プリモ・ウオモの黄金時代

第325回 イタリア研究会 2007-05-25

プリモ・ウオモの黄金時代

報告者:音楽評論家 酒井 章


第325回イタリア研究会(2007年5月25日 東京文化会館大会議室)

タイトル:「プリモ・ウオモの黄金時代」

講師:酒井 章


司会   酒井章さんにプリモ・ウオモ、日本ではあまり、プリマ・ドンナは有名でも、プリモ・ウオモはそれほど使われませんが、「ー1920~30年代と50~60年代のテノールたち」という題でお話をいただきます。

 それでは、酒井さんのご紹介をさせていただきます。酒井さん、イタリア関係では大変有名で、あの巨体と大きな声を一度聞けば誰も忘れないという有名な方でございまして、早稲田大学のご出身で、三菱商事に入社されまして、三菱商事にお勤めをしながら、オペラ関係の仕事をやっておられるという方でございます。現在は、チッタディーノオペラ振興会理事長と日本ヴェルディ協会の理事をしておられます。日本人の若手オペラ歌手のためのコンサートのプロデュースをたくさん手がけておられます。そのほかに、著書がたくさんありまして、「スタンダードオペラ鑑賞ブック」あるいは「オペラキャラクター解読事典」「栄光のオペラ歌手を聴く!」「アリアで聴くイタリアオペラ」などの著書がございます。イタリア研究会の中にも大変友人が多い方で、一度酒井さんにぜひお話をという話が以前からあったのですが、今回佐久間さんのご推薦と交渉によって、今日のお話が実現いたしました。

 それでは酒井さん、よろしくお願いします。



酒井   どうも、ただいまご紹介に預かりました酒井です。よろしくお願いいたします。今日はあいにくのお天気で、来たら誰もいなかったらどうしようかなと思ったのですが、多数ご参加いただきましてありがとうございます。また本当にお忙しい決算期等、月末の5・10日ということで大変だと思いますが、よろしくお願いいたします。

 今日は、講演会をご依頼いただいたときにいくつかのテーマを候補にあげまして、例えば「プッチーニの作品における女性像」とか、いろいろ今までやったものを並べたのですが、何か1番マニアックなものを佐久間さんが選ばれたので、どうなるかわかりませんが、プリマ・ドンナというと、今またマリア・カラスが第何次かのブームになって、マリア・カラスを再発すれば確実に売れるということで、レコード屋さんも安全パイとして使って、なかなか日本ではプリマ・ドンナは受けてもプリモ・ウオモは受けないという、そういう現状を打開したいという気持ちで、日々布教活動に小生は動いているわけです。そもそも私とオペラとの出会いというのは1968年にさかのぼってしまうのですが、当時私はパリに住んでおりまして、そのときにちょうど親に連れられて劇場に足を運んでいて、いろいろな当時、最近亡くなりましたが、シュワルツコップとか、ニルソンとか、そういう歌手をシャンゼリゼ劇場なんかで聞いていたのですが、女性の声にあまりときめかなかったのですね。子供のときいろいろ繊細なときもあったのですけどね。そのうちにだんだん男性の声を生に聞くにあたって、これは非常にセクシーであると。ソプラノの甲高い声というのはあまりセクシーではないなという感じがしまして、それからずっとそのテノールの声の魅力というものにとりつかれて、現在にいたっているわけです。

 イタリア研究会ですと、水谷彰良先生なんか、プリマ・ドンナ派の一番の、研究会の方にもすでにお話されているかと思いますが、いつも水谷先生なんかと会うと、ソプラノ贔屓派とテノール贔屓派で話が合わなくなってしまうという感じなのですね。今日はちょっとプリモ・ウオモに集中して話したいと思います。

 「プリモ・ウオモの黄金時代」という題にしましたが、そこでどうして1920年代30年代と50年代60年代としたかというと、この2つの10年間というのが、非常に歌手の黄金時代としてピークを形成していたのですね。それはいろいろな要因もあったのですが、1920年代というのは、レコードの文化史からいいますと、ちょうどラッパ吹き込みとかそういう方式から、電気録音に移行する時期で、非常にレコードの発達した時期でもあるのですね。一方、映画のほうに行きますと、トーキー映画が発明された時期と重なると思います。ラジオの文化も1920年代から30年代にかけて全世界的に普及してきて、実際舞台に足を運ばない人たちにもいろいろな有名な歌手の声が伝わるような、それによって非常に裾野が広がった時代なのです。

一方、50年代から60年代というのはもう1つのピークなのですが、これはテレビ世代ですね。ラジオ世代からテレビ世代。1953年に日本でNHKの放送が始まりますけども、アメリカではNBCが1954年からカラー放送を始めるのですね。これでいろいろな歌番組等も増えまして、有名なエド・サリバンショーなんかもオペラ歌手を非常に多く招いて、そういうテレビという新しいメディアにのって、オペラという総合芸術がどんどん広がった時期で、そういうところでビジュアルなものを要求されることもだんだん増えてきたわけですが、この2つのピークに、それぞれ綺羅星のごとくスター歌手が出てきたので、それのご紹介を今日はしたいなと。

イタリア研究会に属されている方はもういろいろと有名な歌手の方もよくご存知だと思うのですが、今日はその有名な歌手も取り上げますけれども、歴史の狭間に埋もれてしまっている、しかし、こういう人の芸術というのはまた再評価されなくてはいけないだろうなと私は日々思っている人の、特徴を表すソフトを持ってまいりましたので、一部イタリア研究会の趣旨と違ってフランスものが2曲ばかり入っているのですが、ご了承いただきたいと思います。これはその歌手の特性が非常にわかりやすく出ている曲ということで選びましたので、ご了承願いたいと思います。

1番最初に、お手元にお配りした資料の中に、ベルカントの世紀からヴェリズモの世紀という題になっていますが、オペラの歴史というのは、1600年前後にフィレンツェで始まって、まだせいぜい400年の歴史しかないわけですが、それが大きく花開いたのが、18世紀19世紀ですね。

簡単に分けてしまいますと、オペラというのは歌を中心とした、歌唱を中心とした総合芸術ですから、歌い手の特性を分析していきますと、17,18世紀というのは,独特な文化が花開いた時期で、カストラートという去勢歌手がスターとしてもてはやされました。

もう10年ぐらい前になりますか、フランスの映画でファリネッリという伝説的なカストラートの伝記映画が大ヒットして、オペラに親しみを持っていなかった若い世代にも受けたわけですけども、そのカストラートの世紀というのが約1世紀半続いたわけですね。

ところがそのカストラートというのは去勢するものですから、歌い手になり損ねた人たちは、非常にナポリの道端に立って男娼になるとか、社会風紀を乱すということで、教皇庁からお達しがでまして、カストラートは禁止ということになって、だんだん衰退していく。

代わってスターになってきたのが、19世紀になるとソプラノ歌手なのですね。モーツァルトにしても、19世紀前半のロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニといったベルカントオペラの中心的な担い手となった方たちの作ったオペラというのは、非常にプリマドンナ形式のオペラ、要するにソプラノの声を主役とした作品が多かったのです。その中でロッシーニはちょっと特異で、彼は高い音域のソプラノよりも、いわばコントラルトというか、メゾの低い音域の方を非常に重視したということで特異ではありますが、19世紀はベルカントの世紀といわれて、ソプラノの時代であった。

ところが、1873年、ナポリにエンリコ・カルーゾという偉大なテノール歌手が生まれてからその歴史が変わるわけですね。それで、ちょうど彼が成熟してきたときに、レコード技術が発明された。1902年に、当時、ローマ教皇の生の声をレコードに残そうということで、G&Tという、タイプライターなども作った会社ですが、こちらの方の技師が教皇庁の方に、パパ様の、教皇の声を録音しに行く途中で、ミラノに寄ったら、スカラ座にカルーゾという歌手が出ているぞと。ついでにこいつの声も録っておけということで、試験録音したのですね。これが発売したら爆発的に売れた。それによってオペラの人気というのは飛躍的に上昇した。それが20世紀。

20世紀ですね。19世紀末から20世紀初頭にかけては、ポストベルカント作曲家といわれるいわゆるヴェリズモ写実主義的な運動の中で、皆さんよくご存知のように、レオンカヴァッロとか、マスカーニとか、ジョルダーニとか、こういうヴェリズモの作家、あるいは、チレーアとか、カタラーニとか、そういう人たちが作品を発表するようになりました。

彼らの取り上げるオペラの素材というのは、それまでのギリシャローマ時代の神話とか、そういうちょっと現実離れしたものから、古典の世界、神話の世界というものを離れて、同時代の非常に世話物的な題材、三角関係を描いたような、それこそ「道化師」とかですね。その時代の市井の題材を取り上げて、それに音楽をつけていくということで、非常に表現的にも激情的、激しいという意味ですね。激しい表現をとるような作品、それに基づいた歌唱様式というものが前面に出てきたわけです。

で、その担い手として、ソプラノ歌手よりもテノール歌手の方に主役が移っていくという時期がありました。

そのようなヴェリズモ・オペラの最高の担い手がカルーゾであって、カルーゾの録音した「道化師」の「衣装をつけろ」というSPレコード、当時のビクターの録音したレコードが、結局初の100万売ったレコードになったわけです。ポピュラー音楽とかそういうものを押しのけて、カルーゾの録音が全世界で聞かれた。そんな時代でした。

ところが、そのカルーゾというのは割合若死をしまして、1921年にがんで亡くなるわけですけれども、そのあまりにも偉大だったスターが消えた後に出てきた継承者というか、カルーゾの流れを汲んだテノールから、あるいはカルーゾとはまた違ったタイプのテノールというものがでまして、その華やかにそろったのが1920年代です。

当時、第1次世界大戦が終わりまして、1929年にやがて来る世界恐慌の前のちょうど10年間というのは、非常に一時的に世界的にも経済が活況を呈した時期でして、その娯楽としてのオペラというものも非常に盛んになり、イタリアの歌劇場だけでなく、アメリカの方のメトロポリタン、あるいはマンハッタンオペラというメトロポリタンに対抗して作られた劇場に数々の名歌手が登場して、連日豪華なプロダクションが繰り広げられる。

その担い手として、今日1番最初に聞いていただきますのが、ベニアミーノ・ジーリという、これは有名な方ですが、今日最初に聞いていただくのは「麗しのアマリッリ」という、これは古典歌曲に属するものですが、ここで今日はいろいろ歌手の名前の後にイタリア語でキーワードを書いてあります。

まずその「麗しのアマリッリ」というのは、「ささやく声」というもののサンプルとして取り上げてみました。オペラというと、広い空間でやたらと大声をはりあげるというのを間違ったイメージでもたれている方もいらっしゃるのですが、本当のベルカントの歌というのは、決して大声を張り上げるものではなくて、歌のラインというものが、こういうささやくような声で歌っても、2千人3千人の劇場の隅々までマイクを通さなくても通るというのが本当のベルカントで、それを実現させているテクニックというものが継承されていかなくてはいけないということなのですが、なかなかマイクロフォンやなんかが発達してしまうと、逆にそういうテクニックがおろそかになってしまって、やたらとPAに頼るとか、そういうことをやってしまうような弊害が出てきます。

ところが、これからお聞かせする時代の歌手たちというのは、非常に自分たちの声を、時間をかけて練り上げた人たちですので、そういうようなただただ声を張り上げるような歌ではなくて、その歌の中に声の色がある、色気があるというものを体現していたわけです。

それでは、まず1曲聞いてみましょう。「麗しのアマリッリ」カッチーニ。カッチーニというのはフィレンツェで1番最初にオペラが発明されたときの最初期のオペラ作曲家の1人です。

(麗しのアマリッリ)

非常にゆっくりとしたテンポで、ポルタメントを非常につけて、今現代こういうふうに歌ったら、すぐ学校でも否定されますね。指揮者からこんなテンポで振れないと言われるようなテンポで、当時はやはり歌手中心の時代ですから、それが許されていたわけです。

今お聞きいただいたのがジーリの1920年代の録音ですが、ジーリはこういうようなソフト、叙情的な歌い方もすれば、激しい表現力も可能だったということを証明するために、次「アンドレア・シェニエ」というまさにヴェリズモオペラの代表的な作品、要するにフランス革命にギロチンの露と消えた愛国詩人アンドレア・シェニエを主人公とした、「ある日青空を眺めて」という即興詩、この録音を聞いていただきたいのです。

これは1953年に、もうすでにジーリが63歳になっていたときのライブ録音なのですが、サンレモで開かれたコンサートです。ここで彼は非常に意図的に楽譜を歌い崩して、その歌い崩し方がまた観客の興奮を呼ぶというところで、まさにヴェリズモ的な歌唱の典型。しかも、ヴェリズモオペラの特徴の1つとして、非常にこぶしを多用するのですね。例えば、浪花節やなんかでも回すようなこぶしが随所に出てきます。そのうまみというのが、ジーリほどうまかった人はいない。現在この歌を、楽譜にちゃんとこぶしを歌うように指示が書かれているのですが、それを歌える歌手がなかなかいないのですね。変にこぶしをやると声が飛ばなくなってしまう。だからそこらへんがちょっと現在はテクニックがむしろ衰退しているのではないかと思うのですが、それではライブの音源を聞いてみましょう。

ジーリというのは、イタリアのアドリア海の方の近くにマルケ州というところがありますね。州都アンコーナというところで、アンコーナというのは「ひじ」という意味ですね。イタリアはよく靴にみなされますけど、あれを腕にみなすと「ひじ」の部分がアンコーナですね。そのアンコーナからちょっといったところにレカナーティという町があるのですが、そこの生まれの人で、マルケ州は昔から名歌手の産地ということで、ソプラノ歌手でいうとテバルディとかチェルクエッティ、テノールではフランコ・コレッリとかが出ています。今レカナーティに行くと、ジーリの博物館がありまして、ジーリのお孫さんが館長をやっておりますが、非常にいい、ひなびた町でございます。

(ある日青空を眺めて)

非常に場内の興奮が伝わってくる録音でしたが、ジーリは、一晩でコンサートを開くと、本プログラムの曲目数は大体20曲、アンコールでまた20曲、今では考えられないプログラム構成ですね。それが晩年までずっとそういう状態を続けたのです。いかにテクニックがすぐれていたかということで、今そういうことをやったらみんな声がつぶれてしまうと思うのですが、非常に正統的なベルカントのテノールでした。

ちょうど今日はそれぞれテノールが2人ずつペアになって出てきますが、これはイタリアに「ヴォチ・パラレーレ」という名著がありまして、歌手列伝の名作なのですが、後で出てきますジャコモ・ラウリ・ヴォルピというテノールが、この人はもともと法科大学を出ている人で、非常にインテリなのですが、その人が自ら歌手列伝をパラレルに比較しながら作ったという本が出て、今絶版なのかな。ボローニャでボン・ジョヴァンニというオペラ関係のレコードとか書籍などを出版しているところが出しています。80年代くらいまでは版を重ねていたのですが、それをまねて、ペアリングをしてみました。

ジーリと同世代でティト・スキーパという人がいまして、これは前に藤原の総監督もやられていた五十嵐喜芳先生がローマに留学されたときに師事された先生で、そこに書いてありますように、これからドナウディの「おお、愛する人の」を聞いていただきますが、voce sul fiato要するに声というものが、息の上に乗っていくものだよという言葉を、五十嵐喜芳先生はよくレッスンに行くとスキーパ先生から聞いたそうです。息の上に声を乗せるようにソフトに歌うのが1番声の真髄であるというそのモデルとして、次の録音を聞いていただきたいと思います。

(おお、愛する人の)

いかがでしたでしょうか。スキーパという歌手は決して声量の豊かさを誇る歌手ではなく、高音に強い歌手というわけでもなかったのですが、当時絶大な人気を誇ったのですね。まさに彼みたいな大声を張り上げるような歌手ではない人が、糸を引くようなピアニッシモを劇場全体が息を静めて聞いていたというのが、黄金時代の、今ではなかなか味わえない情景です。

次に、ジョバンニ・マルティネッリとアウレリアーノ・ペルティーレというペアをあげているのですが、全く同じ1885年に、わずか2ヶ月前後の差で、人口1万人くらいしかなかったモンタニャーナという北イタリアの村に2人の将来大歌手になる人が生まれました。今イタリアへ行きますとこの2人の名前を冠したコンクールが若手の登竜門になっていまして、モンタニャーナの村おこしの行事にもなっています。日本からもチャレンジする人がどんどん増えていっています。

マルティネッリは、どちらかというとアメリカのメトロポリタン歌劇場のスターでして、先輩であるカルーゾは、メトでの活動期の後半、1910年代から20年にかけてヒロイックな役を中心的に演じていたのですが、そのヒロイックな部分を受け継いだ歌手がマルティネッリです。これから「道化師」の主人公のカニオ、要するに旅芝居の一座の親分のカニオが村にやってきて、皆さん今晩は劇を開きますのでお集まりくださいと言った後に、村の人たちに酒場で一杯やりましょうと、だけど酒場で飲んでいるうちに、あなたの恋女房をあのトニオが奪ってしまうよということを冗談で村人が言ったところで、そこで冗談はよしてくれということで、だんだん冗談がマジになってきてしまうという場面です。そこで、tanta voceといいますが、マルティネッリというのは、いわゆるステントールタイプの歌手と言われた人です。ステントールというのはギリシャ時代のトロイ戦争で活躍した戦士の名前で、まるで50人分の声を持っているというふうに言われた人がいたのですね。これが「突撃!」と号令をかけるとみんなそれについていった。それ以来、それがもとになって、大声の歌手をステントールというのですね。その典型的歌手がマルティネッリです。

一方、同じ年に同じ村で生まれたペルティーレは、当時全盛期だったトスカニーニという指揮者に可愛がられました。トスカニーニが1920年代、ファシストとムッソリーニたちとぶつかり合う前ですね。非常に大事に使った、スカラ座で、トスカニーニの子飼いのスターと言われていました。

この2人の音楽を聞いてみましょう。ペルティーレは、後で聞いていただくとわかりますが、これも特に声が美しいとか、そういうものではなくて、むしろ表現力の豊かさというもので、アクセントをつけた歌を歌うということで、今でも、パバロッティにしろ、現在のラ・スコーラとか、活躍しているテノールは、レコードを聞くというと誰を聞きますかというと、そのペルティーレをあげるのですね。お手本になるようなというのですね。特に最近ラ・スコーラが「アイーダ」をはじめて歌ったときに、彼は勉強熱心なので、今まで市場に出ている20組くらいの全曲版を買ったのですね。ところがペルティーレの全曲版を聞いたら、他は全部処分してしまったというくらい、スタイルがしっかりしていて、アクセントがすばらしい。

その2人の録音を聞いてみたいと思います。まずマルティネッリの「冗談はよしてくれ」これは、1934年のメトロポリタンでのライブ、実況録音です。

(冗談はよしてくれ)

昔、少し前ですが「アンタッチャブル」という映画がありましたね。ロバート・デ・ニーロがアル・カポネを演じた映画です。その中で「道化師」をシカゴのリリック・オペラで見ているという場面が出てきます。そこで使われていたのはマリオ・デル・モナコの音源が使われていたのですが、もっと時代を昔に戻って、ジェームス・キャグニーとか、ジョージ・ラフトとか、ギャングスターが活躍していた頃の暗黒映画、アメリカのギャング映画、そうすると大体マフィアのボスがオペラを見に行って、今日はマルティネッリを聞いてきたぜというせりふがよく使われていたのです。ジェームス・キャグニーなんかが貧民街から這い出てきて、成功して、ステータスの象徴として、ハバナ葉巻とオペラが出てくるのですが、当時、禁酒法時代は、マルティネッリがスターだったわけです。

次に聞いていただくペルティーレはプッチーニの「マノン・レスコー」の、マノン・レスコーが姦通罪で捕まえられて、フランスのルアーブルの港から新大陸アメリカへ流される船のところで、一緒に船に乗せていってくれと騎士のデ・グリューが泣いてすがる場面です。最初は剣をふるって救い出そうとするのですが、それをあきらめて、私は狂人です、だけど許してやってください、どうぞ温情を持って連れて行ってくださいという場面で、いかにもヴェリズモオペラにあった場面です。これをお聞きしましょう。

(私は狂人です)

ペルティーレは、非常に名声高かったわけですが、イタリアに本拠地をおきまして、当然そのメトロポリタンからも来てくれ来てくれと言われたのですが、彼はあまり行かなかったのですね。イタリアでは、こういうふうにメットに簡単に行かないような歌手が尊敬されることになっていまして、逆に今でこそエンリコ・カルーゾが神聖視されていますが、カルーゾがすぐ成功してメットに本拠地を移してほとんどイタリアに帰ってこなかったので、非常に地元のナポリでの評判は悪かったのですね。でもなぜか死んでからいろいろと、ソレントとか、観光資源に使えるということで手のひらを返したようにカルーゾ、カルーゾと言い出してしまいましたが、彼が生きている間は決して支持をたくさん受けていたわけではなかった。それが証拠に、昔、今は変わってしまいましたが、スカラ座の博物館へ行きますと、カルーゾの胸像というのはあまりいい場所には飾られていなくて、むしろ彼の先輩である、オテッロを創唱したタマーニョとか、いまかけたペルティーレとか、マルティネッリとか、これからかけるメルリとか、ヴォルピやなんかはいい場所に胸像が置かれています。ですから、そういうところは意外なイメージがあります。

例えば、イタリアに本拠地を置いてアメリカに行かなかった歌手で、最近ではもう亡くなりましたが、バリトンのピエロ・カップッチッリ。カップッチッリはメットからどんどん要請があったのですが、ほとんど出てないのですね。後、昔で言えば、バティスティーニという、SP時代の有名なバリトンがいたのですが、彼は全くアメリカに行かないでイタリアにずっといたもので、「イタリアの栄光」と言われたくらいです。そんなふうに褒め称えられた歌手がいました。


次、ジャコモ・ラウリ・ヴォルピとフランチェスコ・メルリ。ジャコモ・ラウリ・ヴォルピは、自ら歌い手でありながら、理論家でもありまして、歌手のための教則本とか、先ほど言ったヴォチパラレーレのような歌手列伝とか、そういうものを多く著作として残しています。非常に毒舌家でして、いろいろチャプターがあるのですね。声のある歌手とか、演技派歌手とか、それで一番最後のチャプターに特別な歌手といって自分の名前が書いてあるのです。すごいテノールの人ですが、そのジャコモ・ラウリ・ヴォルピが1928年にビクターに録音した「イ・プーリターニ」、スコットランドを舞台にした清教徒革命時代のお話で、王党派の騎士アルトゥーロが歌う結婚申し込み場面の「美しい乙女よ貴女に愛を」を聞きましょう。これは非常にベルカントの流れをくんだヴェリズモの時代において、その最後のベルカンティストと言われたラウリ・ヴォルピの特性が出たレガート、なめらかに歌う、それでしかもハイCの、さらに半音上のハイCisをきかせなくてはいけないという難曲です。

その次に、フランチェスコ・メルリ。これは「オテッロ」を歌う場面ですが、皆さん「オテッロ」というとすぐマリオ・デル・モナコということになりますが、その1つ前の世代で「オテッロ」を数多く歌って、その表現力がすごく秀でていたという歌手のモノローグの場面。これを続けて聞きます。

(美しい乙女よ貴女に愛を)

今お聞きいただいたように、ラウリ・ヴォルピは非常に声の自由度、幅が広い人で、例えばロッシーニの「セビリアの理髪師」今日はチラシがあって、今度スポレートの歌劇場がまいりますが、アルマヴィーヴァ伯爵という役はレッジェーロですね。軽い声の人に歌われるものですが、ラウリ・ヴォルピはそういうレッジェーロの役からオテッロまで、ドラマティックなもの全部歌えるテクニックと声を持っているということで、非常に稀有な存在でしたが、面白い人でした。先ほど毒舌家と話しましたけども、メトロポリタンが世界恐慌になって、賃金カットをやったときに、その支配人がギャラがちょっと落ちるけどというと、ギャラが落ちることは仕方がない、ただし、ジーリより1ドル高くしてくれという逸話が残っているくらい負けず嫌いで、2年先輩だったベニアミーノ・ジーリより1ドルだけ高くしろとアッピールしました。当時の支配人は非常に賢い人で、ジーリより単価は上げたのですが、出演回数はジーリを増やしてバランスをとったという逸話が残されています。

次にお聞きいただくメルリ。彼も非常に声で演技のできる歌手ということで、マリオ・デル・モナコが出てきて、圧倒的な声の力ということで観客を魅了したのですが、非常に古い人やなんかに聞けば聞くほど、メルリの表現力というものをもっと学びなさいと言われます。あまりこういうのは日本で聞かれないのですが、「オテッロ」のモノローグの場面を聞きましょう。

(恥と悲しみに満ちて)

ちょっと暗めの声で、とても男性的な魅力があると思いますね。メルリというのは、非常に研究熱心であったとともに、先ほど言ったヴォルピのようにライバル心とか、そういうものは一切ない人で、後進の指導も懇切丁寧にやったという人格者として評を残しています。

今大体20年代30年代に活躍したポストカルーゾの歌手たちを見てきましたが、その後に、レコードやトーキー映画が発明されて新しいスターが出てきました。

例えば、アレッサンドロ・ヴァレンテという人は、「イナ・バウアー」、荒川静香さんで有名になった「ネッスンドルマ」、プッチーニの「トゥーランドット」の「ネッスンドルマ」を最初にSPレコードに録音した歌手で、舞台ではそれほどキャリアはなかったのですが、そのレコードだけで大スターになってしまった。

ヨーゼフ・シュミットというのは身長が150センチくらいしかなくて、舞台にあまり立てないということで、ラジオ放送やなんかで活躍していたのですが、戦争中、ドイツを逃れて、スイスやなんかに行っているうちに体を壊して早死にしてしまいました。

マリオ・ランツァは有名でして、今のスリーテナーズと言われるパバロッティ、ドミンゴ、カレーラスが幼少のときに、彼が主演した「グレート・カルーゾ 歌劇王カルーゾ」、エンリコ・カルーゾの伝記映画を見て、みんなオペラ歌手になることを志したという人ですが、彼はオペラの舞台には生涯2回しか乗ってないですね。「蝶々夫人」のピンカートンを歌ったのと、「アンドレア・シェニエ」に出たくらいかな。ですからオペラ体験はほとんどなくて、後はもう映画とか、録音だけです。でも、今100歳バンザイに出られた中川牧三先生なんか、マリオ・ランツァは全然テクニックはなかったとおっしゃるのですが、残された音源とか、ライブ録音を聞くと、そんなことはなくて、やはりちゃんとしっかりしたメソッドを持っている歌手だと思います。

後、戦中世代、1940年代にピークに来ていたと思われる歌手として、ユッシ・ビョルリングという,スウェーデンの歌手ですが、彼は全盛期が第2次大戦と重なってしまったことで不運な歌手だったと思われますが、彼が歌ったグノーの「ロメオとジュリエット」から「ああ、太陽よ昇れ」を聞いてもらいたいと思います。ドナルド・キーンさんが最も好きな歌手がビョルリングですね。美しい声の歌手と言うとまずパバロッティの前にはビョルリングがいたということで、ちょっとイタリアの響きと違うクリスタルな美声をお聞きいただきたいと思います。1945年の録音です。

(ああ、太陽よ昇れ)

ビョルリングですね。ビョルリングで有名な事件がありまして、皆さん、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」で、ゲオルグ・ショルティのロンドン・デッカの有名な全集がありますが、これは1950年代の終わりから60年代にかけて、当時のロンドン・デッカの技術を総結集して、有名なカルショーという名プロデューサーがいまして、最近山崎浩太郎さんがカルショーの自伝を翻訳されたので、本屋さんにあって、そこでも紹介されていますが、ショルティの指揮でヴェルディの「仮面舞踏会」の全曲盤をビクターが録音することになったのですね。ここで主役のリッカルドを歌うビョルリングとショルティが完全に衝突しまして、ビョルリングというのは非常に気の小さい人で、セッションとか、オペラの上演の前に必ずお酒をひっかけてくるのですね。セッションのときにもいつもへべれけで来るものだから、ショルティが怒ってしまいまして、それでもビョルリングは歌はしっかり歌っていたのですが、テンポのとり方の問題から、ビョルリングが最後にショルティに対して、「マエストロあなたはこれからすぐ自宅に帰ってスコアをもう1回勉強しなおしてこい」と決定的な言葉を言ってしまって、それで決裂しまして、ビョルリングは降りてしまって、その代わり後に出てくるベルゴンツィが代役で呼ばれて、全曲盤は出たわけですが、結局、ビョルリングはレコードセッションから離脱した2週間後くらいに、心臓発作で49歳で亡くなりました。悲劇の歌手です。

次に、戦後世代の台頭ということで、いよいよ50年代60年代の第2のピークにかかってくるわけですが、先ほど申し上げましたように、ラジオ世代からテレビ世代へ、そして、ステレオ放送とか、ステレオ録音とかですね。録音技術が飛躍的に伸びた時代です。ロンドン・デッカとEMIという2つの大きなレコード会社がこぞってオペラの全曲版を発表し始めたのですね。先ほど申し上げましたように、ロンドン・デッカにはカルーショという名プロデューサーがいまして、デル・モナコ、シミオナート、バスティアニーニ、テバルディ、こういう人々を専属歌手として全曲盤を作った。一方EMIはカラスとディ・ステーファノという2大看板を押さえて、全曲盤を作っていったわけです。

その中で、まず最初にタリアヴィーニとプランデッリという2人の歌手ですが、タリアヴィーニはNHKが呼んだイタリア歌劇団の第2回ですね。1959年に「愛の妙薬」でネモリーノを歌ったので、そのときの映像も発売されましたので、目に触れる機会は多いかと思いますが、チェーンスモーカーで、日本に来たときも、奥さんにタバコを禁じられているので、日本人の歌手のところに来ては「チガレッテ」と言って無心していたということで、その「チガレッテ」という声の響きだけを聞いただけでも勉強になったと、当時の声楽家で、今70代になっている人から聞かせていただいたことがあります。

そのタリアヴィーニが、マスカーニの「L’Amico Fritz」という作品がありますが、「カヴァレリア・ルスティカーナ」ほどヒットしたかったのですが、独身主義のフリッツという人が、その独身主義を捨てるまでを描いた作品で、その「ベッペも恋をした」。ここで非常にタリアヴィーニのドルチェッシモの歌い方というのを聞いてみましょう。ちなみに指揮はマスカーニ自身がしています。

それから、「ウエルテル」。これはフランスのマスネの作品ですが、イタリア語で歌われている。このジャチント・プランデッリが私は今日の講演で1番皆さんの記憶に留めていただきたい歌手でして、この人1914年生まれなのですが、まだイタリアにご健在です。今でも声楽教室で活躍してますが、この方のベルカントというのは実に素晴らしい。彼に弟子入りした日本人の歌手もどんどん増えてきてまして、その人たちは第一線で活躍し始めています。彼のすばらしいのはそのピアニッシモ。mezza voce。非常にやわらかく、それをそのままなめらかに強い声に持っていくことができる、そのコントロールの実証としてこの曲をお聞きいただきたいと思います。

まずはタリアヴィーニから。

(ベッペも恋をした)

次に聞いていただくプランデッリは、パルマに行きますと、アッザーリという声楽関係に非常に詳しい出版社がありまして、そこから出ている歌手シリーズの中に、プランデッリも1冊出ております。これ300ページを超えるしっかりした本なのですが、これに市販されてない録音やなんかがおまけでCDがついていまして、もしもパルマに行かれたら、アッザーリというところをたずねて、プランデッリの本を手に入れると家宝になるかと思います。

1955年にちょうど五十嵐先生ご夫妻がローマに留学していたときに、ちょうどこの「ウエルテル」を生で聞かれて、歌というものはこういうふうに歌わなくてはいけないのかと思われたと。その当時は、美男歌手とか、美声歌手とか、数多くいたけど、プランデッリほど感銘を受けた歌手はなかったというお話を聞いております。

では「ウエルテル」から、有名な「春風よ、なぜ私を目覚ますのか」をどうぞ

(春風よ、なぜ私を目覚ますのか)


(春風よ、なぜ私を目覚ますのか)

次は、お手元の資料にはフラヴィアーノ・ラボーで「ジョコンダ」の「空と海」を聞いていただこうと思っていたのですが、予定変更しまして、映像を見ていただこうと思います。これからかける映像は、NHKのイタリアオペラ歌劇団、「トスカ」のカヴァラドッシを歌った場面です。ちょっと明かりを落としてください。今NHKとキングレコードが組んで、この当時の映像をどんどん商品化してますが、次はこのあたりを聞かさせていただきたいなと。

(映像)

フラヴィアーノ・ラボー、イタリアのピアチェンツァという美しい町がありますが、ピアチェンツァの生まれですが、ご覧のように非常に小柄な人で、160センチあるかないかですね。今日チラシがありますが、今度スポレートの歌劇場で来る中島康晴君が、ミラノのスカラ座の研修所に入って、レイラ・ゲンチェル先生とか、テレサ・ベルガンサ先生とかに習っていたときに、私たちが昔競演したラボーみたいにあなたは小さいけれど、あなたも小さい体でもがんばるのよと言われたそうですね。要するに、体が小さくても、しっかりとしたテクニックがあれば、ラボーのように非常に声を集めて、劇場で通用するような歌手になれるというお手本のような人でした。

彼は商業主義とは非常に合致しなかった歌手なのですが、歌を志す人たちからは非常に尊敬されている歌手です。残念ながら1991年に交通事故で亡くなられたのですが、亡くなる直前まで活躍されていた方です。

次、ジャンニ・ライモンディ。これはまた中島君がらみになってしまうのですが、中島君がボローニャに留学していたときについていた先生で、パバロッティが出てきたときに、ライモンディ2世と言われたのですね、イタリアで。そういうようなタイプの歌手です。彼が今ラボーが歌った同じ「トスカ」の第1幕の場面をかけてみたいと思います。

(妙なる調和)

ここで書いてあるpassagioというのは、声楽を学ぶときに非常に大切なものでして、人間の声は低い声から上の方に上げていくと、必ず変声区というのがありまして、チェンジするというのですが、声が非常に出にくい部分があるのですね。今のRecondita armoniaという曲は、その男性のテノールにとっての変声区は大体ファとかファ♯なのですが、その1番出にくいところを行ったり来たりする曲なので、非常に難しいわけです。それができるかできないかで、オペラ歌手として大成するかしないかのポイントになる。今のライモンディを聞くと、非常にしたから上への移行がスムーズで、響きがよかったと思います。

次に、皆さんよくご存知のジュゼッペ・ディ・ステーファノとか、ベルゴンツィとか、デル・モナコ、コレッリを聞くのですが、ディ・ステーファノですね。voce apertaと書いてあります。開いたというのですね。これは一般的には、最もやってはいけないものなのです。声を開けて、のどを開けて歌うということは、非常に平べったいものになるのですね。ところが、ディ・ステーファノというのは、自ら意識してapertaで歌っていたと。その典型的なものとして、有名な「リゴレット」の「女心の歌」を聞いていただきたいと思います。

(女心の歌)

聞いていただくとわかるのですが、口を横にえーと広げて、普通こういうふうに歌うとみんな声が飛ばないのですが、ジュゼッペ・ディ・ステーファノというのは天性の声帯を持った人だったのでしょうね。こういう形でも響かせられたという。今お聞きいただいたように、非常に言葉が明瞭で、言葉をはっきり伝えて、メリハリがあって、彼がマスタークラスを開いたことがあるのですが、先ほど聞いていただいた「マノン・レスコー」の場面で、「なんと美しい人だ」というアリアがあるのですね。生徒が歌うと、「違う、それじゃあ誰も落ちない」と。そこでディ・ステーファノが、ひやっと開いて歌ったら、ピッポの、ピッポというのはディ・ステーファノの愛称ですが、彼のapertoの歌唱の真骨頂が聞けたということがあったそうです。

次に、ベルゴンツィは、今のディ・ステーファノがいわばアウトローというか、テクニック的にはもうお手本にならない典型とすれば、ベルゴンツィは非常に優等生的な歌唱でして、apertoの逆に閉めていく歌なのですが、彼は映像で観ましょう。予定では「ボエーム」を聞いていただこうと思いましたが、映像がありますので、マイヤベーアの「アフリカの女」から「おおパラダイス」を見ていただきます。1960年のイタリアでの放送です。

(おおパラダイス)

非常にアップの画像なので、歌手を目指す人にはこのビデオをよく見せるのですね。先ほどのステーファノはわーっと横に開くけど、今ご覧になってわかるように、非常に閉めて、縦にわっと出している。これが1番一般的なメソッドなのです。

時間がもう少しありますので、次に、これはやはりかけなくてはいけないということで、デル・モナコの1961年に東京で歌ったバリアッチの「衣装をつけろ」を聞いていただきましょう。よくmetalloと言われる金属的な響きというもので代表的なのがデルモナコです。その一世一代のカニオの映像をご覧いただきましょう。

(衣装をつけろ)

これは1961年、まさにここ、東京文化会館の?落とし公演だったのです。10月25日ですね。マリオ・デル・モナコは非常に演技も説得力がありましたし、声を一声だけでもう何者もひれ伏してしまうという人でしたが、そのデル・モナコに対して非常なるコンプレックスを持っていたのがフランコ・コレッリです。

フランコ・コレッリが名声に比して「オテッロ」を歌わなかったのは、マリオ・デル・モナコの後に何をオテッロに付け加えることがあろうかとことですね。非常にテノールらしからぬ謙虚な人でして、その代わり、「トゥーランドット」のカラフは自分の最も得意な役であるということで、これから聞いていただきますのは、「トゥーランドット」のレッスンドルマ、「誰も寝てはならぬ」の、これは市販されてなくて、イタリアのリボルノという歌劇場の資料室から僕が譲り受けてきたものですので、これは簡単に聞けるものではありません。1960年のライブです。「ネッスンドルマ」。フランコ・コレッリです。

(誰も寝てはならぬ)

プロンプターの声が入っていて、非常に劇場の記録用の音源というのがよくわかりますが、これを聞いていただきますと、とても深みのある声。これはイタリアで言うvoce scura深い声、黒光りする声というのですね。コレッリの特徴は、最後の高音やなんかが回転して飛んでいくと言われます。Girareするとよく言われたのですね。声がよく飛ぶというのは、いわゆる「そば鳴り」と言って、近くで聞くと大きな声なのだけど、劇場の奥へ行くと声が飛ばないというのは「そば鳴り」というのですが、この回転した声というのは、遠くへ行けば行くほど響くのですね。そういうテノールとしては、コレッリというのは代表的な歌手だと言われています。

最後に、マジーニとフィリッペスキという、もう究極の声の響き勝負の歌手をお聞きいただきます。マジーニは、「アンドレア・シェニエ」の「私は兵士だった」という曲を聴いていただきますが、母音と子音のアクセント、特に母音で歌のときに大切なイ母音ですね。「イー」というときに、mascheraのところにずっと響く、これが1番声の飛ぶポイントなのですが、マジーニとか、フィリッペスキを聞いていただくと、いかにそれを極めた人の声がビンビンと響くかというのがわかります。先ほどのデル・モナコとか、コレッリよりも更に響きの強い声を聞いていただきましょう。まずマジーニの「私は兵士だった」。

(私は兵士だった)

非常に短い曲ですけども、彼のそのイ母音とか、エ母音の非常にmascheraにはまった特徴がよく聞けるものだと思います。

次に聞いていただくフィリッペスキの「アイーダ」のフィナーレのところ、時間が押しておりますので、最後の極めつけの一声だけ聞いていただこうと思います。1956年、ナポリのライブ。マリオ・フィリッペスキは斜塔で有名なピサの生まれで、路面電車の運転手とか、警察官をやっていたという変り種の歌手ですね。

(アイーダ)

今はこういう歌手がいないのでさびしいのですが、一時前はボニゾッリというテノールバカがいましたが、これは元祖テノールバカです。競演したソプラノ歌手から非常に軽蔑されていたと。なんでも高音を伸ばせばいいというものではないと。でも観客はみんな拍手をするので、みんなジェロジーアなのですね。マリオ・フィリッペスキは楽譜もあまりよく読めない、路面電車の運転手上がりのテノールでしたが、この声で天下を取りました。

最後に歌唱技術の黄昏ということで書いてあったと思うのですが、まず指揮者、演出家の問題というのは、カラヤン、これは歌手からするともう最悪の人です。よく記者会見が開かれるときに、カラヤンが中央に座るようになってから歌手がないがしろにされたと言われます。昔は、例えば、マリア・カラスもそうなのですが、その前の歌手の黄金時代には、インタビューというと歌手が真ん中に座っていた。横にトスカニーニなど指揮者や、演出家がひかえていたのですね。すぐれた指揮者、演出家は、この歌手をどうしたら最高に輝かせるかということに注力したのですが、カラヤンとか、最近ではムーティとか、自分が真ん中に座らないと気がすまないのですね。で、歌手は部品であると、そういう感じになってから、歌唱芸術が衰退してきています。というのは、音楽として、音楽が引き締まるためには、今日聞いていただいたような、あまりにも声をひけらかすようなスローテンポ、そういうものは1番嫌がられたのですね。もうインテンポで、きざんできざんで、メリハリをつけて、それによって歌手は呼吸が困難になって、満足な歌も歌えないというのが現代の指揮者の主流です。

演出家、これも最悪です。歌手の生理を理解しないのです。よく新国立劇場の方、今日いらしているからあまり言えないのですが、斜面で歌わせることが多いのですね。映像的によく見せるために斜面を使っていると、不安定なところで、歌手は声を出すときには踏ん張らなくてはいけないのですね。そのときに足元が不安定なのが1番声に影響するのです。宙吊りで歌わせたりですね。そういう演出をよくやるようになってから、もう歌手は駄目になっていく。

ヴィスコンティとゼフィレッリと書いてますが、彼らは非常にすぐれた演出家ではあるのだけど、やはり記者会見で真ん中に来るような人たちなのですね。そういうふうになると、だんだん歌手たちというのは部材になっていく。リスペクトされなくなっていく。

次、聴衆の問題というのは、やはりだんだん、生で聞いているうちに、そういうふうに歌手が小粒化していくと、だんだん聴衆が求めるレベルというものが、わりあい先ほど聞いていただいたような歌手たちが活躍していた時代よりも、はるかに物足りない歌を歌っても喜んでしまうという状況になっています。これは厳しい聴衆がだんだん減っているというのも1つ歌唱技術の黄昏に拍車をかけている。

それに更に拍車をかけるのは、商業主義の問題ですね。もうビジュアル志向。見た目がよければもうテクニックはどうでもいい。後はマイクでどうにでもごまかせる。こういう商業主義がはびこり、まずジャケットに美男美女でなければ駄目となると、最近、年を取られても活躍しているジャコミーニなんか、今出ている本のインタビューでも語っておられますが、本物というものがないがしろにされる。亡くなったアルフレード・クラウスがムーティと「椿姫」、「ラ・トラヴィアータ」ですね、「ラ・トラヴィアータ」の録音をしたときに、慣習的に歌うはずのハイCをムーティが歌わせなかったのですね。そうすると、クラウスはなんと言ったか。ムーティにはハイCが出ないからなんて言った。そういうような、自分がもっとも輝きたい、スターになりたいマエストロと、それから、その商業主義と聴衆というものが、どんどん歌唱芸術がどんどん小粒になっていく原因になってしまうということです。

次に、教育・テクニックの問題。これも非常に、今日いろいろ聞いてきていただいたように、メソッド、テクニックというものが大事なわけですが、名歌手必ずしも名教師ならずというのが多くて、わりあい生徒さんたちというのは、過去に名声を得た歌手のところへ行くのですが、彼らは元々できた人が多いので、教えられないのですね。なぜこれができないのかと、それを繰り返してしまう。最もすばらしい教師というのは、自らあまり声にも恵まれてなくて、努力でテクニックを身につけた歌手。ですから、そういう今テクニックを持っている名教師というのは、ほとんど舞台でのキャリアというのは必ずしも持っていません。そういう人たちのほうが、本当のテクニックというのを持っているのですね。でも、残念ながら、みんなパバロッティのところへ行くとか、有名な歌手のところへ行く。そうすると、とてもとてもそういうテクニックとか、こつというものは伝わらないわけです。

歌手適正のある人材の他方面への流出。これはもう痛いですね。オペラというのは、非常に仙人のような、フランコ・コレッリが生前言っていたのですが、私はこのオペラを続けるために、どれだけ人生を犠牲にしたかわからない。それこそ奥さんもあまり愛せなかった。そのくらいいろいろ我慢することが多かった。でも今は、お金を稼ぐためだったら、もうちょっとしたポップ歌手とかそういうのだったらすぐお金稼げますから、そういうほうに、本当はオペラ歌手になるべき人たちが、そういう素材を持っている人たちが、そういう長い鍛錬とか、忍耐というものを避けて、安易にポップミュージックの方へ行ってしまう。ということが、本当のオペラの担い手というものがつながっていかないということがあって、本来は歌を中心とした総合芸術であるべきオペラが黄昏ているのは、こういうようないろいろな要素があるということで、私はもう常にvoce voce voce、オペラはもう声がなかったらオペラではない。そういうことで、いずれはまた第2の1920年、50年代に続く第3の黄金期が来ることを祈って、今日のお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

9時を過ぎてしまったのであれなのですが、ご質問があれば。




司会  せっかくですから、お1人かお2人、質問があればお受けしたいと思いますが、いかがでしょうか。貴重な音源と映像を聞かせていただきましたが。もう一生分テノールの音源を聞いたようですね。しばらくはテノール聞かなくてもいいんじゃないかと。ただ1つだけ、ディ・ステーファノも非常に面白いと思ったのですが、今あれの系列の歌手というのはいるのでしょうか。


酒井  まずいないですね。学校やなんかへ行くと、ああいう歌い方をしてはいけないよという代表で使われるのですね。パバロッティやなんかもディ・ステーファノは好きだけど、あの歌い方をしたらみんなつぶれると。ディ・ステーファノだけはもったかもしれないけどということで、彼を継ぐようなタイプは今は全くいませんですね。


質問  今日は貴重な音源をご披露いただいて、またすばらしいお話をありがとうございました。私は1950年代くらいからオペラを聞いておりまして、NHKの1回目から、なるべく安い席を並んで買って行ったものです。今日はいいところ、その人の最盛期に当るようなところばかりをやったのですが、私の記憶には、もうめろめろになった歌手の歌唱だとかなんかが結構ごちゃ混ぜになっておりまして、どうも今日の演奏で改めて、ああ昔はこうだったんだなというふうに、非常にうれしく感じました。特に質問ということではないのですが、カルーゾ以来、今日カルーゾの音がなかったので、私の家なんかじゃりじゃりいうのをたまには聞いておりますが、カルーゾ以来のこういうふうなお話を聞かせていただいて、本当に私プリモ・ウオモファンとしてはありがとうございましたということで、お礼を申し上げます。


酒井  ありがとうございます。今日もう1つ言いたいのは、声の色ということなのですね。最近のオペラ歌手を聞いていると、声が淡色というか、テクニックがすぐれている人でも、声に色がないのですね。多彩さがないというか。先ほどのディ・ステーファノなどを聞けばそうですが、テクニックを超越した色があるというか、そういう色と色気というのを両立しているわけですが、そういう歌手が非常に少なくなったと。そこらへんは、単にテクニックの問題だけではなくて、やはりその人の豊かさ、感情的な豊かさというものを声に生かせていくということがなかなか難しくなってきているのかなという気はしますね。昔の録音を聞くと、非常に表情が豊かで、なぜこういう歌い方が今はできないのかなと、常々思ってますね。どうもありがとうございました。


司会  それでは、もう1度拍手をお願いします。どうもありがとうございました。