現代イタリアにおける若者のライフスタイル・価値観をめぐって

第322回 イタリア研究会 2007-02-28

現代イタリアにおける若者のライフスタイル・価値観をめぐって

報告者:早稲田大学文学学術院助教授 土屋 淳二


第322回イタリア研究会

演題:現代イタリアにおける若者のライフスタイル・価値観をめぐって

講師:土屋淳二(早大文学学術院助教授[当時])


司会  イタリア研究会事務局の橋都です.イタリア研究会の2月の例会にようこそおいでくださいました.今日は,ここにありますように,現代イタリアにおける若者のライフスタイル・価値観をめぐってということで,早稲田大学文学学術院助教授[当時]の土屋淳二先生にお話をお伺いします.日本では今,若者のニートということが非常に問題になっていますが,イタリアの若者はいったい日本と比べてどう違うのか,といったことをお話いただきたいと思います.


 それでは,まず簡単に土屋先生をご紹介申し上げますと,土屋先生は,現在早稲田大学文学学術院で社会学をご担当されつつ,同大のイタリア研究所の所長を兼務され,イタリアではローマ大学やローマ第三大学,フィレンツェ大学,パドヴァ大学,ヴェローナ大学,ミラノ自由大学,ミラノカトリック大学などで客員教授としてご活躍されていらっしゃいます.ご専門の社会学でも,とくに集合行動論や文化変動論の分野で研究をされていらっしゃいます.近年に学文社から出版されました『イタリアン・ファッションの現在』というご編著があり,大変幅広い学問の分野の研究をされている方であります.


 それでは,土屋先生,よろしくお願いします.


土屋  皆さん,本日はお忙しいなかお越しくださいましてありがとうございました.またイタリア研究会の皆様からお招きを頂き感謝申し上げます.ただいまご紹介がございましたとおり,私は大学で社会学分野におきまして研究教育に従事しておりますが,先ほど幅広く活躍されているというようなお言葉をいただきましたが,じっさい若手の頃は10年以上にわたり防災研究をやっておりました.イタリアも災害国でありますので,当時の災害研究からも,わたしにとってイタリアという国は当時より身近な国のひとつでありました.いずれにしましても防災研究は,社会学のなかでは「集合行動」論という分野で研究がなされることが多いのですが,そこでは群集やパニック,革命,戦争といった人間の集合的な営みが社会や文化を変えていくプロセスを社会学的に見ていく分野の重要な領域といえます.災害というのは,ドラスティックな形で社会を再編していかなければならないプロセスといってよいと思います.本日皆さんにお話しするテーマは,現代イタリアにおける若者の価値観やライフスタイルという内容ですが,じつはこの課題は,驚くべきことに社会学理論においては防災研究と密接に関係しているのです.


 この7,8年間,私はファッションというひとつの文化的な集合現象を研究対象としてきましたが,その現象は,いうまでもなく社会文化的な価値観や人びとのライフスタイルと分かちがたく結びついていますし,またその意味でファッションは,社会文化のあり方を再編ないし変革していく社会的力を秘めています.災害や戦争がドラスティックに社会を再編していくのに対して,ファッションによる社会変動は非常に緩やかなスピードとテンポで,目に見えないような形で非常に緩やかに社会や文化を変えていくことになります.災害のドラスティックな様相とファッションによる文化変動は,テンポや速度といった点で違いこそあれ,両者とも人間を媒介にして私たちが生きている環境そのものを変えていくという点では同じなのです.


 ところで私は,2005年の特別研究期間にイタリアに1年間ほど生活する機会をもち,南はナポリから北はトリノまで,イタリア全国10数箇所の大学で授業をしておりました.まるで車寅次郎のように鞄ひとつの旅がらす,イタリア全土を歩きながら,行商ならず講義や講演会をしつつその日暮しをしておりました.そのおかげで非常に多くの大学生や若者,ファッションや文化一般に関係する人たちと対話する機会をえることができました.本来の目的であったはずの研究はそっちのけでしたが,むしろイタリアにおける若者のライフスタイルや価値観について肌で知る幸運をえたといってもよいでしょう.


 じつは,この講演会では当初,私が現在共同研究をしております「青年期のキャリア形成」について,つまりイタリアの若者の職業や仕事に関するお話をする予定だったのですが,皆さんにお持ちするデータ類が不足していたこともあり,急遽,このようなテーマにさせていただくことになりました.そこでまず本日のテーマでお話をいたします前に,ある国の文化や価値観を語るときに注意しないといけない幾つかの前置きをしたいと思います.といいますのは,実はこのライフスタイルとか価値観というものを議論するときに,社会学では非常にある意味で危険な領域というか,一般化して議論してしまうことの危険性というのが古くから指摘されているからです.


 そのひとつは,「ステレオタイプ」の問題です.例えば,イタリアという1つの国民や国家,もしくはなんらかの政治的な単位をもって,そこに見られる特定の人生のスタイルであるとか生活様式といったものや,特定の価値観とか「国民性」というものを抽出するということは,非常に難しい作業ですし,純粋に理論的にいって不可能に近いと思います.しかも国民性研究の歴史,たとえば第二次世界大戦期のアメリカを中心とする文化人類学による敵国研究にみられますとおり,国民性研究には特定の人種や民族,国民の知性や行動様式を短絡的に一般化してしまうようなステレオタイプ化の危険性も孕んでおります.イタリアという国家もしくは国民のライフスタイルとか,価値観というものを一般化していくときに,仮にステレオタイプ的な要素が意識しないまでもすべりこんできますと,例えば西洋人が東洋人やアジア人に対して行ってきたオリエンタリズムというような問題と同じよう形で議論が進んでしまう危険性があります.また皆さんご承知のとおり,とりわけ昨今のグローバリゼーションの波のなかで移民の問題を議論していくとき,このステレオタイプが引き起こす「差別と偏見」の問題は,大いに自覚しなければならない課題となっております.イタリアの場合,皆さん覚えていらっしゃると思うのですが,1986年に小学館の『DIME』という雑誌で「バカ世界一の国はどこか」という企画調査のデータが掲載され,イタリアが断トツにトップだったことが引き起こした社会問題が思い起こされます.いうまでもなくその企画調査は学術的にはデタラメで一顧に価しないものですが,問題なのは,その忌々しき調査結果がイタリアのマスメディアで大きく取り上げられ,日本とイタリアの知識人を巻き込んでの大騒ぎとなったということにあります.イタリア人に対するステレオタイプ的な偏見,逆にイタリア人が持つ日本人に対する偏見が,いみじくもその事件をつうじて激突することとなってしまったのです.私たち日本人が,イタリアといえばアモーレ,カンターレ,マンジャーレというふうに,たった3つの言葉で表現してしまう恐さが,良い意味でも悪い意味でもそこにはあります.ステレオタイプというのは,自分と他者,自分と異なる人や存在を,簡単に定義してしまうきわめて効果的な方法のひとつといえるでしょう.自分たちの社会がつくりあげた杓子定規なイメージやレッテル貼り付けることによって,いちいち細かいことを考えなくても他者を理解しているような気分を味わうことができます.ある意味で非常に便利かつ簡単な道具といってよいでしょう.じっさい私たちはそれを使って相手を判断したり,自分たち自身に向けられたステレオタイプをわざとパロディ化して自虐的に使ったりすることによって,イメージの世界をつくりあげてしまっている部分も少なくありません.自分たちと異なる文化や人たちと出会う機会が増大しつづけ,時代変化のスピードが急速化していくグローバルなかで,ステレオタイプの問題は,自己と他者,仲間とよそ者との関係を考えていくときに最大限の注意を払わないといけないといえましょう.イタリア人は陽気で怠け者,という表現ほど恐ろしいものはありません.


 このことと関連して,2つめの前置きとして,イタリア人とは何か,イタリアとは何か,ということを考えるときに,グローバル時代の流れのなかで揺らぐアイデンティティの問題がでてきます.今日,文化の多元性といいますか,多元的文化の時代に私たちは生きているわけですけれども,そのようなさまざまな文化がせめぎあうなかで,しかもあふれかえる情報洪水のなかにあって,私たちが私たちであることの根拠,他者とは異なるまさに自分自身であるという自己証明を模索するとき,自分たちのよってたつ価値観は重要な役割を果たすことになるでしょう.社会における自分の居場所や帰属意識といったものは,自分たちの価値観によって判断される事柄ではないでしょうか.ところが,今日に生きる私たちにとって,私たちの世界を明確に定義づけるような絶対的な価値観や普遍的な文化様式,イデオロギー,理念が大きく揺らいでいることも事実です.誰しもが共感をもち共属しうるような一枚岩的な世界が幻想でしかないということが,ますます多くの人びとに認識されるようになってきました.近年,「液状化社会」[liquid society]とか「断片化された社会」 [fragmented society]といわれる状況は,私たちの社会が無数の文化からなる複雑でダイナミックな世界であることを如実に示しています.


 ここでイタリアの場合を考えてみますと,イタリア人の「イタリア性」と「コスモポリタン的性格」というものが無視できなくなってきます.イタリア人の「イタリア性」というのは,本質的に存在するのではなく,社会的に構築されるもの,つまりイタリア人という存在が本源的にあるのではなく,ひとは社会的営みや文化的経験をつうじてはじめてイタリア人になる,という考え方です.日常的な生活経験を日々繰りかえすなかで,「イタリア人」という集合的イメージが形成され,またそのプロセスをつうじて「イタリア人」というイメージはダイナミックに変容していくといってよいでしょう,つまり,あらゆる時代に共通するような絶対普遍的なイメージというものは原理的にはありえないものであって,なんらかの固定的イメージが認められる場合でも,それはあくまで日々の日常経験をとおして維持され続ける限りにおいてはじめて観察されるものといえます.その意味で,遠大な歴史的文脈において摘出されるイタリア人の固定的イメージのひとつに「コスモポリタン的性格」というものが地中海文明論においてしばしば指摘されておりますが,そのような性格は,今日のイタリアにおいてもなんらかの経験をつうじて不断に維持されているが故のことではないでしょうか.オーストラリアやアメリカ,ベネズエラ,アルゼンチン,ブラジル等に移住していったイタリア人を含め,現在海外に居住する人口が国内人口の約2倍もいるとされるイタリア人は,やはり特異なアイデンティティを形成しているのかも知れません.


 ここで,イタリア人のアイデンティティについて「ユーロバロメータ」(2001年のデータで少し古いのですが)という調査から幾つかの特徴をみることができます.そのなかでグローバル時代において自分を自国民として意識するかコスモポリタンとして強く意識するかという点で,イタリア人は自身をコスモポリタンと認識する度合いが非常に強いことがわかります.これまでもよく言われてきたことですが,イタリアではまず家族という親族的な絆,そしてコムーネを中心とする地域社会の連帯的な絆に強いアイデンティティ意識をもちながら,その次は一挙に世界に飛んでいくという特徴的なパターンが,そこでは垣間見ることができます.イタリア人であるまえにミラネーゼであり,ロマーノであるわけです.このことを逆に言えば,国家という概念に対するアイデンティティの結びつきが相対的に弱い,といってもよいのかも知れません.このことは,自分を欧州人か自国民かのどちらにアイデンティティを強く感じるか,という質問への回答にもあらわれていて,イタリアの場合,自身を欧州人であるとする割合がEU主要6カ国の中で一番多いことがわかります.


 またさらに,各国の若者にグローバリゼーションの意味を問うたデータをみると,グローバル化の影響で安い商品が手に入りやすくなる,と回答した者の割合でイタリアは第一位となっています,しかしこのように,グローバル化によって安い商品が入るという点を好意的にとらえる若者がいる一方で,それとは逆に,周知のとおりイタリアはグローバル化に対抗するアンチ・グローバル派が多いことでも知られ,その抗議行動に多くの若者が強い力を与えている現実もあります.グローバル市場経済が中小企業を中心とする国内生産体制と地場産業の衰退の元凶とされ,また若者の高い失業率に対する危機意識も非常に根深い問題だが,そこにはローカル化に対するもっと複雑な文化的問題も含まれていることに注意を払う必要があります.もともとグローバル化はローカル化と両輪をなして同時進行していく,つまりグローバル化が進めば進むほどローカル化も進むことから,当然文化の多様性が広まれば広まるほど,自国文化や伝統文化に対する認識が強まる傾向が一般にみられることになります.グローバルな多元的文化状況とローカル文化の尊重が同じ方向性を示すことからも明らかなように,「グローカル」化は本来アンビバレントな対抗図式では語りえない性質をもっています.


 ところで,国際比較による調査統計データというのは,一般に国別のマクロデータとして示されるのですが,ISTAT(政府統計局)など州・県別にクロス集計表が必ず添付されることになっていることからもわかるとおり,とくにイタリアの場合,国単位で集約されたデータではなく,地域別の詳細データがいっそう重要な情報となります.それだけイタリアの場合,地域ごとに人びとの世論,意識,文化的価値観,行動様式が異なるということが想定されているわけですが,そのことは言い換えるなら,先にも述べましたように,イタリアでは国民という単位で纏め上げられる国家という概念が脆弱であることを証左するものともいえるかも知れません.ちなみに皆さんお手持ちの資料にありますように,私自身かつて,『イタリア:騒々しい社会が問うもの』という文章を書いたことがあります.じつはこのような論考は,これまでお話ししてきましたことからも,イタリア社会の在り様を一枚岩的に語るという危険を冒しています.ある社会や国の類型化はステレオタイプに転化してしまう危険性を孕んでおりますので,このような文章を書くときは,やはり細心の注意を払う必要があると思います.


 以上のような前置きを踏まえ,今回の演題「現代イタリアにおける若者の…」について考えますと,そこには三重の限定化がなされていることがおわかりかと思います.つまり,「現代」「イタリア」そして「若者」という限定のもと,価値観やライフスタイルについて語らなければならないわけです.そしてこの三重の限定化は,三重の一般化ともいってよいものです.「現代」という状況,「イタリア」という場,「若者」という集団をひとまとめにして語ってしまうわけです.「現代」性には多様な要素が指摘できますし,先に述べました地域の固有性という点からも「イタリア」性は多元的でありますし,また「若者」といってもそこには多様な集団カテゴリーがあるはずなのです.現代人のライフスタイルや価値観ということがありましょうし,イタリア人全体のライフスタイルや価値観もあるだろう,イタリア人とか現代とは関係なく若者が示すライフスタイルや価値観というものもあるでしょう.したがって,この3つの言葉の重なり合いから今回の講演は,きわめて限定された形でお話ししなければならないことをあらかじめお断りしておきたいと思います.




 イタリアでは,EuriskoやGPFという調査研究機関がライフスタイルに関する大規模な調査を実施しています.通常は国家規模で実施されるような5千から1万サンプルに及ぶ規模の調査を継続的に実施することで,イタリアにおけるライフスタイルのマクロ的な変化を捉える試みといえます.ただこれら調査は,おもにマーケティングを目的とした消費動向調査という性格がありますので,今回は取り上げず別の仕方で議論したいと思います.


 ところで,『Notte Prima degli Esami』(Fausto Brizzi監督, 2005)という映画はご存知でしょうか.試験前夜というタイトルのこの映画は,イタリアで大ヒットしDVDも出ていますが,80年代のローマ市中心部を舞台に繰り広げられる高校生の日常を描いたミュージカルコメディです.そこで描かれているのは,恋愛,学校での問題,先生との関係,両親との確執,といった青春ドラマ定番のシーンのほかに,1980年代という時代にローマのある場所に生きている若者たちが,その場所とつながりながら,その主人公たちの生活が描かれていることです.このような舞台設定は,当時若者であり現在大人になった人びとにノスタルジーや集合的な記憶を鮮明に呼び起こし,強烈なインパクトを与えました.若者のライフスタイルとか価値観というものを取りだそうとするときに,先ほど「現代」のという限定についてお話しましたけれども,そこでは,「時代精神」とか「世代感覚」,「同胞意識」といった,けっして目には見えませんが人びとの間で共有されているある種の心理的かつ感情的な世界を見出すことができます.自分たちの青春時代を映像によって再体験するとき,集合的記憶とかノスタルジーが自己のアイデンティティを再確認し,自分の生き方を振り返る機会もたらすことになります.じっさい人びとの気分や感情に関わる意識を具体的な形で掴み取ることは,ライフスタイルや価値観を掴み取るのと同じく非常に難しいことですが,なんらかの「集合的記憶」を商品化へと結びつけるマーケティング手法は,今日ではもはや使い古された手法とすらいえるでしょう.いずれにしましても,個人の記憶が集合的な記憶として人びとを結びつけていくプロセスは,まさにミクロな現象とマクロな現象とをリンクさせるという点で社会学的に大変興味深い考察対象となるのですが,歴史的経験や社会文化的な背景のなかで世代的な経験が醸成されることを考えるなら,社会変動のテンポが急速化すればするほど,集合的に経験される世界がそれだけ流動的になり,一枚岩でないより細分化された集合的記憶が多数生み出されることになるでしょう.現代の若者たちが,30年40年前に若者であった人びとと比較して,誰しもが共有できるような一枚岩的な世代感覚をもちにくくなっているのは,そのような理由によるものと考えられなくもありません.まさにこの点こそ,文化の多元化と価値観の多様化を意味しているといえましょう.


 わたしたちは,人生の流れのなかでいろいろな体験や経験をしながら自分を作っていくわけですから,それがどのように作られているのかを見ていくことは,とても重要なことといえます.例えばイタリアの中学生はどんなんだろうか,と想像したります.ここにOECDのデータですけれども,15歳の生徒の学校に対する感じ方を尋ねた質問があります.イタリアと日本のデータのみで比較しても興味深い点がいくつか指摘できます.自分は「学校でよそ者だと感じる」とする生徒の割合が,僅差とはいえイタリアの方が日本より1ポイント高く,逆に「ぎごちない,場違いだと感じる」という点では,日本がイタリアよりもかなり多い.また「学校で自分が孤独だと感じる」生徒の割合は,なんとイタリアの方が日本よりかなり高いのです.イタリアの15歳の少年・少女たちが,日本人生徒より学校で孤独だと感じている割合が高いという結果は,わたしたちの先入観を裏切るものではないでしょうか.またここには別のデータとして,「1日の平均的な自由時間」というものがありますが,イタリア人全体の年齢層毎の自由時間ですけれども,日本と比較してもほとんど同じなのです.この結果も多くの日本人にとっては予想外ではないでしょうか.余暇活動や自由時間に関する調査からライフスタイルを推定する研究も多いのですが,じつは学校や職場にいる時間より余暇時間はずっと少ないわけです.ですので,ライフスタイルや価値観を考えていくとき,余暇時間に費やされる消費行動であるとか文化的活動だけでなく,家庭や学校・職場での経験を含めた生活状況全般に目を向けざるをえません.


 皆さんはイタリアのことをとてもよくご存知ですのであえて指摘するまでもないのですが,少子高齢化というマクロ的トレンドは,日本とイタリアで酷似しています.成人未婚者による親同居,いわゆるパラサイトシングルの比率,家族による親の扶養・介護の社会意識なども,日本とイタリアで似た傾向が統計データで示されています,それは結果的に似ているだけなのかもしれません.逆に,両国に共通するなんらかの社会構造的な要因が隠されているかもしれません.いずれにしてもたんに統計データの類似性から,イタリアと日本の類似性を即断することはできません.ちなみに,若者が成人年齢後も親元を離れず,親の経済力に依存しながら経済的に恵まれた生活環境に固執する生き方といったパラサイトシングルの状況は,日本とイタリアとで統計数値上,確かに似ている側面はあるのですが,その要因を探っていったときに,両国の間には若者の経済力や就業している場合の就業場所,収入をどのように選好支出するかといった消費パターン,親元や地域との絆の強度や内容などにみられる差異を無視することはできなくなります.たんに家計経済モデルだけでなく,若者のライフスタイルや価値観といった社会文化的な要因を見つけていかなければ理解できないわけです.余談になりますが,昨日ローマの病院に設置されている「赤ちゃんポスト」に赤ちゃんが1人投げ込まれたということで日本でも大変な話題になっておりますが,乳幼児を遺棄する社会制度は,宗教的要因,歴史的要因(慣習,風習),法的要因(人工妊娠中絶法,関連法規),文化的要因(世論,教育,倫理・道徳,規範,価値観),経済社会的要因(ライフスタイル,働き方)などによる複雑な相互作用プロセスのなかでその実効性が評価されることになりましょう.その意味で,社会問題に対して対症療法的な緊急性がたとえあるとしても,その制度の実効性とは直接結びつかないといえます.そのことは,イタリアと日本の少子高齢化問題についても当てはまるでしょう.合計特殊出生率の低下を上昇させる政策は,社会文化的な要因によって当然異なってくるわけですから,フランス方式とか北欧方式を無邪気に導入して大きな期待はえられません.


 ここに経済活動人口率に関するデータがあります.これをよく見ますと,例えば女性の20歳~24歳カテゴリーで,日本女性の比率は68.9%に対してイタリアの場合は45.3%です.この大きな違いは,経済活動人口の中に学生が含まれていないことによるのですが,若年失業率の高いイタリアでは学生としてのモラトリアム期間が日本より長期にわたる傾向がうかがえます.他方,40歳以降の年齢層でみると,イタリアの場合はおおむね60%を安定維持するのに対し,日本女性の場合は,皆さんご存知のように,出産・子育て・復職のライフイベントのパターンや家計状況などから40歳以降も経済活動人口比率の浮き沈みみられることになります.また学歴と所得というようなデータ(Censis)も非常に特徴的で,イタリアでは高卒収入を100とした場合,中卒者は高卒者と比べ半分程度の収入しかないけれども,逆に高卒と大卒の所得格差は他国よりかなり低くなっている.イタリアほど中卒と高卒に差がある国はないし,高卒と大卒にほとんど差がない国もないという特異な所得配分となっています.イタリアの若者が経験する社会的現実の一端がうかがえるわけですが,さらに面白いデータがあります.それは「雇用上の安心感」というものについてイタリアよりも日本の方が低い値になっていることです.高い失業率を耳にする日本人からすれば,イタリア人は雇用について高い不安があるだろうと思われがちですが,今の日本人の方が不安に感じている,いいかえるならより心配性ということになります.というのも,かりに解雇されたときの再就職のチャンスについては,イタリアも日本と同じ程度に悲観的な見通しをもっているからです.



 ここにお示ししているのは3千人規模のサンプリング調査の結果ですが,15歳から35歳までの若者を対象に,彼らの日常生活でとくに重視している活動内容について集計したものです.特徴的なのは,政治的活動や宗教奉仕,社会奉仕,スポーツ,組合活動,勉学など連帯[solidariet?]ないし社会性に志向する活動より,家族や友達,仕事,恋人,健康維持といった個人的かつ私的,享楽的な活動への志向が強いことがわかります.これは一例でしかないのですが,多くの調査機関が,今日の日本もそうなのですが,イタリアの若者の価値嗜好性が非常に私的な領域,個人主義的な方向へと移行している点を指摘しています.また別のデータとして,「自分はどういう人生行路をたどるか?」という見通しについては,年齢別にみると,長期的視野に立って計画的な人生を送りたいという人は年齢層が高いほど増加する傾向がみられます.いわゆるギャンブル的ないしゲーム的な人生は,年齢を重ねるにつれて減っていくことになります.ここで面白いデータがあるのですが,それは,「人生の進路を決定するのは難しい」と回答している人が高齢になるほど増えている点です.普通の考えですと,年齢が高くなるにつれて次第に自分の将来が見えてきて,人生行路への予測を立てやすくなると思われがちなのですが,それとは逆の結果がここでは示されています.おそらくイタリアの高齢者の抱える問題が,彼らに将来の人生に対して不透明感を与えている,といえるのかも知れません.


 ここにお示ししておりますグラフは,ある調査にあらわれたイタリア人の人生における価値志向に関するものです.大きくわけて3つのカテゴリーに分類できるのですが,その一つ目は,「自己実現」への志向性をもったカテゴリーで,そのカテゴリーに属する典型的な人物像は,女性・20歳以上・高卒以上で階層クラスは中・上層,言い換えるなら家族からなんらかの支援を受けやすい環境にいる人びとといえるでしょう.2つ目のカテゴリーは,「快楽主義的」な志向性,人生を楽しみ快適に暮らしたいと考える人びとで,おもに女性よりも男性,年齢24歳以下,教育程度は比較的低く学生とか職工に多くみられるタイプとなっています.最後のカテゴリーは,「伝統主義的」な志向性を示すグループといえるもので,勤勉実直,家庭重視,愛情というものを重視するタイプです.このタイプの典型は,女性,25歳以上,学歴高卒以上,家族的支援の受けにくい職工,事務職の人たちが多く含まれています.いずれにしても,ここで興味深いのは,ひとくちに若者といっても,彼らのライフスタイルにはさまざまなタイプがあり,十把ひとからげにはいえないということでしょうか.同じ調査からついでに職業に対する価値観(職業観)に関する意識をひとつだけ取りあげてみますと,職業評価は「業績主義」であるべきか,つまり仕事をこなすひとほど高い収入や評価が与えられるべきか,逆に「連帯主義」であるべきか,つまり労働組合活動などに典型的にみられるように他者協調型の評価であるべきか,という点について,学歴が高くなるほど連帯主義より業績主義を志向する結果が示されています.かつてベルルスコーニ政権が組合主義を時代錯誤として徹底的に批判していましたが,現代のイタリアの若者にも個人主義的態度が強まっているためか,業績主義を評価する若者が増えていることは,あながち間違いではなさそうです.


 ここで個人主義的態度という言葉がでてきましたので,「自己責任」といわれる時代の価値観について一言つけ加えておきたいと思います.これはCensisのデータですが,テレビゲームが子供の発育に有害であるとした場合,その責任は誰に帰属するか,という問いです.このグラフをみるとわかるとおり,商品の危険性に対してとるべき責任主体として挙げられたのは,第一位が「生産者」,第二位が「親」,第三位が「行政」となっています.日本でも近年,商品の危険性や事故に対する企業責任を問う姿勢がますます強くなってきていますが,たとえば騒音・排気ガス等の問題に絡む自動車やオートバイ,携帯電話の電磁波被害,ここにあるようなテレビゲームの子どもへの影響など,疑わしき危険性に対して企業責任より消費者ないしユーザー自身の自覚的注意に責任が負わされる傾向があります.メーカーに対する批判的姿勢は他の先進諸国と比較して弱いってよいでしょう.しかし,このイタリアの事例で注目すべき点は,年齢別にみたときに25歳以下の若い世代ではユーザーに自己責任を求める比率が高くなっていることです.自己責任を重視する世代の考え方と個人主義的態度とが何らかの関係にあると仮定するなら,若者のライフスタイルや価値観を探求していくときに,この自己責任という問題は,大変興味深い論点をもたらすことになるでしょう.



 先ほどの調査に戻りまして「将来への不安」についてみてみましょう.というのも,不安というものが,個人の価値観や信念の内容になんらかの影響を与えることが考えられるからです.この調査結果をみますと,高学歴者ほど「不安定な仕事しかみつからない」店に不安を抱いていることがわかります.逆に,「失業状態の継続」という不安については低学歴者ほど比率が高くなっています.また「学歴に見合う仕事が見つからない」という点では,教育課程と職種とが比較的一致しやすい職業訓練学校卒の人ほど不安感が低いという傾向が読み取れるでしょう.つまり,若者が抱える職業生活上の不安と一口にいっても,その内容にまで踏み込んでみるなら,学歴ひとつによっても大きく異なることがわかりますので,若者全体を一般化して議論することはできないことになります.「稼ぐためにはどのようなことをするか」という質問に対しては,「時間外労働」「節約」「第二の仕事」の純で回答が多くなっています(複数回答).「働かないイタリア人」というイメージとはうらはらに,若い世代では時間外労働に躊躇せず,キャリア形成を積極的に図っていこうとする姿勢が感じられます.業種によっては,いまだ社会的に営業時間や労働時間が制約されている場合もあるのですが,近年の組合活動の環境変化や顧客サービス優先の経営方針の転換などもあり,日曜営業も増えてきているとおり,次第にそのような社会的制約も緩くなってきています.また興味深いのは,「海外転出する」より「闇労働をする」の回答数の方がかなり多いという点です.私の個人的な体験からいっても,海外に転出したいができないという人はかなりいます.すでにお話ししましたようにイタリアは,とりわけ家族や地域との絆が非常に強いという特徴を示していることを考えますと,海外転出することは容易でないのかも知れません.イタリア人学生たちが親元から離れにくいことはよく知られています.大学間での単位互換留学制度によって,今の学生たちは以前とは比較にならないくらい自由に海外留学する機会が与えられているのですが,それでもイタリア人学生たちが選ぶ留学先としてもっとも多いのはスペインで,それはたんに言語や習慣といった文化的な親しみやすさだけでなく,地理的に近いということもあるようです.


 ここでさらに別の調査結果をみてみましょう.この調査はサンプル数小規模ですので統計的に妥当な判断はしにくいのですが,若者の価値観を構成する要素を図式化したものとしてある程度の参考にはなろうかと思います.この図では,イタリア各都市(ミラノ,ローマ,ナポリ,バーリ)の若者たちが日常生活において重視している要素が得点化され,その分布がマッピングされています.この図をみますと,まずいくつかの要素が比較的近い場所に集中しているのがわかります.つまり,「文化」「仕事」「友人・恋人」「家族」「気晴らし」といった要素は,相互に似た性質をもっていることを示しています.この図の縦軸は,それぞれ要素が示す性質が内向的か外向的か,また横軸は個人的か集団的かを意味していますので,上の5つの要素の集まっている位置から,価値観として私的な領域が重視されていることが読み取れます.先ほど連帯主義より個人主義という傾向について触れましたが,ある意味でこの調査結果でも社会的な領域より個人的,個人主義的な領域の方が重視されていることが確認されます.じっさい,「政治」や「宗教」という要素は,内面的かつ個人的な領域から非常に離れた領域に位置づけられています.今日のイタリアの若者イメージが,60年代末の学園紛争当時の若者像とはかなり異なることを惹起させるものとして大変興味深いといえます.ちなみに,彼らにとって「スポーツ」が日本でイメージされるような集団協調性という性格より,身体鍛錬とかエクササイズといった個人主義的な意味合いが強い点も面白いと思います.


 ではこの講演の最後に,現代のイタリアの若者たちが自分のライフスタイルをどのように評価しているのかについて少しお話させていただき,締めくくりたいと思います.


 先ほどご紹介した調査ではライフスタイル評価という点についても調べています.自己のライフスタイルを「刺激的」「普通」「穏やか」の3つのカテゴリーに区分してみると,若者らしく「刺激的」ないし「普通」が大半を占めています.この点では都市間や性別間の差もあまりみられません.そこでライフスタイルの特徴をとらえる感情的要素をいくつかの象徴的な言葉から取り出してみたのが次の表です.個人の属性に関わらず共通して多く指摘された項目は,「セックス」「恋愛」「音楽」でした.自らのライフスタイルを振り返った場合,これら項目が何らかの感情的要素の供給源として際立っており,「快楽主義」的色彩が強く顕れているといってよいのかも知れません.


 これまでの議論では,文化の多元化と画一化をこれまでになく経験している今日のグローカル時代において,国民国家や民族,年齢層,性別,社会的地位(職業的,経済的地位)といった社会的カテゴリーに固有のライフスタイルを一律に摘出することは難しいどころか,むしろ危険性すらあることをお話ししました.そのような前提を踏まえながら,現代イタリアの若者が示すライフスタイルや価値観の諸相のいくつかをみてまいりました.「現代」「イタリア」「若者」という3つの軸が交差する中心点において,なんらかの特徴を掴み取ろうとしてきたといってよいでしょう.ここでご紹介したライフスタイルや価値観の片鱗が現代日本の若者のそれとどのような共通項ないし相違点が見出されるのか,また「イタリア的」という言葉がもつ色彩豊かな多様性がどのように変化していくのか,を検討していくことは,わたしたち日本人にとって「日本的」という特質を立ち戻って明らかにしていくためにも,多くの知見を提供してくれるにちがいありません.


 ご清聴誠にありがとうございました.



 ***********************(質疑応答)**************************


司会  土屋先生,どうもありがとうございました.大変美しいスライドをたくさん使って,わかりやすくお話していただきました.少し質問を受けてもよろしいでしょうか.どなたかご質問はございますか.


 


質問  どうもありがとうございました.最後のまとめの表ですけど,アモーレ,カンターレというのがあったと思うのですが,マンジャーレが抜けたと思うのですが,これについてはどういうふうにお考えですか.


 


土屋  データがありませんので私の個人的経験から申しますと,10年ほど前より浸透してきたアグリツーリズモの動向を見ますと,イタリアでの食へのこだわりとかグローバル化への思想的ないし理念的な反発といったものをあらためて強く感じられます.いまイタリアでは「批判的消費者」ということが盛んに議論されているのですが,フェアトレード運動も含めて,日本よりかなり社会的正義に対する意識は強いようにみうけられます.


 


質問  とても興味深い話をありがとうございました.2つお伺いしたいのですが,大学などの留学制度エラスムスで,イタリア人は圧倒的にスペインに行っているのですが,なぜスペインなのでしょうか.もう1つは,最後の表でセックスや恋愛,音楽への志向性が,ミラノとナポリでは大きく違いがでているのですが,ポイントでいいますとセックスについてミラノ65:ナポリ34,恋愛ではミラノ70:ナポリ40,音楽はミラノ67:ナポリ22となっています.ナポリには歌劇場やナポリ民謡もあって,普通はイタリアでも感情や恋愛的要素がむしろ強いと思われるのですが,なぜか数値的にはどれも非常に低い.その理由を教えていただけますでしょうか.


 


土屋  どうもありがとうございます.1つ目のご質問なのですが,これにつきましても個人的な意見でお答えせざるをえないのですが,学生をはじめとする若者を除くイタリア人一般にとって外国語の重要度はあまり高いとはいえないと思います.ただエラスムスの場合は大学生ですので,当然英語を上達させる意味からもイギリスを留学先にする学生はたくさんいます.ただスペインと比較するならやはり量的規模は劣ると思います.現行の新カリキュラム制度では文系学部では3年課程で卒業することになりますので,学生にとっては手際よく卒業単位を取得していく必要から留学するにしても半期(セメスター)のみの場合が圧倒的に多いのが現状です.スペインは地理的にも近いため,休暇に帰省することが容易ですし,また言語や生活習慣など文化的な環境も相対的に近いということもあり,留学生活を送るのがより容易であること,逆にいえば留学にともなう生活上のコストが低いことなどが,おもな理由として挙げられるでしょう.


 また2つ目のご質問ですが,詳しくは私にもわからないのですが,考えられるのは調査方法の適切性にあるのかも知れません.たとえば,回答者が建前と本音を使い分けていて正確に回答していない場合など,社会調査ではコントロールすべき方法論的な問題がありえます.ただ,そのあたりのことは調査者でない私には事情がつかめず,お答えする資格がないのが残念です.


 


質問  ありがとうございました.私の仮説なのですが,ライフスタイルというのは,このままいきますと,たぶん1つに収斂するのではないかという気がいたします.日本もイタリアも,アメリカも,全世界において,国の発展過程が進むにつれて発展途上国から中開発国,そして先進国へと,だいたい同じようなライフスタイルを求めてくるのではないかという気がいたします.最終的にはアメリカ的なものに,どこの国もだんだんだんだん無意識のうちに近づいてくるのではないかと.例えば今のイタリアの20代の若者と,日本の20代の若者を比べた場合に,ライフスタイルと価値観にそんなに大きな違いがなくなってきているのではないかと思えます.むしろ,同じイタリア人でありながら,20代と30代,30代と40代,あるいは20代と50代の,といった世代間ギャップの方がずっと大きいと思うのですが,どのようにお考えでしょうか.


 


土屋  ライフスタイルや価値観のあり方は,どの程度のタイムスパンで捉えるかによって変わってくると思いますが,非常に長期的なスパンで見れば,おっしゃられますようにライフスタイルの均質的傾向を認めることができると思います.それは,ライフスタイルを構成するさまざまな要素のうち,グローバル化によって普及し共有化されるような要素が増加していくことによるのですが,逆に,グローバル化は文化の多様性も同時に拡大していく性質をもっておりますので,異なるライフスタイルが並存する度合いも強まっていくことになります.つまり,ライフスタイルは均質化と多様化という相反するモーメントを同時進行させるといってよいでしょう.そのため,ライフスタイルや社会的価値観の分析を進めていくうえでは,それらを構成している諸要素の構造を見極めておく必要があります.ライフスタイルにも価値観にも表層的な部分と深層的な部分があり,両部分は連続したスペクトルのように配置されていると想定されますが,それら構成要素がある一定の位階構造をなしている仮説にたちますと,いわゆるスーパーで商品を選ぶように,いろいろなライフスタイルの要素を適宜取捨選択しながら,まず表層的部分での均質化と多様化が進行し,次第に基底部分へと浸透していく,というイメージでお考えになるとよろしいかと思います.このようなプロセスを超長期的なスパンで見た場合,均質的な要素と異質で多様性に富む要素とを,個人のライフスタイルにおいてどのように調整していくのかが,大きな課題となるでしょう.大変興味深い点についてのご指摘,どうもありがとうございました.



質問  確かに紹介されたデータからも,伝統的な価値観と新しいそれとの両面を若者が複合的に示しているという相反傾向があったように思います.本当のところはどうなのかという点は,僕自身も多少疑問に思ったのですが,やはり単純に決定できない問題を含んでいるようです.


 


土屋  ライフスタイルの画一化と多様化というダイナミックな社会現象は,そのような現象を許容する自由度が高い社会ほど顕著にみられることになります.多元的な文化,相互の異質性を認めつつ,より広がりのある社会的価値観を共有していこうとする「共生社会」への理念は,今日ますますその意義を高めています.その意味でも,現代のイタリア社会にみいだされる多様なライフスタイル・価値観をもう一度振り返って考えてみることは,同じ共生社会を生きようとする私たち日本人にとってとても大切なことだと考えています.


 


司会  どうもありがとうございました.