第262回 イタリア研究会 2002-01-15
ヴェルディ・イヤーを締めくくる
報告者:昭和音楽大学教授 永竹由幸
第262回イタリア研究会(2002年2月15日 六本木・国際文化会館)
永竹由幸 昭和音楽大学教授
「ヴェルディ・イヤーを締めくくる」
司会 第262回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は永竹由幸先生です。現在は昭和音楽大学の先生で、オペラ史と世界文化史を教えられております。「オペラと歌舞伎」の後ろの経歴を見てますと、歌舞伎座で要するに育ったみたいなところがありまして、その後趣味でずっとやられた中で、慶応大学を出て、三井物産に入られる。三井物産のミラノの駐在が長く、その間、やはりこれを見てますとどうも音楽のほうが本筋で、商社マンのほうが趣味ではないかというような方でございます。この後、5年くらい前から昭和音楽大学の教授をされております。それではあとは先生の方の話が面白いと思いますので、お任せいたします。
永竹 皆さん、こんばんは。ただいま紹介に預かりました永竹でございます。今日はあまり堅苦しい話ではなく、ヴェルディ・イヤーを振り返ってとか、締めてということで、ヴェルディ・イヤーについてのこともお話したいと思うのですが、皆さん、イタリア研究会というと、イタリアのことをよく研究されている方だと思いますので、イタリアの中でヴェルディというのは、相当大きくイタリア文化の、特に近代イタリア文化の大きな部分を占めている人だと思いますので、ヴェルディとは何か、それからイタリアにとってオペラとは何かというようなことを、お話していきたいと思います。
人類の、ちょっと大げさですけど、人類の文化と言うもの、この文化と言うものが、いつ、どういう時代に、どういうふうに栄えて、そして、この現在の我々にいたっているかと言うのを、非常に大きな長い流れの目で考えてみたいと思うのですが,今のような民主主義の制度、そして、こういう今のような文化を、先進国だけだと思いますが、の国民全員がエンジョイできるような社会になったのは、本当に近代の数十年だと思うのですね。
でも実はその前に非常に我々がちょっと信じられないような古代社会の、すばらしい古代社会があった。地中海を取り巻くすばらしい都市国家の社会があったということをやはり思い出してみないといけないと思うのです。その地中海文化の中にあった紀元前後ですね。ギリシャからローマにかけての時代にあった文化の中で、他の社会の文化とまったく異なるものというのが、演劇文明、演劇文化だったと思うのです。演劇と言うものは、市民全体が参加しなければならない芸術であると。例えば絵画なんていうのは、どこの、どんな文化においても絵画はありますし、美術品というもの、美術工芸品というものは、どこの文化でもあるし、それから立派な建物というものも、どこにもある。どこにでもあるという意味ではないですよ。どこの文化でも、そういうものが立派に隆盛したときにはそういうものがあるし、そういうものはあっても、演劇のような文化というのは、ほとんど地中海、特にギリシャ悲劇以外には、オペラの時代になるまで、シェークスピアの時代もありますが、近世の1500年代くらいになるまで、そういうふうに市民が徹底して参加したいわゆる演劇の時代というのはなかったのですね。つまり、ギリシャか、1500年以降のヨーロッパしか、ギリシャ、ローマの時代か、しかもローマでもあまり新しいものは生まれなかったし、その1500~600年ころからのヨーロッパしか演劇というものはないのですね。他のアラブにもないし、中国にもありますけど、その京劇や何かができたのは、実は非常に最近ですし、100年から150年くらいしか歴史はありませんし、そういう意味で、大きな演劇文化を持っている国というのは、日本とヨーロッパ、そして地中海社会というものしかほとんどないわけです。ですから、それ以外の場所に行っても、非常に立派な建物は残っていますし、遺跡なんかも立派なものはあるのですが、そういう演劇はないわけですね。
その演劇の中でも,ギリシャ悲劇というものが、非常に特殊な立派なものを持っていた。実はそのギリシャ悲劇の時代というのは、人類の文化がもう本当に変化したと言うか、何か大きな、ちょうど紀元前500年くらいですから、紀元前500年くらいの時というのは、非常に大きな人類の考え方の変革期と言うか、ここで人間どうして生きているのか、どうして自分たちがいるのかという事について、考えざるを得ないような社会状況になってきた。なぜかというと、実のところ、紀元前1万年前というのが、例の新石器革命という、考古学のあれで言うと新石器革命で、地球が温度上昇をしまして、海水面がだいたい80メートルから100メートルくらい上がってしまって、そして大洪水の時代があって、それ以降、人類はまずは氾濫農業というか、それからその後に家畜を、犬が家畜に最初になって、紀元前1万年くらいと言いますが、それから牛だの山羊だのというお乳をとる動物が人間の家畜になって、長年、そういう氾濫農業ができてきて、ある意味では平和な時代というか、あまりけんかしなくても、人間が増えていっても、増えていっても、限りなく土地があったわけですね。いい土地があった。ですから、人類はどんどんどんどん世界中に伝播していった。どんどんどんどんそんなにけんかしなくても、誰か強いグループができてきて、出てけと言えば、逃げていけばよかったのですね。ですからある意味では、エデンの園といいますか、天国の時代があったわけですね。
ところが紀元前4000年くらいから、部族間闘争と言うか、だんだんだんだんその当時では、いい土地がだんだん少なくなってきて、彼らにとって、いわゆる石器時代から、新石器時代のその石器時代の人たちにとっては、開墾もできないし、大きな木を切り倒して森を開墾することもできないし、そういうようなことから、だんだん狭くなってきて、戦争時代が起きてくる。
紀元前4000年くらいから戦争というのは始まってきて、初めて馬が戦闘用家畜として、紀元前4000年くらいになってくる。そういうものから、戦争時代がだんだん出てきて、その当時、人類は何も規範と言うか、ルールを持ってなかったのですね。つまり、自然の時代の動物にはルールがあったのですね。それとはなしのルールがあった。今でもサバンナに行ったら、ライオンはシマウマを殺したり、鹿を殺したりしますが、食べる以上のものは絶対殺さないですよね。やはり彼らも、殺されるほうにとっても、ある程度殺されていってくれないと、食べるところの草がなくなってしまうというか、ライオンのほうも、たくさんとって、子供が増えてあれすると、今度は自分のほうも何かいろいろ問題が起きてくるとか、いろいろな意味でバランスが取れていて、それでしかも彼らの中でのルールがあるわけですね。そういうルールがちゃんとあった中での自然人類がいたわけですね。
その自然人類がだんだんだんだん紀元前4000年くらいのときから、自然のままではどうにもならないことが起きてくるわけです。なぜかと言うと、自然の、例えば牛とかヤギとか何かああいう連中がけんかするときは、皆さんよく動物映画でご覧になりますでしょう。角でドンとぶつけ合って、そのけんかして勝ったほうの雄がたくさんの雌のハーレムを取るという、そういうルールがあるわけですね。
人間の場合には、強いほうが、強い人間がボスになると、強いだけというのが何が強いかという基本がわからなくなってきた。なぜかと言うと、その当時の人類というのは、もう斧とか何か持ってますから、正面きってけんかして、そして強いというふうに認められてボスになっても、ある時ふと油断していると、後ろから棍棒なり鉈なり石斧なりで頭をぼこんとやられてしまえば、いくら強いボスでもやられてしまうのですね。ですから人類の場合には、強い弱いがルールなしでは決められなくなって来てしまう。つまり、どうしたって、何かのルールをしなかったら、強い弱いも決められない。こういう時代に人類はなってきた。そうなってきて、人間はしかしルールなしで最初やらざるを得ない。ということから、もうそういうグループを作って、そのルールをどうやって作っていくかというのがだんだんだんだん出てくるのですが、1つのグループ内でのルールはできるのですね。例えば、後ろからぶん殴って殺した男は、あいつは決闘の宣戦布告をしてないで、不意に後ろからやったのだから、あいつは卑怯だから駄目と、みんながノーと言って、しかも特にハーレムになるというか、一夫多妻だった女性たちが、そんな卑怯な男はいやとみんな拒否してしまうと、この人はうまくいかないという、ボスでいられないという、そのグループで決まっていれば、ルールはできるのですね。
ところが、グループ外の戦闘が始まってくると、違う民族とか、そういうものが馬か何かで押し寄せてきて、そしてもう全部殺してしまったり、それから奴隷にしてしまったり、とにかく好きなようにいろいろなことをしますから、奴隷になるのはもっと相当後ですが、そうすると、そういうことに関しては、人類は何か物事を考えなくてはいけなくなる。考えなければいけなくなってきて、しかもそこにいろいろな制約ができてくる。制約というか、もうとんでもないことがたくさんおきてきてしまう。
それからそれまで自然に行っていたいろいろなこと。例えば、当時は占いをやったり何かするのですが、そういう時に、そういう神様というものがだんだんわかってきて、神様というのがいるのだと。自然信仰がだんだんできてきて、しかしその自然信仰のためには、生贄がどうしても、これ面白いですね、人類だけなのですが、生贄と言うのは人間を生贄にする。これは1つの民族だけではないのです。全世界的に紀元前3000年、4000年あたりは、ほとんどの民族が、全地球的に人間を生贄にしていたのですね。この人間を生贄にするという我々の祖先の感覚というのはちょっとわからないのですが、とにかくやっていたのです。それもしかも中国もやれば、メソポタミアもやれば、もっとずっと後になると、そういう影響をそのまま、ちょっと進歩の遅れていたインディア、いわゆるインカ帝国や何かも、みんな同じことをやっているわけです。インカ帝国はだいたい5000年遅れくらいで、その5000年前の人類と同じようなことをやっていた。しかもインカ帝国には、ちょうど5000年前にはいなかった馬と鉄がなかったわけですから、ちょうど似たようなことをやっています。
そういうのがいわゆる先進国では、紀元前500年くらいに、いろいろなことでこれではいけないという考え方で、たくさん偉い人が、偉い人というか宗教者のすごいのが出てくる。つまり、中国では孔子が出てくる。それからギリシャではソクラテスが出てくる。それから、旧約聖書を編纂するダニエルやなんかの連中、いわゆる旧約聖書の編纂というのは紀元前500年くらい。それから仏陀が出てくる。全部紀元前4~500年。ちょうどそのころにみんながいろいろなことを考えていた中で、ギリシャ悲劇というのがあるわけです。
実はこのギリシャ悲劇というのは、ドラマとして皆さん考えて、芸術のいわゆるドラマとして、いわゆる芸術作品として考えてしまっているのですが、実のところ、このギリシャ悲劇というのは、人間の考え方に関する、いわゆる旧約聖書では歴史をああやって神様というものがあって、ヤハウェが1つでこうやって、こう言ったということから、それを守らなかったやつはこうなった、ああなったと、あの歴史を書いてますよね。それから仏陀は仏陀で、仏陀とソクラテスは何も書いてないわけですから、いろいろなことで、お前たち人間の生き方というのはこうなんだということを、一生懸命教えていますよね。孔子という人は、もう人間というのは、礼儀というのがなければいけないと、礼と秩序とそういうものがきちんとなければいけないと教えてますよね。
ギリシャ悲劇というのはそういう中にあって、人間として、人間というのはいかに生きるべきなのか、というものをドラマ形式で書いたものではないかなと。だからどちらかと言うと、これキリスト教徒には怒られてしまうかもしれませんが、ギリシャ人のある意味では考え方、哲学の基礎になったような、ソクラテスの基礎になった、ソクラテスは後にいますから、ちょうどその後にソクラテスの考え方は出てくるわけですが、そういうものをギリシャ人たちの基本になったもので、なぜかと言うと、まずギリシャ悲劇をよく見てみると、いろいろなタブーなり、考え方の変革がここで明確に示されている。なぜかと言うと、例えばエフゲニアになんかによると、人間の生贄ということ。この人間の生贄というのは、ギリシャのトロイ戦争のころ、トロイ戦争は紀元前1250年ごろと言われていますそのころには生贄があった。その生贄に対して、人間が人間を生贄にすることがいいのか悪いのかというようなことが出てくる。それから、エディプス王になってくると、例の母親との婚姻、父親を殺すという。この父親殺しというのは、本当に昔から部族の長を殺して、自分がなるという。その殺さなければという基本ですね。ギリシャ時代のアーリア民族の基本である父親殺し。これはゼウスの神様も親父を殺して出てくるわけですから、いわゆる父親を殺して、自分がその次のポジションに着くという事。それから母親を娶るという事。これは近親相姦ですけども、実のところ、ペルシャにしてもなんにしても、エジプトにしても、近親相姦というのはまったく罪ではなかったのですね。道徳的にも問題なかった。それはもうまずはペルシャなんかでも、自分の血をよくするために、自分の娘を妻とすると。一番自分のあれが濃くなる。そういうものがだんだんだんだん近親相姦というものがいけないとか、近親相姦は駄目、それから人間を生贄にするのは駄目だとか、いろいろないくつかのタブーを、ずっとギリシャ悲劇の中で、人間の考え方というのをずっとそこでギリシャ悲劇は書いてきた。そういうものと、詩の美しさというものをもって、ギリシャ悲劇というのは本当に、人類に比類のない形の演劇という世界に他にまったく類のない形式でもって、ギリシャは演劇を、ギリシャ悲劇というものを作ってきた。
そのギリシャ悲劇というものが、ただしキリスト教時代になって、特にローマからキリスト教時代になって、まったくこれはとんでもないということで、ギリシャ悲劇がクローズされてしまうというか、完全にそれが抹殺されてしまうわけですね。各地にキリスト教徒でないところで、いくつかいろいろな意味でそのころ何とかソクラテスが十数編、何が十数編と、そのいくつかの30か40のドラマがやっとたくさんある中で残ったと。ちょうどギリシャの彫刻がいくつか残ったように残ったと。
そういうものが今度ルネサンスの時代になったときに、いろいろなものが復活してきたと。特にギリシャ神話も読んできたと。何も読んできたと。それから絵画も復活してみたと。すばらしいルネサンスの絵画ができてくる。ルネサンスの絵画のときに、一番問題になったのは裸体なのですね。裸体というのは、もうキリスト教徒では絶対に裸というのはみだらなもので、とんでもないものだと。あんなものは見てはいけないのだと。それから人間は手術もしてはいけないのだと。神様から与えられた体を絶対触ってはいけないと、いうようなことだったのだけど、それがだんだんギリシャのものを復活してくると、人間の身体ってこんなに美しいじゃないのということから、裸体も美しいという時代になってきて、ギリシャのものが復活してきて、非常にドラマというものも、今度一番最後に復活しようということで復活してきた。そうしたら、ここにはギリシャ悲劇の時にはオルケストラというのがあって、それからコロスというのがいて、そして人々は朗詠をしていたと。朗詠というのはどんなんなのだろうというのがわからないということから、その朗詠をみんなで考えて、その音程にくっつけてしゃべるようにしていくと。こういうことから、ギリシャ悲劇を初めて1600年ころに復活してくると。
そして、そういうものから、新しい近代ヨーロッパの演劇形態というのが、それまでのギリシャとか、そういうものとはまったく違った、シェークスピアとか、それから普通の話すと言うか、普通に話していく演劇というのは、もうだんだんきてきて、1600年代ころから、一番早くできたのがイギリスで、シェークスピアとそれらの周りの人たちが何人かで、ああいう演劇の時代を作っていくと。その次にはフランスの演劇もできてくると。古典フランスの、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールという時代ができてくる。
こういう時代が演劇としてはでてくるのですが、イタリアにおいてはそれがオペラとして、声の朗詠をするということでもって、新しいものが出てくるのですね。その朗詠をすることによって出てきたドラマ。朗詠によるドラマというのが、これがオペラなのです。ですから実は皆さん、オペラを歌うと言いますね。ところがイタリア語では、本当はオペラは歌うと言わないのです。オペラはレチターレするというのです。レチターレですから、パルラーレではないのですね。パルラーレは話すという。カンターレは歌う。でもレチターレというのは、朗誦するということで、演劇の場合にはレチターレと言うのです。ですから、歌い手に何回オペラ出るのと言うときに、クアンテレチタパーイと言うわけです。ですからレチターレなのです。絶対カンターレではないのです。ですから、オペラは歌うものではない。オペラはあくまでも朗詠するものなのです。ですから、オペラの中には、オペラって皆さん音楽がすごく重要で、オペラは歌うものだと思ってらっしゃると、実のところ本当はオペラは歌うものではないのですね。
それで今日はヴェルディの話なのですが、その前にこんなに長くお話しをしているのは、いきなりヴェルディの、そのヴェルディが何をしていったかというポイントをお話しするに当たって、そこら辺が全部わかってないとお話ができないので、今日は古代石器時代からのお話になって、ちょっと大げさなのですが、実はそのレチターレをするということで、オペラは始まったわけです。ですから、ちょうど、私今そこに書いておりますが、「オペラと歌舞伎」という本を書いているのですが、実は歌舞伎も、あれは話すものではないし、歌うものでもない。だけどあそこに歌舞伎と書いてありますね。歌う、舞う、演技する。昔のギは本当は女偏だったのですよね。女偏のギだったのですが、それは最初は女がやってました。ところが女性が出られなくなったと。女性が出ていると、非常に女優さんたちが娼婦まがいのことをするようになってしまったので、風紀を乱すということから、幕府が禁じたので、だんだんだんだん若衆歌舞伎になって、それもいけないと言われて、最後野郎歌舞伎になって、それが今でも残っているわけですね。そういうふうに歌舞伎も歌うものではないのですが、そこには歌と、それからつまり音楽的なものと演劇的なものと舞うものと、そういうものが全部一緒になっているということで、歌舞伎も皆さんご覧になっていて、決して普通には話してませんよね。ですから、歌舞伎の場合にも、一声二姿三何とかと言いますよね。声が一番なのですよね。芝居の役者で、何をポイントとしてみるかというときに、口跡の良し悪しで、役者を見るというふうによく歌舞伎の世界でも言われているわけです。それ本当に例えば、我々が見ていても、例えば名セリフ集なんて言うのが、これはレコードに出ているわけですね。これアリア集と同じなのですね。今でもCDでもテープでも僕も持っていますが、それはそれは先代の団十郎だとか、ショウロクだとか、もう亡くなった歌右衛門だとか、ああいう人たちの名セリフというのは、これはもうマリア・カラスやデルモナコのアリア集を聞いているように面白いと言うか。これはこういうのの面白さがあるのは、本当にオペラと歌舞伎だけですし、そういうレチターレの面白さ、歌舞伎でも本当にそういう名調子と言うか、そういうところがみんな聞きに行くので、何か言う時は「待ってました」とか言って、こうかかるわけですね。
ですから、そういうお芝居にしてもオペラにしてもそうなのですが、実はそれだけども、歌ってしまってはいけない。ところが、オペラの場合には、そこら辺が非常に問題があるわけです。どういう問題があるかというと、日本の歌舞伎の場合には、歌舞伎で女が出てはいけないと言われた後に、女形が出てきて、女形というのは、いわゆる成人男性が女性を演じるのですが、このときに絶対裏声は出さないのですね。女形は裏声かと思ったら、絶対そうではないのです。裏声は絶対出さない。だけども、口調と発声というか話し方、そういうものでもって、男性と女性をきちっと分けている。それから、立ち振る舞い。ですから、お芝居にいっていると、女形が本物の女性よりきれいですよね。へたするとね。もう1つは、本物の女性というのは、若いときはなんとなくそんなにきれいでなくてもきれいに見えてしまったり、だんだんだんだん年をいってくると、本当ならきれいなのに、そうではなくなって見えてしまったり、いろいろと本当の人間というのは、生の人間というのは、いろいろなときに変わってしまうのですね。ところが、歌右衛門なんていうのはもう本当に病気で倒れて動けなくなる寸前まで、僕最後の舞台見ていたのです。しわくちゃなのですが、若い娘をやって、すごくきれいなのですね。これが芸の力というのでしょうか。それと、もう1つは、女性ではないために、女性でないゆえに女性の美を形而上的に徹底して勉強して、形而上的に,女の美というのはここなのだというので、実のところ、その女の美という中から、生身の人間のセックス抜きなのですね。完全に女の生身の人間の魅力というものは、性的なものが入っている。それが入っていては芸術ではないけど、それを取ってしまうのですね。それを取ってしまって、そういうもの抜きで、だって男なのですから、そういうもの抜きで、そこに美を出していくという。これが非常に難しい。だから反対に、そこで形而上的な女の中から、セックスアピールを抜いて、セックスアピールを出すのです。非常に難しいですね。もうそういうところが歌舞伎の面白さなのです。
実はオペラの方では、これがまたとんでもないことになるのですね。実はオペラの場合には、男性の玉を抜いてしまうと。少年の睾丸を抜いてしまう、少年のときに。そうすると、声が女性のままになると。女が出られないのなら、少年の玉を抜いてしまおうというのもずいぶん短絡的な考え方だと思うのですけどね。どうしてそういう考え方が出てくるのか、日本では絶対出てこない発想ですよね。これはやはり実は、アラブが近くにあって、いつも接点があって、アラブの社会では、ハーレムの番人が全部宦官だったのですね。実は本当の宦官は中国でしょう。ところが中国の宦官というのは、前まで全部取ってしまうのですね。ずいぶん変な話ですけど。お医者さんもいらっしゃるからお分かりになると思いますが、あれ全部取ってしまうと、死亡率7割なのですってね。昔の手術で行くと。今だって大変だと思います。あれ全部取ってしまったら、大変な手術。危険だと思います。ところが、中国はそうだったのですけど、それがだんだんだんだん移ってきて、全部取ってしまうのはかわいそうだと。特に奴隷や何かで、生かしてはおきたいけれども、ハーレムの番人や何かいろいろなことをしたときに、変な悪さをしてはいけないということで、玉だけ抜くというと、ほとんど死亡率がなくなるようになってきた。というのは、あそこは大動脈だか大静脈だかあまりないようなのですね。本当かうそか知らないけど。とにかく取りやすいのです。
なぜそれが簡単な手術になってきたかと言うと、実は豚なのですね。豚は全部昔から去勢していたのです。豚は去勢しないと、殺してすぐに、いのししなんかもそうらしいのですが、すぐに去勢しないと、精液が逆流してしまって、お肉がくさくなってしまって、おいしくないのだそうです。ですから、全部殺したらすぐ玉を抜くのですね。ですけど、何も飼っている豚は殺してから玉を抜くことはないので、生まれて2週間くらいで抜いてしまうのが一番いいのです。僕それをわざわざ見学に行ったのです、やっているところまで。そこで男の子の玉抜きをしていたという場所があるのです、イタリアでは。もう特殊な町があるのです。そこの町へ行くと、それをやっていたというのですが、そこは豚の去勢のところなのです。これも歴史がありまして、皆さん、ノルチャというところへいらしたことがある方いらっしゃいますか。ノルチャはお肉がおいしかったでしょう。あそこにコリオーニというのが売ってましたよね。こんな大きな。見ませんでしたか。サラミ屋さんにあるのですよ。それが本当のコリオーニかと思ったらそうではなくて、コリオーニみたいな形をしている何とかだとか、いろいろなものがあるのです。本当のコリオーニも売っているのですね。僕もそれを食べにいったのですが、精力剤らしいですが。とにかくノルチャというところでは実は、これも歴史があって、ちょうどイタリアの東から行っても西から行っても山越えなければ入れないのですよ。唯一の盆地なのですね。あれは長野や甲府みたいな、イタリア半島のアペニー山脈が2つに分かれて、ちょうどどちらから行っても真ん中の盆地なのです。その盆地で、ローマがキリスト教化したときに、それまではユダヤ人はゲットーでおいていたのですが、最初の原始キリスト教というのは、ものすごく厳しかったのですね。全部ユダヤ人を追い出した。どこに追い出したかと言うと、そのノルチャのあたりなのです。なぜノルチャに追い出したかというと、ノルチャのあたりが豚の生産地だった。その当時から。ユダヤ人というのは豚が嫌いなのですね。豚食べないです。ユダヤ人だけでなく、アラブも食べないでしょう。この間インドネシアで大問題になってましたよね。味の素が豚の何かを入れたと。日本人にしてみれば、豚の1滴くらいなんでもないじゃないと言っても、もうアラブ、ユダヤにしてみれば、豚なんていったら本当汚いというか、だめなのですね。ローマ人もひどいですよね。そのユダヤ人の一番嫌がる豚の飼育のところに、ユダヤ人をキリスト教徒たちは追い出したわけです。そうしたら、ノルチャのあたりで、もう豚ばかりを彼らは飼わされていたわけですね。彼らにしてみれば、豚をユダヤ人なら食ったり、盗んだりしないだろうと、そういうことだったのかもしれませんが、それがだんだんだんだん何百年もたつ間に、ユダヤ人も、あまりなきリスト教徒たちの説得にだんだんだんだん従っていって、仕方なしにキリスト教徒になって、今ではキリスト教徒にユダヤ人はほとんどいなくなっていて、でも豚の産地になっている。ところが、ここだけは、元がユダヤ人だし、いやいやキリスト教徒になっているから、法王領なのですが、法王の言うことを聞かないのです。それで法王が代理を送りますよね。税金を集めたりなんかするために送るわけです。変なことを言うと、その法王の代官をすぐに暗殺してしまうのです。だからノルチャへ行った方はご覧になりましたか。ノルチャのど真ん中にある代官屋敷みたいな,市庁舎みたいなやつがものすごく塀が高かったでしょう。あれ自分の町の中にあるのですよ。自分の町の中にある法王の館が、城壁が信じられないくらい高い。入れないように。もう大変な小さな要塞ができているわけです。いつでも暗殺されてしまうから。まずまず言うことを聞かない。だから、ある程度の自分たちが払わなければいけない税金だけは払うけど、後は何も言わせない。つまり治外法権みたいなところだけど、何やっても文句言わせない。誰か統治に行っても、あまり何かできない。
第2に、そこは豚を飼ってましたから、毎回豚の玉抜きをやっていた。私も見に行ったのですね。そうしたら、子豚を、ちょっちょっと、1分もなしですよ。このくらいの何とか豆みたいなやつが2つちょろっと出てきて、薬もつけない。粉か何か塗って、ぽんとやったら、もうやられているほうもピっとかかわいらしい声を出して、すぐおしまい。後は消毒もしない、何もしないで、シッカロールみたいな粉をぽんとやっておけば治ってしまう。彼らが言うには、人間も豚もかわらない。それで、少年をあそこへ連れていくと、取ってくれたらしいですね。死なない。しかもその当時は麻酔もないのです。だけど、手術道具を見に行ったのです。そこは世界最古の外科の学校がある。これは中世からずっとやっていたから、そこの学校へ行ってみたら、メスからはさみから、手術の道具全部おいてあるのです。現代のものと、僕はお医者さんではないのでわからないけど、お医者さんにいくとならべてありますよね、いろいろなものが。まったく同じですね。すごく先進国なのです。その手術に関しては。手術は、キリスト教徒はできなかったのです。これはなぜかというと、神が与えた身体を傷つけてはいけないということです。だから当然カストラートという技術ですが、その玉抜き技術もいけないし、それから例えば胆石があっても、胆石を取るのもいけないし、何やってもいけなかったのですね。だけど、実はアラブとかエジプトなんかは、昔からいわゆる癌ができたらそれを取るとか、いろいろな手術があって、非常に進んでいたのですね。ところがキリスト教徒はそれを止めてしまったものだから、実は中世まで医学は非常にヨーロッパは遅れていた。ところがアラブは先進国。そこからどんどん人が入ってきて、しかも入ってくるのは、ノルチャに来れば全然問題ない。つまり一種の治外法権なのですね。
そこで少年たちがどんどんどんどん声を出すために玉を抜かれだすのです。実は教会で女が歌ってはいけなかったのですね。コリント人への手紙の何章かに書いてあるのです。女性は教会では歌ってはいけないと。だから、その前は少年合唱団がいたわけです。唯一のそれの名残がウィーン少年合唱団です。ウィーンのほうは、イタリアの玉抜きを輸入してましたけど、自分たちはやらなかったのですね。ですから少年合唱団はどんどんどんどん5年か6年で卒業して行ってしまう。で、あそこもカトリックのきちっとした国だから、しかも子供のころから少年合唱団で徹底してやられますから、アカペラでやりますから、音感教育がものすごいのですね。だから、非常に優れた少年たちがどんどんどんどん卒業していくでしょう。それで、ウィーンの町では就職口があまりないから、何をやったかというと、全部その後楽器を勉強してしまうのですね。歌だけではやっていけないから。楽器を勉強して、楽器ができるというと、貴族の館で従僕として雇ってもらえる。彼らは窓拭きをやったり、お掃除したりしながら、夜になると、ご飯を作って食べだすと、洋服を着替えて、オーケストラでやるわけです。だいたい10人とか15人。これで飯が食えるわけですね。だから従僕をやるためには、楽器ができなければいけなかった。これがウィーンの器楽演奏と、それから貴族たちも、やらせているほうも、やはり自分もやりたくなるのですね。だからやっているうちに耳もよくなってくる。ということで、ウィーンとウィーンの近くの一帯の器楽演奏技術というのと、その層はものすごくレベルが上がって、ウィーンだけなのですよ、交響曲なんていうのを作っているのは。交響曲なんていうのは大変なのですよ。演奏会へこの中で時々行かれる方手をあげてください。何人かいますよね。でも演奏会へ行って聞くときというのは、本当によほどの、イタリアでは最近増えてきた、よほどの知識があって、鑑賞能力がないと、演奏会へ行っても眠くなるだけなのですね。なにもやらない。オペラなんかいろいろなことをやっている。バレエもいろいろなことをやってますからね。ドラマもあるし。だけど、例えば弦楽四重奏曲聞きに行くなんて、大変な耳がいるのですよね。本当に聞く技術がいるのですね。しかもそれがあれだけ曲ができてきたというのは、ウィーン一帯の貴族たちが、少年合唱団の残りでもって、どんどんどんどん卒業して行った連中があふれて、器楽をやって、ああいう社会を作っていった。
イタリアのほうは、丸々少年たち、特に男の子が4人以上いた場合には、1人は玉を抜いてもいいという神父さんの内諾があったそうです。ひどいことですね。ナポリの辺りへ行くと何でもありなのです。神父さんが内諾を出したというのですからね。これみんな女性が歌えないからというのは、最初はバチカンがとるのですよ。このカストラート。1598年かな、一番最初にバチカンがカストラートを採用したと、合唱団の中に。やはり少年よりは声が強いですし、絶対にカストラートのほうが一般的に聞くのはいいのですね。そしてカストラートがどんどんどんどん出てくるというと、これまたこのカストラートというのは、生まれて、男として、フロイトで言うと、男というのは常に女のことしか考えていないという。フロイトの説ですよ。ですけども、ということぐらい、男性にとって女性は大事であるはずなのに、その女性とのことを、玉抜きですから、これを禁じられたというか、なくならされたようなものですよね。そうなるとどうなるかというと、歌の勉強をしなさいと言われたら、もうこれです。歌しか生きることがないのだから。そうすると、徹底して、歌の訓練をするわけです。そうすると、もう子供のころからの歌の技術というのは、だいたい7~8才から、9才10才くらいで玉を抜かれますから、それから14~5才までの間に、もう子供の一番の成長のときに歌だけを勉強する。ただし、もちろん国語もやらせる、外国語もやらせる、演奏家として立てるように、音感教育はやらせる、ピアノはやらせる、なにやらせると大変な教育をするのです。みんな教会でやるのですけどね、ほとんど。なぜ教会でやるのかというと、教会では、教会で歌う聖歌隊の人間を養成するためにやる。ナポリなんかには4つも音楽院があったのですが、修道院音楽院があったわけですが、なぜそんなにあったかというと、玉抜いた少年を教会の前に置いてきてしまうわけです。そうすると、教会はそれは育ててくれる。しかもご飯もいいものくれて、ちゃんとやってくれるわけです。教会にしてみれば、玉抜かれて来てしまったのだからしょうがないじゃないかと。反対に玉抜かないで置いていくと、お前は玉ありならいくらでも仕事ができるのだから、家へ帰って、親のところへ戻って、農作の仕事でも何でもやりなさいと、何もあなたは教会で歌う必要はないでしょうと。玉抜かれてしまった子はかわいそうだからと言いながら、どんどんどんどん増やしていくわけですね。どこがかわいそうなのかわからないですが。受け入れれば受け入れるほど、親は、実は親のほうも2種類いたらしいですね。本当に食えなくなって、日本ではご存知のように間引きをしてましたよね。間引きというのは、生まれた途端に濡れ手ぬぐいを赤ちゃんの口に当てて、子供を窒息させて、最初の泣き声を聞かせないで、お母さんに死産でしたと言う。これが江戸時代、人口を3000万人で押さえていた大きな理由ですね。それ以外には、日本は非常に疫病が少なかった国ですから、他にはあまり増やさない方法はなかった。全部それで村の鎮守のお地蔵さんは、あんなお地蔵さんというのはおじいさんですよ。ご存知ですか、あれにあぶちゃんかけているのです。皆さん不思議だと思ってないでしょう。あれは水子供養で、お母さんがそうやって殺された自分の息子、娘、死産ですよと言われても、死産でないことは知っているわけですから、おなかの中で動いているわけですからね、動いていて、出てきて死んだと言っても、お母さんはすぐわかるわけですから。だから、その死産でしたよと言って、しかも賽の河原へ行って、いつも石を積まなければいけないわけですから、だから村はずれに必ずお地蔵さんをやって、そこで水子の供養をしていたから、かわいそうなお地蔵さんにあぶちゃんをかけているというのは、みんな自分の子供を殺していたお母さんの嘆きというか、あまり親父は嘆かないみたいなのですが、親父も嘆いたのかもしれないですが、やはりお母さんのほうが嘆くのですね。それがずっとあったわけですが、それから考えると、息子の玉抜いてしまおうかというのも、どちらかというと仕方がない選択かもしれないですね。後食えないのですからね。ですから、それでそういうことでたくさんの少年たちが歌に走っていく。
ちょうどそのころ、これ比べてはおかしいのですが、17世紀というのは、サラブレッドが出てくるころです。あれも同じように、交配交配で走ることしか考えないで、ダイヤモンドの足を作っていくわけでしょう。だから本当のアラブの馬とサラブレッドを走らせると、あれはアラブから来ているわけですから、あれアラブのヨントウだと言いますからね。最終的には。上っていくと、サラブレッドの親はヨントウなのです。そのヨントウのアラブから、あれだけのサラブレッドを作っているわけですから、けれども今走らせたら,アラブのどんな名馬でも、サラブレッドとはスピードが全然違いますね。
そういうふうにサラブレッドができていったように、このカストラートは、もう徹底して歌で行く。そうすると、非常にいい声ができる。その発声法というのと、それから発声技術。これは、昨日も僕バルチェローナのコンサートへ行って、その前の日にバルチェローナといろいろなインタビューをして、いろいろ話を聞いてきたのですが、彼女が言うには、オペラ歌手というのは、スポーツ選手だと。あくまでも全部筋肉トレーニングだと。芸術的なトレーニングは一番最後にするものだと。でないと声は出てこないと。実際そうなのですね。そういうカストラートの技術というのが、非常にイタリアで、美意識というものがかーっとこうなってきて、イタリアでオペラという演劇が生まれたときに、そのカストラートがそこに入ったことによって、演劇そのものが、カストラートの歌のいわゆるレチターレするということから、だんだんだんだんアリアというものが出てきて、歌うようになってきて、そして今度いわゆる演劇的なレチターレのものから,だんだんだんだん離れて、完全にもうカストラートの声の見せ場というか、声の曲芸の展覧会みたいな、そういうようなものにだんだんオペラがなっていってしまう。
そういう時代から、だんだんだんだんオペラが、本来持っていた演劇的な要素から離れていって、そして、非常に音の享楽になっていくのです。実は、人間の声というのは非常によく発声すると非常に美しい。今でも皆さん、ギャラで一番高いのは、一晩の公演で1億円くらい取るのは、ドミンゴ、パバロッティ、カレーラス、あの人たちというのは、ヨーロッパではそんなに取りませんが、日本なんかに来ると、1億も取ったことがあるわけですね。それでもお客さんが集まる。これはもうポピュラーの人たちよりもずっと高いのですね。実はオペラの歌手たちのギャラというのは、一晩だけから考えると非常に高い。そしてその高いだけの、みんなに快感を与えられる。そういうものを徹底して開発してやっていったのが、17世紀18世紀のオペラなのですね。
そこら辺から今度は19世紀に入ってきて、オペラというものが19世紀に入るとカストラートというのが禁じられるのです。誰が禁じたかと言うと、ナポレオンです。フランス革命、フランス人はほとんど少年の玉抜きはしませんでした。で、一切そんな人権無視のような事は絶対してはいけないということで、フランス革命軍がヨーロッパに入ってきたときに、完全にそれをストップさせるわけです。イタリアの場合は、何度も法王もカストラートの手術の禁止令を出しているのです。でも、手術してしまったら仕方がないねと。じゃあ歌わせてあげようと。こうなると、いくらやっても駄目なのですね。つまり、結果後で歌えるのなら、いけませんと言っても、ノルチャみたいに言う事聞かないところがあれば,もうどんどんどんどんやっていってしまう。ところが、ナポレオンが来て、ナポレオンが何をやったかと言うと、カストラート出てはいけません、舞台に出てはいけません。これをやられたら、今度今までいたカストラートは大変です。食うに困ってしまう。一ステージ何百万ととっていた人が、出られなくなってしまう。でも手術を禁止しても、そんなのは当たり前だと。手術を禁止するのではなく、このカストラートをストップするためには、出さないようにすること。これが一、第二に、自由、平等、博愛、ああいうものは、旧貴族たちの人権無視の娯楽である。だから、あなた方市民を、貴族趣味のカストラートに侵されてはいけないと。そういうものは、人間の尊厳を傷つけるものだと。だから、そういうカストラートの声を聞いて喜ぶということ自体が、人間として間違っていると。こういうふうにナポレオンが言ったそうです、本当かどうか知らないけど。大体そんなようなことを言ったのですね。それで、そのナポレオンがそういうふうに言ってきたと同時に、イタリアの人たちの市民の感覚も変わるわけです。初めて。なるほどと。自由、平等、博愛というのがあるのかと。よく考えてみると、それまでは不自由、不平等,偏愛だと。これはいかんなと。人間というのは、もう少し生き方を考えなければいけないと。こういうふうになってきたのが、イタリア人の知識階級も、そこら辺でぐっと変わってくると同時に、カストラートを舞台に出すのはやはりやめようということで、ぱっとやめる。やめられたカストラートは何をしたかというと、歌の先生になるわけです。習ったのは誰かと言うと、それまで出てはいけなかった女だったのです。ここからウーマンリブが始まるといってもいいくらいです。女性がどんどんどんどん歌を勉強しだすのです。特に、ある程度生活レベルの低い人たちで、あまり低いとレッスンが受けられないのですが、一般市民で、レッスンくらいは受けられる程度の人たちで、一攫千金を夢見る人たちは、どんどんどんどん歌を習いに行く。ちょっと声がいいと。ですから、その当時、特に男のような太い声の、しかも上まで出る、音感のある女の子たちがどんどんどんどん教育されるわけです。そして初めて19世紀のプリマドンナオペラ時代が出てくる。これが19世紀のはじめはもう完全なプリマドンナオペラ時代。プリマドンナのオペラの時代には、カストラートと同じような技術を女性が学んだわけです。カストラートと同じような技術を女性が学んだから、あらゆることがもう女性ができたわけです。そういうものを変えたのがロッシーニ、ドニゼッティ、ベルリーニという3人の有名なベルカントオペラの作曲家なのです。
それからやっとヴェルディになってくるわけですが、ヴェルディも最初はベルカントオペラの作曲家だったのです。このベルカントオペラを彼としても今までどおりベルカントのオペラを書くと。ところが、19世紀の後半から、だんだん世の中がまた変わってくるのです。どういうふうに変わってくるかというと、今までのベルカントのオペラそのものも、それからちょうどそのころ、特に18世紀においてはカストラートが全盛時代だったときには、もう1つオペラヴッファというのが生まれるのです。なぜかと言うと、カストラートの出ないオペラも出てくるわけです。そのときに、だんだんそのころ18世紀も半ばになってくると、女性も舞台にどんどん出られるようになってきて、けれども、カストラートと女性はもうたちうちできないのです。なぜかと言うと、カストラートはちゃんとナポリの修道院や何かの教育のきちんと整ったところで教育されてきます。もう教会が全部教育費を出してやっているわけですね。ですから、大変なカストラートの歌手は出てくるけど、女性のほうの歌手は、若くて声のいい人たちが、時々プライベートレッスンとか、そういうもので出てくるだけで、本当に才能のある人たちがちょろちょろと出てくるだけだから、どうしても声の軽い、かわいらしい声のソプラノばかり出てくるのです。後あまっているというのは、その当時全部、男のほうでも玉抜きではない男性のテノールしかオペラに出られなかった。なぜかというと、全部ソプラノですからね。男もソプラノ、女役も男がやってソプラノ、またそれに対抗するように、女で出てくる人がいても、男と同じような太い声でないと、男の声と一緒に、いくら高い声が出るといっても、男の声のほうが強いですからね。胸の大きさがやはり男性のほうが大きいものだから、しかも全体的にちょっと大きいから、やはり声も太いし。だから玉抜きでやっても非常に強い太い声だったから、それに対抗するような女性じゃないと駄目だし、女性もカストラートが歌っていたわけです。男が、男も女もみんな歌っていたのです。そうするとそこに出てくる、例えば恋敵とか、おじいさんとかおばあさんとか、端役になってきたり、脇役になってくると、男でもテノールでないと、バスになってくると、バリトンとかバスみたいな低い男の音だと、バランスが悪いのですね。いきなり低い声になってしまう。だからその当時出てきたバスの音というのは、怪獣とかお化けとか、もうそんなような。老人もテノールなのです、おばあさんもテノールなのです。喜劇的な役もテノール。敵役もテノール。ほとんどテノールだけなのです。ですから、バスと軽い声のソプラノというのは、まったく仕事がなかった。それで、後半になってきて、やっとオペラブッファという、若いスープレットという女中さんのような娘さんと、それからちょっと好色なおじいさん、これがバスでやるというのがもうだいたいオペラブッファというのができてくる。こういうオペラブッファというのがもう非常に面白くて、楽しく笑えるような、これはもう値段が安かったのです。そういう連中がたくさん出てきて、わあわあわあわあ楽しいオペラをやってくれた。もう1つは、非常に高いお金で、カストラートがやっていた。
そういう時代から、ヴェルディの時代に見てみますと、だんだんだんだんヴェルディの少し前まで、つまり、ロッシーニ、ドニゼティ、ベルニーニのころまでは、そういうカストラートから女性に声が移った、そうしたいわゆるベルカントのすごい歌手、それから、オペラブッファが今度は非常に楽しい、18世紀から19世紀になって、今度バリトンとか、いわゆる本格的な女性のソプラノがコルラツゥーラでもって、オペラブッファの喜劇的なものも歌うと、いうような時代になってきたとこで、ヴェルディが1842年に彼の「ナブッコ」というオペラを出して、大成功するわけです。実はヴェルディという人は、ブッセートという町のすぐ近くのロンコレというところで生まれまして、今、ロンコレの所の部分をビデオを持ってきていますので、ヴェルディという人がどういうところで生まれて、どういうふうに育ったかというのを、ビデオで見ていただこうかなと思います。
これからやっと本題のヴェルディになってきますが、ヴェルディという人がどういう人だったか、そして最後に、どういう方向でいったかをお話したいと思います。
(ビデオ)
こういうことで、まずバーペンシエーロの曲が終わって、そしてヴェルディは次の時代に入っていくと。これできょうはだいたいヴェルディの簡単な生涯をご説明しますが、その後で、ヴェルディがどういう方向で音楽を作っていったか、そして、最終的にイタリアの文化において、ヴェルディというのはどういう価値があった、またそれが本当にどれだけすばらしかったかということを、この後。
(ビデオ)
ここで私がずっと話をするよりも、こうやって映像が入ったほうが、生まれた家やいろいろなところが見られていいのではないかと思って、だいぶ前に録音したもので、少し細かいところで間違いがあるのですが、それは目をつぶっていただいて、こういう形でヴェルディという人は出てきたのですが、ヴェルディの一番すごかったところ、それは、彼自身が音楽家として、一番最初いわゆるベルカントオペラ、いわゆるカストラートから引き継いできたベルカントオペラ、これをこれから、つまり本当歌うようなオペラになってしまったものから、だんだんだんだんギリシャ悲劇の本質である朗詠に戻してきたのです。完全に最後には、「オテロ」「ファルスタッフ」にいたると、完全なアリアというのはなくなってしまって、完全に朗詠をしていくと。ですから、音と言葉が密着していて、途中で歌うというところがないのです。実はアリアというのも、皆さん、これはオペラのアリアというのは歌ではないのです。歌というのは英語で言うとソングです。ドイツ語で言うとディートです。フランス語で言うとシャンソンクプレ。イタリア語で言うとカンツォーネです。アリアというのは、全世界アリアかエアーか、みんなどこの国でもアリアなのです。実はアリアというのは、歌という意味ではなくて、風という意味です。アーリアというのは風で、なになに風ということです。なぜなになに風というかと言うと、あれはヴェネチ
ア風の歌い方だというので、アーリアヴェネツィアーナと言っていたのが、ヴェネチアーナが取れてしまって、アーリアになったということですが、文献的には証明されていません。実はアーリアナポレターナと言ったのだというのもありますが、どちらにしても同じなのですね。アーリアヴェネチアーナかアーリアナポリターナか。多分ヴェネチアだと思いますが。つまり、ヴェネチア風の風だけになって、だから日本語に訳せばふうという感じなのですね。ふうでは話にならないから、みんな世界中、アリアはアリアと言う。ところが、それぞれの国では、全部歌という言葉はソングもあるし、シャンソンもあるし、日本でも歌という言葉があるのですが、日本でもアリアはアリアとしか訳せません。ということは、オペラというものが、あのアリアというのは、完全に歌とは別物なのです。
それはなぜかと言うと、アリアは独白のいわゆる朗詠なのです。朗詠で独白の変形と言うか、独白の一番いいところです。つまり、お芝居で言うと名セリフというのがありますでしょう。名セリフと言うのは、絶対歌ではないのです。セリフですもの。ですから、その名セリフと言うのは、例えば、「しらざあ言って聞かせやしょう。はまのまさごと五右衛門が、歌に残した盗人の、たねはつきねえ七里ガ浜」なんて言いますよね。これは歌ではないでしょう。歌ではないけどセリフじゃないですよね。「しらざあ言って聞かせやしょう。はまのまさごの五右衛門が」なんて言っても、全然話にならないわけですね。ですから、この「しらざあ言って聞かせやしょう」というところが、これが役者さんたちがそれぞれの聞かせどころであって、これが朗詠なのです。アリアというのは実は名セリフなのです。ですから絶対的に一人称。よく大学の試験なんかで書くのですが、二人称のアリアがあるか。あるのですけどね、ほとんどないです。全部一人称。つまり、二人称、三人称のアリアというのはありえないです。三人称というのは歌なのです。歌というのは普通は三人称です。歌で一人称は演歌。演歌はだいたい一人称。ですから演歌が一番アリアに近いのですね、歌の中では。普通歌は三人称なのです。「夕焼け小焼けの赤とんぼ」なんて言いますよね。あれもよくわからないですよね。夕焼けまではわかるのですよ。小焼けというのは聞いたことがないですね。でも調子いいですよね。小焼けというのはどういう焼けなのか教えてもらいたいのですが、どうでもいいのですよね、そんなことは。あれ三人称なのです。つまり「夕焼け小焼けの赤とんぼ」と言うと、夕焼けがこうすーっと、雲があって、真っ赤になっていって、そこに赤とんぼが飛んでいってという、頭の中に景色が出てきますね。その景色が出てくるのが歌なのです。歌というのはほとんど景色が出てくるのです。これ長唄だってそうですよね。道成寺だって、一番最初のところは歌の表現ですよね。吉野の桜だとか、そういうもの。情景を歌うのが歌なのです。ところが、アリアというのは全部セリフなのですね。セリフなのにカストラートがああいうことをしてしまったものだから、歌みたいになっていってしまった。ですから、本来セリフだったのが、歌になってくる。だから例えば、ヴェルディのオペラの中にも、歌もあるのです。たとえば女心の歌。これは絶対にアリアとは書いてありません。これはカンツォーネと書いてあります。あれは自分のことを言っているのかもしれませんが、三人称ですよね。「風の中の花のようにいつも変わる女心」あれはカンツォーネなのです。それは三人称です。ですけれどもパルミのアリアは一人称だし、コルテジャーニも一人称ですし、全部そういうふうに。それのヴェルディが、だんだんだんだん本来朗詠だったものが歌っぽくなっていってしまった、その歌っぽくなっていってしまったものをまたずっとドラマに完全に戻してきて、「オテロ」ト「ファルスタッフ」では完全にアリアではなしに、完全なドラマにもってきた。ただし、そのドラマにもっていってしまうというと、音と音楽をピシッとくっつけてしまうと、普通の作曲家ではできないのです。これはもうワーグナーとヴェルディぐらいしか、ポピュラリティのある朗詠劇を作った人はいないのです。後プッチーニも少しありますが、プッチーニは途中で常にカンツォーネを入れてしまう。プッチーニは泣きを入れてしまいますから。プッチーニはすばらしい作曲家で、僕も大好きなのですが、必ずプッチーニの音楽の中には、客を泣かせようという泣きが常に入っているのです。それがある程度よく見ていくと見えるわけです。ですから、芸術的に言ったら、なんとしてもヴェルディの方がずっといい。ヴェルディの場合には、ドラマの方向性に向かって、どの音が最も適切であるかということだけしか考えていない。だからそこでもって、客を泣かせるとか泣かせないではなくて、ここにこのドラマならこの音が必要なのだというものしかやっていない。だからその点ではヴェルディという人は大変な人なのです。ちょっと長すぎて、重たくて、どうしようもなくて、ですけども、そういうことができた人は、ドイツのワーグナーだけです。後の人はほとんど歌に頼ってしまう。歌に頼ってしまうと、歌の旋律というのが人々にとって非常に快いものですから、歌に頼った歌劇というのと、本当に朗詠で行く歌劇。ヴェルディは最初はその歌的なものからだんだんだんだん朗詠の本当のドラマを作っていくのですね。ものすごい芸術作品として作っていくわけです。芸術作品とそうでないものの違いというのは、大衆文学といわゆる文芸作品との違い。ここの違いと同じようなところがあるわけです。ヴェルディという人はイタリアでもって、いわゆる本来大衆作品であったイタリアオペラを、文芸作品に持ち上げていったと。ここら辺が非常に違うところなのですね。ヴェルディの音のすばらしさというのは、いわゆるそれまで作ってきた音楽の中で、歌手たちが自分たちのよさを、歌の面白さを見せるというだけではなくて、本当にその人間の持つ心の悩みとか、人間の持つ非常にある意味では哲学的にまでいたるくらいの人間の心の感情の動き、それから物事の考え方というものを、深く出していけたほとんど唯一の作曲家ですね。
最後にチラッとマリア・カラスの歌うヴェルディのドン・カルロのアリアを聴いていただきます。このアリアをカラスの、たぶん字幕の入った映像がないのです。ですからちょっと簡単にご説明しておきますが、いわゆるエリザベッタというフェリベ2世のお妃が、実は結婚する前は王子ドン・カルロと婚約していた。だけど結婚してみたら、お父さんのほうの奥さんにさせられてしまったと。本当はドン・カルロを愛しているのだけど、決して不倫はできないしということで、非常に苦しんで苦しんで、人生を送っていく。そして人生のむなしさと言うか、本当に空虚な、生きるということでむなしい人生を送っていくときの、私の人生はこんなにもむなしいんだということを歌っている曲なのです。マリア・カラスの歌で聞いていただきましょう。こんな心のあれを歌ったオペラは他には本当にないと思います。1962年ですから、マリア・カラスは相当声を失ってからの歌なのですが、すばらしい演奏です。
(演奏)
いかがでしたでしょうか。このアリア、ヴェルディのオペラの中でも一番渋いものの1つですね。これは彼女が自分の恋を失って、人生本当にむなしいと。多分これ、マリア・カラスはオナシスと一緒になっていて、しかもオナシスとの結婚問題がいろいろこじれてきて、彼女自身も非常にむなしかった時代なのでしょうね。いろいろな意味で。ですから、まだ声があって、こういう自分の心境に合ったときだから、マリア・カラスのあれを聞いていると、なんとなく僕もジーンときてしまうのですよ。本当に彼女の人生の苦しい時代だったのでしょうね。ですから、そこでこういう歌を歌っているわけですが、皆さんオペラというものを、ヴェルディが持ってきたオペラ、これはこういう歌になっていくと、これは娯楽作品ではないのですよね。まったく人生をどう考えようかという、非常にそれを音楽的に表していくという、これはちょうどギリシャ悲劇に非常に近くなってきた。ですから、そういった意味で、19世紀イタリアの、特に19世紀後半にかけてのイタリアの芸術というものは、他のものがほとんどないのですね。他の国では文学も非常にたくさんありますし、絵画もあるし、器楽曲もあるわけです。イタリアには19世紀で有名な交響曲というのは1曲もないのですね。有名な小説というのは、マンゾーニの「婚約者」1つしかない。絵画も、最近19世紀の絵が高くなりましたが、今まではすごく安かったし、今でもいわゆる美術館の名作からいけば安いものばかりです。本当に超有名な人はほとんどないです。最後になってモジリアニが出てくるくらいで、19世紀はもうそれこそフランスのドラクロアからあっちの方、フランス、ドイツ、フランドルの方になってしまう。そういう中にあって、イタリアの芸術が、本当に19世紀の真ん中から支えたのはヴェルディだったし、そのヴェルディが最もギリシャ悲劇に近くなって、そして音でもって、人間はいかにあるべきかを考えさせるような芸術を作った作曲家だと思います。去年はヴェルディイヤーで、非常にヴェルディの曲がたくさん上演されましたが、今後もイタリアオペラの中では、ヴェルディというのは特殊なと言うか、最高の位置を占めて、しかも彼の音楽そのものは、本当に娯楽的な楽しませてくれるところもあるし、非常に深く考えさせられるところもあるし、人生の一番の心の奥深くのところから感動させてくれる作曲家だと思います。
今日は長らくありがとうございました。
今お話したようなことといろいろ重なりますが、本を書いておりますので、もしよろしければ。「オペラと歌舞伎」という本はもうだいぶ前に書いたもので、オペラと歌舞伎が、日本の文化と西洋の文化の中でいかによく似ているかということを、しかも世界に類のない芸術の比較だと。一番最初の書き出しが、第二次世界大戦は、オペラと歌舞伎を持つ国と植民地を持つ国の戦いであったというところから始まります。僕は本気になってそう思っているわけです。英仏米露という、英米は植民地専門ですし、露仏は半分オペラも植民地政策もやっている。一番持ってなかったのが、オペラと歌舞伎に勢力を尽くしてしまった日独伊だと。どちらかと言いますと,独はあまり食べるものはおいしくないのですが、やはり日伊は食べ物も似ていますし、そういった意味で、いろいろな意味で、人生のエネルギーの放出の方向というのが、どういうところに、美意識のところで消費していると。美意識で消費していくと、戦争がなくなるということで、実はオペラを聴けば平和になるという、私の変なあれなのですが、そういうことで、「オペラと歌舞伎」という本を書いています。
その後に書いた「椿姫にいたる娼婦の歴史」というのは、椿姫というのは一応高級娼婦ということになっていますが,実は買いに行って買える娼婦ではないのです。ですから、あれは娼婦とは本当は言えないのです。どうして娼婦と言えない人を高級娼婦と言わざるを得なくなってきたかと言うと、日本語では芸者と訳しては芸者に失礼になるし、かといって、花魁と言ってはちょっと違いますし、白拍子と言っても皆さんわからなくなってしまうし、遊女と言っても困ってしまうので、こういうのは文化的な違いが非常にそういうところであるわけですね。このフランスのコルテザンというのは、実はギリシャのヘタイラから来て、そのヘタイラからバチカンのコルティジャーナに入って、それからフランスのコルテザンになっていくという、非常に女性のそういう歴史。途中にキリスト教はどうなったかという、私が書いているのは相当独断と偏見で書いていて、パウロがローマ人だと書いていたら、ある人が、あれは絶対ユダヤ人であるということで、僕もユダヤ人だとは思っているのですが、キリスト教自体が、ユダヤ教の考え方をギリシャ哲学によって書かれた宗教だと僕は信じきってますので、そういうふうに非常に独断と偏見で宗教的なことを書いているのと同時に、娼婦の歴史と書いてありますが、中読んでいくと、ギリシャ哲学によって、ユダヤ教をぐっと捻じ曲げて書いていったら,こういう宗教ができてきたのだというような、相当独断と偏見の宗教的なことも書いてあります。それとずっとオペラと重ねて書いてます。
「オペラ痛快学」というのは、先ほど話した石器時代からずっとその後のオペラの、オペラというのはどうしてできてきた、そしてオペラっていったい何なんだと。たとえば「カルメン」なんていうのはオペラではないのだと。どうしてオペラではないかというと、アリアがないからだとか、そういうような、これはずっと私がいろいろなところで講演をしているオペラの歴史全体を痛快オペラ学ということで書いています。ここら辺までは、皆さんどなたがお読みになっても、オペラの好きな方、好きではない方でも、普通の読み物として読める本だと思います。
最後に一番最近出した「ヴェルディのオペラ」という本は、これは本当にオペラの好きな方でないとお勧めできないというか、こんなに厚くて高い本ですが、これオペラが本当にお好きな方だったら、1曲1曲についてのすごく詳しい、原作だとか、どうして作ったのか、その原作はどこにあるのか、音楽分析はどうなっているか、一般の解説書でありますが、オペラファンでない方にはちょっと専門書に近くなってしまうような本です。
それからもう1つ宣伝させていただきたいのは、実は私、スポレートという町の音楽祭の審査員をしておりまして、そして審査員をしておりましたらそこでぜひ自分のところのやっているオペラを日本に持ってきてやってくれと頼まれまして、私が引き受けて、全部自分でやるわけにはいかないので、朝日新聞社とコンチェルトハウスジャパンというところにお願いして、私もリスクをとって、若い人たちのオペラを今度浜離宮ホールでやることになりました。これは今日は切符は持ってきてないのですが、チラシがありますので、もし興味があられる方は、お名前さえ書いていただければ、後で切符でもすぐにお送りしますし、全部いろいろな対応はさせていただきます。たまたま今日はチケットは持ってきておりませんので、よくご検討くださって、私どものサウンドバンクにお電話をいただいてもいいし、コンチェルトハウスジャパンのほうにお電話いただいても結構です。
今日は長い間いろいろとありがとうございました。
司会 ありがとうございました。