パスタとイタリア人 歴史的考察

第330回 イタリア研究会 2007-10-24

パスタとイタリア人 歴史的考察

報告者:東京大学教授 池上 俊一


第330回イタリア研究会

演題:「パスタとイタリア人 歴史的考察」

講師:池上俊一


司会  皆さん、こんばんは。今日は330回の例会ということになります。

今日は池上俊一先生に、「パスタとイタリア人 歴史的考察」ということでお話をいただきます。

それでは、講師の池上先生を簡単にご紹介申し上げたいと思います。池上先生は1956年、愛知県豊橋市生まれで、1983年に東京大学大学院人文科学研究科西洋史学専攻の博士課程を中退され、現在、東京大学大学院総合文化研究科、昔の言い方で言えば、教養学部ですけれども、そちらの教授をしておられます。ご専門はヨーロッパ中世で、「ロマネスク世界論」「世界の食文化15??イタリア」「ヨーロッパ中世の宗教運動」といったご著書があります。日本人の教養・学問は狭くて深いか、広くて浅いか、どちらかだと思うのですが、池上先生はともかく広くて深い学識をもたれている、日本人には大変珍しい方ではないかというふうに思います。手ごろな本としては、「シエナ」という新書が出ていますし、それから最近、「イタリア・ルネサンス再考」というアルベルティについて書かれた本を出版されましたので、皆さんよくご存知ではないかというふうに思います。

以前から池上先生には何かご講演をお願いしたいと思っていたのですけども、大変幅広いので、何をお願いしようかと悩むくらいだったのですが、運営委員会の中で、ぜひ食についてのお話をお願いしたいということになり、今日の「パスタとイタリア人」というお話をお願いすることになったわけです。大変広い学識をお持ちの池上先生ですから、興味深いお話を聞くことができるのではないかと思います。

 それでは、池上先生、よろしくお願いします。



池上  ただいまご紹介に預かりました池上です。皆さん、イタリアについて大変詳しい方が集まっておいでだと思いますので、ちょっと恐れているのですが、私なりにイタリアの食文化について調べたその成果の一端をお話できればいいなと考えております。

 今日はパスタとイタリア人ということで、日本でも日常的な食になったパスタ、これについて歴史的に考えてみようと。そうすると、これまであまり気づかなかったことにも気づくのではないかと思いますので、そういう試みをしてみたいと思っております。

 それで、私の所属する東京大学の駒場キャンパスには、1年ほど前にイタリアントマトという店が校内にできまして、おしゃれだというのでみんな喜んでいるのですが、私なんかにとっては、青春の思い出といいますか、私が学部学生、あるいは大学院生時代に、ようやくこのようなイタリア料理の、なんと言いますか、ナウいと言いますか、チェーン店ができ始めまして、非常におしゃれな店ということで人気が出たのですが、それがなぜか駒場キャンパスにやってきたわけです。

まず最初に、日本におけるイタリア料理屋、あるいは日本におけるパスタを入り口として、話を始めてみたいと思います。

 それで、日本ではどのようにしてパスタが入ってきたかといいますと、調べてみますと、実は明治の初期から、マカロニグラタンとかマカロニスープ、ヴァーミセリスープ、これがイタリアからではなく、アメリカ、あるいは北方のヨーロッパ経由でその存在が知られるようになり、料理書で紹介されるということがありました。

公にスパゲティが日本に登場したのは、明治28年、1895年に新橋の洋食屋で初めて出されたそうです。しかしながら、その当時、あるいは、それからしばらくの間は、高級レストラン以外ではなかなか食べられないものでありました。

それで、一気にその存在が知られるようになったのは、第二次世界大戦後だということですね。第二次世界大戦後、日本が敗戦で大変なときに、食糧援助ということで、小麦の援助をしてくれたそうですが、その時に小麦でお団子とか、パンとか、あるいは合成米を作るのと並んで、パスタを作るということも出てきたということですね。

それで、昭和30年代から、日本のパスタ生産が本格化して、いわゆる洋食の一部にトマト味のスパゲティがそえられるとか、マカロニグラタンが出されるとかいうことが出てきたわけですね。

思い返してみると、私の小学校時代は、やはり真っ赤になったスパゲティが添え物として給食についているという、あまり楽しい思い出ではないのですが、そういう形でスパゲティの存在を知ったということが思い出されます。

これは後でもう少し詳しくお話しますが、アメリカ経由でスパゲティが入ってきたからこういうことになってしまったわけですね。その事態を変えてくれた功労者が、ここに写真を載せたイタリアントマト、壁の穴、カプリチョーザという1970年代の日本における高度成長期のイタリアンブームがあり、その後、1980年代にかけて、このチェーン店のイタリア料理といいますか、パスタが登場したわけです。

壁の穴は1950年代にすでにあったそうですが、イタリアントマトは1987年、カプリチョーザは1977年から。これらのお店によって、主食としてのパスタといいますか、スパゲティ、しかも味付けもトマト味だけではなく、ボンゴレとか、カルボナーラとか、ボロネーゼとか、イカ墨とか、あるいは、和風スパゲティとか、こういったものが現れてきたわけですね。

しかし、まだ本当にイタリアのイタリア料理、あるいはイタリアのパスタを我々が知っているわけではなかったと思いますね。本格的にイタリアのイタリア料理、あるいはイタリアのパスタが知られるようになったのは、第2次イタリアンブームといいますか、1980年代後半、あるいは1990年代以降になってはじめてだと思います。

つまり、パスタという言葉自体あまりなかったわけで、その代わり、スパゲティ、マカロニという言葉で、我々はすませていたわけです。パスタという言葉が広く使われるようになったのは、1980年代後半、バブル飽食の時代、あるいは海外旅行ブームの時代ですね。

それで、このようなグルメブームにのって、アメリカ経由ではないイタリア料理が知られるようになり、また同時に食材、ワインやオリーブオイル、あるいはいろいろなパスタなどが広まっていくことになりました。

それで、さらにバブルが崩壊しても、イタリア料理ブームはそれほど打撃を受けずに、安定的な成長をしたといいましょうか、それこそイタリア仕込みの料理人が帰ってきて、料理店を開いたり、あるいは料理研究家が大活躍したり、そして、本格的なパスタも食べられるようになったと。こういう流れをたどることができると思います。

ということで、ごく最近までアメリカ経由のパスタといいますか、スパゲティ、つまり洋食の付けあわせとしてのスパゲティというもの、あるいはマカロニグラタンといったものがパスタだと思っていたわけですが、その理由をもう少し考えてみますと、これはアメリカとパスタとの関係というのを考えてみないといけないわけです。

それで、ちょっと歴史を100年ほどさかのぼってみますと、イタリアは19世紀から第1次世界大戦あたりまで、大変な移民国家でした。移民を送り出す側の国でありました。今、その移民問題というと、ヨーロッパにアフリカ系だとか、トルコ系だとかいう人たちが来て、ヨーロッパはいろいろ困っているという話ですが、かつては逆といいますか、ヨーロッパ内の移民、あるいは、ヨーロッパのイタリア人などがアメリカ、北アメリカ、南アメリカに行くという、それが移民問題であったわけです。

それで、統一国家ができたイタリアは、南北問題、あるいは、貧富の差があって、とりわけ南イタリアの生活に困った人たちが大挙してアメリカに行ったという事実があります。それで、北アメリカ、それから、中南米に数百万単位で移民した。100年くらいの間に総計2000万人が移民したというふうに言われております。

彼らはアメリカに行って、同じ村単位、同じ出身者で集まって生活し、したがって、食生活も自分たちのものを守ろうとしていた。そして、自分たちの料理店、レストランも作ったりしていたわけです。

しかし、このように大量にイタリア移民が入ってきたアメリカは、イタリア人を差別するわけですが、そして、彼らを「マカローニ」というふうに呼んで、パスタばかり食べているものとして、ちょっとばかにしていたわけですね。

それで、特にナポリとか、シチリア出身者などが多いので、パスタを食べまくっていたわけですが、彼らの食生活は、彼ら自身に悪いだけでなく、アメリカ人にも悪影響を及ぶのではないかとアメリカ人は恐れたわけですね。つまり、パスタ中心の食生活というのは、身体に非常に悪いというふうに考えまして、その悪影響をなくすために、ソーシャルワーカーまで送り込んで、アメリカ的な食生活への同化を進めた。すなわち、肉をもっと食べろとか、牛乳をたくさん飲めというふうに言ったわけですね。したがって、その肉料理のつけあわせとしてスパゲティは食べるのがいいと。

更に、当時のアメリカの学者などの考えで、学会誌や一般雑誌に発表された見解によりますと、イタリア料理によくあるような肉や野菜をごった混ぜにしたような料理、パスタにしても、その上に肉や野菜をいろいろ混ぜたソースをのせると、こういうのはよくない、身体によくないと。つまり、いろいろなものを混ぜて食べるのは、それぞれの栄養分が消されてしまうというでたらめな見解がまかり通りまして、肉は肉だけたくさん食べればいいと。で、少し野菜などを食べればいいと。こういう現在とは全く逆の考えがあるわけですが、当時はそのような考えで、イタリア人たちは間違った食生活を送って、それをアメリカにまで影響を与えようとしているので、それを防ごうと、そういった大きな運動が起きたわけです。

そのために、スパゲティなどは単につけあわせのものとなる。それがわが日本にも影響を与え、我々が洋食屋で食べるハンバーグや、エビフライの隣に、トマトケチャップで真っ赤になったスパゲティがのっていると、こういうものが出てきたというふうに考えられるわけです。

そのような誤解がようやく我々解けて、本格的なイタリア料理が食べられ、あるいは自分たちでも作るようになったわけですが、しかし、それでもまだ誤解が残っている可能性はあります。つまり、イタリア人はまるで朝から晩までパスタを食べているのではないかと、そんなふうに思い込んでいる人もいるわけですが、しかし、実際はイタリアの料理というのは、極めて多様で、肉、魚、野菜、こういったものをさまざま食べ、またとりわけ野菜は豊かであるわけですが、そういったものの1つとしてパスタがあるということですね。ですから、パスタだけを食べているということではないわけですね。

それで、ではパスタとイタリア人、あるいはパスタとイタリアという国の関係は、それほど深くないのかというと、そういうわけでもないですね。確かに、イタリア人がパスタ、スパゲティなどを大量に食べるようになったのはごく最近で、第2次世界大戦以後といっても間違いではないわけですね。つまり、小麦の生産といいますか、小麦が非常に高価であったので、小麦から作られるパスタを毎日のように食べるということは、ごく最近になってはじめて起きたことで、したがって、お米と日本人の深い結びつきのような関係を、いわゆるスパゲティなどのパスタがイタリア(人)ともつことはなかったと言えるわけです。

しかし、別の側面から考えていくと、やはりパスタはイタリア人と深い関係があるというふうに考えられます。つまり、その小麦で作ったスパゲティのようなパスタだけではなく、他の素材で、例えばジャガイモとか、トウモロコシでパスタ、あるいはパスタ的なものを作る、あるいはそば粉で作る。そういったパスタ的なものは、より古い時代からあったわけですし、あるいはそのパスタが徐々にイタリアに、イタリア人に普及していくその歴史的な流れをたどっていくと、イタリアの歴史、あるいはイタリア人の形成といいますか、その歴史と非常に密接なかかわりをパスタの歴史がたどってきたというふうに考えられますので、そういう意味では非常に深い関係があるというふうにもいえると思います。

そういったことをちょっと考えた私の本が、2~3年前に出た、ちょっと宣伝なのですが、農文協というところから「世界の食文化 イタリア」という書物を出しました。今日はその本の中のパスタについて考えたところを、更に広げて、あるいは深めて考えてみようということです。

それで、まずパスタの起源というのを考えてみたいと思います。いろいろな考え方があると思うのですが、まずその語源、さかのぼって語源を考えてみたいと思っています。

まずパスタという言葉ですが、これは何かといいますと、元々はギリシャ語だったわけですね。パッセーニョというのですか、まきちらすとか、ふりかけるという。これが、この過去分詞が名詞になって、ラテン語に取り入れられたのが400年ごろですね。それで、このラテン語になったパスタというのは、四角いはり薬を指したり、あるいは、さまざまな粉の練り粉ですね。ですから、今のパスタとほぼ同じ意味にも使われる。イタリア語になったのは14世紀で、やはり小麦の練り粉、今のパスタとほぼ同じ意味で、14世紀からは使われるようになった。現在では、パスタというのは、小麦に限らず、いろいろな練り粉というか、生地ですね、何らかの粉と水を混ぜ合わせたものを指します。ですから、小麦だけではなく、そばでも、お米でも、トウモロコシでも、大豆でもなんでもいいわけで、それから、もちろんスパゲティなどのパスタを作るだけでなくて、パンの生地なんかもパスタと言いますし、それから、食べ物ではない粘土質の物質もパスタというふうに言うわけです。


このようなわけですが、では料理としてのパスタですね。食べ物、いわゆる料理の名称としてのパスタというのは、どういうものとして考えられているか、現在考えられているかというと、やはり確かに穀物の粉を、つまり脱穀製粉した粉を、水とともにこねるわけですね。こねて形を整え、場合によっては乾燥させると。さらにそれを湿式過熱、つまり水を含んだ形で過熱する。それが食べ物としてのパスタですね。つまり、茹でるか、蒸すかするという湿式、水をふくんだ調理をするということです。ですから、パンは練り粉は使うけれど、パスタではないわけですね。それから、ピザも、厳密に言えば、オーブンで焼くだけですので、パスタではないと。それから、ラザーニャとか、カネロニ、これは多少微妙なところなのですが、本来的なパスタではないとも言えますし、ラザーニャは茹でてから巻いて、それからオーブンで焼くということで、パスタに含めることも可能だとは思います。

しかし、そのように湿式加熱をするわけですが、必ずしも小麦でなくてもよくて、ジャガイモやかぼちゃなどで作るニョッキですね、これもパスタですし、更に、ポレンタというトウモロコシで作る料理がありますが、これもパスタ。これも水とともにぐつぐつと煮つめるといいますか、ぐつぐつやるわけですから、パスタと言っていいと思います。

このようなことを、パスタという名称の歴史をたどって考えることができます。

では、スパゲティ、我々にもっとも馴染み深いパスタですが、スパゲティはどうかといいますと、スパゲティというのは、スパーゴという紐、イタリア語の紐ですね、紐に縮小詞がついて、細い紐という意味ですね。

これがいわゆるパスタの一種類を指すようになったのは、18世紀のナポリということで、非常に新しいですね。英語文献ではじめて出てくるのは、19世紀の末。ですから、スパゲティというのは新しい言葉である、それから、ナポリで作られた言葉であるということを覚えておくといいと思います。

それに対して、中世からあった言葉の1つとして、ヴェルミチェッリというのがあります。これは、ヴェルメという虫にやはり縮小詞がついて、小さい虫というか、細い虫というか、小さく細い虫のことですね。これは中世から使われていた言葉で、ロングパスタを指すわけですが、スパゲティほど長くないものも指したわけですね。あまり長くないロングパスタも指すことができた。

それから、もう1つ、マカロニ、イタリア語のマッケローニ。これは、語源はギリシャ語から来ているという説もあるわけですが、語源不明だと言われています。イタリア語のマッカローニ、あるいはマッケローニとして登場するのは14世紀ですね。いくつかの料理書にこの言葉が出ています。

これが何を指しているかというのはいろいろなケースがあるわけですが、マカロニのような穴の開いたショートパスタを指すこともありますが、ロングパスタ、穴があるなしに関わらずロングパスタを指すこともある。あるいはニョッキのような形のものを指すこともある。ですから、パスタ全般に使いうる言葉として、中世に使われた。

しかも、この言葉も実は一説によると、ナポリの田舎言葉から出てきたというふうに言われています。ですから、スパゲティも、マカロニも、ナポリ言葉だったということですね。

それから、次に、もう1つ、聞きなれないトリアという言葉がありまして、これは実はアラビア語から来ているイトリーアという言葉からきているそうです。これは、14世紀初頭の文献から登場する言葉です。それで、14~5世紀の料理書によく使われるようになる。元々乾燥パスタを指していたようですが、15世紀になると、パスタ全般を指すケースもある。

しかし、これは中世末までは使われましたが、近代になると、使われなくなってしまうこういう言葉です。これがアラビア語経由だということが重要ですね。

ここに写本の挿絵を映しましたけれど、これは14世紀の健康のためのマニュアルのような書物ですね。そこに、食べ物について、食べ物で身体を治すというような、そういう食養生の文もありますので、そこでこのトリアとしてこれが載っているわけです。

ここでは、女性が作る、つまり、パスタというのは主に女性が作るものとして、中世以来考えられていた。だから、女性との結びつきというのは、非常に密接なわけです。ここでも女性が作っている。向かって右の人がこねて、左では、乾燥させているという。ですから、中世のロングパスタ、トリアと呼ばれたロングパスタの作り方の非常に古い具体的な証言になっているわけです。

これまで、語源に着目して、パスタの歴史というのを考えてみたわけですがもちろん語源も有力な証拠にはなりますが、他のさまざまな資料、社会的な資料、あるいは料理書など、そのほかの資料と合わせて、イタリアにおけるパスタの初期の歴史というのが明らかになってくるのだと思います。

それで、どのような結果がそこから導き出されるかということなのですが、まず最初に、俗説として、イタリアのパスタは、マルコ・ポーロが中国からもたらしたのだという、そういう説があります。この世界の麺文化というのは、非常に壮大なテーマで、中国、日本などに非常に豊かな麺文化があって、他方ではイタリアにもあるわけですが、どこからどう伝わったのか、あるいは、独自に発達したのか、こういったことを考えるのは非常に楽しいというか、しかも、なかなか定説はないわけです。俗説で13世紀末に、マルコ・ポーロが中国から持ち帰ったという説があったわけですが、しかし、これはどうも本当の証拠はどこにもなくて、16世紀末に「東方見聞録」を出版した出版社が、勝手に注釈を付け加えて、そこにそのような説を載せているというだけですね。ですから、ちゃんとした証拠はどこにもない。ですから、それは間違いだろうと言われております。おそらく中国からではなくて、イタリアにおいてイタリア独自に生まれたのであろうというふうに考えられております。

2つの起源があり、その2つが結び合わさってできたというふうに考えることができます。1つは、ローマ時代にすでに一種の生パスタがあったということですね。これはラザーニャの元になっているものですね。これはラテン語でラガーヌムというものです。

このラガーヌムとは何かということですが、紀元前1世紀のローマの料理書や、あるいは農業関係の書物に出てくるようです。これはいわば生パスタを作り、しかし、それを茹でるのではなくて、油で揚げるものであった。さまざまなものをはさんで油で揚げる。ですから、今で言うラザーニャはオーブンで焼くわけですから、今で言うラザーニャともちょっと違うわけですね。

ですが、このようなパンとは違う練り粉の使い方があった。つまり、パンというのは、酵母でふくらませて、それをオーブンで焼くわけですけれども、それとは全然違う生パスタの用法があったというわけですね。

このラザーニャ、つまり、四角い形に切った生パスタですね。これは、ローマ時代には油で揚げることが多かったわけですが、中世になりますと、同じものを油で揚げるのではなくて、茹でるということも行われるようになった。つまり、こうなると本来のパスタになってくるわけですね。

しかも、四角い形、長方形のラザーニャだけではなくて、今で言うタリアテッレのようなきしめん風の長細いもの。それから、中に詰め物をしたラビオリのようなもの。こういった一種のロングパスタや、詰め物のパスタですね。こういったものがローマから、ローマの伝統から途切れることなく、中世に伝わってきていたということが、それほど紹介は多くないのですが、いくつかの史料から明らかになっていると。ですから、ローマの生パスタが、1つの起源であるというふうに考えられるわけです。

もう1つ重要な起源がありまして、これはアラブ人がもたらしたというものですね。これなぜアラブ人かということなわけですが、実は、中世の歴史を振り返ってみますと、9世紀から12世紀には、シチリアにはアラブ人が多数いたわけですね。アラブが主に支配していた時代も長く続いたわけです。その後は、ノルマン人が入ってきて、キリスト教支配になるわけですけれども、このアラブ人がそのキリスト教支配になってからもずっとたくさんいたわけであります。

アラブ人たちは放浪生活を送り、砂漠や非常に暑い中をたえず動き回るわけですが、そのときに、長期保存の利く乾燥パスタというのが非常に便利であるというか、重宝したわけですね。小麦粉というのは実は大変腐りやすいものだそうで、小麦粉は腐りやすいけれども、それを水で練って、更に乾燥させた乾燥パスタというのは、腐りにくい、長期保存が利くものであると、このようなことで、乾燥パスタがアラブ人によって発明された。これは9世紀のアラブの料理書にすでに出ているわけです。これは小麦粉の種類がもちろん違って、硬質の小麦粉デュラム小麦を使うわけです。

このアラブ人たちの乾燥パスタの知恵がシチリアでも伝わって、いわばシチリアのアラブ人以外の人々の間にも広まっていった。それが12世紀になると、すでに一大産業になってきたということですね。パレルモの少し東の町が乾燥パスタの一大産地になったということであります。

それで、12世紀半ばには、シチリアからヨーロッパ各地、あるいはイタリア各地に輸出されるようにもなったと言います。

ここで活躍したのがジェノバ人ですね。ジェノバ、これは北イタリア、リグリア地方の町であるのは言うまでもありませんが、実はこのジェノバ人というのは、もちろんピサ人とか、ヴェネツィア人と同じように、海を舞台に大活躍をして、とりわけ十字軍のときとか、あるいは、東方との交易で活躍したわけですが、ジェノバ人は、シチリアを自分の活躍の場として、ほぼ独占していたわけです。ですから、シチリアで産出されたものを、他のところに運んでいくということを、ジェノバ人商人が中心となって行ったわけです。船のチャーター契約などの記録も残っており、ジェノバ人のおかげで、シチリア以外にも乾燥パスタというのが伝えられていったということがわかります。

それから、中世の末になってくると、宮廷などで活躍した料理人が、料理書を書くようになりますが、そのいくつかの料理書に、先ほど言いましたヴェルミチェッリとかマッケローニ、更にはラビオリといった言葉が出てきます。なかなかどういうものを指しているかわからないこともあるわけですが、それぞれロングパスタ、ショートパスタなどを指しているというふうに考えることができます。

このようにして、中世の半ばから後半には、ある程度生パスタ、乾燥パスタがイタリアで生産され、消費されるようになったということは事実であります。しかし、多くのイタリア人が食べていたわけではない。と申しますのも、小麦というのは非常に貴重なものでして、とりわけ白く精製した小麦、これは貴族や富裕な商人しか食べることができない、パンにしても、白いパンはそうでした。ですから、小麦のパスタというのは、なかなか一般の人にはしょっちゅう食べられるものではなかったわけですね。

それが普及するきっかけになった都市、これはナポリですね。ナポリの力によって、更に一段と弾みがついていくわけです。ナポリは元々はパスタで有名というよりも、野菜で有名な町でありました。ナポリ人のマンジャフォッリアといって、「葉っぱ喰い」というあだ名がつけられていたそうで、豊かな土地柄で、キャベツやブロッコリーが非常に豊富にとれると。17世紀くらいまではふんだんな野菜を食べることで有名だったわけですね。

このナポリでも、シチリアに遅れて、15世紀になると乾燥パスタの一種の工業的生産が始まるわけですが、しかし、まだシチリアや、あるいは、ジェノバなどのリグリア、プーリアなどの方が、パスタ生産の中心であったわけです。

しかし、17世紀になりますと、ナポリがパスタ生産で他を圧倒してくるようになる。これはどうしてかといいますと、17世紀には、食糧危機がナポリで起きてきます。ナポリというのは、お配りした地図にもありますが、あの地図は14世紀なのですが、イタリア半島の南半分とシチリア、ここには13世紀からスペインの勢力が入ってきまして、特に15世紀になると完全にアラゴン王というスペインの王様の領地になって、ナポリ王国というスペインの属国のような国が南イタリアに広がるということになります。

それで、庶民は多かれ少なかれ、抑圧された、搾取された生活をしていたわけですが、とりわけ食糧危機、飢饉などが起きますと、それまで主食であった肉や野菜がとれなくなる。そのため、保存のきくものとして、パスタが注目されて、そういったこともあって、パスタ生産が盛んになっていくわけです。

一種の国家的プロジェクトのようにして、パスタ生産が盛んになりまして、例えば、1633年には、年間1万2500キロもの乾燥パスタがナポリ王国で作られて、各地へ輸出されたわけです。

それから、18世紀後半から19世紀にかけて、いわゆる産業革命の時代で、パスタ生産の機械化されていくと。蒸気機関や、ガス、電力を使って、さらに大量に作ることができるようになる。

さらに1800年になりますと、乾燥、中途半端な乾燥ではなく、本当に、完全に乾燥させるという、そういう方法がナポリで工夫されて、そういったこともあって、ナポリがパスタ生産の中心になっていくわけです。

パスタをこねたり、圧搾したりする機械も、このナポリを中心に作られていくわけです。

先ほど、スパゲティという言葉や、マッカローニという言葉、これはナポリから出てきた言葉だということをお話ししましたが、そういったことも、ナポリとパスタの結びつきを表していると思います。

このようにして、17世紀から18世紀にかけて、イタリア中に乾燥パスタが広まるきっかけが生まれていくわけです。


写真をお見せしますと、これは19世紀だと思うのですが、19世紀のナポリのパスタ生産の場面ですね。パスタを乾燥させている。こんな感じで乾燥させていたわけですね。

これはナポリの庶民的な食堂でしょうか。当時はだいたい手で食べていたわけですね。手で食べていた場面があります。

これは子供たちが我慢できずに食らいついているという感じですね。みんなで手で食べている。

これは、労働者ももちろん手で食べるわけです。

これは、やはり乾燥させている場面ですね。

これは何かといいますと、圧搾機ですね。圧搾機といいますか、圧搾して、ところてんのように出す機械だと思います。これは新しい19世紀のものですが、はじめは17世紀にこの原型なるものが作られたわけです。

これはこねる機械ですね。ですから、ところてんのように出す前に、水と粉を合わせて、こねる作業を機械的に行うというものです。

これは何かというと、ジョストラといって、メリーゴーランドという意味で、ぐるぐる回るわけですけど、ナポリとか、シチリアというのは、その気候、風も強い、海岸沿いが風が強くて、日差しもきついということで、乾燥パスタを作るのに最適な気候なわけですが、しかし、北イタリアで乾燥パスタを作るのは、なかなか難しくて、ですから、このような装置を作って、人工的に風を作って、風をあてて、パスタを乾燥させるということです。

これはフリウリ地方ですから、イタリアの北東部ですね、で使われたものですが、これは、このような装置にパスタをぶらせげまして、ぐるぐる回すというわけですが、欠陥があったらしくて、それは、外側にかけたのと、中心軸に近いところにかけたパスタでは、当然外側の方が早く乾いてしまうわけですね。ですから、いっぺんに乾燥させることができないという、ちょっと考えればわかりそうですが、そういう欠陥があったということです。

それでは、この17~8世紀に広まり始めたという話をしましたが、ちょっと時代をさかのぼりまして、中世以来、庶民の間でのパスタの位置づけはどういうものだったのかということを、簡単に考えてみたいと思います。

イタリア中世を代表する著作家、あるいは、ルネサンスに入っているというふうにもいえますが、14世紀のサッケッティという、一種の小話集を書いた人ですね。それから、同じく「デカメロン」で有名なボッカチオ、彼らの作品の中に、マッケローニが出てくるわけですね。その中で、例えば、サッケッティは、ある領主が自分の部下で、税金を集める役割を与えているその使用人が、パン以外にマッケローニ、すなわちパスタを食べている、両方食べているのを見て怒ったという。つまり、飢えに苦しんでいる貧者を挑発する行為だとして、厳しく罰したというシーンが出てくるわけです。

それから、ボッカチオの「デカメロン」の1つの話では、一種の理想郷を語るシーンがありまして、そこでは、ベンゴーリという理想郷の話が出てきて、パルマのチーズ、パルメザンチーズでできている大きな山があると。その山の上からは、上である男がマッケローニを作って、雄鶏のブイヨンで煮て、茹でて、茹で上がると、それをふもとに向かって転がして、誰でも拾った人は食べることができると。ですから、これは、ここでマッケローニと言われているのは、一種のニョッキのような、白玉団子みたいなものだと思うのですが、つまり、理想郷にパスタがあるということですよね。ですから、ここでも非常に憧れの食べ物であったということがわかると思います。

つまり、ボッカチオ、サッケッティともに、フィレンツェを中心に活躍した、トスカーナ地方あたりでは、まだ14~5世紀には、非常に貴重な食べ物であったということがわかる。

しかし、地方によっては、より日常的に食べられていた。つまり、乾燥パスタが生まれたシチリアや、それをひきついだナポリなどですね。例えば、シチリアやジェノバでは、船乗りの保存食としてパスタが食べられたというようなこともありますので、より一般的に食べられていたのでしょう。ですから、地方ごとに差があったことがわかります。

それから、ナポリでも他の地方よりは早く、17世紀にはより日常的な食べ物になったというのは、先ほど申し上げたとおりです。

このような南北の違いというのはあったわけで、この違いというのは、つまり、20世紀まで続いてくるそういう側面もあるわけです。つまり、小麦は一般の市民や農民はなかなか貴重なもので、パンでさえ雑穀を混ぜた黒っぽいパンが普通なものでありました。

ですから、パスタというのは、一種のハレの機会に食べるもので、例えば、エミリア=ロマーニャ地方というボローニャがある地方ですね。ここでは最近まで子供が生まれるとニョッキを食べる、そういう習慣があったわけです。それから、より最近でも、結婚式にトルテッリーニを食べる、そういう習慣があったエミリア地方ですね。そういうこともありますし、日本のおもちに似たような位置づけもパスタにはあったというふうにも考えられます。

それとは別に、一般的な庶民の食べ物になってからも、特別な意味が与えられるということがあったと思います。例えば、北イタリアで広まった、近代に広まったパスタの一種であるポレンタ、トウモロコシの粉で作られるパスタですが、これは、家父長というか、一家の長ですね、長が取り仕切る食事の、一種の集団の儀礼の場に登場することがあります。これは、例えば、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「1900年」という映画でも、貧しい小作人一族が、家父長が取り仕切る場面の一種の集団的な儀礼の場でポレンタが食べられる、皆で一斉に食べるという、そういうシーンが出てきます。

ですから、先ほどの子供が生まれたときや、結婚式に食べるということと合わせて、特別な意味が、民族的な意味が与えられるという、そういう場面が近代まであったということがあります。

最後に考えるべきこととして、パスタがイタリアを代表する食べ物だ、イタリア料理にはなくてはならないものだというふうに考えられるようになった。これはイタリア人が考えるだけではなくて、外国人、我々日本人も含めて外国人が考えるようになった。これはどうしてかということですね。これは一種のナショナリズムに関係しているのではないかと思われます。

ちょっとその前に、それとも関係があるので、新たな食材との結びつきというのを、あらかじめちょっと考えておきたい。つまり、1つはトマトです。もう1つはトウモロコシとジャガイモです。

今、トマトがイタリア料理を代表する食材であることはもちろんですが、実はそれは比較的新しい歴史ですね。つまり、ヨーロッパにトマトが入ってきたのは16世紀前半の大航海時代以降になります。しかし、トマトが入ってきても、はじめは観賞用植物、きれいな実がなるという、珍奇な植物としてとらえられて、しかも、毒があると思われていたわけですね。

しかし、やはりナポリというのが重要でありまして、ナポリで17世紀末にアントニオ・ラティーニという料理人が、ある工夫をして、イタリア料理に導入した。つまり、ここではスペイン風トマトソースという名がつけられていたわけですが、これは完熟したトマトを炭火の上であぶって、皮をむいて、こま切りにして、たまねぎやコショウ、ピーマンといったものと混ぜて味をつける。塩や、オリーブオイル、お酢で味を調えると。これは、いわば現在我々が使っているトマトソースですね。パスタや煮込みに使うトマトソースとほとんど同じようなレシピで、これを考え出したナポリの人たち、これはイタリア料理に多大な貢献をしたということになります。

それまでアメリカなどでは、トマトに火を加える、熱を加えてトマトを食べるという、そういったことは誰も考え付かずに、イタリア人がトマトをソースにするということをはじめて考えた。これは、輝かしい未来を約束されていたわけです。

しかし、必ずしもこのトマトソースは、パスタとすぐに結びついたわけではなくて、1830年ごろ、19世紀になってはじめてマッケローニ・アッラ・ナポリターナというナポリ風マッケローニ、つまり、ナポリ風のパスタ、トマトソースを使ったパスタというのが、19世紀前半にナポリで広まっていく、こういった事情がありました。

それから、もう1つ同じく大航海時代に入ってきた食材、これはトウモロコシとジャガイモですが、この2つはトマト以上に嫌われた食べ物でありました。16世紀には、ヴェネト地方でも栽培されるようになったわけですが、なかなか普及せずに、はじめは家畜用の食べ物にすぎなかった。しかし、徐々に17世紀以降、他の穀物とともに、あるいは他の穀物のかわりに食べるようになりました。

このトウモロコシの食べ方も、イタリア人の天才的な工夫によって、新たな未来を約束されたわけです。つまり、トウモロコシを乾燥させて粉にして、さらに水と合わせるという、一種のパスタ化作業ですね。こういったことをイタリア人が工夫した、これは非常に重要なことでありました。

ただ、ジャガイモ、これも新しい穀物ですが、このジャガイモもイタリア人は非常に嫌っておりまして、家畜のえさにしていただけなのですが、やはり17世紀、とりわけ18世紀になると、どんな貧弱な土地でも育てることのできるジャガイモが、国家権力、あるいは知識人たちによって推奨されて、徐々に一般の農民たちにも食べられるようになった。これが普及するのは19世紀の半ば以降ですね。

しかし、これが本来的に普及するのは、やはり、先ほどトウモロコシがそうであったように、これをパスタ的なものにしてしまうという工夫があったからです。つまりニョッキですね。ニョッキの材料として、それを練り粉にして、一種のパスタとして食べるということです。このようにパスタにすることによって、ジャガイモの消費が非常に増えていったわけです。

ニョッキはそれ以前は小麦粉、パン粉、そば粉、つまりジャガイモ以外のものでニョッキは作られていたわけですが、ジャガイモのニョッキが出てきて以来、ジャガイモ、それから更に同じく新しいかぼちゃですね。そういった新たな食材でニョッキが作られるようになっていく。

このトウモロコシとジャガイモは、小麦が貴重であっても、より簡単に、大量に、安くとれるものでしたので、いわばこの2つによっても、イタリア人のパスタ消費というのが増えていったということが言えます。

これはいろいろなトマトの缶詰、瓶詰めですが、保存技術というのも非常に重要で、一種のトマトの水煮や、トマトソースが保存できるものになると。これも19世紀以来、保存技術が進化しまして、ですから、乾燥パスタも保存できますが、トマトソースも保存できるということで、こういった自体も非常に重要、普及に重要な役割を果たしたわけです。


では、そのイタリアという国家との結びつき、国民との結びつき、これは、最大の功労者はアルトゥージという料理研究家だったというふうに考えることができます。彼は、「料理の科学と美味しく食べる技法」という書物を1891年に著しました。彼はロマーニャ地方出身者でしたが、フィレンツェで金融業を営みながら、趣味の料理研究をしたわけですね。あちこち旅行しながら、地方のレシピを集めて、自分なりに工夫したレシピ集を作った。

この100年以上前の料理書、今でもイタリアのベストセラーの1つといいますか、各家庭に1冊あるような本ですね。今でももちろん使える書物であります。

これは、つまりこの時代、アルトゥージが活躍した時代というのは、イタリアが統一してまだ間もない時代ですね。イタリアが統一国家になったのは1861年で、それまではお配りした地図にあるような分裂状態がずっと続いてきたわけですね。イタリアという国がはじめて出てきたのが1861年です。

ですから、そのイタリア人は、なかなかイタリア人としてのアイデンティティを感じられなかったわけですが、もちろんその言葉としてのイタリア語、いろいろなイタリア方言ではなく、共通語としてのイタリア語というのが広まっていくということもありますが、もう1つ、これこそイタリア料理だという共通の認識を持つ、地方料理ではないといいますか、地方料理を総合したようなもの、これも一種のナショナリズムというか、一要素として出てきたわけです。

それをまとめたのが、まとめて打ち出したのが、アルトゥージという人でありました。彼は、ロマーニャ料理とトスカーナ料理を中心にしながらも、イタリア全国各地の料理を、その料理書に載せて、これが新しい時代のイタリア人、特に市民階級にふさわしい料理だということで、イタリアを代表する料理としてまとめたわけですね。

そこには、当然北イタリアのポレンタやニョッキ、ラザーニャ、こういったものがあります。とりわけジャガイモのニョッキを公式のメニューに登場させた。それから、トマトソースをパスタのソースとして公認したといいますか、この2つは非常に重要であります。

このことによって、イタリアを代表する料理として何種類ものパスタ、それから、その中に含まれるジャガイモのニョッキと、ソースとしてのトマトソースというものが、イタリア中の人たちに認識されるようになる。これは元々トマトというのは外来のものですね。イタリアになかった。どの地方とも結びつかないものでありました。それからジャガイモもそうですね。

ですから、このようにいわばイタリアの外から来たものによって、イタリア人全体をまとめる、あるいはイタリア料理を代表させようという、このアイデアによって、いわば公的と言いますか、半ば公的にイタリア料理を代表する、例えば、トマトソースをかけたパスタや、ジャガイモのニョッキというものが、イタリア人のみならず、外国人にも認識されるという、そういうことが起きたわけです。

それ以後、例えば、折に触れて、政治家にせよ、知識人にせよ、イタリアとこういったトマトソースのパスタなどを結びつけて語るという言説が広まっていく。これはイタリア人だけが広めるのではなく、外国の人がそういうということもあります。

しかし、このように、いわば統一国家としての、あるいは、国民としてのイタリア人を代表するパスタとパスタ料理が登場したわけですが、それでも地方ごとの料理や、地方ごとのパスタというのが、今でも健在なわけです。これはイタリア特有の地域主義といいますか、地方根性というのがずっと残っているからだと考えられます。

特に南イタリアは、政治的に考えると北イタリアに征服されたといいますか、北イタリアに従属する形でイタリア国家ができたわけですが、しかし、逆にパスタに注目すれば、ナポリ的なモデルがイタリア全体を席巻したともいえるわけで、南イタリアの力も食文化の面では非常なものがあった。

それから、しかし、なぜ地方ごとの料理というのが今でも非常に根付いていて、イタリア料理というものがなかなか一言では語れないのかと考えますと、これはいわばイタリア料理と呼ばれるものが、例えばフランス料理と呼ばれるものと、成り立ちが全く違うからだと考えることができます。

フランス料理というのはどうやってできてきたかといいますと、ルイ14世を代表とするベルサイユ宮殿を中心とする宮廷料理ですね。宮廷料理が起源になっていた。それが後にパリの高級都会料理として洗練されていった。しかし、王様との結びつきがなくなってからも、いわば国家権力と結びついた中央集権的な、それから、パリ中心的な料理として、国家によって喧伝されていった。で、フランス料理こそ美食の粋であり、料理の頂点であると。

そういうことで、権力者によって広められ、とりわけ宮廷、他国の宮廷にも広まっていった。例えば、ロシア宮廷でも、宮廷料理はフランス料理でしたし、あるいはこの日本でも、天皇陛下の主催するような正式の料理は、日本料理ではなく、フランス料理なわけです。

こういったものとしてフランス料理というのはできあがって、ですから、とにかく高級料理なわけですね。もちろん一般のフランス人は、毎日そんなものを食べているわけではなく、非常に粗末なといいますか、簡単な肉を焼いただけとか、そういったものを食べているわけですが、でも、フランス料理というのは何かというと、この高級宮廷料理、高級都会料理であります。

しかし、イタリア料理というのはそうではなくて、あくまでも農民料理、それから、庶民料理がベースになってできてきた。これはこれまでお話してきたパスタの成り立ちからいってもある程度言えるわけですし、パスタ以外の肉、野菜料理、あるいはスープ料理、こういったものはなおさらのこと、農民料理の基礎の上に、貴族や都市民が多少とも工夫しなおしていった。ですから、農民料理であるということは、その土地土地で栽培される作物、とれる肉、こういったものをまずなによりも元にしている。つまり、地方ごとの風土や、土地、歴史に結びついているものこそイタリア料理であるわけです。

したがって、フランス料理のような、国家が上から定めるような料理というのは、イタリアには存在せず、アルトゥージなどが工夫したトマトソースをかけたパスタというものも、これはもちろん上からの宣伝ということもあるわけですが、そういったものだけでイタリア料理を語りつくすことはとてもできないということですね。

この地方根性を表す1つの例証として、パスタには無数の形態があり、名前も不統一だということもあります。これは、同じようなパスタでも、ちょっと隣の地方へ行くと、全然違う名前を持っているわけですね。で、形もいろいろだと。この形はその地方の特徴ということもありますが、より新しい時代では、工業的デザインということで、売れそうな形にするということももちろんあるわけですが、地方独特のパスタというのもたくさんあるということで、こういったところにもその地方、地域主義や、地方根性が表れている。

ですから、今はやりのスローフードの運動がイタリアから生まれたというのも、当然といえば当然でないかというふうにも思われるわけですね。何よりもその土地の食材を生かしていくという、これはイタリアが歴史的に非常に得意としたやり方であったというわけです。

それでは、私の準備した話はこれで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。



司会  池上先生、どうもありがとうございました。それではいかがでしょうか。ご質問ある方もおられると思いますが。はい、篠さん。


質問  先生の本を何年か前に買いまして、まだ読みきってないのですが、非常に興味深い箇所がたくさんあります。今日はパスタの歴史ということで、久々にイタリア研究会に駆けつけてきたわけですが、このパスタというものは、粉を練って作る、北イタリアだとそば粉を使ったピッツォケッリというのを食べたことがあります。昨年、トスカーナの高級なパスタ、スパゲティを作っている会社で、マルテッリというところを取材したとき、あの周辺を旅していると、ほとんど小麦畑がトスカーナ、ウンブリアには広がっているので、原材料のセモリナ粉は当然イタリア産でしょうと聞いたら、85%カナダ産を使っているといって、びっくりしたことがあるのですね。このマルテッリ社の製品は日本にも輸入されて、黄色い紙のパッケージに入ったとても高級なものなのですが、今の原材料から見て、イタリアのこのパスタに使われているセモリナ粉にしろ、他の小麦粉にしろ、イタリア国内の自給率というのはどのくらいなのでしょうか。それともう1つ、そば粉には、サラセンの粉とか、サラチェーナという名前がついてきます。当然これもアラブ人がもたらしたものだと思いますが、このそば粉を使ったパスタを私はロンバルディアでしか食べたことがないのですが、もっと南の方でもあるのでしょうか。この2点について教えてください。


池上  小麦の自給率は、イタリアでも非常に低いというのは存じているのですが、正確に何%かというのは私今お答えする知識がありません。それでちょっと思い出されるのが、イタリアで小麦の値段が上がって、ストが起きた。ストというか、パスタが食えなくなるというので、これは日本でも同じですが、バイオエタノールというのですか、トウモロコシ畑がアメリカなどで増えて、小麦畑が減って、それで小麦も高くなるという、何かちょっとばかげたことが行われているので、そういうことだと思うのですが、ですから、その小麦に関しては、イタリアでも日本と同様に非常に自給率が低いという大きな問題があるのだと思います。パーセンテージはわかりませんけども。そばですが、そばはやはり南イタリアでは私、そばのパスタというのは知らないのですが、先ほどおっしゃったトリノとか、ミラノ周辺の北イタリアでそば畑が昔広がっていたというのは何かで調べたことがあります。それで、そば自体は中世からイタリア、あるいはヨーロッパではあったので、それが最初、アラブ人から入ってきたものかどうかというのはちょっとよくわからないのですが、あるいは、場合によっては元々ヨーロッパにあったのではないかと思いますが、それはもう少し調べてみないとわかりません。


司会  そばは結構気温の低いところでないとできないので、アラブから来たとはちょっと考えられにくいように思うのですが、あるいは、色が黒いからそういう名前がついた可能性もあるような気もするのですが。


池上  相当中世の早い時代から使われていたというのは事実ですが。


質問  大変面白い話をありがとうございました。日頃何気なく食べているパスタに、このような非常に深い奥行きがあって、今の先生のお話でも、その素材とか、製法とか、そういったものに、イタリア人の想像力というのですか、そういったものが集積されているように思うのですが、2点ほどお伺いしたいと思います。パスタがこれだけイタリアで普及をしておりますが、隣国、欧州の陸続きであるにも関わらず、例えば、ドイツとか、フランスとか、そういうところへイタリア人が持っていってやっているということはあるのだけど、隣国の人たちの食材の中に全く入ってない。スパゲティを買ってきて、自分で食べたりすることはあるにしても、やはりパスタというのは、どうしても非常に地域性があって、イタリアから回りに広がってない感じなのですよね。それがどうしてなのかという事ですね。イタリアと回りの国にも暮らしてそういう感じを強く思ったので、それはなぜだろうかということと、もう1つは、麺類ですね。麺類は、中国、日本、こちらの東アジアの方に形態は似ているし、素材も似ているようなものがあるのですが、マルコ・ポーロが持っていったというのは、先ほどのお話で、これは真実ではないというお話でしたが、しかし、相関がないのか、両方の関係というのは全くないのか。偶然同じような素材を使って、同じような形態のものが両方で作られたのか。あるいは、何か両者の間に関係があるのか。アラブあたりが仲介して、向こうへもっていったとか、そういうことは考えられるのか。その2点をお伺いしたいと思います。


池上  なかなか両方とも難しいのですが、例えば、フランスを考えてみますと、中世からルネサンス期、あるいは、近代初頭を考えてみると、パスタというものは、つまり、あまり健康によくないというような、そういう言説もあったのですね。白いパンはいいのですが、たとえば、イタリア人がよく食べるような豆とか、チーズとか、パスタもそうですが、これは身体に悪いどころか、なんか馬鹿になるとか、そういう愚鈍さ、粗野さ、そういうものと結び付けられる。そういうことを言う知識人や貴族が多かったわけですね。もちろんイタリアの貴族にもルネサンス期にそういうことを言う人はいたのですが、でもイタリアの貴族の偉いところは、割合すぐにそういう考えを改めるのですね。それで、自分たちの宮廷料理にパスタも、豆料理も、野菜料理も、全部取り入れるということを早くから行うわけです。でも、例えば、フランスの宮廷貴族なんかは、野菜をほとんど食べなかったというほど、野菜を馬鹿にしていたのですね。つまり、土から生えてくるようなものは駄目だというような、むちゃくちゃなことを言って、でもフランスでも農民は違うのではないかと言われるとそうかもしれないのですが、近代になってもなかなか普及しなかったというのは、そういうような考えも一因だろうと思うのですね。それで、じゃあなぜフランスの農民は、同じように貧しかったのにパスタを食べなかったのかというのは、それはよくわからないのですが、先ほど歴史でも申しましたように、パスタというのは非常に面倒くさいものですね、作るのに。乾燥させて粉にして、練って、更に茹でたりしてという。そのあたりがイタリア人の地域を越えた国民性みたいなものが、それこそローマ時代からずっとあったのかなという気もするのです。そこまでさかのぼると、北の方はゲルマン人ですから、狩猟民族、もちろん農耕もしていたわけですが、そういう面倒くさいことはせずに、狩をして、肉を食べるとかということだったのかもしれません。ただし、フランスでもプロバンス地方では、中世で一種のパスタが作られていたということがあって、オレッキエッテというプーリア地方で食べられる、耳たぶの形をしたあれは、同じようなものがプロバンスで作られていたということも言われております。それから、もう1つ、麺文化の東西交流についてですが、それはあらゆる人がいろいろなことを言って、もう収拾がつかないようなことらしいので、総合的な研究チームでも作ってやらないと駄目だと思うのですが、どうなんでしょうね。なんか最近聞いた話だと、モンゴルですか、モンゴルのある町には、シチリアや、プーリア地方で作られているのと全く同じパスタのものすごく美味しいものがあるということで、町の名前は忘れてしまったのですが、そういう町があって、そこにはイタリア人がツアーで来るというのですね。だから、マルコ・ポーロの後を求めてかどうか知りませんけど、イタリア人もすごく美味しいと感心しているようなのがあるらしくて、そういうのを聞くと、どこかにつながりがあるような気もするのですけども。


質問  ちょっと関連しますが、穀物を粉にして食べるというのは、結構あちこちで広くやっているわけですが、アジアかなんかでは、それをひも状にして、それこそうどん状にしたものが、いろいろな国でいろいろなものがあると。ところが、ヨーロッパではイタリアのマカロニ、スパゲティくらいしかない。もう少しいろいろな国に似たようなものがあってもよかったのではないかと思うのですが、それが不思議に思えてしょうがないのですが、その辺先生はどうお考えになっていますか。


池上  よくわからないですよね。不思議なのだけど。その不思議なのをある観点から解き明かそうとして、「パスタ感覚」という言葉を作ったのですが、これは私がこの間出した「世界の食文化 イタリア」という中でも、パスタを作るというのは、穀物を乾燥して、粉にして、水と合わせて形を作って、更に茹でたり、蒸したりするという、非常に高度な調理技術、単に焼くだけとか、生で食べるのとは大きく違う作り方なわけですが、更にそれが、それを作るのが、先ほどの絵でもお見せしたように、女性であり、家庭ではお母さんが必ず作ると、今では違うかもしれませんが、お母さんの作るものということになっていました。それから、民族的な慣習との関係ということで、お祭り、それから、ハレのさまざまな機会に食べるものだということも申しました。イタリア人が、お母さんが作るものということで、マンマの味の代表としてパスタというものが、特に男の子にはお母さんのパスタを食べないと生きていけないみたいな、そういう人もいるわけで、こういうイタリア人の国民性とか、イタリアのいわば民間の慣習、伝承といったものと、そのパスタが非常に密接にからみついてできてきたのだと考えられます。そのあたりが、イタリア人というものを考える、イタリアの歴史を考えるときに、非常に重要なヒントになるというふうに考えまして、その一種のセンスといいますか、その感覚を「パスタ感覚」という言葉で、キーワードとして、イタリア、イタリア人を考えていけないかというふうに思ったわけですけど、ですから、今のご質問の直接の答えにはなっていないのですが、なぜ他の国、国民がそういうものを作ってこなかったか。イタリアだけといいますか、イタリアと密接に結びつくかということについては、私はそういうふうに考えたわけです。


司会  今の点とも関連しますが、アラブ人のコントリビューションというお話がありましたが、現在アラブ世界で残っているのはクスクスだけでしょうかね。他のパスタというのは、アラブ世界には残ってないのでしょうか。あまり聞いたこともないのですが。


池上  そうですね。私もあまり知らないですが。麺というのはあまりないような気がします。それも不思議といえば不思議です。


遠藤  大変面白い話をありがとうございました。先生の話をずっと聞いていて、今のご質問複数聞いていると、パスタというのはイタリアで流行って、イタリア以外に拡散していかなくて、イタリアだけに残ったという現象なのですが、もし次回このテーマでいろいろご研究とか、文献とか、更に研究を進める機会がございましたら、ぜひ。ふと思ったのですが、やはり食糧危機と先生おっしゃっていて、食糧危機に対して、乾燥パスタが保存しうると。他のヨーロッパ地域は結構食糧危機というのがイタリアより少なくて、イタリアでは結構食糧危機があった。貧しかったというせいもあり、日本と同じように土地も平野が少ないのですね。ヨーロッパの中では非常に山岳地帯が多いところである。しかも、そういう乾燥しているということで、そういった食糧危機に対して強かったものが庶民の間に普及していった。後、実際庶民が煮炊きをできるというのはかなり近世の話ですから、後、ギリシャとか、スペインなんかも非常に乾燥地域で、あそこらへんもそんなに土地が豊かではないので、そういった点はイタリアと似ているのですが、あそこにはパスタがない。イタリアの統一国家ができてから、意外にイタリア語でイタリア政府はアイデンティティを作っていったというそういう話も読んだことがありまして、イタリア統一政府の人間が、これからイタリア人を作らなければいけないということを言っていたというようなことも読んだことがありますけど、やはり国民食としてパスタとかそういったものを、政府が上から進めたというような、なんかそういった要因もあるのではないかなと思っております。本当にこれは面白いテーマで、ぜひ今後もいろいろ文献を読まれて、そこら辺を追及していただけると大変うれしいと思っています。質問なのですが、何でも先生ご存知だとは思いません。知らないこともあると思うのですが、もし知っていたら教えていただきたいのですが、私トマトの生育に非常に興味持っていまして、ものの本によりますと、ポモドーロ、金の林檎ということで、小さい観賞用の植物だったと。それがナポリで、土壌と太陽にマッチして、サンマルツァーノみたいな大きい実に変わっていったのだというのですが、その辺の品種改良の努力みたいなものを、当時のナポリ人がやっていったのかと。あるいは、たまたま突然変異で、ナポリの土壌に合ってそうなったのか。というのは、植物は土壌、気候条件が合うと、全然違った実がなるという事がありますので。ということで、品種改良を意図的にやったのか、それとも、たまたま突然変異で、ナポリの土壌と土地に合って、ああいうような大きい実がなって、ソースがふんだんに取れるトマトになっていったのか、ご存知であれば教えていただければと思います。


池上  品種改良まではちょっとまだ調べがついてませんで、よくわからないのですが、ナポリにトマト研究者、トマトを専門に研究するような学者が何人も出てきたというのは読んだことがありますので、おそらくそういった品種改良も、ある時期からは出てきたと思うのですが、それが最初にナポリの土壌にあって、何かおいしいものが突然できてしまったのかどうか、そのあたりについては、今後の課題にさせていただきたいと思います。


質問  興味深い話をありがとうございました。先ほどから質問が出てました、なぜパスタがイタリアでということにつきまして、私見を述べさせていただきます。私は中南米に7年ほど在勤していました。ご存知のように中南米でも、トウモロコシを乾燥させて粉にして、トルティージャというのを焼いて、その中に野菜とか肉をはさんで、タコスという食べ物を食べているのですが、これは元々貧困、今でもインディオという中南米の1番低所得者層に属する人たちの食べ物なのです。私もそれから推測して、おそらくは、イタリアの食糧危機かなにかで、ナポリの貧困層が食うや食わずの中で作り出した食べ物ではないかというふうに推測いたしました。中南米でも元々庶民、1番の低層階級の食べ物が進化して、いろいろなメキシコ料理店とか、中南米の料理店でも食べられるような高級なものに変わってきていますが、元々はそういう庶民の食べ物ではなかったかなと。そこから進化したものではないかというふうに思います。それから、トマトですけども、トマトにつきましては、当時中南米でも原住民のインディオがそのトマトを食べていた、それをスペイン人が見て、持って行ったので、今の原型とそれほど変わってはいないのではないかと思います。私がわからないのは、どうしてナポリなのかと。どうしてナポリでそのトマトソースがはじめてできたのだろうかと。その辺のところがわからないのですね。もしわかれば教えていただきたいのですが。1つの可能性としては、当時ナポリがスペインのハプスブルグ家の影響下にあったので、その影響があって、トマトが持ち込まれたのかなということも考えたのですが、もしわかれば教えていただきたい。どうしてナポリなのですかと。


池上  やはりナポリは、ナポリ王国の首都というか、中心でしたので、そういうスペインからの影響というのは非常に大きかったと思いますね。だから、はじめにラティーニがトマトソースを作ったとき、その名前をスペイン風ソースとつけられたので、だから、そういうことからも、スペインの影響というのはかなりあったのではないかというふうに思います。


質問  非常に素朴な質問なのですが、パスタを手で食べている写真を先ほどお見せいただいたわけなのですが、なかなかこの時間おいしそうにも見えたりしました。私はパスタは手で食べたことがないのですが、当時のパスタはおそらくあまり熱々ではなかったのかなというふうに思えたり、それから、味付けも今現在我々はトマトソースですとか、クリームソースですとか、いろいろなものをつけますが、当時はおそらく塩とせいぜい油ぐらいだったのかなというふうに想像したりもするのですがいかがでしょうか。いったいういう味だったのかなと、もしご存知でしたら教えていただければと思います。


池上  味付けとしましては、チーズですね。チーズを粉にしてふりかけるというのが基本的な食べ方でした。もちろん、18世紀、19世紀になると、トマト味も徐々に出てくるのですが、ですから、味付けはせいぜいチーズをふりかけるくらい。で、熱かったかどうか。たぶんナポリで手で食べているのは、ちょっと冷めたものを食べていたはずなのですが、でも、トスカーナの、先ほどあげた14世紀のサッケッティなんかの作品を見ると、熱々で、複数の人数でパスタを食べているシーンが出てきて、ある人は、熱いのでも平気で、必死で口の中に放り込んで、他の人が食べられなかったという、そういう小話があるのですが、更に、ちょうどその頃、フォークを使うという習慣も一部で出てきたのですね。一説によると、フォークは熱いパスタを食べるために登場したという説があって、ですから、熱々のパスタももちろん存在して、フォークも14世紀から、はじめは貴族だけでしたが、徐々に広まっていって、でも、一般庶民は手で食べるほうが多かったのではないかというふうに思います。


司会  そろそろお時間となりましたので、今日の例会を終わりたいと思います。もう1度皆さん、拍手をお願いします。