パゾリーニの詩と映画

第320回 イタリア研究会 2006-12-15

パゾリーニの詩と映画

報告者: 土肥 秀行


第320回イタリア研究会(2006年12月15日)

演題:パゾリーニの詩と映画

講師:土肥秀行


司会  皆さん、こんばんは。イタリア研究会事務局の橋都です。ちょうど時間になりましたので、イタリア研究会の12月の例会を始めたいと思います。今日は土肥秀行さんにパゾリーニの詩と映画についてお話いただきます。パゾリーニについては皆さんご存知だと思いますが、日本ではどちらかというと映像作家として有名だろうということと、そしてもうひとつは、彼の死に方のこともあって、かなりスキャンダラスにしか捉えられないということがあるのですが、実はというか、非常にすばらしい紳士なのですね。そういった点を土肥さんにお話いただけると思います。


 土肥さんをご紹介いたしますと、東大の文学部のご卒業で、フィレンツェに東大の研究所が8年間ほどあったのですが、残念ながら現在はもうなくなっているのですが、そちらにずっと滞在しておられました。そしてその滞在している間に、ボローニャ大学でパゾリーニの詩についての研究で博士号をとられたという大変な秀才です。現在は東大の非常勤講師としてイタリア語、イタリア文学を教えておられます。


 僕は一番最初に土肥さんにあったのはフィレンツェでして、フィレンツェで土肥さんが企画した講演会でお会いしたのだと思います。その後、フィレンツェの東大の研究所に行っていろいろお話をお伺いして、パゾリーニの詩の研究をやっているこということを聞きまして、日本に帰ってきたらぜひイタリア研究会でお話していただきたいと、そのときから思っていたのですが、5年越しといいますか、5年たってようやく実現したということになります。


 なかなかこのお話を出来る人は日本中に土肥さんしかいないと思いますのでたのしみにしております。それでは土肥さん、よろしくお願いします。



 土肥  みなさん、今日はたくさんお集まりいただきました。本当にこのような場でお話しできるのはとても光栄です。お忙しい時期にありがとうございます。


 イタリア研究会という場のことも考えまして、僕よりも1世代も2世代も上の方が多いでしょうから、パゾリーニをリアルタイムで経験された方がたくさんいらっしゃると思うのですが、そのような方々とパゾリーニに対する思いをつき合わせてみるのも、僕にとっては非常に興味深いことだと思っています。


 それで、僕は非常に世代の差というもの、世代意識みたいなものを持って、自分が若いなりに何ができるのか、そういうことを常に考えています。今日もこのような機会を与えていただいたので、僕の見方を広く他のいろいろな見方とつき合わせてみたいと思っていますので、みなさんに胸をお借りするつもりでここに来ました。


 はじめに今日の会の構成をお話させていただきます。「詩と映画」という漠然としたタイトルにもかかわらず、非常に限られた話をします。つまりピンポイントでありつつも、広く物事を見るということを試みます。最後には映像を見ていただきます。パゾリーニの短編作品なのですが、『月から見た地球』という1966年制作の作品を、一部分ですが、見ていただきます。またそこにいたるまでに、音声だけですけども、パゾリーニによる朗読もお聴きいただきます。


 事前にお配りさせていただいたのは、訳も何もつけず失礼であったと思うのですが、実はつけるまでもないようなものです。この縦書きの詩は、パゾリーニが朗読する作品ですので、後ほど解説はいたします。またもうひとつの作品は、こちらは『テオレマ』という小説の方の最後のくだりです。米川良夫先生が訳していらっしゃるので、もし興味がある方は、先生の翻訳を参考にしてください。ただこの場ではあまり意味は関係ないので、あえて翻訳はつけておりません。それも後で説明させていただきます。


 このような一般の方も多い場ですから、あまり文学についてばかり話してしまうのは適当でないと思いまして、むしろパゾリーニの受容について考えてみたいなと思いました。パゾリーニの受容ということでは、日本でもやはりみなさんそれぞれの思いがあるでしょう。イタリアにおいてもそうです。イタリアであの時代を生きた人というのは、必ずパゾリーニについて何か思いがあります。そして社会のあり方とともに、パゾリーニというのはとらえられ方が変わってきました。だからパゾリーニがどう受け取られてきたかということを考えてみると、イタリア社会全体についても自ずとわかってきます。そういったアプローチで話を始めさせていただきます。


 やはりどうして今日パゾリーニについて話さなければいけないかということも、やはり考えなくてはいけないと思うのですね。パゾリーニの芸術よりも、パゾリーニの現象というか、パゾリーニ現象をまず考えてみましょう。


 僕は2006年の夏までフィレンツェにおりました。ということは2005年を向こうで経験しています。2005年というのはどういう年だったかというと、パゾリーニの没後30年だったのですね。だから、非常にパゾリーニについてのイベントが多かった年で、出版された本も非常に多かったです。僕の予想よりもかなり多かった。それは僕が期待していたということではなくて、当然あるべきオマージュ、大体想像できるのですが、それをはるかに超えた規模で、テレビ番組とか本とかで一般の人に向けられたものが多かったのです。パゾリーニ没後30年は非常に大きなイベントでした。


 一方で2002年は生誕80周年でした。パゾリーニは1922年に生まれているのです。そのときと比べて比較にならないくらい2005年は大きな現象になりました。


 これは非常に象徴的なことで、パゾリーニというのはやはりその死によって記憶される存在だということがわかります。やはり僕はそこにひとこと言わなくてはなりません。僕のように専門で物事を追っている者にとっては、別に死んで30年であろうと、31年であろうと変わりません。ただ個々の現象に対してやはり僕は何か言わなくてはいけない。


 そこで思うのが、死をあまり特権化してはいけないのではないか、ということです。パゾリーニの死よりも、生きていた間のことに注目してみたい。また逆に、考え方を反転させて、どのように彼が生まれたのかということを考えてみても結構面白いです。だから死を「面白がる」のと同じレベルで、生、誕生について語るならば、パゾリーニは1922年に生まれています。1922年というのは、ファシストによるローマ進軍の年です。それは9月に起こりましたが、パゾリーニはその半年前に、3月に生まれています。だから、パゾリーニは自分の生まれを語るとき、なによりもまず、「自分はファシストとともに生まれた」、「ファシズムとともに生まれた」と言います。


 彼自身も面白がって言っているのですが、これはかなり危険な発言です。というのは彼のお父さんは、パゾリーニという苗字はラヴェンナの貴族の家系です。その昔の貴族の常であったように、お父さんは軍隊に入るわけですね。カルロ・アルベルトというそのお父さんはアカデミーに通って、かなり放蕩生活して、家督を食いつぶしてしまうということをやった人なのです。1890年に生まれています。お母さんは1889年です。


 陸軍で中将にまでなった人ですが、彼は当然ファシストになるわけですね。軍人でしたから。それで、ファシスト政権が絶対的な支配を確立した1925年のマッティオッティ事件という暗殺事件がありますが、あれにかかわりました、パゾリーニのお父さんというのは。それにかかわって「捨てゴマ」にされてしまったわけです。だから、軍人としては報われなかったのです。


 イデオロギー的に、というよりは習慣としてファシストになった人ですね。だけどはやくにファシズムから見捨てられてしまいました。軍人としてのキャリアをそれなりに積んではいますけれども。


 そして将校の息子はやはりファシストなのですね。だから、パゾリーニはファシストでした。それも習慣としてファシストだったのですね。彼自身、後でいろいろなことを言いますが、自分の人生の「物語」を作っています。ボローニャで生まれて、それから将校であるお父さんが北イタリアの兵舎から兵舎へと移るのにあわせて、何度も何度も引越しますが、結局大学はボローニャで通います。自分の生まれた町ですね。


 大学ではファシスト学生としての活動をします。当時GUF(Gruppo Universitario Fascista)という団体が組織されたわけですが、そうしたファシスト青年団に属します。そうして例えばワイマールで行われた枢軸国の青年会議にイタリア代表で参加します。またGUF関連の雑誌の編集を行っていました。これは1942、43年くらいの話ですが、彼は20、21歳でした。


 パゾリーニはこのように、いわば挫折したファシスト将校の息子であって、当然ファシストとなりました。こうした出自をあきらかにせず「自分はファシズムとともに生まれた」などと、あたかもパラドクスかのように面白がって話していたのです。これはパゾリーニを「英雄視」する現在の状況を裏切るかのような、彼の「悪趣味」の一種です。


 パゾリーニの生まれについて話をしましたが、彼には6歳下の弟がいました。グイード・アルベルトというのですが。彼は兄ピエロ・パオロとは対照的に、パルチザン活動に参加します。


 みなさんご存知だと思うのですが、パゾリーニはマザコンだとよく言われますね。母スザンナ・パゾリーニはフリウリ地方出身の人です。フリウリは旧ユーゴとの国境に接する、北部であっても貧しい地域と言われていたところです。いまでは産業の発達がめざましいですが。そのお母さんの故郷に、戦争中は家族で疎開していました。


 そうして弟はパルチザン活動に参加するのです。非常に若かったのですが。いわゆる行動党、Partito d’Azioneという戦後右寄りの党になっていく存在の部隊に属していて,のちのユーゴのチトー派と勢力争いをしていました。戦後のパワーバランスを握るためにせりあっていたのです、レジスタンス同士であるにもかかわらず。そうして弟はチトー派に殺されてしまいます。ポルツースという山間の土地における虐殺としてかなり有名な歴史的な事件となっています。弟はファシズムに対抗してレジスタンスになったのですが、左の方のレジスタンスに殺されてしまった。これも一種の挫折です。反ファシズムという意志は潰えてしまった。


 お父さんはマッテオッティ暗殺に関わっていたし、弟はポルツースで殺されているし、このように歴史と関わりのある家族です。


 こうした生い立ちに興味をもってみるのも、死に興味を持つのと同じくらい面白いという例を紹介させていただきます。それから死によって記憶される存在という点に戻ってみましょう。スキャンダラスな死、についてです。


 いまだにイタリアでこれだけパゾリーニがもてはやされてしまう理由のひとつが、1970年代にパゾリーニが、「コッリエーレ・デッラ・セーラ」という非常にメジャーな新聞に連載した社会評論に依るところが大きい。『海賊論集』、『ルター派的書簡』などというタイトルでまとめられている論集がいまだに読まれています。


 この再評価の流れは、もう1990年代終わりくらいからですね。グローバル化とか、EU化とか、大きく社会、世界は動いています。その中で、大雑把に言ってしまうと、イタリアでは「マエストロ」の不在が嘆かれます。つまり、社会を引っ張っていくような哲人というか、「マエストロ」がいないということを嘆きます。「マエストロ」不在の時代に、過去にさかのぼってパゾリーニに「マエストロ」像を求めてしまう。


 なぜパゾリーニなのか。パゾリーニはやはり自覚的でしたが、アナクロなところがありました。例えば、パゾリーニのもっとも有名なフレーズで、「わたしは過去の力である」というのがあります。みなさん聞いたことがあるかもしれませんね。そういうノスタルジーの肯定があるわけです。だからパゾリーニというのは今非常に特異な存在になっていて、保守的な人も好むし、ちょっと進歩的な人も好みます。


 で、当時はどうだったかというと、実際のところ60年代、70年代はどうだったかというと、そこまで支持する人たちはいなかった。誰に支持されたかわからない。パゾリーニはイタリア国内において右からも左からも叩かれてましたから。


 そういった事情ゆえに、パゾリーニはわりと今恣意的に捉えられがちです。その一例が映画監督のマルコ・トゥッリオ・ジョルダーナでしょうか。ファンの方はご存知だと思うのですが、La meglio giovent?といって、『輝ける青春』というタイトルで日本でヒットしたそうですが、タイトルのLa meglio giovent?というのはパゾリーニの詩集から採られています。ジョルダーナは、パゾリーニ好きというか、例えばパゾリーニ没後20周年の1995年に、彼は『あるイタリアの犯罪』というパゾリーニの死についての本と映画を制作しました。四方田犬彦さんが言うには『JFK』的なサスペンス映画です。その後、『ベッピーノの百歩』という映画もありましたね。あの中でもパゾリーニを引用しています。なにかとパゾリーニにこだわっている人なのですが、恣意的な解釈に留まっています。パゾリーニの死についての本ですが、非常に陰惨な本になっています。パゾリーニの芸術を好み理解しようとした人が書いたとはとても思えないようなスキャンダラス志向の強い本です。べつに僕は論じる対象を崇め奉らなければいけないとは思いませんけども、とてもパゾリーニ作品に親しんで人が書くようなものではない、陰惨な本です。ジョルダーナの姿勢は僕にはどうにも理解不能です。またパゾリーニを引用するときに非常に都合のいい引用の仕方をしています。映画『ベッピーノの百歩』のなかで、パゾリーニがお母さんに捧げた詩を引用しています。パゾリーニはマザコンと言われますが、ここでやはり気をつけなければいけないのは、実はそれほどマザコンではないということです。自分についての物語を作ることに長けたパゾリーニ自身がいかにもそういうふうに見せている、ということなのです。だからお母さんに捧げるような詩を書きつつも、かなりサディスティックなところをさらけだしています。お母さんにお願いをする詩なのですが、自分が『ラ・リコッタ』という短編映画を作ったときに、カトリックという国教に対する侮辱罪で訴えられました。お母さんが非常につらい思いをしているときに、一緒に耐えましょうと言っている詩なのですが、パゾリーニはお母さんのことを思っているようにみせつつもかなり好きなようにやっています。例えば、『ラ・リコッタ』の後に、マタイ伝にもとづく『奇跡の丘』という映画を作ります。そこにお母さんをマリア役で出演させてしまいます。そうしてお母さんを「使って」しまうのです。磔のシーンでマリアが嘆き悲しむわけですね。そのときお母さんに演技つけるために、「グイードが殺されたときのことを思い出してね」と監督パゾリーニはアドバイスします。そんなサディスティックなことをするのです。マゾコンといっても、こうした面も含めたマザコンなのですね。だから母親へのストレートな想いとしてパゾリーニの詩を引用するジョルダーナに疑問をもたざろうえない。2005年にはパゾリーニの死についての本がフランス語にも訳されてしまったのには残念でした。パゾリーニはフランスでの理解には信頼をおいていましたから。


 そうしてパゾリーニは、昔は右からも左からも叩かれ、今は右からも左からもうまく使われてしまっている、なにかそういう存在になってしまいました。最近では政治家までもパゾリーニの引用をします。右も左の人もします。パゾリーニの言葉は、一種の標語のようになっています。主に1970年代に書かれた社会評論からの言葉です。



 しかしフランコ・フォルティーニという友人が、パゾリーニに対していい指摘をしています。シエナ出身の、詩人でありドイツ文学者であり、同世代の友人です。フランコ・フォルティーニは、辛らつにも、いくら1970年代においてマス社会がはじまったとパゾリーニが言おうが、その10年も前からはじまっていたと指摘します。また、1970年代にイデオロギーが失われたと言っても、それはすでに1960年代に兆候があったと批判しています。結局パゾリーニがしたことというのは、そのうちこういう時代が来るよと1960年代に社会学者なんかが言っていたことを、うまく「コッリエーレ・デッラ・セーラ」の一面に載せた、ということです。うまく時流に乗ってうまくマスコミを使ったのが新しかったのですね。それをフォルティーニからの指摘で看破されてしまっています。


 なぜパゾリーニは時流に乗るようなことをしたかというと、1950年代からの流れで見ていくと、パゾリーニの文学的な活動は1950年代とともに終わってしまっていた。1960年代に入って、1961年に処女作となる映画を発表します。実際、パゾリーニみたいなやり方は、大雑把に言ってしまうと、ブルジョワ的営みですよね。ブルジョワ的戯れですよね。文学的戯れというか。パゾリーニはいろいろ先鋭的なことしました。1940、50年代において彼の詩は非常に文学的かつ先鋭的でした。1950年代においては実験主義という意匠のもとに文学に励みます。彼が全国的に有名になったのは1955年の、これも米川先生が訳されていますが、『生命ある若者』という小説をきっかけとしています。それから1957年に、今度四方田さんの訳が出るらしいのですが、『グラムシの遺骸』という詩集を発表します。それで1950年代とともに文学者パゾリーニの使命は終わってしまうとなると、非常に短い活動期間のようにみえます。しかし1940年代にフリウリ地方においてたくさんの作品を書いており、たいていのことはそこでやってしまっています。


 1950年にフリウリからローマに移りますが、フリウリにおいて少年愛の事件をおこしてしまったのです(のちに無罪となりますが)。ですから今でもフリウリの方ではちょっとパゾリーニはタブーとなっています。同性愛かつ少年愛ですから。しかし世界的に有名なので、フリウリはパゾリーニのイメージをしばしば利用しています。とはいえ本質的にはフリウリは保守的でパゾリーニのような人物は受け容れがたいのですね。


 そのパゾリーニは1950年代の終わりまでには文学的な価値を失ってしまう。それは1960年代に出てきた人たちが、意図的にパゾリーニを過去のものにしようとしたという事情もあります。「新たなアヴァンギャルド」というパゾリーニの下の世代は、ネオレアリズモの人々を過去においやろうとする。そうしてパゾリーニは文学の世界での居場所を失っていきます。だから映画という表現手段に走ったと考えられなくもないのですが、もともとパゾリーニは絵画に興味があって、若いときは画家になろうと思っていました。パゾリーニ映画は絵画的であるともよく言われますよね。そういう意味では映画はもともとパゾリーニにあった資質でしょう。


 よって時代遅れの存在になってしまったゆえに1970年代にはうまく時流に乗れるまでになったという事情はあります。1970年代前半のイタリア社会にとって重要なことといえば離婚法ですね。それから中絶法ですね。その2つが、1973年から74年にかけて国民投票によって諮られたわけです。離婚法がなぜ重要な問題かというと、カトリック的な価値に対抗するからです。離婚法というのは当然あってしかるべきものでしたがイタリアでは認められていなかったのですね。カトリック的な習慣が強かったからですね。カトリックが国教であったということと関係しているのですが、それを拭い去るための、きちんとした市民社会を作るためのひとつの分岐点として離婚法の成立がありました。


 でもパゾリーニは離婚法に対して反対していました。離婚が認められれば自由な社会になるとは考えられないというのが理由です。同じ理由で中絶法にも反対していました。こうしたことを今パゾリーニをあがめている人たちがあまり見ようとしないのはおかしいのではないかと僕は思います。パゾリーニには非常にアナクロな点がある。過去へのノスタルジーに留まらず、非常に厳格でアナクロなところもあります。


 パゾリーニが死んだ後に、10周年である1985年、20周年の1995年というように僕なりに想像はできるのですが、没後30年である2005年は実際に体験することができました。パゾリーニ現象というのが非常に大きな形で起こって、誰でも彼でもパゾリーニについて語るような雰囲気だったのです。テレビをつければパゾリーニについて何か語られているような年でした。これは最後の機会でしょうね。没後40年はこうはいかないでしょう。一度リセットする必要があります。だから没後30周年が終わって僕はすっきりしています。というのはパゾリーニの友達などほとんど亡くなっていますから。パゾリーニの周りの人たち、たとえばモラヴィアは1990年に亡くなっています。モラヴィアは親友でしたが、彼のパゾリーニ観というのはかなり特殊です。パゾリーニは同性愛かつ少年愛でしたから、下層の少年たちが好きでした。彼らに人類の理想を見ていたわけです。正に彼らのやっかみによってパゾリーニは殺されたのだとモラヴィアはいつも主張していました。1985年にもそう言っていました。モラヴィアのパートナーだったダーチャ・マライーニという人がいて有名な女性作家ですが、ダーチャはまだ生きています。まだ70歳くらいでしょうか。ダーチャはそれほどパゾリーニの死について語りませんが、友人とはいえやはり中絶法の際に論争しましたから、そのときの衝突についてよく語りますね。それでもずっと友達でいました。


 またパゾリーニには弟分みたいな存在がいました。エンツォ・シチリアーノという作家としてはあまり有名ではありませんが、いわゆる文筆家ですね。ローマの文人サークルに属していました。エンツォ・シチリアーノは2006年7月に亡くなっていますが、こうした人々が亡くなっていくと同時にわれわれ若者へと世代交代していきますから、徐々にニュートラルにパゾリーニのことを考えられるような状況になってきます。この傾向を助長するのが2003年に出揃ったパゾリーニ全集ですね。これまた非常に扱いにくい全集なのですが。メリディアーニ叢書というイタリア文学の殿堂です。イタリア文学だけではなくて、例えば日本からだったら三島と川端が入っているような叢書です。この叢書に入ると永遠の存在になるわけです。メリディアーニ叢書におけるパゾリーニの全集の刊行は1998年に始まって、順々に巻が出版されたわけですが、2003年に刊行が終わったときには最終的に11巻という何万ページという規模になっていました。普通そこまでしません。レオパルディだって10巻ですからね。レオパルディより多いというのはちょっと問題ですね。


 ですからそれだけ大きな巨像としてパゾリーニが提示されてしまった。もうこれは誰も扱えないくらいです。未完稿も含めてなんでも出版してしまおうという方針ゆえに、結果的に全集が何万ページもの量となってしまいました。この方針ははじめから非難されていましたが、出版完了後すぐにもアンソロジーが必要だとかいろいろクレームもつきました。


 なぜそこまで肥大したかというと、彼の直筆原稿というのは整理しきれないのですね。フィレンツェのアルキヴィオ・ボンサンティに収められていますが。フィレンツェというのは20世紀前半まで、文化的・文学的な首都でした。今はそうではなくなってしまったのですが。だからフィレンツェがリードして現代作家たちのアーカイブを作るため生原稿を集めました。例えば1975年にノーベル文学賞をとったモンターレの原稿もあります。あと現代で最も大きな存在といえる小説家カルロ・エミリオ・ガッダ。彼はミラノの作家ですがフィレンツェに原稿がありますね。そのアルキヴィオ・ボンサンティにパゾリーニの原稿も収められているのですが、もう整理しきれない。


 というのもパゾリーニがどのように仕事していたかと考えてみるとわかります。ひとつの作品を作るのに、過去の未使用の原稿を挿入したり、使わなかった原稿をまた別の作品に入れたりですとか、混沌のなかで作品を作る。若いときからそうなのですね。彼の傾向というのは、もう20歳くらいのときから自分の全集のことを考えているのです。6巻組などと構想をたてつつ仕事をしています。だから、さきほどレオパルディの話をしましたが、『ジバルドーネ』という思索を集めた本があります。その発想に近い。自分の考えをとにかく何でも書いて、なんでも一緒にしてしまうということをやっていた人なのですね。だから簡単には原稿をいじれない。仕方なくそのまますべて出してしまったという事情があるのでしょう。ですから全集が長大になってしまいました。



 ちょっと散漫な話になってきてしまったのですが、パゾリーニは死について、僕がどういうふうに思っていたかということは申し上げません。それは言ってしまうとつまらない。実はどうでもいいのですね。僕は、パゾリーニが最後に残した、実際には最後というわけではないのですが、1992年に「未完」の形で出た『石油』、『ペトローリオ』という小説を日本語にしています。うまくいけば来年にでも出版したいと思っています。これを読んでいただければパゾリーニにとっての真実というのがさほど重要ではないことがわかります。むしろ、フィクションとは、との問いを追求すべきとあらためて思えてきます。


 これも厄介な小説ですね。全体の5分の2しか書かれてないということになっていますが、それでも800ページくらいあります。そこにとにかく何でも書かれています。


 2005年になってもまだいろいろな人がパゾリーニの死についてあれこれ言います。たとえば、政治的陰謀があった、とか。パゾリーニは当時の首相アンドレオッティとけんかしていましたからね。パゾリーニは暗闇のなかの政治を告発し、義務教育撤廃をさけんでいました。ゆえに権力者たちに目をつけられてしまった、というようなことが言われてきました。


 筋を要約することがほとんど不可能な小説『石油』で語られるひとつの物語では、ENIという炭化水素公社、ようするに石油政策をうけもっていたところで代表を務めていた非常にやり手のエンリコ・マッテイをモデルにしています。彼は1962年に謎の死をとげています。飛行機墜落事故だったのですが、2006年はマッテイの生誕100年だったのです。そのマッテイの死の謎についてパゾリーニは『石油』のなかで語っています。イタリアの1970年代は「鉛の時代」と呼ばれますが、いわばテロリズムの時代ですね。それは1969年12月12日にミラノ市ピアッツァ・フォンターナのイタリア農業銀行の爆破事件から始まったと言われます。ですが最近では、もう1962年のマッテイの事件、おそらく暗殺事件なのですが、から始まったのではないかと言われています。それくらいイタリアの歴史を変えるような事件であったのです。マッテイの活躍の背景には、日本と同じようにイタリアには資源がない、そのための石油政策の重要性があったわけです。セブン・シスターズに負けないためにマッテイは、例えばイランに飛んで採油権を獲得したり、北アフリカの国々と組んだりしました。OPEC石油輸出国機構ってありますよね、あれを作るように裏から仕掛けたのもマッテイです。産油国の地位向上に尽くした人だというふうに思われているのですが、ただ単にセブン・シスターズへの対抗意識がまずありました。マッテイは産油国の利益の取り分を50パーセントに引き上げました。非常に革新的なことだったのですが、ゆえに他の国々に目をつけられてしまいました。最後にはそれで殺されてしまいました。イタリア国家が見捨てたという部分もあります。殺させちゃったわけですから。


 その謎、今では謎ではなくほとんど真相がわかっているのですが、それを小説『石油』は扱っています。ただ「未完」ですから書かれてない部分があります。暗殺の真相は書かれていないのではなく、誰かが抜き取ったんだと言い出した人が去年おりまして、だからパゾリーニはマッテイの死の真実を知っていたから殺されたのだという、本当にまじめにそういうことを言う人たちがでてきてしまいました。あきれてしまいますが、それはたぶん今年がマッテイ生誕100年ということもからんでいるのですよね。


 エンリコ・マッテイの死というのはいまだにタブーで、というのは関係者がまだ生きているので、なかなか言えない部分があるからです。日本でもかつてエンツォ・ビアージの本で紹介されていました。またフランチェスコ・ロージの映画がありますね。Il caso Matteiという1972年の映画ですが、主演はいつも通りジャン・マリア・ヴォロンテです。ヴォロンテがマッテイを演じていて、これがまたうまいです。半分ドキュメンタリーのトーンです。カンヌ映画祭ではパルムドールを受賞しています。ロージの作品のなかでも映画として出来がいいです。


 このところ毎年トゥッリオ・デ・マウロという言語学者が日本に来るのですが、文化大臣もしたことのある人ですけども、彼の弟がマッテイ事件担当の記者だったのですね。関連して1970年に何者かによって殺されています。マッテイが暗殺された1962年から8年も経っているのですけれども。いま兄のデ・マウロはなにを思うのだろうか、そんなことを想像してしまいます。彼のコメントを読んだことないのですが。


 でもそのデ・マウロが、この10月にイタリア学会で講演したときに、先ほどから僕が批判している都合のいいパゾリーニの引用を、彼のような人までがしていました。もちろんマッテイ事件を通して、自分とパゾリーニが繋がっているとはデ・マウロは意識していないでしょうが。


 そういう2005年の没30周年というアニバーサリーを僕はちょっと冷ややかに見るわけです。むしろそう見ないといけないと思っています。


 では死を特権化しないために、生の部分に目を向けてみましょう。没30年という節目を語るのだったら、今日みなさんにお集まりいただいている2006年12月の40年前にパゾリーニは何をしていたかと考えてみてもよいのではないでしょうか。あえて恣意的に生を語ってしまってみたいと思います。


 これからご覧いただく短編が今からちょうど40年前の1966年の11月から12月にかけて撮影されていました。この『月から見た地球La terra vista dalla luna』という作品には大喜劇俳優トトが出演しています。あまりイタリアの外では有名ではないですが、イタリアでは今でもたいへん人気のある俳優です。トトが亡くなる最後から2番目にあたる作品がこれです。トトは、パゾリーニ作品では他に1965年の『大きな鳥と小さな鳥』にも出ていますね。パゾリーニはトトとの仕事を非常にたのしんでいました。チャップリンのような紋切り型のキャラクターを愛していたのです。トトの相手役は、パゾリーニのお気に入りの少年であったニネット・ダヴォリが務め、このコンビで『大きな鳥と小さな鳥』、『曇ってなに』、『月から見た地球』といった一連の作品が作られています。


 もし一般的に不吉というか、死によって語られてしまうようなパゾリーニのイメージがあるとすれば、『大きな鳥と小さな鳥』などはまったく正反対で、たいへん喜びにあふれています。特にニネットを描くときは、画面が愛に満ちています。『大きな鳥と小さな鳥』という作品は、当時のイタリアの政治事情と密接に関わっていますから(トリアッティの葬式のシーンなど)日本ではわかりにくいと思われがちなのですが、むしろ役者に対する愛着・愛情という観点からみてみると非常に素直な映画としてとらえられるかもしれません。ニネットが出てくるときに、どれだけ美しく撮ろうとしているかということに目を向けていただいてもいい。あるいは類型的なトトの演技からはパゾリーニにおける型への偏向がわかるでしょう。パゾリーニ作品には素人俳優が使われたとよく言われますが、同じくらいプロも使っています。実はプロ級のプロと仕事するのも大好きなんですね。


 後で見ていただきますように、大女優シルヴァーナ・マンガノも出てきます。パゾリーニにとってはシルヴァーナ・マンガーノとはじめて組む機会です。シルヴァーナ・マンガノはたいした演技力があるわけではないのですが、聖なる美しさを持った人ですね。パゾリーニはそれを利用するわけです。短編『月から見た地球』では、宇宙人であるため、コミカルな役ですが。でもどこか現実離れした美しさをパゾリーニは利用していますね。


 1966年というのは、さらに言ってしまうと、今度は日本に目を向けまして、はじめてパゾリーニ映画が一般公開された年です。マタイ伝を映画化した『奇跡の丘』です。これはヴェネツィア映画祭でカトリック教会賞を受賞しており、教会と東宝東和が組むことで日本公開という段取りができました。1966年の9月にニュー東宝において公開されました。


 1966年について言っておかねばならないのは、米川良夫先生がはじめてパゾリーニの作品を単行本として出した年です。『生命ある若者Ragazzi di vita』です。講談社文芸文庫に入っていますから、まだ手に入れる機会があります。このパゾリーニの代表的な小説は、日本語訳の方が英訳よりも早く出ています。オリジナルは1955年出版で、パゾリーニの出世作となりましたが、日本語訳が1966年に出たとすると、英訳は1968年です。ただやはりフランス人には負けていて、仏訳は1958年に出ています。しかし、英訳よりはやいというのが重要であると思います。いまだにやはり日本のパゾリーニ受容・研究は、アメリカと比べて、一歩先に行っていると思います。この点についてはイタリアの専門家も意識しており、例えばパゾリーニのいとこであって伝記作家であるニーコ・ナルディーニという人も、日本語訳が1966年の段階で出ていることを年表に記しています。


 1966年にまず『奇跡の丘』が公開されて、この後パゾリーニの長編作品はすべて、『大きな鳥と小さな鳥』を除いて、すべてロードショーで公開されていきます。ですから1966年は日本における「パゾリーニ元年」とも言えます。


 そうしてパゾリーニは、1960年代の後半の日本で、ゴダールとならんで最も実験的な映画監督として急速に認められていきます。こういった日本での風評をパゾリーニ自身も喜んでいました。イタリアではなにかと批判される立場にありましたから、フランスと日本に望みをかけていたのですね。



 あまり細かい事柄ばかり話すのはやめてまた視点を広げてみると、1960年代にパゾリーニにとって、なにも彼にとってだけではないですが、大切なのはダンテの存在ですね。またもや記念行事好きというか、1965年というのはダンテ生誕700周年でした。ですからダンテについて何かしらみな発言していました。パゾリーニにおいてもダンテという見方が生まれてくるのですね。先ほど紹介した『石油』という小説もダンテ色が強いです。また、皆さんよくご存知だと思うのですが、パゾリーニの最後の映画がありますよね。『ソドムの市』をご覧になった方も多いと思うのですが、あれもまた非常にダンテ的ですね。特に構造においてです。圏があって、界があって、天があって。最後は行き着くところに行き着くわけですけれども。僕が思うに、少々脱線しますと、『ソドム』についてはみなさんそれぞれ思いがあると思うのですよ。なにか言っておきたいことがみなさんあると思います。僕にとっては、わりと整然とした、ダンテ的な意味で整然とした映画ですね。構造がきっちり作られている。ですから安心して観ることができる。だから逆にあまりおもしろくない。ダンテの『神曲』も、かなりひどいことが書かれてあっても、安心して読めますよね。ここはこういう罪でこういう罰を受けていると整然と理解できます。そんな『ソドム』はパゾリーニ的でないと思うわけです。パゾリーニは最後に、彼は最後だと思っていなかっただろうけど、自分の流儀に外れる仕事をしてしまいました。彼はいろいろなものを寄せ集めてつぎはぎするような方法を執っていたのに、整然と仕事をしてしまいました。すっきりした映画を作ってしまいました。だから僕はあの映画はパゾリーニ的ではない、あの作品はなくてもよかったとさえ思います。もちろんあれで衝撃を受ける人もいるでしょうが、1960年代にダンテという見方がパゾリーニの中で生まれてきて、ああいう形で最後に出てしまってつまらないのですね。何かきれいな解決策が与えられてしまったようで物足りなく感じられます。パゾリーニ自身、あの映画は思いつきで作ってしまっています。普段パゾリーニはそのような仕事の仕方はしないのです。だから逆に言ってしまえば、パゾリーニはやろうと思えば整然とした仕事が出来てしまう。出来てしまうことをしてしまったというそれだけの話なのですね。でもその整然とした仕事をあえてしないのがパゾリーニだったのに最後にしてしまったのです。だから僕はあれはなくてもよかったのではということを言いたいのですね。


 この点をなぜ強調するかというと、また最近『ソドム』についていろいろ言う人たちが増えてきているからです。先日のヴェネツィア映画祭でも『ソドム』についてのドキュメンタリー映画が上映されました。『ソドム』をあたかも大きな謎として大袈裟にする流れには反対です。そんなに不可解な映画でも不吉な映画でもないのですね。


 またパゾリーニにおけるダンテというテーマに戻りましょう。パゾリーニはトトとニネットの2人組に一種の地獄めぐりをさせようと計画します。別にどちらかがダンテでどちらかがヴィルジリオというわけでもないのですが、トトとニネットが旅して行くという映画の第1エピソードとなるべく作品が短編『月から見た地球』なのです。パゾリーニ自身は短編を順々に撮っていきたかったのですがトトの死によって未完となってしまいました。この短編の翌年1967年の4月にトトは亡くなります。ですから2つだけエピソードが作られて計画は中断されます。


 ここまでパゾリーニの詩についてあまり語っていませんが、1960年代の映画監督としてのパゾリーニ、あるいは詩人としてのパゾリーニ、こういった区別はあまりパゾリーニの中にはありません。例えば『テオレマ』という映画がありますけれど、1968年に発表されますが、これもはじめは戯曲として生まれたのです。いわゆる悲劇として生まれました。ギリシャ的な意味での悲劇ですね。1966年のことでした。初めのアイデアは戯曲でしたが、次第に小説になり、脚本になり、映画になっていった。おそらく一般でみてもマルチメディア的な展開をしたはじめてのケースではないでしょうか。1968年には小説と映画が同時に出ました。ですから彼は「両義的な」作品だというのですね。今で言うところのマルチメディア的な作品なのですね。


 そういう仕事の仕方ですから、詩とか、小説とか、映画とか、もっと言ってしまえば評論とか、あまり区別がない。同じ作品がどんどん変わっていってしまうのです。例えば、『最良の青春La meglio giovent?』という先ほど挙げた作品ですが、あれは詩集のタイトルです。しかしはじめは小説のタイトルとして考えられていました。しかしLa meglio giovent?は詩集のタイトルとして採用され、小説は『あることの夢Il sogno di una cosa』という新たなタイトルがつけられました。作品はたえまなく変容していきます。


 1960年代には詩自体をあまり書かなくなってしまうのですが、詩人をやめたかというとそうではなくて、逆にいろいろな場で詩人をしていたということになります。彼自身、「ポエジーとしての映画」などと唱えたりして、1960年代末に日本語にも訳されてオリジナルな映画理論として扱われました。パゾリーニの場合、詩というのはいろいろなところに偏在しているのですね。


 先ほど言ったように1960年代に入って自分は時代遅れになってしまったと焦りを感じはじめます。そこで僕の言葉ですが、「元詩人」として詩を書くのですね。一貫性なく機会に応じて詩を書く。そういった「元」抒情詩人として生き延びる。1940年代には彼は方言で書いていたのですが、詩のための言葉としてのみ方言を使っていたのです。お母さんの出身地であるフリウリ地方の方言ですね。実は彼自身はそこで育っておりません。だから詩を書くためだけにフリウリ方言を身につけたのですね。パゾリーニにとって方言は詩のためにのみ存在しました。


 1950年代に入ってローマに移ってからはだんだん方言で書かなくなってくるのですが、たぶん彼の頭の中では詩というのは絶対的なものだという観念があったと思うのですね。イタリア語で書くとき、どこかやはりそれは詩ではないと思っていたでしょう。そうしてここらへんから「元」抒情詩人になっていくのではないでしょうか。


 さらに1960年代になると、時代遅れとみなされ、それをパゾリーニは逆手にとります。「元」詩人として、いろいろなところに書きちらすかのように詩を発表していくのです。その詩の発表の仕方が面白いです。当時はビデオなんかないですから、映画が発表されたあとには、スチール写真がついた脚本が単行本としてまとめられます。これはイタリアでも日本でもそうでした。パゾリーニの場合、刊行される脚本は映画に用いられた脚本と異なります。手が加えられており、別の作品になってしまっているのです。それからパターンとして、その映画を撮っているときに作っていた詩を付録に収めます。このように詩は機会に応じて作られ発表されるもの、と規定されます。


 例えば、先ほどはじめに引用したパゾリーニの最も有名な詩句「私は過去の力である」というのも、『マンマ・ローマ』という1962年の映画、このアンナ・マニャーニ主演の映画を撮っているときに作った詩なのです。ですから『マンマ・ローマ』の脚本が本になったときに「おまけ」として付けられた詩なのです。


 「元」詩人として詩を書く態度のあらわれ、その一例がみなさんにお配りした詩です。彼にしてみればこれは詩ではない、とわざわざ言います。「まずい詩」だと言います。でも彼は非常に美意識が強い人でしたから、「まずいbrutto」というのもひとつの美的価値になりえるのですね。


 これはどういった機会に作られたかというと、1970年代をむかえるにあたって、ローマ市が作曲家のエンニオ・モリコーネに作品を委嘱し、モリコーネはパゾリーニにローマに捧げる詩を用意してもらいました。内容は暗いのですが、1970年代の非常に暗い時代の予兆となっています。権力が暗躍する場としてのローマ、首都ですね。パゾリーニはうまくキャッチーなフレーズを作りますが、なかでも有名なのが「パラッツォPalazzo」ですね。1970年代の社会批評でパゾリーニはこう言い始めました。「パラッツォ」は流布していて今でもよく評論で使われます。常にPは大文字です。要するに、たとえば引用した詩では、まだ「パラッツォ」とは言っていなくて、「省庁Ministeri」と言っています。大きな建物があって、中はとても入り組んでいてわかりにくい、権力は奥に潜んでいて姿は掴めない、それらが国を動かしている、というようなイメージが「パラッツォ」にはあります。概してイタリアというのはそういう国ですよね。どこがどうなっているかわからない。だから、パラッツォとよく今でも使われています。同種のイメージで、このローマについての詩も書かれています。ある機会にあるテーマに基づいて作られた、非常に時代に寄り添った詩ですね。


 フレーズ毎の意味を理解する必要はないですが、モリコーネの音楽つきでなぜお聴きいただくかというと、パゾリーニの語りは非常にやわらかいのですね。語りがうまい人でした。朗読も非常にうまい。ここでは声は疲れているようなので、たいへんでしょうが。録音はうまくいったようです。


 パゾリーニが話すとき、物腰が柔らかいです。例えば『愛の集会Comizi d’Amore』というドキュメンタリー作品、日本ではDVDになっていますが、ここではパゾリーニは「性の問題」についてイタリア全国をインタビューして回ります。映画を観ていると、彼は老若男女問わずどんな人とでもうまくコミュニケーションしています。


 やはりボローニャ生まれですから、エミリア地方訛りが少し入っていますね。先ほど詩は方言で書いたと言いましたが、フリウリ地方の方言であり。パゾリーニはフリウリ人ではなくエミリア人です。そういうアクセントからおおよその出身地はわかってきます。本人による朗読を聴いてみましょう。バックにはモリコーネの音楽がついています。



P.P.P., Meditazione orale [1970], da Poesie per musica, in Id., Tutte le poesie, vol. II, a cura di Walter Siti, Milano, Mondadori, pp. 1325-1326




MEDITAZIONE ORALE



Che Roma fosse citt? coloniale


dove venire in vacanza


Ne dimorarono molti, poeti non socialmente determinati


liberi dalla burocrazia e con un po’ di paura della polizia;


5 n? mancarono i bei soli, in questo secolo;


ci? che scompariva dava un breve dolore,


l’unico vero dolore era nei sogni; nei sogni in cui pareva


di essere costretti a lasciare questa citt? per sempre!


Non si piange su una citt? coloniale, eppure


10 Molta storia pass? sotto questi cornicioni


(col colore del sole calante)


e fu spietata;


fu una scommessa tra i fascisti e i liberali;


inaspettatamente questi ultimi, imbelli e anche un po’ buffi,


15 (meridionali delicati di fegato)


l’ebbero vinta. I forti furono battuti;


molta storia pass? all’ombra dei Ministeri,


ma che lacrime fossero sparse in sogno per questa citt?


ci? sa di miracoloso, ? quasi incomprensibile;


20 lacrime violente, che parevano sparse sul cosmo;


le lacrime degli addii alle partenze senza ritorno


Poi ricominciava la vacanza e una sete insaziabile di solitudine


Molta storia pass? su questo asfalto


e lungo i muretti di pietra, insensibili al sole d’agosto,


25 molta storia. I vecchi parlamentari onestamente


con solennit? sedentaria


ripresero il loro posto, or ridenti or severi


verso i loro elettori, condividendone la pace col mondo:


a ognuno il suo realismo!


30 Avevano vinto la scommessa nel Settentrione eroico,


nel Meridione segreto


e un sorriso popolare o una seriet? piccolo borghese


Insomma la ritrovata dignit?


riport? pellegrinaggi di poeti liberi da classe sociale,


35 senza obblighi n? orari


s? che dopo il pianto, la cosa pi? incredibile


fu quel desiderio di solitudine,


che dava una felicit? completa e tenuta tutta per s?.


Gli occhi che avevano pianto in sogno


40 ora guardavano


senza limiti di tempo o scadenze,


con pomeriggi o notti intere davanti,


in cui non accadeva che ci? che la storia dimenticava.


Oh, certo, non fu serio;


45 fu una vacanza


Tutto doveva poi essere ragione di rimprovero;


Roma fu sede di nuove battaglie.


Da dove erano discesi questi barbari?


Be’, erano nati qua, a Via Merulana, a Piazza Euclide,


50 a Centocelle: e infatti bastava che impallidissero un po’,


ed ecco le faccie dei loro padri, o sconfitti o vittoriosi,


ma tutti perduti nel passato in cui le lacrime non contano


e il desiderio di solitudine non ? serio;


la storia ricominci? a passare,


55 ma ai posteggi verso le quattro del pomeriggio c’era calma e sole,


dietro al Quadraro i prati erano deserti.


 


 ついていたのはどこか不安をかきたてるような音楽でしたが、やはりモリコーネですからね。そこまで極端な音楽ではないですね。モリコーネはちゃんとメロディがある人ですから。パゾリーニの1968年の『テオレマ』という映画でも同じような音楽でした。ちょうどいい塩梅の現代音楽ですね。モリコーネ自身にとっても、パゾリーニとした仕事というのはかなり満足のいくものだったようです。


 先ほど僕が提唱した「元」詩人というあり方ですが、これはパゾリーニに限ったことではないと思っています。1960年代の詩を考えたときに、例えば先ほども登場した、1975年にノーベル文学賞を受賞したエウジェニオ・モンターレという詩人がいます。リグーリア地方の人ですが、よく彼は生涯6冊しか詩集を出さなかったということが言われます。寡作であると。しかし実際にはいろいろ書いていました。1960年代の彼の書き方も、機会に応じて書いていたと言えるのですね。日記に似せたかたちで書くわけですね。字面を追ってもあまり詩らしく見えない。確かに行変えしているわけですが、なんと言うか、リズムがあるようでないようなという、そこはかとなく詩のリズムが入っている感じがします。



 1960年代以降、パゾリーニはモンターレを敵視したきらいがあって、もともと二人のあいだには二世代もの隔絶があります。パゾリーニは1922年生まれでモンターレは1898年ですね。1960年代の終わりにパゾリーニは、自分も似たようなことをしているにもかかわらず、へんな詩を書くとモンターレを攻撃します。実はそのようにしか詩人はありえなかった時代だったと僕は考えます。機会に応じて書く、なんか詩じゃないようなものを書く時代として考えています。また別に前衛の人たちがいました。彼らの尺度は全然違います。belloとかbruttoという価値観ではないですね。基本的に1960年代終わりというのは、belloという価値観を引きずっている人たちが、bruttoに対するコンプレックスをどう相手にしていたかという時代だと思います。


 そこでやはり抒情詩の伝統というのはそう簡単にくずれるものではありません。現在、20世紀が終わっていろいろアンソロジーが編まれました。20世紀詩アンソロジーといったものがたくさん出てきます。21世紀になって前世紀をどんどん歴史化していかなくてはなりませんから。そうして1970年代以降の詩というテーマで、1970年から2000年までの30年分の詩のアンソロジーも複数出版されています。その中にパゾリーニやモンターレのまずい詩も採用されます。そうしてむしろそれがモデルになっていく、という流れになっていきます。そうして結局、抒情詩の歴史の中に取り込まれていきます。


 存命中の詩人のなかでは最も大きな存在であるエドアルド・サングィネーティというジェノヴァの人がいます。1930年生まれの人です。1960年代に沸き起こった新前衛派の中心を担っています。そうしてたいへんパゾリーニが嫌いです。また1970年代以降のアンソロジーというものにもおさまりが悪い存在です。ですからむしろアクチュアリティがある存在であって、イタリアでは新前衛派自体を消化し切れてないです。それは詩だけではなくて、音楽の世界も言えることだと僕は思うのですが、ルチアーノ・ベリオなどサングイネーティに比する音楽家ですがどうもイタリアには収まりが悪い。これらのアーティストと比べると、パゾリーニというのは圧倒的にイタリアにはまっている、イタリアらしい存在でしょう。このように、パゾリーニを追っていると、主要な文学の潮流や社会動向がわかってしまい、「便利」かもしれません。


 最後にみなさんに観ていただきたいものがあります。だいぶ話をはしょってしまいますが、なぜこの作品を観てもらいたいかというと、機会がほとんどないからです。この短~中編はなかなか観る機会がありません。ビデオとかDVDに決してならないのです。なぜならないのかというと、あのディノ・デ・ラウレンティスがプロデューサーなのですが、元妻シルヴァーナ・マンガノが出ている映画をお蔵入りにさせようと考えているようだからです(ちなみにDVDとして再発売されている『イタリア式奇想曲Capriccio all’italiana』のジャケットからもまたマンガノのクレジットが消えています)。これはディノ・デ・ラウレンティスがプロデュースしたシルヴァーナ・マンガノ主演のオムニバス映画であり、そもそも当時は複数の監督の共作、オムニバスが流行っていました。タイトルはLe Streghe、邦題だと『華やかな魔女たち』となっています。イタリアでは1967年2月に公開されましたが、撮影はその直前の1966年11月から12月でした。日本では追って1967年の12月に公開されています。ディノ・デ・ラウレンティスには世界配給となるような商品をつくる力があったのですが、このオムニバス映画にはパゾリーニの他にヴィスコンティもエピソードを撮っています。朝日新聞による2004年のヴィスコンティ映画祭で上映されたようですね。


 みなさんに見ていただく理由がもうひとつあります。先ほどあげた『テオレマ』の例では、戯曲になったり、小説になったり、映画になったりしました。この『月から見た地球』というのは、漫画になっています。パゾリーニ自身が漫画を描いているのです。いわゆるフメッティfumettiですね。それはパゾリーニにとってのはじめてのカラー作品であったからでもありましょう。彼はやはり昔画家になりたかったくらいですから、カリカチュアなんかはさらさらと描いてしまいます。


 映画を観ていただくことで今日のお話を終わりにしようと思いますが、まとまりない話でしたが、いくつかのポイントのうちからみなさんにひとつでも反応いただければ、それでいいかなと思っています。パゾリーニ自身まとまりのない存在でしたから、彼に倣ってそういうことにいたしましょう。またこの映画自体なかなかいいオチがついているので、シメはそちらに任せてしまってもいいかなとも思います。


 あらすじはとても簡単です。漫画をご覧になりながらお聞きください。トトとニネットのコンビが登場しますが、トトいうのはチャップリン、ニネットというのはパゾリーニにとっての天使ですね。二人は父と息子の関係にあります。まずお母さんが亡くなってしまって墓の前で二人が泣いているところから始まります。クリサンテーマというお母さんがいたらしいのですが、毒キノコを食べて死んだと言って泣いているのですね。だけど死を嘆くそばから、まだ俺だって捨てたものではないぜとお父さんの方が後家さん探しに奮い立ちます。どんな女性がいいか、黒髪だと息子は言い、自分はブロンドのほうがいいなと返して、息子は赤毛じゃなければいいとまとめます。それから実際に女性を探しに出掛けます。墓場に寡婦がいたから話しかけたら、不心得者と傘で叩かれました。逃げ出して、それからまた歩いていたら、北方美人がいるよと実際近づいてみたらマネキンでした。くだらない展開が続きます。またさらに進んで行くと、道端で女の人が祈っています。これがマンガノです。きれいだねと声をかけます。それからバナナあげます。彼女はバナナをじっと見てから黙々と食べます。どこかおかしいなと思ったら、彼女は聾唖でした。まわりで爆発音がしても驚かないから、聾唖だとわかりました。結婚してとお願いすると、いいよと承諾します。結婚式のハッピーエンドで漫画は終わりますが、極めてくだらないのです。映画バージョンは漫画が終わるところからもさらに物語は続きます。みなさんにはこの続きから観ていただきます。結婚式で猫がミャーオと啼いていますが、なぜかというとお父さんの名前がチャンチカート・ミャーオというからですね。ふざけた名前をつけています。息子はバチュウといいます。その結婚式での誓いのときにチャンチカート・ミャーオと名を呼びますね。だから猫はミャーオと復唱します。結婚した後はみなでバラックに住みます。ゴミ捨て場のようなバラックをどこか宇宙人のようなマンガノが一瞬できれいにしてしまいます。テロップで「人間というのは足ることを知らない」と表示され、貧しさをなんとかするために、お父さんが一芝居打とうと提案します。コロッセオのところでマンガノが貧しさゆえに自殺するフリをして、サクラを置いておいて募金を募ろうと計画します。そこで実行に移したときに、観光客が2人出てきてコロッセオの上でバナナを食べて、捨てられたバナナの皮に滑ってマンガノが本当にコロッセオから落ちて死んでしまいます。また嘆き悲しむお父さんと息子なのですが、家に帰ってみたら、またマンガノがいて、あれはなんだとたいへん驚くのですが、本当におまえかと聞いて、そうだと言う。最後のオチとして「生きているのも死んでいるのも同じ」とテロップが出ます。死ばかりを強調する風潮に対する皮肉としてこれを今日のお話の締めくくりとさせていただきます。


 (映画上映)


 

 司会  たいへんありがとうございました。パゾリーニとトトとの関係とか、ダンテとの関係とか、意外なお話もたくさんありましたけど、いかがでしょうか。ご質問があればお受けしたいと思いますけど、1つだけ、我々は世代的にパゾリーニがそれこそリアルタイムで経験してきたのですが、土肥さんがなぜパゾリーニに興味を持ったかというところが非常に我々からすると興味があるのですが、いかがなのでしょうか。


 


 土肥  没後20周年の展覧会でした。だからやはりアニバーサリーにも意味がありますね。1995年にレッジョ・エミリアでパゾリーニについての展覧会を観ました。なんとなく映画監督としては知っていたのですが、詩も書くんだというところから僕の関心ははじまりました。


 


 司会  よろしいでしょうか。それでは、土肥さん、面白いお話をありがとうございました。