ベルルスコーニのイタリア

第314回 イタリア研究会 2006-06-23

ベルルスコーニのイタリア

報告者:神戸外国語大学教授 村上 信一郎


司会  こんばんは。これからイタリア研究会の6月例会を始めたいと思います。今日は「ベルルスコーニのイタリア」という題で村上信一郎先生にお話を伺うことにしました。先日のイタリア総選挙の結果について、皆さん固唾をのんで見守っておられたのではないかと思いますが、まさに中道左派が薄氷の勝利をおさめまして、ついにベルルスコーニの時代が終わったということになりましたが、このことについて村上先生にお話をしていただこうと思います。まあイタリア研究会、固いテーマのときはだいたい集まりが悪いのですが、今日は非常に集まりがよくて、皆さんの関心の高さがうかがわれると思います。

 それでは最初に村上先生をご紹介させていただきます。村上先生は1948年神戸のお生まれで、神戸大学の大学院法学研究科の博士課程を修了された法学博士で、現在神戸市外国語大学の教授をしておられます。ご専門は、国際政治史、現代イタリア政治ということです。1973年から75年、ローマ大学の政治学部に留学されました。それから、1988年から89年には、コーネル大学の客員研究員として研究をされております。また、ちょうどベルルスコーニの時代に当たります2005年から今年まで、フィレンツェ大学の客員研究員としてイタリアに滞在しておられました。

ご著書は非常にたくさんあるのですが、『権威と服従―ファシズムとカトリック政党』あるいは『イタリアの政治』『EUの中の国民国家』が代表作かと思いますが、いちばん最近では雑誌の世界に「分裂と混迷のイタリア‐中道左派が薄氷の勝利」という論文を書いておられます。最近の翻訳には、アンジェロ・パーネビアンコの『政党―組織と権力』、昨年ミネルヴァ書房から出版されたこういった著書が含まれております。

とういうことで、イタリアの政治にかけましては、日本のまさに第一人者である村上先生に「ベルルスコーニのイタリア」という話をしていただくことで、非常に興味深い話がお伺いできるのではないかと思います。それでは、よろしくお願いします。



 どうもご紹介ありがとうございます。村上信一郎と申します。第一人者というのは全くうそでございまして、私のほかにもイタリア政治の専門家はたくさんいらっしゃいます。私は去年サバティック・イヤーをいただきまして、1年間フィレンツェで暮らしてまいりました。1973年から75年にかけて私は初めてローマで留学生活を送りました。それ以来ほぼ30年ぶりのイタリアということでなります。私はもう57歳です。フィレンツェで暮らしたのは56歳のときでしたから、皆さんから非常にうらやましがられるというか、ずるいとか、そんな休暇を一年もとっていいのとか、さんざん文句を言われました。こんな年の人間に留学なんかさせて、大学として元は取れるのかという陰口もきかれそうですが、それを押し切って、フィレンツェに留学というか、遊学したわけです。

 皆さんは、エドワード・モーガン・フォスターの原作をもとにした『眺めのいい部屋』という映画をご存知でしょうか。私がフィレンツェで暮らしたアパート、すなわちパラッツォは、その舞台になったところでした。地名でいうとルンガルノ・アルキブジエーリです。アルノ川に面したヴァザーリの回廊のすぐまん前、ウフィッツィ美術館とポンテ・ヴェッキオの間というところに、私は1年間暮らしました。E・M・フォスターという作家は僕がひじょうに好きな作家の一人です。とはいえ英語できちんと読んだわけではありません。日本語の翻訳で読んだのですが、僕は『天使も踏むを恐れるところ』Where Angels Fear to Treadという小説がひじょうに好きで、これは皆さんがも『「眺めのいい部屋」という小説をお読みになったり、映画をご覧になったりしていれば、お分かりだと思うのですが、イタリア人というのはもう完全に野蛮人扱いですね。イギリスの目から見ると、イタリアというのは、とんでもないところで、野生、野蛮、情熱、恋愛、破滅、そういうネガティブなシンボルに満ち溢れたところということになります。

 ご承知のように、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』という本を書いています。それによるとヨーロッパの人たちから見て東のほうは、すなわちオリエントというのは、すべてが一種のネガティブな鏡像というか、イメージを作り出す源泉となる。そんなヨーロッパ人が抱いている非常に深い差別と偏見の構造というものを示しているのですが、19世紀や20世紀初頭のイギリス人が、イタリアを見ると、それと同じように見えているのかという気がしてなりません。イギリスの、理性的な、あるいは知性的な、あるいは偽善的な人たちが、イタリアに来ると、本音むき出しの欲望とか、情熱的な恋愛感情とか、どろどろした男女関係とか、そういう性の深層に根差す本能に目覚めていく。このような南の国にきて、つまりイタリアというところに来ると、そうした人間本来の欲望や情熱がよみがえってくる。そしてそのようにして生気を取り戻したあと、またあの暗くて、ひどく食事がまずい、理知的で偽善に充ちたイギリスに帰っていく。

 そんなことから、『眺めのいい部屋』の舞台になったということで、家賃は高かったのですが、すぐにその部屋を借りることに決めてしまいました。正直なところ、ちょっと期待していたのです。いいかえるとフィレンツェの上流生活というか、ブルジョア生活にかなりの好奇心がありました。といっても私の暮らしたその建物は、そんなに豪華なものではありませんでした。1495年に、ジローラミという一族が建てた建物です。これはフィレンツェの司教を出した宗教界の権力者の一族です。本来はルネサンス時代の建築です。ただご存知かもしれませんが、実はナチスが1944年にフィレンツェを撤退するときに、アルノ河畔一帯を全部地雷で爆破してしまいました。ポンテ・ヴェッキオだけが残りました。そのために、私が暮らしたジローラミ館、パラッツォ・ジローラミも破壊されてしまい、天井が全部抜けてしまったそうです。その後1948年に再建されたものですから、当然のことながら、オリジナルのものではありません。

 私の暮らしたその建物は、そのジローラミ家がそのまま持っていたわけではなくて、私はジョヴァンナ・ビアンキさんという、ちょうど1925年生まれ、80歳のご夫人がその所有者でした。そこのメッザニーノっておわかりですか。日本風の表現で言うと、2階と3階の間の中二階、天井があまりにも高いもので、そこにまだ部屋取れるのですね。そのメッザニーノを借りました。60平米くらいありましたけど、ワンルームです。しかし、実は眺めはよくありませんでした。アルノ川と正反対の方向に、つまり路地裏の方に向かって窓がありました。よその家の屋根を見て暮らしていました。そして屋根の上には鳩がたくさんいまして、その鳩のカップルの仲がとてもいいのですね。僕はイタリア語でおしどり夫婦というのは、ドゥエ・コロンビ、イタリアではそういうふうに言うのだと、初めてジョヴァンナさんから教えてもらいました。ジョヴァンナさん、つまり家主さんのお母さんが著名な絵描き、風景画の画家でして、しかもそのお母さんの一族はフィレンツェでも随一の毛皮商人、いいかえるとボルゲジアだったそうです。それで、そのパラッツォを持っていたのです。ひじょうに瀟洒なアパルタメントです。

 そういう話をしながらも、家主のビアンキさんとは最初かなり距離がありました。しかし、あるとき彼女から、僕がどんな新聞を読んでいるか聞かれたことがありました。そしてそれがたまたま新聞を買って階段を昇ってきたところで、あなたは『レップブリカ』を読んでるのといって、とても喜んでくれたのです。『レップブリカ』は、確か1975年にローマで創刊された新聞です。エウジェニオ・スカルファリという人が、かなり個人的なイニシアティブを全面に打ち出した中道左派系のタブロイド版の新聞です。ご承知のようにイタリアでは『コッリエーレ・デッラ・セ-ラ』がいちばんよく知られています。しかしジョヴァンナさんは創刊以来『レプッブリカ』を愛読しているといっていました。

 そんな話から、ジョヴァンナさんのお父さんが反ファシストであったことを知りました。ただ、コムニスト系ではなくて、自由主義系の『正義と自由』Giustizia e Liberta`というグループに属していたそうです。積極的な活動家ではなかったそうですが、意識としては明確に反ファシストの立場を貫いていたそうです。お母さんも画家でしたが、マルゲリータ・サルファッティというムッソリーニの愛人なんかがやっていた「二〇世紀」Novecentoといった芸術運動には参加しないと心に決め、ひたすら風景画を描き続けることにしたそうです。つまりファシスト時代の主流派の絵描きたちからなる画壇には一切加わろうとしなかったのです。そのような形で一種の抵抗精神を示していたわけです。ヒットラーがフィレンツェを訪問したときのことですが、家の前の通りをヒットラーのパレードが通過するときに、みんなは窓からハーケンクロイツ、つまり鍵十字の旗をさげたときに、彼女の家だけは、フィレンツェの市の紋章、つまり赤いゆりの花の旗をさげたそうです。そういうお父さんを非常に誇りにしているというのですね。

 そういうことから、だんだんと彼女のことを知るようになっていきました。フィレンツェの人はとくに、あまりプライバシーについてはしゃべりたがりません。最初のころは、ほんとうによくわかりませんでした。80歳なのに、終生独身だったのかなとか、結婚したことあるのかなと、いろいろ迷ったりしていたのですが、しばらくすると、ジャンピエーロさんというボーイフレンドがいることがわかりました。弁護士さんで幼馴染だというのです。ジャンピエーロさんには二人のお子さんがいて、もう立派に成人し、それぞれすでに家庭を持っています。奥さんを早くに亡くされたそうです。イタリアははもうすぐ夏休みです。フィレンツェでは、守護聖人である洗礼者ヨハネ、つまりサン・ジョヴァンニ・バッティスタのお祭りが今年は6月24にあります。フィレンツェでは、そのあたりから夏休みということになります。ジョヴァンナさんには、チェゼナーティコというアドリア海の小さな港町に別荘があって、ジョヴァンナさんは、だいたい6月の末から2ヶ月ほどそこに行ってしまうのです。ボーイフレンドのジャンピエーロさんも一緒に行っちゃうわけです。どんな関係なのか、僕はあまりしつこくは聞かないたちですから、よく分かりません。ですが、そのジャンピエーロさんともだんだんと仲良くなって、いろいろお話しするようになりました。けれど二人のプライバシーについては何も知らないという状態が続きました。

 そうこうするうちに、ジョヴァンナさんは私にプリーモ・レーヴィが書いた詩のコピーをとってくれました。”Nulla rimane della scolara di Hiroshima”という1978年に書かれた作品です。これは広島の話だけど、読んでみないかというのです。そんなことから、いろいろと別の話に広がっていって、サルヴァトーレ・クワジモードというひじょうに著名な、ノーベル文学賞をとった詩人の詩のコピーとってくれました。そして、その後3度目ぐらいになると、ジョルジョ・ラピーラというフィレンツェを代表するカトリック政治家の伝記をくれました。宗教家にして政治家であり、フィレンツェ市長を長く務め、平和運動にも大きな役割を果たした人物です。今では聖人の候補者にもなっています。そういう人物の伝記をくれて、あなたこれも読んだらどう、ということになりました。

 そういうふうにして、だんだんと親しくなってくると、僕が詩を読みたいと言ったら、一緒に読んで教えてあげようといって、部屋にあげてくれました。彼女のアパルタメントは、とても素晴らしいものです。そのサロンには、ビジネス用のデスクと読書用のデスクが別々にあって、それとは別に大きな応接机があります。読書用のデスクは小さなものでした。それで、2人隣あわせにならんで座り、僕がイタリア語で詩を読んでいきます。そこのアクセントは間違っているとか、いろいろと教えてくれるのです。そして、そのあとで解説をしてくれるわけです。そんなときに、ときどき彼女の体が寄りかかってくることがありました。しかも彼女はもう80歳にもなるのに、とてもスリムで、私のアメリカ人の友人が彼女の写真見て、とてもきれいな足をしていると言うぐらい、魅力的なのです。イタリアの女性は、ブラウスを着るとき、よく、うえから一つ目のボタンをはずすことがあります。彼女もそうでした。それで、きゅっきゅっと寄ってこられると、思わず私は80歳の女性に色気を感じてしまって、なんだこれはと、ふと自分で思ったりしたことがありました。いや、こんなことを体験するって、日本ではあまりないよな、と思いました。

 まあ、つまりないことを申し上げましたが、そんなふうにして、フィレンツェでの生活は始まっていきました。ちょっと少し話はかわりますが、フィレンツェのボルゲジーア・コンメルチャンテの生活って、本当にけちなのですね。例えば、僕のよく行くようなリストランテは全部高いと言うのです。そんなところには彼女は絶対にいきません。本当に京都人を彷彿させるほど、ドケチです。その一方で、私が家賃をきちんと期日どおりに納めるということを非常に高く評価してくれるのです。家賃は現金払いで、そのときはサロンにある事務用のデスクで、きちんとお金を数えることになります。そんなこんなで、私はこの1年間フィレンツェで、日常のこまごまとしたことをとおして、非常に面白く、楽しい経験をしました。またジョヴァンナさんも、だんだんと私を信頼してくれるようになり、最後の最後の、私が帰国する一ヶ月くらい前になってから、じつは娘さんがいた、と教えてくれました。それも四〇いくつまで生きていて、1994年に亡くなったという悲しいお話をしてくれたのです。サンミニアート・アル・モンテの横の市営墓地に亡くなった娘さんのお墓があり、お墓参りにも一緒に行きました。

 それから、あるとき、ジョヴァンナさんに、英語は読めるのかと聞いたことがあって、そうすると失礼な!と怒るのですね。私は英語が得意だというのです。もうしゃべれはしないけど、読むだけなら大丈夫だというのです。たまたま私の知人が英語で彼女に手紙を書くということになったときに、そういう失礼なことを言ってしまったのです。しかしなぜ英語の読み書きができるのか。そこから、彼女が実は第ニ次大戦後、イギリス人の英文学教授と大恋愛をしたことがわかりました。彼女はとてもイギリス贔屓でした。他方、ある意味ではイタリア人を非常に軽蔑しているのです。ここでやっと話がつながりました。つまりE・M・フォスターの話と少しつながってきましたが、『眺めのいい部屋』の話を彼女にしました。もちろん読んだそうです。僕は『天使も踏むを恐れるところ』がとても面白くて好きだというと、それは彼女も好きな小説だということでした。

 そんなことをとおして、イギリス人がイタリアを見るときの独特の感覚、あるいはまるでイギリス人のような視点からイタリアを見るジョヴァンナさんのような人がもつ感覚について、それはどんなことなのかと考えるようになったのです。

 つまり、次のようなことを考えるようになりました。僕はこの一年間、イタリアにいて、じつはあまり楽しくありませんでした。たまたま今日はイタリア文学を専攻なさっている武谷なおみさんがいらっしゃるのですが、フィレンツェ滞在中、ずっとこんなふうに感じていました。僕はどうしてイタリアの政治のようなつまらないことを専門にしてしまったのだろうと。この一年間は本当にMi sentivo a disagioだったのです。僕と同じ1973年にイタリア政府から奨学金をもらった建築史の陣内秀信さんはヴェネツィア、僕はローマに留学しました。陣内さんの講演会には、今や“追っかけ”のファンが出るほど大人気だそうです。うらやましいかぎりです。陣内さんは、イタリアのことについては何を書いても、楽しいお話を書けるというか、本当に性善説を絵に描いたような陣内さんならではの作品がたくさんあります。僕も大好きです。南イタリアのことを書いたり、シチリアのことを書いたりするときでも、すべてがいいんですよね。つまり、イタリアの何もかもが、彼にとってはすばらしいものなのです。でも、僕ならば、例えば南シチリアのシャッカという町に行った場合、その町の目抜きにある十字路でマフィアによる殺人があったことを、まず思い出してしまうのです。ここでどんな事件があったのかがすぐ脳裏に浮かんでくるのです。さきほど私はフィレンツェにいるあいだ、ずっと居心地の悪い気持ちをずっと抱いていたといいましたが、シチリアというと、イギリス人ではないのですが、アレキサンダー・スティッレというアメリカ暮らしをしているイタリア人の作家が書いたExcellent Cadaversという優れた作品のことを思い出さないわけにはいきません。直訳すれば『要人たちの死骸』というノンフィクションです。マフィアはひじょうにたくさんの要人たちを暗殺しました。検事、判事、警察官たちを。県知事として送り込まれたダッラ・キエーザ将軍も殺されました。シチリアのマフィアがどんどん要人たちを殺していくわけですが、マフィアの跳梁跋扈と政治権力との絡み合いについて書かれたドキュメントとしては最高の本だと思います。僕はイタリアに着いてからしばらくは、3ヶ月くらい、ずいぶんたくさんマフィア関連の文献を読みました。そんなこともあって、とにかくずっと憂鬱な気分に落ち込むことになりました。家のすぐ隣にあるウフィッツィ美術館にも何回も行きましたが、だんだんとそんな気力もなくなってしまうぐらい、落ち込んでしまいした。娘からも電話で、お父さんそんなことばかりするのはやめて、美術館めぐりでもしたほうがいいんじゃないのといわれました。ずっとそれ以降、ひょっとすると鬱病に近いんじゃないか、あるいは不定愁訴というか、なんだかよく分らないけどあまり気が晴れないという状態が続きました。ずっとイタリアのことを考えてきましたが、僕もイタリアのことが大好きで、イタリアのことを悪く書くとか、批判的に書くとか、そんなことをしてもほんとうは全然うれしいわけではありません。ここには先ほどお話ししたように、武谷なおみさんもいらっしゃいますが、シミオナートさんとの長い長いお付き合いについてこの度ご本をお書きになりました。僕もこういうふうなことが本当はやりたいことだったのかもしれません。あるいは須賀敦子さんの小説のようなことができればと思っていたのかもしれません。イタリアにはいろいろなところがあるのだけど、須賀敦子さんの描くナポリはすばらしいですよね。スパッカナポリのことを書いていますが、やっぱり怖くて早々手放しで礼賛できません。正直今のナポリの治安はひどいですと思います。それででも、須賀さんならば、ああいうふうに書けるのだなということは非常に心に残っています。

 それはともかく、イタリアのことを研究するということは一体どういうことなんだろうと、ずっと自問自答しつづけてまいりました。そんなこともあって、皆さんにお配りしたレジュメの一番冒頭のところで、イタリアにおける政治改革とは何であったのかと書いたあとに、「政治学の敗北、人類学の勝利」と変な、謎めいた書き方をしました。こういう国を政治学という形で勉強するということに意味があるのかなと、ひょっとするとないんじゃないかと思ったわけです。むしろアントロポロジア、つまり文化人類学というよりむしろ人間学と訳した方がいいのかもしれないけど、つまりもっともっとそういう人間学としてのイタリアということに結局のところ帰ってきてしまうのかなと考えたりもするわけです。そうすると、政治改革が失敗したということを認めるということにもなるのですね。

 で、これはなぜかということをこれからお話したいと思うのですが、要するに、アングロサクソン系の人たちが、先ほど言ったイタリア生まれですが半ばアメリカ人といっていいアレキサンダー・スティッレとか、あるいは僕がいたフィレンツェ大学にはポール・ギンズボーグという、1945年生まれのケンブリッジ出身の秀才で、イギリス人の歴史家が教鞭をとっています。彼はEU市民ですから、そういうポストも、問題なく手に入れることができたのだそうです。ギンズボーグはペンギンから歴史物をもうすでに2つも出しています。英語で読めるオーソドックスなイタリア現代史の本ということで、ひじょうによく売れております。A History of Contemporary Italy、Italy and its discontents、といった作品です。ただギンズボーグは、イタリアに対してはひじょうに批判的です。けれども、彼と会ってしゃべるとわかるけれど、イタリアが嫌いなわけでは全然ありません。つまり、そのアンビヴァレントな感じというのが、何か私にもひじょうにわかるところがある。なんでだろう。つまり、イタリアという国に対して、愛情と同時に、一方でこんなままでいいのか、この国はこのままでいいのかという気持ちが強くある。いうまでもなく、これは非常に傲慢な言い方です。よその国のことなのに、そんなふうにいうのは。しかし、そんな気持ちは、私にもとても強いわけです。

 ところで、今日のレジュメは3枚もあって、これでもう25分もしゃべってしまっているので、このままでは終わらないことは明らかです。そこで、少しはしょって、3枚目から先に、つまりむしろお帰りになる前に結論だけ先に言ってしまって、後中身は適宜時間の許すかぎり触れていこうと、そういうことで、3枚目の一番最後の6ページのところから、ちょっとご覧いただきたいと思います。

 さきほどマフィアの話をしましたが、それとベルルスコーニの話には、直接つなげることはできません。話しは飛んでしまいますが、レジュメの6ページの(3)のところをみてください。Media Ochlocracyという言葉を使いました。Ochlocracyなんて僕が使うのは傲慢きわまりないのですが、衆愚政治というよりは、むしろ市民を衆愚として扱うような政治を意味するというつもりで使いました。それにつづけてアントニオ・タブッキという作家の言葉を引用しました。ちょっとご覧になっていただきたいのですが、“Trent’anni fa Pasolini prevedeva una “mutazione antropologica”degli italiani”。たしかパゾリーニが殺されたのは1975年でした。mutazione antropologicaは彼がよく使った言葉です。ちょうどそのころのイタリアが、ずいぶん大きな変化を遂げたというのです。パゾリーニは、もともとエキセントリックなことをいう人ですが、その頃はテレビをやめてしまえといっていました。テレビが青年を犯罪者に仕向けているのだというのです。まだこの時期には、ベルルスコーニはいませんが、テレビのせいで世の中がおかしくなる。若者みんながいわば犯罪者のようなメンタリティを植え付けられていく。パゾリーニは非常に過激な言葉でそういうこといいました。そういうイタリア人のメンタリティの変容を予言したのです。

 そしてタブッキはこう続けます。anche solo osservando i sembianti, a volume spento, delle creature che ogni sera ocupano i nostri teleschermi si capisce che l’attualita` e` ben oltre le piu` cupe previsioni pasoliniane。この辺りからタブッキは、ベルルスコーニのことを念頭においていっています。テレビの音を消して画面を見ると、いろいろな有象無象のやからが現われてくる。これを見れば、パゾリーニの予言をはるかに超えた、もっとひどいことになっていると言うわけです。Questi sono dei freaks(…) Appena arrivato al potere grazie alle regole della democrazie(…)Berlusconi ha aperto il rubinetto del “peggio”. E il “peggio” che c’e in noi”。つまり、ベルルスコーニはパンドラの箱、イタリア人の中にある一番いやなところ、一番嫌なものが詰まっている箱を、そのふたをあけてしまった。そういう比喩でもってタブッキは言うわけです。つまりイタリア人の一番いやなところ、quel fondo di ferinita`という、これは野蛮というか、動物のような、本能むき出しのものというか、che alberga nell’animo umano quando non e` tenuto a bada dalla cultura e dall’educazione alla democarziaつまり文化や教育の力で抑えておかないとひどいことになってしまう、そういう人間の心の奥底にある本能というか、動物的な獰猛さ、野蛮さ、そういったものをむき出しにしてしまったのだというのです。たしかに、こういうものの言い方は、非常に啓蒙主義的で、説教じみています。つまり、かつてのイギリス人がイタリア人を見るときの差別感情に非常に近いものがあります。あるいはイタリアの知識人が持つ、とくに左翼の知識人に特徴的なものの言い方だと思います。それにもかかわらず、僕にはかなり共感できるところがあります。

 さらにこう続きます。Il peggio li e` esploso come un fuoco d’artificio in tutta la sua volgarita` e in tutto il suo becerume coniugandosi alla perfezione con le performance di questo impresario sceso in politica。この最も悪いものが、まるで花火のように、柄の悪さとか、どうしようもない悪辣さというものをむき出しにして、爆発する。そしてimpresarioというのは実はベルルスコーニのことです。つまり、お芝居の興行主が政治の世界にやってきて、それがいろいろなパフォーマンスをやりまくり、それと完璧に結びつけることで、今言ったような悪辣さというのをむき出しにして、全開させながらそういうふうなイタリアにとっての悪いところというのを、まるで花火のように爆発させたのだというのです。

つまり、このイタリアという国に対して、このイタリアの知識人であるタブッキがこんなふうな言葉を書き記しているのです。これは別にタブッキだけではなくて、例えばウンベルト・エーコもある意味で似たようなことをいっています。こんなことをいうと、ベルルスコーニって、あるいはベルルスコーニ政権って、まるでどうしようもない、救いようもない最悪の政権ということになってしまう。みなさんのなかにも、これはちょっとこれ言いすぎじゃないかというか、あるいは、非常に党派的な主観が含まれているのではないかとか、いろいろなご意見があるかと思います。

 少しそこから戻っていただいて、5ページの3番「ベルルスコーニ体制」をご覧下さい。ここではregimeというファシスト体制とか、ナチス体制を表す言葉ではなく、それよりももっとミニチュア版だというような意味でregimettoを使ってみました。その(1)をご覧下さい。今度は英語の文章の引用です。これは2001年5月の総選挙のとき、イギリスの週刊誌エコノミストが、ベルルスコーニは首相になってはいけないと大キャンペーンをはったときのものです。こんな男に首相をやらしてはいけないというのです。しかし、こんなことは前代未聞です。

 In any self-respecting democracy it would be unthinkable that the man assumed to be on the verge of being elected prime minister would recently have come under investigation for, among other things, money-laundering, complicity in murder, connections with the Mafia, tax evasion and the bribing of politicians, judges and the tax police。だいたい次のようなことをいっています。尊敬するに値するような民主主義の国で、まさに首相になろうとしている人間が、最近次のようなことで容疑をかけられて、裁判を係争中であると。その容疑とは、資金洗浄、あるいは、殺人の共犯、それからマフィアとの癒着、そして、脱税、そして、政治家、判事、あるいは税務警察に対する賄賂です。こんなことをやっている人間が、これが首相になろうとしている。こんなことは、普通まともな民主主義の国で考えられることではないでしょう、というわけです。

 But the country is Italy and the man is Silvio Berulusconi, almost certainly its richest citizen。この国とはイタリアのことで、その男というのはシルビオ・ベルルスコーニで、しかもイタリアでもっとも豊かな市民である。

 As out own investigations make plain, Mr Berlusconi is not fit to lead the government of any country, least of all one of the world’s richest democracie。記者たちは、たくさんの調査をして、ベルルスコーニの裁判についてさまざまなことを調べたわけです。それを読めば明らかなように、ベルルスコーニというのは、この国だけではなく、たとえどんな国の政府であっても、その政府の指導者になるにはふさわしくない。しかも、イタリアは世界でもっとも豊かなデモクラシーの国の1つです。したがってなおのこと、そういうことはあってはならないというのです。

 これについては、ベルルスコーニは名誉毀損の訴訟をおこしました。お金持ちで、弁護士が山ほど抱えているので、そんなことは朝飯前です。私も下手なことを言うとちょっとやばいかなという気もしないではありません。それはともかく、『エコノミスト』はきわめて激しい言葉を用いました。こんな人が首相になっては絶対いけないと。

 このときはフィアットの社長のジャンニ・アニエッリはベルルスコーニを擁護しました。イタリアはバナナ共和国ではないと。バナナ共和国に擬せられた南米、ラテンアメリカ諸国も迷惑な話なのですが、そういう国ではない。アルゼンチンのような国ではないのだというふうなことです。とにかくそういうふうな形で、非常に激しい批判が『エコノミスト』からなされたのです。私は先ほどから申し上げたように、イタリアについて非常にアンビバレントな気持ちがずっとあって、こういうふうな『エコノミスト』の記事にたいしても、手放しでそうだそうだというふうな気にはもちろんならなりません。それでは、どういうふうにこういうのは読んだらいいんでしょうか。イタリアの友達にこういうことをストレートに聞くことができるかというと、実はあまり聞けませんでした。やはりちょっと口ごもってしまいます。もちろん長いこと付き合っている友達もたくさんいて、例えばアルトゥーロ・バリージという人はプローディの側近中の側近です。彼はボローニャ大学の社会学の先生だったのですが、アツィオーネ・カットリカの副会長をやっていたときに知り合いになました。プローディの親友で、今度の内閣では国防大臣です。彼なんかに会ったときに、そんな話をしたかというとしてないのですね。あまりそういうことはしないことになっているというか、あまりそういうことは話したことがありません。

 ただ、このベルルスコーニの政権がどういうものなのかということについては、僕はやはりこういうふうな『エコノミスト』のような記事のような書き方で片付けてしまってはだめなのではないかと考えて、ずっと自分なりに抑制していたつもりでした。しかし、あるとき、つまり2001年に政権をとったあと2年目くらいから、これは本当にひどい政権ではないかというか考えるようになりました。つまり、ノーマルな民主主義政権のバリエーションの範囲内におさまる政権としてみていいのかなという疑問を、はっきりと抱くようになりました。

 イタリアの人たちのあいだにも同じような反応がありまして、やはりちょっとこれは違うぞと考える人もたくさんでてきました。僕はそれ以降ベルルスコーニについてははっきりとそういうふうなネガティブな側面をきちんと見ていく必要があるというふうに考えております。

それでは、このベルルスコーニ政権の特色をどう整理するかという点については、まだ試行錯誤中で、いろいろなとっぴな言葉を使ってみては、皆さんから総すかんを食らったりしています。例えば、kleptocracyなんていう言葉をさがしてきました。kleptというのは泥棒の意味です。.cracyというのは、デモクラシーというふうに、政治支配体制を意味する接尾語だと考えていただきたいと思います。

 そんな言葉を使ってみようとしたり、それからpatrimonialismなんていう言葉を使ってみたりしました。これは先ほどお話ししたポール・ギンズボーグという歴史家が、『ベルルスコーニ』という本を書いていまして、その中で使っています。ふつうは家産制支配と訳されています。その次は僕のオリジナルというか、特別自慢する話ではないのですが、政治のprivatization。このプリヴァタイゼーションは、日本では民営化と訳されていますが、それよりも政治の私物化とか、政治を私有財産化してしまうという、そういう側面が非常に強くあるのではないかと考えたのです。

 何が言いたかったのかといいますと、やはり現在のネオ・リベラリズムの時代においては、日本でも大きく重なる部分があると思うのですが、規制緩和とか、自由化とか、民営化とかという、そういうふうなグローバリゼーションの流れの中で、政治による規則とか、規制とか、法とか、そういったものがどんどんどんどん緩められていく。そして、官から民へとか、民間でできることはすべて民間へということで、ビジネスというものが、あるいはマーケットというものが、何よりも優先されていくようになりました。

 そして、そういうふうな時代状況を利用するような形で、イタリアのように企業競争や市場についてのきちんとしたルールや規制の秩序が定着していない国では、そうしたチャンスをむきだしの私的な利益に転化し、あらゆることを自己利益の極大化というところに繋げていくような人たちが、大活躍する余地が生まれてくる。

 その典型的な人物の一人がベルルスコーニではなかったかと考えるわけです。これは単なる印象ではありません。具体的にどういう問題があるのかということを、レジュメでは列挙しておきました。例えば、利益の相反問題conflict of interestsです。これは非常に重要な問題です。例えばアメリカではこのたび新しい財務長官が就任しましたが、それに際して自分の株式を全部売却しました。いいかえると福井日銀総裁の問題と全くことです。しかしベルルスコーニは民間テレビ放送局3チャンネルを持ったまま首相になりました。しかもこの問題は必ず2001年の選挙の前に解決すると彼は公約していました。でも彼はアメリカのように、任期中に全資産の運用を委託する、きちんとしたブラインド・トラストというのを作りませんでした。結局、何もしないまま、ほうったらかしです。実はそこそこの法律は作ったのですが、事実上それは機能しないものとなってしまいました。

 このように民間放送の全部、つまり三チャンネルの全国放送を、たった一人の個人が所有するということは、ヨーロッパでも、アメリカでも、独占禁止法の観点からも、ありえないことです。それがイタリアでは許されているわけです。なぜかというのは後で説明します。

そのほかには、特定個人向け法律、legge ad personamというのがあります。要するに自分だけではなく、自分が所有する会社であるフィニンベストの社員が汚職容疑で数多くの裁判を受けている。自分や、その側近であるプレヴィーティとか、デルートリといった側近を救うための法律を、わざわざ作る。ここでは詳細は省略します。さらには、極めつとも言うべきことがあります。すなわちFalso in bilancio会計帳簿の改竄、いわゆる粉飾決算にたいする刑罰の軽減化です。

 ご承知のように、ライブドアにしろ、村上ファンドにしろ、ビジネスや市場中心の社会においては、会計帳簿の改竄というのは、重大な犯罪を生む可能性があります。巨額の不利益を株主に与えたり、一般の市民に与えたりする可能性があるということで、アメリカ合衆国では、エンロンとかワールドコムの倒産後、6ヵ月後に新しい法律が作られました。それで、このような、いわゆるCEOの犯罪については、懲役15年から25年という重たい刑罰を科すことになりました。それに準ずるならば、ライブドアのホリエモンたちは、アメリカ風に言うならば、ひじょうに重大な犯罪をおかしたことになるわけです。

 しかしイタリアでは、会計帳簿の改竄を一種の軽犯罪扱いにする。詳細は省略しますが、とにかくこれには刑事罰を科さない。刑事刑の対象にしないというようなことが、ベルルスコーニ政権の下で立法化されるわけです。で、一見小さなことに見えるかもしれないけど、ベルルスコーニはこうしたたぐいの法律をどんどん作っていきました。

 このようにみていくと、ベルルスコーニは、本当の意味での公益とか、国民の利益とか、国益とか、そういったことについて、どんな感覚を持った人なのか、大きな疑問を抱かざるを得ません。私には、政治権力を利用して、自分の私的利益と公益の境界線を移動させることができた、ひじょうに由々しき事例ではないかと考えます。私がベルルスコーニ体制に盗賊支配という言葉を与えたいと考えたのは、そういったことからです。すなわち盗賊の親玉が、今までは警察に追いかけられる側にいたのが、国家権力を握って首相になり、今まで自分がやってきた犯罪を、全部犯罪ではないようにしてしまう。例えば麻薬取引をこれからは犯罪ではないよといって、みんなに麻薬を吸いなさいという。そういうふうな法律を作れば、みんな合法的に麻薬取引ができるようになる。ベルルスコーニのやったことの本質は、そんな話に近い。だれだって困ったことがおこれば、会計帳簿を改竄してもいい。俺もやるからみんなもやれ。そうすればたいしたことでなくなる。こんなひどい話になっている。

 まさに法治主義の精神に反するひどい話ですが、その延長上に、次のようなことも生まれてきます。それがevasioneに対するcondonoです。すなわち脱税に対する赦免です。一定の反則金を払えば、それまでの脱税は大目に見るというのです。それから、abusivo、つまり不法建築に対しても、これも一定の罰則を払えば赦免するというのです。ご存知でしょうか。シチリアのアグリジェントの神殿を見下ろす台地の上に立ち並ぶ醜悪な汚い町並みのことは。全部不法建築ですよ。ああいうものには全然取り締まりがないのです。アグリジェントの遺跡のまん前にものすごく醜悪な住宅地ができてしまったわけです。それこそ、イタリアのいちばん悪いところ、il peggioの最たるものです。

 しかし、イタリアという国では、そういった「ずる」をしながら、庶民はみんな逞しく生き抜いてきたのではないか、といったステレオ・タイプ化されたイタリア像があります。つまりこれもイタリア、あれもイタリアというふうに考えて、この国だったら何でもありだからねといって、話を終わらせてしまうという見方があります。そうではなくて、こうしたことに腹を立て、こんなことやってはいけないと言うのが正しいのか。それもちょっと違うような気がします。そんなことから、迷ってしまうところがあるのです。

 ベルルスコーニがしゃべったりものをまとめた本があって、読んでみたことがあります。でもどうしてもついていけないことがたくさんありました。例えば、イタリア共和国憲法は、ソ連の影響下に、つまり、イタリア共産党の影響のもとで作られたものだから、こんな憲法は廃止した方がいいといいます。あるいは、イタリアではマフィア犯罪を取り締まってきたたくさんの判事、検事が殺されましたが、マフィア犯罪の捜査は、赤い判事たち、つまり共産主義者たちが仕組んだ陰謀であるとまでいうのです。マフィア捜査のみならず、タンジェントーポリ、つまり1992年からの構造汚職の大規模な摘発についてですが、その捜査にあたったアントニオ・ディピエトロたちについても、そういう人たちによる政治的、党派的な陰謀だと明言しています。ベルルスコーニがどこか内輪で私的な話としてしゃべったことを誰かがリークして、それが広まってというのではなくて、彼自身がはっきりと公言しているわけです。みんなの聞いている公の場所で、はっきりと言っている。記録に残っているわけです。政治的陰謀や「アカ」といった言葉がイタリアの政治では日常的にまるで当たり前のことのように使われているのです。

 さらにベルルスコーニや北部同盟のウンベルト・ボッシは、おそらくアメリカでは政治家としては生きていけないような言葉を平気で使っています。アメリカで言うPolitically correctnessの感覚がまるでないのです。つまり差別用語を使っている。僕は頭が薄いのですが、こういう人にはげと言ってはいけない。髪の毛の不自由な方という、これはジョークですが。要するに、そういう昔からあるようなチビとか、デブとか、こんなことも含めて、今ではそんな言葉遣いは避けるようになっています。もちろん一番大きな問題はエスニックジョークです。つまり人種差別に関る言葉ですね。マイノリティを差別するような言葉遣いを政治家が公にすることは考えられない。私はアメリカで暮らしたときに、イタリアにいたときの「のり」でva a fa’ in culoといったりして、つまりこういうスラングでアメリカ人の友人たちと打ち解けたおしゃべりしようとしたつもりが、みんな黙ってしまって、のってくれないのです。つまりイタリア人なら喜びそうなparolacciaが絶対に通用しない。アメリカ、ああここはやはりピューリタンの国なのだと、しみじみと考えさせられたことがあります。

 イタリアでは、そういう言葉遣いに対してはほとんど無規制に近い。したがって、大衆をまえにした選挙演説などでは、どんどんそういう言葉が出てきます。ウンベルト・ボッシとなると女性蔑視などはへっちゃらです。だから女性のいる前では絶対に使えない言葉、言えませんね。言いかけたけどやめます。そういう言葉をぼんぼん使います。むしろそういうのが自慢話なので。つまり、俺は男としてこんなにもてるのだとか、強いのだとかいいたいわけです。したがって、例えば、自分にとって愛人がいるとか、性的なバイタリティというのは、そういう世界では大事なシンボルなのです。だからそういう言葉づかいも含めて、ダブッキの言葉でいうとil peggio、つまりとても柄が悪いわけですよ。こんな人たちが政治家のトップにいる、イタリアという国がこんな連中によって代表されている。はたしてそれでいいのかというタブッキの言い分には、私も強く共鳴するのです。

 そこで話しをレジュメの最初のところに戻したいと思います。私がイタリアの政治に具体的に関り始めたのは、ちょうど日本の政治改革とイタリアの政治改革がほぼ時期を同じくして始まったということがきっかけです。そういうことについて何か書いたりするという機会が生まれてきたのです。1992~3年ごろから私もテレビにちょくちょく出るようになりました。筑紫哲也の番組に呼んでもらったり、NHKの教育テレビで特集を組んだりしたこともありました。イタリアで構造汚職が大規模に摘発され始めたということを知って、この国はなにかしらないけれど大きく変わろうとしているという、そういう印象を持った人がたくさん生まれました。そしてちょうど日本でもリクルート疑惑ようなスキャンダル相次ぎ、それをきっかけとして政治改革の季節が始まりつつありました。

 そんなことから、イタリアと日本の政治を比較をするようになりました。そして、調べていくうちに、イタリアの危機というのは本当に深刻だったなということがわかりました。例えばマフィアの問題です。これは単なるマフィアの暴力ではありません。イタリアの政治というのが犯罪と紙一重のようなところにいることが分ってきました。つまり政治家が賄賂をもらうということによって、政治がマフィアの暴力と完全に癒着してしまう。そうなると、これはもう単なるお金の問題ではありません。政治が犯罪組織と深く癒着するということは、賄賂を渡したり渡されたというだけの関係を越えるものとなります。

 いいかえると賄賂を渡すというイタリア人にとってはあたりまえのことだった慣習を、このまま放置するならば、それがまわりまわってマフィアの暴力を容認することにもなり、この国はほんとうだめになってしまう。このころのイタリア人というのはずいぶん真剣だったと思います。本気でそういうふうなことをし始めたのだなということを感じました。もちろん、どこまで続くかなという気持ちが心の片隅にはありましたが、変な表現ですが、とにかく私は応援していました。

 日本もイタリアと同じように選挙制度を変えて、小選挙区制を導入したら、日本の政治もよくなるだろうという話でした。イタリアも小選挙区と比例代表制をまぜこぜにするのですが、いずれにせよ小選挙区制を導入すれば、いずれイギリスのような二大政党制になって政権交代が起こる。その結果、政治腐敗も駆逐されるでしょうと、こういうふうなことで話が動いていきました。

 僕は制度工学ないし政治工学といっていますが、政治学者たち、特にその政治改革を目指した人たちは、選挙の「制度」を変えていくことで、イタリア政治の仕組み全体をうまく変えていくことができるといっていました。しかし、ひじょうに惨めな結果に終りました。日本も尻切れトンボに終わりましたが、イタリアではある意味で、もっと期待が大きかっただけに、それ以上に大きな失敗を味わうことになりました。すなわち、戦後政治体制、いわゆる第一共和制というものはつぶれました。これはうまくつぶしました。キリスト教民主党を始めとする、第二次大戦後、活躍してきた6つの政党が、名前を変えるとかそういうこともあったりして、基本的には全部消えてしまいました。

 そのあと出てきたのは、ベルルスコーニなのですが、これは要するに広い意味でのdestra右翼です。ホブズボームというイギリスの歴史家が使っている「伝統の発明」という概念をあえて借用するならば、右翼の「発明」ということができます。それまでのイタリアの憲法秩序を前提とした政党とはまったく異質のグループが、この時期に一気に登場してきました。そしてその中心となっていったのがベルルスコーニだったわけです。

そうして、第一共和制から第二共和制への過渡期となります。ながいtransitionが続くのです。でも、パスクイーノという政治学者がアメリカの女流作家ガートルード・スタインの言葉を引用して、transition is transition is transition…と書いていましたが、イタリアの過渡期はいつまでたっても過渡期のままで、終わらないのです。

 結局のところ、そのtransitzioneがずっと続いたままで、どういうふうになっていったのかというと、期待されたような政治改革の成果というのは、うまくあがらないまま時間ばかりが過ぎていきました。

 もちろん皆さんもご承知のように、1996年総選挙でUlivo「オリーブの木」が勝利して、中道左派政権ができて、新しいページが開かれたように思われたときもありました。この「オリーブの木」のリーダーであるロマーノ・プローディが日本にやってきたりして、講演会をやって、できたばかりの日本の民主党に「オリーブの木」の秘伝を伝授しようといったこともありました。そういうふうな意気揚々としたときもあったわけですが、この「オリーブの木」もあっけなく挫折してしまいました。

 これについては一言いっておきたいことがあります。プローディは、先ほど言ったように、私の友人であるパリージの「親分」ということもあって、私は個人的にはかなりこちらのほうに肩入れしてしまっているので、私の発言はきわめて党派的であることをお断りしておかなければなりません。しかし、プローディはベルルスコーニとある意味で対照的な人物であるように思います。プローディはレッジョ・エミーリアの生まれですが、基本的にはボローニャの人です。いわゆるボローニャ文化人です。ボローニャという町は、かつては共産党のショーウィンドウといわれて、レジスタンスを経て第二次大戦以降は共産党がひじょうに強かったzona rossa「赤い地帯」の中心地でした。都市行政がひじょうに効率的で、イタリア共産党がいかに近代的な統治能力を持っているかということを証明する場所というふうにも言われていました。その一方で、このボローニャは、かつての教会国家の中心地でカトリック教会の影響力がひじょうに強い町でもあったのです。カトリック教会の影響というのは、必ずしもポジティブなもののみならず、anticlericalismo反教権主義が強いという形でも今なお残っています。つまり教会国家の統治がmalgoverno悪政といわれ、とてもひどいものだったからです。したがって、この地域では教会が嫌いな人もたくさんも現われてきました。そういうふうなこともあって、この地域は左翼の牙城となっていくわけですが、それでもカトリックの伝統もひじょうに根強く残っている。

 ロマーノ・プローディはやはりカトリック側の人なのです。敬虔なカトリックの庶民の家庭ではよくあったことですが、兄弟が9人もいて、その8番目です。プローディによると、今でも一人静かなところにいるとあまり勉強ができないそうです。子供の時は、台所で勉強していたからです。みんなが出入りする、そういうところのほうが集中できるというのです。つまり学者だから、みんなからよく書斎人といわれるけれど、全然そういうタイプではありません。彼にはレッジョ・エミリアの田舎にお城のような別荘があります。じつは9人の兄弟姉妹が全員でお金を出し合って買った別荘だそうで、夏休みにはそこに一族が集まる。お客さんも招かれる。みんなで読書会を開き、室内楽が奏でられる。そういうのが大好きだというのです。彼の趣味はイタリアの庶民のスポーツである自転車です。こんなふうに、ベルルスコーニとまったく対照的なタイプの政治家ということができます。

 それで、こんないい方がされることもあるのです。カトリックの中のプロテスタントであると。とても禁欲的で、勤勉で、まるでプロテスタントなかのカルヴァン派のようなメンタリティやモラルとそっくりだと。大家族ですが、兄弟姉妹みんなとてもよく勉強をする(驚くことに、決して裕福な家庭ではなかったのに、兄弟姉妹みんな大学を卒業しています)。よく仕事をする。質素、倹約を重んじ、贅沢は大嫌いという、そんなタイプの人たちです。ロマーノ・プローディは、奨学金を得てミラノ・カトリック大学法学部で学んだあと、ロンドンのロンドン・スクール・オブ・エコノミックス・アンド・ポリティカル・サイエンス(通称LSE)に留学します。そこで彼は国際的なエコノミストとしてのステイタスを獲得する。そういうことで、エコノミストとしての道を歩み始めるわけです。

 そこで話しは戻りますが、ボローニャの文化環境には独特のものがあります。存知の方も多いと思いますが、ボローニャにはIl Mulinoイル・ムリーノという著名な出版社があります。これはイル・ムリーノという名の同人誌から出発しました。カトリック左派の知識人が始めた同人誌で、カトリック以外の知識人も参加しており、今でも続いています。プローディもそのメンバーの一人です。

 それから、ちょっと細かくなりすぎるので、あまり詳しくはお話できませんが、戦後のボローニャのカトリック界では、ドン・ジュゼッペ・ドッセッティというお坊さんの影響がとても大きかったのです。ドッセッティという人は、とてもおもしろい経歴の持ち主です。戦後イタリアの政治史や思想史、さらにはカトリック史においても、ひじょうに重要な役割を果たした人物です。ミラノ・カトリック大学で教会法を講じていながら、武装レジスタンスに参加しました。たんなる文化的、精神的なレジスタンスではありません。その後は、憲法制定会議の議員としてイタリア共和国憲法の制定に決定的ともいえる大きな影響力をふるいます。そして、キリスト教民主党の左派のカリスマ的なリーダーとなります。しかしデ・ガスペリとけんかして、キリスト教民主党を辞めたばかりか、政界をも引退して、お坊さんになってしまいます。司祭となる。それで隠遁してしまったかと思いきや、そんな簡単な話しではなくて、その後もひじょうに強い思想的、道徳的な影響力を行使し続けます。特にカトリック教会の「現代化」において決定的な画期となる第二バチカン公会議において、ひじょうに大きな影響力を発揮します。

 このようにドッセッティは、戦後のイタリア・カトリック界において、フォーマルな形ではなかったのですが、思想的、道徳的、文化的な指導者として、とても重要な役割を果たしました。こうしたドッセッティとプローディは強い結びつきをもっていたのです。幼い頃からプローディの家にはドッセッティがよく訪ねてきて、ひじょうに親しい関係にありました。プローディは、とても禁欲的で厳格なモラルをもつドッセッティの薫陶を受けて成長したといっても、いいすぎではありませんでした。プローディは後年、国際的なエコノミストとなりますが、それまでは毎日教区教会に通う熱心で篤実なカトリックの信仰実践者として育ったのです。

 そんなこともあって、ベルルスコーニのような人物が政界に登場したことに対して、ひじょうに強い道徳的な反感がありました。「オリーヴの木」というグループは、このような道徳的な反感を最大の要因として生まれたと私は理解しています。もちろん他にいろいろな要素もあることは、まちがいありませんが。したがって、私は「オリーヴの木」には、左翼運動や共産党との関係とのあいだには、あまり深い関係がなかったと考えています。

 いずれにしろ、プローディが登場したことにより、ベルルスコーニの出現というのはあだ花に終わってしまうのではないかというふうに思われました。しかし、中道左派連合はじつはごちゃまぜの寄り合い所帯で、あっけなく分裂してしまいます。マッシモ・ダレーマというのはひじょうに有能な左翼民主党のリーダーでしたが、プローディとの間に深い亀裂が生じて、結局「オリーヴの木」の試みも失敗してしまいます。しかし、ここでは素の詳細については省略します。

 ただ、ひとつだけいっておきたいことがあります。ダレーマは、プローディが首相になったのちに、憲法改正両院合同委員会の委員長に選出されました。その頃のダレーマは、こともあろうにベルルスコーニに、憲法改正と制度改革を実現するためのもっとも重要な対話者の役割を与えていたのです。いいかえると、ベルルスコーニとダレーマのあいだのトップ会談によって懸案の解決を図ろうとしました。とどのつまりは、最大与党と最大野党のリーダーどうしが話し合って決着をつけようというのです。プローディ首相や「オリーヴの木」のメンバーの意向など完全に無視されました。こうして憲法を改正し、フランスの第五共和制によく似た強い大統領制を導入するというところまで漕ぎ着けていました。ところが、こうしたトップ会談というかボス交による体制変革は、ほんとうは自分の裁判に有利となる司法制度改革を最優先課題とするベルルスコーニがこれをけってしまったことにより、あっけなく挫折してしまいます。

 プローディ政権が倒れたあとも、中道左派政権は、5年間の任期を全うします。しかし内紛が続き、国民の信頼もどんどん失っていく。なかでも私の印象に強く残っていることがひとつあります。この中道左派政権の時期に、タンジェントーポリの中心人物であったイタリア社会党の書記長ベッティーノ・クラクシが病気で亡くなります。殻は1994年に懲役刑の判決を受けますが、チュニジアに別荘を持っていたので、そこに逃亡してしまいます。チュニジア政府が庇ったために、そのままそこに滞在しつづけます。しかし2000年に糖尿病が悪化して死んでしまいます。そのころから風向きがずいぶん変わってきて、クラクシは一種の政治的迫害の犠牲者であるという世論が生まれてきます。つまり、タンジェントーポリの張本人であったクラクシに対して同情が集まるようになっていきます。そしてあげくのはてには、ダレーマ首相までもが、クラクシの国葬の提案をしました。これはクラクシの家族が拒否したために実現しませんでした。しかしその一年後、2001年には、中道左派政権のアマート首相(元社会党)の提案により国会の議場においてクラクシのための追悼集会が開かれたのです。まるでクラクシが、政治的迫害の犠牲者であり、悲劇のヒーローであるかのような世論の空気へと変わっていきました。

 それと、もう少し後のことなのですが、ジュリオ・アンドレオッティの控訴審での無罪判決が出ました。アンドレオッティは、イタリアの戦後政治を代表する政治家です。この人物の伝記を書くとするならば、いやがおうでもイタリアの戦後史を代表することになります。ただ、ものすごく問題のある人物であることも事実です。彼はずっと以前からマフィアとの関係が疑われていました。そればかりか、マフィアとの共謀の容疑で、ずっと裁判にかかっていました。

 この件については、2004年に最終的な無罪判決が下されます。しかし、今お話ししている2001年ごろには、無罪になるだろうということがかなりはっきりとしてきたのです。いいかえると、さっきいったように、世論の風向きがどんどん変わっていきました。タンジェントーポリを追及するミラノの検事たちを応援するという空気がどんどんどんどん薄れていきました。それどころか、汚職の容疑を受けたその当事者たちが、まるで政治的な迫害の犠牲者であるかのような言論が流布していくようになってしまいました。

 それでは、こんな言論を、一体誰が流布させたのか。それにはちゃんと原因というか主体があるわけです。これについては、はっきり言うことができるのですが、ベルルスコーニのテレビです。つまり、ベルルスコーニが持っているRete 4とか、Canale 5とか、Italia 1、そういうところでベルルスコーニの息のかかったキャスターや評論家たちが、そんなキャンペーンを繰り広げたからです。先ほどil peggioという言葉を使ったときに、いちばん最初に頭に浮かんできたのが、そういう政治評論家たちです。ベルルスコーニにカネで買われた政治評論家というと、ちょっと言い過ぎかもしれません、要するにそんな連中のことです。皆さんご存知ではないかもしれませんが、ジュリアーノ・フェラーラとか、エミリオ・フェーデ、ヴィットリオ・ズガルビといった面々です。彼らはテレビにしょっちゅう出てきます。ジュリアーノ・フェラーラのお父さんは共産党のリーダーでしたので、彼はモスクワで育ちました。かつては共産党の若きヒーローだったのです。しかし、その後、転向して、CIAのスパイをやったなんてことも公言しています。それで、ベルルスコーニの政権では、コミュニケーション大臣かな、ちょっと忘れましたが、閣僚となります。ヴィットリオ・ズガルビというのは、美術史の先生ですが、ベルルスコーニ支持の熱弁を揮う政治評論家に転身します。そういえば、日本でも西洋美術史の先生で、「新しい教科書を作る会」の会長になった人がいましたね。それはともかく、そういう美術史の人間がどうして政治評論家になるのか不思議でなりませんが、これもその詭弁の才を見込んだベルルスコーニによってお金で雇われたのです。エミリオ・フェーデというのは、テレビのアンカーマンですが、ばくちで大借金を負ったことで、テレビ界からも干されていたというのを、ベルルスコーニに雇われて救われた人物です。そしてテレビでは恥じも外聞もなくベルルスコーニは冤罪である、つまり赤い判事たちの仕組んだ冤罪であると、とにかくいろいろな場面で言うのですね。彼が司会をしているCanale 5の番組を見ていないと、そんなことはわからないのだけど、とにかく、イタリアの憲法はおかしいとか、イタリアの裁判官はおかしいとか、そういったことを繰り返しいいたてるのです。もちろん、僕のこんな言い方よりもっとうまく、火のないところに煙は立たないというふうな言い方で、そんなことを主張していくわけです。

いずれにせよ、そのような言論活動によって、政治家の個人的な金銭にまつわる疑惑ばかり追及するような人間には、その裏には隠された動機があるのではないかといったことが、ほのめかされる。そういいった政界の闇の部分ばかりいいたてるやつには、絶対何か他の動機があるのではないか。巧みな表現によって、人々にそんな疑いの気持ちを起こさせてくのです。しかも、そういうことを一回だけ言うのなら、ほとんど効果はありません。しかし繰り返し繰り返し、いろいろなところで、同じことをいいつづけるわけです。マウリツィオ・コスタンタツォという有名なキャスターがいます。彼なんかも、P2というフリーメイソンの秘密結社のメンバーであることが発覚して、それ以降、あまり仕事がこなくなってしまう。そんなときにベルルスコーニに拾われていくことになるのです。

 つまり、そういうふうにして、ベルルスコーニの個人的な恩義を受けたジャーナリストがメディアやジャーナリズムの世界にはごろごろいるわけです。そういった人たちが活躍することによって、イタリアの人々の意識や意見といったものが、まるでボディーブローのような形で、じわっと、すこしずつ動かされていく。それこそ、パゾリーニのいったmutazione antropologicaすなわち人類学的な変容を生み出していく。ベルルスコーニのメディア支配には、そういう効果があったというふうに考えるわけです。

 次は、ベルルスコーニの悪口ということになります。でも、できるだけ言葉を慎みながらしゃべりたいと思います。英語の新聞は政治家には必ず敬称をつけますが、それは大事なことだと思いますので、ここでは、Mr.Berlusconiにまつわる疑惑とでもいっておきます。ベルルスコーニにまつわるいろいろな問題を指摘するといっても、僕はべつに彼のことを個人的に憎んでいるわけでもありませんし、個人的に会ったこともありません。そういうことをあげつらって、少なくとも、これからお話しするようなことは、例えば、先ほどご紹介したアレクサンダー・ステイッレやポール・ギンズボーグの英語で書かれた本にも、全部書いてあることです。イタリアのことに興味持っていて、英語が読める人ならば、みんな知っている話なのです。したがって私が独自に調査して得られたオリジナルな見解というのではまったくありません。おそらくイタリア人の多くは、こんなことに興味はありませんが、たとえばイギリスやアメリカやドイツのビジネスエリートならば、誰でも知っているというふうに思ったほうがいい。そういった類の事実です。決して目新しいことでもなければ、どこにでも書いてあることを皆さんに紹介しようというだけのことです。そういうふうに理解して欲しいのです。

 しかし、ベルルスコーニはそうした疑惑に対して、積極的に自分の方からそれを打ち消す証拠をだすようなことは一切していない。そんな疑惑をいいたてると、先ほどのように一種の陰謀論で煙にまいてしまおうとするのです。こういうことを言ったら、たぶん僕もアカにされてしまうのです。つまりアカの手先であろう日本の研究者がこういうことを言ったという話になるおそれがある。名誉毀損の対象になるかもしれない。つまり、そういうやり形でこうした問題は対処されてしまうのです。残念ながらそんなことから、こうした疑惑に対しては、ベルルスコーニからのきちんとした回答がないわけです。

 そこで具体的にお話ししますと、まずはマフィアの影です。彼のビジネスの出発点は不動産業です。現在のイタリアも不動産ブームです。とてもいかがわしいにわか成金が現われてきていますが、みんな不動産業です。日本以上に、規制が緩やかというか、ルーズな国です。イタリアでは不動産業はかなりやばい仕事ということになります。したがって、不動産業で少々やばいことをやってまず蓄財をする。それを元手にして転身をはかり、少し身奇麗な商売に手を出す。これがイタリアにおける成金の基本的な手口です。ベルルスコーニはその手口をその通りたどってきた人物です。

 そこで大きな疑惑があるのは、ベルルスコーニが不動産業を始める時の最初の資金がどこから出たのかという点です。スイスのルガーノというのは、ご承知のようにすぐイタリアの隣ですが、脱税や資金洗浄を目的とするペーパーカンパニーが山ほどあるところです。そのルガーノに本社をおくスイス人名義のドイツ語で表記された会社が出資者となっています。しかしその実態は全く不明です。しかも、彼のお父さんが勤めていたミラノのレジーニ銀行というのは、じつは支店もない町金融に近い金融業者というのが実態で、ある時期からマフィアのマネーロンダリングをやっていた可能性が非常に高いといわれています。そして、ここからは、類推されるとしか言いようがないのですが、無一文であったベルルスコーニは不動産業を開業するにあたって、そうした不透明なお金から資金調達したのではないかというふうに考えられています。

 ただ、こうした疑惑に対しては、1979年に財務警察が査察に入ったことがあります。しかし、結局はお咎めなしということになりました。ところが驚いたことに、その数年後に、その調査をした査察チームの長を務めた査察官が、ベルルスコーニの顧問弁護士になっている。そればかりか、フォルツァ・イタリアの国会議員にまでなっている。こういう手口は、先ほどのエミリオ・フェーデとか、そういった人たちとよく似ている。要するに、ベルルスコーニは自分の前に立ちははだかる人物まで、自分の仲間に全部取り込んでいこうとするのです。

 次の疑惑はArcoreの邸宅に関するものです。ベルルスコーニは今でもArcoreの邸宅、すなわちミラノ郊外のヴィラ・カザーティという由緒ある邸宅に暮らしています。そしてここはベルルスコーニが首相のあいだは、いわば首相官邸というか、王宮のような役割を果たしていました。これはひじょうに由緒ある邸宅なのですが、その入手経路がひじょうに不透明なのです。ベルルスコーニは二束三文でこれを手に入れたのですが、チェーザレ・プレヴィーティというカラブレア生まれのローマの弁護士がそこに一枚かんでいました。この邸宅の遺産相続人で未成年の若い女性が、父親による義母とその愛人の殺人、そして自殺というショックで、動転しているなか、こともあろうに彼女の後見人であるプレヴィテーティ弁護士が、相続税を捻出するためと称して、この邸宅をベルルスコーニに叩き売ってしまったのです。しかも叩き売っただけではなく、分割払い契約ということで、ベルルスコーニはびた一銭も払わないまま、そこに8年間も暮らしていました。そして相続税は結局のところ相続人に払わせていたのです。こんなふうにプレヴィーティはベルルスコーニとつるんで、かなりひどいことをやっているのですね。しかも、悪徳弁護士としかいいようのないプレヴィーティが、またもやベルルスコーニの側近となっていくのです。そしてフィンニンヴェストというベルルスコーニの持株会社の要職についただけではなく、フォルツァ・イタリアの重要な政治家となっていくのです。

 さらに重要なことは、マフィアとのあいだには、マネーロンダリングにからんで関係があっとということだけではありません。ヴィットリオ・マンガーノという正真正銘のマフィアを、アルコーレの邸宅に住まわせていたことがあるのです。マンガーノはポルタ・ノーヴァというパレルモを根城とするマフィアのボスの一人です。彼を、一応stalliere、つまり馬丁、あるいは馬小屋の管理人ということにして、自分の邸宅に住まわせていました。マンガーノはじつは麻薬密売人の元締めでした。その後殺人の罪で終身刑を食らって、最後は獄中で病死しています。

 ところで、彼を連れてきてベルルスコーニに紹介したのは、これまたフィンニンヴェスト社の重役で、ベルルスコーニの側近中の側近であるマルチェロ・デルートリという人物です。彼はパレルモ生まれで、ミラノ大学法学部ではベルルスコーニの後輩に当たります。このパレルモ出身のマルチェロ・デルートリが、幼なじみであるヴィットリオ・マンガーノをベルルスコーニに紹介したのです。そんなことからも、デルットリはマフィアと無縁であったとは絶対に言えない人物だといわざるをえません。しかも彼はベルルスコーニが所有するPublitaliaというヨーロッパ最大の広告会社の社長となります。その後は、1994年のフォルツァ・イタリアの立ち上げに際して、選挙対策本部長にも就任します。先ほどお話ししたチェーザレ・プレヴィーティと同じように、ベルルスコーニとっては刎頚の友ということができます。

 それでは、どうしてマフィアを雇い、邸宅内に住まわせるようなことをしたのか。それは1970年代のこの時期に、は誘拐事件がひじょうに多かったからです。僕もそのころにローマに留学していたのでよく覚えています。マフィアやカラーブリアのウンドランゲタによる誘拐が頻発しました。それまでマフィアはあまり誘拐はしないものだったのですが、この時期から誘拐にも手をつけはじました。伝統的なマフィアの発祥地であるシチリア西部やパレルモのマフィアではなく、カターニアなどシチリア東部の新興マフィアがそうした誘拐「産業」に手を染めたのです。

 新興成金のベルルスコーニにも誘拐の恐れがありました。特に妻と子供が誘拐される恐れがありました。おそらく数々の脅迫を受けていたのでしょう、子供たちをスイスに逃がすという話もあったようです。そんなことから、このマルチェロ・マンガーノというマフィアを用心棒として雇ったと思われます。マフィアは勝手な思いつきから行き当たりばったりに犯罪を犯すということは絶対にありません。マフィアが用心棒として暮らす邸宅にむやみやたらと誘拐を仕掛けることはできなくなるのです。このようにして、ベルルスコーニはマンガーノを自分の家に置くことで、誘拐を防止することができたのです。

 しかし、ここで注意しなければならないことがあります。マフィアの庇護の下に入ることの代償です。マフィアと一度手を組んだ人間が、もう用が済んだといってマフィアと手を切ることは可能かという話です。そんなことは不可能であるに決まっています。そんな形で手を切るということは、裏切りに等しく、そんなことをすればどんな形の死体になるのかといった方が、話が早いわけです。ベルルスコーニのようなイタリア一の大富豪がマフィと手を組むことなど普通はありえないと考えるのが常識なわけです。しっかりとした絶対確実といえる証拠はまだ不十分です。しかし、そうした疑惑に対して、ベルルスコーニ側からの事実にもとづく明確な反論もありません。ただ今述べたような疑惑が出てくると、ベルルスコーニはすぐ名誉毀損で訴えるという形で、これに対抗しようとするだけなのです。こうして、何事もいつも「藪の中」に隠してしまいます。

 ここでちょっと違う話しに移ります。かねがねベルルスコーニはself-made man、つまり裸一貫で一代のうちにビジネスを立ち上げたビジネスマンであると自画自賛してきました。そんな神話については、はっきりとそうではないと言い切ることができます。特に、テレビ支配については、タンジェントーポリの主役であったベッティーノ・クラクシが政治的な後見人として、ぴったりと彼の後ろについていました。キリスト教民主党が支配する政治体制の中で、社会は11%くらいしか得票率がありませんでした。クラクシというのはある意味で有は能な政治家だったと思います。有能だといっても、それは裏表、清濁すべてをもち合わせていたことを意味します。彼が台頭した時期は「第三のイタリア」で新興中小企業が台頭して経済成長をリードした「黄金の80年代」と重なり合っています。イタリアでも新自由主義的な市場至上主義的な価値観が現われ、それに伴って享楽主義的な消費文化が浸透しはじめました。クラクシはそのようなイタリア社会の転換期を演出した政治家でした。クラクシの社会党は、こうした新しい時代の流れに乗って、共産党から左翼内部のリーダーシップを奪い取り、さらにはキリスト教民主党の権力構造のなかに食い込んで、イタリアの政治構造そのものを変えていこうとしました。その後の政治改革の基本的なビジョンは全部このクラクシ時代に作られています。例えば、第二共和制という言葉もクラクシ時代にできたものです。また大統領制を導入するというビジョンも、クラクシが唱えたものです。選挙制度改革も含め政治改革は全部クラクシ時代のアイデアだったのです。そのかぎりにおいて、まさに政治的イノベーションを果たそうとした野心的な政治家であるという評価も可能です。

 ところが、この時期は、未曾有ともいえる政治腐敗の時代でもありました。いうまでもなく腐敗はお金の問題であり、それは組織犯罪ともつながっていましたそればかりか。腐敗はセックスともつながります。というと変に思われるかもしれません。しかし、この時代の社会党のイメージは、高級ナイトクラブに夜な夜な出没する政治家たちというものです。ジャンニ・ミケーレスというのは、たしか外務大臣もやったと思いますが、太った精力絶倫といった風貌のおじさんで、ローマのナイトクラブにしょっちゅう出入りして、しかもそのたびに同伴相手の女性が変わっているというようなことが話題となりました。クラクシがローマで愛人を囲っていたのも周知の事実でした。ベルルスコーニもこの時期にはすでに飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、クラクシに頼まれてミラノのマンゾーニ劇場を買いとりました。そればかりか、そこの看板女優と激しい恋に陥ります。要するに不倫が流行していました。英語ではwomanizeという表現がありますが、お金持ちの政治家やビジネス・エリートのあいだでは、女遊びが流行っていました。ふんだんにお金を使って遊びまわる。つまり、「黄金の80年代」のイタリアはそんな雰囲気でした。

 それまでキリスト教民主党の政治家たちが持っていた、抹香臭い、お坊さん臭い道徳観とか、イタリア共産党の政治家たちが持っていた、まじめくさった倫理観とか、そういったものではないアメリカ風の消費文化というものを謳歌しようではないかという気分が横溢しはじめたのです。どうして遊ぶのが悪いという文化と、クラクシ時代というのは密接につながっています。そういうデカダンスの文化が台頭しはじめた時期に、ベルルスコーニはクラクシの政治的な後ろ盾をえて、民間テレビ放送独占を果たしていくわけです。

 当時のイタリアにはきちんとした放送法がありませんでした。今でも不十分なままです。この当時の言葉では、Far west西部劇状態、野放しで、やりたい放題で、力が強いものが勝つというところだったのです。それまでは国営放送のRAI 1, RAI 2, RAI 3とテレビの全国ネットは3つしかありませんでした。RAI1がDC系、そして中道左派政権ができたときに社会党がRAI2を、そして、76年に共産党が躍進したときにRAI3を支配しました。いずれも党派色のとても強いテレビ放送となったわけです。

それに対してベルルスコーニはアメリカのテレビ文化、娯楽文化を持ち込んだのです。これが大衆の支持を受けました。この点ではやはり彼の先見の明を認めざるをえません。あえていえばとても柄の悪い大衆的な娯楽文化が持ち込まれたのです。といってもまさに今の日本のテレビ文化と同じ状況です。彼がこのような民間商業放送を立ち上げていくあいだ、クラクシは政治権力を用いてこれを徹底して擁護していきます。クラクシとベルルスコーニはまさに刎頚の友ということができました。ベルルスコーニのアルコーレの邸宅には週末ごとにクラクシがやってきました。ベルルスコーニのサルデーニャの別荘とか、ポルトフィーノの別荘で夏休みを一緒に過ごしました。冬になるとサンモリッツで一緒にスキーをする。二人はそんな関係でした。

 ところで、アルコーレの宮殿にはひとつ面白いものがあります。mausoleoという言葉をご存知ですか。ラヴェンナには東ゴート族の王テオドリックのmausoleo陵墓があります。つまりお墓のことです。ベルルスコーニは、アルコーレの邸宅の敷地内に特注の大きな霊廟を造ったそうです。高野山にいらっしゃった方は、あそこに企業が造ったお墓が並んでいることをご存知だと思います。上島珈琲のコーヒーカップ型のお墓とか、会社員として一生を全うすれば、その会社の墓地に入れてもらえるというのがあります。そんな墓地を自宅の敷地のなかに造ってしまったわけです。ベルルスコーニは、霊廟を造って死ねば自分自身がそこに入るわけです。まるでピラミッドのようです。しかし、そこに家族も埋葬されるのは当然として、自分の盟友、刎頚の友までそこに一緒に葬ろうと考えているそうです。チェーザレ・プレヴィーティとか、マルチェロ・デルートリ、あるいは、テレビ司会者で、彼を一生懸命応援をしたエミリオ・フェーデとか、そういう友人と一緒にお墓に入ろうということだそうです。これは一種の王朝的な成金趣味ということができます。しかし自分は、単なる金持ちや権力者ではなく、何かそういう永続的な何かと繋がっているんだという、ちょっとおもしろい意志を感じることができます。

 次に第一共和制の「闇の中」のベルルスコーニということで、お話しをしたいと思います。イタリアの政治については、misteriとかenigmaとか、そんなタイトルがついた本が山ほどあります。秘密と謎、未解決の事件だらけです。そのひとつが、P2プロパガンダ・ドゥエという秘密結社の問題です。フリーメイソンの秘密結ですが、じつはベルルスコーニはこれに加盟していました。彼自身はそれを否定したのですが、裁判所により偽証ということで、有罪判決を受けます。たまたま恩赦があったために、これについては無罪放免となりましたが、会員番号まで明らかになっています。

 それではP2のような秘密結社に入会するというのは、ベルルスコーニのような人にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。アンブロジアーノ銀行の頭取ロベルト・カルヴィについての映画『神の銀行家』は、ご覧になった方も多いと思います。ロンドンのテームズ川で首吊り死体なって発見された神の銀行家の映画です。P2のような秘密結社に入会するということは、要するに社交なのです。社交と言うと言葉は軽すぎますが、イタリアにエスタブリッシュメントの世界に加わるということです。ビジネスや政治の世界のエスタブリッシュメントとコネをつける、コンタクトをつけるための重要なきっかけとなるわけです。ただ、こうした秘密結社に入るためには重要な条件があります。つまり、自分が知りえたもっとも重要な最高機密を提供することです。その代わり、共犯関係になった限りにおいては、個々の会員に対しても、最大限さまざまな便宜が図られる。

ベルルスコーニは、民間商業テレビ放送の独占を図ろうとするときに、視聴者の好評を博したハリウッド映画とかアメリカ製のテレビ番組とかソープ・オペラを大量に買い付けました。それには莫大の資金が必要になってきます。そのときに、国民労働銀行バンカ・ナツィオナーレ・デル・ラヴォーロやモンテ・パスキ・ディ・シエナから資金調達をしました。いかに飛ぶ鳥を落とす勢いとはいえ彼のような新興成金が、格式を重んじるこうした名門銀行から融資を受けることは、至難の業でした。おそらくはP2に加盟することで、そうした障害を取り除くことが可能となったのです。というのも、これら二つの銀行の経営者たちもP2の会員でした。彼はP2をとおして、こうしたエスタブリッシュメントとの関係を持つことできたのです。

 ところでP2には、共産主義から国家を防衛するためのクーデター計画の一環として、メディアを支配するという計画がありました。イタリア共産党は1976年総選挙では大躍進を遂げて、共産党がキリスト教民主党をsorpasso追い越す可能性すらあるといわれていました。そしてP2は共産党が政権を奪取することをとても恐れていました。それ以上に、キリスト教民主党のアルド・モロが共産党との連立を摸索していたことに、ひじょうに大きな危機感をいだいていました。そこでこれを阻止するためにも、メディア戦略は、ひじょうに重要であると考えたわけです。いいかえると民間放送の分野において、ベルルスコーニが独占的な支配を樹立するということには、P2にとってもメディア戦略上きわめて大きな利益があったと考えたのです。

 それにしても、ベルルスコーニは冷戦構造が崩壊したあとでも、今なお依然としてanticomunismo反共産主義を唱えつづけています。それどころか、アカの連中の陰謀をつねにいいたてています。僕は長いこと彼の反共主義は、彼の政治的信念ではなく、いわば政治的方便だと思っていました。しかし、P2のことを調べているうちに、そうではないかもしれないと考えるようになりました。反共主義というのは案外彼にとって、実際に選挙などで機能するから使う言葉でもあると同時に、彼自身のわりと深いところに潜む信念であるような気も少ししています。でも今のところ証明することはできません。

 いずれにしても、P2との関係についても、彼は明らかにしようとはしていません。

 さて、それではベルルスコーニの政界出馬の謎についてお話して、締めくくりにもっていきたいと思います。これについても、ベルルスコーニついて書かれた本では誰もが指摘していますので、じつは謎でも何でもありません。ベルルスコーニの会社がつぶれそうになっていたことが大きなきっかけとしてある。彼が所有するフィンニンヴェスト社は、売上高は伸びるのですが、大赤字に陥っていました。利益率はほとんどゼロになってしまいます。多角化に失敗したのが最大の原因です。スタンダという有名なスーパーマーケットチェーンを手に入れたのですが、これが失敗します。そういうふうなことがあってベルルスコーニの会社がひどい経営難に陥っていたのです。

 それから、もう一つの要因として、彼の政治的な後ろ盾が全部つかまってしまったことがあります。クラクシ、アンドレオッティ、フォルラーニ。それまでの政治的な庇護者が完全にいなくなる。空白が生じるのです。クラクシは全身全霊かけてベルルスコーニのメディア独占を擁護しました。先ほど特定個人向け法律legge ad personamのお話しをしました。首相であったクラクシはベルルスコーニを救うためだけのlegge decreto暫定措置法まで作りました。ちょっと信じられないくらいの肩入れをしたわけです。でも、そういう人たちがすべていなくなってしまいました。

 それから、その当時、カルロ・アセリオ・チャンピが首相となっていました。つい最近まで大統領だった人です。首相に就任するまえはイタリア銀行総裁でしたが、スカルファロ大統領に請われて、首相となりました。そのころのイタリアは、リラが暴落し、財政も破綻して非常事態に陥っていました。債務不履行defaultの恐れすらありました。そこで、国会議員でもなく政党政治家でもないイタリア銀行の総裁が首相に登用され、危機の打開が図られたのです。ある意味では緊急避難的な、ひじょうにイレギュラーな政治体制だったのです。

 このチャンピ内閣にはたくさんの有能で廉潔な学者が入閣しました。憲法学者のアウグスト・バルベーラ、行政学者のサヴィーノ・カッセーゼ、経済学者のルイジ・スパヴェンタなど、イタリア屈指の専門能力を持つ学者が参加していたのです。

 したがって、こういった閣僚がイタリア経済の建て直しを図ろうとするならば、ずさんな財政法規や行政法規や経済法制を整備することが必要であると考えるのは、当然の成り行きでした。独占禁止法がないために放送業界が事実上野放しの状態になっていることも、当然のことながら、視野に入っていました。ここにいらっしゃる広島修道大学の高橋利安さんの友人であるカルロ・フザーロさんというフィレンチェ大学の憲法学者は、バルベーラ教授のお弟子さんです。そして、当時バルベーラ教授とともに内閣府で一緒に仕事をしていたそうです。それで僕は電話で確認したのですが、チャンピ内閣が放送法の改正をやろうとしていたことはまちがいありません。もしこのままチャンピ政権が続いていれば、ベルルスコーニの民間商業テレビ放送の独占に対して、何らかの法的規制が講じられる。これはほぼ間違いありませんでした。それを防止するためにも、ベルルスコーニは政治権力の奪取が必要であると考えたのだと思います。

 それともうひとつ、1993年の地方選挙で左派のprogressistiプログレシスティが大躍進をとげました。左翼民主党が核となる左派諸勢力が権力を握ることは、不可避と思われていました。これはある意味で必然的な成り行きでした。つまり、キリスト教や社会党からなる伝統的諸政党は腐敗、堕落して、消えていったわけですから、唯一清潔な既存の大政党といったら左翼民主党しか残っていませんでした。

 それから、この当時の北部同盟は現在とはちがってまだ左翼的な立場をとっていました。また北部同盟は、ミラノ検察庁のアントニオ・ディピエトロを応援していました。ミラノ検察庁が汚職捜査を比較的自由にできたのは、あの地域では北部同盟が強かったからです。この時期には北部同盟はベルルスコーニと正反対の方向にむかっていたのです。

 したがって、もしこのまま左派勢力が前進し、それに北部同盟まで合流してくならば、ベルルスコーニが徹底的な汚職の捜査を受けることは間違いありませんでした。またテレビの独占にも必ずや法的な規制の網がかけられたでしょう。このまま座して待つならば、すべてを失いかねないという窮地に陥ったときに、ベルルスコーニはアルコーレの邸宅に側近たちを集めて、政界出馬の是非について相談をしました。慎重論が大勢をしめるなか、もっとも積極的だったのが、デッルトリだったそうです。

 先ほど述べたようにデッルトリはマフィアとの関係が疑われていた人物です。そこからこんな憶測が生まれました。ベルルスコーニの政界出馬はマフィアの意向を反映したものではないか。マフィアもキリスト教民主党のアンドレオッティを始めとする政界の大物による後ろ盾を失って、大ピンチ陥っていたときでした。したがって、それにかわる政界の後ろ盾を必要としていたというのです。ちょっとうがったみかたで、じつはそこまでではないと思います。しかし、政治権力の後ろ盾を失ったマフィアが次々と投獄された結果、逆上して、おお暴れしていたことは事実です。1993年5月に、マフィアは私の暮らしていたフィレンツェのパラッツォ・ジローラミのすぐ裏手にあるウフィッツィ美術館のわきに爆弾を仕掛け、それが爆発して3人も殺されてしまいました。そんなふうに、いろいろなところで爆弾を仕掛けたりして、大暴れをしたのです。

 このようにしてマフィアは、イタリアの政治家たちに対してメッセージを出していたことは間違いありません。国家権力に対して何らかの妥協を図らないと、ただではおかないという挑戦状です。ただ、マフィアが直接ベルルスコーニの出馬を促したというのはないと思います。

 いずれにせよ、そういうふうなことがあって、それでいきなり政治の世界に登場しようということになりました。僕は「右翼の発明」といっていますが、彼が政治のイノベーション(技術革新)を図ったことは間違いありません。イタリアの政治空間の空白を「右翼」を発明することで埋めようとしました。そして、戦略としては、政治の見世物化spectacularizationを取り入れました。この戦略は、アメリカの大統領選挙の物まねでした。

 アメリカでは、すでにずっと以前から大統領選挙の選挙キャンペーンが、ずいぶんと劇場化、演劇化、見世物化していました。クリントン大統領だってそういう手法を用いていたわけです。またロス・ペローというテキサスの大金持ちが、私財をなげうって、改革党Reform Partyを作って大統領選挙に出馬し、10数%もの得票率を得たこともありました。ロス・ペローの戦略のなかから生まれた新しい言葉がinformercialです。インフォメーションとコマーシャルの接合です。ロス・ペローは、自分で作った選挙演説のビデオを、一方的に各放送局に送りつけるわけです。しかしテレビ討論会には一切出演を拒否します。またインタビューも受け付けません。というのも記者がイニシアティブをとるようなことを許すと、何を聞かれるか分りません。討論会も同様です。だから、そういうことは一切しない。自作自演のビデオを一方的に送りつけるわけです。

 ベルルスコーニはある意味でそれに近いことをやりました。左翼民主党のオケットとの討論会だけはやりましたが、ほとんどそういう機会を避けようとしました。それから、とても有名なテクニックは、世論調査を多用することです。特にマーケティングのテクニックであるフォーカスグループ調査です。それは、たとえばシャンプーはどうやったら売れるかを調べる時に用いるテクニックです。いろんな消費者を何人か集めて、彼等の嗜好を徹底的に調査します。またダイクロンという会社を立ち上げて、電話で世論動向ずっと調べていく。その結果は2日に一度ベルルスコーニに報告されました。

 いずれにせよ、もっとも大事なことは、ベルルスコーニ自身が商品である、ということでした。つまり、ベルルスコーニ自身が売り込むべき商品であるという発想を徹底します。今回2006年の総選挙でも、まさに最後の最後になって、ナポレオン発言とかキリスト発言とかが飛び出しました。しかし、それにも計算づくの合理的な根拠がありました。すなわち、ああいうふうなことをいうのも、馬鹿にされることは承知の上で、自分のプレゼンスをどこまで高めるかだけが問題だったわけす。中身がどうであれ、話題になればいいということです。爆弾を仕掛けるのと一緒なわけです。徹底的に自分が主役である。自分自身がパーソナルな主役である。こうして総選挙を、ベルルスコーニをめぐる国民投票であるかのような状態にまで持っていく。彼が意図したのはそんな手法だったのです。

 これはひとごとではなくて、日本の小泉首相の手法と全く一緒です。つまり、選挙というのは本来それまでの4年間とか5年間の業績を評価するためのものであるはずなのですが、そういう4年間5年間をすべて忘れさせてしまうような状況を演出する。まるでそういう5年前のことなんて誰も何も覚えてないように盛り上げていって、興奮状態に持っていく。そして、まるでそんな見世物の中で、自分はあれが好きなのか嫌いなのかという二者択一にまでもっていく。

 ベルルスコーニはべつ嫌われてもいいわけです。ベルルスコーニを嫌いな3割の人は絶対ベルルスコーニには投票しません。そんなことはわかりきっています。ただ2001年にベルルスコーニに投票した有権者で彼からそっぽを向いてしまった人たちをもう一度呼び戻すことが目的だったのです。そのときにはまた今まで同じように、お前はやはりアカは嫌いだろう、アカの政権になったら困るだろうと、こういうふうに持っていくわけです。そのついでに不動産に対する地方税、つまり固定資産税を免除してやる。こういうふうにささやいていくわけです。最後から二番目のテレビ討論会でICIというのですが、要するに不動産に対する地方税ICI(imposta comunale su immobiliare)の免除するなんていう公約を出しました。イタリアに数多くいる小金持ちたちは、自分が持っている利殖目的のアパートの固定資産税がただになると喜ぶわけです。そういうちょっとさもしい気持ちをうまく刺激していく。そういうふうなことを非常に巧妙にやっていく。

 もし仮に今回も政権を手に入れたならば、その後の5年間の政策は無視して、また選挙のとき同じようなキャンペーンをやればいいという話になりかねなかったわけです。

 もう時間が来ましたので、日本に帰る前に、私の友人に頼まれて、ラヴェンナの市民クラブでしゃべったことを引用することによって結びとしたいと思います。をしたのです。

 Noi viviamo nel mondo dove la politica normale e democratica ormai diventa il lusso. あたりまえの民主主義の政治というのは、もはやある意味では贅沢になっている。私たちはいまやそういう世界に生きていると。La democrazia non e` il dato. 民主主義というのは所与のもの、当たり前のものとして目の前にあるものではありません。E’la democrazia che dobbiamao costruire con pazienza attraverso la nostra vita quotidiana. 民主主義は私たちの日常生活として、粘り強く作り上げていくべきものなのです。In questo senso la democrazia e` la filosofia della prassi. 民主主義というのは実践の哲学です(これはグラムシが使った言葉です)。Invece la spettacolarizzazione della pokitica e` un fenomeno tipico delle patologie degenerative nell democrazia di oggi. その逆に、政治の見世物化というのは、今日の民主主義における退廃した病理現象のもっとも典型的な一つです。La spettacolarizzazione della politica e` un fenomeno tipico nell’eta` mass-mediatica del dominio dei leader carismatici senza charisma. 政治の見世物化というのは、カリスマなきカリスマ指導者の支配するマスメディア時代における典型的な現象です。僕はベルルスコーニにはカリスマはないと思いますし、小泉首相も同様です。カリスマがないからこそ、劇場化をするためのマスメディア操作が必要であると僕は言いたかったのです。La spettacolarizzazione della politica e` un fenomeno tipico del populismo senza il popolo. 政治の劇場化とは民衆なきポピュリズムに典型的な現象である。こうした政治現象はポピュリズムと呼ばれていますが、ポピュリズムといいながら、ピープルなんてどこにいるのでしょう。つまりピープルなんてどこにもいないのです。つまり、結局そういうものではないかと思いました。

 どうも長々とご清聴ありがとうございました。




司会  村上先生、どうもありがとうございました。皆様、どういう印象を受けられましたでしょうか。時間は余りありませんが、せっかくですから、お一人かお二人、質問がありましたらお受けしたいと思いますがいかがでしょうか。なかなか重い話題で、日本につながる話題でもあると思いますが。


質問  いろいろお聞きしたいことがあるのですが、時間がないので1つだけ。日本でイタリアの動きを見ていても、今度の選挙はもう少しプローディさんのほうが頑張るのではないかという印象をもって見ていました。まるで今のお話のように、ペッジョの代表のような、象徴のような、ベルルスコーニに対して、イタリア人は、皆さんご存知のように、EUというのを自分の国より信用しているようなところがあるところですから、そこからでてきたプローディさんをもう少し支持するのかなと思ったのですが、なぜ、あれほどの僅差だったのでしょうか。そこだけちょっと知りたいのですが。


村上  そのご質問に答えるには、もう2時間必要かと思われます。この前に『世界』に総選挙について書きました、左派がなぜ成功しなかったのかについては十分に論じることができませんでした。僕は、プローディは勝ったとは言えないと思います。それでは、どうして左派はそんなに魅力がなかった。最も簡単な結論は、左派がきちんとした政権綱領を持ってなかったということです。左派が勝ったのは、ベルルスコーニに任せてはいけないということ、それだけだったと思います。ベルルスコーニがもしもう5年間政権つくなら、ウンベルト・エーコは大学を辞めてよその国に行くといっていました。僕の友人のなかには、亡命するという人もいました。つまり。つまりそれが唯一中道左派をまとめるものであって、なら中道左派政権はこんなことをやるよというそのビジョンに関しては、実は正直なところはやはりちゃんとしたものは持っていませんでした。ベルルスコーニもそこを一生懸命ついたわけです。僕の考えですが、イタリアは一種ノーマルな状態、特に合法的な法治国家としての体制を立て直すとか、そういう意味では、ノーマライゼーション正常化という任務が今回プローディには与えられたと考えます。したがって左翼として何をやるかなんていうことは、じつはまだ考えることもできない状態だと思います。今のイタリアの置かれた状態は、EUの中でもひじょうに厳しく、特に経済は本当に深刻です。だからそういったことも含めて考えると、プローディ政権が、そのままうまくやっていけるのかどうか、まだまだとても難しいだろうと思います。この問題については、またどこかでご報告したいと思います。どうもありがとうございました。





村上信一郎(むらかみしんいちろう)プロフィール


1948年生まれ

神戸市外国語大学教授


神戸大学文学部史学科(西洋史学専攻)卒業(文学士)

神戸大学大学院法学研究科博士課程修了(法学博士)


研究活動:

政治学、ヨーロッパ現代政治(とくにイタリア政治、ファシズム、国家と宗教、現代カトリック教会、欧州統合)


主要論文:

「プローディの失脚・ダレーマの挫折・「オリーブの木」の自殺」(「神戸外大論叢」第51巻第7号所収)2000年

「ベルルスコーニの勝利に終わったイタリア総選挙」(「世界」7月号)2001年

「欧州経済通貨統合とイタリア政治の構造変容(1)(2)」(「神戸外大論叢」第52巻第1号、第6号所収)2001年

「キリスト教民主主義に未来はあるのか―イタリアにおけるキリスト教民主党の崩壊とカトリック教会」(「年報政治学2001三つのデモクラシー」日本政治学会編、岩波書店、2002年


主な著書・訳書など

「権威と服従―カトリック政党とファシズム」単著 名古屋大学出版会、1989年

「政党派閥―比較政治学的研究」共著 ミネルヴァ書房、1996年

「イタリアの政治」共著 早稲田大学出版部 1999年




レジュメ

イタリアにおける政治改革とは何であったのか:政治学の《敗北》・人類学の《勝利》?

1992年の構造的危機(sistemic crisis):(1)通貨金融危機:イタリア通貨リラの大暴落と債務不履行(default)の危機 (2)社会・道徳的危機:マフィアの暴力と政治腐敗の蔓延 (3)政治的危機:ミラノ検察庁(mani pulite)による構造汚職の大規模摘発(tangentopoli)

政治改革への期待:社会工学(social engineering)としての政治学      

(1)「万能薬」(panacea)としての選挙制度改革(比例代表制に替えて小選挙区制を導入=イギリスをモデルとする二大政党制を目標・凝集力の高い多数派に基づく政権の成立・政府の高い統治能力・政権交代が可能となる)

(2)国民投票デモクラシー(democrazia referendaria)の両義性(市民的イニシャチヴ=直接民主制による代議制民主主義の補完/政党万能体制partitocrazia批判・政党と政党制の全否定・人民投票plebiscitoの危険・政治の人格化)

「第一共和制」(la prima Repubblica)の崩壊               

(1)「反政治」(antipolitica)言説の蔓延:populismoの現代版(「ふつうの人」の名の下に既成の権力や支配的価値観を攻撃する少数者や過激派=populismo classico /権力者が「ふつうの人」(silent majority)の代表を僭称しつつ既得権の打破を主張=Thatcherism, Reaganism以来の新自由主義・市場主義・新保守主義が発端=強い国家・強い指導者・人民投票主義による直接民主制への志向=穏健保守主義の終焉:弱者・少数者・人権・連帯を既得権として攻撃)

(2)「戦後合意」(postwr consensus)としての「憲法秩序勢力」(arco costituzionale)の解体:イタリア共和国憲法を制定した反ファシズム6政党(DC,PCI,PSI,PSDI,PRI,PLI)の消滅・党名変更・分裂

(3)「右翼」の「発明」(invention):政治企業家ベルルスコーニによるイタリアの選挙・政治市場の技術「革新」=「新商品」としての「右翼」と「ベルルスコーニ」を発明=outsiderとしての新鮮さとクリーン・イメージ(否定の対象としての共産主義)/フォルツァ・イタリア=自称スポーツ・クラブ型ネットワーク(実態は私企業政党)/94年総選挙でのブリッジ共闘:北伊=地域分離主義の北部同盟と「自由の極」、南伊=ネオファシストの国民同盟と「善政の極」

長い「過渡期」の始まり(A transition is a transition is a transition.)

(1)「擬似大統領制的テクノクラート政権」(governo tecnocratico pseudo presidenziale):マーストリヒト条約(92年2月)の「外圧」(vincolo esterno)=収斂基準(convergence criteria):ユーロ参加のためには財政再建(risanamento)が至上命題/スカルファロ大統領(在位1992-99)によるイタリア銀行総裁チャンピら経済テクノクラートからなるcore executiveに憲法的正統性の付与: 1st Amato(June 1991-April 1993), Ciampi(April 1993-April 1994), *1st Berlusconi(May 1994-Dec.1994)[Dini] ,Dini(Jan.1995-Jan.1996), 1st Prodi(May 1996-Oct 1998),*D’Alema(Oct 1998-April 2000)[Ciampi], 2nd Amato(April 2000-May 2001)*は非経済テクノクラート [ ]は国庫相 

(2)「協調」(concertazione)による財政再建:擬似大統領制的テクノクラート政権の「対話者」としての3大労組(CGIL, CISL, UIL)/Confindustriaも合意/年金・医療・社会保障の見直しと労働市場の柔軟化/北欧型コーポラティズム

「オリーヴの木」(Ulivo)の蹉跌 

(1)Romano Prodi(1939- Scandiano[Reggio Emilia])農民出身の父(苦学の後工学部卒・県庁建設技官)、母は元小学校教師、9人兄弟姉妹の8番目(全員大卒、大学教授6人、建築家、数学教師、精神科医)、ミラノ・カトリック大学法学部からLSE大学院(産業経済学)、ボローニャ大学教授(1971-)、妻Flavia(1947-)は教え子、4th Andreotti=Gov.solidarieta’ nazionale(1978-79)の産業大臣,IRI総裁(1982-89 & 1993-94) 

(2)ボローニャの進歩派カトリック同人誌Il Mulino(1951-) 

(3)don Giuseppe Dossetti(1913-1996)の影響:ミラノ・カトリック大学教会法講師・武装パルチザン闘争・憲法制定会議・DC左派指導者・政界引退(1952)・司祭(1959)・第二ヴァチカン公会議(1962-65)・修道会創設(1982)・反ベルルスコーニと憲法擁護の書簡(Nov 1994)

(4)Quercia / Ulivo(aggregazione dei cespugli sotto la quercia):ベルルスコーニへの倫理的反感:金権主義・市場原理主義・消費主義・快楽主義・シニシズム/「軽い国家」(Stato leggero):国家介入主義の否定・市場経済における審判者としての国家(社会における法・倫理・公正の重視)

(5)ユーロ参加の実現(May 1998):EUの「外圧」を政治的資源とする「テクノクラティックな正統性」の消滅→Rifondazione Comunistaの離反による内閣不信任案の1票差での可決・総辞職(Oct.1998) 

(6)ダレーマとの確執ダレーマの野望と挫折

 (1)Massimo D’Alema(1949 Roma-):PDS書記長(1994-98)・Achille Occhetto PCI→PDS(Dec.1991)/ Dalla caserma alla carovana

(2)党官僚・各級議員・党関連諸団体職員=Zona rossaの既得権受益者層の利益代表

(3)hegemonic strategist:憲法改正による体制移行(与野党トップ会談での合意を図る→Berlusconi& Finiが対話者)/憲法改正両院合同委員会(Jan 1997-June 1998):憲法第二部「共和国の組織」の改正/Patto Crostata(June1997)修正版フランス型大統領制(小選挙区・比例代表制による一回投票制)で一旦合意/司法制度改革を求めるBerlusconiの拒絶で頓挫  

(4)首相(Oct 1998-April 2000):trasformismo(元大統領CossigaのUDRと連合)⑤コソヴォ戦争(Mar-July1999):中道右派支持・NATOと連携・反戦論者離反

2.第一共和制の「闇」のなかのベルルスコーニ

マフィアの影 (1)Silvio Berlusconi(Milano 1936-) Luigi(Banca Rasini,2年間スイス逃亡)+Rosa Bossi[Madonna col bambino] ; Liceo Sant’Ambrosio(salesiani)[宿題請負業];Fedele Confalonieri(crocieraでバンド演奏);Univ Milano(広告に関する懸賞付卒論入賞)(2)建設業者(25歳で大卒・独立)「経済の奇跡」(1958-63)ミラノは不動産ブーム:集合住宅4棟→Burgherio(1963,4千人規模の団地)[Edilnord,スイスからの出資=マフィアの資金洗浄?販売難=ローマの年金財団による大量購入]→Milano2(1970-79、1万人規模複合住宅団地、Linate空港航路変更)[Edilnord社長は従姉・最大出資者はスイス民間会社・1979年財務警察の査察・不問・捜査官Berrutiは顧問弁護士となり1996年からFI下院議員] 

(3)Arcore(Villa Casati=Villa San Martino)ルネサンス時代の修道院跡に建てられた18世紀侯爵邸(147 室、1万冊古書、Tinotoretto, Guardi,Tiepolo等ヴェネツィア派絵画)1970年Camillo Casti Stampaによる後妻と愛人射殺・自殺、相続人は先妻との一人娘Annamaria(19歳)・後妻の顧問弁護士が事実上の後見人Cesare Previti(Reggio Calabria1934-)・1972年相続人ブラジル移住→敷地一部売却・1974年邸宅・敷地完全売却(破格の7億5000万リラ・分割払・実際の支払開始1980年)・Previtiは1994年FI上院議員・国防大臣 *MausoleoとTV画面付屋内プール④Vittorio Mangano(1940-2000; Mifiosi palermitari Porta Nova, 殺人・麻薬密売等で終身刑・癌で死亡):1974-77年Arcoreにstalliereとして住み込む[マフィアによる誘拐に対する用心棒・二人の子供の通学付き添い]。Marcello Dell’Utri(Plermo 1941-)が紹介・Edilnord勤務後Opus Dei系スポーツ・クラブで青少年サッカー監督・1970年Cassa di risparmio勤務・1974年ベルルスコーニの私設秘書・1980年Publitalia入社82年社長・1994年FI選挙対策本部長・1996年下院議員・1999年欧州議会議員・2001年上院議員

クラクシの影 

(1)RAI(1954年TV=DC日曜ミサ午後11時終了)・1963年RAI2(PSI)・1978年RAI3(PCI)(2)1976年憲法裁判所決定(全国放送=公共TV+地方放送=民間)→放送規制法の不在→Far Western(1978年民間TV434局)

(3)1974年Milano2でcableTV/TeleMilano・1978年Fininvest・1979年Publitalia(広告)、Reteitalia(番組販売)・1980年Telemilano→Canale5(地上波商業放送)/1982年Italia1買収(Rusconi)・1984年Rete4買収(Mondadori)=民放3社独占④Publitalia売上1980年120億リラ→1984年2兆1670億リラ・Finivest収益の85%、3500人中2000人(4)1980年Mike Bongiornoを引抜きクイズ番組I sogni nel cassetto・1981年Buongiorno Italia(ワイドショー)・1982年昼間主婦向けsoap opera・1987年Colpo grosso[(クイズ番組で女性参加者がストリップ)[米製contents大量購入・娯楽番組制作・地方系列局に録画VTR廉価販売・全国同時放送=擬似全国放送を実現・録画スポット広告料収入を目的][cattolici/comunistiの禁欲的で偽善的なpauperismo=清貧の文化に米型大衆消費社会の快楽主義の欲望を解禁]     

(5)「黄金の八〇年代」(gli anni dorati ’80)=「豊かな社会」(affluent society)/第三のイタリアla terza Italiaの繁栄/1986年sorpasso GDP はイギリス追い越す ⑦Bettino Craxi(Milano1934-2000)1976年PSI書記長、1983-87年首相・ベルルスコーニ(1965年に結婚二人の子供) 1980年Manzoni劇場女優Veronica Lario(1956-)と不倫/1984年スイスで女児出産Craxiがpadrino/1990年再婚Craxi夫妻立会人[CraxiもBokassa大統領といわれローマに元女優の愛人Anja Pieroni、チュニジアに別荘、NY, Barcellonaにマンション所有、ローマはHotel Raphaelが定宿;ArcoreやPortofinoまたはCosta Smeraldaの別荘で週末・休暇を過ごす] ⑧1984年10月16日Torino,Roma,Pescara判事の放送設備閉鎖命令(憲法裁判所規定違反)・10月20日Legge Decreto(3民間全国放送合法化=60日間に法律化の必要)・11月28日下院法律化否決(違憲と判断)・12月6日暫定措置法再提出・1985年2月4日MSIの支持で法律化(放送規正法制定は1990年まで先送り)・1990年8月Andreotti政権Oscar Mammi(PRI)郵政相=マンミ法:Rai+Mediasetの二極複占体制Duopolioの現状追認,5閣僚抗議辞任[Self-Made-Man Berlusconiは虚像]

秘密結社P2の影 

(1)Michele Sindona(1920-86): マフィアの銀行家・P2会員・教皇庁の宗教事業財団IORと結合”il salvatore delle Lire”(1973 Andreotti),1974年NYで逮捕・偽装誘拐でシチリアに逃亡・86年終身刑・謎の獄死 

(2)シンドーナ事件を捜査中のミラノの判事Gheraldo Colombo/Giuliano Turone1981年Arezzo郊外でLicio Gelliが経営する縫製工場からPropaganda Due962人の会員名簿発見(但し1600番以降) 

(3)P2(1970年Grande Oriente d’ItaliaのGran MaestroであるLino SalviniからGelliに1877年創設のPropagandaの再建命令→P2/反共産主義・CIAと結合))

(4)1981年7月Fiumicino空港から逃亡を試みた娘Maria Graziaの鞄Memorandum sulla situazione politica italiana, Piano di rinascita democratica発見[Aldo MoroのPCI政権参加構想阻止、政党・労組・出版界工作の秘密資金300~400億リラ調達・Corriere della Seraの親会社Rizzoliの増資Angelo Rizzoli,Bruno Tassan Din(総支配人)、Franco Bella(編集長)=すべてP2会員、増資資金はSindonaと繋がる米国人司教Paul Marcinkusが支配するIORから]

(5)Banco Ambrosiano(1896年ミラノに創設)Roberto Calvi頭取=P2会員1982年6月12日国外逃亡・17日破産宣告・18日ロンドン・テムズ川Black Friar橋で首吊り死体[2005年10月裁判再開・遺族はP2の真の指導者はAndreottiと証言] ⑥1982年議会調査委員会はP2を反国家・反民主主義陰謀組織と認定・非合法化[しかしP2会員の法的道義的責任追及はなし] 

(6)ベルルスコーニ1978年1月26日入会・1816番・1990年Venezia裁判所で偽証罪により有罪判決(恩赦)[ 国家持株会社傘下societa` fiduciarie信託銀行(BNLには9人のP2会員)によるFinivest資産管理/Monte dei Paschi di Siena(1472年創業)会長Giovanni Cresti=P2会員でGelliの盟友による低利の巨額融資[1976年40歳でCavaliere del Lavoroになったばかりの地方実業家が排他的で閉鎖的な政財界中枢のBuoni Salottiに接近する機会となる→放送事業の巨額資金調達(特にハリウッド映画などの購入資金)⑧反共産主義:P2とCraxiの接点=PCIの政権参加阻止・マスメディア支配(民間商業TV独占/有力日刊紙による文化的ヘゲモニーの確保)*Piano di rinascita democratica司法権独立の否定(その後のベルルスコーニの持論)⑨ベルルスコーニの新聞・出版界支配:1979 年Il Giornale 購入 Indro Montanelli”Turatevi il naso e votate DC”(1994年決別)・1991年イタリア最大の出版社Mondadori買収(イタリアの書籍市場30%支配)[Carlo De Benedetti di Olivettiと争奪戦・ローマ裁判所の裁定で勝利・裁判官3人への贈賄容疑で2004年ミラノ裁判所はPrevitiに懲役11年の一審判決・控訴中] 

政界出馬の謎 

(1)Fininvest経営危機:総売上高1987年2兆6000億リラ→1991年10兆リラ・純益5000億リラ→1100億リラ(利益率1%);1992年総売上高10兆4690億リラ・赤字1兆1110億リラ・負債4兆5280億リラ(総資産の3・34倍)特にStanda(1988年買収・従業員17000人)不振・Telepiu`(有料テレビ)契約者伸び悩み 

(2)1993年10月融資銀行団は経営建て直しにFranco Tato`を送り込む 

(3)1993年2月Craxi書記長辞任・3月Andreottiマフィア加担容疑で捜査令状

(4)4月Ciampi専門家内閣(憲法学者Augusto Barbera・行政学者Sabino Cassese・経済学者Luigi Spaventa入閣)Mammi放送法改正を検討

(5)6月市長選(新地方選挙法:直接選挙・決選投票)ミラノ市長Marco Formentini(LN)Nando Dalla Chiesa(Rete di L.Orlando)善戦/トリノ市長Diego Novelli(Rete)*マフィアの爆弾テロ:5月26日フィレンツェ3人殺害Uffizi被害

(6)7月10日出馬決意(Dell’Utriのみ賛成)/7月28日Prof.Giuliano Urbani新政党待望論CS→9月末Alla ricerca del buongoverno設立/9月27日世論調査会社Daikron設立/9月末Dell’Utri候補者選抜/11-12月市長選Roma,Napoli,Genova,Venezia,Trieste,Palermo左翼進歩派勝利・ベルルスコーニはローマ市長候補Fini(MSI)支持宣言/11月25日Milano、Assoc.naz.ForzaItalia! Club/1994年2月6日1st Convention(6840 club、4万社員動員)/Infomercial(1992Reform Party of Ross Perot)模倣・10週間で1000回TVspot 

3.ベルルスコーニ体制(il regimetto di Berlusconi)

Fit to run Italy? In any self-respecting democracy it would be unthinkable that the man assumed to be on the verge of being elected prime minister would recently have come under investigation for, among other things, money-laundering, complicity in murder, connections with the Mafia, tax evasion and the bribing of politicians, judges and the tax police. But the country is Italy and the man is Silvio Berlusconi, almost certainly its richest citizen. As our own investigations make plain(see pages 23-26), Mr Berlusconi is not fit to lead the government of any country, least of all one of the world’s richest democracies (The Economist, April 28th 2001)

Kleptocracy: Patrimonialization and Privatization of Politics (盗賊支配:政治の家産制化と民営化=私有財産化) 盗賊支配=政治腐敗の極限状態:盗賊(klepto)が支配者となって公権力と私的利益の境界を決定する権力を握ることにより、これまで非合法的であったものを合法化することが可能となり、公権力も支配者の私的利益を極大化するためのたんなる手段となる(D.Della Parta & A.Vanucci)    

(1) Tangentopoli / associazione con la mafiaは「アカの司法官」(magistrati rossi)の捏造による党派的冤罪・政治的陰謀:マフィアとの共存? 

(2) 司法制度攻撃(法治主義の危機)③利益の相反(conflict of interests)無視 

(3)メディア独占の継続:Anti-trust lawの欠如 ⑤特定個人向け法律legge ad personam :立法権の家産制的利用

(4)企業犯罪の軽犯罪化(2001会計帳簿不実記載Falso in bilancio) 

(5)脱税や違法建築の赦免措置(condono) ⑧重要文化財を含む国有財産や自然景観に関わる国有地の大量売却(Finanza creative di min.Economia Giulio Tremonti)  ⑧立憲主義constitutionalismの否定:「ソ連の影響」下に起草された共和国憲法の改正を主張/党利党略の「商品」(取引材料)としての憲法改正(devolution)北部同盟/選挙制度改正(proporzionale)UDC

Media Ochlocracy(メディア衆愚政治): Trent’anni fa Pasolini prevedeva un “mutazione antropologica” degli italiani; anche solo osservando i sembianti, a volume spento, delle creature che ogni sera occupano i nostri teleschermi si capisce che l’attualita` e` ben oltre le piu` cupe previsioni pasoliniane: questi sono dei freaks(...)Appena arrivato al potere grazie alle regole della democrazie(...)Berlusconi ha aperto il rubinetto del “peggio”. E il “peggio che c’e` in noi”, quel fondo di ferinita` che alberga nell’animo umano quando non e` tenuto a bada dalla cultura e dall’educazione alla democarzia(..), quel “peggio li` e` esploso come un fuoco d’artificio in tutta la sua volgarita` e in tutto il suo becerume coniugandosi alla perfezione con le performance di questo impresario sceso in politica.(Antonio Tabucchi, “L’uomo della Provvidnza,” Prefazione, Felice Froio, Il libro nero dell’Italia di Berlusconi, Newton & Compton, Roma 2005) 

(1)spectacularization of politics      

(2)infomercial/infotaiment 

(3)impressionist voting

(4)campaign management

4.結び Noi viviamo nel mondo dove la politica normale e dmocratica ormai diventa il lusso. La democrazia non e` il dato. E’ la democrazia che dobbiamao costruire con pazienza attraverso la nostra vita quotidiano. In questo senso la democrazia e` la filosofia della prassi.Invece la spettacolarizzazione della politica e` un fenomeno tipico delle patologie degenative nell democrazia di oggi. La spettacolarizzazione della politica e` un fenomeno tipico nell’eta` mass-mediatica del dominio dei leader carismatici senza carisma. La spettacolarizzazione della politica e` un fenomeno tipico del populismo senza il popolo.