イタリア美術の苦難の歴史と修復の哲学

第310回 イタリア研究会 2006-02-15

イタリア美術の苦難の歴史と修復の哲学

報告者:恵泉女学園大学助教授 池上 英洋


第310回イタリア研究会(2006年2月15日)

講師:池上 英洋 (恵泉女学園大学助教授)

演題:「イタリア美術の苦難の歴史と修復の哲学」


司会  皆さん、こんばんは。イタリア研究会の2月の例会においでくださいまして、ありがとうございます。今日は最近、あちらに見本がおいてありますが、チェーザレ・ブランディの「修復の理論」という本を翻訳されました池上英洋先生に、美術品の修復のお話をしていただくことになります。本日のご講演の演題名は「美術品の受難の歴史と修復の哲学」であります。では、池上先生を簡単にご紹介申し上げます。池上先生は1967年、広島のお生まれで、東京藝術大学の美術研究科の修士課程を修了されています。美学、美術史の専攻です。そして、イタリアと香港で西洋美術を研究されて、現在は恵泉女学園大学の人文学部の助教授をしておられます。もうすぐまたボローニャに行かれるということになっております。その他、イタリア語でDue Volti dell’Anamorfosiという著書をボローニャ大学から出版されているということで、世界的に美術史で活躍されているわけです。今日は、美術の修復の哲学ということで、日本で最近、高松塚古墳の保存と修復ということで、美術の修復ということが問題となっていますが、やはり技術だけではなくて、哲学というものが重要だということが、この修復の理論の1つのテーマだと思いますけれども、今日はそういった哲学、それから実際の修復ということも交えて、先生にお話いただきたいと思います。それでは、先生よろしくお願いいたします。



池上  ご紹介いただきました池上英洋と申します。よろしくお願いします。はじめまして。一昨年まで海外におりまして、専攻はイタリア美術史です。去年の4月から恵泉女学園という大学で、イタリア美術史とイタリア語を教えております。私のような若輩者が、諸先輩方に講義させていただくのもちょっと僭越なのですが、今日は、美術品の受難の歴史と修復哲学についてお話させていただこうかと思います。まず、この場をお借りして、事務局の皆さん、それととりわけ多々良さんに感謝いたします。


 私は美術史家でありまして、修復士ではないのです。ですから、私が今日お話させていただくのは、修復の技術の話ではございません。チェーザレ・ブランディの本の翻訳は、東大の小佐野先生の監訳のもとに、私と大竹さんが分担してやったのですが、大竹さんは芸大の修復の技術の方を出てまして、それで私は美術史を出ています。それで、チェーザレ・ブランディの本をごらんいただくとおわかりかと思いますけれども、前半の本文と補遺のところでずいぶん内容が違います。チェーザレ・ブランディは、本文のところでは非常に哲学的な思考をしていて、技術的な話というのはほとんどないのですね。これは修復の哲学というものが欠けていたからこそ、その修復が進んでいなかったのだという理論の元に、まず美術品とはなんぞやという話をする、そういった野心的な本だったのですね。今では修復の方でバイブルとして扱われております。


 まず、美術品の歴史を見るときに、1つ考えなければいけないのは、そのどこからが美術品で、どこからが美術品でないか。そもそもブランディの本が非常に難しい。私も力が足りませんから、非常に難しい日本語になってしまうのですが、これはチェーザレ・ブランディの本がイタリア人の美術史の学生が読んでもなかなか理解できないくらい難しいわけです。5ページぐらいでだいたい放り出すのですね。非常に難しい本ですから、私が1年くらいかかって何とか訳したのですが、非常に難しい日本語になってしまいました。これは直訳を載せているのではなくて、更にそれから少し優しくしたつもりなのですが、それでも非常に難しい言葉になってしまいます。


 まずちょっと一通り読んでみましょう。芸術作品には、作品が創造されたときと、それが受けとる意識の一種の意識内において、再創造させるときからなる歴史的な変遷があると。非常に難しい言い方なのですが、簡単に申しますと、美術品というのは、芸術家が作ると。その手で作るそのときがまず最初の創造であると。これは当たり前のことなのですが、それだけが創造ではないのですね。その美術品を見て、それを美術品だと確認する人がいてはじめて美術品として再創造される。こういう言い方をするのです。


 非常に端的な例があるのですが、この2枚の図を見ていただきたいのですが、こちらカロンというフランス人の画家が描いたものなのですね。この奥にあるのは、コロッセオですね。もちろん皆さんにご説明する必要もないコロッセオなのですが、カロンは民主政のエピソードを描きたいがために、その民主政の昔のものだった古代ローマの遺跡をたくさん出してくるわけですね。それと、こうした絵は当時の観光旅行の代替のようなものですから、例えばコロッセオも、ここを半分に切ってやって、中の舞台を見えるようにしてやっているのですね。それで後ろにあるのはパンテオンですね。そして、オベリスクがある。そして、こちらには凱旋門がありますね。こういった形で、この当時はいわゆる民主主義を再びモチーフとして使いたいということで、過去の理想であったローマの遺物を出してくるわけです。


 ただ、考えなければいけないのは、コロッセオはここが欠けていますね。これは当然昔はちゃんとぐるっとあったわけですね。グラディエーターというリドリー・スコットが作った映画がありますが、そこではコンピューターグラフィックスで、この中に1つ1つ彫像があったりしたのを、忠実に復元しています。いい映画ですから、そこら辺もごらんいただきたいのですが、現在はここの部分が欠けておりまして、ここにあった彫像がない。これは、古代ローマがキリスト教の世界になって、千年間ほどほったらかしにされていたからなのですね。ですからその千年間の間どうしていたか。これは石切り場になっていたわけですね。皆さんもご存知だと思いますが、キリスト教千年間に、ローマに約200の教会ができます。その200の教会を大理石で作るときに、大理石が身近にゴロゴロあったというのはコロッセオなのですね。コロッセオから切り出していくわけです。200の教会を建てて、まだこれだけ残っているわけですから、非常に大きいものですね。


 ですから、ここで端的な例としてわかるのは、コロッセオ、これほどすばらしい遺物でありながら、キリスト教の千年間の間、何の価値も持っていなかったわけですね。そしてその後にようやくルネサンスのころに、昔の古代ローマの遺跡を見て、あっ、これも芸術品だということになって、やっと修復が始まるわけですね。修復というか、保存が始まるわけです。


 このコロッセオのこの物語が我々に教えてくれているのは、芸術品というのは作るだけでは芸術品ではないのですね。その間、忘れ去られている時期もあるわけです。そして、その後にようやくこれが持つ意味というのを確認されて、ようやく美術品となると。非常に哲学的なのですが、言っていることは非常に単純なわけですね。これが簡単に言うと、ブランディが1冊の本を通じて訴えたかったことなのです。


 そして、その作品には、作品が通過してきたときの航跡が残されている。これ非常に難しい問題になってきます。これも見ていきましょう。


 これですね、その彼の本の中にキーワードになるのが、このウニタです。これは簡単に言うと、ユニット、統一性くらいの日本語にならざるをえないのですが、ユニットと非常に簡単に訳してもよかったのですが、なかなかこの意訳には苦労しました。


 私が例えばドラえもんと申します。そうすると、私の頭の中ではもちろん丸い顔がイメージとして浮かぶわけです。皆さんも、ドラえもんというこの私の言葉を耳に聞かれて、当然頭の中でドラえもんのイメージが出てくるわけです。ですから、私の頭の中でもドラえもんという音が、このイメージと結びついている。そして、皆様の頭の中でも、このドラえもんとこれが結びついていると。これではじめて両方の頭の中に、話し手と、それと受け手の頭の中に同じイメージがわくわけです。よろしいですか。


 何当たり前のことを言ってるんだとお思いかもしれませんが、例えば、皆さんがアメリカ人であれば、私がドラえもんドラえもんと言っても全くぴんとこないわけですね。例えば、私が同じ日本人であっても、皆さん明治の方であれば、これはやはりドラえもんのイメージは出てこないわけですね。ですから、専門用語でこれコードと申しますが、このコードが2つ結びついている。このコードを一緒に、お互いに共有していないと、美術品というのは成立しないということなのです。


 もう少し詳しく見ていきましょう。これ犬と書いています。犬と私が申しますと、だいたい、よほどへそ曲がりでなければこのイメージが出てくるわけですね。そして、この犬という音と、先ほどのドラえもんでもいいのですが、このコードのイメージの方をシニフィエと申します。そして、犬という音の方をシニフィアンと申します。これはフランス語なのですが、これは記号論の用語です。我々もこのまま使用しております。要するに、この先ほどのこのコード、シニフィエとシニフィアンが、この同じ1つのセットにならなければ、この記号というのは成立しないわけですね。この2つを合わせてやっとシーニュと呼びます。サインですね。記号と申します。


 これは、ブランディの言葉です。イメージとそれを伝達する物理的媒体の両者は、一方だけで成立するものではなく、かといって同一のものではない。言わば共立的な環境にある。美術品でも何でもそうなのですが、ある意味を持っているものというのは、この2つが両方そろわないといけないわけですね。片方が欠けても意味がない。そういうことなのです。


 ということで、その絵画が伝達しようとしていたことがあるわけです。美術品が伝えようとしていたこと。これを理解するためには、コードの共有というものが必要となります。絵画は、現代美術は別として、長い間絵画というのは何かを語るものであったのですね。私が今話している原稿を、私は読み書きできますけれど、人間が、一般大衆が自分の話し言葉を書いたり読んだりできるようになったのは、人間の長い歴史の中でごく最近のことなのですね。それまでは当然イタリアであれば、ラテン語は、例えば教会の人、法律関係の人、そういった一部の人しか自分たちの原稿を読み書きできなかったのですね。ですから今のイタリア語の元になる言語というのは、ダンテとペトラルカが規定するまでは、一般大衆の間では基本的に識字率が非常に低い状態だったわけです。ですから、例えば、キリスト教を布教するとき、こういう場合を考えてみますと、そのキリスト教を布教するときに、今であれば聖書を渡して読んでください、これでいいかもしれません。でもその当時はそれでは布教できないわけですね。読み書きできませんから。ですから、絵画にイメージをこめて、相手に伝えなければいけないわけです。ですからそのコードを、我々も同じコードをもっていなければ、昔の人がその手に託して示したかった意味というのが伝わってこないわけです。


 このコードを我々も共有したいわけです。昔の人が言っていた、考えを知りたいわけですから、そのときに障害があります。1つは時間の経過による劣化ですね。単純に言うと、古くなってくるわけです。そしてもう1つは、社会と文化の変化による隔たり。これは先ほどのドラえもんの話ですね。明治であれば、今の私たちのようにドラえもんというものが意味を持たない。こうなってしまうわけです。この2つの隔たりを両方修復していかなくてはいけないわけです。修復、レスタウロという単語に当たります。この修復によって物理的になおしてやるわけです。


 もう1つも、ブランディは非常に強調しているわけです。もう1つは、これは図像学と我々申しますが、これは絵を読む学問という意味ですから、図像学といいます。これによってコードを再構築しなければいけないということになります。


 例えば、この絵。男が3人描いてあるわけなのですが、ジョルジョーネという画家が描いた絵なのですが、これ単純に男が3人描いてあるだけかと申しますと、それだけではないのですね。これはちょっと皆さん考えていただきたいのですが、日本語である意味をこの1枚の絵で言っているわけです。例えばぱっと目に映るのは、この人が我々の方を見ている。後は、この3人の人物の年代が違うということですね。最も幼い時期、そして青年あるいは中年でもいいですが、そして老年。この3つの世代を同じ画面の中に入れるということで、これを3世代と申しますが、こういうコードが昔あったわけです。ですから、我々はぱっと見ても意味は伝わりませんけれども、それこそコードを取り返していけば、この絵画の持っている意味がわかるわけです。ですから、これは3つの世代を同じ画面に、1つの画面に表すことによって、人生というものの最初から終わりまで、そのはかなさというものを訴える、伝えるために使うコードなのですね。


 例えば有名なところで、我々がよく知っている3世代の作例としては、この絵がありますね。クリムトが描いた女の3世代という題です。子供とそして女性がいますね。そしてその2つの世代が安らかに寝ているわけです。そしてこちらは、すべてを悟っていますから、1人だけ悲しんでいるわけです。悲嘆しているわけです。この花の世代もいつか終わりがきますよということを我々に言っているわけです。


 この先ほどのジョルジョーネとこのクリムトのこの絵の間に400年間あるわけです。そして、その後我々の時代まで100年間くらいしかないのですね。そして、我々の時代では3世代というもの、もうこれを見てもわからないのですね。こういったコードを勉強しないと見ても伝わらないわけです。


 ただ、当時、クリムトの時代もそうでしたし、ジョルジョーネの時代も、3人人間が別の世代において描いてあれば、これ3世代というコードに通じていたわけです。例えばこちらも同じ主題ですが、これはベックリンですね。「死の島」で有名な画家ですが、これはカップルなのですね。男の子と女の子のかわいい幼児がいる。そして、真ん中の世代はどこにいるかと言うと、若さを謳歌しているこの女性と、そしてこちら、勇ましい、戦場に行くところでしょうか。男性がいますね。そしてもう1つの世代はどこにいるかと言うと、この後ろにいますね。この2人がそうなのですね。この老人がいて、そしてこちらは、ちょっと小さいからよくわかりませんが、これは骸骨なのですね。ということはこれ死神なのです。ですから、死神が今からこの老人の首を切り落とそうとしているわけですね。迎えに来ているわけです。もう1つの最後の世代の女性の方はどうしたのだと申しますと、ここにお墓があるわけですね。先立っているわけです。こういった形の3世代の絵があったりもするわけです。


 例えばこちら。ジョットですね。こちらは、公平という意味なのですが、正義とか、公平、公正。こういった意味になります。ですからその天秤にかけて、真の重さで判断する。ということで正義になるわけです。こちらは、じゃあどういった意味になるのかというのを、聞いているだけでは眠くなりますから考えていただきたいのですが、これは、水差しからカメに移してますね。細く出しています。これ何を意味しているのかわかりますか。これも長い間わからなかったのですね。昔のことを、取り戻したから我々は知っているのですが、ヒント言うとこれはお酒なのですね。この絵に、漢字二文字で熟語の題をつけることができるわけです。これ何かと申しますと、自分が今日お酒を飲む、自分が飲むお酒の量を自分でつぐことができるのです。ですから、自分で自分の飲むお酒の量を自分でコントロールして、それが非常に細く出ていますね。これがポイントなのです。これがドバドバついでますと摂生にならない。これは摂生という意味なのですね。そういった意味があるわけです。


 ですから、昔はその美術品が意味を伝えたかったわけですから、我々はそれを取り戻さなければいけない。2つの修復があるわけです。1つは物理的な、そしてもう1つは意味の修復なのですね。


 この意味の方ですね。コンテヌードと申します。この内容を定着する。修復は、芸術作品の潜在的な統一性を回復することを目的とする。これがブランディが1つの本でずっと言いたかったことなのですね。これが今でもイタリアの修復の原点なのですね。定義の最も重要な一文なのですね。そして更に、イタリアが最も美術品の価値というものについて考えた歴史を持っていますから、ブランディのこの本が、ヨーロッパはじめ、我々もこの本について勉強して、芸術品とはなんぞやということを考えるときの教科書にしているわけです。非常に難しい言葉です。潜在的な統一性。これウニタポテンシヤルと申します。要するにポテンシャルな統一性。これは当初の、元の姿という意味ではないのですね。これがポイントなのです。これは元の姿というとオリジナルがユニットなわけですが、これを回復するのではないのですよということです。


 非常にわかりにくいですね。これが徐々に明らかになってきます。大事なことは、修復というのは、最初の姿を取り戻すためにあるのではないということです。よろしいですか。作られた画家の手を離れた瞬間に戻してやるというのが目的ではないのです。というのも、その作品が、その後、いろいろ時間と文化の変化によって与えられた意味がありますね。そのものがその作品の統一性の中に含まれる。これが非常に重要なことなわけです。


 非常にわかりやすい例がありますから見てみましょう。このボローニャ、私が行ったところですが、このボローニャのちょっと南、これをそのまま行くと1時間ほどでフィレンツェに着くのですが、ここにカマッジョレという非常に小さな村があります。ここで、私が研究していた頃に、この作品の修復が行われました。磔刑図ですね。後ろにもちろん十字架があるのですが、キリストのところだけです。そしてそのイエスのこの修復を行ったのですが、そうすると非常におもしろいことがわかります。


 これこちらが修復前です。こちら修復後です。ぱっと見て色が鮮やかになっているとか、当然修復後の方がきれいなのは当たり前なのですが、注目していただきたいのは、この顔なのですね。ちょっと小さいですから、大きくしてみましょう。左が修復前です。こちら修復後です。よろしいですか。これは途中なのですね。これ修復をしていくと、目が出てくるわけです。目が開いているわけです。こちらただ単に埃が積もって白くなっているだけではないのですね。これは、ご丁寧にこの目の下に閉じているまぶたのラインがあるのです。ということは、もともとはこういう姿で作られた作品なのです。それが、ある時点で、上塗りをされているわけですね。要するに上に塗られて、目が閉じられているわけです。これは何を意味しているか。それを説明するためのいい絵がありましたので、持ってきました。


 こちらは、12世紀の終わりのアレッツォの作品なのですが、これ見ていただくとお分かりのように、目がありますね。非常ににらみつけるようにらんらんとしていますね。これは栄光のキリストというのですね。ですから、キリストはこの頃の12世紀の終わりには、釘を打たれようがなんだろうが、別に痛さに反応するわけではないのですね。超越的にじっと前を見ているわけです。びくともしないわけです。


 ところが、13世紀の最初の時期になりますと、先ほどの絵から100年たっていないわけですよ。この作品が象徴的に示すように、非常にこの眠ったような顔になりますね。そして、うなだれてますね。そして、手も下ろしている。足も曲げている。非常に人間的な姿になってくるわけです。人間的なキリストという形に変わってくるわけですね。


 これは、ちょうどこの13世紀の最初をはさんで、宗教観が変わってくるのですね。最初は目を見開いているキリストであれば、これが超越的なキリストとしてより信仰心を呼んだわけです。しかし、この13世紀のはじめに、13世紀の始まりともうしますと、聖フランチェスコが代表的なのですが、この人間的なキリスト、要するに彼も磔にあえば同じように苦痛を感じないといけないのだという発想が出てくるわけです。そうすると、キリストが目を閉じている。こういう形になるのですね。


 ですから先ほどの作品というのは、こういった価値の変換を表してくれているのですね。ここは小さな町ですから、もう1回作る、もう1回キリストを木で作って、それをかわりに置くのではなくて、町に1つしかないのですね。そのキリストの上に塗ってしまうわけです。


 そうすると非常に議論になりました。というのも、この元の最初の姿を出すのが修復なのかと。当然そう思うのですが、そうすると、13世紀以降、これが塗られた意味というのが失われてしまうわけです。ですから、苦肉の策で今は、この修復の隣に、こちらの写真を残しているのですね。こういった工夫をしないといけないわけですね。ですから、こういったケースは非常に難しいわけです。


 例えば、修復が1つ意味を取り戻したという例をご覧に入れましょう。こちらはハンス・バルドゥンク・グリーンというドイツの画家なのですが、デューラーの弟子の1人ですね。その人の描いた絵なのですが、この女性が鏡を見ています。当時は平たい鏡を作る技術がありませんから凸面鏡なわけですが、こちらに先ほど見たモチーフが入っています。1個2個3個。ここに3世代がいるわけですね。女性の3世代に死神が伴っていると。そして、若い女性が今自分の美しさにほれ込んでいるわけですね。しかし、死神が、あなたもう時間がありませんよと教えているシーンですね。いらぬおせっかいですが、ご丁寧に砂時計をかざしてくれているわけですね。そして彼女は鏡を見ているのですが、これが以前は何が描いてあるかわからなかったのですね。修復の後にここに出てくるのが、骸骨だというのがわかったのです。ですからこれは、鏡というのは真実を映すのだと。ですから、彼女の美しい顔ではなくて、その未来の本来の姿である骸骨が映ると。しゃれこうべが映るという形になるわけですね。ですから、これでこの絵がはかなさという、そういった意味を取り戻すわけですね。


 ただ女性が鏡を覗き込んでいるというのは、他にももう1つこんな同じ格好をして、別の図像があるのですね。こちらもずいぶん後になって、パノフスキーをはじめとして、イコロジーという学問を始めてやっと意味を取り戻していくわけですが、これはヤノアというやつですね。その昔の古代の神様の1人なわけです。ヤノアというのはヤヌス神ですね。ヤヌスの鏡なんていう漫画がありましたが、要するに女子高生が夜になると悪い人間になるという物語です。人間の二面性を描いている物語で、昔映画化とか、ドラマ化もされたのですが、皆さんご存じないですか。その二面性というのも、この神様からとっているわけですね。前と後ろに顔があるわけです。これはどこに昔付けられていたか。この紋章は、町に入る城門の上に掲げられてあったわけですね。要するに、町に入ってくる人を見れば、町から出て行く人も見える。町の中に入った後も見る。要するに門の前と後ろに顔があったわけです。そして、自分の前にあることも見えるし、自分の後ろにあるものも見える神なのですね。ですから、自分の将来も見れば、自分の過去も見れるという、そのすべての時間を見通す非常に賢い人だということで、この神様が賢明というコードになっていくわけです。これ見ると女性がかぶとをかぶってまして、後ろに顔の彫刻もあるのですが、鏡を見ていますね。これはですから自分は前を見て、後ろは鏡が見る。映った自分が見るわけですね。ですからこれは賢明とか、そういった意味になるわけです。ですから、女性が鏡を見るという形は、ヴェリタス以外の意味・形もあるわけです。


 このもう1枚の絵をご覧ください。こちらには骸骨があったのがわかっていたのですが、女性が鏡を見て、骸骨を持っている。これもヴェリタスに違いない。はかなさに違いないと思っていたわけです。ところが、修復をすると、蛇が出てくるわけです。これ蛇が出てくると意味が変わるわけです。こちらは賢明になってしまいます。というのも、蛇というのは、アダムとイブの話でおわかりのように、女性を誘惑するものですから、その蛇を踏みつけていますから、この女性は私は誘惑なんかに負けないわと自分で踏みつけているわけです。ですからこちらは賢明という意味になるわけです。そういったことで修復によって、これは図像学も、物理的修復も両方同時に取り戻したという、非常な好例だったわけですね。


 こちらはレオナルドのバッカスといわれていたこの絵なのですが、これはバッカスという題名で呼ばれていたように、要するに酒の神と思われていたわけですが、これは違うのですね。これは木の杖を持っていまして、そして羊の皮を着てまして、この杖の先っぽにはうっすら十字架があったのですね。これはレオナルドの場合は作品の保存状態が悪かったので、この作品もディテールがわからなかったのですね。ですから後に酒のかめを描き加えて、この絵をバッカスという題で飾っていたのですが、そうではなくて、もともとはこのもう1枚の有名な絵と同じで、これは洗礼者ヨハネだったのですね。十字架をもって、キリストに洗礼を下す側の人ですから、自分より後から来る人がイエスですよ、救い主ですよと知らせるために、指を指しているのですね。ですから、こちらも修復によって、本来の意味が取り戻せたという例です。しかしこの作品では、後から描き加えられたものはとられてしまったのですね。これは何か1つを修復すると、1つのものを失ってしまう。後で加えたものが失われたという、非常に難しいケースだったのですね。


 ルッカという町がございます。非常に美しい町です。ここにサンフレディアーノという非常に重要な教会があります。ここにボルト・サント、聖十字架と申しますが、非常に有名な作品がございます。これは東方にあった1世紀の頃に作られたと言われている聖十字架が運ばれてきて、そしてルッカともう1つの町が、動物で代理戦争、戦いをさせているのですね。そして、勝った方に来たわけですね。ルッカの方が勝ちましたから、ルッカにこのボルト・サントが来たのですが、もともとイエスの時代に作られたとされていたのですが、事実のところは半世紀に作られたビザンチンのものを12世紀に作り直したというのですね。そういった経緯はともあれ、この作品は、ついた当初はこういう形をしていたわけです。それがちょっと前まで、修復の前まではこんな形をしていたのですね。豪華な王冠をかぶっていて、非常に豪華だったわけですね。長い間これで通していたわけです。ですが、修復をきっかけに、本来の姿に戻したわけです。ですから今はこの形で見ることができます。サンフレディアーノには、ルクレットという女性の非常に美しいお墓の彫刻がありますから、ぜひ見ていただきたいです。ここで難しいのは、昔、アミコン・アステッティーニという画家が描いた絵があります。これご覧いただきますと、おわかりでしょうか。この頃はもうすでに王冠も豪華な衣装も着ているのですね。ですから、この絵が描かれた当時、ルネサンス真っ只中なのですが、このときに描かれたこの絵に、その時代には、こういったもう豪華な衣装をつけた状態でこれがボルト・サントとして機能していたわけです。ですから、修復の後にこういった形に戻すのは大いに結構なのですが、これをとってしまうと、この時代に、このルッカのサンフレディアーノの聖十字架が持っていた機能というのが1つ失われるのですね。この例は、ブランディが中で非常に詳しく書いています。この修復をする際に、どこまで取り戻すか、どこの状態に戻すかというのは非常に難しい。これは十分に考えなければいけないところなのですね。


 ブランディはこの解決法として、修復したオリジナルの状態の隣に、その王冠とかを置いて説明を加えろと主張していますがが、今はその言葉どおりそういった形で展示しています。


 ここで考えなければいけないのは、時の加えたものが、日本語で言うとわびさびになるのですね。これはむしろイタリア人に説明する方が苦労するのですね。その概念を非常にわかりやすく説明するために使われるのが、日本のこの茶器なのですね。日本の茶碗にこういった壊れた跡とか、それを簡単に止め金具でつけたりしたような跡がありますね。日本はここに美を見出すわけですが、これはイタリアではあまり理解されないのですね。そういった割れたものとか、くすみというものが、悪いものだという概念が昔からあったわけです。


 ですから、先ほど最初に言ったコロッセオのようなああいった崩れかけたものは、なかなか価値を見出すという習慣がなかったのですね。それを取り戻したのがロマン主義なのですね。ロマン主義の特長というのはいろいろな議論があるのですが、その1つは、昔のそういったものが、その後に壊れていく。その壊れていく状態、それにも価値を見出すということ、これがロマン主義の1つの特徴だったわけですね。これはピラネージです。時代で言うとロココにあたりますが、パーティナの価値を見出す最初の例の1つなのですね。皆さんもご存知のように、このピラネージはちょっと前まで西洋美術館で版画のコーナーに展示があったのですが、きれいですね。誇張もあるのですが、彼はこのローマの廃墟に対して、版画をたくさん作って、これがそのころ結構いい値段で売れたのですね。ですから昔のそういったパーティナに対する敬意というのは、この頃にはもうすでに取り戻しているのですね。


 こちらはフォロロマーノですね。ようやくフォロロマーノのこういった廃墟をそのままの形で残すという取り上げ方が出てきたのですね。ただ、実際にはフォロロマーノ、ご存知のようにかなりの部分を作り直してしまってるのですね。例えば、このフォロロマーノの隣で今でも修復をしているのですが、そこでは倒れた円柱を積み重ねているのですね。そして、欠けた部分がありますね。そこはコンクリートでつなげてしまっているのです。これはもうすでにブランディが言っていることと逆行しているわけです。ですから、修復というのは非常に難しいですね。そこまで直してようやく修復なのか。そうでなくて、そのままほうっておいて、埃だけ払うのが修復なのか。だったら修復する意味というのはあるのかという、非常に根本的な問題になるわけですね。


 例えばそのパーティナのこういった空間すべて合わせて、パーティナとよぶ。ですから、パーティナというのは、ただ単にすすがついているだけではないのですね。ひびわれでもないのです。この環境全体が変わったもの、これからも変わっていくもの、こういったものをパーティナグランディエと申しますが、この空間自体のパーティナの価値というのが出てくるわけです。


 イタリアの人に説明するのに非常に良い例がございます。我々日本人ですからおわかりですが、薬師寺ですね。東塔と西塔がありますが、これずいぶん昔に東塔だけが残って、最初の頃に西塔が消えてしまったのですね。ですから昔の版画にも、こちら西塔がございませんね。ですから、非常に昔から、730年から東塔というのは基本的にずっとあるのですが、この西塔の方は、1528年に焼失しています。これが1981年に建て直されました。これも、昔の建築を解体して、それと同じ木の形と大きさ、材質で作り直したのですね。建築史的な視点から非常におもしろい試みでした。


 ただこの二つの塔には非常に大きな違いがあるのですね。当然ながら色が退色しておりますから、東塔の古めかしい姿というのはこちらはございませんね。非常に派手派手なので、我々は何とキッチュだと思いますが、昔はそうだったのですよと、東塔もそうだったのですよと言われると、ああそうですかと言うしかないわけですね。


 そして、これをご覧になっていただくとよくわかるのですが、先ほども申しましたが、全く同じ寸法で、全く同じ形を作っているわけです。ただ、この角度が違うのがおわかりでしょうか。こちらは角度が非常に下がってますね。どうしても構造的に違いがでてくるのですね。イタリア研究会ですからイタリアについてお話すればいいのですが、この空間そのものがパーティナーになって、非常に端的な例ですので、ご覧になってください。


 この塔には心棒がありまして、ユニークな構造なのですね。こちらの真ん中に大きな心棒があるのですが、これは上でとまっているのですね。この下は振り子状態なのです。これ上でとめられて、下ではつながってないのですね。3ミリくらい浮いているのです。つまりぶらぶらしているのですね。


 こちらは別の塔なのですが、この心棒が入るところにこういったモウケがあるのですね。そしてこういった形になっているわけです。上から見ると。こちらはちゃんとした柱なのですね。つながっている柱ですね。こちらは、真ん中の心棒は非常に大きなものなのですが、つながってないのです。これは非常におもしろい日本の建築なのですね。


 この薬師寺の東塔の部分をばっさり断面図にしてくれた研究者がいますので、それを見ると、構造というのはこれだけしかないのですね。他のすべてのものは飾りなのです。この屋根はこちらにつながってますね。ただここはつながってないのです。ですから、これは上に、この柱にくっついているだけなのですね。これは飾りなのです。六重の塔に見えますが、これは三重の塔なのですね。構造はこういった形になっているわけです。そして、上に大きな、巨大な金属製の塔があって、ここから先ほどの心棒がぶら下がっています。こちら3ミリ離れています。


 そうすると、どういうことが起きるかと申しますと、ここに柱がありますね。そして上の柱から重さがすべてかかってきますから、当然こういった力が働きますね。ですから、てこの原理で、やじろべえのように、こちらは上がるような形に力が働くわけですね。こちらもそうなっています。ですから、こちらもこういった形になるわけです。こういった形で、その力が次々働きますから、もともと普通に作ればこの庇というのは、この軒は上がるような形になっていくわけですね。ですから、そのまま作ると、非常に勇壮な形で、角度は高いままに維持されるのですね。


 そういうわけで、少しずつ重みでこの緩やかな優しい形になってくるのですね。これがパーティナなのです。この時間の流れというのが、外見も変化させる。ここに日本人は美を見出すのですね。


 さてここで実際の修復の実践に入っていくわけですが、またちょっと難しいブランディの言葉を、私がえらそうな日本語にして、さらにそれをなるべく易しい日本語にしたものがこれです。まず、修復の実践の話になってくるわけですが、まず第1原則があります。修復の処置は、修復箇所が判別可能でなければならない。要するに、修復した場所が、明確に元のオリジナルのものと、後から付け加えたものが、区別ができないといけない。また同時に、修復箇所が作品全体としての色彩や明度の統一感を損なってはならない。そして、第2原則ですね。物質が外観としてのイメージの供出を直接になっている場合には、物質の交換はきかない。しかしながらも構造をになっている場合は物質の交換ができる。


 これちょっとわかりにくいのですが、例えば、フェラーラにパラッツォ・ディアマンティという宮殿があるのですが、その建物には大理石でピラミッド型のぼこぼこした突き出した部分がたくさんあるのですね。ここのぼこぼこした表面のところは、これ修復するわけにはいかないのですね。これを取り替えてしまうと、その作品自体がオリジナリティがなくなってしまいますから。ではどうするか。そこの部分が、表に見えているのだから、中を、金属を入れて、硬くしてしまうと。それで修復するわけです。これについては、ブランディはこのケースはOKだと言っているわけですね。というのも、外見が変わらないのであれば、基本的に支持体の部分にあるところは、補強したり、交換をしてもよろしいと。ただその交換をすると、外見が変わってしまう場合。これはだめですよと言っているわけです。


 そして、第3原則ですね。修復は、将来的な修復を容易にさせるものでなければならないと。要するに、ある修復をしても、もっといい技術が将来できるかもしれないと。そうなると、そちらに変えたほうがいいわけですから、今までのものをとらないといけませんね。ですから、2005年に加えられた修復はこことここの部分ですよと容易にわかるようにしてあげないといけないわけです。それを取って、また新たによりよい方法で修復してやる。こういった配慮が必要になりますよということになります。


 サンフランチェスコという修道院がボローニャにもありまして、町にだいたい1つはフランチェスコ修道会があるのですが、非常に大きな教会なのですね。現在はこういった形になっています。周りが少し公園のようになってまして、こちらに昔のお墓が残っていると。こういう形になっています。こちらは戦前、修復前の写真なのですが、こちら見ていただくとわかるように、今現在の姿がこちらなのですが、この2つのお墓は見えませんね。これは構造体がその上を覆ってしまっていたのですね。昔の中世のものに、このルネサンスのころに加えられたと記録があるのですが、この構造体がカバーしてしまっていたのですね。そしてこれが北側のファサードなのですが、この北側に別の建物がくっつけられていたのですね。修道院が。それを取り除いてやらなければといけないということで、取り除くわけです。ですから、今はこういった形になっているのですが、そうすると、こちらはまあ良いとして、こちらのルネサンスのこの建物自体は失われてしまうわけですね。これも非常に難しいケースだったのですね。


 これも非常に議論を呼んだ例ですね。これはアウグストゥス帝の凱旋門といって、リミニにあるのですが、要するにローマ帝国の時代の凱旋門があったのですね。凱旋門の名残がこちらにあるのです。だいたいイタリアの町を歩かれると、大きな大理石の部分、これは古代ローマの時代なのですね。古いものの方が大きいですね。そして、その後中世になっていくと、少しずつ石が悪くなっていって、ルネサンスの頃になると、このレンガになるのですね。その後セメントになっていくわけです。このレンガで作られている部分というのは、これは後世のものなのです。ということは、もともとはもっと大きな凱旋門があったのですね。しかし、それを中世のころにこのように城壁を作ったわけなのですね。ここに銃眼がありますから、ここから首を出して、こう矢を放っていたわけですね。そういったものがあったのです。これは現在の姿ですよ。ですから、凱旋門があって、その城壁が加えられていた。これを修復するわけです。そして、現在この形になったわけですが、もともとはもっと大々的に城壁があったわけです。


 結局、じゃあどこまで修復するか。この凱旋門はここまででいいのか、ここまで取り出したっていいのかという議論がなされたのですね。そして彼らの出した結論は、こういう形に残すわけです。凱旋門の部分で残っている部分はここなのですが、上に付け加えられたここも歴史的価値を見出して、こちらも修復の対象にしたわけです。ですから、先ほどのいくつか例がありましたね。とってしまった例、それと違って、こちらは残した方の例なのです。


 これが修復の前の状態なのですが、ここにずっと城壁があったのですね。現在のリミニには今ではドイツ人が多いですね。夏になると集まってきて、夜毎パーティをするようなディスコの町なのですが、実はかつての激戦地なのですね、第2次大戦のときの。そして、例えば、テンピオ・マラテスティアーノというアルベッティが作った教会も非常な打撃を受けていますが、この凱旋門も大変な激戦に巻き込まれたのですね。そして、城壁がずっとつながっていたのですが。その城壁が壊されてしまったのです。ですから、その修復のついでに、この凱旋門の修復を始めたわけです。その後、ここら辺はとられてしまったのです。ここら辺は撤去してここまでで終っているわけです。


 ですから、この先をずっと取ってしまったのですが、ではなぜここを残したのか。こういう判断をなぜ彼らがしたかというと、こういった昔の絵がたくさん残っているので見てみましょう。例えばこちら、ルネサンスのリミニの町です。そして、少しずつ拡大していくと、これが凱旋門ですね。ここに城壁がずっとつながっているのがお分かりだと思います。そして、こちらの、これテンピオ・マラテスティアーノの中にあるこのレリーフなのですが、こちらにもちゃんと凱旋門が城壁の中に入っているのがおわかりですね。ですからこういった形でずっと残っていたのだから、ここも残してあげようということで、彼らは結論づけたわけです。


 非常に難しいケースがたくさんあります。これはカザーレという非常に小さなお城があったのですが、それが地震の後に非常におもしろいこういった状態で残っていたのです。100年くらいこの状態でしたから、この状態でよく建っていたなと。この状態の方が有名だったのですね。ですから、それを修復したのですが非常に弱いですから、もう1回地震が来たらひとたまりもないと。だったらこれに補強してやればいいというのが、たぶんブランディの出す結論だと思うのですが、これが修復後の写真なのですが、実際には地震が起こる前の状態、要するに我々がよくカザーレの城といって思い出すこの地震で壊れたこの状態ではなくて、もっと昔にさかのぼってしまったのですね。このイメージで有名だったのが今こうなっています。非常に堅牢な塔になってしまったのですね。ですから、裏から見るとこういった状態だったものが、こうなってしまった。この修復は非常に評判が悪かったのですね。地元の人は元に戻ったと喜ぶのですが、他の人は、これがおもしろかったのにというわけです。これを見に来たのに、なんだこれはというわけですね。こういうわけで非常に難しいのですね。


 今日の私の話はこのブランディに基づいてますけど、ブランディの中に書いてないケースもたくさん出していきます。私はブランディの言っていることはすべて正しいと言っているのではなくて、皆さんもどこからどこまで修復していいのかということを、この修復というのはどこからどこまでその芸術性を見出すかという話なわけですから、それを皆さん1人1人自分で考えていただく習慣をつけて欲しいのですね。


 例えば、このカンパニーレですね。ヴェネツィアのサンマルコ広場に建っていますね。我々が見ているこの塔は、実はもともとカナレットが描いたこの塔ではないのですね。これは1902年に、地震ではないです、いきなり倒壊したのです。何もしてないのに、どこも揺れてないのに、爆発もしてないのに、いきなりガラガラ崩れてしまったのですね。運のいいことに、1番下にサンソヴィーノがたくさん彫刻を作ってますが、そこは打撃を受けなかったのですが、上はすべて瓦解してしまったのですね。


 では彼らはどうしたか。これはこのままほうっておくという手もあったのですが、やはりカナレットのこのイメージ、これがヴェネツィアのサンマルコ広場のイメージですね。ですから、ここに塔がないと困るという、これがヴェネツィアが導き出した結論なのですね。ですから彼らは、作り始めたわけです。これは立て直している途中です。そして、この材料をなるべく落ちてしまった、下に何トンとあったわけですが、その中から使えるものは使ったのですね。ですから、なんとかそういう苦労をして、現物に近づけようとしたのですが、これはもうしょうがないですね。これはコピーということになっていますね。


 イタリアではどんな小さな村へ行っても、修復というのはしてますね。このうち捨てられた教会は、中が非常に悲惨なことになっていたのですね。プラーレというところですね。1つのオラトリオ、祈祷所があったのですが、この中は非常に悲惨な状況だったのですね。こういった悲惨な状態も歴史の一部だということはやはり言わないのですね。これはもうちゃんときれいにしてあげるしかないのですね。これは、残っている元のところは、なるべく見えるように残してあげます。これはイタリアで大変よく行われている方法ですね。昔の構造体が残っているところは、わずかながらでも顔を見せてあげる。こういう配慮をするわけです。


 同じところですね。福音書記者なのですね。非常に悲惨な状況だったのですね。そして、この修復をして、現在こうなっています。お分かりのように、この目が、重要なところがないのですね。昔の修復であれば、おそらく目を描いていたと思います。そこまで昔の修復というのはしていたのですね。でも今はそういった元のものが想像できないものに関しては、手を加えないということです。これがもう暗黙の了解になっていますから、今は、たとえ目であろうが、このままでほうっておくしかないのですね。


 逆の例として、このバリヤがあるのですが、これが打ち捨てられていたバリヤで、修道院で、そのバリヤを修復したわけです。そしてこうなったわけですが、これは明らかに違いがわかります。もともとはレンガが表に出た、このおもしろい、これですね。このレンガというのは、この後にファサードの大理石を本当は乗せるはずだったのですね。ですから、レンガをこのように並べてしまうと、とっかかりがありませんね。ですから上に漆喰をのせて、大理石の化粧板をはりますから斜めにするのですね。わかりやすいところでは、ボローニャのサン・ペトローニオのファサードは上半分が全部そうなってますね。ぼこぼこ突き出ていますね。あれは、その後に漆喰をあそこに乗せて、とっかかりとしてあそこに乗せて、その上から化粧板の大理石を乗せるはずだったのですね。それがそのままの状態で残されているわけです。ですから、この教会も同じようにこれを残すべきだったということになっております。ところが、こうつるつるにしてしまったのですね。


 非常に残酷な言い方をしますと、この教会は失敗例としてよく出てきます。これはこういう状態だったのですよ。化粧板を乗せる前のごつごつした状態なのです。そこに化粧板をつけてしまうのですね。しかも安っぽいセメントでやってしまうのですね。これで、さあ修復が終わってこうなりましたと言われても、ここにこの状態で持っていた美的価値は全く失われてしまうのですね。全く別物になってますね。この窓の周りに枠が、窓枠があったりですね。ここに窓なんかありませんよと思いますが、作ってしまったのですね。しかも構造的に穴をあけられませんから、飾り窓をつけてあるのですね。


 中は、確かにこの状態でしたから、これは確かに修復してあげなければいけないわけですね。かといって、こうしてしまうとまずいのですね。これは同じ教会なのですが、向こうの町の郊外に新しい教会が建っている場合、だいたいこうした非常に近未来的なデザインというのでしょうか。我々イタリアに行って、こういうものを見ようとはあまりしないわけですね。イタリアに求めているのは、この古めかしい半ば壊れたものなのですが、ただこれは外国人が、町に住んでない人が言う贅沢な望みなのですね。彼らにとっては教会は毎日曜日に行くところですから、ちゃんと機能している方がいいわけですね。その辺が非常に難しいところですね。芸術的価値があるのだから、そのまま、ぼろぼろのまま残せというのは、これ一方的な鑑賞者の立場なのですね。彼らにとってはこの方がよいからこうやったわけで、我々がなぜそんなことをするのかとか、そういうことを言うのは余計なお世話なのですね。非常に難しい問題です。


 こちらも、これが修復の後です。これは妥協の産物なのですね。何やかんやと言われましたから、途中でこういう方針に変えたのです。それまでだと、これを全部きれいに塗ってしまっているはずなのですが、そうはしなかったわけです。この崩れている部分だけにセメントを塗ってしまって、ここに四角い穴をドカンとあけて、それでドアの枠をつけてしまったのですね。まわりの構造と一致してないのがおわかりだと思います。これが中身です。全く新しいものになっていますね。


 この修復というのは、だからどこまでさかのぼるかという問題が常にあります。例えば、この教会に、埋もれてしまいましたけど、ここにフレスコの小さなのがあったのですね。それを彼らは別のところに保存すればいいやということで、それだけ取り外してここは白く塗っているのですが、その取り外されたものというのは町の小さな美術館、町のオフィスの横の1部屋にあるのですが、そこに置いただけでは、この美術品を回復したということにはならないのですね。これが難しいところです。


 だからこそ日本でも、古墳の壁画を保存のためにとってしまった方がいいという議論と、いやなんとかそのままある方が本当はいいんだという、この両方の意見が今でもだいたい半々あるわけですね。せっかくですからこの日本のケースもついでに一緒に見ておきましょう。この高松塚古墳ですね。先週の新聞でごらんになったと思いますが、この美人と言われる女性像、右の目の下にアオカビができてしまったのですね。高松塚古墳はこのアオカビに苦しむのですね。これは昔のアオカビのない状態です。非常に美しいですね。これが、アオカビをほうっておくと、ここらへんも紫色に見えるのはおそらくアオカビだと思いますよ。これだけではないと思います。


 これは、上の2枚が昭和47年のものです。これは文化庁のホームページにも出てますから、ごらんになっていただくとわかりやすいと思います。報告の義務がありますから、正直に出してくれているのですね。昭和47年の2枚と、これが平成14年です。こちら、獅子の背中の縞がちゃんと見えますね。こちらはもうどこにあるかわかりませんね。これは一応ここが縞なのですよ。こちらが歯ですね。もともと非常に薄い顔料で描かれていますから、難しいのですね。


 非常に痛々しいのですね。ほうっておいて、アオカビがきたら、それを早急に取り除いてやらないと、酸化が始まるのですね。そうすると、強烈な酸化の力がありますから痛みがひどくなります。私も大学の頃、自分で自炊用の小さな炊飯器を持っていたのですが、なかなか自分では料理をしないので、1回お米を炊いてそれほったらかしておいたのですね。そして、お恥ずかしいのですが、1年もほったらかしていたのですね。ある時変なにおいがするなと開けてみたら、ふわーんときれいな雲がかかってまして、それがアオカビですね。それを洗ったのです。そうすると、この炊飯器は、穴が開いていました。これは酸化の作用なのですね。上から少しずつ強烈な酸が下に落ちますから、もうその穴は修復できないのですね。同じことが高松塚古墳に起こっています。


 こちらはキトラ古墳です。こちら本当に難しいですね。これはちょっと穴が開いてますね。前は穴がなかったのです。これおそらくは微生物があけたのではなかろうかという調査結果が出てますが、それが大きくなっていくのですね。こうしてクラックが入ってくるのですね。そしてこの玄武は非常に重要な部分ですから、これを部分保存したのですね。これ日本ではめずらしいストラッポという技術なのですね。剥ぎ取るわけですね。そうして、これを保存すると。


 1つ問題なのは、先ほどの議論ですね。とにかくそのもとの場所にあるのが本当は1番いいのだけど、そんなことを言っていたら悪化の進行が早いですから、そんな悠長なことを言ってられません。剥がしとって、とりあえず別のところで保管して、いい方法が決まってから元に戻すのが正解だと私も思います。


 イタリアにはストラッポという技術があるのですね。これは非常にすぐれた技術なのですが、例えば、アッシジのサンフランチェスコのこの下に、いわゆるジョットのフランチェスコ伝があるのです。当時、フランチェスコ聖堂は、聖フランチェスコが亡くなってすぐにエリヤという修道士、彼の弟子の1人ですが、そのエリヤという人が、イタリア中から大工を呼んでくるのですね。そして、聖フランチェスコは清貧で売っていたのですが、非常に豪華な教会を作ってしまうのですが、その呼ばれた大工の中の1人に、ヤコボ・トリッティという画家がいるのですが、彼の描いた父なる神が、太陽と月を作って、そして、人間を作って、アダムですね。そして、動物を作ってというあの1週間の話ですね。それを1枚の絵にしたものがあるのですが、これ非常に痛みが激しかったのです。


 これをどうやったか。このフレスコ画を表面だけとるのですね。引き剥がすのですね。そして、ついでに、下に下絵が出てくるわけですね。これを更に保存して、その後にまた元に戻すのですね。これ非常におもしろい技術です。


 キトラの勉強にもなりますから、1つフレスコ画というのがどういった形で描かれるかを見てみましょう。まず荒塗りの漆喰があるのですね。そこにまず下絵を当てて、それを1回1回穴をあけて粉をやって、とにかく輪郭を写すのですね。シノキアと呼ばれる赤色の顔料があるのですが、それで下絵を描くわけです。そして、これでだいたい決まったと。そうしたら漆喰を塗るわけですね。ですから、漆喰でできた壁の上にさらに漆喰を塗るわけですから、乾いたらまったく壁と同一化するわけですね。ですからフレスコ画は非常に強い。その後にこのシノキアを塗って、それで構図が決まったら、これにうっすらと漆喰を乗せて、そこに乾く前に顔料を乗せるわけです。そうすると、その壁の構造体の中に顔料がありますから、乾いたら非常に強いのですね。


 向こうでフレスコ画の修復の現場を見ると非常に驚かされます。というのも、スポンジに水を含ませて、ゴシゴシこするのですね。びっくりするような作業をするのですが、それでも大丈夫なのです。壁と一緒なわけですね。壁を掃除しているのと一緒なのです。上の層をはぐと下の像がありますから、それを更に取り出して、上堂と下堂の間に美術館がありますが、そこにこの現物が保存してあります。ですから同じ大きさなのですよ。原寸大なわけです。


 キトラの場合、非常に難しいのは、こういった構造になってないのですね。あれは荒塗りの漆喰を石の上にいきなり塗ってるのですね。石の上に荒塗りで塗って、それが乾く前に顔料を入れないのですね。乾いた後に乗せているわけです。実はフレスコにもこういった技法があるのですね。セッコと申します。要するに乾いた後に塗るわけですから、壁に顔料が染み込んでない、上に乗せているだけですから、非常に弱いのですね。キトラの場合はそういった形になってますから、ストラッポは難しいのですね。非常に薄いものの上に描かれていて、しかもその漆喰にさえ染み込んでいないわけですから、それを下手にとるともう粉々になってしまうのですね。上にアスベストを吹き付けているのを上手にはがす、そんな感じなのですね。それに近い作業になってしまうわけです。


 このアッシジの修復の問題は非常に勉強になりますね。これはダリオ・フォーですね。ダリオ・フォーが見物に来たときですね。


 まず、その構造を理解していただきたいのですね。非常におもしろい構造をしているのです。これはもともと非常に小さなものだったのですね。この普通に小さい教会だったのですが、その上にこの上堂を乗せて、さらにどんどんどんどんこっちに伸びてくるわけですね。修道院ですから、大きくするわけです。ここまでは町の丘の壁があります。要するに地盤がありますからよかったのですが、こっちに伸ばすときには地盤がありませんから、こういうふうに巨大なアーチをつけて、作ってあげないといけないわけですね。結果として非常に壮大な建築になるのですね。アッシジの駅からバスで行かれるときはこのルートを通るのですが、このときにぜひ外を見ていただきたいですね。このすばらしい壮大な建築をご覧になっていただきたいですが、構造的に弱いのですね。


 こちらはチマブーエの上堂にあった絵ですが、これは日光と湿気と、それと1番大きいのはすすですね。その3つでやられてしまいました。ずっと当たってますから、この日光の力というのは強いのですね。この顔料をほとんど退色させてしまうのですね。


 もう1つの問題は、鉛白というこの白の顔料が、鉛白の鉛はなまりですから、鉛が酸化すると、緑になってしまうのですね。そうすると、鉛白の白で塗ったところが逆に黒っぽくなるのですね。ですから、目が白黒反転したような感じですね。おもしろいもので、この絵のスライドを撮ってネガだけ見たら、むしろそちらの方が昔の状態に近い絵が想像できるのですね。


 ここがそのチマブーエの先ほどの絵があるところですね。そして、こういうふうにチマブーエがあって、こちらにジョットがずっとあるのです。先ほどのトリッティなんかは、この上にあるわけですね。更にこの上部にあるわけです。ここは地震で落ちたのですね。こちらはショッキングな映像なのですが、本当にこの映像が来たときにニュースを見た美術史家は、みんなに電話を回したのですね。そしてとにかくわけがわからず涙が出たという人が8割くらいいるのですね。私もそうなのですが、なぜか涙がこの映像を見ると出るのですね。私たちは美術史家なのだなと。そして2割くらい冷血漢がいるのだなと。どかっと落ちるのですね。そしてもう悲しいくらい、全部色が乗っている粉ですから、こういったほこりになってしまうのですね。


 これは聖フランチェスコではないですが、いかに激しい地震だったかよくわかりますね。これは非常にショッキングな絵ですね。もともとはこれがあったのですね。これがすぽんとあいてしまうのですね。


 これはさだかではないのですが、我々が聞いているのは、このアーチがあって、更に屋根があって二重構造になっていますね。これがアーチだとしますと、この天井に絵が描かれているのですが、ここに補強のために片側だけ鉄の棒をつけたのですね。よく向こうの教会に行かれると、鉄の棒が刺さっていますね。あれは補強のためにつけるのです。先ほどの天井面の更に屋根の間の空間にそれを埋め込んだのですね。その結果、地震のときにこちら側だけが落ちたと言うのですね。ようするに、それまでずっと何世紀も地震がない地域ではないですから、これほど地震ではないにしても地震があっても、その間はこの心棒がない状態で何とかやっていたのですね。その後、20世紀に入って心棒を入れてそちら側が落ちたというのは、よかれと思ってしたことがもしかして裏目に出たのかなという気もちょっとしますね。うかつなことは言えませんが。


 この部分が落ちたのですね。ここですね。ここがなくなっているわけです。これが当時の映像です。大きなブロックも残っているのですが、非常に気が遠くなるような作業が始まるのですね。非常に原始的なやり方なのですが、サンフランチェスコの壁画ですから、いい写真がたくさんありましたから、それを原寸大に引き伸ばすわけです。その上にのっける。こういう方法が1番手っ取り早いのですね。これでまず大きいものからやっていくわけですね。


 小さいものはどうやるかというと、1つ1つ色を登録するのですね、パソコンで。そしてその色に合うものを検索すると、だいたいいくつかポンポンポンと出てくるのですね。それを画面上でこうやるのですね。そうすると、少しずつ顔が元に戻っていく。非常に気の長いことをやったのですね。それで、これが最終形なのですが、それでも痛々しいですね。一番重要なのは、サンタキアーラのこの聖フランチェスコの像ですが、ここは特に激しくやられてしまっていますね。これが昔の写真です。今ではここにこういった形で白いセメントが見えます。


 ここからはちょっと耳の痛い話になります。要するにお金の話になりますね。経済的なところは避けて通れないのですね。例えばこの小さな教会があります。サンタステータ、ボローニャの近くですが、その教会を修復したケースがあります。それがいったいどのくらいかかったかということで、修復にかかるお金というのを想像していただきたいのです。これがキャンペーンなのですね。この教会を修復するのにどのくらいかかりますから、それをお願いしますといっているのですね。それが60万ユーロ、ほぼ1億ですね。かなり高額なのですね。では1億でだいたいどのくらいのことができるかというと、例えばこの崩れ落ちそうなこういった弱い構造のところに、こういった心棒を埋めてやるのですね。そして芯を入れて、その後また塗って埋めていくのですね。そして、ほこりをとって、そして、汚れをとった後、また昔の色に戻してやるという作業をするわけです。これだけで1億円かかるのですね。


 耳の痛い話が続きます。これは日本とフランスとアメリカが、文化の支援に使うお金なのです。これがフランスです。こちらアメリカです。額がアメリカの半額なら、人口規模からして、経済規模からしていいじゃないかと思うのですが、ところが非常に特徴があるのですね。アメリカのこれはほとんど個人なのですね。そして、日本は地方の自治体なのですね。フランスはどうかというと、地方の自治体、中央官庁、政府なのですね。日本でも中央官庁もあるのです。これだけです。要するに1千億の半分くらい、400億くらいですから、これはそのまま文化庁の予算ですね。文化庁と地方自治体というわけです。そして内訳は、文化庁、都道府県、市町村、地方自治体がお金を使っているか、政府がほとんどお金を持ってないかというのがわかるのですね。アメリカは政府というのは本当に役に立たないのですね。その代わり、個人とその財団がこういうところにお金を使う土壌があるかというのがよくわかります。ただ日本は自治体がお金を使っているのですが、それが何に使われたか。これはバブルの頃なのですが、これが公共ホールの数の増加の割合なのですね。公共ホール、地方自治体が1つ1つ作りますから、一気に500が1500になるのですね。3倍に増えるわけです。そしてクラシックのコンサートは非常が増えるのですけど、邦人に払ってあげるお金というのは頭打ちになるのですね。その代わり海外から招いている人には、結構お金使うのですね。これは日本のお金が日本のためにまわってこないというところを抉り出している数字なのですね。そして、日本の場合は、芸術品というのはほとんど寺社仏閣が持っています。これが寺社仏閣の分です。そして、西洋美術館だの、東博だの、ああいう国が持っているというのはこれしかないのですね。鑑賞するのにお金を落とさなければいけないシステムになってしまっているのですね。


 私が留学してすぐの頃に、ボローニャの町の広場で修復がありました。ここになぜこんなでかでかと顔があるか。これベネトンなのですね。ベネトンがお金を出して、ここの修復は自分のお金を出すかわりに、約1年かかるのですが、修復の間ずっとこういった広告を出していっていいよというこういうやり方なのです。こうすると、非常に巨額なお金を企業から引き出すことができるのですが、もう1つ問題なのは、そうすると、やはり宣伝効果の高い場所にしか見られなくなるのですね。ローマに行かれると、よくポスターを見かけます。大きな現物大のポスターを、修復中の足場の外側にかけますね。ああいったことをしているのは、やはり表通りなのですね。ああいったところに企業がお金を出してくれているというのは、宣伝効果があるからということもあります。1つの解決策ではありますが、細かいところにはお金は行かないでしょうね。ただ、イタリアらしいのはベネトンの広告があったときに、ボローニャの市民がこんなものを1年間見たくないよということを、新聞に堂々と書いてしまうのですね。これは中世の広場の雰囲気に合わないということを堂々と言う人がいるわけですね。じゃあお前はお金を出すのかと言われると黙ってしまうという。これはなかなか難しい問題ですが、日本のやり方の1つの解決法のアイデアではありますね。


 日本の企業には、なかなか耳の痛い話ですが、例えばミケランジェロの天井画、これはほとんど日本のお金で修復しているのですね。最後の晩餐もそうです。ですから、やはり日本人は、まずは日本にお金を使って、それが余ったら向こうに回せばいい、という意見もあることはあるのですね。これは我々が考えるべき問題ですね。


 修復の話になると、何年にどういう法律ができたという話なりますが、これは退屈なのでいたしません。世界遺産が制定されてからは、そこにお金が集まるようにはなりましたね。これはいいキャンペーンだったと思います。これは制定が1972年ですから、かなり昔のものなのですね。30年たってようやく定着したという感じがしますね。


 さて、先ほど歴史性、芸術性の二面性ということがブランディのところで出てきましたが、その歴史性という面、アスペクト、アセット、そういうそのものを、この単語はなんだったかというと、これイスタンザというのですね。要するに存在しない美術品もあるのですね。歴史的な経緯によって奪われてしまったものもある。


 例えば、ルネサンスのころは戦国時代で、傭兵隊に代理戦争をやらせていたわけですね。自分たちは商人の出ですから、自分たちの長男を戦争にやる気はないのですね。ですから、例えばフィレンツェの大聖堂にあるこの「ジョン・ホークウッド」要するにジョバンニ・アクウッタと書いてありますが、これイタリア人ではなくて、イギリス人なのですが、傭兵隊長として活躍したからこういう大きなモニュメントがあるのですね。レオナルドにも、こういった大きなスフォルツァの騎馬像を作ろうという計画があったのですね。これも鋳造のところまでいっていたのですね。原寸大の模型があったのです。7メートルもあった木の大きな模型があるのですね。その原型をお披露目するのです。神聖ローマ帝国の皇帝が結婚するなんていう華々しい舞台に、この原寸大の模型が公開されて度肝を抜くわけです。ところがその直後に、フランス軍が侵入します。その時すでに、72トンの青銅が集められて、鋳造に入るというところまで行っていたのです。こういった細かな鋳造の枠の型のデッサンが残っているのですが、こういったものを用意しながら、戦争になれば青銅は悠長に騎馬像なんか作っている場合ではないですから、その青銅は大砲に転用されるわけですね。


 そして、原寸大の模型がありましたが、原寸大の模型の方は、フランス軍の矢の的にされてしまうわけです。そして、粉々に壊されてしまう。そして、その同じやり方で、最終的にヨーロッパでもっとも大きな騎馬像ができたのが、ジラルドンが作ったルイ16世の像です。これも7メートル近くある史上最大のものだったのですが、こちらも残念ながら残ってないのですね。これバンドーム広場というところにあったのですが、フランス革命のときに、ルイの騎馬像なんて民衆は壊すに決まってますから、壊されてしまうのですね。


これはトリゴルチオという、イタリア人なのですが、ルイの将軍なのですね。フランス側についているわけです。そして、その騎馬像をまたも作ろうとするのですが、こちらも完成していません。ですので、戦争というのは爪跡を残すのですね。さてボローニャに司教座教会があるのは、サンペトローニャの大きな教会ではないのですね。その向かいにある非常に小さな教会なのですね。そちらの方が司教座教会として重要なのですが、そこにベンティヴォーリオというフィレンツェのメディチ家に当たる一家がいたのですが、その一家が礼拝堂を作るのですね。その礼拝堂の壁画を残すのですが、フェラーラ派の重要な画家がいっぱいいて作るわけですね。ただベンティヴォーリオの一家が政権を追われると、その礼拝堂も壊されてしまうのですね。運よくこの断片だけが残ってましたが、これは今美術館、国立絵画館にあります。お解りでしょうか、エルコレ・デ・ロベルティ、ほとんど日本人は知りませんが、イタリアではそこそこ知られています。彼の代表作はほとんどは、彼が生きている間に壊されてしまったのですが、この繊細な髪の毛の表現とか、涙のてりかえし、おわかりですか、こういった非常にテクニックの優れたすばらしい絵を残しています。


 戦争と申しますと、有名なのはやはりナポレオンですが、彼は、このボローニャに入るのですね。ボローニャにはラファエロが残した絵画があったのですが、板絵だったのです。今はボローニャに戻されましたが、ナポレオンがこの教会でこの絵を見つけるのですね。そうしてこの絵をなんとかナポレオンはフランスにもって帰りたいと思います。どうしたか。板絵のままだと大変です。ですから、その時点で板から画像だけ剥がして、キャンバス側に移すのですね。要するに板絵から絵のところだけ削り取って、それでキャンバス側に写して、丸めてもって帰る。ですから、非常に荒々しい処理をされてしまったのです。今では修復で何とか元の状態に近いものになりましたが、非常に大打撃を受けたのですね。価値感が変わると、絵の扱いも変わってしまいます。例えば、こちらのフィレンツェのサンタクローチェにあるジョット。巨匠ジョットの描いたものでありながら、その礼拝堂にお金を出したパトロンである銀行家が倒産した後は、この壁画は上に塗られてしまうのです。上にあったものをとったから、結構このくらいですんでますが、ジョットさえ時代が変わって価値観が違うと、必要のなくなったものというのはカバーされてしまうのですね。


 いきなりゴッホが出てきます。これは、日本人として歴史を考えていただきたいのですが、この作品は日本にあってもおかしくなかったのですね。これは松方幸次郎、松方コレクションを作ったあの人ですけれども、彼が購入した1点なのです。彼は現在のお金にすると500億円位で、その当時1万点位購入しているのです。日本人の美術史家として我々のほとんど父のような人で、矢代幸雄という人がいたのですが、その人が当時イギリスに留学中でしたから、その矢代幸雄と一緒に、彼ら2人でその絵画作品を買ったわけです。その当時は非常に安かったのですね、印象派の絵画も、後期印象派も。特に日本の浮世絵が非常に安く売られていたので、その1万点のうち8千点、約8割が浮世絵だったのです。それを日本へもって帰ろうとしたのですね。その1万点を。その時に関東大震災が起こってしまうのですね。関東大震災が起こると、復興資金がいりますから、日本は何をしたか。輸入品に100%関税をかけるのですね。それで、松方コレクションも持って帰る時に、国の資産として、国の為にもってこようとしたのですが、100%の関税がかかってしまうわけです。500億で買ったものですから、500億円払わなければいけなくなるわけです。松方幸次郎も怒ってしまうのですね。ですから、ロンドンとパリにとりあえず保管するわけです。そして、ロンドンの方はどうなったか。その絵画600点が火事で焼けてしまいました。そして、第2次大戦が勃発します。非常に不運が重なります。パリの倉庫で保管の400点は、敵国財産としてフランス政府に没収されてしまうのですね。そのうちの1点がこれなのです。そして、後に、部分的に返却はされるのですが、もう戦後随分時間が経ってますから、これがいかに価値があるものか、フランス人もわかっているので返してくれないのですね。現在もフランスにあるままなのです。そういった日本にとっての不運と、政府のなかなかタイミングの悪い政策によって、残念ながらこういった絵画が日本に来なかったという話です。浮世絵は無事でしたから、これは国立博物館のコレクションになっています。


 対照的なのがルーブルです。ルーブルは国が主導して、国が自分たちのコレクションを作るために、なんとか絵画や芸術品が集まってくるような税制をとるのですね。このへんがちょっと判断が向こうの方が上手だったわけですね。


 そしてユベールという設立の時期にいた人ですが、この方が書いているのが、この2つの協会でしょうか。こちらがルーブル、フランスの美術館で、こちらがいわゆるパーティナーですね。その当時の昔の芸術品をパリに復活させるのだという、そういう意図が透けて見えるのですね。


 今度は、宗教観が変わって、なくなってしまったものというのがあります。例えば、有名なところでサヴォナローラがありますね。説明する必要はないと思いますが、彼のしたことの中で、非常に我々にとって打撃だったのは、虚飾の焼却だったのですね。要するに、贅沢品、絵画、そういった豪奢、そういったものをどんどん集めてきて焼いてしまうのです。そして、最後は自分が焼かれるという、ちょっと怖い結末になります。例えば、ボッティチェリ。彼の描いたこの主題はいかにも異教主題なのですね。ビーナスですから、キリスト教主題ではないわけですね。それが、サヴォナローラの時代をへて、その後、彼は非常に不思議なキリスト教の神秘主義的な絵画をたくさん残すのですが、この間にサヴォナローラに感化されて、自分の絵をかなり焼いてしまうのですね。これは本人が宗教観の変化によって美術品を減らしてしまったという悲しい例なのですね。


 美術品を画家が自分で焼いてしまったという例でいうと、ローワックが非常に有名ですね。彼はある日いきなり自分の絵画を何百点も集めて焼いてしまうのですね。これは理由はよくわかっていません。


 宗教観の変化で絵画がなくなったというと、やはりこのイコノクラスムですね。新教が、プロテスタントがでてきますね。プロテスタントは、簡単に言うと宗教原理主義です。モーゼの十戒に、自分の姿を絵に描いたりして拝んではならぬというのがありますね。ですから、父なる神を像にする、イメージにするというのは、カトリックのやりかたなのですね。1565年、同じ聖書が新教の側で、新教の国で再版されるのですが、そのときになると、ヤハウェと書いてあるだけで、神の姿はないのですね。これは、この2つの立場の明確なイメージの扱い方の違いなのですね。


 これだけではすまないのですね。何をしたか。これはスイスのある地方で行われたイコノクラスム、要するに偶像崇拝禁止令の状況です。このように教会にあった美術品をぼんぼん放り投げて焼くのですね。スイスでは、今でも教会の中はあっさりしています。これはイコノクラスムが非常に徹底された名残でもあるのですね。


 ちょっとおもしろいところでは、ミケランジェロの最後の審判、この布はもともとはなかったのですね。これは教会に怒られて、一応彼らと話し合って、これ塗りつぶせと言った人もいるのですが、一応これでカバーするということで折り合いをつけたわけです。


 これもおもしろいですね。コレジョロマーノというローマの通りですね。アンドレ・ポッツという方がこの壁画を描いたのですね。これはアナモルフォーゼという非常にゆがんだ形で描かれたのですが、これは神学校の宿舎なのですね。そこに、この非常に異教的な芝居もそうですし、非常にゆがんだおもしろい絵を描いたのですね。バロックの頃は、神父たち、神父画家と言われる神父兼画家である人たちが、争って流行させるのですが、その後、こういったものはけしからんということになって、このカーテンの裏に隠したのですね。これは立派なカーテンです。これは作者の名前は残っていません。現在は修復されて表に出してしまっているのです。ということは、このカーテンもやはり失われてしまったのですね。このカーテンは写真でしか残っていません。これも非常に数奇な運命をたどった美術品です。


 最後に、最後の晩餐を見ていきましょう。修復前と修復後です。キトラ古墳を例として、先ほど申しましたように、フレスコ画のような壁の中にしみこんでいる場合は問題ないです。ただ、アスベストみたいに、砂が吹き付けてあるような状態のところに絵がのっているわけですから、これをへたにつっつくと、ボールペン1本で1つの部分がぼこっと落ちてしまうような、そういった非常にもろい状態なのですね。ですから、非常に難しい。このケースに最も近い作品というのが、この最後の晩餐なのですね。この絵は本来はフレスコ画として描かれるものなのですが、実はテンペラ画なのですね。ですから、本来は木の板に卵を溶剤として塗るという技法なのですね。それを壁にやってしまったのです。そうすると、漆喰の中に全くしみこんでいきませんし、もちろん漆喰が完全に乾く前に描くということもしていません。彼は仕事が遅い人ですから、自分にあった技法は油絵なのですね。フレスコ画のように乾く前に全部描かなければいけないというああいうのは性にあわないのですね。ありがたいことに、これ非常に評判を呼びましたから、いくつも同時代の模写が残っているのですね。それを見ると、足のところとかちゃんと残っているのですね。おわかりですか。今はこの足ないのですね。これは、こちらが食堂なのですね。食堂に描くから最後の晩餐の主題でよかったのですが、その後ろ側に厨房があるのです。厨房からえっちらおっちら廊下を通って持ってきてましたから、スープが冷めるのがいやだったのでしょうかね。ここに穴をあけてしまったのですね。通路を作ってしまったのです。そうすると、湯気がどんどんきますから、非常に痛みも早いのですね。


 戦前にはこういう状態だったのですね。これ土嚢を積んである最後の晩餐の壁なのです。こちらの壁もなんとか逃れてますけど、これは第2次大戦で連合軍がミラノを爆撃したのですね。そのときに、土嚢を積んで、なんとか守ろうとして修道士たちが努力したのですが、そちらは運良く直撃はされなかったのですが、こちらの壁は落ちてしまったのですね。


 これはブランビッラという世界一と言われる修復士が長年かけてやったのですね。これは片桐先生の図案からとらせていただいたのですが、今はどういう配置に食器があったなんていうこともわかりますから。おもしろいのは後ろに壁があって、タペストリーがかかっているように描かれていたのですね。これは真っ暗でよくわかりませんね。もともとはこういう柄だったのですが、真っ暗になってしまいましたから、その後にある時点で、これはもう修復はできないということで別の絵を描いてしまったのです。こういう紋章を描いたのですね。それをやっと今、昔のこの花の色が少しずつ出てきたのですね。昔の修復のやり方がよくわかりますね。今は筆を加えるということは基本的にしないのですが、昔はこういうふうに非常に荒っぽいのですね。この絵のように、自分で勝手に描きくわえてよかったのですね。昔の修復士というものの役割というのが今と違うのですね。こちら修復前、修復後です。非常に鮮やかな違いがおわかりですか。過去の修復でいろいろなものが足されているのがおわかりですか。こちらはもう元の絵が残ってなかったのですね。その上にデザインを描いていたりするわけですね。こういったところも修復をするときに、どこまで修復するかという非常に難しい問題になるわけです。


 サンタマリア・ノヴェラはフィレンツェの駅前にあって、駅の名前にもなっています。このサンタマリア・ノヴェラに、いわゆるルネッサンスらしさをはじめてマザッチョが作り出したという絵があるのです。これは、今では美術史の教科書に出てくるような絵なのですが、ずいぶん長い間この前に祭壇画が置かれていたのですね。祭壇画が置かれていて、全く見えない状態だったのですね。我々がよいと思うそのものを、ある時点で歴史的価値を失っていたという1つのよい例なのですね。


 例えばこちらはボローニャのサンマルティーノから発見された絵なのですね。これもこの前に家具が置かれていたのですね。その家具を取り外すと、この中からこのパウロ・ウッチェロの絵が出てくるのですね。


 こちらヴェネツィアのコレル美術館にある非常に有名な絵なのですね。カルパッチョが当時の娼婦の姿を描いている非常に有名な絵なのですが、これは、皆さんよくご存知でしょうけれども、これはもともとこんなに長い絵だったのですね。これがある日切られてしまったのですね。そして、こちらはヴェネツィアに残って、こちらはアメリカにあるのですね。非常に不思議なことがおこります。


 それで、外に置いてある美術品の保存の1つの方法として、やはりコピーをとるというのはしょうがないやりかたなのでしょうね。こちらもそうですね。そしてダビデもそうですね。これもコピーで代用させていますが、これはしょうがないのでしょうね。


 余談ですが、このサンタマリア・ノヴェッラのファサードは今は豪華なファサードがついていますが、美術史では見向きもしませんね。というのも、これ新しいものなのですね。今であればおそらくこれに新たにファサードを付け足すということはしないでしょうね。これも昔のある段階ではそういったこともしてよかったということなのですね。おもしろいですね。


 例えば、この教皇のお墓を飾る予定だった奴隷たちがたくさんいますね。ミケランジェロが半ば完成、半ば未完成のまま放ってありました。そのうちのひとつを、メディチ家がベルベデーレの1つのグロッタ、洞窟の中にはめ込んで遊んでいたのですね。これで1つのものとしていたわけです。もともとこんなところに作るためにミケランジェロは作ったわけではないですから、これは再利用だったわけですね。ですから今はこれを取り外して、そしてこの現物はミケランジェロのダビデの隣にあります。要するにアカデミア美術館にありまして、今ではここにはコピーが置かれています。昔行かれた方はおわかりでしょうが、以前はこれもかいてなかったのですね。ですから昔、ここにミケランジェロがあったという記憶だけが残っていて、こういった状態では残ってなかったのですね。今では逆にミケランジェロのこういったものがあったのだということの方にむしろ価値を見出して、コピーを置くという非常に逆説的な解決法もしているわけです。


 こちらもまたレオナルドですが、レオナルドのこの有名な聖ヒエロニムスの絵ですが、この部分がちょっと四角になっていますね。この絵は非常に数奇な運命をたどっているのですね。ナポレオンがイタリアに入ってきて、彼のおじさんに当たる人が枢機卿をしていたのです。彼がローマの古物商街を、アンティークが趣味ですから歩いていたのですね。そうすると、ある家具屋にこの絵が貼り付けてあるわけですね。そしてその枢機卿は、これはちょっとただものの絵ではないなというのを見出すのですね。ただそのところには、ここに窓枠がありますが、ここのこの顔だけがなかったのですね。そこで、彼はその後古物商街を調査するのですね。そして3ヵ月後、ようやくこの顔を発見するのですが、そのときは靴屋の椅子の背に入っていたのですね。なんとレオナルドの作品がそういった目にもあっていたのですね。これはありがたいことに、そういった歴史的経緯がありながらも、再び再発見されて、元に戻ったという幸せなケースでもあるのです。ただ、残念ながらこの四角い跡というのは生々しく残っているわけです。


 こうして絵の具屋さんに筆がたくさん並んでますね。1番細い筆は、無条件でレスタウロという名前がつくのですね。これはどんな絵の具屋さんに行っても、もっとも細い筆、これにレスタウロという名前がつくのです。これは、簡単に言うと、レスタウロは線をひいてはいけないというのですね。要するに、点で処理する。そのために細いものでないといけないのです。これはもう面で、幅の広いもので点をおいてしまうと、もうそこには創造性が付け足されるということになるわけです。要するに、それはもう絵画であって、修復ではないという、こういった理論がブランディ以降、イタリアにはあるのですね。ですから、そういった象徴として、この細い筆をレスタウロと呼ぶわけです。


 これも戦争の爆撃でやられてしまったものですね。マンテーニャがパドヴァのウエザーリという大学に残した非常に質の高い絵があったのですが、これは残念ながら第2次大戦で粉々になりました。下にあるのはコピーの写真です。その上にこうして残った本物のピースを貼り付けて、非常に悲しい状態なのですね。


 おもしろいところでは、修復を海の中でやる場合もあります。なかなか荒っぽいやり方をしているのですが、海の中にたくさんの遺跡が沈んでいますから、このようにイタリアでは1つ1つ、これモザイクですから、モザイクを洗って、はずして、もう1回埋めなおすという苦労をしているのですね。向こうの修復のエリートさがよくわかります。


 こちらも最近修復が終わったのですが、お見せしていきましょう。クルゾーネというベルガモの方にある、山の上にある小さな町なのですが、そこの教会のファサードなのですね。ですから、これは外に出ているのですね。今でも吹きさらしなのです。ただ、非常に質が高い、このひさしがありました上に、長年たってもそんなにぼろぼろになってないのですね。ですから、修復を終わって、この作品に関しては元のところに、外に出すことを選択しました。というのも、こういった大きな屋外にある修復品を、修復の終わった後、そのコピーをおくか、何も言わずに美術館に入れてしまうというケースが多いのですが、この教会のここに、表に出ているからこそ、この作品の価値があるのだという、その再確認のために、こういった選択をしたということです。


 非常に散漫になりましたけど、結局修復というのは技術の話ではないのですね。それは後からついてくる話であって、要は美術品が、どこからどこまで美術品か、その絵の置いてあるその画像だけなのか、その絵が描かれているその建物だけなのか、それを取り巻いて環境そのものなのか、そういった空間そのものが美術品なのか、そしてそれをどこの地点までさかのぼるか、どこまで加えられたものを美術品として取り戻す対象にするのか、ということも考えるのが修復の哲学なのですね。ですから、これから日本には解決しなければいけない修復の問題がつまっていますから、これを我々1人1人がそういった問題意識を抱えていくのも、いいことなのではないかと思います。


 非常に散漫な内容になりましたが、長い間ありがとうございました。



司会  池上先生、どうもありがとうございました。それでは、もし質問があればどうぞ。


 


 質問  どうも長い間ありがとうございました。途中に、板絵だったものをキャンバスに張り替えるというか、移すという話があったのですが、違う会場でそういうのに出会ったことがあって、本当にどうやって板から布に移すのか不思議に思いました。簡単で結構でございますので。


 


 池上  これはいろいろな方法があるのですね。媒体ともうしますが、それが厚い場合、だいたい5ミリ以上ある場合は、画層だけうまい具合にセロハンのようにはがれることもあるのですね。これを昔の板絵からキャンパスに移すというときはよくやっていたのですね。その後、膠のようなもので間をとめてやるということをやっていたのですね。今は、非常に薄い場合は、逆向きにして、表面に膠を塗って、ここに紙を置くのですね。そこにまず移して、そして後ろをとりはずして、キャンバスに張りなおすということもやります。このときに、板絵にも使うのが日本の和紙なのですね。修復に使われる非常に優秀な紙は、日本の和紙なのですね。荒っぽく見えますが、そういう方法でやってますね。非常に乱暴に見えますが、板は後ろが虫に食われてぼろぼろになっているときがありますから、そういったときも、移してやることで、むしろ、長い寿命がまた約束される場合もありますから、そういったときにそういう選択をしますね。


 


 質問  天国の扉の話がありましたが、今はいわゆる本物と称されているのが美術館にあるわけですが、そっちが本物で、今飾ってあるのがコピーなのか、それともあれは修復なのか。ああいうブロンズの像のときには型をとったりする作業がありますから、考えようによっては今飾ってあるのは、修復したのではないかと考えてもいいような部分もありますし、それから前にかざってあったものも、たぶんある時代に、違う型でおこされたものだったのかもしれないと思うし、その辺はどうなのでしょう。


 


 池上  なかなか難しいものですが、ブロンズの場合は、型が残っていれば、同じ材質で作ったものなら、それは同じものではないかというその理論はよくあるのです。ですから、ロダンの場合には型が結構残っている例がありますね。そのロダンの型に合わせて何体も作ってあれば、それはじゃあ本物か。つまり本物が作られて生まれていくのか。でもそれは違うと、どこかの時点でその型の劣化が始まりますし、型自身を作った方が使ってない場合というのは、これはもうオリジナルとして認めないのですね。例えば、天国の門の場合、あれ型をおこして、それで、例えばもともとは金が張ってあったのだから、直してやるということで、今は金ぴかです。でも美術館に入っているもともとオリジナルだったものは、これは金はもうすっかり取れてしまったのですね。ですから作られた当時の時代にもっとも近いものはどちらかといえば、見た目に関しては、今のコピーの方が近いのですね、確かに。私もこの問題に関しては、すぐにどちらがよいですというのは難しいものなのですね。当時作られた見た目に近いものを、オリジナリティが高い、むしろ近いものとするのか、あるいは、もともと長い間ずっとあそこに置いてあって、古くなったものをオリジナルとするのか、私はもちろん後者の立場です。というのも、やはりパーティナなんていういわゆる時間によってくすんでしまって、少しかけてしまった状態、これを一部として認める。それが全体的な統一性の中に含まれているラインだと我々思っていますから、もともとの状態はコピーの方が近いのだという議論はありますが、むしろ時間がたってぼろぼろに崩れたほうをオリジナルと認めるという立場ですね。


 


 司会  修復は哲学そのものであるとすると、その哲学そのものが将来変わっていくということも当然ありうるわけですね。そうしますと、我々にできることは将来哲学が変わったときにも対応できるような修復をしておくということが重要なのですね。


 


 池上  その通りですね。それが正しい意見となりますね。やはり我々にできるのは、とにかく今の状態から更なる悪化はなるべく避けること。これがまず1つ。そして、もし何かそれを、悪化を避けるために何か加えるのであれば、それはいつでも取り外せるような、可逆性を持たせること。それと後は地震などのために、崩れるようなケースが考えられるのであれば、それを予防としてやる。要するに、予防的な修復とかよく我々の会議に出てくるのですが、それが最も重要な修復であると。というのも、何か起こってしまってそれを修復すると、これ完全にオリジナルの状態に戻すというのは非常に難しいですから、できれば最初にそれを避ける方策が練られるのであれば、そちらの方が重要だという考えで我々はいます。


 


 司会  どうもありがとうございました。今日は大変すばらしいお話で、皆さん感動されたのではないかと思います。先ほどご紹介がありました本は、三元社から出版されています。「修復の理論」チェーザレ・ブランディ。修復に関してのバイブルということです。ご興味のある方は本屋さんで手にとって見ていただきたいと思います。