第328回 イタリア研究会 2007-08-30
都市を癒す-イタリアに学ぶ修復型まちづくり
報告者:建築家 民岡 順朗
第328回イタリア研究会(2007年8月30日)
演題:都市を癒す-イタリアに学ぶ修復型まちづくり
講師:民岡順朗
司会 興味のあるテーマと見えまして、たくさんの方がお集まりくださいましたけれども、今日は、「都市を癒す-イタリアに学ぶ修復型まちづくり」という演題で、民岡順朗さんにお話をしていただきます。
民岡さんは、株式会社オリエンタルコンサルタンツ、都市・地域グループのリーダーであり、武蔵工業大学で都市計画の客員准教授もしておられます。
簡単にご経歴を紹介いたします。早稲田大学理工学部建築学科のご卒業で、一級建築士、技術士です。1998年にイタリアに留学されまして、フィレンツェ、ローマで修復理論と実践を学ばれ、それから、実際の壁画修復に携わるという非常に貴重な体験をされております。日本に2003年に戻られまして、以来、まちづくりの分野で活躍されております。
会場でも販売しておりますけれども、『「絵になる」まちをつくる ?イタリアに学ぶ都市再生』というご著書を2005年にNHK出版から出されております。
それでは、民岡さん、よろしくお願いします。
民岡 ご紹介にあずかりました民岡でございます。よろしくお願いします。
2時間くらいいただいているのですが、90分以内で話をさせていただき、その後、皆さんからのご質問をたまわりたいと思っております。パワーポイントと、お手元にあります資料は全く同じものですが、ペーパーの方は字が小さいので、なるべく画面の方をご覧になった方がよろしいかと思います。
タイトルにありますように、「都市を癒す」というテーマです。あまり都市を癒すという言い方はないのですね。Googleで検索しても今のところ10件くらいしかヒットしません。なぜ「癒す」なのかという話はのちほどしてまいります。
この写真は、2005年だったと思いますが、ユネスコの世界遺産に登録されたトスカーナのオルチャ渓谷、ヴァル・ドルチャVal dユOrciaというところなのですが、ピエンツァPienzaとか、モンテプルチャーノMontepulcianoとか、シエナ県の南の方ですね。あそこの景観です。私もここに4ヶ月ほど滞在して、壁画の修復をしておりました。
イタリアのことを紹介させていただくのですが、私たちは日本に住んで生活しているわけで、日本のまちづくりのヒントをイタリアに求めていくというスタンスです。
最初に、全体の議論のスキームとキーワードを整理してあります。3つありまして、1つは「修復」という考え方。2番目に「まちづくり」、3番目に「イタリア」ということなのですが、まちを考えるとき、都市を考えるとき、保全という方向性と、改造あるいは開発という方向性、つまり、2つの方向性を考えていく必要性があります。
本にも書いておりますが、保全というのは、私の問題意識の中では、「都市の記憶の継承」とイコールで、文化論に近いものがあります。どうやって保全していくか。それから、どうやって修復していくかということです。
それから、今話題になっているコンパクトシティという問題は、社会的なテーマとしてここに取り上げてあります。
あとは、環境問題という大きなテーマがあります。緑化とか、水循環とか、エコロジーとかですね。これについては、今回、本題の対象外にしてあります。
ですから、「修復」「まちづくり」「イタリア」という3つの切り口で話したいと思います。
まずIntroduzione、つまり、問題提起です。最近のイギリスのインディペンデントThe Independentという新聞ですけれども、そこに載っていた地球の温暖化でどうなるのか、という話が話題を呼んだのですが、平均気温が2.4度から6.4度まで上がっていくとどうなるかというシミュレーションが出ているのですね。
2.4度上がると、グリーンランドの氷床が溶解するとか、生物種が3分の1全滅するとか、そのような事態になってまいります。3.4度だと、アマゾンに火災がおきて、ブラジルが砂漠化するとか、たぶん世界で数千万人が立ち退きを余儀なくされるとか、4.4度までいきますと、シベリアの永久凍土が溶けていくと。で、メタンと二酸化炭素を放出していって、イタリア全土が砂漠化する。すごいのは、哺乳類が、恐竜時代以来の大絶滅をしていくということです。5.4度だと、スーパーエルニーニョが発生したり、世界の食糧供給がストップしたりする。6.4度だとどうなるかというと、海底にメタン・ハイドレートというものがたまっているのですが、これがどんどん放出されていって、メタンの火の玉が空を引き裂き、海が酸素を喪失し、猛毒の硫化水素ガス放出によりオゾン層破壊、こうなったらほとんど地球ではないという状況になっていくと。
ほんとうに二酸化炭素が地球温暖化の主要因なのかどうかということについては、賛否両論あるようですが、世界の大産業というか、とくにアメリカを中心にした産業界というのは、あまりそういうことは言いたくないですね。だから、二酸化炭素は主役ではないのだというようなことを盛んに言っていますが、何はともあれ、温暖化が進んでいるのは東京に住む私たちにとっては実感できることなので、二酸化炭素はどうかではなくて、温暖化がどうかということを考えていかなくてはいけない。
そういう意味で、いきなりインパクトの強い話から入りますが、これが都市の問題と関係しているということを指摘したいと思います。
二酸化炭素に要因があるという前提で進めますが、それは誰が出しているのだということですね。これは環境省のデータをもとに作成しているものです。
産業界が36%、運輸分野が19.8%、家庭が13.5%ということなのです。で、産業と運輸で過半のCO2を出している。
そうすると、家庭に責任はないかということになるのですが、そうではありません。今や、日本人の8割が都市に居住しています。都市という定義は難しいのですが、いわゆる市部です。市政が布かれている場所ですね。当然23区も入ります。そこでは、産業も運輸も、当然のことながら、恩恵をこうむっているのは皆さん、都市の住民のわけで、そうすると、都市のあり方を変えないと、たとえば二酸化炭素ということに着目しても明らかなように、どんどん私たちの生存というのは脅かされていきます。で、都市の問題というのは非常に大きい話ですよ、ということを最初に言っておきたかったのです。これは私の本には入っていない話題です。
地球環境問題というのは、いろいろな切り口があるのですが、都市問題としてのアプローチはあまり新聞に出てこないですね。インパクトがありすぎるし、どちらかというと、生態系とか、そういう話に地球環境問題というのは持っていかれてしまって、都市つまり私たちの生活に責任があるのだという切り口って、あまり出てこないわけです。
都市のあり方を変えようという着眼点では、スローライフとか、スローフードとか、ロハスとか、あるいは、サステナビリティつまり持続可能性ですが、こういう切り口はたくさん出てきます。
とくにこの持続可能性ですが、私がいつも考えてしまうのは、「何を」持続させるのか、「どうやって」持続させるのか、というところの議論がまったくないのですね。いったい何を持続させれば持続可能性なのかと。そのコンテンツ(内容)がないままに、サステナビリティの議論をやっているわけです。今の市場経済を持続させるのだという、経済システムの話がほとんど中心になってしまっている。そのあたりが、この都市問題を考える上でアキレス腱ではないか、と思っています。
さて、数年前から、「環境・経済・文明」をテーマにした研究会に出させていただいているのですが、そこでもこのパワーポイントを使って、「文明の危機」に触れる話をさせていただいています。本日はイタリアの研究会なので、皆さんローマ帝国のことなどに興味があると思いますが、「文明論」とかなりテーマが重なってくるのですね。
ようするに、社会がどうやって崩壊するか、文明がどうやって崩壊してきたかということを考えると、森林の破壊が大きい。とくに、古代文明というのは、ほとんど森林破壊でやられています。ところが、森林を破壊するのは人間なわけで、生態系と環境を都市がどんどん破壊していったということです。
森林というのは、エネルギーとか資源と考えることもできるわけで、そうしたものを過剰消費していくと、地球の循環性とか、持続性を失っていって、地球全体が限界を超えたとき、文明の崩壊とか、人類の崩壊ということにつながっていくわけです。
もうひとつの切り口というのは、社会という着眼点で、もう少し、私たちの生活に引きつけて考えてみようということです。たとえば、風景とか、景観とか、歴史とか、文化とか、そういう身近な視点で見てみましょう。上野のこのあたりもそうですが、どんどん、生活の場、住む場がなくなっていっていますね。産業とか、経済とか、ビジネスとか、そういう場になっていって、ビルばかりになってきてしまっている。
そうすると、都市の魅力が失われてくる。都市の魅力だけではなくて、ビジネスマンやOLの働く場だけになっていき、ビジネスの場だけになっていく。
結果、人間が住む場ではなくなっていく。夜の人口が限りなく減っていきます。そうしたなか、子育てができるのかと。それから、新しい家庭がそこで循環していくのかという問題がどうしても出てくるわけです。
それをここでは、社会の循環性とか持続性が失われていくのではないか、という表現をしています。つまり、「地球環境」と「社会」の両方のファクターから、文明というものが脅かされていくのではないか、という捉え方を私はしております。
で、さらにこの問題は続くのですが、人口半減というインパクトがあるわけですね。西暦1000年から2200年までの人口グラフを見ると、今2000年代で、平成18年つまり去年が確かピークでした、新聞発表では。それで、人口が急減していって、人口問題研究所の中位推計で、2100年には6400万人ですから現在人口から半減ですね。低位推計、さらに悲観的な推計だと、なんと4600万人まで減っていくということです。ようするに、100年経つと人口が半分になるわけです。当然、都市の担い手も半分になってくるわけで、果たしてじゃあ私たちの生活はもつのかしらと、そういう話があります。
都市は、いろいろな意味で死にかけているというのが私の見方で、皆さん、東京、神奈川、埼玉、千葉に住んでいる方はあまり実感がないかもしれませんが、地方都市ですと、とくに街なかの空洞化、シャッター通り化というのはすさまじいものがある。地方へ行けば行くほど車がないと生活ができない。大都市では水も危ない、食も危ないぞという事態です。災害にも弱い。犯罪も非常に多くなっていますね。それから、最近の話題ですと、市町村合併で町名が消滅したところがたくさんあって、これはアイデンティティの問題にもつながっています。それから、中山間地には「限界集落」という言葉がありますが、集落が少子高齢化によって存続の限界を超え、消滅するという危機が大きな問題になっています。
ところが、自治体にしても、国にしても、有効な手立てがなかったり、お金がなかったりして、都市はもうほとんどベッドに寝かされて点滴を受けているけれど、点滴の液がなくなっている、そういう状態が、私たち専門家が見ても明らかです。
都市再生という言葉があります。小泉さんによって普及した言葉ですが、今、病にいる状態の都市を考えると、ちょっと待てよと言いたくなります。いきなり都市再生があり得るのかということですね。皆さんが病気になって、再生する前に何かがありますね。それは「癒し」ではないか。この「癒し」が必要という着目点を強調しておきたいと思います。
「都市を癒す」という概念ですが、じつは、クリストファー・アレグザンダーという建築家がすでに提唱しています。英語で書いてあるわけですが。とくにカリフォルニアで活躍されていて都市計画家としても有名で、日本でも作品をいくつか残しています。
私は、2006年9月に、ある仏教の研究会でこの「都市を癒す」という概念を提唱しました。他にも言っている人はいるかもしれませんが、インターネットで調べた限りでは、あまりありません。こういう概念を広めていきたいと思っていますので、皆さんも使っていただければありがたいなと思っています。
さて、「修復」というのが今日のテーマなのですが、イタリア語ではレスタウロrestauroといいます。このレスタウロという言葉は、じつは「レストランrestaurant」と同語源です。ラテン語に由来し、イタリア語でなまってリストランテristoranteと言いますが、そのレストランというのは、今では「食べる場所」ですが、いろいろな文献を読む限り、もともとは「食」ということを通じて、自己治癒力に働きかけ、人の心と身体を癒す場所、そのような場所だったようなのですね。かつては街道筋にあって、旅人を癒したり、病気の旅人を宿泊させたり、そのような機能を持っていたらしい。日本でいう旅籠(はたご)に近いですね。
で、レスタウロというのは、美術作品とか、建築とか、都市とかを「直す」行為、と言ってしまうと語弊があるので、私は「癒す」と言っているのですが、そういう行為ではないかなと思います。
とくに都市のレスタウロといった場合、「直す」というよりも、むしろ自己治癒力を高めていくということが大切で、この自己治癒力、都市における自己治癒力っていったい何なのかというのが、大きなテーマになってきます。
というのは、私は普段、会社では、土木とか建築の仕事をやっているのですが、ハードの観点、技術的な観点から都市を扱っているわけです。具体的にどうするかということですが、たとえば、地方都市の駅前にタクシーのプールがなかったり、バスが停められなかったり、自転車の停める場所がなかったりすると、では駅前広場をつくりましょうと、工事(建設事業)の話になっていくわけですね。場合によっては、そこに住んでいる人を立ち退かせて。
それから、地方を活性化させるとなると、高速道路を通しましょうとか、ありきたりの話があるわけです。会社はその設計料をもらい、私たちは給料をもらっているわけなので、それで活性化する部分もあるのですが、それによって失う部分もあります。
たとえば、どの街でも、どんどん道路をつくって郊外に大型店舗を建てましたよね。あれによって、街なかは死んだわけですよ。皆さんの消費生活は便利になりましたが、街なかで商売を営んでいた人にとってみれば、大変なことになっていったわけです。
そうしたことなので、道路とか、交通的な処理をして、街を活性化させるというのは、やはり対症療法なのです。かなりショックを伴う対症療法で、それで街がよみがえるかどうかというのは、非常に疑問な部分です。
それに対して、都市計画という観点でもう少し広く見てまいります。
今、日本や世界の都市計画とか、まちづくりの話題には、ここに挙げましたように、美しい国土とか、都市再生とか、あるいは観光とか、市民参加とか、いろいろなテーマがあります。こういったことを皆さん新聞とか雑誌でご覧になると思います。ところが、こうした「近代的な都市計画」というものにはいろいろ問題がありまして、たとえば、生活の場がなくなるとか、長距離の移動が日常的になったりしている。皆さん東京近辺に住まわれていて、家から職場まで片道60分から90分かかっていると思うのですね。
なぜかと言うと、そもそも職場と住処が離れた場所にあるからですね。このことを考えたことは皆さんあまりないと思うのです。これは、都市計画がそうなっているからなのです。生まれてからこの方、考えたことのない人がほとんどだと思いますが、それは都市計画に完全に操られているわけですね。住もうと思えば、もちろん都心にも住めるのですが、家賃がやたらと高かったりすることで、皆さんは、オフィスから相当離れた場所に住むことを余儀なくされている。
それから、都市の環境とか、水質汚染とか、大気や土壌の汚染というのは言うまでもないことですし、どんどん都市化が進んだ結果、街の個性とか、風景とか、魅力が失われていく。とくに日本はそうですね。これは、問題意識を持っている方も多いと思います。また、歴史性とか文化性といったものがどんどんなくなってしまう。これは画一的な整備が行われていった結果なのです。
そもそもこの「近代都市計画」というのは、いったい何だったのかということなのですが、概要を紹介いたしますと、もともと20世紀初頭に、国際運動があったわけです。それを主導したル・コルビュジェという建築家がいて、とてもプラスの評価をされています。私も好きなことは好きなのですが、そのコルビュジェが「建築の伝統意匠からの解放」ということを推進していきます。工業生産の時代に突入して、スチールとか、コンクリートとか、ガラスが経済的に使えるようになったことがその背景にあります。ヨーロッパの建築史を見れば明らかですが、ロマネスクがあり、ゴシックがあり、次にバロックという、いわゆる造形上のルールがかつてありました。造形だけではないですね、構造的にも、石造りの建物という前提でつくられたのがゴシックだし、ロマネスクだし、あるいはバロックだったわけですが、そういうものから解放されていくわけです。ようするに、四角い箱ができる。自由に四角い箱をつくることができる。それが大きな発明だったわけですね。最初にやっていったのが、コルビュジェとか、グロピウスとか、ミース・ファン・デル・ローエとかですね。
ちなみに、この建物、東京文化会館ですが、これも近代建築の有名作品で、私も好きな建物です。確か前川國男さんだったと思いますが、近くにある西洋美術館と造形のモチーフが同じです。あれがコルビュジェの作品なのですね。日本で実際に図面を書いたのは弟子だった前川國男だと思います。おそらくこの建物も前川國男さんの設計でしょう。
つまり、近代都市計画の初期には、造形上のコンセプトはきちっとあったのですよ。今はまったくなくなって、とにかく経済設計ということだけでやっているのが現実。都市計画的に見た場合、「住む・働く・憩う」場の分離、それから、「交通」による接続というのが、「近代都市計画」の一大コンセプトとして打ち出されてきました。
そのような都市のつくり方というのものが、地球規模で広まっていったのが20世紀。21世紀に入ってももちろん続いているわけですが。こういう近代都市計画の考え方というのが、日本をはじめ各国の「都市計画法」の根幹的な思想になっています。
その主眼は、大きく2つあります。まずは、シビル・ミニマム。市民生活に最低限必要な機能とか、利便性とか、そういったものを達成しようではないか、ということです。安全性とか、衛生環境という目的もあります。
そうすると、中央集権、政治や行政機構が中央集権的になっているシステムが1番うまくいくのです。というのは、すべての地域とか、土地とか、そういったものを画一的な指標、たとえば、人口とか、容積率とか、建ぺい率とかの指標で管理することになるからです。こうした指標は、九州であれ、沖縄であれ、北海道であれ、青森であれ、全部同じです。容積率や建ぺい率は、都市計画図という全国統一表記に則った図面に書かれています。
つまり、そこに歴史性とか文化性などは、まったく要らないわけで、青森市はどういう場所かというと、私たち専門家はぱっと図面を見て、人口はどのくらいですとか、街なかの平均的な容積率はどうですとか、そういったことにしか興味がありません、はっきり言って。青森が何藩だったとかどうとか、それは都市計画をやるうえでは関係ないのです。そうなってしまっているのが、今の行政とか、都市計画のあり方。それぞれの自治体は、中央の霞ヶ関に完全に従属して、補助金と交付税で街をつくっているわけですね。そこからのお金の供給がストップすると、とんでもないことになるわけです。
極端な話、地方都市というのは、道路が必要か必要ではないかという話には興味ないのです。道路をつくれば、そこに補助金が5割とか入りますから、要らなくてもつくれば、何億とか何十億とかのお金が入るわけですね。それで、食っているわけですよ、地方都市というのは。もちろん、残りの5割は自分の財政から払うので、負担も大きいわけですが。
それから、アメリカ軍の基地や原発で食べている自治体もあります。こうしたことが結構重要な日本の街の生き様なのですね。
それから、都市計画の主眼ですが、経済とか産業の発展、こうしたところに重きが置かれがちというか、ほとんどこればかりが目的と化している。こうした成績がいい地域というのが良い地域なのですね。いろいろな本とか統計書を見ると、いわゆる「地域力」という指標がありますし、地域力指数というのもあります。生産力とか、消費力とか、経済的に見てどうかというのを街の優劣の判断にしている。最近はさすがに流れが変ってきていて、「住みやすさ」指標というのが出てきています。札幌市などが上位に来ています。
私の見方というのは、「近代都市計画は行き詰っている」ということなのですが、この辺はあまりに理論的になってしまうので飛ばします。
近代以外の都市計画はどうであったのか。都市計画という言葉はともかく、「都市」というものをつくってきた人間の歴史というのは非常に古くて、日本でも先史時代にまでさかのぼり、青森には三内丸山遺跡というのがありますが、あれはりっぱな都市ですよね。メソポタミアとか、古代中国とか、中南米にも古代から都市計画はありましたし、いろいろなところに、近代以前の都市計画は残っているわけです。超古代都市とか、古代都市は、今ブームになっています。私たちの東京は、「風水」の都市計画が話題になったりしますが、とにかく100万を超える人口を擁した大都市江戸は当時、地球上でも非常にレアな都市だったわけです。
それから、見方を考えると、アメリカとか、イギリスなどの先進国の影響が小さい地域、ここで私が話すイタリアとか、地中海地方というのも、近代以前の都市計画による街が残存している顕著な地域の事例だと思います。
写真の左上はペルーのマチュピチュで、左下が確かモロッコだったと思いますが、右側は南伊のチステルニーノですね。陣内先生も紹介しています。真ん中は平安京の図面です。
私たちにも親しみのあるイタリアの都市ですが、個性的で、魅力的な街が多い。皆さん多くの地名を知っていますよね。おそらくフランスやイギリスの地名より、イタリアの地名が日本でも相当知られている。なぜかと言うと、地方分権なのか、中央集権なのかの違いなのですね。
地方分権であった国というのは、歴史上、いろいろな都市の名前がたくさん登場するわけです。中央集権だったところというのは、フランスだったら圧倒的にパリだし、イギリスではロンドン、ある時代以降は登場するのは首都ばかりですね。この、地方分権の歴史が長いのか、中央集権の歴史が長いのかということは、地名がどれだけ知られているかを計る指標として面白いと思います。
地方分権を生きているということが大きく影響していると思うのですが、世界文化遺産を見ても、2005年現在、イタリアには40地区あって世界一でした。
イタリアをヒントにして都市の話を進めているというのは理由がありまして、もっとも大きい理由は、日本の人口は100年後の2100年時点では今の半分である6400万人。2005年、2年前のイタリアの総人口が5700万人でした。だいたいイコールですね。国土の広さも似ています。日本は38万平方キロなのですが、北海道を除くと30万で、イタリアと全く同じになります。イタリアの方は、サルデーニャとシチリアをもちろん含んでいますが、そうすると、人口密度でだいたい平方キロ当たり200人。国土が南北に細長く、山がちであるという観点からも似ているのです。
それから、政治体制を見ても、両国とも敗戦国であって、近年は恒常的に財政とか、経済が低迷してきました。今の日本は経済復旧しつつあるとはいえ、国際的な金融機関の格付けを見ると、イタリア以下になってしまった指標もあるわけですね。
都市を比較してみましょう。都市のつくり方では、日本はどんどん開発をしていく、イタリアは保全していくという特徴があります。都市の性格も、日本は似た都市ばかりなのに、なぜイタリアに行くとあんなに個性があって、どの都市を見ても違うのでしょうか。
都市計画の目的もじつは、産業経済の場を整備するわが国のやり方に対して、イタリアは、生活の場をつくっていくということをかなり早くから採り入れています。
都市の構造については、城壁がある石造りの都市と、日本の都市の違いでもあるのですが、日本の都市というのは外延的なのですね。どんどん外側に拡大しやすい構造をしています。イタリアの都市は、求心的といいますが、広場とか、庁舎とか、教会を中心に集約的につくられています。
都市づくりのスタンスが開発型であるというのは、説明するまでもないと思いますが、震災復興や、戦後復興以来、行け行けドンドンの開発型でやってきている。
イタリアの保全型というのは、じつは、自然にこうなったわけではないのです。1960年代、70年代に大きな政策転換があって、そこでストック重視というか、保全型を選択した結果、今のイタリアがある。これは今日の重要なテーマです。
都市の性格。なぜ日本はこんなに個性のない街ばかりなのか。もともと日本の街というのは個性があったのですが、近代的な都市計画を進めた結果、政策や制度が均一的なものだから、できた街も当然、均一的になってくる。
イタリアというのは、地域の歴史とか、文化とか、生活様式の多様性をうまく残してきている。その結果、個性が保たれているわけです。
もともとイタリア人が個性的で、日本人は個性的ではないということではなくて、日本の都市ももともと非常に多彩で、金沢は金沢だったし、仙台は仙台の個性があったし、東京でも山の手と下町で全く個性の違う地域があったわけですが、均質化してきているというのは、比較的近代の話なのですね。
都市計画の主目的というのも大きく違うのですが、これは説明的になるので飛ばします。
都市の構造ですが、日本の外延的な構造というのはいい部分も当然あるのですが、たとえば、都市間の移動が多いというのは顕著な特徴ですよね。私は会社が渋谷にありますが、業務は茨城方面とか、東北方面が多いので、渋谷と上野間の移動を頻繁に行うのです。上野から新幹線に乗ってしまえば仙台まで1時間半で着くのに、渋谷からここまで来るのに30分かかるわけですね。渋谷‐上野間に特急か何かつくって欲しいのですが、地下鉄で来ても、山の手線で来ても、30分以上かかる。渋谷の会社から自宅までも距離があるので、東北方面とか、北関東方面への出張や移動は、相当たいへんです。
イタリアに住んでいた方は似たような経験をされていると思うのですが、ローマやミラノ、フィレンツェではあまり移動がないですよね。ローマだと日常的な足はせいぜいバスか地下鉄、フィレンツェだと自転車ですよね。ミラノにも地下鉄がある。シエナくらいの規模だとほとんど徒歩圏です。そういう意味で、人口250万のローマでやっと電車とかバスに乗るくらい。人口35万とかのフィレンツェだと、まあ自転車移動が普通。このような都市のコンパクト性という視点で、都市づくりの今後のあり方を考えなくてはいけないのです。
都市間の移動が多いというのは、マイナス面でいうと、そこでエネルギーが使われるということなのですね。電力、それから石油、ガソリンですね。それらを使うだけでなくて、排熱が出てきます。
今年の8月はすごい暑さでしたが、熊谷では40度くらいに上がったのかな。たぶん渋谷だともっと高いと思います。私のオフィスは渋谷の国道246号沿いで、かつ首都高があり、半蔵門線の排熱が出るところにありまして、たぶん43度くらいあるのではないかと思うのですが、そこで働くことにどういう意味があるのかなというのは、日々実感しています。でもそれが都市に対する私の問題意識を強める方向に働いているので、それはそれでいいのかなと。ただ、社会的に考えるとそういうことは好ましくないと思うのですね。
「住み続けられるか」、「住み続けられないか」というのは極論かもしれませんが、私が5年間イタリアに住んでいたときは、どこに住んでもいいなという思いがありました。フィレンツェに1年おり、ローマには4年おりましたけども、あまり移動しなくていいとか、生活の場がきちっとできているし、身近に文化遺産があるし、そういう意味でやはり住み続けられる。それがサステナビリティということにつながると思います。
ところが、日本の都市はどこへ行っても、ちょっといやだな、引っ越したいなと、つねに思うのですね。私は大学時代以来、7回くらい引っ越しましたが、賃貸に住んでいたときは、2年間経って更新費を払うくらいなら引っ越そうという感覚でいました。それでも今、川崎市に住んでいるのは、渋谷に近いというそれだけの理由からです。
なぜ、住み続けられないという感覚があるのかというと、生活のコミュニティがないし、子育てを考えたときに、子供には学校や塾以外での友達というのはおそらくできないだろうし。それは大人になってもそうですよね。それから、自分の住んでいるところで仕事はないし、そういう意味でも住み続けられない。
私は都市計画をやっているのでいろいろなところへ行きますが、地方都市では観光地は観光地なりに問題があるし、そうじゃない都市は没個性的で、秋田の駅前はホテルばかりになってしまっているし、青森は人が全然歩いていないですよね。それから、本にも書きましたが、北九州の小倉と、川崎の駅前がやたらと似ているのですね。モノレールが走っているか走っていないかくらいの違いで、小倉駅で降りたとき、これはどこかと似ていると思ったのですが、川崎に似ているというのが実感です。それから博多の駅前が、東京駅の八重洲口のミニチュア版なのですね。ものすごく似ています。そういう場所というのは無数にあるのですよ。
さて、話の方向がここから正反対になりますが、日本の文明とか文化が今、環境やエコロジーの分野で着目されているのです。
なぜかと言うと、日本の文明というのは、縄文時代から一貫して環境調和型という様式を持っていて、生きとし生けるものとの共存を大切にしながら、森林と水郷が調和したようなモンスーン気候型の水郷文明というか、自然調和型の生産のあり方を続けてきたからです。室町時代くらいに都市化が進み、城下町がつくられ、さらに江戸時代に入って100万人を擁するような大都市ができても、一貫して資源を無駄にしないというか、環境を破壊しないやり方できたわけです。
ローマとか、イタリアの文明というのは、地中海性気候で乾燥していて、畑をつくります。小麦栽培というのは土地を駄目にするのですよね。牧畜をやるには、森林を切り開かなくてはいけない。ヨーロッパというのは、それで何回も何回も森林を破壊しては国力が衰退していくことを繰り返しているわけです。比較的近代に入って、植林をしていかないと国がもたないぞということに気がついて、懸命に植林をするようになりましたけども、そういう文明のあり方から始まったルネサンスと科学主義というのは、自然を従属させるというか、自然を使っていく、利用するという、そういう考え方にもとづいているわけです。そうした延長でどうなるかというと、ヨーロッパは、とっくの昔に国土が荒廃してもいい、滅亡していてもおかしくないのではないかというくらい自然破壊をやってきているわけですが、要所要所でやはり反省をしてきているのですね。
日本は、世界から注目されるくらいのエコロジー型の文明を切り開いて、続けてきたわけですが、肝心要の生活の舞台である街というのは、なんか汚らしいというか、いろいろな問題を抱えるものになってしまっている。
日本の都市は、もう衰退というレベルを超えて、もっとひどいレベルまで行くのではないかと思いますが、日本文明とイタリア文明の逆転というのは、いったいなぜ生じてきたのでしょうか。両国の都市の繁栄と衰退のねじれはいったいどのように生じてきたか。
古代にまで遡る必要はなくて、戦後の復興のあたりから見ていけばいいと思うのですが、日本とイタリアというのは、両方とも敗戦国です。イタリアの方がもちろん被害は少なかったのですが、負けたことは負けたわけで、1950年代から60年代くらいにかけて両国とも、奇跡の経済成長というのを経験してきているわけですね。経済復興ですね。開発をどんどん押し進め、都市化をしてきたわけなのですが、60年代から70年代に、イタリアでは、政策の大転換があったわけです。「もう開発ではなくて保全型でいこうよ」という合意形成がなされてきました。
日本は、一貫して開発を進めていますよね。最近では、六本木ヒルズとか、ミッドタウンが話題を呼びました。少し昔では、列島改造から始まって、太平洋ベルト地帯とか、メガロポリス構想とか、バブル開発とかを経てきて、まだその潮流は続いています。
この30年前、40年前くらいの大転換を経験しているか、していないかということが、今の日本とイタリアの都市のあり方に直接影響を与えていると思います。
ちなみにちょっと戻りますが、先進諸国の近代化というのは、とても興味深い話で、このイタリアとか、日本とか、ドイツというのは、英仏などに比べると近代化後発グループですよね。国家統一といってもいいかもしれませんが、イタリアでは1861年に王国ができ、日本は67年に大政奉還があり、ドイツは71年にビスマルクがドイツ帝国をつくっているように、短い間に同じようなことをやってきているのです。
コンパクトシティの議論に入っていきます。この表は朝日新聞社の本に出ていたのですが、縦軸が人口減と人口増を表しています。左側が資源の分散、右側が資源の集中と書いてありますが、日本は敗戦後、首都圏や太平洋ベルト地帯などに、人や金などの資源を集中させて高度成長を果たしました。資源を集中させ、人口は増加傾向でした。
そして、人口が増えたまま、資源の分散に入った時期があるのです。これは列島改造のあたりですけども、地方のインフラ整備ですとか、郊外のニュータウン開発をどんどんやっていったわけですね。ばら撒き政治といわれるやつです。
今は、人口が減ってきている局面です。去年ピークがあって、人口減とか、高齢化のなかで、地方へのばら撒きというのは、国の財源上むずかしくなっています。今は福祉問題に話題が行っていますから、足元の都市問題が見えにくくなっているわけですね。
資源を分散させていくだけの財政が立ち行かなくなってきているなか、もう1回その資源を集中させるべきではないかというのが、この本の主張だったわけです。私もそう思うのですが、ようするに、もう少し選択的に財政を使っていこうよということが、大きな話題になりつつあります。
そういう意味で、先ほど「日本は開発型」でしばしばスクラップ・アンド・ビルドという言い方をされてきましたけれど、「造っては壊し」というあり方がなかなかできなくなってきているというのが今の状況です。
それはなぜかと言うと、人口も100年で半分になってしまえば、当然マンションを買う人も、車に乗る人も大幅に減ってくる、道路だってそんなに距離を延ばさなくてもいいじゃないか、という話になってくるわけです。
今まで日本のゼネコンは、下請け構造とかいろいろな問題を抱えつつも、高度な技術があり、それを中高年の技術者が支えていたのですが、生産人口が急速に減ってきていて、技術の中心にいた人が、今年あたりから一斉に退職しています。そうすると、技術が伝承されないわけです。実際にミスがどんどん起きるなど、問題が発生しているわけです。公共事業、民間の事業でも、あるいは、設計もそうですね。役所の側も、設計をチェックする人が減ってきている。確認申請の事件がありましたが、役所にチェックする人がいなくなっているので民間を使いましょうということで、あのようなビジネスが始まったわけです。そもそもそういう問題が背景にあるわけです。設計ミスというのはチェックする人がいなければなかなか防げないので、マンションは十分に注意して買わないと。
それから、生産人口が減ることによって経済が低迷した場合、財源が不足しますから、たとえば新しい道路をつくったり、高速道路や地下鉄をつくったりということがなかなかできなくなってくるわけです。
環境問題という意味でも、建設廃棄物を出そうにも処理場がないじゃないですか。今まで廃棄物は埋め立てに使ってきたわけですね。東京湾の浦安だとか、ああいうところで、建設廃棄物とか、工業廃棄物を使ってきたわけですが、これは、海面を埋め立てて、造成して、分譲マンションが売れるという前提のもとでやっているわけで、今後は分譲マンションも飽和してだんだん売れなくなりますから、埋め立て需要もなくなってくるわけです。そうすると、廃棄物の持っていく場所がなくなってくる。
もちろん、温暖化抑制という観点から資源もエネルギーも使えなくなってくる。
そうなると、今までのような「開発型の都市づくり」というのはできなくなるわけです。否が応でも、保全型にシフトしなければいけなくなってくるわけです。
すると、議論を先取りするような形なのですが、「保全型のまちづくり」のメリットというのはどういうことなのかと。このあたりからイタリアの話になってくるわけですが、歴史性というものを回復させたり、あるいは、古いものを舞台にして新しい文化をつくったりすることが重要になってきます。イタリアの街へ行くと明らかですよね。たとえば、ホテルでは、非常に古い建物を使いながらインテリアがとてもモダンなものだったりします。お店へ行ってもそうです。イタリアンデザイン、いわゆる新しいものが、ルネッサンスやバロックなど古い様式のなかに調和している。
そういう文化のあり方というのが現れてくるし、古いまちを大事にすることで、住んでいる方も愛着も持ち続けながらそこにずっと住み続けることができるので、コミュニティとか、歴史を背景にしたアイデンティティというものがきちっと守られていくわけです。
それから、イタリアの建設事業のあり方を見ていくと面白いのですが、新しい建物をつくるのではなくて、古い建物を守っていく。あるいは、ちょっと改造するということであると、大きな建設機械は使えないわけです。職人の手仕事に頼る部分が大きくなる。そこで伝統技能とか、あるいは地元の雇用というものが、重視されていくのですね。そのように地域経済への貢献の仕組みというものも出てきます。
さらに大きい効果は、コンパクトシティ、つまり移動が少なくてすむような都市が実現していくというものです。
これは先ほど言いましたが、日本とイタリアの都市の分布です。この地図は同じ縮尺で両国を表しています。実際、日本の方が南北には長いのですが、東京を基点にして鹿児島あたりまで。イタリアではトリノを1番北に持ってきて、南はシチリアの対岸にあるレッジョ・カラブリアReggio Calabriaのあたりまで距離を測るとだいたい1000キロなのです。
日本でなぜ札幌や仙台が入っていないのかとか、いろいろ批判もありましたが、たまたま省略しているだけです。東京区部から福岡まで日本の8大都市を表示しており、イタリアでも8大都市を表しています。8都市の合計人口をそれぞれ見ますと、日本は2100万、イタリアは760万人になるのですね。
その中で、もっとも北側の東京区部だけで813万、川崎127万、横浜349万、ミラノ、トリノ、ジェノヴァがそれぞれ124、86、60で、北部3大都市の合計人口は、日本は1289万、イタリアは270万なのです。日本の場合は、北部イタリアの約5倍の人口がここに固まっているという状況なのですが、100年後の姿をちょっと考えてみます。簡単なシミュレーションです。今、全人口が日本では1億2000万、イタリアでは5700万。そのうち、日本では10%の人口が北部、ここでいう東京区部、川崎、横浜に集中しています。イタリアでは北部3都市への集中は5%です。
1つのシミュレーションとしては、100年後、総人口が半減ですから、地方と大都市圏が同じように人口減少していけば、日本中の都市がすべて半分になるわけですね。そうではなくて、この際だから地方分散というものをやりながら、大都市圏への集中を是正していこうよという話であれば、今1289万人いるのを、270万くらいまで持っていくことを仮に考えた場合、人口は5分の1です。どうなるかと言うと、東京の渋谷から横浜へ行くのに東横線がありますが、全20駅中、特急停車駅が4駅なので、その特急停車駅だけを都市にして、ほかの市街地をすべて緑地に戻すと5分の1という人口削減が実現される。そんなイメージです。
これは1つの象徴なのですが、半減でも大きい話で、大都市圏の人口集中是正ということを考えていくと、これくらいのスケールの話になってくるわけです。
なぜこんなことを言うかというと、放っておいてこうなるのと、ちゃんと意図的に、計画的にこうするのとは違うからです。放っておいてやったらどうなるかというと、どこもゴーストタウンになってしまうのですね。
なぜかと言うと、建物を解体して、きちっとアスファルトを取り除いて、畑とか森林にしていくには、相当お金がかかります。それは生産人口がないと、あるいは経済力がないとできない話。人口がいませんというだけだったら、映画によく出てくるように、ブロンクスあたりの荒廃した都市のイメージになってしまう。人口減少のカーブにきちっと合うような国土管理をしながらまちづくりをやるには、意図的にそういうことをしていかなくてはいけないわけです。
ここまでが長くなりましたけれども、レスタウロの話に入ります。この話題を考えるときに、もう一度思い出していただきたいのは、循環とか、持続性の話です。そして皆さんの生活に密着したようなところ、都市の内実というか、中身の方ですよね。そのときに、「風景」というものが、重要なキーワードとして扱えるのではないかと思っています。
2000年にフィレンツェで「欧州風景条約」というものが締結され、そこに「風景の定義」というのが付されています。英語で書いてありますが和訳すると、「風景とは、人々に知覚されている地域であり、自然的・人間的要素の作用・相互作用の結果という性格を有する」ということになります。
青い字で書いてある部分は私なりの解釈として整理しているのですが、風景というのは、ビルとか、街並みとか、樹木とか、山並みとか、単なる事物の集合体つまり物質ではない。物質とは書いてないですね、全く。それから、「地域である」と書いてあるので、空間であるということですね。
それから重要なのは、人間の営みや精神的な働きを含むということ。「時間的なプロセス」を組み込んでいるということです。空間も時間も両方扱っている。それから、「人々に知覚されている地域」というのがあるので、「ある地域社会にとっての共通の了解事項」だという深読みができるわけです。これは非常に重要なことで、風景というのは単なる美観とか外観ではないということなのです。時間とか、皆さんの精神的な働きとか、地域社会にとっての合意事項のような、深い哲学的なテーマとも言えると思いますが、そういうものをはらんだ言葉なのですね。
風景というのは、その場所ならではの、上野なら上野でもいいのですが、上野公園の緑とか、人工物、たとえば、JRという鉄道構造物であったり、道路やビルであったり、そうした物質的な側面を結びつけるというのは当然のことながら、それ以上に、そこに住んでいる人々の心だとか、精神とか、さまざまな活動・文化、上野であれば芸術活動が行われているし、下町ならではの祭りなんかもある。そうしたことを束ねているわけです。社会を形成する役割を風景というものは担っている。
そういうふうに読み取れると思うのですが、その反対に、「風景を失う」ということはどういうことか。私の本のなかでこれはメインテーマで、「都市の記憶の喪失」と言っておりますが、街が記憶を失うと、歴史とか文化が感じられなくなっていく。あるいは、時間とか空間が均質化されていく。こうした現象は、ひょっとしたら、人々の心の絆というか、人間関係のあり方、これがなくなっていくプロセスと同時並行的に進むのではないかということを、仮説として私は唱えています。もう1つ言うと、風景の喪失というのは、精神破壊の一因になっているのではないかなと私は思っています。若年層の心があれだけすさんでいくというのは、風景がないというのも1つの大きな原因なのではないかと。これは直感で言っているだけで、まだ明確になっていないのですが。
さて、「修復」というのは、「風景」と非常に密接な関係があるのですが、風景を取り戻していくのも、修復の1つのあり方です。修復というのは何かということを考えていくと、一般的な意味と、国際的な定義というものがあります。それは措いておいて、修復や保全を行う相手、対象ですね。これには「美的な価値」と、「歴史的な価値」があります。もともと修復というのは、いわゆる美術品を扱っていたのですが、最近では、都市や風景というように対象が変ってきているのですね。それから、美的なものというより、歴史的なものが修復・保全の対象となってきています。この顕著な事例が、ユネスコの世界遺産にもなっている広島の原爆ドームです。原爆ドームというのは、あれに美的な価値を見出す人はあまりいないと思います。しかし歴史的な価値に疑問を唱える人は100%いないでしょうということで、これが典型的な事例ですよね。
京都の有名なお寺には歴史的な価値と美的な価値の両方があります。それから、最近話題になってきた産業遺産というのは、どちらかと言うと、美的というよりも、歴史的な価値。原爆ドームになると明らかに歴史的な価値だけです。そういうふうに、国際的な考え方というのも、歴史的な価値を重視するような方向になっているし、日本でも同様です。
こうしたことを考えるときに、重要な注意が必要です。歴史的価値、美的価値といった問題のとらえ方は、日本でもイタリアでも共通の話として進めてきました。現に、ユネスコといった国際的な場でも、共通理解が得られています。けれども、実務、実際の現場の話としては、日本とイタリアの修復のあり方というのは違ってくるのです。文明的なレベルと文化的なレベルを視野に入れなければいけないのですが、これはあとで説明します。
「修復」ということを単純に考えると、皆さんは頭のなかに何を思うでしょうか。一般的な意味なのですが、「壊れたもの、汚れたもの、傷ついたもの、こうしたものを直したり、きれいにしたり、もと通りにする」。そういうイメージで捉えている人が多いと思いますが、じつはそうではないのですね。
必ずしもイタリアの修復というのは、きれいにしませんし、もと通りにもしない。直すこともしない。いわゆる家具の修復といった場合はこのとおりなのですが、私がやっていた絵画の修復になると、ちょっと違う。
なぜかというと、「歴史的な価値が失われる」というのがその答えなのですが、たとえば、皆さんご存知のシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画・壁画です。あそこは、きれいに洗浄しすぎたということで、ずいぶん批判を浴びたわけです。
それから、ちょうど2000年のジュビレオのときに、ローマのサン・ピエトロ寺院とか、サン・ジョヴァンニ寺院のファサードが真っ白になりましたよね。水か空気を高速で吹き付けて、表面の汚れ、主に排気ガスによる汚れですが、過剰なまでに取ったために、作業直後は真っ白になりました。今はまた汚れていますが、「えー新築したの?」などと言われてしまったのです。
歴史的なものというのは、ある程度、垢(あか)というか、ぱっと見て古い建物だということが分かるような、情緒みたいなものが必要なわけです。イタリアには、歴史性を重視するという考え方の重要な柱に、「修復してそこを充填整形したり、新しい補強材・構造材で補強したりする部分というのは、オリジナルの部分つまり歴史的な部分と、のちに人間が手をかけた部分との違いがはっきりわかるようにする」という一大原則があるのです。そういう意味で、いわゆるもと通りにするというのとは違うやり方をとっていきます。
なぜかというと、「修復とは、対象の物質的無欠性を維持するため、また、その文化的価値の保全・保護を担保するために行う介入措置を指す」と法律で規定されているためです。これはイタリア法律第490号・34条ですが、国際的規範もこの考え方を踏襲しています。修復というのは部分的な処置であり、他に問題がなければ、そのときの状態のままに保全する。傷ついたものも、そのまま保全する。「傷ついた」というのは、作品なり、街なり、建物なりが歴史的な過程で辿ってきた重要な証しであって、それはそれで尊重しようというのが彼らの考え方なのですね。
もう1つ議論として重要なのが、このレスタウロrestauroというものと、レストランrestaurantというものが同語源だということ。しかし、このことに着目した「癒す」という言い方は、イタリアでも日本でもしていないのです。
修復や保全の対象というものは、先ほど言いましたけど、もともとは美術品とか、工芸品からスタートしたもの。ところが、イタリア人は修復をずっとやってきたかというとそうではなくて、じつは18世紀からなのです。
イタリアに行きますと、修復とか保全に関わる言葉がたくさんあります。レスタウロrestauro(修復)と言ったり、レクーペロrecupero(回復)と言ったり、リプリスティーノripristino(復元)と言ったり、リサナメントrisanamento(再生)と言ったり、あるいは、リンノヴァメントrinnovamento(更新)とか、リコストゥルツィオーネricostruzione(再建)とか、コンセルヴァツィオーネconservazione(保全)とか、いろいろな言葉があるのですね。それぞれ全部違う意味があります。フランスには料理の言葉が多いですよね。あれほどではないですが、イタリアへ行くと、レスタウロ関係の語彙が多いわけです。
その文化というか、文明において、どんな概念や言葉が重視されているかというのは、語彙の数を見るとはっきりわかるのです。
このように、非常に面白い修復の話題ですが、ここではまちづくりの話に絡めて、都市の修復について話を進めます。
イタリアの都市再生のメカニズムというのは、「修復型」を特徴としています。これは今回のテーマです。どういうことかと言うと、彼らの都市再生というのは、いわゆる再開発ではないのですね。ビルをどんどん建てるということはしないのです。
そうではなくて、歴史的な都心部、これをチェントロ・ストリコcentro storicoと言いますが、そこの保全から入ります。それと同時に、ポイントは郊外部の開発抑制です。これらを両輪としてやっていくのです。
どうなるかと言うと、チェントロ・ストリコの方は、住民のコミュニティが維持されたり、あるいは、歴史的な価値、文化的な価値、美的な価値が守られたり、上がったりします。郊外部はどうなるかというと、とにかく開発されませんから、ビジネスをやろう、あるいは、ここに住処を求めようという人は、チェントロ・ストリコに入ってくるわけです。そこで投資が行われてくる。お金が入ってくる。それは民間であっても、公共であってもそうなのですが、修復とか、再生の工事が活発化する。再生事業が進んでいくと、チェントロ・ストリコでは、ビジネス環境も整ってくる。観光客も増加する。職住近接も図れる。お客さんも増える。ということが進んできます。投資が進んでいくと、文化的な価値だけではなくて、商業的な価値も上がります。残念ながら家賃が上がるという副作用もあるのですが、商業価値上昇が幸いして、家賃負担力のある高付加価値型のショップが集まってくるわけです。だから、イタリアのチェントロ・ストリコに行って買い物すると、魅力的な、アーティスティックなものを売っていたり、郊外の店では売ってないようなブランド品が置いてあったり、ようするに、高単価なものが置いてあるわけですね。そういうことを戦略として、彼らは都心商業とか、産業政策とか、あるいは、都市型観光政策というものを打ち出しながら、都心部の活性化、都市再生というのを図っていく。これが、イタリア人のやり方なのです。
日本は全く違いますよね。とにかくまず壊す。壊さなければ、工場跡地を狙って、更地にして、そこに大きな容積率のオフィスとか、マンションとかを建てる。昔の街の構造などはまったく無きものにして、新しい街をつくっていくというのが、日本の都市再生のあり方なのです。そうすると当然、歴史もへったくれもないわけです。
ヨーロッパの建設事業を考えていくと、これは統計書があるのですが、3分の1強が、修復に使われているのですね。イタリアのチェントロ・ストリコでは、だいたい公共と民間が50:50の割合でお金を落としているという簡単な統計があります。
その修復のあり方はいろいろ違うのですが、日本の場合とイタリアの場合を考えていきます。先ほど中間定義を出しましたが、イタリアの修復の考え方というのは、物質とか、材料のオリジナル性というものを重要視します。日本の場合は、伊勢神宮を見た人は多いと思いますが、材料のオリジナル性には着目しないのですね。それよりも、きれいであること、清浄という概念を日本では重視するのですが、そこには文明的な背景があると思います。
イタリアでは歴史の感覚が直線的で、積み上げ型の感覚を持っている。それはユダヤ教、キリスト教に根ざしているわけなのですが、日本は、循環型の時間感覚を持っていますから、歴史を積み重ねていくということは、あまり考えないというか、とりあえずどうでもいいと思っている。そうではなくて、自然の巡りとか、そういう思想の方を重要視する。そうすると、歴史的なものを積み上げて、古いものを保全して、その上に新しいものをつくっていくということを、日本人はしない。それが特徴でもあるし、まずい現象を生む部分でもあると思います。両方あると思いますけれども、とにかく、そういう文明的な特徴があるので、修復的にまちづくりを行っていこうと私が言ったとしても、ヨーロッパの考え方をそのまま持ってくるということはできない。この辺で、ちょっと議論がややこしくなりますが、私が修復型の都市づくりと言っておきながら、ディテールの部分では難しいですよと言わなければならない点です。分かりにくいかもしれませんが、そういうデリケートな部分もあります。
この写真は、アッシジで、サン・フランチェスコ教会が大きく損壊したときの様子です。1997年ですね。震災後、破片を1つずつ拾って、壁画とか、天井画とかを修復していったというエピソードを皆さん知っていると思いますが、なぜそんなことをするかというと、彼らが物質的なオリジナル性というものにこだわっているからなのですね。とにかく破片は破片であっても、それは物質としてはオリジナルなのだと。そういう思想があるからあんなことができるわけです。伊勢神宮の場合は、20年に1回建て替えますよね。木材から全部1回廃棄して、新しい木を切ってきて、それで建てますから、形は同じですが、材料は全部違うわけです。人間の身体が、5年でしたっけ、10年でしたっけ、細胞が全部変りますよね。それと同じですね。物質的には全部変るわけです。けれど、アイデンティティは保たれる。そのアイデンティティは物質ではなくて、形態にあるというのが日本の考え方なので、そういうことができるわけです。だから、どちらかというと、生体の考え方に似ているのが日本というか、たぶんアジアの考え方。
イタリアとか、ヨーロッパの考え方はそうではなく、物質というものに非常にこだわっている。これが、修復を考える上で、大きく違う部分です。
今日の議論を大きく整理すると、まずは、保全とか、修復というのがあって、もう1つは開発というものがある。この開発と修復の両極をめぐって、都市のあり方を考えていかなければいけませんね、というのが1つの主張です。
それから、修復とか、保全型にしていく、あるいは、そうならざるを得ないといったときに、そのあり方はどうなるかというと、ヨーロッパのものをそのまま持ってこれはしないというのが、2番目の主張です。簡単に整理するとそういうことなのです。
では日本の修復、あるいは、日本の修復型まちづくりというのは、何に着目していくかということについては、ここで私が提案している通りなのです。日本の文化のあり方、あるいは文化財のあり方でヨーロッパと非常に違うのは、無形文化財というものが重要視されている点です。芸術とか、芸能とか、祭祀、信仰、習俗、そういうものが重要視されているわけですね。無形文化財、無形資産といいます。
それから、人と人のつながり、もちろんイタリアでも同様なのですが、こうしたものを保全していく。さらに、日本的な時間の観念というか、歴史の考え方、時間の考え方ですね。歴史の積み上げというより、それも大事なのですが、むしろ、循環する時間というものを大切にしている。たとえば、おそらく日本人が1番大事にしているものを5つ挙げろといったら、必ず季節、四季というものは入ると思いますが、その季節のめぐりというもの、四季折々の風景とか、花とか、樹木とか、あるいは祭りとか、そういったものが日本の風景のモチーフになっています。もちろんイタリアでも四季はありますが、日本ほどははっきりしてないですよね。秋がなかったり、春がなかったりします。ローマへ行っていると、今頃になると急に寒くなって、冬に突入しますよね。冬から夏にかけても、3月くらいまで寒くて、4月は天気がぐずついて、5月になるといきなり夏ですよね。春がないわけです、はっきり言って。やはり季節感というのは、日本にいるほうが感じる。その季節感というものがはっきり現れてくるのが、里山とか、屋敷林とか、そういうところなのです。ビルを見ていても、季節感というのは全然ないわけだから、そうしたものを重視していけば、日本的な風景とか、魅力とか、そういうものが出てくるのではないか。
それから、日本的な美意識というものがあります。古いもの、新しいものという美意識は日本にはあまりないのです、じつは。そうではなくて、光と闇とか、そういう美意識はあるのですね。これは谷崎潤一郎も書いていますけども、光と闇のあり方が重要です。
抽象的な言い方ですが、そういうものをモチーフにしながら、日本的な修復というのを考えていくことが重要です。イタリアでやっているような修復、物質に着目したメカニックな修復というのは、あまり馴染まないのではないかなというのが、今の私の考え方です。
持続可能性とか、サステナビリティとかという言葉を出しましたが、考えなければいけないのは、「どうやって」持続させるか。もっと大事なのは、「何を」持続させるかということです。どうやって持続させるかについて着目しなければいけないのは、人口半減とか、地球環境の問題とか、エネルギーとかの問題です。あるいは、環境だけではなくて、文化的な持続性も考えなければいけないでしょう。何を持続させるかということについては、生活とか、文化とか、歴史なのですが、ヒントになるのは、日本史上の理想点でしょう。文明的、文化的なピークというのはあると思います。残念ながら、今はピークというか、底の底だと思いますが、縄文時代の自然共生型のあり方でもいいし、水郷風景でもいいでしょう。江戸時代の循環型都市というのは、明らかに文化的な頂点にあった時代のものですね。そうしたものに注目していくというのも、1つのやり方だろうと思います。
ただ、そういうものは、誰かが決めるのではなくて、みんなが描いていくべきもので、行政が決めたり、法律で描いたり、そういうものではないと思います。
私たちは仕事では街づくりビジョンとか、都市計画ビジョンとか、総合計画とか、マスタープランというものをつくるのですが、あれはおかしいですよね。東京の私たちみたいな業者が青森へ行っても、茨城へ行っても、同じようなものをつくっているわけです。建前上の市民参加はありますけれど、地元の人々自身があまり熱心ではないですよね。青森らしさはこうだとか、茨城らしさはこうだとか、そういった話は出てこないのです。
本来は地元の人、当然、台東区と渋谷区でも違うわけだし、街のビジョンを描いていくというのは、その主役である皆さん、もちろんそこで働いている人も入れてですが、そういう皆さんが、将来像を描きながら、街をつくっていく。何かの目標を定めて、そこに向かって、新しいものをつくるだけではなくて、古いものを修復したり、保全したり、そういうことを考えながら、いきなり再開発をやるというのではなくて、イタリアでやっているような、ああいう細かい修復を重ねながら、街を再生させていくというやり方が参考になるのではということです。
58ページのこの図(“日本らしい風景”の蘇生と創造)は本に入っております。ちょっと小さいので、本のほうを見ていただければいいかなと。
一応ここで終わりなのですが、簡単に他のスライドも流してみます。
イタリアにおける修復の具体事例です。イタリアの保全思想の流れには、美術品と建造物(建物)、2つのルーツがあって、第2次大戦、その戦後、どういうふうに行われてきたかという経緯を整理しています。
1960年代に民主化とか、民権化運動というのがあって、保全すべきものは、風景もそうですが、市民の生活も重要だねという議論があったり、67年に、都市計画法の改正があったり、そういったステップを踏んできています。その結果、たとえばフィレンツェですけれど、こうした風景が、上から見ても道路に立った人間の目から見ても、魅力的な街が残っているわけですね。
チェントロ・ストリコの概念というのは、60年にグッビオGubbioというところで行われた国際会議(ANCSA)で、再生問題という観点で提起されていったようです。チェントロ・ストリコという言葉自体はもっと前からあったと思いますが。
イタリアでは、チェントロ・ストリコのうち、ユネスコの文化遺産に登録されているものが、今7つあります。ローマおよびバチカンが1980年の登録。フィレンツェが82年、サン・ジミニャーノが90年、シエナが95年、ナポリが95年、ピエンツァが96年、ウルピーノが98年。チェントロ・ストリコだけではなくて、ヴェネツィアとか、ヴィチェンツァとか、アッシジとか、ヴェローナは、街全体が文化遺産なので、事例から外れています。
それから、ローマ、フィレンツェ、サン・ジミニャーノ、シエナ、ナポリ、フェッラーラ、ピエンツァ、ウルピーノのチェントロ・ストリコの写真です。これはボローニャです。世界遺産に入ってないのですが、都市計画的に面白いのはボローニャです。これは1582年に描かれた鳥瞰図です。こちらはGoogleで出した今の衛星写真です。変らないのですね。この城壁は今撤去されて、環状道路になっていますが、その都市構造はほとんど変っていないのです。
先ほど言いましたように、都市計画法や都市基本計画というものがちゃんとあって、保全が、都市計画的にきちっとなされている結果、こうなっているのです。
これは陣内先生の本からですけども、都心部の住宅再生です。古いものを活かしながら、住宅再生を図っています。これはボローニャのメインの広場、「マッジョーレ広場」の舗装材の修復の事例です。
これはローマです。こういう風景はイタリアへ行くと、ご覧になった方が多いと思います。街なかのジュリア通りで、骨董通りで有名な場所ですが、そこの建物のファサードを修復している事例です。
これは、マルケのマチェラータMacerataという街です。こういう修復現場というのはどこにでも見かけるし、リゾート地へ行っても、このような都市計画のボードが立っていて、地元の人や観光客が、コンペの案などを見たりしている。
ジェノヴァはヨーロッパで1番人口が高密度で、建物が非常に高いのですが、ここでも修復事業が進んでいます。たとえば、左側が一部取り壊し中の事例、右側が修復後の事例です。民間の建築でも、普通の何気ない建物が修復でよみがえりますという広告が、ホームページなんかでよく出てきます。
オリヴェッティのショールームです。カルロ・スカルパという建築家がやっているので有名だと思いますが、古い建物を修復再生した事例です。
アッシジは先ほど出てきました。
これはフィレンツェの近く、プラート市のドゥオーモ内部の、15世紀の有名な画家フィリッポ・リッピの壁画の修復。これは私がやっているわけではありませんが。私がやっていたのは、このサン・クイリコ・ドルチャSan Quirico dユOrciaの事例です。オルチャ渓谷(ヴァル・ドルチャVal dユOrcia)が2004年に世界遺産に登録されましたが、このサン・クイリコ・ドルチャというのは、その中心的な街です。そこの市役所として使われている建物があって、この建物の中、日本でいう2階と3階にこういう壁画と天井画があるのです。今は全部修復が終わっていますが、そこに私は半年くらい滞在して修復した経験があります。これは同僚の写真ですが、たぶん第2次大戦の爆撃だと思いますが、天井に、ぼかっと穴が空いていて、そこに充填材を入れながら3人で修復しました。大きな部屋が19か20あったのかな。それを3人で半年です。
次は、ヴィテルボViterboというローマ近郊の街です。そこでも修復をやりました。これがその修復の現場です。これは、20世紀の壁画つまり近代化遺産でした。修復が終わって、今はこういう大学施設の中の教会として使われています。
その次は、リニャーノ・フラミーニオRignano Flaminioの修復現場です。ここでは、中世の教会内部に壁画があってそれが対象です。この写真は修復プロセスを示しているものですが、左側が修復の前で、真ん中がメスを使って洗浄した後で、右側が修復後の様子。これはフレスコ画だったのですが、建物本体と、建物の中のインテリアというか、文化財ですね。こういうものを合わせて修復していく。建物の中も、建物の外側も、修復を重ねながら、イタリアのチェントロ・ストリコができていく。
これが修復作業の実際の風景です。
二転三転して、なかなか分かりにくい部分もあったかと思いますけど、1時間半ちょうど経ちましたので、いったん説明を終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
司会 民岡さん、どうもありがとうございました。それでは、どなたかご質問があれば受けたいと思いますけど、いかがでしょうか。
質問 貴重なお話をありがとうございました。日本では棚田が貴重な風景だと思うのですが、これは各地にたくさんありまして、我々としても残したい風景だと思うのですが、保存するには非常に費用がかかると思うのですが、どういう方策をとったらよろしいとお考えですか。
民岡 私がほかで活動しているところが文明研究会で、どちらかというと地方部の森林とか、農業集落ですとか、そういったところの話題が中心なのです。棚田は日本だけではなく、たとえばバリ島に行ってもあるし、モンスーン地帯、東アジア全体にありますよね。どこの国へ行っても、今おっしゃいましたように、メンテナンス費用が1番の問題点で、実際その担い手がいなくなっていますよね。成功している事例を見ると、外部から若い人たちがやって来て、そこで農作業をやりながら、半定住生活をしながら、生活の中に棚田保全を組み入れるというのがポイントです。補助金をつけてどうのこうのということにたぶんならないので、あまり現金収入はなくても、環境のいい所で農業をやったり、半農半Xという言葉がありますが、半分は農業をやって、半分は物書きをやったり、コンピュータのプログラミングをやったり、地方で暮らすというライフスタイルが出てきていますよね。それから、定年退職された方が、もう1回農業に戻るというライフスタイルが出てきているじゃないですか。現金収入はその代わりあまり期待できないわけですが。でも、やりたいという人を組み入れている場合は、うまくいっているようなのです。だから、先ほど言いましたように、棚田を、ただの景観資源というか、ただの風景として見て行くと、その風景を守るためにどうお金をすえるかという発想にしかならないですね。そうではなくて、先ほど紹介しましたように、風景というのは、そこの農業のあり方だとか、農業集落のあり方だとかと一緒になってつくられてきたものだし、生活と結びつけていかないと守られていかないと思うのです。だから、地元の方が駄目でも、なんとか外から、若い人でも、中高年の方でもいいのですけれども、生活の中に組み入れて、結果として風景が保たれるというやり方で、活動の方をメインにしていくことによって、風景の内実が保たれていくのではないかと思うのです。たとえば今映っているのは、オルチャ渓谷ですが、ここもそうなのです。ここにこれだけのりっぱな風景が残っているというのは、ここで今も麦の農業が実際に行われているからなのですね。麦をつくらなくなったら、風景は守れないじゃないですか。棚田もそうだと思います。他のやり方もあるかもしれませんが、私が聞きかじった中では、今申し上げたような仕組みができているところがうまくいっているということだと思います。
司会 それと関連しますけれども、風景というのが1つのキーワードになっていたと思うのですが、「風景の発見」という言葉もあって、風景を人間が評価するようになったのはルネッサンス以降であるという考えもあるわけですね。もし単に文化的なものであって人間の本性に根ざしていないと、なかなかそれを守るというのは難しいのではないかと思うのですが、風景を評価するということは、人間の本性に根ざした生理的なものなのか、単に文化的なものなのか、それをお伺いしたいと思います。
民岡 両方解釈ができると思うのですが、日本人の風景の考え方として、もともと風流という言葉がありますよね。風流という言葉は、日本人の生活の感覚に近づいていくのですが、たとえば、うちの実家は川越市の郊外にあって、景観的なものなど何もないのですが、そういうところでも、庭のきれいな鉢植えのしつらえとか、皆さんしっかりしているじゃないですか。日本の風景感覚というのは、自分の生活の身の回りにものすごく神経を使う反面、都市全体については、あまり考えないですよね。現に、山手線の内側のこれだけ都市化した神田あたりを歩いていても、路地裏に植木鉢があったりするじゃないですか。こうした感覚というのは、日本人の文化がつくり上げたとも考えられますが、もっと人間の本能に近いものではないかとも考えられるので、ちょっと分かりません。1つ言えるのは、風景に対する感覚がたぶん違うのですね。ヨーロッパ人はグローバルというか、都市を宇宙的に考えますよね。宇宙観から入って都市を考えるので、まず全体を考えるのです。つぎに、スケールを落としていって、自分の家屋の内側に入っていくという、そういう順番があるのです。日本人やアジア人はたぶん逆なのですね。まず身近なところから入っていって、だんだん外側に向かっていく。都市の構造もその通りなのです。ヨーロッパの都市のつくり方というのは、求心的で、真ん中に広場があるか、広場と教会がセットになっていますよね。へそがあるのです。宇宙から考えて都市全体を構想し、中心に広場や教会や庁舎を持ってくる。日本の場合は、古い城下町にしても、古い集落にしてもそうなのですが、中心が中にはないのです。日本の街というのは、外側なのです、中心が。それは神社であったり、山であったりするわけですね。これは言語矛盾かも知れませんが、日本の街、伝統的なまちづくりというのは、焦点を外側に持ってくるのです。外側に持ってきて、そこへの山あての道路とか、岩手であれば岩木山とか、神聖なところがいろいろあるのですが、江戸にも、富士見坂や富士見という地名がたくさんあります。富士を見る、まさに富士を見る坂であり、道であったわけです。日本人はこういうものを先に設定するのですよ。それから、神聖な場所も、風水などを使いながら、都市の外側にまず目標を設定して、そこに軸線を合わせて、街路構成をつくっていくのですね。そういうことから考えると、先ほど外延的と集約型と言いましたが、じつは根の深いもので、それは日本人の考え方、まず身近なところから発想して、だんだん外側を見るというのと、パラレルかもしれないと思っています。そうすると、日本の街がどんどん郊外化する(スプロール化する)というのは、たぶん本質的なメカニズムなのでしょう。江戸のつくりもそうですね。江戸城を中心に、右廻りだったか左廻りだったか忘れましたが、渦巻き構造に発展してきたという経緯があるわけですね。生理的とも考えられるかもしれませんが、その根拠はここでは提示できません。文化的と考えた場合は、おそらく日伊の(あるいはアジアとヨーロッパの)根深い文化的な違いから、都市の構造が集約型か、外延的かということが決まってくるのではないかと思っています。
質問 たいへん興味深いお話をどうもありがとうございました。イタリア研究会に限らず、イタリアが素晴らしいという話はよく聞くのですが、つまるところは、今日の先生のようなお話ではないかと。人間の暮らしやすいような居住環境ができているということに尽きるのではないかと、そういう意味では本当にありがたいお話だったし、日本に引きつけて、では日本でそういう暮らしやすい居住環境をつくるには、どう考えたらいいかというのも、ここまできちっと整理して突き詰めたお話は、はじめてお聞きしたので、今日はいいお話を聞けたと思っております。ただこの問題は、ものすごく複雑で、たとえば産業構造そのものと関係します。京都の町屋の例がよく出ますが、あれは1つの理想的な居住形態だったのかなと思うけれども、中心部の町屋はまだ少し残っていますけども、あれは西陣というような産業と結びついていたから、形になっている。京都にも大きな工場はありますが、それは全部郊外になってしまうわけですね。それと、本社をどうしても東京に持ってきたいという、日本人の思考法とも絡むのか、それが産業構造そのものとどういうふうに関係するのかというようなこともありまして、もっともっと日本に具体的に引きつけて、どうしたら都市を癒していけるのか、居住環境を癒していけるのかを深く考えさせられました。どうもありがとうございました。
質問 今日はどうもありがとうございました。私は田舎の城下町で育ったのですが、あの街は今どうなっているのかなということを思い出しつつ、イタリアのことも思い出しながら、聞かせていただきました。先生のご本をぱらぱら見ていたら、私の地元の内子の街並みが出ていまして、あそこはきれいな街並みが残っているのですが、産業らしい産業がないので、結局、観光に頼るということになるわけですよね。観光に頼って、そこそこに賑わっているときはいいと思うのですが、すごく賑わってしまうと、今度はマイナスの影響が出てくるという現実があると思います。昨年の夏、私もトスカーナに行ったのですが、ピエンツァが今そういう形になっていて、世界遺産になって、わっと観光客が増えてしまって、もうアメリカ人ばかりだと地元の方が言います。地元の人たちは、結構うんざりしているのよという声も聞いたりするのですね。そこそこに賑わっているくらいで止めるとか、バランスというのが非常に難しいと思うのですが、その辺はいかがでしょうか。
民岡 難しい問題で、私はこれで答えを出しているつもりは全然なくて、今日の講演は、イタリアをネタにしながら、日本のことをしゃべっている、まさにその通りなのですが、まず内子の写真ですよね。これですね。内子は良い方の伝建地区だと思うのです。でも残念ながら、観光の姿しか見えないのですよね。あそこは、蝋の産業で潤ったというふうに伺っておりまして、その蝋を製品化するというライフスタイルがおそらく居住と生産、あるいは、仕事の場と生活の場と言ってもいいかもしれませんが、そうした空間をつくり上げたのでしょう。建築のプランですとか、空間の取り方だとか、通りと建物の関係だとかも同様です。それが今は失われていて、ガワだけが残っているわけでしょう。そうすると、街を活性化しようとしても、せいぜい表の通りにしか目がいきません。でも、人通りはあまりありません。なぜかというと、観光バスが来たときしか人が歩かないからなのですね。私はそれを言いたくて、狙って写真を撮ったのですが、観光バスが来ると、駐車場に停まって、お客はがーっと歩いて、ばーっとバスに乗って帰っていくわけですね。面白いことに、バスがお客を連れてこないかぎり、お店からも人が出てこないのですね。ところが、この裏に1本入ると、生活のにおいがするじゃないですか。もっと極端な事例をいうと、鎌倉ですよね。あそこが今まさに観光公害で悩んでいて、材木座のあたりへ行くと、皆さん、トイレ貸してくれとか、勝手なことを言うので、困っているという話もあるし、駐車場が無かったり、交通の負荷も大きかったりするで、マイナス面が大きいわけですね。だから、あそこまで有名になってしまうのはどうでしょうかね。ただ、日本の観光地というのは限られているじゃないですか。だから、あそこもここも観光地ということになってくると、お客が分散されるのかなと。というのは、私、この間、マルケ州へ行ってきました。アドリア海のほうですが、あそこは、あまり皆さんに知られてないかもしれませんが、中世の古い街、小さい街がたくさん残っているのですね。北側にはアンコーナAnconaという街があって、マルケの州都です。南には、アスコリ・ピチェーノAscolil Picenoという街があります。ちょうどアンコーナとアスコリ・ピチェーノの間くらいが、日本のガイドブックには載ってないのですが、あのあたりは、皆さん、お薦めです。ただ、レンタカーを借りて行ってもらうといいのですが、あそこはリゾート地やいろいろな観光地があるのですが、7月、8月、9月の3ヶ月間、いろいろなイベントを毎晩やるのですね。1週間くらいのスパンで、場所を変えるのですよ。いろいろな街で催しをやる。皆、いろいろなところへ移動するのですね。観光客が分散していくようになっているわけです。そういうふうに、ある地域で、もう少し、鎌倉とか、内子とか、1つの都市ではなくて、ある地域の中をとらえて、そこできちっとまちづくりと地域づくりをやって、こういう内子クラスの街がいくつもあるような地域をつくっていくことによって、観光客や交通の集中というものを避けることができるし、3日4日使ってもっと宿泊しながらその地域をめぐるとか、そういう動きを出せるのではないかなというのが、観光についての私の考えです。もう1つは、産業のあり方と、街のあり方ですが、難しいのは、伝統産業を復興させれば、その街の建物維持につながるかというと、必ずしもそう言えなくなってしまっていると思います。イタリアの小都市に似ているのは、たとえば漁業町ですね。私の本にも書いてありますが、たとえば広島県の鞆の浦(とものうら)。それから、神奈川に真鶴という街がありますね。真鶴は好きでよく行くのですが、あそこは結構、漁村的な空間が残っていて、地元の新鮮な魚介類を活かしたシーフードレストランもあるし、イタリアンレストランもあって、面白いところです。だから、ああいう漁業町みたいなところは、そういう風情や生活のにおいを残しながら、古い街並みを保存して、シックな観光スポットにしていくことが考えられるでしょう。
司会 たくさんおられますが、じゃあ高橋さん。
質問 いろいろとありがとうございます。非常に疑問に思ったのですが、アッシジと伊勢神宮をなぜ比較されているのかがよく分からなかったのです。というのは、伊勢神宮というのは、20年ごとに遷宮といって、右左に移していくのが慣習です。もしそれが法隆寺であったら、地震で壊れたら当然修復できる木材は使って、アッシジと同じように組み立てるだろうと。そういう意味で、なぜ伊勢神宮とアッシジを比較されたのか、意味がよく分からないのですが。もう1回その辺を教えてください。
民岡 言いたかったことは2つあって、1つは、材質のオリジナル性ということなのです。あれが法隆寺であった場合はたぶん、その木材、腐敗したり破損したりした木材があったとしますよね。それは当然取り除いて、新しい木材を使いますよね。おそらくは。いろいろな処理をしながらでも、外観的には調和するようにしながらでも、おそらく新しい木材を使うでしょう。アッシジの場合は、とにかく同じ材料をパーツとしてはめ込むということにこだわったわけです。木と石という材料の違いはありますが、まず材質が古くなって劣化したかどうかではなくて、なるべく使える古いものを、オリジナルとして同じ場所に使っていくというのがイタリアの考え方なのですよ。それと、違うのは、欠損の部分、ようするに、材料が見つからなかったらどうするかという議論があります。イタリアではそこは、欠損として残しておくのですよ。そこが違うのですよ。
質問 時間がないようですから、質問だけさせていただきます。お答えはもし2次会へ来られるのでしたら、そのときに。最初に、日本の街というのが歴史を感じさせないという話がありました。それから、産業優先のまちづくりというのがありましたが、日本はご承知の通り、明治以来、原材料なくして輸入国家になっていますね。そして、製品を輸出すると。生産性を強くするには、港湾立地型にならざるを得なかった。だから、川崎は工場の街で汚いのです。あるいは、大阪もそうです。福岡もそうです。そういう流れの中で高度成長して、我々は豊かになったから、海外旅行にも行けるようになった。こういう経過がありますね。その過程で、木造よりも石造りは長くもつけど、木造の日本の狭い家を少しでも改善するためには、鉄筋コンクリートの公団住宅をつくらざるを得なかった。それで、貧しさの中での狭い、汚いまちづくりになったのではないかということが1つ。それから、その木造がゆえに、良いものを残せないと思うのですが、そういう日本の中では、新しくつくったまちづくりできれいなものを残すという、つまり、ブラジリアとか、新ローマとかというような発想法の方がいいのではないかと思うし、自然との調和でいけば、フィンランドのタピオラみたいなつくり方があるだろうと思います。日本は今まで、産業を中心にまちづくりをせざるを得なかったのですが、今後、ソフトを中心にやるのだったら、まちづくりは変ってくるだろう、そういう気がしますが、お答えは結構です。時間がありません。
司会 最後に、林さん。
質問 今日は大変わくわくしながら、100%賛成して聞きました。私もちょうど民岡さんが生まれた前後にローマに5年ほどおりましたので。イナ・カーザ(INA Casa)とか、ローマの復興について、実際に見てきて、帰ってきてから、私はもう日本の現状に合わせるのを止めました。それで、後ろ向きに歩くということを決めました。今、いろいろ部分的な質問がありましたけど、日本人は少し想像力と、全体を見る見方に欠けているのではないかと。だから、今日の民岡さんの話は非常に大事で、これで気がつくというか、気がつくのは永久にないかもしれないから、行き着くところまで行って、滅亡に瀕してから、またスタートするのだろうと。今もまたバブルの気配がありますから。そういうように私は感じています。私は設計者でして、山形県の金山町というまちづくりを30年間ずっとやってきまして、結局、イタリア的に考えれば、その土地でできた材料を使って、その土地の大工さんたちを励まし、おだてていくという発想で、どうにか今すれすれに、ふらふらになりながらそのまちづくりは続いています。金山町というのは、大正15年に町制が布かれて、そのときは7000人の人口で、今まだ7000人を保っているのですよ。鉄道もなくて、山形県のチベットと言われており、財政的には、お医者さんとかにとられて、大変困っている状態ですが、そういう発想を逆転させると、日本もうまくいくと思うのですね。それには、やはり観光でしょう。それから、おんぶにだっこという思想をとにかく排除しないと、やはり駄目なのだと思います。イタリアは積み重ねでできたわけなので、これを日本の人たちが、適材適所にみんな散らばって、まちづくりをやれば、再生の可能性はあると僕は思っています。あと、こういう都市の問題というのは、どちらかというと、中道左派の発想でいかないと、成り立たないということなのですね。それから、先ほど高橋さんがああいうことを言いましたが、あれは象徴的に言われたことだから、あまり取り上げなくてもいいと思います。以上です。
司会 皆さん、どうもありがとうございました。大変に質疑応答のほうも盛り上がりましたけども、もう1度民岡さんに拍手をお願いします。どうもありがとうございました。
※当日の解説に使用されたPowerPoint資料は下記よりダウンロードできます。
●第328回イタリア研究会資料
注)Microsoft Office PowerPointで作成されています。