マキアヴェッリと政治の見方

第318回 イタリア研究会 2006-10-14

マキアヴェッリと政治の見方

報告者:学習院大学法学部教授、東京大学名誉教授、東京大学前総長 佐々木 毅


イタリア研究会30周年記念講演会(2006年10月14日 東京大学医学部鉄門記念講堂)

「マキアヴェッリと政治の見方」

講師:佐々木毅(学習院大学法学部教授、東京大学名誉教授、東京大学前総長)


司会  イタリア研究会事務局の橋都と申します。最初にイタリア研究会の簡単な紹介と、それから今日講演してくださる佐々木先生のご紹介を申し上げたいと思います。

 イタリア研究会は、今日が30周年というとおり、ちょうど30年前、1976年の9月に第1回の例会が開かれています。その創始者の1人の松浦先生が今日もこちらにおいでになっておられますが、イタリアで勉強した、あるいはイタリアで仕事をした経験のある方たちが日本に戻って、イタリアを忘れないように勉強しようということで始まった会です。

最初は比較的社会科学的な内容の例会が多かったのですが、最近はその他に、美術、食べ物、音楽、映画、さまざまなテーマで講演を行っておりまして、イタリア研究会と名前はいかめしいのですが、イタリア同好会というような雰囲気もかなりあります。

この会は、どこかの大学の教室に拠点があるというわけではありませんで、まったくのイタリア好きのボランティアによって運営されていて、それが30年間途切れることなく毎月例会を行ってきたというのは、非常にすばらしいことなのではないかというふうに思います。私も実は医者でありまして、イタリアとはまったく関係ないのですが、趣味のほうでイタリアに頭を突っ込みまして、それで今事務局を担当しているという、こういう事情です。今日おいでの方の中にも、まだイタリア研究会に入会されていない方がおられるかもしれませんが、イタリア研究会は勉強もすれば、比較的気楽な面もある会ですので、ぜひご入会いただきたいというふうに思っております。

さて30周年ということで、ぜひどなたか立派な方に内容のある講演をお願いしたいということで、佐々木先生に今日ご講演をお願いすることにいたしました。佐々木先生は、前東大総長ということで、皆様お名前はもちろんご存知だと思いますが、先生のご業績、あるいは、イタリアとどういう関係があるかということについては、ご存じない方があると思いますので、簡単に佐々木先生のご紹介を申し上げたいと思います。

 佐々木毅先生は、昭和17年、秋田県のお生まれで、昭和40年に東京大学法学部を卒業されまして、そのまま東京大学の助手となり、そして、43年には助教授、そして53年から法学部の教授となられました。そして、平成13年から、東京大学総長として4年間勤められました。ちょうど東京大学が独立行政法人化するという時期に当っておりまして、新しい東京大学というものを皆さんに認知していただくということに大変力を尽くされたことは、皆さんはよくご存知であると思います。

 ご専門は政治学・政治学史でありまして、現在は東大を退職された後、学習院大学の法学部の教授をしておられます。その他に、日本政治学会の理事長、政治思想学会の代表理事、あるいは、東アジア研究型大学協会会長などを歴任されております。また、政府の国民生活審議会会長とか、あるいは、司法制度改革推進本部の顧問などもされております。

 ご研究の面では、卒業して、助手になられてまもなく、実は「マキアヴェッリの政治思想」というご著書を昭和45年に出されています。で、今日の40年間の対話を通じてという、そういうご講演の題名になったわけです。

 そのほかの著書としましては、「アメリカの保守とリベラル」あるいは「プラトンの呪縛」あるいは「代議士とカネ」といったような著書が大変有名であります。また、紫綬褒章を受勲され、あるいは、吉野作造賞、あるいは和辻哲郎文化賞など、たくさんの受賞歴がありますし、また、英国の学士院の海外会員、あるいは、ソウル大学の名誉博士というようなタイトルも持っておられます。

 今お話しましたように、昭和45年から佐々木先生はマキアヴェッリの政治思想に興味をもたれて、現在までずっとその研究をされてきたということで、今日そのご研究の一端を拝聴できるということは、イタリア研究会にとりましても、非常に価値があると考えております。  

 それでは、先生、よろしくお願いします。



佐々木  本日は、ただいまお話がございましたように、イタリア研究会30周年記念講演会という席にお招きいただきまして、大変ありがたく思っております。なにぶん私も、どういう方が集まって、どういうことをおやりになっている研究会なのかということについて、必ずしも十分承知してない部分もございまして、私の話と皆さんのご関心とが、うまく交じり合うかどうか、交じり合わないうちに1時間半終わってしまうかもしれませんが、できるだけ努力したいと思います。

 ただいま橋都先生からお話ございましたが、私は大学を出たのが1965年でございます。実は61年に大学に入りまして、昔話をして恐縮なのですが、60年というのは大学が安保で大変なときでございまして、私はそれの終わった後に大学に入ったと。そこで早速先輩たちから、読書指導なるものを受けたというか、実は向こうがやりたかったわけですが、その中にはその後、自民党総理とか、総裁とかになった方がおるのですが、こういう人たちがいろいろなことを指導してくれたわけです。

当時は、どんなものを読むかというと、どちらかというと、今から言えばだいぶ今とは様子が違いまして、マルクスだ何だというようなものが比較的多かったと思います。

そういう中で、私もいろいろトライアルしたのですが、昔、受験勉強していたときに、「君主論」というのを書いたイタリア人がいたなということを思い出しまして、生協に行って、文庫本か何かを手に入れまして、読み始めたのが、61年たぶん春から夏にかけてだったと記憶しております。

幸いなことに、我々が何か読んだり、出会うという場合は、やはりそういう日本語に訳されているものがあるというのが大変ありがたいことで、後で気がついたことでありますが、どうもそれをたどっていくと、日独伊三国同盟あたりにぶつかっていくようなことではないかと思うのでありますが、そのころ、いろいろなイタリア関係の本の翻訳があったようでありまして、その中にマキアヴェッリのいろいろな翻訳が出ておりました。後で探してみましたところ、最初に訳されたのが、明治18年か19年でありまして、これは皆さんも名前を知っていると思いますが、当時の政治家で後藤象二郎という人が前書きを書いたものが残っておりますが、さかのぼればその辺まで、君主論というものの日本における需要という部分がさかのぼるころができるということなのです。私はその1961年に、そんなことは知る由もなく、ぶつかったわけなのですけれども、当時の政治の議論というのは、大変、俗に言うイデオロギー的な要素が強くありまして、何々主義というのが、またその何々主義の中もいくつか分かれておりまして、なかなか大変でございました。

私は先ほどご紹介いただきましたように、政治学会というところに後で属すことになるのですが、当時の政治学会なんかに行きますと、セットで演説会みたいな感じのことでございまして、日本の政治がどうなっているか、こうなっているかというような話はどこかへ飛んでいるような、我々若者は、政治大会だとか、なんか演説大会だとか言って、陰で悪口を言っていたわけですが、そういう時代でした。

で、そういう時代であったからでありましょうか、私にとりましてはこの「君主論」というのは、逆に非常に新鮮に映りました。つまり、思想、それから立派なイデオロギーなどをみんな振り回して議論しているというところ、これはうそとは言わないけれど、あまりそういうことばかりに関心を抱けば政治がわかるというものではなさそうだなと感じたわけです。ですから、私の先生の1人、丸山真男先生という人が、これは君、解毒剤みたいなものだと思えばいいんじゃないのと、後で彼はこんなことを言ってましたけど、そういうことが楽しいわけです。いろいろな思想や理念、当時はたくさんございまして、そういうものに少し抵抗力をつけるということも含めて、たぶん新鮮に映ったのではないかなというふうに思いました。

そして、何よりも、哲学書なんかに比べると、わからないということがないのです。わかるのであります。わかることがいいのかどうかはわからないけれど、わかりたくないとか、あるいは、難しい顔をして、これはなんか難しい思想だなんていうことで悩んだふりをしなくてもいいし、ある意味では、若者の知的スタイルとしては、あまり見栄えのしないものでありまして、それはもっと難しい哲学者の本なんか読んでいたほうがそれらしいのですが、これはそういうことが一切ない。ほとんどない。ただ読んでわからないわけではないのだけど、いったいこれは何を言っているのかという話になると、逆にかえって考え込まされるようなところがありました。

ですから、入ることについては、わからないという意味での敷居はそんなに高くない。そして、そうだろうなというようなこともたくさん書いてある。だけど、後で1人になって考えてみると、これはいったいどういうふうに理解したらいいのだろうか。あるいは政治というのはこういうものなのだろうか。こういうことに話は尽きてしまうのだろうか。もう少し立派な思想やイデオロギーを欲しいなというふうに逆に思うという面も含めてでありますが、いわゆる思想、古典的な思想と言われるものの中で、マキアヴェッリの研究や解釈については、もちろんいろいろ難しい点が残っているのですが、俗に言うところの難解さというものはあまりない。どのようにして権力を維持できるか。どのようにして権力は獲得できるか。どのようにして相手をやっつけることができるか。どのようにして統治を安定させることができるか。その意味で言えば、そこで述べられている以外のいろいろなことも、思いつくことはあったとしても、そこで言われていること自体がわからないという、そういう心配はなかったわけであります。それよりは、マルクスの資本論のほうがはるかに難しいことはこれは間違いないわけでありまして、ヘーゲルなんかにいたっては、これは本当に人間でないような顔をして、その辺をうろうろ歩いてないと、勉強したことにならないような感じさえするわけであります。マキアヴェッリについてはそういう心配はない。

ですから、当時は仲間同士でいろいろ議論していても、こういうのは読んでいる人間はほとんどおりませんから、別に検閲を受けるという本でもないのでありましょうが、私はひそかにこれを自分なりの楽しみとして、学生時代、読んでいたわけでございます。

ところが、卒業論文を書くという段階になりました。法学部というところは本来は卒論はないのであります。500人も600人も卒論を書かせたら、先生のほうがたぶんアウトになってしまうので、ないのですが、私はちょっと書いてみようかと思って、チャレンジをしました。

これはもしかしたら運命だなと、悪く言えば、ひょっとするとこれで生涯飯を食うかもしれんなということもありまして、学生時代、1つチャレンジしてみようかということで、4年生の春ころから、「君主論」だけではなくて、マキアヴェッリのいろいろな著作を、翻訳のないものは英訳を読みながら、これは結局何を言おうとしたのかなという、先ほど申し上げましたテーマに即して、自分なりに、ある程度の枚数、当時のことですから、ワープロやパソコンというわけにはいきませんから、暑い中、手で書いて、100枚くらい書いたような記憶があるのですね。

そこで初めて少し、ただ読んでいて面白いという段階から、少し書くという係わり合いを持つということが始まりました。まったく違う作業でした。これは皆さんの中にも、ものをお書きになっている方がおられると思いますが、人の書いたものを読んでいるのと、自分が書くのはまったく違います。これはもう大変なエネルギーを要するものでありました。私もいろいろな能力、当時の能力に限界があったものですから、そんなにたくさん読めない。それから、東京大学法学部には、イタリア語の書籍も入ってそうだと書庫もあさらせてもらったのだけど、あまりいいテキストもない。新しいテキストもない。当時はイタリア語のテキストもほとんどなかったような記憶があります。というような有様でありますから、逆に言えば、参考文献などが有り余って困るような昨今とは情勢が違いまして、ないものですから、逆にそれなりに処理ができたという感じだったかもしれません。

で、私の先生、読んでくださる先生にお願いして、ちょっと読んでもらいまして、その結果、私がふと思っていたようなマキアヴェッリで一生とは言いませんけれども、一生の何分の1か、飯を食うという話が始まったわけでございます。

そのころから、これはやはりイタリア語をやらなければいけないし、イタリア語学校へ行かなければいけないというので、イタリア文化会館でやっていたイタリア語の講習がありましたので、そこへ通ったりもしました。周りはみんな料理の人ばかりなので、なんとなく調子が合わないのだけど、非常に面白かったといえば面白かった。食べ物の話ばかりしていて、でもそういう世界なのだなということで、髪の具合からだいぶ違っておりました。なんかいかにもコックさんみたいな感じの人がずいぶん多い。そこで、将来どうするかわからなかったですが、イタリア語を読めるようにしておこうかと思って勉強しました。そして、今度はそのイタリア語のテキストを大学に買ってもらうという仕事が始まりました。なんかこう妙なものはあるのですよ、大学には。つまり、大体が第一次世界大戦直後に留学した人が、あの当時は日本は景気がよかったわけでありましょうから、買ってきたとんでもないものがはいっているのですが、マキアヴェッリについてはあまり入ってなかった。イタリアの場合ですと、やはりマキアヴェッリといえば、リソルジメントのあたりが1つの山場でございます。ですから、1870年代、あの辺から後半に、たくさん業績が出たわけでございます。

もう1つは、1910年代になって、イタリアにはこれはまたもう1人のおじさんが出てきますから、そこでマキアヴェッリの話がまたひとつの潮流となったわけですね。

そこでまずはイタリア語の本を売ってくれる本屋はどこにあるかというあたりから細々始めたというのが、私の肉体作業でございまして、だんだん19世紀のものも古本で手に入るようになるし、つまり研究できそうなインフラ整備が徐々にできあがってきた。これは66~67年あたりになってできあがってきました。

さて、また論文を書かなくてはいけないと、大変苦慮いたしました。私の領域は、西洋政治思想史でございまして、私の先生は福田先生という先生でありまして、その方は17世紀、18世紀を専門にしておられました。その福田先生の先生が、南原茂先生でありまして、今にして思えば奇妙な縁なのですが、先生も総長をやっておられましたので、かなりの時間をあけて私のところへまたお鉢が回ってきたということになりますけれども、南原先生はカントをおやりになっていました。何をやったらいいのかなということで、当時としてはかなり安易というか、たくさんの人がやっているところに参入しても、なかなかこれはできんと思ったのかどうかわかりませんが、イタリア、しかもマキアヴェッリであれば、みんな名前は知っているけど、それ止まりという感じもしましたので、マキアヴェッリについての本格的な論文を作成するという仕事を、60年代の中ごろに始めて、それが先ほど司会者からお話があったように、70年に本になったというこういうことでございます。

少し政治の見方という今日のテーマにかかりますが、これは何もその当時考えたということばかりではございませんで、その後もいろいろなことを、私自身も体験をいたしましたし、その後もだいぶ変わってきましたので、時代によって、また私自身のいろいろな関心によって、これを見る視点というものは決していつも変わらなかったわけではありません。いろいろなことに関心は移っているということもございます。ですから、いろいろな光の当て方で、いろいろな姿が見えてくるということは、これはいたしかたないことでございます。

ただ1つ大変私にとって衝撃的だったのは、日本語ではわからなかったものが、イタリア語のテキストを読んでみると、全然見えてくるものが違うということのショックが一番大きかったと思います。政治というものについては、日本語に訳すと政治というふうになってしまうのですが、あるいは具体的な言葉で言いますと、国家というもの1つ取りましても、それを表現する言葉というのが、決して1つではございません。歴史によってどんどん変わってくるわけですね。

ご存知のように、古代ギリシャでは、これはポリスという言葉で表現しております。ローマ人はまた別の表現を使いました。これを政治だとか、国家だとかいう翻訳をしてしまうと、もう全部べたーとした表現しか後には残らないということがございます。ところが元にさかのぼっていくと、これは本来はいろいろな言葉を使っているというのはすぐ気がつくわけです。それから、意味のわからない言葉というのはやはりある。これは何を意味しているのかわからないことが出てまいります。あるいは自分が思い込んでいた理解で行くと、理解できないというようなことももちろんあります。そういうことはやはり原典といいましょうか、元のイタリア語のテキストにあたって、ああそうかというふうに気がついたことがいろいろ出てまいります。

これは、英語の翻訳でもわかるかもしれないけれども、やはりいまいち、手袋してかゆいところをかいているみたいなものでしょうから、ちょっと違う。やはりもとの言語にあたってみて、なるほど、こういう世界なのかというようなことに出会ったときが、やはり一番うれしかったということであります。

私はそのころ、マキアヴェッリの政治の見方というのは、単に手練手管を教えた話などの枠には入らないなというふうに私はまず思いました。手練手管の話は昔からいくつかたくさんあるわけでありますが、手練手管でどうしたらうまくわたっていけるかという話を書いて、なんとかのマキアヴェリズムとかいって新書か何か書く人も、世の中にはあるわけです。彼の真価はやはり政治の見方そのものが、ここで変わったのではないかというふうに考えます。手練手管はいつの世の中にもございますので、それであれば、何もめずらしいことでもないのですが、政治の見方そのものが、やはりここで変わったか、あるいは政治という、わかったように思える言葉で何を理解するかということで、中身はずいぶん変わったのではないか、変わるということを本人もわかっていたのではないかというふうに思いました。

そもそも政治思想史という世界は、非常に伝統を重んずる世界でありまして、大体基本的なターミノロジーは、ヨーロッパ思想史ではギリシャローマで大体概念は出てきます。ですから、たぶんポリティカルというのは、これはポリスから来ているわけでありまして、そういう意味で言えば、もう紀元前7世紀のころに概念、元の形態がありまして、そのニュアンスというものが、薄められることがあっても、まあそれなりにある程度伝わってくるということがあるわけでございます。逆に言えば、新しいことを言うためには、用語を入れ替えなければいけない。新しい言葉を使わなければいけないということになります。


実はこの16世紀、15世紀から16世紀にかけて、やはりそういうことがあったのではないだろうかというのが、僕の理解でありました。それは、何かというと、やはり政治を語る用語がさーっと変わっていくのですね。例えば、これはいろいろ議論があるのですが、16世紀に主権という概念が出てくるのですが、主権という概念は、用語としてはそれまでも使われてはいたのだけど、非常にはっきりと出てくるのは16世紀。今だと、主権国家とか、主権何とかということで使いますが、あれがテクニカルファームとして定着してくるのは16世紀なのです。その主権という言葉にまさに代表されるように、非常に権力現象というものが生々しく目立つようになりました。というのがこの時代についての1つの共通の認識であります。で、マキアヴェッリの場合も、その問題というのは大変大きかったというふうに私は思っております。

どういうことかというと、非常に単純化していうと、権力には2つのポジションが区別できるのではないかという問題になります。1つは、権力は法というものを前提にして、その枠内で行使されるものである。憲法があって、そして、例えば日本の今の場合でいえば、それを前提として議会があって、そして、選挙制度があって、それで選挙をして、誰かが政権を作って、それで彼らが権力を行使するのだけど、それはいろいろな法律や、憲法の枠内でもって、権力を行使するという環境であります。

これは権力の1つの姿ですが、もう1つある。権力があらゆるものをゼロから作るという権力のあり方もある。そもそも憲法は誰が作るかといえば、誰かが作らないとだめなわけで、制度は誰かが作らないといけない。しかし、作るのも権力である。そうすると、実は権力があってすべてが始まるというようにとらえる考え方も、もう一方の極としてあるということになります。

今述べた2つのうちの前の方が、立憲主義だとか、法の支配だとか、こういったような言葉と結びつけて、一般的には理解されているわけですが、後の方は、権力というものが生のままで、ある意味で不気味な形で、極端に言えば無制限に、容赦なく行使されるような権力の姿をいつもとらえているのだといっていいと思います。

ヨーロッパ政治思想史の細かな議論はよけておきますが、実はこの2つがいろいろな形で交錯をするわけです。ちょうどマキアヴェッリがいろいろな作品を書いたころ、古い法と秩序が崩壊をして、特にイタリアが一番ひどく崩壊するわけですが、外国からいろいろな勢力が入ってくる、そして、略奪はされる。そして、イタリアも転落してしまう。それから、リソルジメントまでの19世紀というのは、ヨーロッパの中でも、中心的な地域から、ちょっと周辺的な地域に評価が下がるといってもよいと思うのですが、位置がずいぶん変わるわけです。

その変わりかけのところ、そこでは、とにかく権力が非常に生々しい形で動いて、今までのものをどんどんどんどん壊していったり、新しいものを作り出していくという、こういう姿に、彼も注目をしたというふうに私は思いました。

というのは、今までの権力や、今までの法や秩序というものは、新しい状況との関係では、維持、再生産することができないし、そして、新しく作り変えなければいけない。だから新しいプリンチペを軸にして、政治の作り変えを行うということが、例えば君主論の1つの方法であることは、これは間違いないわけです。

手練手管、いろいろな策というのは、その補遺というのか、そのための周辺部分というような要素ではないかと。そして、そういうことになってきますと、どうしても政治と軍事が近くなってくるのです。実力行使でもって物事を変えていくということになりますから、どうしても政治は法から離れて、軍事に近づく。それから、説得より、問答無用の方に近くなる。どうしてもそれは軸がずれるわけです。これはいろいろ文句を言う人をつぶしながら、新しいものを作っていくのですから、手段としては暴力的、あるいは力という契機が非常に政治の中でウエイトが高くなる。法や、憲法や、そういうものの中で動いているときは、人はしゃべって、人を説得して物事を決めていく。それがそういう1つの権力の世界なのですが、もう1つは、実力と、腕力と、場合によっては組織的な軍、軍隊、そういったものが政治の中でのウエイトを高めていくということが起こっている。

これは、例えば今のイラクなんかを見ると、憲法を作らなければいけないというけど、どうしようもないわけでしょう。身の安全も保障することは誰もできないというような状態になっている。そうなれば、どんなに立派な制度があっても、それでは生きていけないということは、非常にはっきりしているわけであります。そういうところでは、いろいろな実力集団が乗り込んできて、いろいろなことを、勝手なことをやったり、それがまたぶつかり合ったりして、非常に悲惨なこともその中からもちろん起こってくるというようなことになります。

ですから、私が先ほど言ったように、権力はその制度の中で動き回る姿を持つと同時に、権力は制度を作る、はじめあらゆるものを作る形で動く、2つのケースがあると思います。マキアヴェッリを読んで感じたのは、この後の方のケース。権力がすべてを作る。権力がなければ何もできない、安全も作れない、平和も作れない、秩序も作れない。秩序がないところで立派な政治を実現しましょうといっても、始まらないじゃないか。こういった問題です。政治の役割というものは、高い段階から、低い段階までいろいろございます。プリミティブなところから、もっといい政治、すばらしい政治、最近では美しい国というのもあるらしいけど、いろいろあるわけです。でも、美しいなどという前に何とかしてくれというレベルの話も、この世の中にはあるわけです。たぶんマキアヴェッリが見ていたのは、この一番ベーシックで、どうにもならない状態というもの、それが彼の関心の中で非常に大きなポジションを占めていた。そういうところで立派な話をして、こういうふうにしましょう、こういうふうにしましょうという事がいらないというわけではないかもしれない、しかし、このベーシックなところがなければ、それ以上の話をいくらしても、これは始まらない。

その意味で、今のお話を整理しますと、政治と呼ばれる活動の範囲は非常に広い。マキアヴェッリの場合はその中で非常にベーシックな、とにかくけんかした人間、あるいは人の権利を侵害し、人の命を奪ったやつは、必ず刑罰を受ける、それから言うことを聞かなければ殺されるという段階から、法を守りましょう、正義を実現しましょう、困っている人を助けましょう、という段階を重要視したわけです。

大体ギリシャ以来の政治学は、この法律と仕組みというものの中で権力が動くという政治学をやってきたわけです。ところが今回そこからはみでてしまった問題をどうしようかということは、端的に言えば、これは戦争とか何とかいろいろな問題で、日常的な政治とは違うものです。逆から言えば、よくないもの、あるいは、そうならないようにしようということを一生懸命政治学が教えてきた。なった後どうしようという話はあまり考えていなかった。でもなってしまったらどうしようということはもちろんあるわけです。なったことも考えなくてはいけない、ということになれば、今までやってきた政治学を広げていかなければいけないけれど、しかし、この2つの間には少し考えただけでもいろいろ矛盾がありまして、ただ広げましょうというのでは、1つの枠の中に全部納まるものかどうかという問題はもちろん残るわけです。

1つの例をお話しましたが、このように、マキアヴェッリを読んで1つ考えられるのは、政治というものが、法とルールと相互信頼を前提とした上で営まれる活動であるという要素が、彼の場合は非常に弱い、低い、ない、ということですね。人は信用ならんものだというのが、繰り返し繰り返し出てくるわけです。これはもう君主論のいろいろな章を読んでみればおわかりになります。人は信用ならん。人を信用して、その言葉をあてにしたら、絶対滅びるということを、繰り返し繰り返しいろいろな形で彼は言っています。

その人間は信頼ならないものだということは、逆に言えば、信頼とルールを相互に尊重して、その上で政治をやっていくというような前提に頼り切ることはできないよということを言っていることでございます。

そのことは、いろいろ考えてみると、最後はどこに行き着くのかなと。やはり最後は言うことを聞かない人たちに、言うことを聞かないと命をとられるよということで、最後にはそれらの人たちを言うことを聞かせることができるという、ある種の割り切りみたいなものが、彼の中には私はあったように思いました。特に君主論ですけどね。いろいろな作品がありますから、そこは簡単にはいかないけど、君主論ではそうです。ですから、どんなに立派なことを言っても、力で押さえつける能力がなければ、リーダーは滅びるというわけですね。彼は目の前で、サボナローラが転落するのを見ているわけです。彼がフィレンツェの市の書記官になる直前に、2~3年ですけどサボナローラの時代がありましたが、サボナローラは言葉だけしかない。言葉を非常にたくみに使う。あらゆる手段を講じて人々に精神的な恐怖感を与えることをやった。だけど、彼はついに武器を持たなかった。それで、彼は没落した。武器なき救命者という言葉が作られたのですが、これを20世紀にもってくると、トロツキーの武器なき預言者という本に対応する事になります。要するに、人を言葉で説得することはできる。だけど、一度説得したことを本当に信じさせ続けるためには、腕力が必要だという事です。人間は、説得されるとなるほどと思う。ところがこれは当てにならない。またすぐ意見を変える。だからこれを一度説得したことをずっとその通り信じてもらうためには、必要な場合には恐怖感を与えて、言うことを聞かせるという用意がないと、人を統治することはできない。この辺がこの君主論に漂っている、相互信頼を前提とした人間社会のシステムから、外へ踏み出した世界に視野、視点を置いて、そこから逆に全体の組み立てを考えようという、彼の発想を示していると思います。 


こういう話は、歴史の中でいつも出てくるわけではありませんし、あまりそういうのには出会いたくないなという気持ちも、個人的にはする人も多いと思います。しかし、20世紀でもそれに類することがなかったのだろうかといえば、私は決してなかったわけではないし、今だってあるかもしれない。アフガニスタンとか、ああいうところはいったいどうなっているのかと考えればいろいろありますし、それこそ意見の違う人間をテロで脅しつけたナチスだとか、そういったような体制の下では、結構同じような話が、形を変えて生まれていたという可能性が十分あるわけであります。マキアヴェッリはナチスを弁護しようとか、そんなことを考えたわけではないのだけど、政治の現象形態というのは、我々が想定している以上に、いろいろなレベルと、いろいろな段階があって、いつもここにとどまってくれているというふうに思い込みすぎると、範囲が非常に狭くなってしまうという、こういうことを彼は教えてくれたと思います。また、万一そういう事態が訪れたときはどういうふうに問題を解決したらいいのか、問題に向かい合わなければいけないかということについて、非常に率直に語りすぎたのかもしれない。

ドイツの有名な学者がこう言っています。彼が本当にマキアヴェリストだったらあんな本は書かなかったのだろうと、こういうことを言っています。確かに本当のマキアヴェリストはあまりそういうことは書かない。ただひたすら実行しているという感じはいなめないのであります。書いてしまうと、みんな表に出ちゃうから、みんな警戒して争う。警戒してかどうかわからないけど、そういうことになってしまう。確かにそのドイツ人の言うことも一理あるだろうと思うのですけど、しかし、彼は書きました。なぜこの本を書いて、なぜこういうことをやったのかというのは、いろいろ解釈があります。これは細かいことは申し上げませんけれど、今日のテーマである政治の見方ということでいえば、政治というのは、変形しながら動いていきますから、常に同じ姿でとどまることは歴史的にはないと思った方がいい。そうすると我々人間として、生きていけるかどうかというようなぎりぎりの局面を念頭において政治というものを少し広めに取っておく、という意味では、彼の議論の教えているメッセージは、私は非常に大事だというふうに思いました。

当時、非常にミニチュアではありますが、この大学の中も大変でございました。68年からもうこればかりやっていたのですよ。この辺で東大紛争というのが起こっておりまして、その中はさながら実力の世界であります。私も若かったですから、朝となく昼となく夜となく、いろいろな現象に出会いました。学生同士のぶつかり合いももちろんありましたし、あまり言いたくはないですが、学生同士の捕虜交換とか、いろいろあったのです。それはもうむき出しになって、そういう形で学内ではやっているわけです。これはまさに政治のミニ版ですよ。それで、最後どうなるのかというと、これはもちろん国家権力が入ってはいかんと言われる枠内でのけんかですからね。これは最後、学校でそれなりに収まることは収まる。

先ほど少し申したように、そのことはやはりこの政治というものが、一方で言論や説得でもって動く世界と、力と軍事力をもって動く世界という2つの顔を持っている。その両方が、しっくりは来ないのですが、この2つの顔、2つの顔つきということを、私は非常に彼から学びました。

そういうふうに見ていきますと、結局、内乱というのは大体こちらのカテゴリーに入るのです。そういう生きるか死ぬかの政治です。実際に見ていきますと、16世紀は各地でヨーロッパは内乱状態になるのです。それから30年戦争というのがドイツで17世紀にある。これは完全に内乱状態。もうどうにもならない。そのきっかけはもちろん宗教改革で、宗派対立が内乱の引き金になって、そしてカトリックかプロテスタントか、プロテスタントもいろいろあるのだけど、この宗教の旗を立てていっているのだけど、やっていることは殺し合いということになるわけです。

そうなると、政治、権力の意味もなくなるし、秩序の保全もできなくなる。そうすると、政治はどこに自分の基盤を求めて活動したらいいかということが大いなる問題になります。わたしの研究はそういうことをフォローするような形で続いていたというわけです。

これが話の片輪になります。しかし、こういうのはあまり面白くないかもしれませんので、もう少し別の話をしますが、そういういわば政治というものの見方、政治の根幹にかかわる問題提起というものと並んで、あるいはその近くにあって、常に言われるのは、政治と倫理の衝突というものですね。

マキアヴェッリは、この2つが矛盾するということを、彼は非常にあっけらかんと書いているわけですよ。権力を維持するためには、残酷さも必要だと。問題は残酷さをうまく使うかどうか。慈悲深いということが、本当に慈悲深いことになるのか。それから、本当に慈悲深いためには、残酷であることが実は本当は慈悲深いことになるかもしれないとか、この話、この類のことがたくさんこの本の中に出てきます。ですから、政治の倫理主義的理解というものに、あたかも嫌悪感を持っているかのような書き方なのです。

伝統的にこの政治の世界では、自分たちのやっていることにやましさがあるからとは言いませんが、何かで飾り立てようとするのですね。これはどこの政治もそうだといえばそうで、戦後の日本なんか非常に飾り立てが少ない政治であります。もう少し飾り立てた方がよかったかなと思うのですが、何か金のやり取りと、票のやり取りみたいな話ばかり我々聞かされてきて、飾りたてるものとして愛想のひとつも言いたいのだけど、それすらなかったというのは、きわめて徹底していると思います。それが安定性につながったという見方もあるのですが。だけど大体はなにか正当化している。もっともらしいこと、こういうのどうだ、これは非常に倫理的すばらしいとか、立派なこと、理想のためだとか、というような話で、そこで実際行われていることは、相当な虐殺であったりしても、自分たちの政治を飾り立てることがその中で行われているわけです。

こういうことについて、マキアヴェッリは非常にあっけらかんと書いている。倫理的には許されないことをやらざるを得ないし、やっている、こういう書き方なのです。

ところが、先ほど言ったように、実際の政治の世界では、そんなこといってはおしまいですから言わないで、誰でもやっているということで、どんどん悪いことをする。やっているのが普通ではないかと。その意味で、マキアヴェッリは正直すぎる、率直すぎる、つまり、政治、特に権力行使と、道徳、倫理との間には、コンフリクトがあるということをごまかさないわけです。

ここはいろいろな読み方があって、またいろいろな理解があって評価もいろいろですが、私は、それは非常にやはり大事なことであって、建前上の立派な目的だとか、立派なスローガンというようなことばかりに引きずられると、何が起こっているかがわからなくなってくるという問題がある。本当に何が行われているか。そのことはどのような意味で、本当にいいことなのか。あるいは正当化できることなのか。というのは、政治を見る上で大変重要なひとつ。マキアヴェッリはその倫理的なるものと、権力行使というものの、むやみに重ね合わせるような、なんかお互いがもたれあうような、こういった議論というものに対して、非常に彼はきっぱり決別したものの書き方をしています。

これが私たちがこの本、例えば君主論を読むときに、ある意味で大変爽快感を味わっていた理由です。なぜならば、それを正当化しようなんていうことになると、また非常に面倒くさい議論をたくさんやらなければいけない。そうすると、君主論もわかりにくいことになってしまうわけです。わかりやすいのは、そこをばさっと切っているから、ことの是非はともかく、それはそれなりに理屈としてむかえるという意味です。だけどこれは、あえて申し上げれば、政治の歴史はまさにそうであるように、大量の人間を殺しながら、立派なお題目でもってそれを正当化するようなことがいくら行われてきたか考えれば、これはそう簡単にはみつからない。そして、そういう現実がそんなに簡単にはなくならないかもしれない。その意味では、この道徳と政治というのか、道徳と権力という問題というのは、政治学者にとってみれば、いつになっても、理論的に解決できそうな感じのしないテーマではないかということを、彼から教わった。あるいは教えられてしまう。いやでも教えてくれる。そういうこともひとつの大事な政治の見方に私はなるのではないかというふうに思います。


去年、内閣総理大臣が突然解散をしました。そして総選挙を始めた。何を間違えたのか、そのころ私のところに、いろいろな経済界の人や、いろいろな人から電話がかかってきて、あれはお前が教えたのではないかという話になりました。いや、そんなことは教えなくてもみんなわかっていることじゃないかと、それじゃあひとつ君主論を解説してくれということで、妙な需要が喚起されたわけです。ばかばかしいとは思ったのですが、彼らが何を考えているかということも、こちらも知的水準を察知することもあってもいいかなと思って、少しテレビに出たり、雑誌に書いたりしたのですが、しかしこれは、何も私が今申し述べました政治の根源的な姿はどうなっているなんていう話とは、あまり関係ないし、要するにテクニックですよね。このような観点から政治を見ようとするときに、何も私はマキアヴェッリを引き合いに出す必要はないと思います。他にもっとどぎついことを言った人はたくさんいると思いますが、彼の名前がしばしば引き合いに出されるということがあります。 

それは先ほどの話とまったく別の話ではないのですが、確かに彼の作品を読むと、なんかにやにやしたくなるようなことがいろいろ書いてある。いくつかそういったようなことについて、最後にお話をしてみたいというふうに思います。

非常にはっきりしているのは、これは君主論においては特にそうですが、支配者論ですから、支配者はどういうふうな評判を立てられるかというのが、やはり大事だと。腕力が大事なのだと。しかし、どんな評判を立てられるかというのは、これは大事なことなのです。今風に言えば世論ですね。世論がやはり大事。とにかく立派な人だと思われることが大事だと。信心深いし、正義の担い手だし、云々、ともかく人間味がある人で、すばらしい人だと思われるのが正しい。そうである必要は必ずしもないと。そう思われることが大事だと。つまりこれは、政治的には現象の世界がすべて。見える世界がすべてと。だってあの人が本当にどういう人かなんていうのは、自分の女房だってわからない可能性があるわけでしょうから、お互い様です。本当にわかっているかどうか人間最後までわからない。死ぬときにならないとわからないかもしれない。わからないわけですよ、人間というものは。本当にどういう人なのか。徹底的にそういうように見える世界、見える世界、政治は見える世界。見えないけど、この私の体の中には非常に熱意がこもっているとか何とか、そんな話はどうでもいいわけですよ。どうでもいいと言っては言いすぎかもしれないけれど、まあまあこれはいい。本当にこういうことを言っても、見え方がまずいとだめという話ですね。

そう言われてみれば、このたび辞めた総理大臣、実に見える世界については、パーフェクトに近いパフォーマンスを意識的にやっていたと私は思います。見えないところで何をやっていたか知りませんが、見えるということを意識して、すべてあらゆる点でやっているということでは徹底していた。逆に言えば、見えないことについてのニュースが少ない、至上まれな総理大臣だったと私は思っています。大体どこからお金をもらったとかそういう話がうわーと出てくることが多いのだけど、そういうことはあまりなかったですね。見える世界。1日1度なんか記者会見で面白いことを言って、これがすべてだと。なんか見ていると、だんだんこういう人らしいと思えてくる。マキアヴェッリは、だいたい大衆は本当のことはわからないと言っています。本当にわかるのは自分の近辺です。近辺にいる人なのだけど、近辺にいる人は、数が少ない。大勢の人は外から見て、そうじゃないかなと思って、これが世論というものです。そしてこの世論というものが、やはり大事なのです。したがって大事なのは、先ほど言ったように、そういうふうに見えるということです。だから決して不用意な発言をしてはいけない。たとえば信心深いとイメージを作っておきながら、全然それと違うようなことを言っていた。あるいは、言ったということが伝わるというのは、非常にまずいですね。

もう1つは、人に馬鹿にされてはいけない。特にしょっちゅう意見を変えて、人に軽薄だと思われてはいけない。いくじがないとか、軽薄だとか、そんなふうに思われるのが一番よくない。それはどういうことかというと、人々は彼に対して恐れないということになる。あるいは、このリーダーが好きだという事はいい。しかし好きだを通り越すと、馬鹿にされる。これはもうどうしようもない。非常に軽薄で、何の信念も持たない。怖いところは何もない。というふうに思われたら、これは一気に没落してしまう。これは何も政治権力者のみならず、いろいろな組織の方で日々起こっていることに近いかもしれません。

だから、先ほどの人間に対するある種の不信感ではないけれど、好かれるよりは、恐れられた方がいいと。本当は両方がいいのだけど、好かれるより恐れられる。ただし、恐れられるのはいいのだけど、憎まれてはおしまい。当時の支配者でも、臣下に恨まれたらおしまい。どういうふうにしたら臣下に恨まれるか。まず臣下の財産を取っちゃった。人間は父親の死はすぐ忘れるけど、財産をとられたことだけは絶対に忘れない。だから、これは危ない。例えばそういう話です。だから絶対に憎悪されない。そうすると、恐れられる、愛される、この辺のこの範囲の中に収まっていけば、そのポジションというものは、比較的安泰。

ただそうはいっても、実際に意図したことと結果とは違うということがあって、例えば、皆さんに気に入られようと思って、非常に支配者が気前がよくて、いろいろなほどこしを臣下に対しておこなう。あるいは、昔でいえば、いろいろなお祭りをやったりなんかする。今日風に言えば、財政出動をやっていると、こういうことですね。財政出動をやって、大いにみんないい気分にする。これは大変気前がいい。気前がいいというのは、これは伝統的な君主の徳目なのです。それは正しい。気前がいいの反対はけち。けちというのは、身分の高い人間がけちだというのは、身分にふさわしくないもので、よろしくないというのが大体昔の日本。ところが彼曰く、気前よくしていると、結局どういうことになるかというと、元手がだんだんなくなってくる。そうすると、人のものをとらなければいけない。そうすると、気前をよくしていると、結果的にだんだんだんだん人の恨みを買うことになります。けちは、確かに人々を喜ばせる方向はないかもしれないけれど、しかし、その結果として、最後はみんな安心できて、しかも、生活も安定する。例えば、きちんと秩序もできるし、それから、やがては何らかの形で、人々の生活が、けちであるがゆえに、長期的にはよりよいものになっていく可能性がある。これは今風に言うと、財政削減と。例えばそういったようなことがあるわけです。

この手の憎まれる、愛される、気前がいい、けちがどうだという話は、これは昔から君主、徳目というカテゴリーがずっとありまして、先ほどの政治の話と絡みますが、すばらしい君主というのは、その臣下と信頼関係が非常に厚い。立派な人。そして、道徳的に優れている。ルールをちゃんと守る。気前がいい。愛される君主。これが大体伝統的にいい君主のカテゴリー。これは先ほどの、政治が法律や秩序の中で安定的に動いていた時代の君主の姿なのです。

ところが、マキアヴェッリがここで言っているのは、ややそれから外れる。愛されるより恐れられよというのは、これはやはり状況がそれほどよくない相互信頼感がない時代の感覚だろうと、私は思ったわけです。先ほどもちょっと申しましたが、いざとなったら、人間は信用ならん。人間は、支配者に対して、あなたはすばらしい支配者で、私はあなたのために命も惜しまないというようなことを言う人はたくさんいる。ただしそれは多くの場合、その必要がまったくないときにそういう言葉をよく使う。いざその必要が起こると、みんなどこかへ消えてしまうと。だから、人の言うことは信用してはいけない。だから、彼らが自分に服従するには、やはり恐ろしいと思っておいてもらう方が、まだ人間は服従する。自分が相手に対して好意を持っているだけという関係であれば、自分の都合が悪くなれば、はいさよならということになってしまう。

ですから、この人間の相互信頼感の問題は、いろいろなところに波及していっているというか、つながっているということ、そこからもわかっていただけると思います。彼には君主論という本がありますが、じつは君主論という本自体は昔からたくさん書かれてきた。彼とほとんど同じ年に君主論という本が何冊も出ている。だけど、この君主論、字面は他のと同じなのだけど、中に入っているのはだいぶ違うということで、伝統的な君主論の道をたどるような顔をしているのだけど、先ほどのように、君主がすばらしい道徳的な資質を持っている人間であるなどということを、そういうふうに見えることのほうが実際にある事より大事だということにしてしまったわけだから、これはやはり段違い。似たようなことを言っているようで、ふっと気がついてみたら、違う。それは、最終的には私は政治の幅というものだと。違う政治の姿というものを示して見せたということだと私は思っています。

もう1つ、去年の小泉さんの話と関係するかどうかわかりませんが、こういう議論をみていきますと、大事なときは中途半端なことを言ってはいけないということを、彼は繰り返し言います。だいたい中立とか、中途半端というのは、一見利口そうに見えるけれども、実はあまり彼は評価していない。おそらくそれは彼が念頭に置いた状況というのは大変厳しいわけで、厳しいところで中途半端を決め込むのは、それはいずれにしろやられてしまうという、こういうことだろうと思うのですが、中途半端ということは彼は非常に嫌います。

それはある意味では、論理的に徹底するということで、そうなると対立候補も立てるという話になるわけですね。単にあんたは公認してないよというだけで終わるのか、対立候補も立てるということなのか、小泉さんは徹底的にやった。それは1つのロジックといえばロジックなのですが、事柄についてのいろいろな評価があるのでしょうけども、それは筋と場合、そもそも解散していいのかどうか、議論がいろいろもっとあってよかったと私は思っているのですが、しかし、やった以上は、こういうふうなロジカルな展開をして、事柄を中途半端にしないで徹底的にやるということになれば、ああいう格好になったのではないか。たぶんそういうこともあって、何か特別な考えの持ち主であるかのように思った人もいるかもしれない。ある意味、政治の苛烈なところですね。つまり、ここまでいったら、ここまでいかなければ話は決着つかないという、これは政治に限らず、どの世界にもありますけれども、政治の場合はある意味で他のものによって拘束される度合いが小さいものですから、もう一歩やろう、もう一歩やろうということは、やろうと思えばできないわけではないわけです。言うまでもなく、昔は戦争、今は選挙でありますから、そうすると、そこで何がどこまで行われるのかということについて、我々はいろいろな法律を作って政治活動を制限し、選挙違反をしないようにとかいろいろなことをやっていますが、選挙というところは、やはり今でも政治の苛烈なところです。これは先ほどの政治におけるちょっと外れたところというほどではないけど、ちょっとやはりはずれぎみのところというのは選挙なのだと、こんなふうに感じられると思います。

私にとってマキアヴェッリはこの政治の見方を非常に広げてくれたというお話を、私はこれまでしてまいりました。しかし、彼の議論のすべてがユニークなわけではありません。よくある話もたくさんはいっていると思います。しかし、現在、最近の研究、その他を見ますと、やはり皆さんの多くが非常に印象深いというのは、あきらめないということです。つまり、政治も何事もそうなのですが、行動しなければいかんということを、彼は繰り返し強調する。当時のイタリアの状況を見ますと、いろいろな外国が侵入して、もうこれはだめだ、だめだ、もうなにやってもどうしようもないという、いわば自分たちが自分たちの運命をコントロールすることはほとんどできないような、あきらめムードみたいなものがあった。これを当時の言葉では、運命の女神がこの世を支配している。だから、人間がいろいろなことをやっても、所詮無駄だと、いわんばかりの議論があった。これは何も当時のイタリアだけではなくて、人間社会で間々出現するものでございます。

彼が考えたことは、結局、確かに大変状況は厳しいし、混迷し、展望は開けないという中で、どこから基盤を作り直していくのか。そのためには、そういうふうに物を考えるためには、とにかく行動するということ、決意をするということが非常に大事だと。ある意味でいえば、人間の自由というものに自信を持つということ、選択があるということ。それに基づいて、ぎりぎり考えられる方策というものを実施するという。これに対する決意、これがやはり彼の基本的な姿勢として、非常に目立つところであります。当たり前じゃないかというお話もあろうかと思いますが、そこがやはり一番の根っこにあると思います。

そうすると、先ほど申しましたように、古いこの安定した政治は終わりました、あきらめましょうというのではなく、このごちゃごちゃした混乱した中を、もう1度秩序付けるところから始めなければいけないというふうに彼は考えたというこういうことであります。

ですから、当時行動しないで、議論ばかりしていた人とか、その他の人たちに対して、彼は大変批判的であります。当時のイタリアの指導者たちに、彼は大変罵詈雑言を浴びせます。ローマ教皇も非常によくない。それからいろいろな各国の王様というのか、ちょっとその下くらいの支配者たち、これもまったくよくない。何も考えていない。なんか人文主義的教養を身につけることに専念して、さっぱり政治をやらない。なんかトランプゲームばかりしているとか、いろいろ言っています。建て直しをしなければいけない、という意志。安定した政治の世界が崩壊した後で、なおかつ政治をゼロベースから立て直そうという強い意欲というのか、意思というのか、これがやはり彼にいろいろな新しい議論をさせ、新しい提案をさせた大きなモチベーションだったと私は思います。

これは、政治や社会において、我々が生きていくうえで担うのが当然だと思っていることでありますが、しかし、間々あきらめムードになって、どうしようもないというようなことももちろん出てくるわけであります。特にイタリアのように、当時は弱小国、特に軍事力が崩壊しておりますしね。傭兵隊の世界でしょ。全然かなわないわけです。フランス軍とか、なんかに全然かなわない。傭兵隊は金がなくなればみな逃げてしまいますからね。企業ですから。軍事企業。派遣といっては悪いけど、派遣者の集団みたい、軍事派遣業みたいなものですね、今風に言えば。ですから、命を落としてまで戦うという義理も何もないわけです。派遣業がなりたつか、もうかるかどうかという話です。崩壊してしているわけです。ですから、軍隊を建て直し、あらゆることをゼロベースで立て直さなければいけないというように彼は思ったのですね。ここは私はやはり何回も読めば読むほど、接すれば接するほど、じわっとせまってくる大きな1つのポイントだろうと思います。

だから、そういうふうに古い安定した仕組みが壊れないで、この中で議論をやっていた人たちは、ある意味では幸せだったというふうにも言えるわけです。だけどそれもいつ崩れるかもちろんわからなかった。ただどちらかといえば、そちらに安定した政治の世界に住んでいる人たちの目から見たときに、このマキアヴェッリの議論というのは、まことに不気味で、何か悪魔と手をつないだような話のように映ったということは、これは歴史が証明しております。シェイクスピアを読んでも、何回か出てくる。これは悪いやつだということです。たぶん、世の中に悪いことを考える人はもっとたくさんいたんだろうと思いますが、その代表で、この人が悪いのだということでもって、他の人は安心して枕を高くして寝れたのかもしれません。とにかくこれが悪い。マキアヴェッリ、マキアヴェリズム。これは正しくない。こういう話。

これはいろいろ議論の余地があるテーマだと思いますが、先ほど言ったような意味で、本当にゼロベースから政治を考えるということの持っているつらさ、難しさ、苦しさ、というものがその背後にあるということについて、いくばくかの配慮をもって、これを読まなければいけないのではないかなと私は思っているわけです。

もちろんマキアヴェッリには、共和制の話もたくさんあります。フィレンツェは共和国でした。ここにはメディチ家という皆さんご存知のあの一家が出てくると非常に複雑になるのですが、メディチ家と共和国というのが、やりあいながら当時は進んでいきましたから。共和国の議論もたくさんマキアヴェッリの中にもあります。

それから、当時のフィレンツェの政治学は、共和国の政治学であるために、古代の政治学からすーっと入ってきています。ルネサンスですから、もうみんな当時のキケロを勉強し、アリストテレスを勉強し、それをみんなすーっとフィレンツェの中に入ってきた。ですから、みんなそこでの議論のかなりのものが、その古代の政治学、つまり、古代にあったある種、秩序だった政治の物語をやったわけです。マキアヴェッリはそちらにも関与しつつ、また別のもう1つの世界も開拓したのではないかというふうに私は認識をしているわけです。この枠にはまりきれない。そのはまりきらないところのその部分というのを、あえて引っ張り出せば、先ほどちょっと申しましたけれど、例えば、軍事の問題、非常に議論として大きいというのがその1つです。ですから、その古代の政治学をひっぱってきた人たちは、国内の安定したすばらしい体制をどのようにして作るかということをもっぱら考えていた。軍事の問題というのは、だいたいこれ外側の問題ですから、あっちへこう行ってしまうのです。ところが、マキアヴェッリの場合、内なのか、外なのかわからないような格好でこれが入ってくる、それは、秩序の作り方における先ほど申した実力の契機というものが非常に多かったということです。しかし、20世紀において、これは極めて大きなファクター。銃口から権力が生まれるというのは、これ20世紀の標語ですが、そんなにもルネサンスから教えられなくても、20世紀だって知っていたわけです。だから、20世紀を見ても、私の意見だと、マキアヴェッリ的政治の世界というのは、結構あちこちでたくさんあったのではないか。それは何とか主義とか、名前は変えて出てくる。それに対して、法と秩序が安定した政治の世界ももちろんあったということであって、20世紀は一方ばかりとかいうように、単純化して考えると、下手すると足をすくわれるかもしれないという感じを私はもっています。

いろいろな政治におけるテクニックや、タクティクスや、その他の問題は、ちょっと興味のある方はまた読んでいただければ結構だと思います。政治そのものの性質というのか、質というのか、政治そのものの性格というものについて、ぜひ今日皆さんが何かお考えになるきっかけを私が提供することができれば大変うれしいと、このように思っております。


最後に1つだけ、この君主論の中に、君主というものの秘書とか、アドバイザーの問題について出てきます。これは、あまり政治体制と僕は関係ないと思うのですが、どういう人がアドバイザーにつくか。わが国も今まさに新政権でいろいろ補佐官をどうするこうするとやっていますが、本人がどういう人か周りにいる人を見ればわかるときちっと書いてあります。本人が駄目であれば、周りにどんなすばらしい人がいても、やはり駄目だ。そして、当時のことでありますから、あの助言者がすばらしかったから、あの政治家はすばらしい統治を行った、あの君主はいい統治を行ったというのは、これは間違いだ。やはり本人が、トップが、判断力を持っているから、うまい統治ができたと。あるいは、さまざまなアドバイスがある中で、何を採用しようとするかということ自体が、やはり非常に大事なことなので、アドバイザーだけがただ右往左往しているだけで、これどうにもならん。何か適切なるものを採用し、それを実行できるというのが、当のご自身しかないということは、だから、支配者がどんな人かは、周りにいる人を見ればわかるということです。ぜひ皆さんも今の政権をごらんいただくと、いろいろなことがわかる、まだちょっとわからないのですけどね。だんだんわかります。

こういうように、人間のいろいろな扱い方について、彼は大変面白いことをいくつか書いております。私も東京大学の総長をやりましたときに、副学長人事は難しいと思いました。それは、副学長がどうということではなく、こっちがどう見えるかということがそれによって決まってくるということで、成功したか、失敗したか、私が大いなる馬脚を現したかどうかは存じませんけれども、総長をやりながら、時々こういうのを部屋で読みながら、なるほどそうかというようなことを思ったことも何回かございました。

以上です。どうもありがとうございました。



司会  佐々木先生、どうもありがとうございました。マキアヴェッリが政治の見方に与えた影響から、小泉純一郎はマキアヴェリストかという問題、あるいは人間関係論というところまでお話いただきまして、大変興味深く聞かせていただきました。通常いくつか質問があった場合に受けるようにしているのですが、よろしいでしょうか。それでは、質問をお受けしたいと思います。


質問  日経新聞の夕刊を見て来たのですが、非常にすばらしいお話をありがとうございます。先生のお話の中で、君主はどういうふうに見られるかが大事だというくだりがあったのですが、小泉さんから安倍さんに日本のトップが変わったわけなのですが、そこでマスコミの報道が、小泉さんの時には総理と呼ばれていたのですが、安倍さんになったら急に首相と呼ぶように変わったのが、僕は非常に不思議でならないのですが、もし何か先生の考えがあったら、なぜ小泉総理から、呼び方が安倍首相に変わったのかについて、何か教えていただければ。


佐々木  ちょっと概念操作をやったかどうかわかりません。知りません。あまりしないのではないかと思うのだけどね、それは。ないんじゃないかと思いますが、課題にさせてください。


司会  それはマスコミの方がそういうふうにしたということでしょうかね。


佐々木  あるいは、今はそういう補佐官たちもいろいろおりますから、そういう人たちが申したことをやっている可能性はありますね。マスコミと、ああいう権力者というのは、しょっちゅうもめてますから。いろいろやりとりがあるのですよ。だけど、そのことが関係しているかどうかは私はわかりません。


質問  ありがとうございました。中村と申します。私も大学の教員をしているのですが、マキアヴェッリと、特に小泉さんのお話は、私も大変興味深くお伺いしたのですが、小泉さんの場合は、昔は戦争、今は選挙ということですんでますが、ブッシュさん、アメリカのブッシュさんは非常にこのマキアヴェッリ的な発想をしているのではないかという、お話を聞きながらそういう感じがしたのですが、先生はどういうふうなお感じをお持ちか、ちょっとお伺いできたらと思います。


佐々木  確かにやっていることについては、私の話と近寄せて理解するということもできるのかなというふうには思います。例えばイラクなどの話に関係すると思うのですが、マキアヴェッリは、例えばそういう外に対して軍隊を派遣するような話をするときには、どういうことがファクターとして行為をされなければならないかとか、いろいろなことについて議論をやっていることは事実なのですね。単純に比較することはできませんけども、私のイメージで言うと、マキアヴェッリに近いというか、マキアヴェッリにおぼれたというのか、つまり、軍事力におぼれたというのか、そういうことではないかと思うのです。だから、非常に難しいのは、確かに武力を使うということは、問題を簡単にする面はあるのですが、それは後で何をもたらそうと、何を実現しようとするかということと、私はおそらく関係があると思います。マキアヴェッリの時代であれば、それは占領して、そのまま維持すればいいわけですけど、なにしろ民主主義を実現するのに軍事力で攻め込んだのですから、これはちょっと目的と手段の齟齬がいろいろ出てくるようなことを、例えばどう考えていたのかとか、やはりマキアヴェッリの時代とはだいぶ議論の到達点みたいなものが違うのだろうと思います。そういう意味で今私は、個人的に言えば、あまりクレバーな人ではないのではないか。帰るに帰れなくなってしまったわけでしょう。日本はあまり義理立てしないで帰ってきましたけど、大体軍隊を派遣するときは、いつ帰るかということを考えて派遣するということが普通なのです。ただ、1度出て行ったら帰ってこれないというのは、日本の戦前を見ても、実際にそうでした。だから、それはつまり何を達成しようとするのかということについての目的というのでしょうか。私はあのころのアメリカの行動は相当めちゃくちゃだったと思います。1945年の日本へ行ったときはうまくいったから、イラクもうまくいくなんていう議論をやられたのでは、我々の名誉にかかわりますからね。それは何を考えているのかという話。私は相当に粗雑であると感じました。つまり、それは目標が、民主化とか、市場経済とか、軍事力で制圧して、植民地にするとか何とかという話であれば別なのだけど。ですから、やはり目標といったものについても考えるということは、マキアヴェッリ自身はあまりくだくだ言ってないのかもしれないけど、私は大事なポイントではないかなと。おそらく、例えばマキアヴェッリは、フランスは攻めやすいのだけど、征服しにくい。トルコは攻めにくいのだけど、いったん入ったら制圧できると言っています。これはやはり、攻められる側の政治構造とか何とかとかいろいろなものが違うので、イラクはあれだけ宗教が分立してて、それから、民族問題があって、しかも、石油でしょう。もうこれは民主化にとっては一番悪い条件を全部そろえている国のように私には見えますね。大体土の中からお金がざくざく出てくるようなところでは、ミドルグラスは成立しないのですよ。みんな働かなくていいのだから、とってきさえすればいいわけですから。いろいろな意味で、目的と手段との間あのコンビネーションはどうだったのかなというのが、マキアヴェッリと直接関係ないのかもしれませんが、私の感想はそういうことです。まことにおそまつな感想ですけど。


司会  マキアヴェッリは、政治にドグマを持ち込むということは非常に否定してますよね。


佐々木  ですから、こういうことなのですよ。政治は思想問題だという考え方の反対に属するわけですよ。これは物理的強制の問題なのです、極端に言えば。ですから、思想を全部統一すれば、政治も安定するという議論がもう1つの極にございます。こっちは思想なぞは統一しようもないし、どうしようもない。にもかかわらず、何とかしなければいかんという話であります。これは1つのコントラストをなしているわけで、ですから、結局、ブッシュさんが入っていったことによって、イラクがマキアヴェッリ状態になったという面もあるかもしれないですね。


質問  私イタリア研究会の猪瀬と申しますけど、大変興味深い話をありがとうございました。先ほどフランスの軍事力と、それから傭兵の話をされていましたが、先生がお書きになられたこの「マキアヴェッリと君主論」という本の中にこういうことが書いてあります。フィレンツェの防衛について、当時フィレンツェが防衛を完全にフランスに依存していたわけですね。マキアヴェッリはそれについて、こう言っています。そうすると、一国の防衛のためには、思慮と力との結合が不可欠であるが、フィレンツェにはこの両者が明らかに欠けていると。特に力の欠如が次のような2つの欠陥をもたらせた。第1はフランスへの完全な依存であり、支配者の間で信義を守らせるには、武器のみであることを考えるならば、この外交政策は、フィレンツェをフランスの属国とするか、またフランスが退却した場合には、第3国によるフィレンツェの併呑をもたらすことになると。これはフランスを米国として、フィレンツェを日本というふうに考えると、今日の事態。で、その次に、第2に力の欠如の結果として、自らの支配下にある人々を十分に保護することができず、したがって、彼らはこのほぼ可能にする支配者ならば、誰にでも服従することになると。このような力の欠如は、フィレンツェがまったく運命によって左右され、常に右往左往する結果をもたらせたと。どうも当時のフィレンツェを今の日本、フランスをアメリカというふうに読み替えると、今日の日本がおかれているような状況ではないかと思うのですけど、どうですか。

佐々木  ですから、アメリカは日本の傭兵隊かという話はよくちらちら出ているわけですね。たしかにね。そうした話とか、いろいろ考えることはできると思います。時々1人で読みながら、じっとニヤニヤしながら考えるという、そういうのもこの本の面白さではないかと。それは一面だろうと思います。ただ、それはおそらくフィレンツェだけではなく、イタリア全体がそういう体質だったのだと思います。周りもみんなそうなのだから、そうなってしまったという話であって、そこでお互いがゲームをしている間はそれですんでいたのだけど、外からいろいろなものが入ってくると、それが崩れてしまって、ですから先ほど言ったように、ゼロベースで立て直しを図らなくてはいけなかった。こういう話だろうと思います。日本の場合どうなのか、これは各自それぞれご判断があろうと思いますので、それにはいろいろなことは申し上げませんけれども、マキアヴェッリの視座はそうだった。だから、彼は自国の軍隊を作るわけです。自分で軍隊を作って、それでやろうとするのだけど、これもやはりつぶされるわけでありまして、最後まで彼はそれにこだわるわけですね。自分で軍隊を持たなければいけないというのにこだわるわけです。だけどそれは実際にはどこかの国の軍隊によって、自分たちの軍隊を作ればそれですべて解決するというほど、もちろん単純ではないから、そういうことになる。ただ、なぜそういうふうに考えたかというと、要するに、ゼロベースで物事を立て直さないと、事態はどうにもならないよというふうに思っていたことの現れであるということは確かではないかなというふうに思います。日本をフィレンツェに、フランスをアメリカに比較するなんていう話は、どうぞ皆さんそれぞれにお楽しみいただきたいというふうに思います。


司会  それでは、先生、40年の経験ということで、大変幅広くお話いただきまして、本当にありがとうございました。イタリア研究会30周年にふさわしい講演であったと思います。