長なのです、彼は。それで、それのことを、陸軍の最高司令官ということで、ちゃんと肩書きまで入れてます。
その一方で、ですから馬に乗りまして、よろい甲冑を着けて、指揮棒を持って、錫を持って、剣をさした姿で彫られていると。ところが、その脇に、オープスピサーニビクトーリ。ちゃんとピサネッロは自分の名前を入れるのを忘れてないのですね。
これもメダルですから、表と裏がございまして、展示するときには、残念ながら裏が出せないのですね。これもまたいろいろと工夫したかったのですが、これもまたぎりぎりまででるかどうかわからなくて、いろいろもめたところで、実は両方ともお見せできればよろしいのですが、そういうこともできませんでした。
ちなみにこれがゴンザーガ家の紋章なのです。これ何かというと、よく扉にごめんくださいとやるためにガンガンと叩くわっかがございますね。あれなのです。なぜそれがゴンザーガ家の紋章になるのか、皆目わからないのですが、それなのです。
これは画家ピサネッロの作品として、今はローマのパラッツォ・ベネツィアに保存されているものなのですが、ご覧の通り、この画家もやはり非常に線が細いのです。この輪郭線をきれいにとりまして、そして髪の毛1本1本丁寧に書いていくのです。これは実際には縦20センチ程度の小さな作品ですから、その線の細さが、これだけ拡大しても、これだけ細く見えますから、その実際の線の細さというのがどれだけのものか。実際にご覧になるとわかると思います。
ですから、15世紀後半というのは、本当に線の細い感じですね。こうしたものが流行なのです。ですから、マザッチョなんかくそくらえという状態なのですが、しかし、この画家としてのピサネッロの技量というのは、非常にすばらしいものがあります。
実際彼はいろいろなところに作品を手がけるのですが、残念ながら最後まで完成したものが非常に少なくて、この断片も、おそらくマントヴァあたりから出たのではないかと言われるのですが、もとの所在はわかりません。
いよいよ15世紀も後半になってきまして、16世紀にかかり始めると、こういう人が出てくるのですね。レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンです。今回作品は素描のみですが、3点。ですが、やはり前代未聞なのです。レオナルドの作品を3点出すというのは。本当はちょっと別な絵も注文したのですが、断られてしまいまして、というのは、担当者のいろいろと苦労話はあるのですが、それはやめておきましょう。
レオナルドは、人体比例についても非常に詳しくデッサンを訓練しまして、比例図式も描いて、いろいろと勉強するのです。勉強するのですが、私と同じで、勉強ばかりしても食べていけないので、それで売り込むのですね。先ほどお見せしたルドルコ・スフォルザのところに自薦状を書きまして、私何でもできますよと。そのうちの、そうした中、一連の出来事の中での生まれてきたデッサンと考えられています。
これは大がま付の戦車ということで、兵器ですね。馬車がパカパカと走ると、車輪の横軸の向きを、歯車でもって盾の回転に変えて、さらにそれを今の車のエンジンと同じですね。さらにそれを横に変えまして、ここは横に先にのばしたところで、これをさらに縦の軸に変えて、回転させて、その先にかまをつけると。後ろは、やはり車輪、馬が引っ張って、車輪が回ると、この歯車を使って、これを縦軸の方向に回転軸を曲げまして、そして大がまをぐるぐると回すと、人が切り刻まれると。ということを考えたのですね。ところが、これではないのですが、これとついになる別の方の似たような写本の方には、ちゃんとこれレオナルドの左書きの文字であるのですが、これを用いた場合、敵が死ぬよりも、味方が怪我をする確立の方が高いと。ちゃんと本にそう書いてあるのですね。そういったものはやはり人に勧めてはいけませんよね。
そして、ラファエッロなのですが、今回「ラ・ヴェラータ」1点持ってきてあります。「ラ・ヴェラータ」の話をしても、皆様もうご存知の方も多いでしょうし、いろいろと面白い話がたくさん他の本で読めると思いますので、それはやめておきます。ただ面白いのは、今度はラファエッロから焼き物にいたる系譜をここではお話しておきたいと思います。
これバチカンの「署名の間」で、「アテネの学堂」ですね。まだ修復前なので、ちょっと汚いのですが。この窓側のほうに、パルナッソスが描かれておりまして、実はここに描かれている詩人全部誰かわかるのですが、わかるのですがというのは、私がフィレンツェで勉強していたときに、私の師匠であるデルブラーボ先生が全部特定したのですが、今もうすでに覚えていないですね。論文にもなっていないので、ただ1つはっきりしているのは、もちろんこれアポロンですね。詩人の神様ですね。その周りにいるのはムーサなのですが、この盲目の人、これがホメロスです。この後ろにいるのがエンニウスというローマ最初の詩人ですね。で、面白いのは、これダンテなのですが、このダンテがホメロスのそばにいるのですね。ベルギリウスではなくて。面白いのは、ホメロスというのは、実はルネサンス15世紀16世紀の間というのは、あまり読まれないのです。むしろ18世紀になった、ようやくホメロスの詩のおもしろさというのを、ジャービンチェンツ・グラビーナという人が再評価していくのですが、それまであまりホメロスは読まれないのです。ところが、ここではホメロスが非常に重要な役割を負っているというような、非常に面白い事実です。これイコノロジー的に解釈していくと、非常に面白い議論ができると思います。
一方では、こちら側、ラテン語の、古代ローマの詩人なのです。こちら側は、おそらくギリシャ語の詩人なのです。というのは、女性おりますね。女性の詩人。ここに字がありまして、サッフォーと書いてあるのです。あまりお読みになった方いらっしゃらないと思うのですが、サッフォーの詩というのは、実に美しいというか、楽しい詩です。もし機会があったら、翻訳もございますので、お読みになるといいと思います。
こうした、要するに詩人たちを集めたこのかいがというのは、要するに文芸なのですね。文学そのものなのですね。こちらは哲学、こちらは文学。こうしたラファエッロの描き方というのは、実はよほどこの作品は人気が出たのでしょう。ライモンリーが版画に残しまして、大量にばら撒くのです。その結果どうなるかといいますと、これマヨリカなのですが、これが焼き物になるのです。これずいぶんバイオリンみたいなビラダブラッチョがハープになったり、天使が出てきたりと、多少違いはあるのですが、こうした形で焼き物になるのです。ただの焼き物ではないかとお思いになるかもしれませんが、構図をまねしただけではないのです。この色、釉薬の発明ですね。これが革新的に進むのです。しかも絵付師の腕が格段に上がっていきまして、それでこうした焼き物が、実は現在残っているだけで、5枚残っております。ですから、おそらくもっと大量に出回ったはずなのですね。
こうしたもの、要するに安くはないです。高価なものですが、こうしたものを通じて、ローマで描いたラファエッロの構図が、いろいろな地方に広まっていくのですね。それで、焼き物、あるいは画家たちにとっても、ラファエッロ主義というのが広がっていくきっかけにもなります。なおさら、それによってラファエッロの名声も高まっていくことになるのです。
個人的には私あまりこの絵は好きではないので、ポスターに使うことも反対したのですが、ルーブルですとか、ロンドンですとか、ラファエッロの初期の聖母子、有名なのがございますが、この作品、全然違うのですね。彼はおそらくこの時期、有名なカスリオネの肖像と同じ最後の時期に書いているのですが、通常、ラファエッロの研究をするときには、このモデルは誰かということが問題になるのですが、ですが、私個人的には、おそらくモデルはどうでもよかったろうなと思っているのです。むしろ、例えば、今回の「フローラ」と比較するといいのですが、この絵紋の表現ですね。あるいは、手の指、あるいは、この下着の衣の透けそうで透けない部分。それから、この性格がありそうで、なさそうでという、この人物像ですね。特定の人物かもしれない。ですが、むしろ彼が最終的に突き詰めていこうとしていたプラトン主義的な言い方をすれば、美のイデアですね。これを何らかの形で具現化していこうとしたその過程の中でうまれた作品ではないかと、私は思います。
その参考として、これヴァチカンの「シストの聖母」なのですが、これと似ているといえば似ているのですね。だからといって、じゃあこの作品がどういう作品であるかというのがわかるかといったら、わからないのです。たいていラファエッロの研究者の本を読んでも、有名な作品なのですが、結局誰なのか、どういう目的で描かれたのか、それは皆さん、完全に意見がわかれております。
ただ、美術史的なこととは別に歴史的な話をしますと、17世紀にはいると、実はこの作品、ずっとラファエッロ作ということが忘れ去られるのです。そして、挙句の果てに、18世紀の初期に、もうすでに現在のピッティ宮殿に入っていたのですが、このときにカタログを整理した人がまちがって、これをスステルマンという画家の作品として登録してしまって、額にそうつけてしまったのです。そうしたらどういうことが起こったかというと、フィレンツェにナポレオンが侵攻したとき、ナポレオンは軒並み、イタリア各地で美術品を略奪していったのですが、ピッティ宮殿にもやってまいりまして、いくつかもって行きました。ところが、幸いにこの作品には、ラファエッロという名前がなかったのです。目録にもラファエッロの名前がない。目録の上でも、作品の額トシテモ、スステルマンという名前がついていた。ですから、置いていかれたのです。略奪されずにすんだのです。ですから、我々はピッティ宮殿でこの作品を見ることができるのですが、もしこれが、歴史的にラファエッロだということが代々伝えられていれば、我々はルーブルまで行かないと見られなかったということなのですね。
ですから、美術館の所蔵品の歴史とか、あるいは、作品そのものの歴史というのは、決してフランス革命や、ナポレオンの革命、あるいは第一次大戦、あるいは第二次大戦のヒットラー、これとは無関係ではいられないのです。
今回いろいろと作品が出ていますが、実は有名なヒットラーが作ろうとした美術館のためにイタリアから略奪していった作品で、終戦直前に塩抗、地下の塩を掘るための鉱山の地下の中に隠していて、そして、アメリカ軍によって発見された作品、これがいくつか実は含まれております。こうした我々がルネサンスのものといって見ながら、しかし、ついこの間の、ついこの間ではないですが、我々の現代の歴史とはまったく無関係に、我々はこうした作品を見ているわけではないのですね。
これは「フローラ」の細部なのですが、やはりラファエッロというのはかなりティッチアーノの初期を知っていたと思われますね。これ比較のために手の部分だけ出したのですが、やはり、こうした衣の描き方と、この辺の絵紋の描き方というのは、非常に似ております。
ティッチアーノの話に行きましょう。今度はベネツィアです。「ピエトロアレティーノの肖像」ということで、これもパラッツォピッティにある作品です。ピエトロアレティーノの名前を聞いて、ぴんと来る人はあまりいらっしゃらないだろうと思うのですが、この人は当時の宮廷を回っては、ゴシップ記事を書いたり、あるいは、流行の官能小説を書いてみたり、あるいは、ジャーナリストのようにあることないこと、ないことないこと、いろいろと書いている太鼓もちみたいな人なのです。この人は非常にティッチアーノと仲良しで、最近の研究でわかったのですが、このアレティーノ、ティッチアーノに自分の肖像を書かせまして、これをフィレンツェのコジモ1世のところに送りつけるのです。おそらく仕事をクレということだったのだろうと思うのですが、しかし、仕事をくれと頼むにしては、あまりきれいな絵ではないのですが、ティッチアーノの力量が非常によく発揮されている作品です。
もちろんコジモ1世としては、別に絵が送られてきたからといって、宮廷お抱えのおべんちゃら太鼓もちにする気も毛頭なくて、絵だけもらって、はいさよならという結果です。ですが、やはり宮廷にデイリしていただけあって、着ているものが非常にいいのですね。このベルベットの衣の表現の仕方、実際に見ると、ティッチアーノは手を抜いたように見えるのですが、このベルベットの微妙な陰影のつけ方を大胆なタッチで描いているこのティッチアーノの力量というのは、やはりすごいものがございます。
同じくこれもティッチアーノのパウルス3世のローマの肖像ですが、ファルネーゼ家、今度はナポリとパルマの方にだんだんベネツィアから話が移るのですが、このファルネーゼ家ゆかりのものも今回いろいろと用意してございます。真ん中がパウルス3世、それから、オッタビオ・ファルネーゼ、ラヌッチョ・ファルネーゼということで、彼らが子供のころ使っていた鎧ですとか、そういったものが出品されています。
これは、リンフラスカトイオということで出しているのですが、ファルネーゼ家の紋章が入ったファルネーゼ家ゆかりの焼き物で、何にしたかというと、おそらくワインクーラーだろうと思います。中に氷を入れまして、そこに瓶に入れたワインか何かを乗せて、冷やしたものだろうと思うのですが、実はこれ、この色の釉薬に、しかも金字を入れて焼き上げるというのは、実は非常に難しい技術だったのです。もともとこの色の釉薬を用いていたのは、トルコだったのですね。したがって、随時輸入していたのですが、これがイタリアでもできるようになったと。そのためには、おそらくファルネーゼ家自身がよほど研究費を出したに違いないのです。で、最初に手にしたのは、やはりファルネーゼ家。
ところが、これは焼き物で、その一方で、これとおなじ色の石を使って、別なコウギを作ったのはフィレンツェだったのですね。これはつまりこの色目というのは、ラピスラズリなのです。ラピスラズリの色目をなんとか焼き物で出そうと努力したのですが、ところが、フィレンツェのメディチ家は、そのラピスラズリ石そのものから、こういったものを作るのですね。そういった文化的なというか、発想の違いというか、そういったものがそれぞれの宮廷の違いの面白さですね。
あるいはこれもファルネーゼ家所有の長槍なのですが、ただ槍かということではないのです。これやはり、例えば、枢機卿になっていたり、あるいはパウルス3世となったファルネーゼ家の人たちが、行列を組んで町を通り過ぎるときに、木槍を持たせたやっこさんみたいに、一番先頭の歩兵にこれを持たせまして、そして入場していくのです。その時に、もちろんこれ先は実践用のものではないので、先はかなり長いのですが、その下の部分、ここにものすごく細かい装飾が入っているのです。この武器の装飾というのは、これまであまり詳細に研究されたことはなかったのですが、実は単に彫りこんであるだけではなくて、エッチングの技法を使っているのです。エッチングというと版画ではないかなと思う方いらっしゃると思うのですが、そもそもエッチングというのは、金物の上に蝋を引きまして、その蝋を塗った部分を鉄筆で引っかいて、模様を描いていきます。それを硝酸につけることによって、蝋をかきおとした部分だけえぐれると。それによって、版画にするのであれば、銅板の本体が出来上がると。一方武器は、鉄に同じことをやりまして、そしてそれを硝酸につけて、そして削り込みをつけるのです。さらにそれに金箔をおいて磨いたり、あるいは、危険な金メッキの技法を使ってやってみたりとか、非常に高度な技術を用いて製作されています。よほどこれも使ったのがよくわかるので、下の木の部分がかなり傷んでえぐれています。
これも祝祭用の冑で、それこそこちらのオッタビオと、ラヌッチョ・ファルネーゼ、両方が使ったような鎧、盾とヘルメットです。これは銅の打ち出しですね。金槌あててとんとんとんとん叩いて、叩き出していくのですが、そこに、ここは動くようになっている耳当てと、それから部分的にのみを入れたり、あるいはやはりエッチングを用いたり、非常に手の込んだボルゴニョッタ型の冑です。
その一方で、普段の生活の中で使う、これパウルス3世の紋章の入った皿ですね。つまりキョウコウカンがありまして、ペテロからもらった教会の鍵と、それから、ファルネーゼ家の紋章と、こういったものを実際に使って食事をしていたのです。つまりこれは、要するに、客人を迎えるときに、自分のところでもてなしをして、場合によっては、帰りにそのお皿にお土産をつけて帰してあげるというのが慣わしだったのですね。
それで、もう1度フィレンツェに戻ってきまして、これでおしまいにしようと思うのですが、シニョーリア広場を、こちらは上から見たところ、これは横から見たところ、実際これは、フィレンツェの15世紀以来の工芸の技術のあらゆる粋が集まった作品なのです。単なる構図としては遠近法を使って、非常に広場を視覚的に効果的に見えるようにしているのと同時に、つまり、ルネサンス的な絵画の技法のまず基本ですね。実際この石目は、昔こういう形のタイルというか、石のモザイクでこの部分は舗装されておりまして、市当局は、今の石畳を昔の通りに変えようかという話をしながら、いつも駄目になっているという話は聞いております。
で、この部分、この青い部分ですね。それからここ、それからここも、これはラピスラズリなのです。ラピスラズリというのは、通常貴石という尊い石に入るので、宝石まではいかないのですが、加工するには硬いのですね。硬いので特殊な技術が必要なのですが、その硬い石を薄く削って、そして加工していく技術というのを、15世紀以来、フィレンツェでは連綿として研究し続けまして、そして、ピエトリドレという洗練された工芸品の技術をこの時期に洗練させていきます。
これは瑪瑙ですね。こうした薄い板を、金の線に合わせて、1つ1つ切ってはめて行きますね。ここは、おそらくカルチェドニオを、石灰石の一種ですが、これを薄くきったものと、それからこの黒い線も、これももちろん石を切ったものです。こうしたものをはめ込みながら、金の加工したものもはめ込んで、さらにここにはチェッリーニのペルセウスですね。それから、ヘラクレス。それからここには今でもありますミケランジェロのダヴィデとバッチョ・バンリネッリ。それからバルトロメオ・アンマンナーティのネプチューンの噴水、そしてジャン・ボローニャの騎馬像。この後ろがさらに、やはりカルチェドニオだと思うのですが、こういうレンガ、石を積み重ねていったような雰囲気を出しながら、これ金で一筆書きだそうです。
ここもそうですね。いろいろ細かい細工が入ってまして、そうした細工をした上に、これは金だから上から置いているのですが、こうした部分ですとか、それからこの部分に関しましては、一通り細工を施したあとに、今度は水晶を何ミクロンの厚さでしょうかね。非常に薄くしたもの、磨きこんだものを、またそこにぴたりとはめるのです。これは他の国にできない技術なのですね。こうしたピエトリドレのはめあわせの技術というのは、後にウィーンのハプスブルグ家が、どうしても自分のところでやりたいということで、フィレンツェから職人を呼びまして、工房を作って、そしてボヘミア産のいろいろな石を使って、新しく工房を作るのですが、やはりフィレンツェには及ばない。
フィレンツェはロレンツォ・マニフィコの時代から、石を集めるのが趣味だったのです。さまざまな石を集めるのと同時に、やはり商人の町ですから、さまざまな土地との貿易の歴史がございまして、それでどこに何があるかということを、一方では探してくる、その一方では考古学的な関心が少しずつ出始めて、古代ローマの遺跡を発掘するのです。そうすると昔の彫刻が出てくるのと一緒に、古代の大理石が出てくるのです。単に古代ローマの人たちというのは、白い大理石を使っていたわけではなくて、緑色の砂岩、それから赤色の斑岩、それからさまざまな硬い、通常この時期の人たちは加工できなかったような大型の色のある石ですね。こういったものがごろごろ出てきて、結局最終的にはその石を目的にローマと、それからフィレンツェでは古代の遺跡を発掘していきます。
その結果がどういうふうになっていくかというと、通常今ローマ、それからフィレンツェなんかでも見られますが、17世紀後半から18世紀にかけて、改築されたような緑色の大理石に、あるいは赤い斑岩に緑の石で装飾を加えたような礼拝堂の形式、多分ローマの教会か、フィレンツェの教会でご覧になった方いらっしゃると思いますが、そういった技術につながっていくのです。
そのすべての元といいますか、そのスイガッコの作品1つの中に収められておりまして、そして、なぜそういったものが出来上がったかといいますと、これはフェリナンディーチェが持っていたのですが、彼が所有していたストゥリオロという石を入れる箱があったのですね。この人は非常に石に対する偏愛が強い人で、これも背景にはプラトン主義やルクレティウスやいろいろとあると思うのですが、それを飾っている黒檀製の箱だったといいますが、それの正面を飾っていた代物で、そこにはさまざまな石や、あるいは標本が入っていたということです。
ですから、これを宮廷の文化の最後の部分で持ってきたのは、我々が美術館で見るときには、たったこれ1個なのです。ですが、これをもっていた人、あるいはこれを作らせた人、あるいはこれがもとあった場所というのは、まさにこの作品をすべて象徴するような文化圏と、それから内容と、それから実際のものですね。こうしたものが集約されていたと。おそらくこれだけフィレンツェに残りまして、多分これがはまっていたタンスのほうは、おそらくレオポルド1世の時代になってから、おそらくオーストリアかどこかもってかれたのだろうと思うのですが、結局現在ではすべて、旧メディチ家時代の宝石類は、コジモ1世以来のメディチ家の財産というのは、あまり多数残っておりません。そのなかでも今回ラピスラズリの壷ですとか、孔雀石の器、そしてこうしたモザイクというかカメオですとか、そういったものを集めながら、6メートルのタペストリーまで持ってきたということで、実際の展示をやりまして、順路がわからないということで、お客様にしばしばアンケートなどでお叱りを受けるのですが、担当者としては、順路よりも、雰囲気を私は味わっていただきたいと思いまして、それで最後の7室というのは、どう歩いていいかわからないような、ああいう迷路のようなイメージにいたしました。実際に、美術品を楽しむというのは、ベルとコンベアに乗って見るというものではないと思うのです。当然、私はこれ嫌い、私はこっちが好きよ、それぞれ皆さん感覚があると思うのですね。そういったのをむしろ自由に見られるような形にできたらなというのが、展示の目的だったのですが、それがうまく行ったかどうか、私は実は初めての展覧会でこのお仕事をやらせてもらったものですから、決してうまくいってない部分があるかと思うのですが、少しでも展覧会そのものを楽しんでいただけたら、幸いに存じます。話はこれで終わりたいと思います。