第324回 イタリア研究会 2007-04-23
イタリア映画と政治
報告者:前朝日新聞ローマ支局長 郷 富佐子
第324回イタリア研究会(2007年4月23日 東京文化会館大会議室)
演題:「イタリア映画と政治」
講師:郷 富佐子
司会 皆さん、今晩は。イタリア研究会の橋都です。今日は第324回のイタリア研究会の例会です。今日のスピーカーは、郷富佐子さんです。朝日新聞をお読みの方は皆さんよくご存知で、いつも楽しみにしておられたという方が多いと思いますが、つい先日まで朝日新聞のローマ支局長を務めておられました。簡単に経歴をご紹介しますと、1989年に朝日新聞社に入社しまして、仙台支局、横浜支局、名古屋本社社会部、東京本社社会部を経て、98年4月から東京本社の外報部、現在は外報グループというのだそうですが、に所属されております。1999年から2002年までマニラ支局長を務められまして、2003年から2007年1月まで、つい先日までローマ支局長を務められて、ローマから定期的に朝日新聞にコラムをお書きになりましたので、朝日新聞を読んでおられた方はよくご存知だと思います。 今日はイタリアの政治と映画ということでお話をいただきますので、非常に面白いお話がお伺いできるのではないかと楽しみにしております。それでは郷さん、よろしくお願いします。
郷 今ご紹介いただきました朝日新聞の郷富佐子と申します。今日は、「イタリアの政治と映画」という大きなテーマをいただきまして、非常に緊張しております。今ご紹介いただいたのですが、簡単に付け加えさせていただきます。私とイタリアの関係というのは、高校時代から始まりまして、1983年から85年まで、経団連がやっているユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)という高校生対象の奨学制度でイタリアの北部、ユーゴスラビアとの国境のトリエステ郊外の高校に2年間留学していました。大学はそのままロンドンへ進学しました。帰国してすぐに朝日新聞に入社して、今お話していただいたように、地方の支局や社会部を経て、外報部という国際ニュースを出す部署に異動になりました。マニラ支局にいる間に、2001年9月11日のアメリカの連続多発テロ事件などがあり、その期間はニューヨークとワシントンに出張しておりました。マニラから2002年4月に帰国しまして、その年の秋くらいから、アメリカがイラクを攻撃するのではないか、イラク戦争が始まるのではないかという話が出まして、年明けの2003年1月に、中東地域へ出張して、そこで4ヶ月ほど戦後のイラクを含む取材をしておりました。ローマ支局は、着任したのが2003年6月末でした。当時は、私の管内であるイタリアがわりと平和だということもあって、主にイタリアというよりは、イラクの応援取材の方に力を入れることになり、ローマとイラクを往復する日々が続いてました。ローマ支局には、2003年6月末から、今年の1月10日まで、およそ3年半いました。この間に、前のローマ法王のヨハネパウロ2世が亡くなりまして、葬儀ですとか、コンクラーベと呼ばれる新しい法王の選出選挙などを取材しました。昨年初めのトリノオリンピックは私の管内なので、それも取材させてもらいました。また、今日呼んでいただくきっかけになったと思うのですが、昨年9月にヴェネツィア国際映画祭というのがありまして、それにあわせた企画を夕刊に連載した関係で、イタリア映画の取材もさせてもらいました。
こういうふうに言うと、私は本当にイタリアの専門家でもなく、イタリア政治の専門家でもないのですけれども、たまたまローマに3年半おりました間に、総選挙やヴェネツィア国際映画祭の取材をする機会があった関係で、たぶん記事がお目に留まったのかなという気がします。
今日はどこまで皆様の望むようなお話ができるかわからないのですが、よろしくお願いします。
私がローマにいた3年半なのですが、この大半は、中道右派勢力のシルヴィオ・ベルルスコーニという人が首相を務めている時期と重なっておりました。去年の4月に総選挙がありまして、中道左派勢力の、ベルルスコーニさんの天敵でもあるロマノ・プローディという人が率いる中道左派勢力が総選挙で勝利して、政権交代がありました。この総選挙と、それに至る過程をローマで、あるいはイタリア国内のあちこちで取材して、機会を見て記事を書いていたわけです。
私は専門家ではないのですが、イタリアの現代政治というのは非常に面白いと思います。その理由を考えてみたのですが、まずあげられるのは、政権交代ができている政治制度だというのがあります。
ベルルスコーニという中道右派の人が、彗星のごとくイタリア政界に出たのが93年末くらいからで、彼は94年にあっという間に総選挙で勝利して、政権をとりました。その後、96年にプローディ政権、中道左派政権に変わって、2001年にまたベルルスコーニさんが返り咲いて、25年後の006年の総選挙でまた、プローディさんが政権奪還しました。いってみれば、2往復しているわけで、このように政権交代ができる政治というのは、人々の関心も呼びますし、健全なものだなというのが私の印象です。
それと、イタリアの政治家の人たちというのは、すごくキャラクターが面白い人が多くて、個性が非常に強くて、話を聞いていて全然飽きないというのがあります。その筆頭が、先ほど言ったベルルスコーニという人なのですが、とにかく演説を2時間位、党大会なんかでするのですが、全然飽きない。あるときは怒ってみたりとか、泣きそうな顔をしてみたりとか、煽ってみせたりとか、演説がうまい人というのはこういうふうに話すのかと感心していつも見ておりました。
プローディさんは、イタリア人から「退屈な演説をする」と言われているのですが、それでも日本人の私から見ると、非常にためになる、面白い話をする人だなと思いました。
2日前に、今の最大野党である左翼民主党(DS)の党大会がありました。この書記長がファッシーノという人なのですが、1時間半の演説をしたそうです。演説が終わると、自動的に2008年から党名が左翼民主党から民主党に変わるという重大な決断をした党大会でした。私はその日、外報グループでデスクワークをしていたのですが、私の後任の特派員が、「日本時間で夜の11時くらいから党大会が始まったので、11時半か12時前には演説が終わって党名変更が決まるだろうから、よろしくお願いします」と連絡してきました。ところが、12時になっても終わらないわけですね。締め切り時間は迫ってくるし、どうしようかと特派員は、非常に困っていました。
イタリアの特徴なのですが、政治家だけでなく国民の間で非常に右と左がはっきりしているというのがあります。最近はイタリアでも無党派層が増えているとは言われますが、後でご覧に入れるDVDにも出てくるのですが、支持者が「私は右派支持者です」「左派支持者です」と非常にはっきり言うという印象があります。自分がどちらの支持者なのかという軸足が非常にしっかりしていて、その上で支持する政党に注文をつけるというのが、イタリア人の政治参加の姿勢なのかなという印象を受けました。一般の人々以外でも、文化人の方なんかでも、非常にその信条をはっきりおっしゃる方が多くて、何かあるときにはきちんと物申すという姿勢を非常に感じました。
映画の話の方が絶対面白いと思うのですが、最初にイタリア政治の歴史的な流れというのをご説明したいと思います。だいたい第2次世界大戦前後の話からお話しします。最初にファシズムの台頭というのがありました。お詳しい方には釈迦に説法かもしれないのですが、イタリアにはムッソリーニという独裁者がおりまして、1922年から43年までイタリアはファシズムの独裁政権下にありました。今では彼の孫娘のアレッサンドラ・ムッソリーニという人がいて、彼女も政治家としてイタリアで活躍しています。
このムッソリーニという独裁者ですが、映画のプロパガンダとしての利用価値に、非常に早い時期から気づいていた人でした。1932年に、彼がヴェネツィア国際映画祭を始めたわけで、今から75年前ですね。このヴェネツィア国際映画祭というのは、世界最古の国際映画祭と言われています。
その5年後の1937年には、ローマの郊外に、巨大な撮影施設を作りました。これがチネチッタと言われるもので、プロパガンダ映画普及のために彼が作ったというか、作るように命じたものです。
このチネチッタというのをご説明したいのですが、今でも残っていて、ちゃんと機能しています。37年にできたので、今年で70周年ということで、いろいろなイベントもやるらしいです。
私もここに何回か取材に行ったことがあるのですが、40ヘクタールの非常に広い敷地の中に、20以上の舞台とか、スタジオとか、ポスト・プロダクション施設があります。ほかに、貯水タンクですとか、そういう施設が点在している場所です。
私が取材に行ったときに、「ローマ」というテレビドラマの撮影で使われていました。これはアメリカのHBOが制作している古代ローマの話ということで、なかなかアメリカでは人気のシリーズだったらしいです。
古代ローマなので、石造りの建物なんかがセットとして必要になります。その話を聞こうと思って、チネチッタの中の美術小屋みたいなところへ行ったことがありました。この美術小屋はちょっと離れたところにある建物で、独立した感じの雰囲気だったのですが、そこに職人さんが働いているのですね。工房みたいになってまして、このセットが本当に、当然かもしれないですが、石そっくりなのに叩いてみるとプラスチックなんですね。コンコンと鳴って、中がからっぽなんだみたいな、すばらしい技術だなと感心しました。こんな石造りの建物をプラスチックでどうやって作るんですか、それを教えていただけますかと美術小屋の職人さんに聞いたのですが、これは企業秘密ではなくて、家族秘密、一族秘密だから教えられないんだとおっしゃってました。技術というのは父親から息子にしか教えないそうなのですね。だから、その技術の人というのは、もう何代も同じ家族から出ている本当の職人さんという感じで、非常にイタリアっぽいなと思いました。
このチネチッタは、当初は映画の撮影のためだけに作られたものだったのですが、60年代の後半からテレビの普及があって経営が困難になりまして、92年に75%を民営化しています。チネチッタの幹部の人にも聞いたのですが、今でもなかなか経営は苦しいとおっしゃっていました。ただ最近は、マーティン・スコセッシ監督の「ギャング・オブ・ニューヨーク」ですとか、「オーシャンズ12」とか、トム・クルーズの「ミッションインポッシブル」の最新版とか、そういうアメリカのハリウッド映画なんかを撮影して稼いでいるとおっしゃっていました。
私は元々イタリア映画はすごく好きなのですが、チネチッタと言えばやはりフェデリコ・フェリーニ監督、「甘い生活」などを撮った撮影所だというのがあります。フェリーニ監督が愛したチネチッタの第5スタジオというのがあるのですが、ぜひ覗いてみたいと行ったことがありました。チネチッタの人の話によると、やはり外国からたくさんいろいろな監督が来て、フェリーニの第5スタジオというものを見たい、中に入ってみたいという人が今でも多いそうです。チネチッタのお偉いさんは、「第5スタジオの中には、まだフェリーニのスピリットがうろうろしているから、君もきっと何かインスピレーションが得られるはずだよ」とおっしゃっていました。
フェリーニ監督は93年に亡くなったのですが、彼は元々ローマではなく、リミニの出身でした。それでも、彼が愛したスタジオということで、チネチッタにも遺体が安置されたということです。
さて、ファシズム時代の話なのですが、第2次世界大戦が1940年に始まりました。ご存知の方も多いと思うのですが、イタリアは大戦の後期に非常に複雑な歩みを見せました。日本やドイツとの同盟があったのですが、1943年にムッソリーニが失脚して、バドリオ政権というのが連合軍と休戦協定を結んだわけですね。それまで味方だったドイツが敵になって、イタリア各地を占領したことによって、これに反対する非常に強いレジスタンス運動というのが始まりました。このドイツ、ナチスドイツの占領下で、チネチッタも爆撃を受けたりとか、軍隊の武器倉庫になったそうです。
このレジスタンス運動から、イタリアの映画の最大の功績であるネオレアリズモという動きが生まれたわけです。今でもそうなのですが、レジスタンスを描いた映画作品は非常に多いです。
それから、そのファシスト体制、ムッソリーニ体制が崩壊した後に、イタリアは右左に関わらず、いろいろな政党が生まれました。左から言うと共産党、社会党、社会民主党、共和党、それにキリスト教民主党ですね。あとは自由党、王党、イタリア社会運動、これはMSIというファシズムの流れを汲む政党なのですが、これらの政党ができました。王党が1971年に解散してMSI、イタリア社会運動と一緒になったこと以外では、右左に散在する各種政党というのは、ほとんど90年代に入るまで構造としては変わっておりません。このMSIは現在、国民同盟という右派に続く流れになったりとか、その程度の変化で、後はほとんど変わりはありませんでした。
イタリア政治の特徴なのですが、これは後々少しは変わるのですが、最初に言えるのが、非常に強い政党支配体制であるということです。政党がありとあらゆる分野を支配している国で、昔は特にその傾向が強かったです。官僚ですとか、公務員の任命だけでなくて、裁判官とか、検事さんとか、司法官と言われる人たち、銀行なんかも、完璧に政党別に色分けされていた社会です。テレビも国営放送がRAI1、RAI2、RAI3と3チャンネルあるのですが、それぞれ別々の政党と結びついておりました。
それと、この3番目に書いたキリスト教民主党、DCなのですが、このDCがずっと中心になって、常に連立政権で政治が運営されてきました。この連立政権というのが、非常に不安定な政権というものに関わっています。戦後の政権は、イタリアでは平均して1年もってないのですね。最近では変わってきてはいるのですが、今のプローディ内閣までに60以上も変わっています。回転ドア内閣なんて言われることもあります。
ただ最近は、左と右の政権交代体制が整ってきて、5年もつケースが普通になってはおります。
それで、先ほど言った政党の構造なのですが、これが変わり始めたのが、冷戦の終焉をもってでした。90年代にはこの政党と政党制というものが劇的に変わりました。DC、キリスト教民主党とか、自由党、共和党といった伝統的な政党が、次々に崩壊してきました。残ったのは、共産党ですね。これが左翼民主党というふうに名前を変えて、マルクス主義と完全に離別して、社会民主主義を基本路線にして、生き残りました。
逆に右の方では、ファシズムの流れを汲むMSIが、先ほどいいましたように国民同盟、ANと略すのですが、に名前を変えて、政治方針を変えて生き残ったという以外は、ほとんどなくなってしまいました。
その堤が壊れ始めた頃に、タンジェントポリ、汚職都市という事件がありました。これは当時、アントニオ・ディ・ピエトロというミラノ地検の検事がいまして、彼が陣頭指揮をとった汚職一斉摘発キャンペーンです。これが、1992年はじめに始まりました。最初は、彼が指揮をして、おとり捜査みたいなのをやって、ミラノにある老人福祉施設がかかわった収賄事件を摘発したのですね。この老人福祉施設のお偉いさんの自宅に地検が乗り込んで、ソファの中味なんかを調べたところ、現金がざくざく出てきたという、ほとんど笑い話のような始まりではあったのですが、これが後に大変な広がりを見せました。タンジェント・ポリ、汚職都市と言われるようになりました。これに関わった検事さんたちは「清潔な手」と今でも呼ばれています。
このタンジェント・ポリで摘発された政治家というのが、現職議員だけで100人以上もおりました。行政官、公務員ですとか、後、財界の人なんかも含みますと、実に1000人以上が逮捕された大変な事件となりました。イタリアでは、これでイタリア第一共和制が終わって、第2共和制に入ったと言われています。
このタンジェント・ポリで完全に崩れたイタリアの政治なのですが、そこに現れたのがシルヴィオ・ベルルスコーニという人です。彼は元々ミラノの実業家だったのですが、ミラノの土地開発からメディアの業界に進出しまして、今ではテレビ局を3つ持っています。日本でいうと、フジテレビとTBSと日本テレビを全部自分で持っているような人で、大変なメディアの帝王と呼ばれています。他にモンダドリという有名な出版社があるのですが、これも買収しまして、一部は離れたりもしているのですが、雑誌、新聞、何でも影響力を持っている大変な実力者です。
彼が作った政党がフォルツァ・イタリアという、がんばれイタリアという政党です。このフォルツァ・イタリアというのはサッカーの応援文句でして、彼はACミランというセリエAのサッカーチームのオーナーでもあります。
彼は彗星のごとく政界に進出しまして、あっという間に総選挙を勝って、94年に首相になりました。ただ、後ほどDVDでも見ていただくのですが、お金の汚職のうわさが絶えない人で、自らの疑惑で96年に一度退陣しています。
今では中道右派と言っていますが、ベルルスコーニは右派です。ベルルスコーニのような人が出てきたということで、左派が非常に危機感を持って、それで結成したのがオリーブの木という連合です。政党でない、緩やかな中道左派のつながりとしてできたもので、左翼民主党、旧共産党ですね、が中心になって設立しました。そのとき、リーダーとして抱えたのが当時のボローニャ大学教授のプローディという人でした。ベルルスコーニ内閣が退陣した後の総選挙、これもまた後でDVDで見ていただくのですが、96年の総選挙で勝って、首相になりました。
ここで簡単にイタリアの左派と右派の構造というのをご説明したいのですが、向かって左が左派で、右が右派になっています。今はこの左、中道左派のずらっとあるのが、ウニオーネという、朝日新聞では「ユニオン」と訳しているのですが、連合体を作って、連立政権になっています。
その中で1番大きい最大与党が左翼民主党という旧共産党で、これのトップがダレーマという、今副首相兼財務大臣ですね。他にローマ市長のベルトローニという人もこの左翼民主党のメンバーでして、このベルトローニさんというのは、大の映画好きです。もともとウニタという党の機関紙の記者もしていたそうなのですが、映画の評論なんかも書いて、たいへんな映画好きとして知られています。彼の人脈をフルに生かして、昨年初めてローマで国際映画祭を開きました。これに関してはヴェネツィア映画祭の関係者といろいろな確執があったとも言われています。
次に大きいのが、マルゲリータという中道寄りの中道左派ですね。キリスト教、教会系の議員さんが多く所属している党です。これのトップがルテッリさんという副首相兼文化大臣。今弊社主催でレオナルド・ダ・ヴィンチ展やっているのですが、彼はそのオープニングにあわせてこの間来日しました。
次に大きいのが、再建共産党。共産党から左翼民主党に名称を変えたときに分裂して、より左の人たちが移った先が、この再建共産党ですね。トップがベルティノッティという人で、今下院議長をしています。彼は非常におしゃれで、カシミアコミュニストと呼ばれています。ラフな格好をした学生とかが集まってギターをならしていくような集会でも、非常におしゃれな格好で来る彼の姿を、私もよく目撃しました。
次のオリーブの木なのですが、このオリーブの木を説明すると長くなって大変なのですが、元々オリーブの木というのが、今これに書いてある全体を統括するものであったのです。でも、オリーブの木が、誕生して10年くらいたっているうちに、だんだんイメージが薄れてきたというか、だんだん内輪もめをする集まりだというふうなイメージダウンしたということもあって、名称を変えましょうということになりました。それで、ウニオーネ、ユニオンというふうに今変わって、オリーブの木というのはひとつの政党名として残っています。
あとは、再建共産党から更に分裂したイタリア共産主義者党というのとか、みどりの党、これはベルディですね。それと、欧州民主連合。価値あるイタリア、これは先ほど言いましたタンジェント・ポリの陣頭指揮をとったディ・ピエトロ元ミラノ地検検事がトップを務める政党です。急進党もここに入っています。
右を見ますと、フォルツァ・イタリア。これはもうベルルスコーニ党と言われるほど、ほとんどワンマン党の、ベルルスコーニファンクラブみたいな政党です。
次に大きい右派政党は国民同盟。これはMSI、ファシズムの流れを汲む政党ではあるのですが、党首がフィーニという人です。彼は、ベルルスコーニ政権時代は副首相も務めたのですが、路線変更して、今ファシズムからは離れています。このフィーニさんというのは、イタリアで非常に、特に南部で非常に人気がありまして、次期首相候補とも言われています。
ほかに北部同盟というのがありまして、ボッシというカリスマ的なリーダーが率いる政党です。イタリアというのは北がリッチで、南が貧しいというふうに分けられるのですが、ボッシさんが「リッチな北の北部イタリアをパダーニア共和国として独立をしよう」と言って始めた政党です。今は路線を変更してまして、独立は掲げていないのですが、後で見ていただくナンニ・モレッティ監督の「エイプリル」という作品にも、彼がどんなふうな選挙キャンペーンをしてきたかわかる場面が出てきます。
ほかに、キリスト教民主・中道連合、UDCと言っているのですが、この4つで中道右派は構成されています。
いよいよ映画の話に移りたいと思います。イタリアには非常に政治的な映画が多いです。政治をど真ん中で扱った映画とか、ドキュメンタリー映画も多いのですが、逆に文学作品とか、表向きは政治的ではない作品なのに、複線として政治的なバックグラウンドがはられていたりとか、ちょっと映ったテレビの画面が政治的なものであったりとか、そういう作品も非常に多いです。私の経験からいくと、イタリア政治というものがわかると、イタリア映画も2倍楽しめるという気がとてもします。
今、イタリアの映画界で活躍している監督で、政治的な人といってまずはずせないのがこのナンニ・モレッティです。彼は1953年生まれで、今年で54歳ですかね。
余談なのですが、私2年ほど前に、朝日の夕刊で、「イタリアおやじの挑戦」という連載記事を書いたことがあります。政治とか、財界とか、グルメとか、サッカーとか、各界で50歳以上の人がどんなふうに挑戦しているのかというのを追った連載だったのですが、連載前に、この人に取材したいというリストを作ったところ、半分くらい53年生まれだというのがありました。なぜかなと思ったのですが、この53年前後というのが日本でいう団塊の世代にあたるということがわかりました。日本の団塊はだいたい60歳のちょっと手前だと思うのですが、イタリアの団塊世代は日本よりかなり若いのですね。だいたい40代の後半から60歳くらいの人たちですね。特に団塊という言い方はしていないのですが。
なぜ若いかというと、イタリアでは学生運動をやり始めるのが高校生という人が多いのですね。日本はだいたい大学生だと思うのですが、なぜ高校生からそんな政治活動をするのというと、高校の先生がわりと政治的な話を授業でするからだという答えが返ってきたことがありました。
また、イタリアでは学生運動が、60年代からなんと10年以上続いたというのもありました。16歳くらいから学生運動を始めたというのと、それから延々と77年まで続いたということで、年齢層に幅が出て、そのちょうどど真ん中がこのナンニ・モレッティさんたちの世代なのだなという気がします。
彼は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「息子の部屋」という作品で、カンヌ映画祭の最高賞をとりました。監督としても非常にすぐれた人なのですが、イタリアではジロトンディの中心的人物でもあります。ジロトンディというのはイタリアの市民運動です。もともとジロトンディは子供の遊びの名前なのですが、輪になってくるくる回る、日本で言うとかごめかごめみたいなものです。市民運動がみんなで手をつないでという意味を含めて、たぶんジロトンディと呼ぶようになったと思います。イタリアのインテリや、社会的な中産層を中心にした市民運動の流れです。元々2002年の9月に、ローマ市内にサンジョバンニ聖堂というのがあるのですが、その前の大きな広場に80万人以上の市民が集まりました。当時はベルルスコーニ政権だったのですが、反政府の市民集会だったわけですね。
なぜこの集会を開いたかといいますと、当時首相だったベルルスコーニさんが、いろいろな汚職の疑惑が持たれてまして、捜査の手が迫っていました。これに対して、ベルルスコーニ首相が、首相の間は逮捕ができないという、免責特権と呼ばれるのですが、法律を作ろうとしていたわけです。結果的にこの法律はできたのですが、これに反対した市民たちが、憲法の下では全員平等だということをスローガンにして、5時間以上も続けた集会でした。
組織も資金もない市民の運動が、口コミでどんどん広がって、シチリアから、ミラノから、プーリアからと全国から80万人以上が集まったということです。この運動の音頭をとった文化人たちがだいたい10人くらいいたのですが、その一人がこのナンニ・モレッティでした。
その半年ほど前の2002年2月に、ナボーナ広場という広場がローマにあるのですが、当時はまだ野党だった左派のリーダーたちが参加を呼びかけた集会があったのですね。そこに彼は招待されて、その演説の中で、「あなたたちのようなリーダーでは次の選挙も勝てないよ」と発言しました。当時はまだオリーブの木という名前だったのですが、野党のお偉いさんたちの度肝を抜いたという人です。
今でもそうなのですが、左派は内輪もめばかりしていて、内紛でしょっちゅう分裂していました。彼の言ったことは非常に過激ではあったのですが、左派支持者からはよくぞ言ってくれたというふうに歓迎した人も多かったということです。
モレッティ作品には「赤いシュート」とか、「僕のビアンカ」とか、「親愛なる日記」とか、いろいろなよいものがあるのですが、彼の作った中で1番わかりやすい政治映画ということで、今日は「エイプリル」というのを持ってきました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれないのですが、これは、3つの話が同時並行で出ます。まずこのモレッティ本人が主人公で、彼に赤ちゃんが生まれるという話が1つ。それと、彼は映画監督のそのままで出ているのですが、彼がミュージカルの映画を撮らなければいけないという話が1つ。それと、総選挙、選挙の話が1つ。この3つがうまく組み合わさったコメディになっています。
最初に見ていただくのが、94年3月の総選挙でのシーンです。これは、右翼勝利というふうにタイトルがついているのですが、ベルルスコーニさんが勝って、はじめて首相になるというシーンです。最初にアナウンサーみたいな男の人が出てくるのですが、これはそのベルルスコーニが持っているメディアセットというメディアグループのテレビ局のアナウンサーです。いってみれば内輪で盛り上がっていて、ベルルスコーニすばらしいというふうに盛り上げているシーンです。これを見ると、今のイタリアのテレビ業界がどんな雰囲気になっているのかがおわかりになるかと思います。
それと同時に、モレッティという人は、先ほどの集会の発言でもそうなのですが、左派にも非常に辛らつで、最初のシーンの最後の方には、左派の情けなさのようなものも出ています。
(映画)
次に見ていただくのが、同じ「エイプリル」という作品の中の、今度は96年、2年後ですね。ベルルスコーニが失脚して、内閣総辞職をした後の総選挙で、今度は中道左派のオリーブの木が擁立したプローディさんの中道左派が勝ったというシーンです。先ほど言いましたように、この映画はミュージカル映画を撮らなければいけないモレッティというストーリーも作品中に盛り込まれているのですが、彼がミュージカルではなくて、選挙のドキュメンタリーを撮ると決めるシーンです。それとともに、イタリアのジャーナリズムがどんなものかというのを示す、それに対するすごい痛烈な批判にもなっています。
(映画)
次に出るのは、96年の総選挙の話。プローディがベルルスコーニを破って勝ったのですが、中道左派が勝つとどんなふうにみんなが喜ぶかというのが出てきます。イタリアでは選挙がお祭り騒ぎになって、自分の支持しているほうが勝つと、車でクラクションをバンバン鳴らしたりとか、まるでサッカーのチームが勝ったかのごとくみんな喜んで大騒ぎをします。
これはモレッティ監督がスクーターに乗って大喜びをして走るシーンです。
3つの話が前後して出てくるのですが、今選んでいるのは選挙、政治と映画ということで、選挙のところだけをピックアップしています。
(映画)
最後に付け足しなのですが、先ほど言いました中道右派の連立政権のひとつだった北部同盟の、非常に変わった選挙キャンペーンです。彼らのキャンペーンの様子がこんな感じだというのがわかる映像が、この「エイプリル」の中にありますので、見ていただければと思います。パダーニャ共和国というのを北部に作って、私たちはイタリアから離脱したというふうなボッシ党首の言葉が出てきます。
(映画)
これで「エイプリル」の映像は終わります。同じナンニ・モレッティという監督が、昨年の3月に封切りになった最新作を撮りました。これはもうじき始まります弊社主催のイタリア映画祭でも出品されています。最新作は「カイマーノ」という作品なのですが、カイマーノというのは、ワニ、ケイマン諸島のワニという意味です。これが封切られたのが昨年の3月、総選挙の3週間前でした。彼は一切内容を外に漏らさなかったのですが、でもモレッティの新作だということで封切り前に非常に話題と期待が高まりました。
簡単に説明しますと、これは劇中劇の形をとっています。ちょっと申し訳ないですが、これは特別に借りてきたものなのですが、日本語の字幕がまだついておりません。英語の字幕で恐縮です。この主人公が映画プロデューサーのブルーノという人で、新作を撮らないといけないのだけど、私生活では奥さんと別居も決まってどん底という人です。そこにシングルマザーの女性、これジャスミン・トリンカという人気女優がやるのですが、彼女が脚本を持ち込みます。この脚本がベルルスコーニ批判の映画の脚本なのですね。劇中劇なのですが、ではベルルスコーニを誰が演じるのか。この役者がころころ変わって、最後にはモレッティ本人がベルルスコーニ役をやります。本人の実写も出てくるので、全部でこの映画には4人のベルルスコーニが出てきます。
最初にお見せするのが、ベルルスコーニを演じる役者がいて、そこに天井から現金が降ってくる非常に印象的なシーンです。ナンニ・モレッティがたぶんこの映画で1番言いたかったのは、そもそもベルルスコーニが台頭してくるきっかけとなったミラノの開発計画というのはどこから金が出たのかということではないでしょうか。大きなテーマだと思うのですが、それを暗示している印象的なシーンです。
(映画)
これが今度もうじきイタリア映画祭でも上映される「イルカイマーノ」というモレッティ監督の最新作です。
ナンニ・モレッティ監督と並んで、最近非常に話題になった女性監督がいまして、これがサビーナ・グッサンティという監督です。作品が私の手元にないのでお見せできないのが非常に残念なのですが、モレッティ監督の「カイマーノ」の前に、イタリアで非常に話題になり、ヒットもした「ビバ!サパテロ」という作品があります。彼女は40代の若手監督なのですが、元々はコメディエンヌというのですかね、物まね芸人です。ベルルスコーニとか、後ダレーマさん、今の外相ですね。後、プローディ、今の首相ですけども、この3人のものまねをさせると、非常に上手です。大変な美人なのですが、もうすごいメイクをして、背広を着て、むちゃくちゃおもしろいアクションをするというので、イタリアで非常に人気がありました。彼女は2003年11月に、国営RAIテレビ、RAI TREという第3チャンネルで、ライオットという新しい番組を始めました。彼女が主演で、政治風刺番組としてスタートした番組だったのですが、初回の放送をした後に、いきなりベルルスコーニに訴えられました。私は彼女に取材して話を聞いたのですが、このはじめの放送のテーマは「言論の自由」でした。コメディ番組なのですが、彼女がベルルスコーニ首相ですとか、ダレーマさんとか、RAIの会長、当時の会長のアヌンツィアータという非常にキャラの強い女性の会長がいたのですが、この3人の物まねをやったわけですね。ベルルスコーニ首相の圧力で、言論の自由がおびやかされているという内容のものを面白おかしく彼女がコメディを演じたのですが、これが夜11時半から放映だったにも関わらず、視聴率が18.37%。ピーク時の視聴率が25%という、冗談のように高い視聴率で、大人気でした。ところが、その放映された直後にベルルスコーニさんが、うそと嫌がらせばかりのとんでもない番組だということで、2千万ユーロ、当時のレートでも30億円の損害賠償の民事裁判を起こしました。訴えた相手が、国営RAIテレビと、この番組制作会社と、彼女、この3者を訴えたわけですね。番組は、1回流れただけで打ち切りになってしまいました。彼女ははじめて訴えられたということで非常に落ち込んで、もう私の物まね芸は面白くないのではないかとか非常に悩んだそうです。
ここでへこんだだけですまないのが彼女の強いところで、2回目に放送できなかった内容を、テレビで流すのが無理なら舞台のショーでやってみようということになりました。ローマのアウディトリウムという劇場があるのですが、そこでワンマンショーのようなものをやったのですね。無料にしてどんどん人を入れて、2回目の放送で流すはずだったものをショーの形でやりました。どんどん左派系の文化人もそのステージに集まって、例えばノーベル文学賞をとったダリオ・フォーさんなんかも来て、がんばれというふうに激励しました。
この一連の圧力を彼女はドキュメンタリー映画にしようと決めて、それで撮ったのが「ビバ!サパテロ」という映画です。彼女がどんなふうに圧力をかけられて、どんなふうに訴えられて、2回目以降も放映させてくださいと政治家なんかに陳情に行くのですが、非常に厳しく門前払いをくったりとかして、そういう様子を全部ドキュメンタリーの形で撮っています。
これが2005年のヴェネツィア国際映画祭ではじめて上映されまして、15分間のスタンディングオベーションをもらいました。大変な人気を博して、その後、イタリア国内でかかったのですが、大変ヒットしました。
彼女の父親はパオロ・グッサンティという人で、彼はベルルスコーニさんが党首を務めるフォルツァ・イタリアの所属の上院議員なのですね。だから、父と娘で全く左と右に分かれてまして、そのあたりを「ビバ!サパテロ」という映画では、つっこむ議員もいたり、お前はもっと父親の言うことを聞けというような人もいて、それもばっちり撮られています。お兄さんはコロラド・グッサンティという、やはり人気のコメディアンです。
このように、イタリアでは政治的なメッセージを持った映画が多いのですが、それがなぜなのか。92年のアカデミー賞で外国語映画賞をとった「エーゲ海の天使」を撮ったサルバトーレ監督はこういうふうに言っているのですね。「イタリアでは実際に起きた真実をテレビでは言えないことがある。ただその真実を映画では語ることができるのだ」と。
私、3年半住んでみて思ったのですが、テレビ業界は、自粛も含めて、ベルルスコーニ前首相に完全に支配されている状況です。でも映画界にはすごい年季の入った左派系の文化人がたくさんいて、映像業界の最後の砦として、頑張っているということではないかと思うのですね。
ここにも書いたのですが、例えば「ライフイズビューティフル」で有名なロベルト・ベにーニ監督が、最新作「人生は奇跡の歌」というイラク戦争の話を撮っています。これなんか政治的な内容ではあるのですが、彼流に御伽噺ぽく描いています。私が思うに、彼は元々舞台のコメディアンでもあるのですが、映画を撮るときと全然違って、舞台では非常に辛らつでストレートな政治的なコメディをやります。映画になると非常にソフトに、御伽噺ぽく描くなという気がします。
それから、マルコ・ベロッキオ。彼は「夜よ、こんにちは」は日本でも去年上映されました。ベロッキオ監督の代表作のひとつに「父の名において」という1971年の作品があるのですが、60年代の学生運動の様子を描いています。主人公の学生が、ムッソリーニを髣髴とさせる、非常に独裁的な学生が主人公です。
このマルコ・ベロッキオさんというのは、作品だけではなくて、昨年の総選挙に自分も出馬しました。ラディカーレという急進党の比例代表から出ました。日本と制度が違うので、名簿の1位に載ってもその人がならなければいけないということはないのです。私がインタビューしたときは選挙の結果が出る前だったのですが、「私が出馬するのは票集めのためで、シンボル的な意味があるのですよ」なんておっしゃっていました。
それから、ジッロ・ポンテコルヴォというこの間お亡くなりになった監督がいます。非常に寡作な監督だったのですが、66年に「アルジェの戦い」というフランスの植民地だったアルジェリアの独立運動の話を描いた作品を撮りました。アルジェリアのカスバの暴動を話を描いたものなのですが、フランス軍の拷問シーンも非常にリアルです。というのは、1人の役者を除いて全員が本当の抵抗運動のメンバーたちを素人役者として起用したそうです。これは66年のヴェネツィア国際映画祭でグランプリをとりました。すごいリアルな作品なのですが、フランスの政府が非常に怒って、ヴェネツィア映画祭の授賞式を、フランス代表団は全員ボイコットをしたそうです。唯一来たのがトリュフォー監督だったという話もあります。
このあたりはわりと左派系なのですが、では右派には映画監督はいないのでしょうか。フランコ・ゼフィレッリという監督がいます。「ロミオとジュリエット」という60年代の作品、ジュリエットをオリビア・ハッセーが演じたのですが、この監督ですね。彼はフォルツァ・イタリア所属の国会議員でもある映画監督です。右派支持者の映画監督としてイタリアでは広く知られていますが、ただ彼は政治的な映画は撮っていないですね。政治活動はしていますが、政治的な映画は撮っていません。
イタリアでこういう政治的な映画が撮られるようになったはじまりというのをちょっとだけお話したいと思います。ネオレアリズモという、第2次世界大戦が終わる少し前から始まった動きです。
これは、左派の反ファシズム知識人たちが始めたのですが、対ドイツレジスタンスという精神が非常に作品に色濃く出ています。これが、言論の自由への圧力に反対する動きとして、現代の「カイマーノ」のモレッティ監督ですとか、グッサンティ監督の「ビバ!サパテロ」なんかにもつながっているのではないかと私は思います。
ネオレアリズモの代表的な監督は、まずロベルト・ロッセリーニ監督。彼の戦争3部作といわれる作品があります。45年の「無防備都市」と翌年46年「戦火のかなた」、47年の「ドイツ零年」という3つで、ネオレアリズモの戦争3部作と言われています。
これから「無防備都市」のシーンをご覧になっていただきたいと思います。ロッセリーニの他には、デ・シーカ監督の「靴磨き」「自転車泥棒」などがあります。このあたりは非常に有名だと思うのですが、他にはヴィスコンティ監督などがネオレアリズモの旗手というふうに言われています。ヴィスコンティ監督は、ローカリズムを重要な要素とする作品を撮ってます。
さて「無防備都市」なのですが、世界的に衝撃を与えた作品として知られています。これを見てショックを受けたイングリット・バーグマンが手紙を書いて、2人の間にロマンが生まれて、結婚して生まれたのが、今の女優のイザベラ・ロッセリーニであるのはよく知られています。
「無防備都市」のオープニングなのですが、最初にちょっと説明書きみたいなのが出てきます。9ヶ月におよぶナチスの占領の悲劇にインスパイアされたものである。すべて本当にあったことだというようなことが書かれています。今からお見せするシーンは、ナチスがレジスタンスの活動家狩りをしているシーンです。
(映画)
これがロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」のオープニングです。ネオレアリズモには庶民の苦しみを描いた作品が多いのですが、「無防備都市」の最後に出てくるシーンをお見せして終わりたいと思います。神父さんがいるのですが、彼が活動家をかくまってあげるわけですね。かくまったことによって、彼も殺されてしまうのですが、彼が殺される前に、死ぬのはそんなに難しくないと。生きる方が難しいというせりふがあります。これは、当時の庶民の肉声を代表する有名なせりふとなっています。拷問シーンは飛ばしますが、恋人にちくられて捕まってしまった活動家がいて、最後は拷問にあって死んでしまいます。この後にこの神父さんも捕まって、彼をかくまっていたことがばれてしまう。そして神父さんも殺されてしまうのですが、それを子供たちが見ているという、非常に悲しく、リアルなシーンです。
(映画)
これが「無防備都市」の有名なラストシーンです。最後はかけあしになってしまいました。このように始まったネオレアリズモの動きが現在のモレッティ監督ですとか、グッサンティ監督の政治的映画の流れにつながっているのではないかと思います。
今日はありがとうございました。
司会 郷さん、どうもありがとうございました。それでは、少し時間がありますので、もしご質問があればお受けしたいと思いますが、いかがでしょうか。
質問 私も実は前にローマの特派員をやっていたことがありますが、ただ当時はベルルスコーニならぬ、ベルリングウエルという時代で、ベルリングウェルがちょうど亡くなった頃で、今からそれこそ20何年前の事を思い出しました。非常に面白く、いろいろな状況なども踏まえながら、新しい話を伺えました。映画の中に出てきますけれども、フランスのジャーナリストが監督にむかって、なんておかしな国なんだと、自分の国の政治状況、イタリアの政治状況を聞きただすところがありますが、郷さんも高校時代からイタリアに留学されて、イタリアのDNAというのはかなりその頃からしっかり刻み込まれていて、おそらくは日本に帰ってきたほうが異文化の感じが、異文化にまた戻ってきたという感じがしているのではないかという気がします。今のイタリアの政治状況について、非常によく説明されましたが、今そうやってちょっと日本に戻ってきて、それで日本の政治状況なり、あるいは日本の文化状況なりというのを、率直にどういうふうに感じてますか。なんか最初変な感じがして、よくわからないという。そういうふうなもし感じが政治なり何なり、今選挙たけなわで、統一地方選挙終わったりなんかしてますが、感じる違和感みたいなものがありましたらちょっとお話願います。
郷 そうですね。住んだことがあるといってもそんなに長く住んではいないのですが。でも今イタリアから帰ってきて思うのが、右でも左でもいいけれども、やはり政権交代が可能な政治である方がヘルシーなのかなという気がします。モレッティ監督ではないですが、対抗馬に問題があるということもあるとはおもうのですが。「違和感」と今ご質問受けたのでちょっと感じたことがあります。ついこの間、長崎市長が射殺されるという事件があったのですが、その数日後に私、ある大学で国際報道について講義をしました。イラク戦争の話なんかをしてきたのですが、最後に「この長崎市長射殺事件をテロだと思う人はいますか」と、だいたい120人くらいいた学生たちに聞いたのですね。そうしたら手を上げた人は1人もいなかったのです。それで、じゃあこれはテロではないと思う人というふうに言ったら、3分の1くらいの人が手を上げて、ではなぜテロではないと思うのですかというふうに言ったら、「誰にでも反論する権利があるからです」というふうに言ったんですね。抗議したり反論することはいいけれども、殺したら駄目なのよという当然の話をしました。あとは、テロというのはアラブ人がやるものではないのですかとか、そういう話を学生から聞いて、ちょっとショックを受けました。言論テロというのですかね、テロというものについて、外にいると非常に敏感になる感じがするのですが、日本にいると、鈍感というか、あまり意識することがないのかなというのは非常に感じました。それでいいでしょうか。
司会 他にございますでしょうか。今、郷さん、対立候補に問題があるということおっしゃいましたが、ベルルスコーニという人物ですね、彼がなぜあそこまでイタリアで人気があるのかということが、僕もいまだにどうも理解できない点があるのですが、ああいう人物はイタリアに受け入れられる素地というのはやはり基本的にあるのでしょうか。
郷 そうですね。私が暮らしたり、取材したりして感じたのは、左派支持者というのは非常にコアな層があって、本当に私の個人的な印象なのですが、選挙の結果なんかを見ると、だいたいイタリアには3割の左派支持者と、3割の右派支持者がいるような気がするのですね。残りの4割がだいたいどちらかという中道のような、例えばカトリックは大事だとか、中絶をしてはいけないとか、そういうような宗教的なファクターもあって決める人なんか多いのかなという気がします。私の友達なんかから聞いててみんながよく言っていたのが、ベルルスコーニさんが出現して、右派の人気が高まったというよりは、左派の人気が落ちたと。もともとイタリアの左派というのは、もちろん労働者クラスもあるのですが、インテリのエリート、冷戦時代はイタリアの共産党というのは人材の宝庫と言われたように、非常にエリート意識が高い人が多いことも確かなのですね。それに反感を覚える人というのもたくさんあって、そのあたりをくすぐって台頭していたのがベルルスコーニさんなのかなという気がします。彼が悪口を言うときは「お前は共産党野郎だ」というのが口癖になっていますし、「メディアと裁判官は全員共産党だ」と、悪口として言うわけですね。みんな言うのは、昔のイタリアではそんなことを言う人は絶対いなかったと。だから、イタリアの左派を見る目が変わったというか、そもそも持っていた左派に対する小さな反発が非常に強いものになったりとか、左派を憎むことが恥ではないんだというような文化になったというか、そういう部分があるのかなという気はします。
質問 私文字を読めるようになって以来、朝日新聞を取っていまして、特に郷さんの記事は必ず読んでいます。去年ローマへ行きまして、パッソガヤにあります旧ゲシュタボ本部のローマ解放記念館を見に行ったのです。実はレジスタンスの歴史とか、ムッソリーニの失脚の過程とか個人的に研究してまして、それでローマ解放記念館に誰もいないだろうと思って行きましたら、高校生の集団が先生に引率されてきていて、初老の学芸員が滔々と説明していたのですね。もしご存知でしたら教えてもらいたいのですが、イタリアの高校教育というのは、日本と違ってまず現代史から教えるのか。要するに、おじいさんたちはどうドイツを追い出したかということを教えているのではないかなというので、私印象を持ったのですが、どうなのでしょうか。
郷 私はイタリアの高校に日本で言えば2年と3年にいたのですが、現代史から教えるというのはなかったです。歴史ではなく、社会科というようなので教わった記憶はありますね。私が留学していたのは80年代だったのですが、住宅事情や家族を重んじるという習慣もあって、イタリアは1人暮らしがあまりいないんですね。一緒に住んでなくても必ず日曜日は一緒におばあちゃんの家に行ったりとかというのがあるのですが、やはりおじいちゃんおばあちゃんが子供に非常にそういう話を進んで聞かせるというのは感じますね。日曜日に、例えばちょっとした地元の食堂なんかに行くと、おじいちゃんと、そのお父さん世代と、子供世代みたいなのがいて、ランチをとりながらおじいちゃんが何百回繰り返したかわからない戦争時代の話をしている。孫たちが「もうおじいちゃん聞いたよ」なんていうシーンもよく見かけることはあります。わりと学校で習うというよりは、家庭で聞いたりとか、教会の集会で聞いたりとかというのはあると思います。、学校にもよるのかもしれませんが、高校なんかにはアジるタイプの先生もけっこういて、10代の若い子たちなんかは影響を受けるのかなという気はしますね。
質問 面白い話をありがとうございました。今の質問に触発されて関連する質問なのですが、私もイタリアで生活した事があるのですが、しょっちゅうテレビで白黒のナチスドイツ時代のドイツ軍の侵攻シーンとか、第2次世界大戦の白黒フィルムをやっているのですよ。その頻度というのは日本よりはるかに高いのですね。それで、イタリアのファシズムとか、あの時代をどういうふうに教科書とか、そのジャーナリズムの世界では教えているのか。日本は比較的淡々と歴史を、事実を並べていますよね。イタリアではこういうのを否定的に言っているのか、あるいは肯定的、肯定的ということはないと思いますが、どういうトーンで教えているのかということに興味があります。例えば、ムッソリーニ時代のイタリア国内のそういうファシズム体制が広がっていたこととか、リビアとか、エチオピアとかに侵略、植民地にしてますよね。あれに対してイタリア政府が謝罪をしたのかとか、歴史でイタリアはこんなことをしてしまったと、非常に悪いことをしてしまったと言っているのか、それとも、謝罪とかもあまりなくて、淡々と歴史を言っているのか、何かご承知であれば教えていただきたいと思いますが。
郷 私が最初にイタリアに住んだのは83年から85年で、今回住んだのが2003年から2007年だったのですが、それでもかなり空気が違う感じがします。80年代前半のころは、今でもそうなのかもしれないですが、ムッソリーニとか、ファシズムとか、そういうのを非常に強く糾弾するという雰囲気が強かったと思うのですが、今やはりイタリアも徐々に右傾化しているのかなと。昔は「ファシスト」というのがののしり言葉だったのが、今は首相をした人がののしり言葉として「コミュニスト」と言っていますからね。そういえば、友達と話していて、昔ほど白黒映画がテレビで流れないねという話をしたことはありましたね。昔ほどドイツ占領ですとか、ムッソリーニ時代なんかの記録映像が流れなくなったというのは、統計はとっていないですが、そう言われればそうかなという気がします。リビアとエチオピアのことはわからないです、謝罪したかどうかというのは。申し訳ないです。
司会 どうもありがとうございました。郷さんは、この後懇親会にも出席していただけます。それで懇親会でもまたもしご質問があればぜひしていただきたいと思います。