第323回 イタリア研究会 2007-03-23
青年ミケランジェロの見たヴェネツィア
報告者: 石井 元章
第323回イタリア研究会(2007年3月23日 東京文化会館会議室)
演題:青年ミケランジェロの見たヴェネツィア
講師:石井 元章
司会 第323回の例会にようこそおいでくださいました。イタリア研究会事務局の橋都です。今日は、石井元章先生に「青年ミケランジェロの見たヴェネツィア」という演題でお話をしていただきます。
それでは、石井元章先生を簡単にご紹介したいと思います。石井先生は1957年、群馬県に生まれ、最初東京大学の法学部を卒業され、サラリーマン生活も経験されました。その後、文学部に学士入学、イタリア語イタリア文学科を卒業されました。大学院では西洋美術史を専攻、イタリアに留学されて、フィレンツェ大学、ヴェネツィア大学とピサ高等師範学校大学院に籍を置き、1997年に東京大学から、2001年にはピサ高等師範学校大学院から共に文学博士の学位を与えられたという、大変な秀才であります。
専攻は、イタリア・ルネサンス美術、および19世紀の日伊文化交流で、主著には1999年刊行の『ヴェネツィアと日本-美術をめぐる交流』があり、マルコ・ポーロ賞、および地中海学会へレンド賞を受賞されております。この本は、明治初期にヴェネツィアに留学した日本の彫刻家、長沼守敬に関する研究や、1897年のヴェネツィア・ビエンナーレに日本美術が参加した経緯などを明らかにしています。そのほかにたくさん著書や訳書がございます。私が最初に石井先生にお会いしたのは、フィレンツェでのデル・ビアンコ財団のパーティでした。その後、何年ぶりかで先日お会いしたときに、イタリア研究会で話をしていただきたいと申し上げたところ、ご快諾いただきました。
石井 本日は「青年ミケランジェロの見たヴェネツィア」と題して、青年彫刻家がヴェネツィアを訪れた際に見たと考えられる15世紀末のヴェネツィア彫刻とその後のミケランジェロ作品との関係について、いくつかの考察を加えてみたいと考えます。イタリアに旅行されるとミケランジェロの作品は主にヴァチカンとフィレンツェで目にするので、北イタリア、それもヴェネツィアとミケランジェロとの関係というと不思議に思われるかもしれません。しかし、史料の指摘が造形的裏付けを得ることが本日はお分かり戴けると思います。
1.ミケランジェロのヴェネツィア訪問
まず、歴史的な背景を押さえておきましょう。
11世紀以来ノルマン人の進出を受け、ナポリ・シチリア王国として統一されていたナポリは、ローマ教皇の画策により1266年からフランス、アンジュー伯の支配下にありましたが、1441年アンジュー家に代わってスペインのアラゴン家がこれを支配するようになります。
一方フィレンツェでは、1492年メディチ家のロレンツォ豪華王が死ぬと混乱が訪れます。ドメニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラはサン・マルコ修道院で説教を開始し、ミケランジェロはその熱弁に心酔しました。この機会にフランス国王シャルル8世は血縁関係にあるアンジュー家の王位継承を主張して1494年アルプスを越え、ナポリへの旅の途中にフィレンツェを攻囲します。
英雄的な面を持つと同時に臆病でもあったミケランジェロは、事態の悪化を恐れてフィレンツェから逃亡し、ヴェネツィア共和国へと向かいました。ヴァザーリ『芸術家列伝』白水社(p.222)によると
メディチ家がフィレンツェを追放されるということになったが、ミケランジェロは既にその2,3週間前にボローニャ、そしてそれからヴェネツィアに行っていた。
この頃のミケランジェロは死去したロレンツォ豪華王の寵愛を受けた天才少年ではあっても、著名な《ダヴィデ》もまだ制作していませんでした。彼はフィレンツェ共和国への帰国後、1496年から翌年にかけてローマの貴族ヤコポ・ガッリのために一体の《バッコス》像を制作します。現在フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館に収蔵されるこの大理石像には、逃亡時にミケランジェロがヴェネツィアで見たと考えられる当時の美術作品、特にトゥッリオ・ロンバルドという彫刻家の手になる《アダム》像の思い出が現れていると思われます。後にこの二体の像の対比を行いますが、まずその前に、ミケランジェロの作品ほど知名度が高くないヴェネツィア彫刻について簡単にその展開を追っておきましょう。
2.凱旋門型壁付墓碑の展開
ルネサンス彫刻研究の大家ポープ=ヘネシーはその著書『イタリア彫刻』三部作の中で、「一度ルネサンス様式が勝利を得るや、真の古典復活がなされたのはフィレンツェではなく、ヴェネツィアであった」と述べています。古典様式が生まれたのは確かに15世紀のフィレンツェでしたが、古代彫刻の研究の上に成立したその究極の形は15世紀末から16世紀にかけてのヴェネツィアで、特にトゥッリオとアントニオという二人のロンバルド兄弟を得て初めて成し遂げられたのです。
まず、ヴェネツィアとフィレンツェを結ぶ彫刻の流れを、古代の凱旋門の形を真似た壁付墓碑を例にとってお話しましょう。
時を越えて死者の名誉を伝える目的で建設される墓碑彫刻は、永遠を象徴する大理石という素材に最もなじみやすい領域の一つです。壁に設置されたいわゆる「壁付墓碑」は中世以来さまざまな都市に見られましたが、新たな展開を見せたのはフィレンツェにおいてでした。一時期共同で工房を構えていたドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオ・ミケロッツィ(Michelozzo di Bartolomeo Michelozzi, 1396-1472)は、フィレンツェ洗礼堂の《対立教皇ヨハネ23世記念碑》において古代風の円柱を主要モティーフとした墓碑の型を提示しました。続いてナポリ、サン・タンジェロ・ア・ニーロ聖堂に据えられた《ブランカッチ枢機卿記念碑》やミケロッツォが単独で制作にあたり、モンテプルチャーノ大聖堂旧蔵であった《バルトロメオ・アラガッツィ記念碑》は、古代の「凱旋門」の形を墓碑に導入した画期的な作例といえます。
これに改変を加えたのが、ベルナルド・ロッセッリーノです。1444年から翌年にかけて彼の工房はフィレンツェ、サンタ・クローチェ聖堂に《人文主義者レオナルド・ブルーニの記念碑》を完成させました。1420年代にフィレンツェで流行し始めたフルーティングを施した片蓋柱が囲む空間に石棺を置き、その上に被埋葬者の横たわる棺台を載せています。後方の壁面は3枚の紫色大理石の方形パネルで区切られ、その空間の上部には聖母子の顕現するトンドの脇で二人の天使が祈りを捧げ、アーチ上では二人のプッティが月桂冠に囲まれたブルーニ家の盾を持っています。凱旋門型のアーチを用いることは、古代風の威容に満ちた形態を具えるとともに、勝利者に与えられる月桂冠とも相俟って、「死」に対して勝利し、聖母子の許に赴くという天国への救済プログラムを明確に示しているのです。
この新しい型の墓碑彫刻は、彼の工房で働いていた同郷出身の若き俊英デジデリオ・ダ・セッティニャーノによって、更に洗練を加えられることになります。1458年に完成した《人文主義者カルロ・マルスッピーニ記念碑》は、同じサンタ・クローチェ聖堂内の左側廊、《ブルーニ記念碑》のほぼ正面に位置します。その基本的構造は《ブルーニ記念碑》とほぼ同じですが、アーチ空間の後方は4枚のパネルによって区切られ、片蓋柱の脇には紋章付の盾を持つプッティが2体置かれています。また、アーチ脇には長い花綏を肩で支える、プッティより幾分年長のエフェボ的少年が置かれています。その花綏はアーチ上中央に置かれた壷へと連なり、壷の頂上には魂の昇天を意味する炎が燃えているのです。
しかし何よりも注目したいのはその様式の洗練です。石棺に施された植物文や羽根飾りは、見事な仕上がりを見せ、また聖母や少年は透明感のある薄衣をまとっています。それは実際に作品に近寄らなければ認識しにくいのですが、ここにこそフィレンツェ国民が好んだ優雅で洗練された時代の嗜好が反映されているのであり、それは同時代の絵画、たとえばフィリッポ・リッピの聖母子やボッティチェッリの女性像とも共通するものなのです。
同じくロッセッリーノ工房で活躍したベルナルドの弟アントニオは、夭逝したポルトガル枢機卿のための記念碑をフィレンツェ、サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂に礼拝堂の形式で設計しました(1461~66)。男性的様式の兄のベルナルドよりデジデリオに惹かれていたアントニオは、礼拝堂の入口から向かって右壁に据えられた墓碑を自らの工房で制作し、同時に、天井装飾はデラ・ロッビア工房に、ウッフィーツィ美術館に収蔵される入口正面の祭壇画《聖エウスタキウス、聖ヤコブと聖ウィンケンティウス》はポッライウオーロの工房に委託され、他の工房と共同で制作する方法が取られました。ここには、当時の美術界が持っていた工房という制作形態が、究極の形で現れているといえます。
墓碑は、凱旋門アーチの前に幔幕を巡らした《ブランカッチ枢機卿記念碑》と似た折衷的な形態を取ります。基壇に施された浮彫は、枢機卿の純潔、すなわち童貞を象徴する一角獣ユニコーンと、魂を冥界へと運ぶ二輪馬車を表しています。この墓碑の卓抜した美しさのために、ナポリのアラゴン家からまったく同じ記念碑をサン・タンナ・デイ・ロンバルディ聖堂内ピッコローミニ礼拝堂に作るよう依頼が来るほどでした。
これらのフィレンツェの先例は、ほんの少しの時間差でヴェネト地方へと持ち込まれることになります。それに与って力のあったのが、ピエトロ・ロンバルドとアントニオ・リッツォという二人の外来の彫刻家でした。
ヴェネツィア共和国では国家元首である総督の墓を作るという要請から、壁付墓碑の制作が盛んに行われましたが、人文主義的機知を強調したフィレンツェとは異なり、被埋葬者の持つ公共の美徳、つまり「正義」や「節制」など共和国に資する対神徳・枢要徳を称揚することで総督の業績を称え、その冥福を祈ろうとしました。当初、墓の形式はゴシックの流れを汲み、パドヴァ、イル・サント聖堂の《ラニエーリ・デリ・アルセンディ記念碑》に見られるように重厚な石棺の四隅と正面に小さな庇状の覆いでニッチを設け、そこに聖母子や聖人、美徳の像を配したものでした。もう一つの型は、アントニオ・ブレーニョが手掛けた《総督フランチェスコ・フォスカリ記念碑》のように、幔幕を張ったなかに被埋葬者が横たわるフィレンツェの古い型だったのです。
これに対し、ヴェネト地方にフィレンツェの新しい墓の形である「凱旋門型壁付墓碑」が導入されるのは、ピエトロ・ロンバルドがパドヴァ、イル・サント聖堂に据えた《アントニオ・ロッセッリ記念碑》を待たなければなりません。教皇庁の秘書官を務めたこともあるパドヴァ大学教授アントニオ・ロッセッリが生前に出した墓碑制作の依頼に基づいて、1464年1月パドヴァに居を構えたピエトロ・ロンバルドは、翌年6月から依頼者の家に住み込んで制作を続け、1466年12月のロッセッリの死から4ヶ月後の1467年4月8日、記念碑を完成しました。
被埋葬者ロッセッリはトスカナ地方のアレッツォ出身であったことから、フィレンツェ人文主義者の墓の新しい流れに敏感であったと考えられます。おそらくフィレンツェでベルナルド・ロッセッリーノやデジデリオ・ダ・セッティニャーノの作品を学んだピエトロ・ロンバルドに同様の形式で墓を作ることを依頼したのでしょう。《ロッセッリ記念碑》は、両脇の片蓋柱とその上のアーチによって大きな空間を形成して石棺を置き、その空間の外側に花綏を渡した後、再度片蓋柱とまぐさで全体を囲みます。トスカナの先行作例と比較すると、中央空間の奥が4枚の方形パネルで仕切られていること、アーチのなかに聖母子像が彫られていること、内側の片蓋柱脇に盾持ちのプットが居ることなどの共通点が指摘できます。しかし、《ロッセッリ記念碑》では外側の片蓋柱が原型となった古代の凱旋門を強調するものの、全体的に重苦しい感じがします。いずれにしても、この墓碑はヴェネト地方における最初の凱旋門型壁付墓碑として重要です。
次いで1481年同じくピエトロがヴェネツィア、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に完成した《総督ピエトロ・モチェニーゴ記念碑》は、ヴェネツィア総督の墓に一層ふさわしいものになっています。被埋葬者のピエトロ・モチェニーゴは碑文にもよく述べられているように、オスマン・トルコとの闘いにおいてさまざまな軍功をたてました。基壇の表面に据えられた浮彫パネルのうち2枚には、ヘラクレスの十二神業から向かって左に《ネメアのライオン退治》と右に《水蛇ヒュドラとの闘い》が表されており、そこで総督は英雄ヘラクレスとして、怪物であるオスマン・トルコと戦っていると解釈されます。総督の立像が載る石棺は3人のカリアティドによって支えられ、あたかも総督が凱旋行進を行なうかのような印象を与えています。この3人のカリアティドはいずれも戦士ですが、若者、中年、老年という人生の3つの時期によって代表することにより、70歳まで生きた総督の長寿を象徴していると考えられます。石棺表面には総督の代表的戦功である《カラマニーディ家の王国をトルコから解放する総督》と《キプロスの女王カテリーナ・コルナーロへのキプロス島の鍵の授与》を表す浮彫が嵌め込まれ、その中間に置かれた「敵の戦利品より」と記した碑文は、この記念碑がトルコからの戦利品を換金して作られた事実を誇らしげに語っています。
《アントニオ・ロッセッリ記念碑》を凱旋門型に作ったピエトロ・ロンバルドは、この記念碑でその構成をいっそう発展させました。中央の空間が片蓋柱とアーチで形成されることに変わりはありませんが、その片蓋柱の装飾はフィレンツェ型の綱形装飾つきフルーティングではなく、彼の苗字を取って「ロンバルド風」と呼ばれる植物文です。この空間の周囲には、ニッチのなかに6人の兵士が重層的に配置され、男性的な堅固さを強調しています。しかし、この現世的な意味に対比して、記念碑の上層部には《キリストの墓を訪れる3人のマリア》を表す低浮彫と、《父なる神》の立像が置かれ、被埋葬者の昇天を祈念するプログラムを示しているのです。記念碑頭頂部のアーチは石棺の置かれた中央空間上部のアーチと呼応して、美しい空間を作り出しています。フィレンツェから持ちこまれた洗練された人文主義者の記念墓碑は、《ピエトロ・モチェニーゴ記念碑》において規模を一回り大きくし、堂々たる戦功記念墓碑として生まれ変わったのです。
《ピエトロ・モチェニーゴ記念碑》の完成と前後して、ピエトロ・ロンバルドのライバル、アントニオ・リッツォはヴェネツィア、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に《総督ニコロ・トロン記念碑》を完成しました。第1層には総督の立像を中心に二体の美徳の擬人像《慈愛》と《慎重》がそれぞれニッチのなかに立ち、第2層にはプッティの浮彫と碑文が嵌め込まれ、第3層には月桂冠に囲まれたローマ皇帝のプロフィールと美徳の小像を前面に持つ石棺の上に被埋葬者の総督の像が横たわっています。その上の層には5体のやや大型の美徳像が並び、最上層のアーチ内には《復活のキリスト》、アーチ上には《父なる神》がその半身を覗かせているのがお分かりでしょう。《復活のキリスト》と同じ高さのアーチの脇には《受胎告知をする大天使ガブリエル》と《受胎告知を受ける聖母マリア》が置かれています。側柱も4層に区切られ、最下層は簡単な植物文を施した二重の片蓋柱からなり、その他の層にはニッチのなかに美徳と戦士の像が立っています。
ピエトロ・ロンバルドの男性的な構成と比べると、数多くの美徳の女性擬人像を配したこの墓は幾分柔和な感じがします。また、同じく凱旋門型の外枠を持ってはいるものの、記念碑全体を5層に区切っている横の要素が強いため、凱旋門の片蓋柱が縦に貫くべき力強さを失っているように見えるのも事実です。
ピエトロの二人の息子は父親の工房で助手として働いていましたが、1480年代には一人前の彫刻家として次第に認められるようになり、1488年まず兄のトゥッリオが彼自身の名前で制作依頼を受けます。《総督アンドレア・ヴェンドラミン記念碑》です。当初この墓は1479年から《コッレオーニ騎馬像》制作のためにヴェネツィアを訪れていた、レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠アンドレア・デル・ヴェルロッキオに依頼されましたが、1488年に彼がヴェネツィアで客死したため、紆余曲折の末、若年のトゥッリオに白羽の矢が立ったのです。
サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂に設置されたこの墓は、1806年侵略者ナポレオンによる同聖堂閉鎖に伴い、総督の子孫であるニコロ・ヴェンドラミン・カレルジが解体、現在のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に移しました。その際、良俗に反すると考えられた裸体の《アダム》と現在所在のわからない《エヴァ》、および最上部にあった2体の《盾持ち》が取り外されました。《盾持ち》はベルリン、ボーで美術館に入り、第2次大戦の爆撃で大破した後は、全く展示されていません。
さて、歴史家マリン・サヌードはこの墓碑をほぼ完成した状態で1493年に見たと記しています。引用すると、
セルヴィ聖堂には現在建設中の総督アンドレア・ヴェンドラミンの墓があり、思うにこれはそこに置かれている立派な大理石彫刻のためにこの世で一番美しい墓であろう。
墓の構成は、数枚の浮彫を持つ基壇の上に円柱とアーチで中央空間を設け、そこに7体の《美徳》の像を表面に据えた石棺を置きます。石棺上の棺台にはフィレンツェの先例に倣って総督の横臥像が載せられ、その後には燭台を持つ3人のエフェボ像が立っています。後方は3枚の方形パネルで仕切られ、アーチの内側には《聖母子と諸聖人の前に跪く総督》が浮彫で仕上げられています。また、アーチの斜め上には皇帝のプロフィールを持つメダイヨンが嵌め込まれており、円柱脇のニッチには、現在それぞれ《戦士》像が置かれています。ニッチの上には向かって左側に《デイアネイラを略奪するネッソスとそれをめがけて矢を放つヘラクレス》、右側に《ペルセウスとメデューサ》のメダイヨンがはめ込まれています。それぞれの上には《受胎告知をする大天使ガブリエル》と《受胎告知を受ける聖母》が見え、頭頂部には《祝福する幼子イエス》の立つ花輪を2匹のネレイデが捧げ持つ構成です。基壇中央で2人の天使が掲げる碑文には、総督の功績が長々と刻み込まれています。
注目すべきは、墓のそこここに金箔が施されていることです。これは手の混んだ構成とともに、記念碑の華やかさを増すことに一役買っていますが、それは総督が残した「装飾を凝らして」墓を作れという遺言にまさに基づいているのです。
この記念碑は、ヴェネツィア共和国庫よりも豊かといわれたヴェンドラミン家の財力を結集して完成された、ヴェネト地方壁付墓碑の15世紀における到達点なのです。そして、当時最高の記念碑とされたこの作品を野心に燃えた青年ミケランジェロが見なかったことは考えられません。
3.《アダム》と《バッコス》
《ヴェンドラミン記念碑》に当時置かれていた《アダム》は、その古典主義的様式と青年になりきらないエフェボ・タイプの男性裸像という点で、ミケランジェロの《バッコス》といくつかの共通点を持つように思われます。
第一の共通点は、発達し始めたばかりの初々しい筋肉とそれを包み込む脂肪のない滑らかな肌です。《バッコス》においては、不安定なポーズと酒の神であることによって正当化される下腹部の膨らみが見られますが、エフェボ的要素は明らかに認めることができます。
第二に、顔を包み込むような髪型も共通しています。トゥッリオの《アダム》は当時のヴェネツィアで流行していた髪型を反映していると考えられますが、ミケランジェロの《バッコス》ではこれが葡萄の房に置き換えられています。
第三の共通点はそのポーズにあります。両者はそれぞれ持物を、つまり《アダム》は原罪を象徴する林檎を、《バッコス》は酒盃を片手に捧げ持ち、もう一方の腕は下に伸ばしています。ともに下げた手の側の脚、すなわち《アダム》は右脚、《バッコス》は左脚が支脚となって、コントラポストを形成しています。しかし、《アダム》は両足を同じ平面に載せて安定したポーズを示しており、これは古代ギリシア彫刻においてポリュクレイトスが《ドリュフォロス(槍を担ぐ人)》によって達成した完璧なコントラポストを引き継いでいます。
これに対して、《バッコス》においては遊脚である右脚は岩を模した土台の上に置かれて、支脚とは同一平面上にありません。片足を幾分持ち上げるこの工夫は、些細なことのようですが、後の彫刻史にとって大きな意味を持つことになります。それは螺旋の形成を通じてバロックへの道を準備するからです。
《バッコス》の上体は、遊脚の大腿部と一直線になるほど後傾し、左肩は更に後ろに引かれているためにその姿態は、視点によって見かけ上の安定性を変えます。像に向かって左手前方から眺めると、遊脚の奥に見える支脚に像全体が支えられているように見えるため、その不安定さが減じて感じられるのです。
ただ、《アダム》が典型的なコントラポストと、ニッチに由来する「平面的」構成を持つのに対し、《バッコス》はより複雑なコントラポストと「三次元性」を内包します。なぜなら、《バッコス》は中庭に置かれることを前提としていたため、周囲全体からの視点に耐えうるように彫られているからです。すなわち、酒神の後側から像に近づく我々の視点は、神の左手が持つ葡萄の房に食らい付く子供のファウヌスにまず向けられます。像の周りを時計回りに巡ると、我々の視線は酒神の腹部を経由して最後には右手に捧げ持たれた酒盃と、葡萄の房の髪飾りをつけた頭部へと至ります。つまり、この像は螺旋状に視線を誘導するように作られているのです。その点で、まさに「3次元的な」丸彫り彫刻といえるのです。
表情のうえで別の作品間の影響も指摘できます。《ヴェンドラミン記念碑》の両脇に置かれていた戦士のうち兜を被った像は、眉間に皺を寄せ、被埋葬者を外敵から守っています。これは、ミケランジェロがフィレンツェからの逃亡時、ヴェネツィアからの帰途にボローニャに立ち寄ったときにアルドヴランディの求めに応じてサン・ドメニコ聖堂のために彫った《聖プロクロス》や、有名な《ダヴィデ》に見られる毅然とした顔貌と共通します。
このように、造形的な類似から推測する限り、ミケランジェロは逃亡中に訪れたヴェネツィアで、当代随一の彫刻家と謳われたトゥッリオ・ロンバルドの作品から影響を受け、それを消化した上で、自らの作品に独自の形で反映したと考えられるのです。
さて、トゥッリオの《アダム》に影響を受けたミケランジェロが次に作り上げた有名な《ダヴィデ》は、興味深いことに、今度はトゥッリオの弟アントニオの作品に影響を与えたと考えられます。
4.《ダヴィデ》と《アテナの誕生》
アントニオ・ロンバルドは1506年フェルラーラのアルフォンソ1世の宮廷にお抱え彫刻家として招聘されます。この時期の確実な、そして最も美しい作品が、主君アルフォンソ1世の「大理石の間」のために制作され、現在いくつかの美術館に分蔵される浮彫群です。このうちサンクト・ペテルスブルクのエルミタージュ美術館に収蔵される4枚の浮彫はギリシア神話の主題を扱っています。《アテナの誕生》と《エリクトニオスの前でアッティカを巡って議論するアテナとポセイドーン》が特に有名です。
この浮彫群の一枚は1508年の年記を持ちますが、全体の制作年代には議論があり、昨年発表された論文が、《アテナの誕生》の解釈に新たな光を当てました。
この浮彫は以前から、1506年1月14日にローマのブドウ畑で発見された《ラオコーン》を取り入れたルネサンスの初期の作例として研究者の間で議論の的になっていました。浮彫面左で頭から知恵の女神アテナを生み出すゼウスは、《ラオコーン》の死の苦しみを産みの苦しみに代えて身を捩っています。《ラオコーン》の引用例としては、ミケランジェロの《ドーニ家のトンド》に次いで早いと考えていいかと思われます(説明)。アントニオの一連の浮彫のなかには、《ラオコーン》や《ベルヴェデーレのトルソ》などローマやヴェネツィア、フィレンツェなど古代収集趣味の盛んであった国で当時よく知られていた作品の形態が盛り込まれており、それが依頼主であるエステ家のアルフォンソI世の意図によるものであると私も考えていました。《アテナの誕生》では先ほどの《ラオコーン》のほか、ローマ、クイリナーレの丘に置かれていた《ディオスクーロイ》の像や、ヴェネツィア考古学博物館収蔵の《ゼウス》像、そして葡萄を踏んでワイン作りをする人の姿を象る古代石棺の浮彫が援用されていると1997年の論文で私は主張しました。それに対して、ピサ高等師範学校での私の先輩の一人、現在ピサ大学で教鞭を執るヴィンチェンツォ・ファリネッラは、昨年『プロスペッティーヴァ』という学術雑誌に掲載された論文で中央の男神像がミケランジェロの《ダヴィデ》に由来すると指摘しました。
そのきっかけはフィレンツェ、カーザ・ブオナルローティの文書館に残る、これまで等閑視されてきた一通のミケランジェロ宛の手紙です。この手紙は2代のフェルラーラ公に仕えたシジスモンド・トロッティという貴族がミケランジェロに宛てたもので、トロッティが既知の間柄であった友人ミケランジェロに、彼も面識だけはあったアントニオ・ロンバルドを厚遇してくれと頼む1508年8月28日付の紹介状です。トロッティはローマ教皇やフランス国王への使節大使も勤めたフェルラーラ公国の重鎮です。公爵の息子で次期公爵となるアルフォンソ1世がローマから有名なルクレツィア・ボルジアを迎えたときに迎えの使節としてローマに派遣されたのもこのトロッティでした。彼は芸術にも造詣が深く、公爵に自らが所有していたアントニオ・ロンバルドの小大理石像を売却しようとしていたことから公爵も一目置いていたことが伺えます。また、その企てがうまく行かなかったときに公爵の妹で、マントヴァ公フェデリコ・ゴンザーガに嫁いだエステ家のイザベッラに同じ像を売ろうと持ちかけ、イザベッラが断わるときにトロッティを傷つけまいと「作品が面白くない」という正面切った理由ではなく、経済的な理由にかこつけて断わったこともトロッティのフェルラーラ宮廷での重要性を伺わせます。
そのトロッティが問題の手紙の中でミケランジェロに「兄弟にも等しい君に」と呼びかけ、システィナ礼拝堂天井画の制作に忙殺される画家にアントニオ・ロンバルドを「彼がフェルラーラで受けたと同様に」厚遇するよう頼んでいるのです。つまりミケランジェロはこのときまでに既にフェルラーラにも滞在していたと考えられるのです。
それでは、1508年8月にローマを訪れ、ミケランジェロに会ったことはアントニオ・ロンバルドの芸術変遷の上でどのような意味を持ったのでしょうか?一般に芸術家がローマに行くことは古代彫刻の勉強が目的と考えられますが、アントニオ・ロンバルドの場合には、そればかりでなくミケランジェロの新しい芸術をその目で見ることだったとファリネッラは主張します。確かに当時のローマは15世紀後半のシクストゥス4世の時代以来、中世の荒廃を脱却して新しい芸術環境へと生まれ変わりつつあり、それを一層推進したのがシクストゥスと同じデラ・ローヴェレ家出身のユリウス2世だったのです。ユリウスが自分の叔父の建てさせたシスティナ礼拝堂に、ミケランジェロに命じて天井画を描かせ、当時発見された古代彫刻をベルヴェデーレの庭に集めたのがちょうどこの頃です。その「新しいローマ」の展開には芸術家のみならず、ヨーロッパ中の貴顕が耳目をそばだてていたのです。実際、アントニオ・ロンバルドの主君エステ家のアルフォンソ1世は1492年11月に当時、宮廷画家であったエルコレ・デ・ロベルティに付き添われて既にローマを見ていましたが、10年の間に全く生まれ変わったローマを是非見たいと考え、公用でナポリに向かう途中、9月5日から16日までローマに留まったのです。その準備を整えるために派遣されたのがアントニオ・ロンバルドだと考えられます。
それでは、アントニオにとってこのミケランジェロとの邂逅はどういった意味を持ったのでしょうか?先ほども申し上げたようにアルフォンソ1世の「大理石の部屋」のために彫られた浮彫群はその一枚に「アルフォンソほど孤独な人はここにいない」というラテン語碑文と1508年の年記があることから、兄弟同士の殺し合いなど公爵家内の様々な軋轢に疲弊したアルフォンソが孤独の中に芸術を楽しむために1508年にアントニオ・ロンバルドに制作されたものと考えられていましたが、その制作年代に疑義が提示されています。最近は1509年から翌年にかけて制作されたと考える研究者が増えてきており、ファリネッラもその一人でした。ファリネッラは、フェルラーラに戻ったあと、ローマやフィレンツェで見たミケランジェロの作品に感銘を受けたアントニオが、古代ローマの作品と新しいローマを代表する作家の作品とを同じ浮彫の中に彫りこみ、それによって当時盛んになっていたパラゴーネと呼ばれた芸術間の比較の議論を作品中に具現したものと考えます。このパラゴーネには、ミケランジェロとレオナルドを中心に議論された絵画と彫刻の比較、音楽と美術の比較など、様々な議論がありましたが、古代と近代とどちらが優れているかという新旧論争もその一つでした。イザベッラの嫁いだマントヴァ宮廷では、1502年7月に公爵の書斎に飾られていたミケランジェロの「古代風」クピドと、古代ギリシアの彫刻家プラクシテレスに当時帰属されていた古代のクピドの像を比べて新旧論争が行われていました。兄のアルフォンソは妹が行っていたこの論争に応える形で、アントニオに《アテナの誕生》を制作させたのだと考えられます。
このファリネッラの説は当時の文化状況を綿密に考慮した興味深い説と思われます。その上で、我々の文脈にそれを当てはめて考えると、様々な時期にフィレンツェとヴェネツィアの間には相互の影響関係が認められることが解ります。すなわち、まずロンバルド工房の創始者ピエトロがフィレンツェの凱旋門型壁付墓碑をヴェネト地方に持ち込み、その一つの完成形に今度はミケランジェロが感化を受けます。トスカナ・ローマへと戻ったミケランジェロの活躍に、ピエトロ・ロンバルドの息子アントニオがオマージュを捧げて、芸術の新旧論争を具体化した《アテナの誕生》の中で《ダヴィデ》を援用したと思われるのです。これは文化現象を考える上で興味深いことだと思います。なぜなら、一つの文化だけが決定的な優位に立つということはなく、相互に影響を受けるのだという事実を、我々に理解させてくれるからです。
5.《受胎告知》
さて、次に、フィレンツェとヴェネツィアの間に見られる別の相違についてお話したいと思います。
1つは今週火曜日からこの近くの東京国立博物館で展示されているレオナルドの《受胎告知》に関連します。一般に我々日本人は《受胎告知》を一枚の絵の主題と考えていますが、大型の建築装飾の場合、《受胎告知》が《告知を受ける聖母マリア》と《受胎告知をする大天使ガブリエル》に分けられて、描かれたり彫られたりすることが、一枚の絵に描かれるよりも多くあります。ジオットがパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描いた壁画でも、右側に告知を受ける聖母マリア、左側にガブリエルが分かれて描かれていますし、先ほどお見せしたアントニオ・リッツォ作《ヴェネツィア総督ニコロ・トロン記念碑》もそうです。フィレンツェ近郊シエナにおいてもこのような対の像が数多く作られ、彫刻家ヤコポ・デラ・クエルチャやフランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノの作例が残っています。こちらには、聖母マリアしかないのでわかりづらいかもしれませんが、反対側には当然受胎告知をする大天使ガブリエルがいるわけです。それが別々の場所に置かれていた。それが通常の形であったということが、これらの作例から理解できます。
今回展示されるレオナルドの受胎告知を既に御覧になった方もいらっしゃると思いますが、かなり鳴り物入りですね。フィレンツェを離れるときにもかなりの議論を巻き起こしたようです。お見せする写真はイタリアの新聞に掲載されたものをインターネットでダウンロードしたのですが、こういった形で搬出がなされました。背後に見えるのは、ウッフィーツィ美術館です。ウッフィーツィというのはイタリア語でオフィスのことですから、トスカナ公国の官庁ビルだったわけです。そこが現在美術館に使われている。その前に、人々がこういう紙を持って、文化庁長官に対してフィレンツェに構ってくれるな、我々をもう放っておいてくれと要求しています。別の写真では、受胎告知はウフィッツィに留まらなければいけないと、日本への渡航に反対の意を表している。彼が巻いている鎖は受胎告知をつなぎとめようとしたものです。
6.遠近法摂取の差異
さて、もう1つ、ヴェネツィアとフィレンツェで大きく違うのは、特に彫刻における遠近法の摂取の仕方です。絵画の分野では、フィレンツェでは科学的な線的遠近法が発達し、ヴェネツィアではフランドルの影響を強く受けて空気遠近法が発展したと一般的に言われています。すなわち、ヴェネツィアでは、画面全体が消失点に向かって収斂していく(線遠近法)のではなく、後ろの方に行くほど、明度を下げ、白く彩色する、前のものははっきりと描き、後ろのものはぼやけさせて描くという技法(空気遠近法)が主流だったのです。これはヴェネツィアの絵画だけでなく、レオナルドの作品にも見られます。
これに対して、浮彫を中心とした彫刻では遠近表現の枠組そのものが異なります。
フィレンツェでは、ブルネッレスキの建築に影響を受けて浮彫における遠近法を生み出したドナテッロが、浮彫に表された擬似空間を奥へ奥へと重ねて表現し、無限の空間を一枚の浮彫の中に実現しようとしました。彼の作品《ヘロデの饗宴》は、サロメが踊りを踊り、その結果、聖ヨハネの首が切られるという物語を表しています。
前景の空間では、ヨハネの首がヘロデの許にもたらされ、それを妻のヘロディアが指でつつこうとしている。次の間では楽師たちが音楽を奏でている。次の空間には、ヨハネの首を捧げ持つ役人がいます。つまり、左の奥に、ヨハネが捕らえられていた牢獄があり、そこで首が切られたのでしょう。それをまずこの刑吏が持つわけですね。その首は横の空間を通って、前景の空間に持ってこられるわけです。
ここには、3つの空間が重なっているのですが、3つだけではない。後ろにまだ空間が続く。背景では後ろの空間が見えるように、わざとアーチを用いる。繰り返しアーチを用いて、重畳する空間が後ろに見えるようにしています。このように、ドナテッロは空間を重ねていくことに執着しているわけです。
また、前景の壁を拡大したのがこの部分図ですが、ちょっとした窪みであるのに、説明的に彫られています。そういったところにドナテッロの面白さもあり、不器用さもあるわけです。
このようにフィレンツェの浮彫りでは、1つの大きな枠の中で空間が完結します。この作品はナポリ、サン・タンジェロ・ア・ニーロ聖堂の《ブランカッチ枢機卿の記念碑》に設置された浮彫の一枚で、聖母の被昇天を表しています。玉座に座った聖母の周りには、アーモンド型の光背が非常に薄い彫りで表現されています。彫刻で光を表現するのは非常に難しいのですが、それをドナテッロは見事に成し遂げている。この作品は光の表現に成功した数少ない例の1つです。
空間に注目すると、同じくドナテッロが大理石で制作した《ヘロデの饗宴》も面白い作品です。先ほどと異なり、開放的な空間の中にできごとが進行している。階段を上がると、奥には外の別の建物が見える。この階段の表現が、ミケランジェロの《階段の聖母》に影響を与えていると言われています。
厚さが1センチにも満たない非常に薄い浮彫を、イタリア語ではschiacciato押しつぶされた浮彫と呼んでいます。
さて、ドナテッロは1443年から54年までの11年間、パドヴァに招聘されます。彼は、図の最上部に見えるキリスト磔刑像を作るために呼ばれたのですが、最終的にはこの中央祭壇を全部作ることになります。ただ、現在我々が目にしている状態はオリジナルではなく、一度解体されたものを再構成したものです。
その中に聖アントニオの奇跡の物語を表す4枚の大型浮彫があります。そのうちの1枚は、聖人が法力によって新生児に話をさせ、夫に貞操を疑われた妻の無実を晴らすという《新生児の奇跡》を表しています。奇跡譚としては中心部分だけあればいいわけですが、ドナテッロは回りに様々な人々を、その喧騒が我々に伝わってくるかのように表現をしています。この作品は非常に臨場感のある浮彫なのです。
背景の空間構成は非常に興味深く、白と黒の大理石で作られたアーチでできた、所謂ピサ様式といわれる古いロマネスクの様式で、この中心に全体の空間が収斂していきます。
こちらは《切れた足の治癒》という奇跡を表す浮彫です。物語の主人公の青年は非常に母思いで、キリスト教にも帰依していましたが、短気という欠点を持っていました。ある日、五月蝿い母親に怒りを覚えた息子は、母を足蹴にしてしまった。ところがその直後にそれを後悔して、すぐさま斧で自分の足を切る。おろおろする母親。そこに聖アントニオがやってきて、その足を拾って付けたら無事に治ったという話です。周囲には前の作品と同じように観衆がいますが、ここでは空間は開かれています。その奥にまた別の建物が見えるのですが、故意にこの前の部分を壁にせず、梁と柱で構成する。だから奥が見えるわけです。その上に太陽が輝いている。ドナテッロは、自分はこんなに遠近法を知っている、次の空間を表現できるのだということを、我々にいやというほど見せてくれます。これほど広い空間が浮彫の中に表現されたことはかつてありませんでした。
こちらは《ロバの奇跡》と呼ばれる作品で、聖人の言葉にロバが反応して跪いた話です。たわいもない話ですが、周りにいる人たちは大騒ぎをしているわけですね。この浮彫で一番驚くのは、格子の表現です。一見何の変哲もない3つの格子がありますが、よく見るとその後方に別の格子があります。2枚の格子はそれぞれ微妙にずれ、中央と右と左という3つの空間でずれ方が異なります。それをドナテッロは執拗に表現しています。
《吝嗇家の心臓の奇跡》では閉じられた空間が表現されています。パドヴァにはスクロヴェーニ家という名高い吝嗇家がいました。その一員エンリーコは自分があまりにも高利貸しでお金を儲けすぎた贖罪にと、あの有名なスクロヴェーニ礼拝堂をジョットに描かせたといわれています。この浮彫が表す物語の主人公がスクロヴェーニ本人であるかどうかは別として、この吝嗇家が死んだとき、聖アントニオがやってきて、ヨハネ福音書の一節を引用して読み上げた。「汝の心は汝の気持ちのあるところに、汝の心臓は汝の気持ちのあるところに宿る」。それではみんなで試してみようということになり、この人の胸を裂いてしまうわけですね。胸を裂いたら心臓がない。それで、近くにある彼の宝物を入れた箱を開けたら、心臓が出てきたというたわいものない奇跡譚です。
さて、それではヴェネツィア彫刻の空間表現はどうでしょうか。ドナテッロの作品はパドヴァに持ち込まれたフィレンツェの空間認識です。ヴェネツィアでは、ロンバルド工房が1485年以降に制作したスクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコ(聖マルコ大同信会館)のファサードを見てみましょう。先ほどお見せした記念墓碑は、横のサンティ・ジョバンニ・エ・パオロ聖堂の中に数多く収蔵されます。ファサードの2面の浮彫の収斂している先、つまり消失点は、同じ枠の浮彫の中にはない。3つの柱間のパネルの消失点は中央の扉の部分にある。すなわち、ヴェネツィアにおける彫刻の遠近表現は、建築と密接に関わっており、1つの浮彫の中にではなくて、建築面全体の中で完結するのです。
例えば、アントニオ・ロンバルドの作品《新生児の奇跡》においても、物語場面だけでなく、後ろにパドヴァの町のような景観が表現されており、そのアーチ部分も別のパネルに収斂していくように作られています。これによって、フィレンツェとヴェネツィアでは浮彫における空間の認識が全く異なるということがお分かり戴けると思います。
時間も迫ってきましたので、今日のお話はこれで終わりにさせて戴きたいと思います。
司会 石井先生、どうもありがとうございました。僕はフィレンツェでサンタ・クローチェ聖堂へ行っても、墓碑などはほとんど無視していましたけど、これから少しよく見てみようかと思います。どなたかご質問ございますでしょうか。
では、最初に僕から。トゥッリオ・ロンバルドのアダムの像がヴェンドラミン記念碑からはずされたのには、何か理由があるのですか。
石井 ナポレオンはイタリアに侵攻した際、千年以上続いたヴェネツィア共和国を崩壊させます。総督を暗殺し、最終的にヴェネツィアはそこで潰える。その後、ナポレオンは多くの教会を閉鎖し、美術品を略奪します。そこから盗んでいった作品は、現在ルーブル美術館にあるのですが、この文脈の中で、《ヴェンドラミン記念碑》が元来置かれていたサンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂も閉鎖されます。そこでヴェンドラミンの子孫が現在のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に移しますが、その際、裸は公序良俗に反するという名目で《アダム像》は売りに出されました。それが巡り巡って、ニューヨークのメトロポリタン美術館に入る。アダムがはずされたのは、そういった理由です。エヴァも一緒にはずされますが、こちらは現在、所在不明です。
ところが、数年前、とんでもないことが起こりました。夜中に突然、トゥリッオ・ロンバルドの《アダム》が乗っていた台座が崩れ、像そのものも壊れてしまったのです。昨年ヴェネツィアで学会があり、メトロポリタンの学芸員も来ていたのですが、一言も発しないで、そっと隠れていました。現在、修復中です。
司会 ミケランジェロは当然、墓碑に、ニッチに入っているのを見た。
石井 そういうことです。
司会 他にどなたかご質問ございますでしょうか。フィレンツェとヴェネツィアというのはずいぶん芸術そのものが違うと我々は認識していますが、やはりお互いにいろいろな影響があったということが、今日のお話でもよくわかったと思います。よろしいでしょうか。それではもう一度、皆様拍手をお願いしたいと思います。