イタリアと共に50年

第300回 イタリア研究会 2005-04-16

イタリアと共に50年

報告者:元慶應義塾大学経済学部教授/イタリア研究会創立者メンバー 松浦 保


第300回イタリア研究会(2005年4月16日 三笠会館本店)

記念講演:松浦 保氏(元慶應義塾大学経済学部教授/イタリア研究会創立者メンバー)

演題:「イタリアと共に50年」


司会(高橋) それではイタリア研究会を始めたいと思います。今日は300回になります。1976年の9月が最初で、森田さん ―ローマ大使館に警察庁から出られて、その後内閣調査室にいらっしゃった森田さん― が最初の講師でして、100回目が確か竹内啓一先生だったと思います。200回目を ―今日後からお見えになると思いますが― 陣内先生にお願いをして、本日300回ということになりました。実にもう29年くらい経っていて、やや会で抜けているところがあったり、齟齬があったりするのですが、今回がだいたい300回だろうという形で行ないたいと思います。

 今日の講師は、本研究会の創立者のメンバーでイタリアに留学されて経済学を学ばれました、松浦保先生です。慶應大学の教授をされていました。またイタリア研究会を留学から戻られて作って立ち上げられた一人でいらっしゃいます。それでは松浦先生にお願いしたいと思います。


司会(市井) みなさん、こんにちは。本日はご多忙の中、イタリア研究会の300回記念講演にご出席いただきまして、誠にありがとうございます。今高橋さんが前置きを申し上げましたが、本日は第一部が講演会、第二部が記念パーティという二部構成になっておりまして、第一部のご挨拶は私が勤めさせていただき、第二部は高橋さんのほうにお願いいたしております。今の事務局の高橋さんと、前事務局の私のコンビで進行して参りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 今高橋さんが触れましたが、1976年に産声を上げましたイタリア研究会も本日で300回という大きな節目を迎えました。この30年弱の間、多くのイタリア研究者、関係者の貴重な講演により支えられてきましたこの会は、今や日本国内のイタリア研究関連の会では最大規模かつ最も知名度の高い有力な会に名実ともに成長したと思います。人間で言えば生まれてから30歳にならんとする堂々たる大人の会であります。

 本日はこの記念すべき300回に最も相応しい方をお招きいたしました。本研究会の創立者の一人であり、この30年弱の間、イタリア研究会を見守ってこられた元慶應義塾大学経済学部教授の松浦保先生でございます。

 松浦先生は慶應義塾大学経済学部をご卒業後、イタリア政府留学生をしてローマ大学にご留学、その後ヨーロッパ各地の大学にご留学されて研究生活を続けられたのち、慶應義塾大学経済学部教授、ローマ大学ジーニ社会統計研究所研究員、ミラノボッコーニ商科大学客員教授、イタリア国際電信電話日本代表、在日イタリア商工会議所専務理事、関東学園大学教授等を歴任されました。松浦先生失くしてこのイタリア研究会の存在は無かったと申せましょう。長い間イタリアとの関係を持ってこられた日本におけるイタリア経済研究の権威でもいらっしゃいます。著書も多く、本日受付で販売しております「オリーブの風と経済学」も数多い著書の中の一つでございます。もしお持ちでない方がいらっしゃいましたら、お帰りにでもお求めいただければと思います。

本日は先生に「イタリアと共に50年」という題でお話をいただきます。先生の珠玉のお話が聞けることと思います。それでは、松浦先生よろしくお願いいたします。


松浦 どうも松浦でございます。教壇で講義をしていたせいか、座るよりもむしろ立ってしゃべった方が私はいいので、立ってしゃべらせていただきます。


 さて、最初にみなさんにお話しておきたいのは、みなさんもご存知の古典的名著の序文の一節です。

一人のイギリス青年、オックスフォード大学を出たばかりの学生がおりました。彼はローマに魅せられて幾度と無く訪れ、あるとき荒れ果てた「フォロ・ロマーノ(Foro Romano)」に出会います。今の「フォロ・ロマーノ」はムッソリーニが改修して立派なものになっていますが、今から200年ほど前はまったく荒れ果てていました。ローマの中心にあるフォロ・ロマーノを見て、彼はテベレ河畔で思いふけり、偲びます。どうしてあのローマは衰退してしまったのか。衰亡してしまったのか。地中海をめぐるほとんどの国を支配し、「ローマの平和(Pax Romana)」と言われた200年間を支配したローマ帝国の首都が、いまや荒れ果てた野原になっているのはなぜなのか、と。そして、彼は、ローマがなぜ衰退していったのかを研究することをこのテベレ川のほとりで決意しました。晩年になって、青年は10年の年月をかけて有名な『ローマ帝国衰亡史』という6巻の本を書きあげ、若き日の誓いを達したのです。


 実は私は、この青年、エドワード・ギボンのような大志を抱いてイタリアに行ったわけではありません。私は平均的な普通の日本人として一つの固定観念 ―つまり、イタリアは芸術の国であり、せいぜい有名なのはルネサンスくらいの国だという印象― を持っていたのです。私の経済学の研究、社会科学の研究とはまったく無縁であり、無関係である、と思ったのです。そこで、私もその当時は若い研究者です。アメリカに行きたいと思ったのですが、いくつかの理由でイタリアに行くことになってしまいました。

 一つは、私の恩師が高橋誠一郎先生 ―文部大臣をやられ、長く芸術院長をなさっていた方― であったことです。高橋先生が言われるには、「慶應の図書館には素晴らしい本がある。その中の一つが、クストディ卿 ―クストディとは編集者という意味ですが、卿の名前でもあります― が編集した『イタリア経済学古典全集50巻』が慶應にはある」と。そこで、さっそく見に行きました。ご存知かもしれませんが、煉瓦建ての古い図書館です。その地下に50冊の全集が並んでおり、ホコリをかぶっていました。ただその本を紐解くと、今思い出すとオルテスの部分に ―やってはいけないかもしれませんが― 鉛筆で日本語の書き込みがあったわけです。慶應には寺尾琢磨という人口論の権威ある先生がいて、マルサスの人口論のはしりとして彼はオルテスを読んでいた。それで辞書を引いて書き込みをしていたのだろうと思います。「ああこれが慶應の誇り(ホコリ)なのだ」と、私はそのとき思いました。

 そういうことがありました時期、今なお私の側に置いてあります1300頁にもなるシュンペーターの『経済分析の歴史』という経済学史の大著が出版され、その冒頭には、イタリアの経済学は二つの時期に世界最高であった、と書いてありました。一つは、アダム・スミス直前。もう一つは、1900年頃。この二つの時期は何と言ってもイタリアの研究が素晴らしかった時代だ、そういうふうに書いてありました。それを見たことも、イタリアに行こうという動機の一つになったと言っていいと思います。

 実は、それよりももっと直接的な俗っぽい理由もありました。今の女房と結婚する前、芸大を出たソプラノ歌手と私は恋愛関係にあり、結婚近くまで行っていたのですが、失恋してしまいました。そこで、私がイタリアに行けば彼女は悔しがる、と思ったのです。それがむしろ、イタリア行きの直接の動機なのです。


 そういう経緯でイタリアを選びました。慶應大学の隣がイタリア大使館でして、そこから慶應に、「社会科学の研究者一人をイタリアに送ってくれ」と、当時の大使コッピーニから依頼がありました。ここには私と一緒に留学した方がおられるかもしれませんが、当時は藤原邸が焼け残っておりまして、そこで壮行の式典がありました。今の「都ホテル」です。イタリア大使館は戦災にあっておりましたから、私たちは今の都ホテルで政府留学生の門出の祝いを、コッピーニ大使をはじめとしたみなさんからしてもらったわけです。

 私はたまたまイタリア大使館の要請で来てくれと言われましたので、イタリア語がまったくできなかったのです。今はそうとう厳しい試験があるようですが、当時の私が受けたとしたらまったくできなかったことでしょう。知っているのは、アンダンテ、アダージョ、ピアニッシモ、それにマカロニ、スパゲッティ。そんなところしか知らなかったのです。そんな調子ですから、イタリア語のできる竹内先生とか、岩倉先生から出発のお祝いに激励の言葉をイタリア語で頂いても、何も分かりませんでした。

 その私が約1ヶ月の船旅を経て神戸からジェノバに辿り着き、留学生活が始まりました。あの頃、イタリアの鉄道には駅名が無いのです。まったく、イタリア人というのは不親切です。「ベルモット」とかそういう広告がありましたので、私は少し酒を呑みますからこれは酒の広告だなと思ってその駅を探したら、駅名が無いのですよ。ある大きな駅に停まりましたら、そこには「ウシータ」と書いてありました。この「ウシータ」というのはお分かりでしょう、みなさん。当時は、下井英一さんの『ピッコロ伊和辞典』もまだ出ていません。伊英辞典で「uscita」という語を引きましたら、「exit」と書いてありました。「なんだ、出口のことか」と。それほど私はイタリア語ができないまま向こうに行きました。

 そういう私も ―実は今でも苦労しているのですが― なんとかかんとかイタリア語で読み書きができるようになりました。留学前、大使館で「ペルージャに行きなさい。ペルージャで勉強しなさい」と言われました。そこに外国人向けのイタリアの大学があったので、そこでイタリア語を身に付けろ、というわけです。今はサッカーの中田選手がいるからみんな知っていますが、あの頃、ペルージャなんてみんな知らなかったのです。そんな田舎に行くつもりはさらさらありませんから、最初からローマに行くつもりでした。ローマの「Dante Alighieri」というイタリア語学校で勉強したのですが、今から考えれば、ペルージャでしっかりイタリア語を勉強しておけばよかったと思っております。イタリア語には一生苦労しました。今も苦労しています。

 留学に際して、高橋誠一郎先生は「留学という字をよくよく読みなさい。学を留めると書くのだよ。遊んできなさい」とおっしゃいました。私の時代の留学生は ―アメリカに行った方は違うかもしれませんが― みんなこの意味での「留学」をしたのです。「遊学」という言葉のように、のんびりその土地の習慣に慣れ、環境に慣れるというのがその当時の重要なことでした。殊にヨーロッパはそうでした。私の時代は、どちらかと言えば、留学とは勉強しに行くのではなくて、のんびり遊んでくる、といったようなことだったと今思っております。また、それで良かったと思っております。

 留学は3年でした。当時、政府留学生への支給額は6万リラ。当時のドルで100ドルです。風呂敷のように大きな ―我々は風呂敷と揶揄していたのですが― 大きなお札を6枚もらいました。そして、私は政府留学生の宿舎には満員で行けなかったので、「Albergo del Popolo」 ―「人民の宿屋」という救世軍の宿屋― でその3年間を過ごしました。まるで貧民のような生活をしていたわけです。


 留学生活の中では色々なことがありました。思い出になることがたくさんありました。とにかく私が今思い出すのは、私が留学した1960年という年はオリンピックの年だったということです。幸いなことに、私たち留学生はオリンピックの手伝いにかりだされました。その中で覚えているのは、その当時日本などという自分の母国はちっとも念頭に無かったのですが、「君が代」を聞き、日の丸の旗を見たとき、何も愛国者ではないのに涙が出た思い出があります。そして、そのオリンピックで私は少しお金を稼いだのでフィアットの600ccを求めることができ、それでのちに北欧や北極圏まで旅行いたしました。そういうことが私の留学の思い出として残っているわけです。オリンピックでは、閉会のときに「Arrivederci Tokyo !(東京でもう一度逢いましょう)」というネオンが出たのですね。涙が出ました。私たちが町を歩いていると、「Cin ! Cin ! Cinese !」と子供たちが言うのですよ。日本人が中国人と間違われるような時代だったわけです。Giapponeseと言ってもGiapponeなんてどこにあるかみんな知らないのですから。そういう時代でした。それが50年前のイタリアの姿だったことを今でも覚えています。


 実は私はローマ大学で経済学、特に経済学史、経済学の思想を勉強するというのが、一つの留学の目的でした。そこで、私はローマ大学に参りまして、私の恩師になるファンファーニに会いました。当時、彼は総理大臣でした。私は総理大臣にローマ大学で経済学史を習うことになったわけです。しかし、私はイタリア語ができません。彼のところに初めて行ったとき、たどたどしい、本当にたどたどしい英語で「自分はイタリアの経済学の歴史を勉強しに来た」、こういうふうに言ったのです。そうしたら、ファンファーニの顔色がサッと変わりました。「どうしておまえはイタリア語ができないのにイタリア経済学史を勉強できると思っているのか、そんなことできない」と、厳しく怒られました。私のファンファーニに対する第一印象は、怖い、怒鳴られた先生、というだけのものになりました。実は、ファンファーニはフランス語はできますが、英語はあまり得意ではなかったのです。それに、私の方もたどたどしい英語ですから、お互い何を言ったか分かりませんでした。


 そんなことで、私はローマ大学で勉強することになりました。イタリアでは「マチュリタ」という共通試験があって、これに受かるとみんな高等学校を修了して大学に行ける、という制度がありました。フランスの「バカロレア」と同じ制度です。今もそうです。どんどんどんどん大学の数が増えまして、今は「第4ローマ大学」なんて大学まである。こんなふうに4つにもローマ大学は膨れ上がってしまいました。私がいた時代は、大学はいわゆる「大学都市」に集中しておりまして、経済学部だけがボルゲーゼという貴族の家のそばにあった程度でした。ボルゲーゼというのは「ブルジョア」という意味で、ボルゲーゼ家というのは、公爵位を持つ非常に身分の高い貴族の家柄です。のちにボルゲーゼの家で食事によばれたことがありますが、 ―当時は私自身もとても質素な生活を送っていましたが― 割合質素でした。このボルゲーゼに由来するボルゲーゼ広場というのが、経済学部のあったところです。昔のローマ商業高等学校、これが発達してローマ大学の前身になり、そこからバローネという有名な経済学者が出ました。しかし、今はこの経済学部も大学都市に合併されて、そこに校舎があります。

 そこで、私たちは「自分たちは古いローマ大学の卒業生 ―「La Sapienza」という特別の言葉を使って―、第一ローマ大学の卒業生である」と、こういうふうに言っております。

 実は、「La Sapienza」というのは、ボローニャ大学のことなのです。今から900年、千年近く前の1088年、世界で最初の大学がボローニャにできました。これを私たちは「Sapienza」と言い、「university」とは言っておりません。ですから、第一ローマ大学を出た者は、矜持を込めて「自分はLa Sapienzaを出た」と言うのです。「Sapienza」という言葉は、 ―イタリア語を勉強している人には分かりますが― 「知る」という意味の「sapere」という言葉から「Sapienza」、「知るところ」という意味の言葉ができ、それが「大学」を指す語となったのです。当時の大学は法学部と医学部、それに神学部が中心でした。また、「professore」、「教授」という言葉は何かといいますと、「ある専門の権威を掲げることができる人」という意味で、みんなから授業料を集めて講義ができる人を指したわけです。そして、この「みんなから金を集めて講義をする」集団、組合のようなギルドのようなこの集団を「university」と言いました。現在私たちが言っている「universita`」という言葉は、このように「お金を取る教授の組合(ギルド)」という意味なのです。マルクスもベルリン大学の私講師であった、という記録が残っております。大学の教授はみんなからお金を集めて生計を立てていた。これはボローニャ大学にはじまったことなのです。

 このようなボローニャ大学に対して、ナポリ大学というのが同じく千年くらい前の1224年にできました。ローマ大学は1303年に、その他の大学もいろいろなところにできましたけれども、ボローニャ大学やナポリ大学というのはそれらに比してさらに古い大学なのです。このナポリ大学はボローニャ大学とは異なって、ナポリ王国の行政官を育成する大学でありました。つまり、日本で言えば慶應のような私学と東大のような行政官を主に養成する大学があるように、ボローニャ大学とナポリ大学が存在したわけです。

 このナポリ大学に経済学の講座が初めてできました。1758年のことです。有名なアダム・スミスの『国富論』 ―これが経済学の始まりだと一般には言われていますが― 、この本が出たのは1776年ですから、それ以前にこの講座はできていたわけです。シュンペーターが、アダム・スミス直前をイタリア経済学最盛期の一つとして主張したのは、いろいろな著作によって彼がこの事実を知ったからだと思います。

 当時の経済学はどういうものかというと、今で言えば厚生経済学、「公共のための経済学」といった色彩のものです。価格は、欲しい人と提供したい人、需要と供給の間で競い合って価格が決まる、というのが今の市場経済ですが、当時はそんな発想はありませんから、ある行政官が価格をつけていたのです。そのような意味で、国がみんなのためになるような水準で価格をつけていた。では、「みんなのためになる値段」とはどうやって決まるのだろうか、という学問なのです。それが、ナポリ大学で最初に産声を上げたわけです。つまり、経済学は行政官が学ぶべき学問としてその養成所であるナポリ大学に初めて整備された、ということが言えるのです。そういうふうに、当時の経済学は、現在の経済学で言えばピグーという人が作った厚生経済学と同じような学問体系で、このナポリ大学に18世紀の半ばにジェノベージという人が最初の講座を開いたのです。このような歴史をお聞きになれば、私がイタリアで経済学を勉強したことの意味も分かっていただけるのではないでしょうか。


 もう一つの研究は、「ルネサンス」でありました。私は、ボッコーニという私がのちほど教えることになった大学にいたサポーニという経済史の教授 ―知っている方もおられるかもしれませんが― に師事しました。「ルネサンス」についてイタリア人は、何も私たち日本人が考えているような「近代化の出発点」などとは、まったく思っていません。「ルネサンス」の真実とはいったいなんなのでしょうか。だいたいイタリア語で「ルネサンス」という言葉はありません。「rinascimento」という言葉をのちに使うようになりましたが、それもやはり私たちが考えているような「ルネサンス」ではないのです。美術などの芸術の世界においては、「ルネサンス」が非常に研究されておりますが、それは、日本で言うような「ルネサンス」解釈とは異なった動機によります。日本のように、近代化、明治維新のことを「ルネサンス」と言うようなことはありません。何か工業化の始まり、近代化、これが「ルネサンス」だ、と言うのは、日本人だけなのです。イタリア人に言わせると、実は「ルネサンス」とは、「popolo grosso(脂ぎった人々)」の時代なのです。お金を儲けた余裕のある人々の時代なのだ、という意味で彼らは考えていて、決して日本人のようには捉えていないのです。

 さて、ではなぜ日本では「ルネサンス」を「近代化」の出発点として考えたのかと言いますと、ブルクハルトという人が『イタリアルネサンスの文化』という本を書いた。そこで「ルネサンス」という言葉がみんなの間に流行り始めたのです。ブルクハルトはドイツ系スイス人。当時ドイツの経済学界ではヘーゲルという哲学者の影響を受けた歴史学派というのがありまして、「人類始まってからのいろいろな段階、未開の時代、農業の時代、商業の時代、これらを経て段階的に経済は発展していくのだ」という「経済発展段階説」が盛んに唱えられていました。この歴史学派と同じ時代に「ルネサンス」というテーマをブルクハルトは提起しているのです。つまりこういった経緯で「ルネサンス」は解釈され、それが日本に伝わり、「一つの段階として日本も明治時代が近代化の始まりであり、また『ルネサンス』なのだ」という今日の理解が生まれたのだ、ということをひとつ知っていただきたいと思います。

 したがって、イタリアではいわばイタリア研究の一つとして「ルネサンス」研究があります。しかしなぜ、イタリアには「ルネサンス」そのものの研究が無いのか。サポールという経済史の先生が私に教えてくれました。「イタリアには君らの考える『ルネサンス』なんて無いのだ。イタリアは連続的に文化が発展してきたのであって、そんな段階を追って発展してきたという考え方は間違っている」、と。日本における「ルネサンス」。それは、封建社会から近代化した区切りだと思われていました。我々は、「本当の「ルネサンス」、イタリアには何か「ルネサンス」というものがある」と思ってしまう。そんなことはないのだということを知っておいてください。


 このように、私は、遊ぶだけでなく研究もいたしました。で、少しイタリア語ができるようになると、いろいろなことがわかりました。私の名前、「松浦保」。この「松浦保」を、「ターモ・マトゥーラ」と発音しますと、「私はあなたを愛している・あなた熟しているわね」という意味になるのですよ。うれしくなっちゃいます。私の名前は「T’amo matura」だと、みんなに言いました。かつて外務省に野見山さんという人がいました。お兄さんはのちにJETROの理事長になられました。その弟さんが大使館に勤めていました。野見山さんの名前は「ノンミ・アーマ」と発音するのですが、これは「Non mi ama」とイタリア人には聞こえまして、「あなたは私を愛していません」と言われたように感じるのです。


「私の名前は『あなたは私を愛していません(Non mi ama)』です。しかし、『私はあなた方を愛しています(Amo Italiani)』」。


これが彼のいつもの自己紹介でした。こういうふうに、言葉と言うのはいろいろ意味があるのですが、私の名前がまさか「T’amo」だとは思いませんでした。


 「school」という言葉があります。その起源はギリシア語の「skhole」ですが、この「khole」とは「耕す」という意味です。これに否定の「s」をつけると「skhole」という言葉になる。これは「耕す手を休める」、つまり「暇」という意味なのです。今は「business school(忙しくて暇)」だという変なものがたくさんできていますが、とにかく「school」というのは「暇」という意味なのであって、私がヨーロッパ圏で遊んできたのも、「school(暇)」を楽しんでいたという意味なのです。ラテン語では「schola」と言いますが、スコラ哲学なんて暇な人が考える哲学だ、というわけです。


 こういうふうに、私の留学生活は、ローマ大学で首相に教わったけれども、散々遊んできたのですね。今の若い人たちとはまったく違ったものがあります。それが50年も経ってきたら、古い話になってしまいました。


 こんな話ばかりしていると、「お前は何をやっていたのだ」と言われてしまいますから、研究の話もいたしましょう。


 私の研究業績の第一は、国家持ち株会社IRIの研究でありました。イタリアでも、一般の会社は市場競争の中で個人的な経営が行われるのですが、その資本の50%以上は国家が持つ、という国家持ち株会社という制度があるのです。つまり、イタリアの政府は、「国家は、個人間の競争を生かしながら経済政策を誘導していく」ためにこの国家持ち株会社を作りました。

 まず、私が行った頃は、「イタリア経済の奇跡」といって、だいたい10%くらい自然にその国民所得の規模が増加していた時代です。10%というと、大きいのですよ。10年間に所得が2倍になるのには、年7.4%くらいあれば十分なのです。それが10%もある。この梃子になったのは、国家持ち株会社でした。そういうことで、私は日本の人に対して、イタリア経済が国家持ち株会社によって支えられていたということを発表いたしました。

 この国家持ち株会社というものができた経緯についてお話します。ムッソリーニの時代の1929年10月24日 ―「暗黒の木曜日」と言われますが― 、アメリカの株がドドドドと安くなりました。もういろいろな形で30年代の世界的不況が押し寄せてきました。こういう不況の中で、ケインズの「お金を使いなさい、使わなければ貧乏になる」というような理論がでてきたのですが、イタリアではムッソリーニがこの国家持ち株会社というものを作りました。潰れた会社の株を買い集めてそれぞれに国家が資本を提供する。そして50%以上の株を握って、あとは企業に自由にやらせた。こういう制度ができたわけです。

 しかし50年の年月が経ち、もうこの夢は潰えました。この夢の支配下にあって、国家資本が70%以上だった四大銀行もみんなアメリカに買収されたり、潰れたりして変わってしまったのです。今はいわゆる民営化によってイタリアの経済は大きく変わりました。


 もう一つの研究は、「二重構造」というものが日本と同じようにイタリアにもあった、ということを解明することでした。「二重構造」とは、大企業と中小企業が一緒にある、ということです。その意味で、「二重」と呼ぶのです。しかし、私は研究の過程で、イタリアの「二重構造」と日本の「二重構造」は違う、ということがわかりました。

 日本の「二重構造」は、自動車産業に見られるように、親会社があってその下に子会社がたくさんできているという意味の、下請け産業が存在する「二重構造」。ところがイタリアではまったく違っていて、いわば、「産業別二重構造」とでも言うべきものなのです。つまり、資本がたくさんかかる工業部門などは大企業が担当します。オリベッティとかフィアットとか、こういったような大企業ですね。それに対して、伝統的な手工業的産業は小企業が携わります。織物とか、革製品といった分野ですね。イタリアの「二重構造」はこうした「産業別二重構造」である、と私は留学中の勉強で知って、日本で発表しました。これが私の最初の学術論文となりました。

 いま、みなさんは、だいたいの方が国家持ち株会社とか「二重構造」なんてことはよくわかっておられると思いますが、実は1978年に「第二のイタリア経済の奇跡」が起こる中で、工業部門にも小企業ができてしまったわけです。その前はストライキで大企業がいじめにいじめられて、そしてもう立ち行かなくなってしまった。それで小さな企業を工業部門の中に作るようになって、この「産業別二重構造」が変わってしまいました。したがって、今イタリアでは、新しい中小企業問題が生まれていて、何人もの若い研究者が勉強しております。


 こういうふうな研究も実はやったのですが、私の本当の研究領域は経済学史です。経済史とは違って、「学」があるのですよ。そのお話もしたいと思います。

当時、日本の経済学界では、マルクス経済学派と非マルクス経済学派がイデオロギー的に対立していた時代です。学園紛争もその影響を強く受けました。慶應大学でも、半分はマルクス経済学者、半分は非マルクス経済学者、こういう時代であった。この時代のイタリアで、非マルクス経済学、近代経済学というものが大きく発展したのです。この母国の経済学の発展に貢献したのは、イタリア人でした。私はイタリア経済学史を勉強する過程で気付き、今もその研究を続けています。

 近代経済学の王者と言われるフランスのレオン・ワルラス。スイスのローザンヌで教鞭をとった彼の後を継いだ人物が、私の研究テーマであるアルフレッド・パレートという人です。その弟子たちが、このローザンヌ学派、近代経済学の学派を打ち立てたわけです。このワルラスが連立方程式体系という数学の様式を用いて経済学を説きましたので、この伝統が今でも残って、数学が経済学の主流になってしまいました。私の時代にローマ大学の学長であったパピの前任は、アモローゾという経済学者でした。彼は経済学をすべて数式に書き直してしまった。つまり、「人間の経済行動は合理的な行動だとすれば、すべて数式で表現できるのだ」というのが、このイタリアの経済学の一つの特徴であったわけです。

 こんななふうに、私は、近代経済学の誕生、「限界革命(Marginal Revolution)」の勉強を主としてやってまいりました。いまだにパレートの勉強を続けております。


 さて、このようにイタリアの大学生活、留学であり遊学であった生活だったのですが、私はたまたまガスパリー二というボッコー二大学の教授 ―当時彼は経済学の部長でしたが― から講義の依頼を受けました。それで、「国際比較論」という講義をボッコー二大学ですることになりました。そしてイタリア語で講義案を作りまして、これは今ボッコー二大学の出版物として出ております。また、NHK教育テレビでの私の経済学講義がNHKブックス『日本経済の論理』として出版されました。したがって、これらの本を基礎にして、日本経済とイタリア経済を比較する『イタリア経済の論理』を上梓しました。


私の講座は履修者が60人くらいいたのです。その中には、今では日本経済の第一人者になったモルテーニもいました。彼は、一橋大学でヨーロッパ人としてはじめてドクターになった人です。

そのころ、講義をするときに困ったことがありました。ちょうど私がその講義をする時代に水俣病が社会問題になっていました。それまで私は、値段というもの、商品の値段というものは常にプラスで考えていたのですが、水俣病のような公害が発生してきたことは、「財によっては値段がマイナスになる、価値がマイナスになる」時代の到来を示していました。人間は、生み出したものがむしろマイナスになることがあります。「ゴミ」がそうでしょう。作ってしまったものが売れずにたまってしまって、マイナスになってしまう。それをどう処理するか。そのような、最新のテーマとして環境問題を扱った講義をする際に、「こうした概念をどう説明すればいいのか」という問題に直面したわけです。

 「水俣病」、「汚染」という概念をイタリア語でいったいなんと言えばよいのか。当時「汚染」は英語で「pollution」と言っておりました。今はみなさん、「pollution」と言えばおわかりになると思います。これをイタリア語風に言うと、「pollutione」になります。私が「日本で最大の社会問題はpollutioneなんだよ。本当に困っているのだよ」と言いましたら、講義が終わってから一人の学生が私のところにつかつかと来て、「先生、pollutioneという言葉を使わないでください。汚い言葉です。『男が夢の中で出してしまうこと』という意味なのです」と言うのです。私が「日本で一番大きな問題は『男が夢の中で出してしまうこと』なんだ」と力説するので、みんなびっくりしてしまったようでした。

 それではイタリア語では「汚染」はなんと言うのかと問うたところ、彼は「inquinamento ambientare(環境汚染)」と教えてくれました。そこで私は、それ以降の講義では「pollutione」という言葉を使うのをやめて、「inquinamento ambientare」という言葉を使うようにしたのですが、今では辞書には「pollutione」という言葉は一般的な用語として出ております。

英語では「pollution」でいいのですから、環境問題についての研究が進むにつれ言語もそれに従ったのでしょう。したがって、あの当時私が使った言葉は、今となってはちっともおかしくないのだ、ということを知っておいてください。まだ「汚染」という問題がイタリアではグローバルなものとは捉えられていなかった。ともかくそんな時代でした。


 もう一つ下品な話をします。昔、白鳥という少し国粋主義者の大使がおりまして、何でも日本語でやる、という変な流儀にこだわっていました。彼はムッソリーニの前で「ベニト・ムッソリーニ閣下」と言ったということです。カッカ(caca)とはトイレの大きいほう。ムッソリーニは驚いたと思います。ちょっとナショナリストの大使が来たと思ったら自分を「大きいほう」呼ばわりするのですから。下品な話でごめんなさい。つまり、英語が今ほど世界標準でもなく、日本人の言語についての理解もこの程度であった時代が昔あったのだということを知っておいてください。


 講義に次いで印象に残っているのは、試験です。とにかくイタリアは筆記試験が無いのです。みんな口頭試問なので、郷に入っては、ということで私もそうしました。

 当時、私が慶應で教えたフォデッラという学生がミラノの助教授になっておりまして、彼とトリノ大学のバーヴィ、そして私の3人で口頭試問に臨みました。左側にフォデッラ、右側にバーヴィ、という具合に助手2人が受験者を囲み、正面に私が構えて試問し、そのやり取りを他の多くの受験生が取り囲んで聞いているわけです。評価は、私の講義内容を正確になぞればABCのAをつける、という日本式とは異なります。ある学生などは大きな本をデンと持ってきまして、「私の講義のどこそこがおかしい」と言うのです。そして私とその学生で講義内容の正否について議論するわけです。試問が終わった後、私とフォデッラ、そしてバーヴィ以外の全員にいったん退出を命じて評定について話し合います。30点満点でつけ、見事満点を評された者は30L、Lodareという最優秀の称号を受ける。こういったような成績をつけるわけです。

 あるときなどは、試験後に階段教室の上から女の子がつかつかと降りてきて「実はさっきの受験生は私の許婚なんです。どうかいい点数をください」と言ってきました。フォデッラとバーヴィも「いい点つけてやればいいじゃないか」と言うので、まぁしょうがないと思って少し色をつけてあげました。

無事大学を卒業するとlaurea、月桂冠を授け、博士課程卒業の者にはdottoreという称号を与えます。これは一生の資格になるのですが、そのdottoreの試験というのもあります。私も出席しましたが、大学教授のガウンを着て口頭試問をして、これに堪えた者にdottoreを与えるわけです。

このように、試験は筆記試験ではなく、さらに先生が言ったとおりのことを書けば点数になるのではなくて、数学などを除けば万事において口頭試問が中心です。これが、フランス、イタリア、これらのヨーロッパ諸国共通の試験制度なのです。

このようにイタリアの大学で教えたのですが、この大学生活の中で、勉強する人間ともうまったく勉強しないがいるのは、日本と同じだと思いました。このイタリアの制度、これを日本に持って帰ってゼミナールの入ゼミ試験で行ないました。私のゼミナールに入りたいという人に、イタリア方式をまねて口頭試問をするわけです。すると、私の質問があまりに厳しかったので、おしっこをちびっちゃったという学生も現れました。口頭試問というものは筆記試験よりも実に厳しいものなのです。また、先生のほうも大変なのですよ。どんな質問が飛んでくるかわからない。そういう試験制度というのは、日本ではちょっと考えられない制度ですが、みなさんには知っておいて欲しいと思います。


 先日法王ヨハネ・パウロ2世が亡くなられました。カトリックの勢力は全世界に11億の人口を抱えており、イタリアでも非常に大きな勢力であります。私と一緒に勉強した浜尾さんが今はもう枢機卿になってしまった。私と一緒にいた時代は若造の神父さんだった彼が、今では白柳さんとならんで法王を選出する資格を持つ重要な役職に就いているわけです。そんな方と私が一緒に勉強したと言えば、私の年もわかっていただけるのではないでしょうか。

 このカトリックの勢力は、イタリアでは宗教ではなく、むしろ大きな社会勢力なのです。私の留学時代はヨハネ・パウロ2世ではなくて、その前のヨハネス23世でした。その前の法王たちがみんなローマの大地主であったのに対し、このヨハネス23世は中産階級の出身で、そして非常にカトリック宗派の改革に熱心な方でした。「カトリックを今日化(agiornament)する」。当時ヨハネス23世が用いてイタリアで流行した言葉です。彼はいろいろなところで歴史的和解、歴史的妥協もしました。共産党の党首のベルリンゲルとの話は有名ですし、ギリシア正教との和解は重要な事件でした。もう2000年近く前に袂を別った同族と手を取り合ったというわけです。つまり、「今日化」というものが当時のイタリアの大きな社会的流行になったわけです。しかし、さしもの彼も許さなかったことがありました。それは女性を神父として認めることで、これはそのほかの国々の神父たちが是非やってくれとかねてから主張していたことでしたが、ヨハネス23世は最後まで認めませんでした。「カトリックにはカトリックの伝統というものがある。この伝統というものは破ることができないのだ」というのがその理由でした。ヨハネス23世は「今日化」という言葉を使いながら、聖職叙任権の「今日化」は頑なに拒否していたわけです。


 こんな話を続けていきますと、私が自動車で北極圏まで行ったなどという話をしたくなってしまいますが、だんだん時間が経ってきてしまいましたので、もうまとめなければなりません。


 最後に言いたいことは、音楽で言えば私の今日の話の主旋律となるものはなんであるか、ということです。それは自分自身に問いかけた問題を皆さんに面白半分に言いましたが、そういう実は変わらないもの、変わるもの、変えるもの、こういうもの50年と共に生きた中に私は見出したということです。先ほどから言っておりますように、国家持ち株会社は無くなり、二重構造も変わりました。ヨハネス23世が「今日化」と言って変えようとした面もあります。ヨハネ・パウロ2世が「世界の平和」と言ってこれに尽力されました。彼は「ローマの平和(Pax Romana)」の再来を思い描いていたのかもしれません。ネルヴァに始まり200年間続いた五賢帝、五人の賢王があまねくローマを支配し、地中海諸国が平和を謳歌した西暦元年の黄昏。ヨハネ・パウロ2世が追い求めた世界は、2000年の永きを経てなお変わらぬ理想であり、彼を駆り立てていたのは、イタリア人が普遍的に持つローマへの郷愁であったのでしょう。こういうイタリアに脈々と受け継がれたその理想というものは、変わらぬものとして存在するということを知っておいてください。そういう理想を求めて、私たちは変えていかなければなりません。


 私は実は今パレートの『Trattato di sociologia generale』の翻訳をやっております。恥ずかしながら、私は当初『社会学概論』と訳しておりました。当時のイタリア人が勉強した経済学は、ワルラスが提唱した「一般均衡(general equilibrium)」という経済理論でした。したがって、これは『一般社会学大綱』と訳すべきなのです。この本についてはリヴィングストンという有名な米国の学者が立派な翻訳を出しているのですが、直接イタリア語から翻訳したいと思って、1000ページ以上あるものを今翻訳しております。

 その中で困ったことがあります。イタリア語では「experiment」と「experience」の区別が無いのです。つまり「実験」と「経験」という言葉に区別が無いのです。みんな「esperienza」。つまりパレートは、私たちの人生を一つの実験と考えて、「実験」と「経験」を同一視していたわけです。「その実験が各々の目指す理想と合うかどうかはわからないが、とにかく実験を続けていくのだ」というのが、パレートの著した内容です。イタリア人は、「実験」と「経験」というものを区別しない。社会という人間集団の一つの「実験」を「経験」として考える。あるいは、その集団の「経験」を「実験」として捉えることが出来る。私はパレートを訳してみて初めてそういうことがわかりました。そういう意味で、私たちは実験を続けながらこの社会を変えていくことができる。


 そこで皆さんにお話したいことは、イタリア人はこの「変える」ということをどう考えるかということです。私が勉強した、近代経済学の祖であるフランス人のレオン・ワルラス、そのお父さんはオーギュスト・ワルラスといってやはりこれも経済学者で当時のフランスの知識人の一人でした。彼が息子に言った言葉があります。


“Chi va piano, va sano; chi va sano, va lontano.”


 静かに行く者は健やかに、健やかに行く者は遠く遥かに行くことができる。こういう言葉を思い出します。

 変わるものがある、変わらないものがある、変えなければならないものがそれぞれあるけれども、イタリア人は常に「piano」。ゆっくりゆっくり我々はこの社会を変えていかなければならない。こういうふうな考え方を私はイタリア人から学び取ったということを最後にお話して、この辺で終わらせていただきます。


司会 先生、どうもありがとうございました。



The History of the Decline and Fall of the Roman Empire, 1776-88

Scrittori Classici Italiani di Economia Politica 50 vols, 1803-16

History of Economic Analysis, 1954

An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, 1776

Die Kultur der Renaissance in Italien, 1860

The Mind and Society (Trattato di Sociologia generale) part1-4 1935