世界遺産 ポンペイ展

第256回 イタリア研究会 2001-08-29

世界遺産 ポンペイ展

報告者:東京大学教授 青柳 正規


第256回イタリア研究会

青柳 正規 「世界遺産 ポンペイ展」


ご存じの方もいらっしゃると思いますが、100キロを越すスピードです。そこの中に蒸気とか噴火物とか、大変なエネルギーを持っているわけです。それがだーっと来るわけで、この部 分とこの部分は壁が飛ばされてしまうわけです。だけどもこの部分とこの部分とこの部分 には、火砕流と平行した縦壁があるから、支えられるわけですね。ですから壁がこういう 形で飛んでしまったわけです。そういう状態もなぜかということが、やっと最近わかって きたということです。このところですね。ですからここが2階の床です。それで部屋はこ ういう、これが先程の少年が出てきた部屋です。こういう図面もオリーバさんが書いた。 それからこれは台所の神棚みたいなものです。今度展覧会に出てますが、このアポロン像 が奥の一番西側の部屋から出てきました。これが修復すると、こうなります。それからこ ういうランプが出たり、それからここから少しあれなのですが、これがエイエイの部屋と いって、中庭に面している南側の部屋、ですから北側に開口部がある部屋なのですが、そ この部屋の南壁ですね。奥壁ですね。今現在こういう状態です。これを復元したのがこれ です。これかなり正確にしました。色も検討しましたし、欠けている部分も、回りの状況 とか何とかあれして。それからこれが奥の一番西側の部屋の現状なのですが、これも復元 してこうしました。こういう1つ1つの部材を作ってから、後でお見せしますが、コンピ ュータグラフィックによる復元が可能になるわけです。これも天井画を復元したものです 。それからコンピュータグラフィックの中に埋め込むために、例えばこれも展覧会に出て いますが、左側が本物の修復後のものです。それをこういう絵で出しています。今玄関から入ったところですね。左側に見えるのは、あれはこの家がちょうど改装中だったのです。つまり62年の地震でかなり痛んで、それでいろいろなところが、もう工事が終わっている部屋もありますが、まだそのままになっていて、これからも改装工事、修復工事をやらなくてはいけない。ですから一番こっちには、こういう建築資材が置いた状態になっています。そういう工事をしていたから、後でお示ししますが、一番奥の一番西側の部屋のところに、この家の宝物全部が集められていました。こんな部屋です。それで、この部屋は、中は上の方がこうなっていまして、こういう装飾はポンペイの第一様式と言って、一番古い紀元前2世紀から1世紀の初めにかけて行われた様式です。こういう装飾は、やはり彼らは、古い家なので、昔からこれだけのことができた家であるということを大変誇りに思っていたようですね。ですからこの部屋だけは、古い装飾のまま残して、他の部屋はいろいろその時代時代の流行の様式を取り入れた、後でお見せしますが、なっています。今の部屋の奥にアトリウムがあって、それでここのところに天窓があります。こういう天窓が。もちろんこれが雨が降る。ここで水盤で、そこで雨水を受け、雨水を受けたその水は、水盤で受けた雨水は、この井戸川みたいなのがあります。この下が井戸状の貯水槽になっています。そこに水をためておくのです。それで釣瓶井戸ではないですが、バケツのようなもので水をくんで、大掃除とか洗濯とか、そういう生活用水、飲み水には使いませんが、生活用水として使っていたわけですね。今の廊下を通り抜けると、ペイストリウムと呼ばれる中庭に入ります。ここでは、こういう家具が、遺体と同じように堆積物の中で朽ちくしていったのですが、空洞になっていました。ですからそこに石膏を流し込んで、型取りができたわけですね。そしてその装飾に使われているこういう動物の骨を使った蝶番いみたいなものですが、こういうものはちゃんと残っていましたので、こういう復元ができたということです。もちろん中庭はこんなふうに。それからこの中庭自体も、どういう木が植わったのか。例えばここにあるようないちじくのかなり大きな木があった。そういうこともよくわかりました。これも先程お見せしたような1枚1枚の壁を復元して、そしてそれをつなぎ合わせて、こういう状態にした。この辺はボウルトになっています。ここは平らな平天井になっています。だから前室部分とそのアンテシャンブルみたいな。それからちゃんとした主室の部分、こういう天井の装飾で違えています。ちょうどここがボウルトになっていて、あろこが平らになっているような、そういう感じになっています。今の部屋がああいう黒地で非常にごうしゃな感じの部屋に作られています。ここは白地に非常に華奢と言うか繊細な装飾モチーフをたくさん使った、むしろそういう繊細さを楽しむための、そういう装飾にしてあります。やっと隣の部屋に行きました。ここは寝室です。寝室は手前のちゃんと扉で、前室があって、前室の扉を開けると、ちゃんと寝室に入っていくという形になります。ここは緑に囲まれた中で、それで水の音が。水の音を聞いて寝ると、非常に健康に良いというふうに、ローマ人たちが信じていました。ですから実際には音は出ないけど、こういう絵を描いて、楽しんでいますね。そして先程言った一番西側の部屋に入っていきます。ここが、ここに見られるように工事中だったので、宝物を全部ここに集めていました。ここに出ているものは、例えば先程お見せしたぶどう酒などをつぐためのオイノコエですね。それからこれがはっきりわからないのですが、ストールのような形をしている。それからこういうランプをのせる燭台ですね。そういうものが全部。それから先程言ったランプを支えるためのアポロン像なのですね。先程発掘ばっかりのところをお見せしました。そういうものがこの部屋。こういう状態で並んでいたのを発掘したのです。それで例えばこれなどは、紀元前5世紀の、ですからこの時代からしてももう500年位たっている昔のものを、ユリウス・ポリビウスはコレクションしていたのですね。美術コレクターでもあった。今はこの部分を復元しようと、今度の展覧会でもいろいろ考えたのですが、うまく行かなかったので、この上の部分はなしで、アポロン像だけが展示されています。奥に行って、振り返ると、後ろ側から見られるようにも一応なっています。中庭を横切るような形で反対側に行きます。そこを出て、次の部屋に行って、さっき通ったアトリウムですね。戻ります。今南へ向かっています。そしてここを右に折れるわけですね。ちょうど西へ向かうわけです。で、先程申し上げた選挙宣伝文みたいなものがあります。それは上のところに手すりがあるのでおわかりだと思います。あそこからすぐ近くに見れるようにしてある。だからあそこら辺を歩く人達のために、あそこにわざわざ書いたのだと思います。で、元の部屋です。これを作るのに約1年間かかりました。もちろんこれビデオにしてありますので、ビデオでも見られます。これは制作費はすべて皆さんの税金です。ただ我々今まで研究費というのは、文部省の科学研究費というものですが、それでもらってやっているわけですが、やはり研究者は研究をした場合、最後には論文を書くわけですが、それが欧文であったり、日本語であったりするわけですが、それはごく専門の人達しか読まないわけですね。せいぜいどんなに良い論文を書いても、我々人文系だったら、100人の仲間が、例えば僕が英語やイタリア語で書いたら、日本では数人しか読まないでしょうね。外国では何百人かは読んでくれます。だけど全部トータルにしても、200とか300です。それに一千万、二千万使うわけですが、だけどそれだけだと、これから我々の文科系の学問はやって行けなくなる。やはり自分たちの成果をこういう形にして、それで皆さんにも見て頂いて、それでまあまあおもしろいではないかという支持を得ながらやって行かなくては、これから人文系の学問のかなりの部分が生きて行けなくなるのでは、研究費を獲得できないのではないか。そういう意味でこういうものを作ったのです。作る過程で、ここをどうしよう、ここをあれしようということで、みんなで研究者仲間で相談しながらやったので、大変勉強になったし、ここには1つづつご説明すれば、へえーと思われるようなことがたくさん入れてあります。いちいちは申しあげませんが。これから我々はこれを使って、研究にも活用しようと思っています。たとえばこの部屋から出土したものを、この部屋をクリックしたら、出土品が全部出てくるようにする。そしてその出土品をまたクリックすれば、それの解説あるいはデータが出てくるようにする。それと参考になるものがどういうものがあるかということが、自分で気がついて見つけたら、それを張りつけることもできる。そういうものにしていこうと思っています。このコンピュータグラフィックにする、最終的にビデオにするまでに、約一千万円かかりました。だけどこの間、NHKの人とこういうものを日本で作る専門家にあれしたら、日本でこれを使ったら五千万はかかると言いました。だからかなり節約したと思っています。こういうことが今、ポンペイの研究のおそらく最先端だと、私は自負しておりますが、こういうことを今行っているということです。ポンペイの話はそこまでにして、これからお話するのは、先程申し上げた来年から発掘を始めようと思っています、ポンペイとはちょうどヴェスヴィオ山をはさんで反対側にあるソンマヴェスヴィアーナというところで、いわゆるアウグスツスの別荘ではないかと言われているところを掘ろうということで、この10月頃に向こうで記者会見をしなくてはいけないので、それで作った資料を簡単にお見せします。ですから内容はもうどうでもいい。それから場所がここに書いてあるように、カンパーニャ地方で、ソンマヴェスヴィアーナという町です。その町の中の場所、スタッツァデラレジーナ。これは地積図なんとかですね。それで、ここにもありますように、いわゆるアウグスツスと別荘と呼ばれています。先程も申しましたが、ソンマヴェスヴィアーナという町がありますが、それのすぐ市街地からちょっと出たところです。これが市役所です。これがヴェスヴィオ山をポンペイとはほとんど逆から見たところです。この部分、ヴェスヴィオ山というのは2つの山からなっています。少しとんがっている方をヴェスヴィオ山と言うのです。ちょっと低い、だけどまた盛り上がっている、これをソンマ山と言います。だから2つの集合体を普通ヴェスヴィオ山と言います。そしてその特定する時は、こちらがまたヴェスヴィオ山で、こちらがソンマ山。ですから我々が見ているのは、ヴェスヴィオ山塊の、1つの山の塊のソンマ山を見ているのです。そのソンマ山の麓にあるから、この町はソンマヴェスヴィアーナ。しかもソンマというのは、頂上とかそういう意味ももちろんあります。これがスタッツァデラレジーナというところのアクセスロードで、これをもう少し行ったところの右側です。で、入ったところです。今はすももの果樹園になっています。この小屋を建てる時に、1932年ですが、地下からローマ時代の遺跡らしいものが出てきたということがわかってます。今現在はこういう、地面には普通遺跡があるところというのは、必ず地表にも何らかの土器が散らばってたりなんかするのですが、それが一切ありません。ですからそれだけ完璧に保存されているということが言えるかと思います。これが地積図ですが、現在この地域は考古指定地区になっています。で、さっきの道路がこれで、これから果樹園をあれしてきて、ここが今の小屋ですが、ここを1932年から6年にかけて、シュクツしています。約面積にして70平米です。深さが約10メートル。その時のあれが図面がこれで、それでこういう角柱が立派なのが出てきた。これは写真です。当時市が掘っているので、非常に雑な記録しかないので、こんな写真しかありません。それを復元すると、だいたいこんなふうになります。これは中から見たところです。これだけ立派な門構えを持っている家というのは、ちょうど日本でも、例えば門構えによって武士の階級がみんなわかったように、ローマ時代でも、元老院クラスの人間とか、あるいはその上の皇室一族であるとか、門構えですぐわかるのです。これはとんでもなく立派なものです。ですから、もし元老院であったら、トップクラスの元老院議員。あるいは皇帝、あるいは皇帝の一族の可能性しかないのです。ここの部分がさっき出てきたのです。この部分は、この辺に落ちていたわけです。それがどこに位置付けられるかと言うと、この辺ではないかということで、まだ仮定の復元です。これを来年から掘っていこうと。ソンマヴェスヴィアーナ、この辺なのですが、79年の時には、この辺がこの線ですから、9メートル位、こちら側は土石流です。土石流及び噴火物が空から。北風が吹いてましたから、噴火物のあれはほとんどポンペイの方に流れて来ています。そのお余りというか、いくらかがこちらに。だけど主には土石流です。それから472年にもまた噴火が起こっています。その時にも、ソンマヴェスヴィアーナのところには、約2メートル近くの、あるいは3メートルから2メートルの堆積物が積もった可能性がある。今年ボーリングをもうしました。そうしたら、あまり明確にわからないので、もう1回来年、向こうの業者にやらせたのですがわからないので、東大の地震研に来てもらって、それでもう1度ボーリングをやり直そうと思います。これは概念的なものですが、これがローマ時代の地表だとする。そうすると、その上に8メートルか10メートルかわかりませんが、ある一定の79年の噴火で堆積物がある。その後、472年まで、いろいろなものがまた土ができ始めて来て、そして472年の噴火でまた堆積物が。そして現在の表土がある。そういうサンドイッチ状になっているので、研究にとっては非常に、特に土壌学とか、それから火山学、環境復元ということでは、大変おもしろいことになるのではないかと期待しています。発掘は一種の破壊行為なので、いろいろな情報が埋まっているのです。それを全部本当は取り上げる準備をしなくては、本当は発掘やってはいけないのです。ですから、今度もいろいろな古生物の方々や、微生物をやってらっしゃる方々、土壌学、あるいは農業関係の方々、20人位、全部では50人位になりますが、主なメンバーとしては15名から20名位。それで火山学では、例えば今、富士山の地震関係の委員会ができましたけど、その委員長をしてらっしゃるアラマキ先生にも入って頂こうと思っています。だいたいこれが1932年に掘られた。これ位を掘ろうと。できたらこういうエアードームを。そうでないと、ちょうど50メートルプールを掘るようなものですから、そこがもう水浸しになってしまうので、特に冬は結構雨が降りますから、こういうエアーテントを張って、世界で初めての試みをやってみようと思います。中にはちょうど工場のように、上に起重機などが動けるような、全部小さな線路の細いようなあれを通して、それでカメラなども自由に行き来できるような、そういうシステムを作ってから、いろいろ発掘していきたいと思います。それから情報関係では、トロンで有名なサカムラさんが手伝ってくれるので、一種の仮想のグリッドを組んで、そこでポイントをはかって、すぐコンピュータにいって、X軸、Y軸、Z軸、何の点であるということは全部記録される、コンピュータによってすぐ記録される、三次元として。のようなものも構築しようと思います。そういうことを今計画して、来年から始めます。もしアウグスツスのものであったということが証明できたら、世界中の話題になると思います。そんなことを今楽しみにしています。どうもありがとうございました。


司会 どうもありがとうございました。質問ございますか。


質問 2つ教えて下さい。1つはアウグスツスの別荘の記録はないのでしょうか。


青柳 例えばタピトゥスなどによると、アップドゥノーランという言葉が出てくるので すが、ノーラの近くで死んだというふうに書かれています。ノーラの近くというのは、ノ ーラ周辺がずっとアウグスツスの先祖代々の自分の家の土地だったのですね。だからオク タビウス家が持っていたものですから、地名にもオクタビアーノと、ソンマの隣の町がそ うですが、それはオクタビアーナ、ですからオクタビウスの土地という意味。それからソ ンマというのも、先程申し上げたような、山のソンマを取ってソンマヴェスヴィアーナと したのか、あるいは例えば宴会場がありますね。そうすると3つの席があります。第1等 席、第2等席、第3等席というのを、ソンマ、メディア、イーマンと言います。一番いい 席、2番目の席、3番目の席。もしかすると、広い領地をアウグスツスが持っていたので 、一番上の別荘をヴィラソンマ、一番上の別荘。それから2番目の別荘、ヴィラメーディ ア、それから一番下のヴィライーマンと言ったのかもしれない。いろいろな推測があるの ですが、おそらくあの辺で死んだことは確かです。しかもそういう文献にもある。それか ら、今みたいな門構えというような、まだ状況証拠ばかりです。それを組み合わせると、 かなりの確率になるのではないかなと期待しています。


質問 もう1つは、8月24日に北風というのは、吹くものなのでしょうか。


青柳 一番風に影響されやすい灰の蓄積が、全部南側にあれしてますから、そういう風 がその時たまたまあったということになると思います。


質問 どうもおもしろい話をありがとうございました。ローマ時代のいわゆるインフラ ストラクチャーの整備されているのは今我々驚くわけですが、それは現在と同じように税 金でやられたのか、あるいは個人の寄付とか、そういうものでやられたのか、お伺いした いのですが。


青柳 都ローマなどは、ダイタイ直接の権力者、及び皇帝が金を出します。だけど地方 都市の場合には、インフラでも、よほどの大規模でない限りは、金持ちが、篤志家が出し て、そのことによって、名誉市民的になって、町長になる、あるいは市長になるというこ とが一般的で、これはもうギリシャからそうです。そういう寄付行為というものが非常に 一般的で、それが全体の経済の中に組み込まれています。ポンペイに水道が引かれますが 、そういう遠くから水道橋とかを使って運んできて、そして都市の中を敷設しなければい けない。そういう場合にはおそらく中央政府の権力者なり、あるいは皇帝なり、それから 町の税金であり、あるいは町はかなり目抜き通りのところなどには、商店街などを個人に 貸す公共の建物をたくさん持っています。それのあがりですね。ちょうどケンブリッジや オックスフォードが、ロンドンに家作をたくさん持っていて、それのあがりを研究費に以 前はたくさん使ってました。あれとまったく同じような方式がポンペイにもあった。それ の合体として、大規模公共事業は行われた。小規模なものはほとんどが個人の有力者の寄 付である。その2頭建てだと思います。


質問 あそこの水道が鉛の管か何かでできているのですね。そしてそれで水を飲んだ人 が、鉛中毒というか、かかった形跡があると聞いたことがあるのですが、それは証明され ているのですか。


青柳 以前はかなり信憑性があるというふうに考えられていましたし、それから骨の分 析をすると、現代人より鉛の含有量が多いことは確かです。ただし、最近ではそれが原因 で病気になるほどの濃度ではないと。それから鉛管も表面にさびというか、白い、酸化し てさびができますね。それが安定状態になるので、鉛管を使っていてのそれが鉛毒につな がるようなことはないと。唯一少し考えられるのは、ローマ人たちは、貧乏人の銀と言っ ていました、鉛のことを。ですから銀器をまねて、食器に鉛を使っている時もあったと。 これは洗ったりするから、せっかくついたさびを落としてしまうわけですね。そういうこ とで少し鉛の濃度が高まった状態になったのかもしれません。ですがそれも鉛毒でどうこ うというところまではとてもならなかった。ということで、最近はそれを否定的に扱って います。


質問 2点ほど伺いますが、1点は、まず換気なのですが、先程復元大変おもしろく拝 見しましたが、どのような形であれだけの湿気を逃すのか。というのが1つの質問です。 もう1つは、私もポンペイへ行ってびっくりしたのは、ベッドが大変小さいと。確かまっ すぐ足を伸ばして寝るのはヨーロッパでもかなり後になって。だいたい18世紀位までみ んな壁に寄りかかるような格好で寝てたと言いますが、ローマ人も同じような寝てたので しょうか。それとも元々身体が小さかったのでしょうか。


青柳 まず最初の方ですが、確かに修復をした家で、例えば僕が掘ったエウローパの船 の家も、全部屋根など来ちっとかけました。6年位前ですね。そうしたらやはり中でこけ などがはえてきたのですね。それで、本当にこんなに密閉されていたのかどうかと疑問に 思っているのですが、人の出入りがあると、それと共に風が、空気が動くのですね。あれ がかなり影響するのではないかということが1つ。それからもう1つは、毎朝、奴隷たち が部屋の掃除を徹底的にしますよね。それで今でもイタリアの例えばバールなどでは、ち ょっと湿ってきたり、濡れてきたりすると、おがくずを撒いて、それで掃除をしますね。 あれと同じようなことが古代にも行われていたのではないか。だからメンテナンスと人の 動きということで、かなり一種のベンチレーションがあったのではないか。 それから2点目ですが、確かに現代人よりは小さかったと思われます。平均身長は、カ エサルでさえ、カエサルは小柄だと言われてましたけど、1メートル50を少し越えた位 ではないかと。平均身長でも、男で1メートル60までいかなかったのではないか。それ の典型は、もっと食糧事情が悪くなった、聖フランチェスコが寝ていたというベッドがあ りますね。あれは非常に小さいですね。それこそ長さで1メートル40位しかない。だか ら一層小さかった。それからローマ時代は、レクトス、ベッドのことをレクトスと言いま すが、あくまでもレクトスはやはり身体を伸ばして寝るものですから、小さいから小さい ところに住んだのではないかと考えた方がよろしいのではないかと思います。


質問 これ壁画がきれいに残っているのですが、火山礫とか火砕流とかは、屋根を例え ば全部落として、部屋の中はまったく埋まってたのでしょうか。それともこういうところ は空間が残っていたのでしょうか。


青柳 もう屋根がばさっと落ちてきて、そしてそこは噴火物で全部覆われます。ですか ら壁にはびっしりと火山礫などがくっついています。ポンペイの発掘の場合には、火山礫 がくっついていますので、それこそ手で掘れる位です。がさがさがさがさです。この火山 礫は、軽石ですから、多孔性ですから、小さな穴がたくさん。だからある意味で、湿布に もなるのですね。ですから非常にいい状態で保存されています。で、それを取りはずすと 、大気に触れ出すと、やはり表面が酸化してくるので、色が褪せてきます。ですから掘っ て、とっぱらった直後の壁面の彩色というのはすばらしいですね。密閉されていて、しか も湿気よけになるという意味での、保存するためのもののようですね。ですからそれをも うわざわざこれ以上発掘しなくてもいいじゃないかという説もあります。


質問 後どのくらい残っているのですか。未発掘。


青柳 未発掘は約20%です。それで今我々の共通認識としては、ポンペイはもうこれ 以上発掘するのはやめようと。というのは、今までわかっているいろいろなことを覆すよ うな発見は、もう発掘してもないだろう。そうしたら、どんなに修復保存をしても、結局 は傷んでくるんです。発掘してしまうと。だから土の中に埋めて、100年後、200年 後、あるいは500年後のために取っておいた方がいいのではないかという考えです。


司会 それではこれで一応打ち切ります。本当にありがとうございました。




この講演内容は印刷物としても発行されています。


イタリア研究会報告書No.94

2001年10月26日発行

企画編集 イタリア研究会

発  行 スパチオ研究所・伊藤哲郎

     (目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)

事 務 局 高橋真一郎

     (横浜市青葉区さつきが丘2-48)