ファシズムと文化

第306回 イタリア研究会 2005-10-20

ファシズムと文化

報告者: 田之倉 稔


第306回イタリア研究会(2005年10月20日)

演題:「ファシズムと文化」

講師:田之倉 稔


 司会  今日は田之倉稔先生に「ファシズムと文化」という題でお話をしていただきます。ファシズムというのがイタリアの一時の政体であったということは皆さんよくご存知だと思います。それが文化に与えた影響というのも非常に大きいのですが、逆にイタリアではタブーに近いような面もありまして、なかなか研究が進まないという面もあったようです。そういう意味で、日本の方があるいは研究がしやすいということが逆にあるのかもしれません。田之倉先生は以前からそのファシズムについて非常にさまざまな研究をしてこられまして、つい最近「ファシズムと文化」というブックレットを山川出版から出版されたのをご存知の方も多いのではないかと思います。今日は特にファシズムが文化にどういう影響を与えたかということをお話いただきたいと思いますが、まず田之倉先生の簡単なご紹介をしたいと思います。田之倉先生は、東京外国語大学イタリア科の御出身ですが、ここはイタリア研究会の重鎮を多数輩出している科で、この中にも同窓の方がおられると思います。先生の御専門はヨーロッパ文化史、フランス、イタリアを中心とするヨーロッパ文化史ということです。研究テーマとしては、ルネサンス、バロック研究、あるいはファシズム研究、非常に幅広い研究をされております。もともと東映、あるいは集英社という企業のヨーロッパの支局で働かれて、それから大学の教職に就かれたと、そういうご経歴を持っておられます。静岡県立大学国際関係学部の教授を一昨年までやっておられまして、現在は共立女子大学国際文化学部の非常勤講師、あるいは、札幌大学の非常勤講師を勤めておられます。著書は「イタリアのアバンギャルド」をはじめとして、有名な「ファシストを演じた人々」、「ダヌンツィオの楽園」など数々ありますが、イタリア研究会の皆さんにとりましては、写真を篠さんが担当した「イタリアの四季」という2分冊の本、非常に美しい本ですが、これが1番おなじみがあるのではないかと思います。

 それでは田之倉先生にこれから「ファシズムと文化」という題で、ムッソリーニの演説のビデオなどを交えながら、お話をいただきたいと思います。それではよろしくお願いします。


田之倉   今ご紹介に預かりました田之倉です。ただいまから「ファシズムと文化」についてお話しするのですが、これは実は「ファシズムと文化」というタイトルのブックレット、今橋都さんのご紹介にありましたものです。729円ですから、文庫本より安いのではないかと思っています、山川出版から頼まれて出版したものです。これは「ファシストを演じた人々」というものをユリイカという雑誌に連載していたものを、1冊にまとめた本です。「ファシストを演じた人々」は書評でもよく扱われまして、日経新聞では多木浩二さんが書評してくれました。その後お会いしたときに、やはりドイツのナチズムに関してはこういう本は書けないなと言ってました。やはりイタリアのファシズムというのは、ちょっとドイツのナチズムとは違って、言外にドイツはもっと厳しかったぞと、監視の目がもっと厳しかったぞというようなことを言ってました。

 それで、教科書をこういうふうな形で作ったのですが、これは「ファシストを演じる人々」を易しく書き直して、それから特殊な知識は必要ないようにしたものです。朝刊3紙、4紙位が扱ってくれたせいか、よく売れた。初版2500部、増刷になるかなと思っていたのですが、その後増刷してくれない。なぜか知らないのですけど。そのうちリストからも削除されている、やはりファシストに思われたかなと思ってひがみました。イタリアでこういうことをやるとファシストに思われるのではないかという危惧がある、知識人はだいたいが左翼ですから。ファシズムについてかかわると、どうしてもファシズムに親近感を持っているのではないかと、あるいはファシストではないかと思われるようです。版元もおそらくそういうことで増刷しなかったのではないか。「ファシズムと文化」を頼みに来た山川の人も実は読んでない。本屋へ行ったら売ってないのだというのですね。確かに増刷してないので売ってなかったわけです。

さて、「ファシストを演じた人々」をお読みになった方は、これは同じことを書いているのではないかと思われると思います。実はこの間ナポリについてある本を書いたのですね。「ナポリ」という本です。あるとき三鷹の方に研究会みたいなのがありまして、そこへ呼ばれて、ナポリについて話した。その前に日伊協会でやったときの話をまとめて話したら、同じことを言っていると文句が来ました。まさか二度聞きに来る人がいるとは思わなかったもので・・・。

ファシズムは初めてなので、今日の話は二度目にはならないのですが、「ファシストを演じた人々」を読んでいる方は、なんだ、この「ファシズムと文化」という本はこの中に書いてあることではないかという危惧はあります。ただ両書の違いは序文で断ったことです。「言うまでもないが本書はあくまでもムッソリーニの政治体制や、ファシズムというイデオロギーの批判を前提としている。ファシズムと文化の関係を調べるに当たって、まずこのことを確認しておきたい」、この文言を入れました。「つまりこういう作業は非常に危険であると。危険とはファシスト体制を生きる文学者や、思想家、芸術家に深く関り、イタリアのファシスト体制を肯定する立場に立つとみなされかねないという意味である」とこういう一言を入れておきました。ファシストの中のポジティブな部分を取り上げるということになると、やはりどうもいろいろな問題をおこすということなのですね。

それから、今日始めるにあたって、学校ですとだいたい僕より知らない人が多いので、安心してしゃべっているのですが、ここではどういうレベルでしゃべればいいのか、よくわからない。あるいは僕よりはるかにファシズムに詳しい人がいたりするかもしれない。あらかじめそういうことを聞いておくべきだったなと思っています。ご考慮を願いたいと思うのは、ここではある特定の分野をとりあげず、アプローチの方法について雑談的に話そうかとおもっていることです。

先ほど橋都さんのご紹介に、ファシズムが文化にどのような影響を与えたかというような表現がありましたが、私としては、むしろファシズム体制化の中で、要するにファシズムのイデオロギーというしばりを巧みに避けて、ファシズム体制から影響されないで活動をしてきた人がいるということに気がついたわけです。

私は、演劇評論、あるいは演劇史を中心に仕事をやっておりますが、演劇といってもいろいろありまして、非常に難解な演劇もあれば、バラエティショーのようなものもある。、イタリアではTeatro di varieta'なんて言っていますけども。なかなかこれは翻訳しにくい。日本にバラエティショーというようなスタイルのショーがないものですから。「寄席」と訳されている。フェリーニの映画にありましたね。「Luci del varieta'」。たしか「寄席の灯」と邦題がつけ売れていた。必ずしも寄席ではないのですね。むしろいろいろなものを集めたショーです。今テレビでやっているような歌謡ショーでもある。僕も1回か2回くらいしか見たことないのですが、現在イタリアではTeatro di varieta'というのはもうないでしょう。ミラノに2軒くらいあった。それからローマにリナシェンテがありましたね、あのリナシェンテの隣にTeatro di varieta'はあった。僕は入らなかったですけどね。それからもっとも有名なのは、ナポリのガレリアの中にミッレルーチェというのがありました。これも僕が行ったときには映画館になっていました。ですから、Teatro di varieta'というのは、最後にミラノに2軒くらい残っていたのと思うのですね。かつてグラムシがいたころには、トリノにあった。今はトリノは工業都市ですが、トリノに結構バラエティショーというのはあったらしい。グラムシはそういうものを非常に批判したわけですね。

ここに今日持ってきたのは、「光はトリノより」という本です。Trent’anni di storia della cultura a Torinoというタイトルですが、邦題は「光はトリノより-イタリア現代精神史」ノルベルト・ボッビオの書いたものです。この本によるとトリノには反ファシズムの雰囲気があったという。ボッビオはファシズム文化は存在したかというようなことを書いているのですね。ノルベルト・ボッビオというともちろん反ファシストであり、イタリアの現代史の中では反体制的な思想の持ち主だと思うのですが、果たしてイタリアにファシズム時代、イタリアのファシスト期にファシスト文化は存在したのかというようなことを書いているのですね。もちろん否定的です。彼が言うには、近年ファシズムに固有の文化が存在したかどうかということが論じられている。しかし、この議論は具体的な事例に文化の概念が適用され、理解される際の仕方がまちまちであるために、台無しにされていると。いろいろ書いているのですが、結論的にいうと、ファシスト文化というのはないということなのですね。本来の意味でのファシスト文化は決して存在したことがないと、こういうふうにノルベルト・ボッビオは言う。こういう思想界の指導的な地位にある人がいうと、これはファシズムの中に文化的なものを求めるというのはどうも方法として間違っているのではないかなと思われるかもしれないのですが、変な言い方をすると、やはりファシズムに対する硬直した考え方というのはどうしてもあるのですね。さきほどタブーという言い方をしておりましたけども、ファシズムの中に革命的、レボリューショナリーなものを認めるということはとんでもないというのが一般のイタリアの思想界の趨勢であると思うのですね。

ですから、もう20~30年位前になりますかね。ヴェネツィアで初めての未来派展というのがあった。これは初めての大掛かりな未来派展でしたけれど、それ全部企画したりしたのは確かフィンランド人でした。

「未来派展」はフランスでもあった。イタリアほど大掛かりではなかったのですけど。ヴェネツィアの「未来派展」では、未来派式ネクタイとか、未来派式製本の本とか、未来派グッズがたくさん売っていた。今考えれば買っておいたほうがよかったなと思っているのですけどね。チラシとかポスターはけっこう買いました。

たしか「エスプレッソ」という週刊誌に、「ムッソリーニが革命家だって?」という記事が出たのを覚えています。未来派をやるなんていうのはタブーだったということがジャーナリズムから伝わってきました。マリネッティの戯曲集などは60年代の後半くらいは簡単に安く手に入ったのですが、今はものすごい高い。古書目録などを見ると、未来派関係のものはすべて高い。特にオリジナルは。ちょっと普通の人の手に入らなくなってしまった。僕が未来派研究なるものを始めたときには、簡単に入ったものです。

未来派はファシズムに巻き込まれるので、未来派をやるのはどうしても外国人が多かった。これタブーがなかったですからね。未来派はなかなかよかったなんて言っても、イタリア人でなかったら、しょうがないなあいつは、イタリアのことを何も知らないというふうに言われるだけです。

ファシズムというのもいろいろあります。ファシズミというふうに書いて、ファシズモ   エ ファシズミとする場合もある。有名なマリネッティのマニフェストは1909年に発表されている。これもフランスのフィガロの朝刊に発表される。フランス語で発表した方がはるかに世界の人が読む比率が多いのではないかということで「フィガロ」を選んだと思うのですが、これは2年後に森鴎外によって日本に紹介される。日本人としては東郷青児が未来派とつきあいがあった。

それから、神原泰という人がいたのですが、日本に未来派を組織した。オムカという人が日本の未来派をかいた。

僕ははじめて「イタリアのアバンギャルド」という本を書いたのは、ワールドカップのあった年です。イタリアが優勝した年でもありました。もう20年くらい前になりますか。この本でマルコポーロ賞をもらったその時の審査員は、丸山マサオ、それから、都留重人、吉田秀和、それからもう1人ちょっと思い出せませんが、丸山マサオと僕も話をしましたところ、この本の扱った問題は非常に大きいのだと言ってました。例えばソ連の「暴力論」。マルクスの方にも影響を与え、片方でファシズムの方にも影響を与えている。非常に両義的であると。非常にどっちにもとれるというようなことがあるとおっしゃってましたけどね。

それで、今日話そうと思ったのは、演劇とか、先ほど言ったポピュラーエンターテイメントについてですね。バラエティショーとか、あるいは歌、歌謡曲というようなことからファシズムを見ていこうかというふうに考えたわけですね。それでここに持ってきたのですが、残念ながらLPだから、聞けません。こういうドキュメンタリーというのはどうしてもCDにならない。だから表紙だけ見ていただいて、例えばこれは「リリー・マルレーン」、イタリアでも盛んに歌われた。ヴェンテンニォというのはちなみに1922年から1944年、ファシスト体制、ムッソリーニが敗れるまで20年間。この20年間、潜水艦の歌とか、日本の軍歌のような歌が歌われた。こういう歌イタリアでももう知らなくなってきているのでしょうね。

それから、これは「レマルチェ」というのだから「行進」でしょうね。この中には有名なジョヴィネッツァがある、当時の録音です。オリジナルです。ジョヴィネッツァは特にファシズムの歌という感じはしないのですが、歌詞がどこかに書いてあったと思いますが、青春よ、青春よ、とかいう、まるで軍国主義的な感じがしない。なぜこのジョヴィネッツァがイタリアのファシストの時代の国歌になったか。ちょっと「ファシストを演じた人々」の中で調べてみましたけどね。これはもともとはやはりファシスト関係なくて、山登りの好きな人の歌だったらしいですね。

次に、「マルチャ・デッレ・レジョーニ」、レジョーニというのはもともとは、正規の軍隊には属していない部隊のことでしょう。

それから、ムッソリーニの演説を録音したレコードが1から10まであります。これは有名なファッチェッタ・ネーラ。これはエチオピアを植民地化したときに、向こうから色の黒い人を連れてきたのですね。イタリアでは非常にかわいがられたというのですが、かわいがったのか、馬鹿にしたのだか、分からない。この頃から人種差別がイタリアで生まれてきたのではないかというようなことが、イタリア史に書いてあります。山川出版から出ている重岡さんと森田さん、「イタリア現代史」ですね、その中にイタリアには人種差別がなかった。エチオピアを占領してから、エチオピア人が入ってきたので人種差別がでてきたということが書かれています。事実かどうかわかりませんけどね。1936年、ヴェネツィア広場に集まって、ムッソリーニが大演説をした、国民は一斉に興奮する。そういう場面がこのビデオにありますが、とにかく、「ファッチェッタ・ネーラ」というみんなが歌った歌から当時の現実、ファシズムの景色をとらえることができる。

その他、「ヴァード・イン・アビシニア」(「アビシニアに行こう」)とか、「アフリカ・ネッラ」、それから「ファッチェッタ・ビアンカ」というのもあります。「トポリーノインアビシニア」(「アビシニアのトポリーノ」)、「レッジェンダエロイカ」(「英雄的な伝説」)、そういった歌から庶民の姿を見ることができる。それからもう1つ、ラバリオーネという歌手のレコードがあります。このラバリオーネという人は、日本で言えば東海林太郎にあたるかもしれない。当時のスターです。

こういうのがイタリアでもちろん庶民は、どんな過酷なファシスト体制であろうと、こういうバラエティショー見たり、当時テレビはないですからラジオでこういうのを聞いたり、レコードを買ったり、こういうラバリオーネという大変に有名な歌手が出て、これCDにもなっているのですね。それから、4人の女性歌手たちがでたり、いろいろなものが当時やはり当然出たわけです。そういうものから調べると、意外に庶民の生活が、ファシスト下の中で、苦しいとは言いながら、実はファッションなんかもちゃんと機能していたというのですね。ファッションショーなんかもね。そういう奇妙なこともあるのですが。

それから、アームストロングが、ムッソリーニの時代にイタリア公演をやったという話も興味深い。

そういうわけで、庶民の生活というものは、実はファシスト体制下にあっても、結構娯楽を楽しんでいたのではないかと映像ドキュメンタリーを見ると想像できる。

それから、ファシスト時代に非常に有名になった映画があるのですが、「ホワイトテレフォン」と言います。ジャンルの総称です。そういうふうにイタリアで呼ばれているのですが、これも映画見るチャンスがない。これはメロドラマなのですね。メロドラマだからってばかにできない、今は韓流メロドラマをみんな見ている。これも日韓の歴史から見れば何かを意味する重要な時代現象ですね。

それで、「テレーフォノ・ビアンコ」という非常に甘いメロドラマがイタリアではファシスト期に流行った。当時白い電話というと、イタリア人の家庭ではちょっと裕福で、ブルジョア的な家庭のシンボルだった。白い電話を使って恋愛をしたり、恋をささやいたり、いろいろな打ち合わせをした。そういう生活をまとめて「ホワイトテレフォン」と言っている、そういうジャンルがあったのです。そういうものを見られないので、僕らもそれについて書いた本だけで判断している。

そういうわけで、メロドラマ、ポピュラーミュージック、カンツォーネ、あるいはバラエティショー、というものに熱狂した民衆というのは当然いたわけですね。ファシズムとそういう民衆の関係に目を向けるべきです。ダンスホールなんかは禁止されたようですね、後年。先ほども言いましたけど、大衆は時代を問わず変わらないのではないかと思ったのです。

戦時中に本でも、山口淑子が日劇に出たときに、観客が建物の周囲を三重にとりまいたそうです。それから、川田晴久がやはり日劇に出たときに、山口淑子と同じくらい人が出たと言われてますね。

軍国主義体制のときに、暴動でも起こるのではないかと警察が心配して、丸の内署が取り締まりにきたという逸話が残っております。

川田晴久がでたついでに言いますと、川田晴久の「地球の上に朝が来る」というこの間やはりお芝居がありました。これはやはり川田晴久という芸人を通して当時の日本の軍部を見ようという意図だった。川田晴久の役を俳優がやると、やはりうまくない。川田晴久の「地球の上に朝が来る」というと我々の世代はすぐわかるのですが、やはり川田晴久という人はものすごい人気でした。軍部から満州の方に慰問に来てくれと言われて、慰問に行くのですね。が、兵隊さんの前で歌うときに声が出なくなった。これは川田晴久の軍部に対する批判だというようなことを言われている。芝居はそこから当時のことを振り返ってみようという試みなのですが、なかなか難しい。芸人を通して、ほぼ当時の戦争中の日本の体制を見ていくというのは、確かに僕がこのファシズムを当時の芸人から見ていこうというふうなのと多少方法論的に似ているところがあるわけです。川田晴久が実際に反軍国主義者だったかどうかこれわかりませんが、たまたま声が出なかったのかもしれません。意識的に声を出さなかったとは思われない。

日本の当時の軍部の依頼で、小林秀雄から、そうそうたる文学者もみんな兵隊を慰問に行っている。それに対する戦争責任というのは日本では行われなかった。あれはしょうがなかったのだとされた。軍部から頼まれて、川田晴久が兵隊さんを慰めに行った、これは戦争協力ではなかたと言われた。フランスなんかでは、映画でありました。「占領下で唄えば」という映画がありました。ドイツ軍の占領下、パリは4年間ドイツ軍に占領されていました。そのときにドイツ兵の前で歌った歌手がいた。そういう連中に対して、フランス人は戦後戦争責任を追及したわけです。有名なシャネルという人がやはり戦後戦争責任を追及されたわけですね。で、フランスから亡命した。文学者の中にも何人かいます。戦争中の体制的な言動を、文学者は批判された。日本の場合は文学者も、時々やられる例はありますけども、逮捕されたということはないわけですね。

ところがフランスの場合には、国民が許さなかった。有名シャンソン歌手も批判された人がいた。シャルル・トレネなんていう人なんかもそうだった。その後お咎めがなかったようです。ポピュラーソングというのですかね、シャンソンの場合にはある程度大目に見られたようです。

イタリアでは結局戦争責任の問題があいまいにされた。戦争裁判が起こらなかった。イタリアは自分たちの手でファシズム体制を崩壊させた。日本とドイツとはちょっと違うところがあるのは、やはりイタリア人はファシズム体制を自らの手で崩壊させたわけです。

ところで、学生グループの中にファシスト大学グループGUF、Gurppo Universita Fascistaがあった。「光はトリノより」の中にも出てきますが、こう書いてあります。1920年に生まれた学生グループが、翌年から大学で組織され、1922年に最初の全国大会をボローニャで開催した。要するにファシズムのイデオロギーを自分たちで実際理解しようと。そして大学生が集まって、ファシスト大学生、当時は皆大学生はファシストですからね。アンチファシストは許されなかったわけですが、それがGUFですね。ファシズム・イデオロギーを政治、文化、スポーツの活動を通して各大学で推進し、反ファシスト派教授の追放などを目指した。こういう組織だったのです、GUFというのは。だから、大学生は、その組織に入れられた。その中にパゾリーニなんかも入っていたし、ウンベルト・エーコという人の「永遠のファシズム」という本があるのですが、エーコによると、「」私も実は入っていた』と、そのGUFに。入っていたけどどうもそんなファシズムの話はあまりなかったようです。私もGUFに入っていたけども、結構取締りがそれほど厳しくなかったと書いています。ここにあります。「後年パルチザンや共産党の知識人となる人々の多くは、ファシスト大学生団、GUFですね、と呼ばれた新しいファシスト文化の母体となるべく、全国に組織された連合集団の薫陶を受けています。その後集団参加のクラブが、現実にはまったくイデオロギー的統制をこうむることなく、新しい思想がさまざまに交流する場として、いわば知の大釜となったのです。こうした自体が生じたのは何もファシスト党の幹部たちが肝要だったからではなく、統制に必要な知的手段の持ち合わせが皆無に近かったからにほかなりません」要するに、統制の締め付けがそれほど強くなかったということを言っているわけです。

エーコによると、ファシズム、これナチ、ナチズムとちょっと違う。ファシズムはファージーだったということを言ってますね。ファージーというのはちょっと、洗濯機か何かでよく使われてはやった言葉ですね。何か規則的ではなくてちょっとはずれたようなことができる、そういうのをファージーというのでしょうけれど、ファシズムは確かに独裁体制でしたが、その穏健さから言っても、またイデオロギーの思想的脆弱さから言っても、完全に全体主義的ではありませんでした。一般に考えられているとは反対に、イタリアのファシズムは固有の哲学を持っていませんでした。トレッカーニ百科事典のファシズムの項目は、ジョバンニ・ジェンティーレによって執筆された、もしくは彼から基本的に着想を得たものですが、そこに反映され、絶対的倫理国家という後期ヘーゲル的概念は、ムッソリーニはついに完璧に実現することのなかったものです。ムッソリーニはいかなる決断もありませんでしたと、こういうことを言っているわけですね。だから、ウンベルト・エーコは、やはりファシズムについて書くときに非常に用心深くて、絶対寛容ではなかったことにならないということは必ず言っております。

僕はこの「ファシズムと文化」の最初に書いたのですが、ファシストというと、もう人の悪口になると。ファシスト呼ばわりすると。相手に対する罵倒になる。これはどこの国でも、ファシストと呼ぶと、相手をやっつけるために使われるわけです。後年スターリンが出たあとは、スターリニストがファシストと同格になった。みんな相手をやっつけるのに使った。

そういう意味で、ファシズムというのはイタリアだけではなくなってきている。僕はマフィアの例をとりあげて書いてみましたけど、マフィアがそれなのですね。今チャイニーズマフィアなんていうでしょう。それからロシアのマフィア。これ当たり前に使ってますね。本当はイタリアのマフィアというものが本当なのでしょうけども。ファシストはだからイタリアのファシズムが本当なのですが、実はそういうふうに非常に拡大概念というのですかね、何か人の悪口を言うときにあいつはファシストだと言えばいいのではないかと、こういうふうに言われているのですね。

エーコはそういう原ファシズム、永遠のファシズムというふうにイタリア以外に、このファシズムというのはこういうものをファシズムというのだというので列挙しております。例えば、箇条書きに列記しています。原ファシズムの第一の特徴は伝統崇拝です。伝統主義者というのはファシストであると。全部がそうではないでしょうが、異論がたくさんあると思いますけどね。それから、二番目にモダニズムの拒絶を意味のうちに含んでいます。そういうようなことも言っております。これもちょっといろいろ異論があるところなのですが、エーコはいろいろファシズム的な問題、つまり我々の日本におけるファシズム、小泉総理がファシストだというふうな言い方まであります。これはだから分析していくと、このエーコのいう永遠のファシズム、ようするに永遠のファシズムというのは原ファシズムであると。どこにでもあるファシズムであると。これは会社の中にもあるし、企業の体質の中で非常に勢力の強い上司がいて、そういうファシズム。という意味で、ファシズムというものはやっていくときりがないというところがありますね。

現にチリのピノチェトなんていうのは、あきらかに暴力で拉致した。ミッシングがあった。つまり行方不明になったという人がたくさんいた。ピノチェトいうのはロンドンで捕まって裁判にかけられそうになった。いろいろなことがありましたが、やっと祖国へ戻れた。あの人をチリの人はファシストと言う人と言わない人とあるでしょうね。世界はピノチェトはファシストと呼んでいる。今度プーチンが、ピノチェト的なものを実現しようとしていると言われている。プーチンはやはりファシストだというようなことになると、ファシストというものの定義は変わってきた。ちょっと例をあげて、フランスではヴァレリー・ジスカールデスタンという大統領、この人がファシストだと言われる。それからソ連では、ド・ゴールがファシストとみなしている。どんどんどんどんファシストの概念は広がっていくので、僕はこの本ではイタリアのファシズムというところに限定をしようとしたわけです。

この「ファシストを演じた人々」の中で取り上げた人に、ピランデッロ、マリネッティから始まっていろいろな人がいるわけですね。各フィールド、文化的なフィールドを点検していくと、結構ファシストとみなされた人がいる。1番奇異に思うのは、ロベルト・ロッセリーニでしょうね。彼はいいところの息子で、非常に映画が好きで、8ミリの撮影機なんかも持っていたのですが、結局ブルジョアの家庭の生まれだから、軍部の連中が集まったというのですね。で、彼自身が映画を、当時8ミリなんていったら、とても今の8ミリと違い高価な機材でした。8ミリで撮って見せた。それでコネがいろいろできた。海軍省から注文があって、いわゆるファシズム3部作というものを作っている。

「白い船」これもなかなか見られない。僕は東京の読売会館で見た。ネオリアリズムの研究というタイトルがついていた。これは病院船の話です。次に「パイロットの帰還」、それから三作目ウォーモデッラクローチェを作っているのです。これ軍部、ファシストのための映画なのです。それが、戦後になると今度は、「無防備都市」というアンチファシズムの映画が出てくる。我々は「無防備都市」を見ると、イタリア人のファシズムを打倒したそういう1つの力のようなものを感じたのですが、これも僕らの世代が感じるものらしい。若い世代は「無防備都市」はメロドラマとしてよくできているなんて言っています。やはり若い世代になると、「無防備都市」もメロドラマになるのだなと思った。たしかに構造としてはメロドラマ的かもしれませんけどね。そういうふうに見る人もいるのでしょうけど、我々はそうではなくて、もっとイデオロギー的な意味を持った「無防備都市」を見ていた。これがネオリアリズムのはしりだと言われていたのだけど、実はネオリアリズムの源流というのは、どうもファシズムの中にあったのではないか。これはファシズムの影響でネオリアリズムができたという意味ではなくて、要するにひっそりと、監視の目をのがれるて映像研究をやった。ソ連映画の研究なんかもずいぶんやったようだ。エイゼンシュタインの研究、プドフキンの研究というのをやっていた。チェントロステリベンターレ(実験センター)でやっていた。これがチネチッタの内部にあった。その所長はシルビオ・ムッソリーニだった。彼はいろいろ雑誌を出したり、結構親父から考えられないような、先端的なことをやっていたのですね。

その映画研究所の中にいろいろな研究目的でソ連の映画がどんどん入ってきた。プドフキン、エイゼンシュタインなどが。モンタージュ理論なんかもよく研究されていた、戦後のいわゆるアンチファシズムに対する芽生えがそこにあったのではないか。これはもっと調べていくといろいろな問題が出てくるのではないかと思うのです。その中に、戦後、映画の理論家でマルクシストであったウンベルト・バルバロという人がいるのですが、この人が書いた本が2冊あるのですが、現在絶版なのだそうです。

ロッセリーニの例というのは非常におもしろいのですね。ロッセリーニはイングリット・バーグマンと結婚するときに、アメリカの議会で問題になった。彼はファシストの党員だったのだと。そんなことは余計なことだと思うのですが、つまりどうしてイングリット・バーグマンの結婚にアメリカの代議士が反対するのかよくわからないのですが、結婚に反対したのではなくて、結婚を機会にそういうことを一般の人に知らせようという意図があったのかもしれません。当時、アメリカにいたロッセリーニとバーグマンと恋愛状態にあったらしい。バーグマンもロッセリーニに熱愛していたと言われてます。そのときにアメリカの代議士が、ロッセリーニがファシスト党党員であったというようなことを言った。ロッセリーニはもちろん私は党員であったことはないと言っていますが、党の協力の下に映画を作っていることは事実なのですね。でないとあのファシスト下で映画など絶対撮れませんからね。

こういうふうなロッセリーニの例とか、そのほかいろいろな例を出してファシズム下に育った文化を調べてみたわkです。ピランデッロもそうでした。ピランデッロという人はノーベル賞をもらった、1929年ですか。ファシズムというのはノーベル賞の選考委員会で大して危険だと思わなかったらしい。29年というとムッソリーニが政権とって7年たってます。そのときに当然スウェーデンでも新聞記者たちが、あなたはファシスト党ですかと、彼は入党してますからね。1924年、ムッソリーニに電報を送って、この私を一兵卒として入党させてくださいと言っているのですね。ですから当然そういう質問が来た。あなたはファシストですか、ファシスト党党員ですかと。もちろんですと彼は答えている。ノーベル賞の賞金を取りに行った席で堂々と自分は200%ファシスト党党員であるとまで言っている。

日本ではピランデッロはそんなに上演されてませんが、イタリアではしょっちゅう上演されてます。しかし彼の演劇の中にはファシズムというのは全然表れてないというようなことを日本では言われてます。しかし、実際書いたものなんか読むと、かなり民主主義は否定している。私は民主主義は嫌いだというようなことを言っている、しかし、演劇作品の中にはそういうのは現れていない、いや現れているといった議論はあります。

彼は自分では忠実なファシスト党員だとは言いながら、どうも警察は言行不一致と見ていた。1番問題になったのは、ブラジルに行ったときにです。イタリアの移民が、あそこはずいぶんいます。で、イタリア人はアルゼンチンにもたくさんいますね。ブラジルへ行ってビランデッロはファシストもアンチファシストも関係ないと、イタリア人であるということが重要なのだというようなことを言った。それが非常に問題になったのですね。ムッソリーニは激怒したかどうか知らないけども、その周囲の警察関係、公安関係の人が注意している。ムッソリーニはそういう思想調査のようなものをさせた。ファシストとはいいながら、非ファシスト活動をした人のファイルが用意されていたようです。この辺でちょっとビデオでもやりましょうか。

これは「歴史を変えた男たち」という世紀のドキュメンタリーシリーズ、あるいはご覧になったこともあるかもしれませんが、イギリスが作ったものです。

(ビデオ)

このイギリス人の解説なのですが、必ずしも正確ではないと思う。大きな問題を含んでいると思うのですが、非合理主義か合理種主義か。多くの人がやはり国民をあれだけ奮い立たせたのですから非合理的であるというのですが、「ファシズム文化」の参考文献に、イタリア語読めない人多いのではないかと思って、英語のものをわざわざ多く挙げました。アメリカ辺りではファシスト・モダニティという言葉が使われている。ファシズムは近代化を図ったのだと。特に建築ですね。建築はやはり非合理的なものではない。ファシスト時代の建築家は、非常に合理的な建築を作った。ファシズムによって合理主義的建築が生まれたとさえ言える。この中にもあげておきましたが、「モダニズム・イン・イタリアン・アーキテクチャ」という本には、イタリアの建築というのはファシズムの時代になって合理主義に入った、と書かれている。ファシスト・モダニズム、モダニティーズがファシズムと結びつけられている。2000年に入ってから出ている本ですが、「ファシストモダニティーズ」をタイトルにしたものもある。この辺は今ファシズムの中で大きな問題となっていることかもしれません。モダニズムが非合理主義的なものか、ファシズムにはその両面があったのではないかと思います。

ムッソリーニが裸になって、農作業をやったり、つるはしを振るったりしている写真がある。ここからファシズムは農村的なものと思われているが、都会的なもの、ムッソリーニはやはり都会性を持ち込んだのではないかとも言われている。ところが都会に人口が集中してしまうので、もう少し農村に目を向けろというような戦略をムッソリーニは考えた。村の娘、「レジョネッラ・カンパニオーラ」というカンツォーネがあります。日本でも流行った。リアルタイムで聞いている方はもう少ないのではないかと思うのですが、僕はまだ歌えます。今から40年前くらいにナポリクインテットというのが来たことがあります。知っているというので、レパートリーに加えました。原曲はアブルッツォの村の娘を歌ったものです。この間アブルッツォへ行きました。ダヌンツィオについて本を書いたら、賞をくれるというので行ったわけです。ダヌンツィオというのは生まれはアブルッツォのペスカーラというところなのです。非常に不便なところです。ペスカーラというのは。飛行機は行っていることは行っているのですが、10人乗り位の飛行機に乗らなくてはならない。ですからバスにした。ローマのティブルティーナ駅からバスで2時間半くらいかかってペスカーラにつくのですが、その途中アブルッツォの山々が見える。その辺の景色と、その辺の農村の村の娘を歌ったのでしょう。それが日本ではラジオ歌謡として歌われた。もう少し農村に目を向けなさい、ファシズムを農村化しよう、農村をファシズム化しようというので、国家はこういう歌を作ってはやらせたわけです。それが、当時日本とイタリアは友好関係にあったもので、日本に入ったのですね。藤浦洸が作詞しています。

こういう歌が流行った背景には、農村の問題があったことになる。それから、アブルッツォのような非常に交通の便が悪いところ、今でも汽車が通っているけど、バスの方が早い。今でも僻地ですが、そのアブルッツォの今から60年前、もっと前ですか、その頃はもっと僻地だった。そういうところにもファシズムを浸透させようとして、国家は歌謡曲、カンツォーネを使った。

ビデオのナレーションでは、ムッソリーニは唯我独尊で、ダヌンツィオも追い払ったというようなことを言っていますけども、それはちょっと間違っているのではないかと思いますね。ダヌンツィオには結構ムッソリーニに好感を抱いていた。ダヌンツィオは、ダンヌンツィオというのが正確ですが、ダンヌンツィオはムッソリーニが裏切ったと思った。ムッソリーニも実際にダンヌンツィオを裏切ったという思いにさいなまれる。ドゥーチェになってからムッソリーニは会いに行く。和解を求めたかったのでしょう。わざわざガルダ湖のほとりのダンヌンツィオの屋敷まで行くのですが、ガルダ湖のほとりにヴィットリアーレという大変に立派な邸宅を建てて、そこにダンヌンツィオは1922~3年くらいから隠遁する。ほとんど人と会わなかった。ダンヌンツィオに会うのは非常に難しかった。らくだが針の穴を通るより難しいとさえ言われた。ムッソリーニを平気で待たせた。ですから、ダンヌンツィオが死んだときにはファシスト国家は豪華な葬儀をやる。これはムッソリーニの1つの恩返しだったのではないかと思われます。ダンヌンツィオに関しては、短い時間では言えないほど多くの問題があります。

ファシストは、ダンヌンツィオを呼び戻したというふうに、日本語で書かれたイタリア史にはありますが、ダンヌンツィオは呼び戻されたのではない。ダンヌンツィオはやはりナショナリズムにとらわれたのです。イタリアを何とかして世界の強い国々と対抗できるような国にしなければいけない。それには、第一次世界大戦に参戦しなければいけない。当時1914年に第一次世界大戦が起こりました。そのときにイタリアは中立を守って参戦しない。翌年、いろいろな理由がありまして、イタリアはドイツに宣戦布告します。日本は早い時期に、宣戦布告する、ドイツに。中国の問題があったからです。山東省からチンタオとかあの辺を全部日本は早く取りたかったので、すぐドイツに宣戦布告する。イタリアは1年たってまだ参戦、ドイツに宣戦布告しないというので、いろいろイギリスやフランスからも言われた。それから国内でも参戦しないということに反対があった。当時イタリアはダルマチアとか、いろいろな、今でももめてますね。ダルマチア、あの辺はもう全部逆にユーゴスラビアが皆もっていってしまったのですかね。フランスとはもめてないですね。かつてはサボイとか、ニースとかあったのですが、今もボルツァーノをめぐって、オーストリアともめている、いつでしたかヴェルディのオペラが一部字幕を消されたことが問題になった。つまりヴェルディといったらリソルジメント。イタリアが1つになろうということに非常に情熱をあげた人ですが、逆に今イタリアはやはり1つでなくてもいいんじゃないかというような動きや考えが出てきた。北部同盟なんかもそうです。北部同盟というのは北だけでがんばろうというものです。しかし、トリノ、グラムシがいた頃のトリノというのは南部差別があったらしい。ところが今はトリノ人に聞いたら、南部に対する差別はないのかといったら、今トリノ人が差別されていると答えが返ってきた。トリノにはトリノ生まれでトリノ弁をしゃべる人は2万人もいないというのですね。後全部南から来た人。だから、この町でしゃべられる言葉は全部南の方言だと言ってました。差別されているのは我々トリノ人だなんて言ってました。冗談でしょうけどね。

それで、ダンヌンツィオが出てきて、要するに国民の熱狂的な支持を受ける。彼はガリバルディの記念のために呼ばれる、ジェノバに。ジェノバの何とかというところからガリバルディと千人隊は船出して、シチリアに行く。その結果フランス軍を追い払ってフランス軍に勝った。ガリバルディはイタリアのナショナリズムを象徴するような人物だった。自分はガリバルディみたいになろうとして、ダンヌンツィオはジェノバへ行って演説をして、大変に受けた。

やがてナショナリズムはファシズムに転化していゆく。1915年辺りからファシズムが生まれてきたと言われている。だから、ファシズムとナショナリズムというのは重なる部分がある。今ナショナリズムは問題になっています。プチナショナリズムとか、そういうことまで言われています。そういうふうにして、1915年くらいからファシズムの芽が生まれてきた。あるいは、1917年にムッソリーニが大旋回をした。要するに社会主義者から、暴力主義者になっていく。有名なレンツォ・デ・フェリーチェという人は、3巻の「ムッソリーニ」を書いてますけど、あの本はやはり相当タブーやぶりだったようです。レンツォ・デ・フェリーチェという人は、イタリア人のインタビューは受けたくないと言っていた。ファシズムに関しては外国人と話をしたいというようなことを言っていた。彼は運動機能をもちこたえているファシズムと、体制化したファシズムというのを2つ分けている。

それからもう1つ重要なのは、「ムッソリーニ劇場」が大衆を惹きつけた。劇場としてのファシズム、演劇としてのファシズムが大衆を魅了した。これはムッソリーニのみならず、カストロにもあった。カストロなんか6時間ぐらい平気でしゃべるといいます。バルコニーにおける演説というのは、ムッソリーニが最初だったかもしれない。これは独裁者がまねする。要するに、儀礼と政治という問題もここにある。政治が儀礼化するときに、やはり国民に支持を受ける。だから、独裁者と身振り、独裁者と大衆、それにレトリックは全体主義の重要な要素だった。身体性は重要だった。毛沢東も長江を泳いでみせましたからね。同じようにムッソリーニも裸になって、たくましいところを見せた。そういった問題が、独裁者の資格に関係があった。

何かまとまらなかったのですが、時間が来たようなので、そろそろ終わりにします。僕の立場は要するにポピュラーなもの、例えば芸能や大衆歌謡からファシズムを見ていくことにある。そうすると、硬直したファシズム論から逃れられるのではないか。ファシズム体制下の中で、巧みに、僕は擬態なんて言葉を使いましたが、巧みに自分の活動を続けてきた人たちに関心を抱いたということなのですね。

全体主義体制下を生きた大衆を取り上げると、見えない部分が見えてくる。例えば、「民族の祭典」、「美の祭典」、木下恵介の「陸軍」、吉田満の「戦艦大和ノ最期」、「サイパン守備隊全員玉砕」、山田耕作太平洋戦争末期作品を浮かべる。江青、毛沢東の夫人だった江青が大好きだった音楽に、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲がある。しょっちゅう口ずさんでいたという。マスカーニは大変ムッソリーニにかわいがられたことが有名です。なにもこれはファシストの人が作った歌だというふうに思って聞いている人は誰もいないでしょう。ファシズムと大衆、または大衆文化ということを中心に話をしようと思ったのですが、総括的になってしまいました。

というようなことで、この辺で終わりましょう。



司会  どうもありがとうございました。ご質問がある方、どうぞご自由にご質問していただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

それでは、僕から最初に1つお伺いしたいのですが、イタリアの未来派の運動というのは結構面白い面があると思うのですが、イタリアではやはりこれはファシズムとかなり関係した運動というふうに見られているのでしょうか。長いこと未来派の展覧会というのをやられなかったということですけれども、やはりそういう評価がかなり強いというふうに考えていいのでしょうか。


田之倉  今は未来派は面白い実験をたくさんやったといわれている。他の外国の、例えばフランスの前衛、あるいはスペインの前衛、ドイツの前衛よりも早くイタリアは実験的な作品に手をつけた、評価すべきところは評価しているのですが、未来派はマリネッティは1人ではない。未来派の中でファシストから離れてアンチファシストになった人もいる。未来派の中で1番評価されているのは、最初は絵だった。絵はあまり思想性があらわにならなかったことにもよるのでしょう。未来派というのは何でもやっている。演劇も書いている。その作品というのは、後の前衛劇のプロトタイプになる。それから、音楽もそうです。ノイズを使った、ノイズ音楽というのが生まれてきた。その後クロスオーバー的なことを未来派はやった、ちょっと大言壮語もありますけどね。マリネッティには、まだ伝記も出てない、ちゃんとした伝記がない。藤田嗣治がそうですね。日本に帰ってきてナショナリズムにとらわれて、アッツ島玉砕といった戦争画をたくさん描いた。奥さんは反対していたはずです、そういうものを展示することには。マリネッティは戦争は正しいみたいなことを言ったし、戦争は健康法だというようなことも言った。今だったら文学史ではなくて、精神病の歴史のたなに入れられるはずだなんてエーコは書いてます。それからもう1。テクノロジーの賛美。これはしかし逆に歴史がもう追い越してしまったでしょう、完全に。iPodを賛美するのを未来派的メンタリティ、未来派的心性と呼べるかもしれない。


司会  最近では評価されるようになって来たということは、必ずしもファシズムと一致した運動とはとらえられていないというふうに。


田之倉  そうですね。政治部分は抜かして考えれば評価できるものはある。


司会  ああ、抜かしてね。


質問  ファシズム期の労働運動について理解が及ばないのは、思想としてのサンディカリズムですね。それから運動としてのサンディカリズム。と、そのファシズムの運動とが、どこでどう結びつき、提携し、否定していたのかというのがわかりませんので、その辺をお教えいただきたいと思います。


田之倉  その辺は僕の専門ではなくて、サンディカリズムの問題というのは、いわゆるファシズムを組織していくため、ファシスト化していくためにそのサンディカリズム、あるいはコルポラリズムとか、いろいろなそういう組織を作っていったわけですね。例えば、ファシズムというのは経済問題からみる、あるいはそういう労働者との、労働組合との関係との問題をみていく、あるいはいろいろな問題があると思うのですね。それから、農業問題でみていく。いろいろなところからアプローチして、僕はとりあえずはファシズムというのを先ほど言ったポピュラーエンターテイメント、あるいはファシズムがずいぶん未来派から学んだああいう唱歌、スペクタクルとしてみせるというようなところから近づいていったので、サンディカリズムとの関係になると私の専門外なのですね。だから、それ書いてみてもいいのではないですか。ファシズムサンディカリズムという本を。


質問  イタリアにおりましたとき、いろいろな教えをいただきましたが、彼らが非常に強調するのは、ファシズムとの戦いというよりも、今の時点でのサンディカリズムの残りとの戦いに我々は全力をつくしていますということを彼ら言うのですね。そのくらいサンディカリズムというものを彼らは悪しきものとしてとらえているらしいことを感じました。ところが、それでは今のヨーロッパの労働運動ですとか、そういう中で、サンディカリズムをどう位置づけるか勉強しなければならないのですが、実は昨年の12月に国際自由労連の大会が日本の宮崎でございました。その中で、いろいろ過去の反省がなされて、それから、その後のいわゆる世界労連ですね。来年国際自由労連と合併することになったというよりは、軍門に下ったということですね。そういうふうな戦いの中で、このファシズムという形で表面的に現れたことの根底に、サンディカリズムとの戦いがあるというようなことを、国際自由連の方たちが強調していらしたことがございました。アムステルダム大学を出たCGPで、経済学の専門の女性に、私がちょっと質問しまして、それではFNDというオランダの国際自由労連の中核になっている労働運動の団体では、サンディカリズムはどう評価されているのですかという質問をしましたら、サンディカリズムって何ですかって聞かれました。


田之倉  それはもうそちらの方が全然詳しいのではないですか、サンディカリズム。私はどちらかというといわゆる文化のほうから今日は取り上げてみたのですが、組合とファシズムというふうな視点でやれば、またいろいろな資料も出てくるでしょうし、いろいろなことも勉強して、お答えできるのでしょうけど、とりあえず私のテーマの中にサンディカリズムは入っていないもので、それは映画労働組合とか、あるいは俳優労働組合とか、そういうものとのあるいは関係があったのかどうか、そういうことでもって関心を持つことはありえますかね。だから、サンディカリズムというのは、ファシスト下ではどうだったのですか。ファシストの内部では。その体制のときにサンディカリズムというのは結局解体せずにあったわけでしょう、ずっと。

サンディカリズムと文化というような関係はあまり聞かないですね。例えば、巨大な野外スペクタクルをファシズムの力を借りて、ムッソリーニの力を借りて制作しようとしたり、あるいは、何万人という観客を集めて、何千人という人が出演するというようなときに組合、サンディカリズムというものが関係したかどうか知らないけれど、とりあえずそういうことをいろいろ調べている人は、サンディカリズムのところまでいかないのではないですかね。むしろ、僕らはシンボリズムというのですが、そういう1つのソ連がやったこと、あるいは中国がやったこと、そういう大きな国家の主催によるスペクタクルという観点にしぼられるわけですね。ですから、サンディカリズムになると、やはり勉強しなおしてまた来なければいけないと思いますが、そのサンディカリズムを勉強している人がいるのではないかと思いますけどね。だから、この「ファシズムと文化」の中にも、サンディカリズム関係の本は一切入ってないのですね。ですから、例えば、ダンヌンツィオをやる場合に、どうしてもサンディカリズムは出てこないのですね。それで、ちょっとお答えができないですね。ファシズムとサンディカリズムとの関係というのは。それはまたその任にある人がいると思いますね。組合問題をやったりしている人が。


司会  確かに、サンディカリズムとファシズムというものは、私もそれほど勉強しているわけではないですが、あまり本やなんかでも見たことがないテーマですね。ヨーロッパでは問題なのかもしれませんけど、日本ではまだそれを問題にしているというのはあまり聞いたことがないように思います。


田之倉  でもいるはずです、誰かやっている人は。つまり農業問題とファシズムとか、いろいろあります。


司会  それでは、田之倉先生どうもありがとうございました。