サルデーニャの民俗音楽

第331回 イタリア研究会 2007-11-28

サルデーニャの民俗音楽

報告者: 金光 真理子


第331回イタリア研究会

演題:サルデーニャの民俗音楽

講師:金光真理子


司会  みなさん、こんばんは。イタリア研究会の橋都です。第331回のイタリア研究会の例会においでくださいまして、ありがとうございます。今日はこの館全体が暖房が故障しているそうで、後ろに電気ストーブを入れてありますが、少し寒いかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。

 今日は、サルデーニャの民族音楽ということで、金光真理子さんに話をしていただきます。この会でイタリアの音楽、特にオペラについてはずいぶんお話していただいたことがありますが、イタリアの民俗音楽の話というのは、今日が初めてではないかと思います。

実は今年の夏のパーティで金光さんにミニトークをしていただいたのですが、ぜひ例会でもお話をということで、今回お願いをした次第です。

それでは、金光さんのご略歴を簡単にご紹介したいと思います。金光さんは、東京藝術大学音楽学部の楽理科をご卒業で、音楽学博士です。2000年から2002年にイタリア政府奨学生、それから、ロータリー国際親善奨学生として、ボローニャ大学に留学されました。昨年ここでお話してくださった土肥さん、彼とはイタリア政府留学生の同期生だそうです。そして、イタリアでは、主に今日お話いただくサルデーニャの民俗音楽の研究をされて、それで、日本に戻ってこられたわけです。皆さんご存知かも知れませんが、サルデーニャというのはイタリアの中でも非常に独特の文化を持ったところで、その民俗音楽ということで、大変興味深い話を聞かれるのではないかというふうに思います。金光さん、サルデーニャではしばしばサルデーニャ人に間違えられたということですけれども、大変エキゾチックな金光さんに、サルデーニャの民俗音楽ということでお話しをしていただきたいと思います。それでは、よろしくお願いします。



金光  ただいまご紹介に預かりました金光真理子です。本日はよろしくお願いします。実は私はこのイタリア研究会と同じ年に生まれているのです。1976年、それで、今回331回ですか。本当にそれだけ回を重ねてこられて、活動をしてこられた、すばらしいことだと思います。本日こうしてお話させていただくことを大変うれしく思います。1時間半、どうぞお付き合い願えればと思います。

今ご紹介いただきましたように、私はイタリアに留学して、民俗音楽というものを学んできました。民俗音楽、イタリア語でいうと、musica popolareですね。民衆の音楽ということですね。そのmusica popolareの中でも、サルデーニャの音楽というものを研究してきたわけです。

本日は、そもそも日本人の私がなぜサルデーニャなんかに行って、その音楽を研究することになったのか。それから、実際どのような調査を行ってきたのか。そういう私の足跡というか、そういうものを通して、皆さんにもサルデーニャの音楽の魅力というものをお伝えできればと思います。

ご紹介いただきましたように私は、上野公園の向こうにあります東京藝術大学というところの出身です。楽理科というところなのですが、楽理科、音楽の楽に理論の理と書きまして、東京藝術大学の学生さん皆さん演奏が中心という中で、楽理科だけは研究、音楽を演奏するのではなく、音楽を研究する科なのですね。その中でいろいろ専攻を選ぶことができるのですが、私が大学院に進むときに、何の専攻を選ぶかというとき、元々私はピアノを弾いて育って、クラシック音楽が好きでという普通の女の子だったのですが、イタリアオペラなんかも好きで、そういうときに、小泉文夫という名前をご存知の方、いらっしゃるでしょうか。日本の民族音楽学の草分け、民族音楽学者の草分けと言われる人なのですが、彼の本を読みまして、とても感銘を受けました。彼自身は日本民謡大観の編纂に関わっていて、まず日本の民謡研究から始まっているのですね。それから、インドに留学して、まだ船の時代にインドにわたって、インドに留学し、それから、世界各地をめぐって、かなり面白い理論を編み出した人です。残念ながら私は彼に出会うことはできず、私が小学校6年生くらいのときに亡くなってしまいましたが、彼の本を通じて、民族音楽学、なんて面白い学問だろうということで、その世界に入りたいなと思うようになりました。

今、民族音楽学といいましたが、そういうわけで、私が専門とするのは民族音楽学というものです。どういう学問かといいますと、実際私がしてきたようなことなのですが、まずその現地へ出かけていって、そこで実際人々が行っている音楽を研究する、調査する、その中に入っていって、音楽を通して、人間がどんなふうに音楽を作り出してきたか、そういうプロセスを理解したい、音楽の文化人類学みたいなものです。

その小泉文夫との出会いがあって、民族音楽学というものをやりたいなと思ったわけですが、じゃあどこの音楽を研究するかというときに、特にまず最初は候補がなかったのですね。そもそも私はクラシック音楽を聞いて育ってきた人間だったので、例えば、インドネシアのガムランをやりたいとか、そういう人はきっと簡単に自分の対象というか、フィールドを決めることができるのですが、私はどうしようかなと迷っているときに、先生が、あなたもどこかにフィールドを決めなさいと言われまして、そうだなと思ったときに、じゃあ私はイタリアが実際好きだし、イタリアオペラも好きだし、じゃあイタリアにしようかなと。イタリアなら食べ物もおいしいし、気候もいいし、これはいいと、最初は本当にミーハーな気持ちからイタリアというものを選んだわけです。

実際、イタリアの民俗音楽というものを調べていこうとするときに、日本にいると、何もないのですね。日本でイタリアというと、もちろんオペラをはじめとするクラシック音楽の国というイメージが実際強いですし、そういうものがよく知られています。でもそうではない民俗音楽、この民衆の音楽というものをちょっと調べようとすると、何もないのですよね。そうやって、イタリアってとても私たちになじみがあるようで、意外と知らない、そういうギャップ。むしろそのイタリアという裏側に隠されたその音楽の世界を探っていくことができるかもしれないなというふうに思って、イタリアというのをあえて選んでみることにしました。

それからご紹介いただきましたように、留学して、実際向こうに行ってきたわけですが、そのイタリアの民俗音楽の中でも、特に私が注目したのが、本日お話しますサルデーニャの音楽でした。サルデーニャ島はここに地図がありますが、イタリア半島の西側にありまして、地中海の中央辺りにあります。シチリア島についで第2番目に大きな島です。北にあるのがコルシカ島です。

このサルデーニャ島の音楽の中でも特に私が研究したのが、この右側のおじいさんが吹いているラウネッダスという楽器です。本日お話しするラウネッダスという楽器です。実際実物を私ここに持っているのですが、こういう楽器なのですが、ご覧いただけるとおり、葦ですね。素材は葦。ここに紐を使っていますが、葦笛を3本組み合わせたものです。先にはリードがついていまして、この方がやっているように、リードを3本ともまとめて口の中に入れます。それで、循環呼吸という技法を使って演奏するのですね。循環呼吸、吸いながら吐く、吐きながら吸うということをやるわけですが、そういう循環呼吸という技法を使うことによって、途切れなく音が鳴ることができるのですね。皆さん、バグパイプという楽器をご存知でしょうか。まさにバグパイプのような音がします。途切れることなくこの3本の管が鳴りまして、メロディも、伴奏も一人でやってしまう、そういう楽器です。

この楽器なのですが、こういう楽器、サルデーニャにしかありません。世界広しといえども、サルデーニャにしかない楽器なのです。

なぜかといいますと、不思議なのですが、そうは言いましても、仲間というか、葦笛の仲間というのは、地中海全般に広まっていまして、このラウネッダスは、実は、古代のアウロスという楽器をご存知でしょうか。プラトンの饗宴にもアウロスについての記述が出てきます。アガトンの家で酒宴が行われ、そこにアルギビアデスが来るのですが、その際に、ヘタイラという遊女を伴ってやってくる。そのヘタイラがアウロスを吹きながらやってくるという記述があります。アウロスというのは、これ葦でできているはずなのですが、2本のこういう笛をかまえて、やはり循環呼吸で吹いていたと考えられる楽器です。似てますよね。こちらは3本ありますが、こういう古代からあったアウロスのような葦笛が、地中海全域に広まっていく中の1つとして、サルデーニャに伝わった、あるいは、サルデーニャで独自の発展をとげて、このような3本の笛というのが、今でも健在のサルデーニャで演奏されています。

イタリアというのは地方文化が多様だとよく言われます。例えば、カンパリニズムなんていう言葉もご存知と思いますが、各地方ごとに自分の文化というものを誇りに思っている。そんな中でも特にサルデーニャというのは、独特の文化圏として知られています。

1番わかりやすい例で、言葉です。サルデーニャで話されている言葉は、サルデーニャ語といいまして、イタリア語の方言ではないというふうに、実際、言語学的にも考えられています。つまり、ラテン語から発生したロマンス語というものがありますが、イタリア語とか、フランス語とか、スペイン語とか、そういうものの1つとして、サルデーニャ語というのが考えられています。

そういうわけで、サルデーニャ人、もちろん自分たちのことをサルデーニャ人と言って、イタリア人とは言わないわけですが、どこでもそうですけど、フィレンツェの人はフィレンツェ人と言いますし。そんな中で、サルデーニャの音楽というのは独特で、その独特の音楽を代表するのが、このラウネッダスという楽器です。

そんなわけで、特に私がこの楽器に注目したのも、独特だけれども、地中海全般に広がったような、そういう楽器の1つでもあるということで、イタリアの文化の独自性と、その広がりというのを、どちらも両方見ていける、イタリアの文化の奥行きみたいなものが、この楽器を通じてわかるのではないかというような、そういう注目もあって、この楽器を研究していくことになりました。本日、この楽器について、ご紹介したいと思います。

このラウネッダス、なんといってもポイントは、この楽器がプロの楽器であるということです。職業演奏用の楽器なのですね。だから普通の人は簡単に吹くことができません。とても実際難しいのですが、循環呼吸はもちろん難しいのですが、彼らに言わせれば、循環呼吸を学ぶのが1番簡単だというぐらい、その後に続くレパートリーを学ぶのがとても大変なのです。

このプロフェッショナルの楽器なのですが、なぜプロ化したかというと、それは舞踊の伴奏、踊りの伴奏のためなのですね。イタリア全般に、とても踊りはさかんですけども、サルデーニャというのは特に踊りが盛んなところです。

ここにあります写真は、お祭り、だいたい舞踊というのはお祭りに伴って行われるのですが、サンタントニオ、聖アントニオ祭のお祭りで、これは1960年代くらい、古い写真ですね。サルデーニャのある小さな村ですけれども、こちら側に教会がありまして、これ郊外ですね、郊外の教会があって、その教会の前の広場で、みんなが大きな輪を作って、そして、この真ん中にいるのが実はラウネッダス奏者でして、奏者を囲んで大きな輪になってみんな踊るというような舞踊が盛んに行われてきましたし、今もちょっと形を変えて行われています。

この舞踊というものなのですが、今でこそそうではなくなってきたのですが、当時というか、その20世紀に入る前くらいまで、あるいは、戦前、これは本当に共同体の中での最大の、唯一の娯楽といっていいものでした。テレビもない、ラジオもない、そういうところにあって、みんなで集って踊るというのがどんなに楽しかったか、想像できないくらいなのですが、本当に共同体の娯楽として、この舞踊が楽しまれてきました。みんな祭りになると、それまで労働で、畑仕事などで疲れていても、疲れなんか吹っ飛んで、隣の村まで何キロでも歩いて踊りにいったというような話を聞きましたが、舞踊というのはそういうとても娯楽として盛んに行われていました。

それでも単に楽しむだけではないのですね。実はこの舞踊というのがとても盛んになった理由の1つは、これが、男女が公に出会える唯一の場であったということも関係しています。今でこそ、サルデーニャでも若い男の子、女の子、手を組んだり、道端でキスしたりしますけども、その昔、そんなことはもちろんできず、道端で男性が女性に声をかけるなんてことも禁止されていました。

そんなわけで、舞踊の場に行くと、好きな女の子に声をかけて、踊りましょうといって、手をとることができる、そういう公のお見合いの場のようなものとして、舞踊というのは機能していました。

そんなわけで、その舞踊、祭りの舞踊、あるいは、日曜ごとに舞踊が行われたりするようになるのですが、そういうわけで、舞踊というのはとても重要な社会的な、共同体の娯楽の場であり、社交の場であったわけです。

そういう重要な舞踊のために、その舞踊を伴奏するラウネッダス奏者というのは、職業化していきます。職業化すると、もちろんレパートリーでもとても高度になっていくのですね。技術もアップするし、レパートリーも長く、豊かになっていく。そうすると、それを人から人へレパートリーを伝えていく必要ができてきます。

このラウネッダスの音楽、楽譜はありません。当然のことなのですが、こういう音楽で楽譜というものはないのですね。ある人が考えついたものは伝えられていく、レパートリーとしてみんなの共有財産となって、曲が豊かになっていくけれども、それは人の頭の中にあるものであって、師匠から、うまい人から、弟子へというふうに伝えられていくわけです。そういうわけで、これは楽譜がなく、口頭伝承といいますけれど、師匠から弟子へ、イタリア語でいうとマエストロですね。マエストロから弟子へと口頭伝承で、このラウネッダスの舞踊曲は受け継がれてきました。

このラウネッダスの踊りの音楽、舞踊曲なのですが、とてもユニークなものなのですね。ユニークというのが、もちろん西洋のクラシック音楽にはクラシック音楽の理論がありますよね。理論があって、和声とか、作曲法というものがあって、それを学んで、作曲家というのは作曲するわけです。

それと同じように、ラウネッダスの舞踊曲には、ラウネッダス奏者自身が考えだした理論というか、美学というか、そういうものがあって、それにしたがって、彼らは舞踊曲を演奏しているのです。

ただし、それはもちろん理論書というものはありませんで、彼らの中で伝えられてきたことなので、なかなかわかりにくいものなのですが、それは決してクラシック音楽の考えとは全く違う、彼らなりの理論というものを持っているわけです。

で、その彼らなりの理論というものを理解するキーワードとなる言葉が、イスカラといいます。イスカラ、サルデーニャ語なのですが、イタリア語でいうとスカラ、英語でいうとスケールにあたる言葉ですね。つまり、はしごとか、階段というものを意味する言葉です。スケールといったときに、クラシック音楽をご存知の方は、音階のことかなとお思いになったかもしれませんが、ここでは音階というのは全く関係ありません。

それでは、このイスカラというのは何を意味するか。とても難しいのですが、まず1つ、大きく言って2つの可能性があるのですが、まず1つ考えられるのが、その舞踊曲をどのように演奏するかというようなことを一言で表すそういうものではないかと思うのです。というのも、彼らは、ソナイ ア イスカラといいます。これを日本語に訳せば、イスカラにしたがって演奏するというような意味なのですね。英語でいうと、プレイ バイ スケール。バイ、このアというのはバイにあたるのですが、イタリア語のアといっしょですが、例えば、テニスをするというのをイタリア語で何というかご存知でしょうか。ジョカーレ ア テニスというのですね。日本語でテニスをするというと、テニスが目的語のように聞こえますが、イタリア語の場合、ジョカーレ ア テニス、つまり、テニスというルールに従ってジョカーレ、プレイするというふうに言うわけですね。同じようにここでも、つまりソナイというのは、演奏する、アというのは、そういうものにしたがって、というのはそういうルールみたいなもの、つまり、イスカラというのは演奏の規則というか、演奏の美学というか、そういうルールみたいなものがあって、それにしたがって演奏するというような言い方をするわけです。

では、そのイスカラにしたがって演奏するというのはどういうことかといいますと、平たく解釈すれば、ここで1つ用語が出てきて申し訳ないのですが、彼らはピッキアーダという単位があるのですね。ここではフレーズくらいの意味でお考えください。彼らがピッキアーダという単位を1つずつ順に繰り返すことなく演奏していくことではないかと思います。イメージとしては、階段を1段ずつ上っていくように、ピッキアーダを1つずつ演奏していく、というような、イスカラという単語にはこめられていると1つには考えられます。イメージとしてはこんな感じですね。1つずつ順に演奏していく。決して反復しない。これがイスカラにしたがって演奏するという彼らの考え方です。


もう1つ、イスカラというタームには、文脈によっては、舞踊曲のレパートリーそのもの、演奏する内容そのものを表していると考えられるときもあります。

この楽器には、実は、孔があいているのがご覧になれると思うのですが、この孔をあける位置によって、音がいろいろ変わってきますよね。その構成音の違いによって、実は9種類の楽器に分かれています。で、その9種類の楽器1つ1つに、イスカラと呼ばれる20から30くらいですね、決まったピッキアーダの連なりというものがあると。つまり、1つの楽器に1つの曲、1つのイスカーラと呼ばれるピッキアーダの連なりがあるというふうにされるのですね。

この1つ1つの楽器には名前がありまして、例えばこれは、この音の組み合わせの楽器はフィオラッスィウという楽器なのですが、そうすると、フィオラッスィウのイスカラというふうに呼ばれるわけです。他の楽器だと、イスカラ ディ プンテオルガヌ、プンテオルガヌのイスカラというような言い方をします。


司会  全部違うということですね、それぞれ。


金光  そうですね。今ここだと同じように見えますが、ABCDEFGと並んでいるようなものです。

そういうわけで、イスカラという単語には、このように、どのように演奏するかというような大きな美学、あるいは理論、規則というものと、演奏されるものそのもの、演奏のレパートリーを表しているという、2つの可能性が考えられます。

それで、実際こういうものが存在するというのを実感する体験として、私がフィールドワークというか、現地に行って調査している中で、この舞踊曲のレパートリーというのは、先ほど申し上げましたように、師匠から弟子へ、マエストロから弟子へ伝承されるわけです。

ただし、ラウネッダス奏者、あるいはサルデーニャ人一般に、とてもライバル意識が強いというのですか、ジェロズィーアgelosiaというのですが、イタリア語で、とてもライバル意識が強く、簡単には教えてくれないわけですね。

そんなわけで、実際にマエストロに学べた人たちというのはとても少なくて、私が出会ったジョバンニという演奏家も、とてもラウネッダスを愛していて、習いたくて習いたくてたまらなかったのですが、先ほどのアウレリオというおじいさんは、彼に絶対教えてくれなかったわけです。ただそのジョバンニはとても耳がよくて、ラウネッダスを愛する心もあって、一生懸命テープを聴いたりして、演奏を聴いたりしながら学んだのですね。だから、彼はとてもよく演奏できるのです。ただし、マエストロから学んでないがために、いろいろ、パッチワークのように、いろいろ聴いたものを切り貼りしながら、くっつけながら演奏しているわけです。そうすると、イスカラという観点からすると、本当はここになければいけないものがこっちにあったり、あるいは欠けていたり、そういうことが起きるわけです。そうすると、彼はイスカラを知らないと言われるわけです。イスカラを知らないというのは、つまり、お前は一人前の演奏者ではないと言っているのと同義語なのですね。つまり、このラウネッダス奏者にとって、イスカラというのは葵の御紋というか、これを知らなければ、これがあればいいけど、これを知らなければだめという、とても重要なものとして、実際、尊重されています。

ただし、今申し上げましたように、実際に内部に入っていかないとイスカラというのは教えてもらえないし、本当にそれがあるのだろうかというくらい、よくわからないものなのですね。

そういうわけで、ラウネッダス研究のこれまでの課題というのは、イスカラとはなんなのか、その実態、実際どれがイスカラなのかというのが問題になってきたわけです。というのも、いろいろな人の演奏を聴いていくとわかるのですが、全員違うのですね。でも、あいつはイスカラを知らないとか、あれはイスカラではないと言い合うわけです。そうすると、じゃあどこがイスカラなのかというのがとても問題になってくるわけです。そういうわけで、イスカラとは何かというのが、まさにこのラウネッダス研究のトピックでありました。

私はそういうわけでこのイスカラとは何かというのを研究してきて、普段の発表では、こうしました、その問題点はこうです、私はこうしましたということを発表しているわけですけれども、ちょっと専門的に過ぎますので、本日は、もちろんそういうわかったことも含めつつですが、なぜイスカラなのか、イスカラというのは階段、はしごという意味があるのですが、なぜイスカラなのかということを念頭に置きながら、その質問に答える形でお話したいと思います。

私はこう解釈しています。イスカラにしたがって演奏するというのは、路線図をイメージするといいのです。東京から名古屋まで行くとしましょう。つまり、東京では東京のテーマを演奏し、そこでどのくらい東京のテーマを演奏するか自由なのです。5分間やっていてもいいし、10分間やっていてもいいし、ただ、そこでは東京のテーマを演奏するのです。次は品川、次は新横浜と、1つずつ演奏していくわけです。ただし、出発点とゴールは決まっていますので、東京で始めて、最終的には名古屋に至らなければなりません。

とはいえ、各駅でどのくらい演奏するか、どのように演奏するかは自由ですし、例えば、これは踊りの伴奏ですから、踊り手がのってこないときには、もう東京から新横浜まで、小田原くらいまで行ったら、途中飛ばして名古屋まで一気に行くこともできます。つまり、省略が可能です。

それから、逆に踊り手がすごくのっていて、なるべく長く演奏してもらいたいというときには、こんなふうに寄り道することも可能です。品川で1回降りて、ちょっと別のところに遊びに行って、そっちのテーマを演奏し、また新横浜に戻っていく。そして、元のルートを続けるということも可能です。つまり、挿入が可能です。

こんなわけで、イスカラというのは、ある程度柔軟性があって、スタートとゴールは決まっているけれども、途中を省略したり、あるいは途中で挿入をしたり、それから、各部分、各ピッキアーダなのですが、ピッキアーダの部分でどのくらい、どのように演奏するかというのも、各人の演奏家の力量に任せられることになります。

なぜこの路線図を出したかといいますと、このように理解すると、反復ができないというのがよくわかるかと思います。イスカラに従って演奏するというのは、反復禁止というのが大きな条件になるのですけども、そうすると、静岡に行った後に小田原に戻ることは絶対できないわけです。こういう感覚がイスカラにあるわけですね。ここまで、静岡のテーマを演奏した後に、小田原は絶対演奏してはいけないということが実際あります。つまり、1度演奏したピッキアーダを再び演奏してはいけないということが言われるわけです。

ところが、音楽の作り方として、反復を禁止するというのは、例えばクラシック音楽ではありえないことなのですね。クラシック音楽で、例えば、ロンド形式というものがありますけれども、ABAというのが基本にあって、A、最初に演奏した部分を最後にもう1度演奏するというのは、とてもよくあることです。あるいはクラシック音楽で、主題ロウサクなんていいますが、ベートーベン以来、その主題、テーマがあって、少しずつ変えて、何度も同じテーマを繰り返し、形を変えるまでやっていくというのは、よくある音楽の作り方なわけです。そういう観点からすると、本復をしてはいけないというのは、なんかおかしいというか、とても奇妙なことにうつるかもしれません。

そうはいっても、私たちアジア人というか、日本人にはむしろ反復禁止というのは、ある意味自然かもしれません。序破急というものがありますが、雅楽の元々は用語ですね。話を作りながら序破急と使ったりしますが、元々は雅楽の楽式の用語で、つまり、序があって、破があって、急がある。それが川の流れのようにどんどん進むというのが元々にあるのですね。そうすると、むしろイスカラ、そっちなんかと同じ考え方に基づいているわけです。

こういう反復禁止というのは、形式感というものは、どこから来たのかというのを見ていきたいと思います。実際こういうのを見ていくと、この音楽の面白さというか、深さというものがわかってきます。

それで私は、先ほどご紹介いただきましたように、ボローニャ大学に留学したのですが、ボローニャ大学というのはイタリアの中部のあたりですね。そのボローニャ大学に行って、夏とか、冬とか、休みになると、サルデーニャへ飛んで、調査をするということをしてきました。

その調査の中でこのイスカラというものを調査したいわけですが、まずはどうするか。もちろんそのラウネッダス奏者に聞いてみるのが1番いいわけですね。イスカラってなんなんでしょうか、イスカラってどういうことですかというふうに、インタビューするわけです。そういうことを通して、ラウネッダス奏者の理論というか、彼らの思考のパターンというか、彼らはどのようにイスカラを考えているかというのを探ろうとしました。

私は今路線図にたとえましたが、実は比喩ですよね。比喩というのは、ラウネッダス奏者自身がよく使うパターンというか、思考法なのですね。ラウネッダス奏者は、実際イスカラを説明するときに、いろいろなものにたとえてイスカラを説明します。その中でもとりわけ何にたとえるかというと、言葉の表現。話をすることであったり、詩を作ることであったりとか、そういう言語表現というものによくたとえます。

ここにあげましたのは、私がインタビューしました、特に調査に協力してもらいましたアウレリアポルクという人が言ったことなのですが、最初に出ていたおじいさんですが、最後の伝統的なラウネッダス奏者というような人で、彼はこの間本当に、この夏に92歳で亡くなってしまいましたが、ずっと祭りでラウネッダスを演奏してきたマエストロの中のマエストロと呼ばれるような最後の人でした。

で、その彼がこんなふうに言いました。私が訳してきましたが、「ある曲を吹いているとしよう。次の曲へ、次の曲へ、そして最初の曲をまた始めたら、まるである話題を話していた奴が、最後まで話し終わったのに、もう一度最初から話し出すようなもので、聞いているほうは、何してるんだ、前に言ったことを繰り返しているじゃないか、もうそれは聞いたぞと言うだろう。奏者は短くともよくできた曲を次から次へと変えていかなければならないし、それを聞き手はよく味わわなくてはならない。詩人と同じことさ。もし同じ話を繰り返し話すようだったら、もうたくさんだ」というようなことを言いました。明確ですよね。同じ話題を繰り返さないというように、同じピッキアーダを繰り返さないというわけです。



ここで面白いのは、演奏を話すことにたとえて説明しているわけです。特に注目していただきたいのが、詩人と同じことさと言ってますが、サルデーニャでは、実は即興詩の伝統がとても盛んなのですね。このポルク自身も詩が実際得意で、よく詩を歌ってくれましたが、サルデーニャの詩、ムートスとか、ムテットゥスと呼ばれるものなのですが、ここに即興詩の伝統がとても根強くありまして、ムートス、ムテットスというのは、元々は詩の定型の、詩の型の名前です。この詩の定型にのっとって詩を作っていくわけですが、面白いのは、この詩の試合というものがありまして、ガーラポエティカというのですが、実際2人から、あるいは4人くらいの詩人たちが、プロですね、この人たちも、この詩人たちが、詩でお互いに競い合うという大会をします。例えば2人いる場合には、テーマを決めるのですね。手と眼のどちらがすぐれているかというテーマを決めて、1人は手を擁護する、1人は眼を擁護する形で、お互いにやりあいながら、ただし、ムテットゥスという詩の形にのっとって、そういうふうに試合をしたりとか、あるいは4人くらいいるときは、1つテーマがあって、1人が出すのですが、そのテーマを隠したまま、その人が詩でテーマを隠しながら何かをいうと、他の人たちはそれでこれはなんだとか、あるいは批判したりとか、質問を投げかけたりしながら、詩でやり取りをしていく、対話をしていくというようなことをよくやります。そのときも詩は常に歌われるのですね。節づけて、歌にメロディーをのせて、詩というものを歌います。

このガーラポエティカというのもとても盛んで、祭りになると、プロの詩人たちを呼んで、一舞台やるというのがよく行われてきましたし、今も行われています。だいたい3~4時間も続いたりするのですが、そういうとても盛んな詩の試合というものがあります。

この面白いのがムテットス、このガーラポエティカの詩の試合の場合、決まったテーマとか、決まった詩の形ですね、詩形というものがあって、それに合わせて、それにしたがって、即興的に詩を作り出していくわけです。

それと同じように、ラウネッダスにも決まったフレーズのパターン、フレーズの作り方というのがあって、イスカラですけども、それにしたがって、即興的に音楽をその場で演奏していく。やはり似たようなパターンがあるわけですね。そういうのもあって、彼らは詩の創作と、音楽の演奏というものを、一見違うもののように見えますが、結び付けて、同じようなものとして結び付けて、こうして音楽の説明をするわけです。

もう1つでは見てみましょう。

すみません、忘れてました。私、その前に、ラウネッダスの演奏というものをそもそもどういうものかご紹介しようと思ってビデオを用意していたのですが、すみません。何も知らないまま聞かされても困りますよね。すみませんでした。今更ですが、ラウネッダスの音楽がどういうものか、プラス、踊りといいましたが、踊りを合わせてご覧いただこうと思って、ビデオを用意していました。

なぜ思い出したかと言いますと、これ今からご覧いただくのは、私ではありません、撮ったのは。1960年代に、デンマーク人で研究した人がいまして、アンドレアス・フリードリン・ヴァイスベンツォンAndreas Fridolin Weis Bentzonという人なのですが、その人が1960年代に撮った映像と音を合わせて作ったビデオがあります。それでよく祭りの舞踊というものがわかりやすいので、ご覧いただこうと思います。これは、例えば、プロチェッスィオーネprocessioneと呼ばれる、聖人のお祭りの場面で、こういうふうにラウネッダス奏者が先導して、聖人像を担いで、村を練り歩くという場面ですね。

ちょっと前からですが、ここは教会の中でこういうふうに、サルデーニャの面白いところは、オルガンなんかではなく?ラウネッダスを使って、歌を歌ったり、ミサをやったりしていたわけですね。ここは今ちょうど聖体拝領というのですか、パンを最後にあげるところなのですが、それにもラウネッダスが伴奏して、ミサをやっていたわけです。

この後にお祭りの舞踊のシーンが続くので、そこを見ていただきたいのですが。

これはトッローネというお菓子を切り売りしているところですね。

ラウネッダス奏者がケースからラウネッダスを今取り出して、組み立てます。

こういうふうに組み立て式になっているのです。

すみません、これを最初に音楽の話をしたところで出していく予定だったのですが、どうもすみません。今ご覧いただきましたように、踊り、ステップの舞踊です。こういう形で、カップルもいましたし、男の子が4人くらいで組になって踊っているのもありましたね。そういう感じでどちらでもよいわけです。それが円状に連なって、左回りに回りながら、ステップを踏みながらやっていくわけです。途中すごく細かいステップをやっている人たち、足だけクローズアップされていましたが、自分の技巧をひけらかすようなことをやったりして、踊りというのはそういう自分の自己顕示の場でもあったりしたわけです。それから、途中、手を大写しにしたところがありましたが、覚えているでしょうか。あれは、男の人と女の人がいましたけれども、彼らの場合、婚約もしてなければ、結婚もしてないわけですね。そうすると、手のとり方というのが決まっていて、かぶせるような手のとり方をしていましたけれども、そういう手のとり方にも決まりがありますというのも、ちょっと見せるためにカメラがクローズアップしていました。身振りなんかを見ていても、彼らの雰囲気というか、決まりごとみたいなのが見えてくる、そういう映像を通してしたててあったわけですが、どんな音楽かなという、どんな踊りかなというのをイメージしていただければと思って、最初に見ていただくはずでした。

こういう音楽で、実際これはイスカラにしたがって演奏しているわけですが、おわかりになりませんよね、そんなこと言われても。何か同じようなのがずっと演奏していたなと思われると思うのですが、実際私も1年くらいたたないと、何がイスカラなのかなんてわかりませんでしたけれども、今お聞きいただいた音楽には、決して後戻りしない、先へ先へと進むのがあります。

それを例えば、先ほど申し上げましたように、話をするときと同じように、同じ話は話さないんだというふうに例えば言うわけですが、もう1人の人、なぜここで思い出したかというと、これは今の映像を撮った研究者がインタビューしたエフィジオ・メリス Efisio Melisという20世紀最大のラウネッダス奏者と呼ばれる人が言ったせりふです。手紙を書くとき、親愛なる友よ、私は元気です。お元気ですか。と書いた後、もう1度、親愛なる友よ、私は元気です、お元気ですかとは書かないだろう。先へ進んで、次々と新しいことを書いていくはずだ。同じように、舞踊曲を演奏しているときも、同じピッキアーダを何度も繰り返すことはできないのさ。この場合、手紙を書くことに演奏をなぞらえて、反復禁止というのを語っているわけですが、これを見ていただいておわかりのように、反復禁止というのは、単に同じことを何回も繰り返さないというのではないのです。つまり、手紙の場合例えば、まず1文が来て、次の文につながって、それが次の話題へとつながってというふうに、1つ1つの話題というのが、次の話題へつながっていって、全体として1本の手紙にまとまりますよね。同じように、舞踊曲の演奏でも、単に繰り返さないというのが問題なのではなく、このピッキアーダの次はこのピッキアーダ、そして次というその流れに従うこと、全体的な一貫性というものが求められているというのが、この例からもわかるかと思います。

そういうのがわかる例としまして2つほどあげておきますが、これはポルクという人が言ったせりふです。ある人が議論を始めたとしよう。ワインワインワインと。ワインについてしゃべるのをやめろと。別のことを話せ。舞踊曲の演奏も同じだ。話題を次から次へと最後まで変えなければならないのだ。

それからもう1つのほうは、アコーディオンですね。小型のアコーディオンでも舞踊曲を演奏するのですが、その際、アコーディオン奏者というのは、これ特にサルデーニャの中部なんかの舞踊曲の話なのですが、調が変えられます。最初はハ長調から、次はト長調、そして、ハ長調に戻るというようなことをするのですね。その舞踊曲を批判して、主張はいつもこうだ、パン、チーズ、パン、チーズ、調は変えるけれども、モチーフはいつもそれだ。というような感じで批判したことがありました。つまり、次から次へ一貫性のある流れ、有機的に全体的につながって1つのものにまとまると。そういうものを大切だというふうに、ラウネッダス奏者は言いますし、それがイスカラの理念というか、概念となっているわけです。

というわけで、こういう説明を聞いていると、イスカラというそういう美的な、なんか感覚で話をするような表現するときの感覚と通じあっているものなのか、というふうに理解できますけれども、それだけでは実はないのです。もう1つとても具体的なというか、実質的な条件とも実は関わっております。

それが舞踊なのですね。私はその調査の中で、もちろんインタビューもしますけれども、舞踊そのものも習ってみようと思いまして、私自身もそのステップを学んでみましたし、それから踊り手さんたちのところ、踊り手さんといっても、村の人はみんな踊り手なのですが、今の若い子達はちょっと踊れませんから、ビデオの中で踊っていたような、今は70、80となるような方々にインタビューして、実際どうやって踊るのですかとか、できれば踊ってくださいと言って、かなり大変だったのですが、やっていただけた方にはやっていただいて、そうやって調査してみました。

その舞踊、今ご覧いただいたようなステップの舞踊なのですが、ステップ何種類か基本のステップというのがありまして、それが村ごとに違ったりするのですが、その基本のステップを学びがてら、調査しましたが、その中で、面白いことが1つわかりまして、踊りの良し悪しの基準というものが、また独特だということがわかりました。

踊りの良し悪しなのですが、もちろん先ほどのように技巧的なステップをする見た目でわかる華やかさというのももちろんあるのですが、それよりももっと大事なのは、音楽にしたがって踊ることだというふうに言うのですね。

音楽にしたがって踊るというのがどういうことか。彼ら自身に聞くと、音楽に合わせてそのステップを選んでいくのだというふうに言うわけですね。その音楽に合わせてというのはどういうことですかともっと突っ込んで聞くと、その音楽がある時点で変えろと言うのだよと言うのですね。音楽が変えろというのはどういうことかというのはなかなか難しいわけですけれども、あるいは、まるで音楽をステップで表現するようにステップを選ぶのだというふうに言うのですね。じゃあその音楽に合わせて、音楽と同じようにステップを選ぶというのはどういうことなのかというのを、実際にステップを学びながら調査しようといたしました。

そのステップを学ぶ段階で私はまだイスカラというものがわかっていなかったのですね。で、その基本のステップを学びながら、実際その演奏に合わせて踊っているうちに、今見ていただきましたように、カップルで踊るのが基本なのですが、私に教えてくれている左側にいる男性が、音楽に合わせて踊りだすと、ある時点でぎゅっと私の手をつかむのです。そうすると、ステップを変えるのです。つまり、基本的に男性がリードするものなので、男性が判断しているわけですけども、その彼が今ステップを変えるときだと判断しているのは何かというものを考えたときに、実は、ピッキアーダから次のピッキアーダへ移っているときにステップを変えているのだということがわかったわけです。そういうのがわかったときに、私はピッキアーダというのが何かというのが、逆に音楽の構造の部分もわかってきたのですが、その踊りのステップを変えるときというのは、音楽のピッキアーダの変わり目でもあったわけです。


実際に、じゃあ音楽の変わり目というのはどのようなものかというのを、音楽を聞きながら、ちょっと解説してみたいと思います。今度は音楽だけ流してみますね。最初は実際同じ様なものが続いているように聞こえるかと思いますが、私はそのピッキアーダの変わり目のところで、今変わったというふうに申し上げてみますので、わかるかどうかトライしていただければと思います。これで1回でわかるようであれば、皆さん、サルデーニャ人も真っ青というような。

1番目の曲をそのまま。

(曲)

これは前奏です。

まだ前奏です。

これ1つ目が始まりました。

2つ目に入りました。なんとなくわかりますか。

3つ目に入ります。

4つ目です。

5番目です。

6番目です。

7番目です。7番目というか、これ挿入ですね。

また同じ挿入を繰り返しています。

これまたちょっと違う挿入です。

また挿入。

8番目にいきました、やっと。

どうして私がわかるかというのが、逆におわかりでしょうか。

9番目ですね。

もう少し山場が来るまでそこまでいきますね。

これが10番目。

11番目に入りました。

これが山場です。

同じようなメロディが、確かに少しずつ変わっているような気がするけど、なんかずっと同じようなのが流れていたなと思うと思われるのですが、実際研究している私も1年間そうでした。でも今私にはわかるのですね。なぜわかるかと言いますと、今一生懸命聞いてましたけども、実は踊り手もよく聞くのですね。注意深く聞いていて、何を待ち構えているかというと、ある次のピッキアーダの、ある意味これが聞こえたら、タ~ラ、この音源が聞こえたら次だというようなものを把握しているわけです。なぜ把握しているかというと、それは、あらかじめイスカラというものがあって、それを経験的に何度も聞いて、そして、踊れる人から手を携えられて、今だというふうに変える、変えられる、いつも変えるときにあれが鳴っているというふうに、もう踊り手さんはそれで経験的に学ぶわけですね。でもなぜ経験的に学べるかというと、もちろんベースにイスカラがあるわけです。

つまり、各ピッキアーダを知らないものにとってみれば、とても似ているフレーズではありますけれど、1つ1つのピッキアーダには、これというような、エッセンスのようなものがありまして、いってみれば東京ではお江戸日本橋風のあのフレーズがあって、それが聞こえると、あのピッキアーダだなとわかる、実際そのピッキアーダを核としながら、ラウネッダス奏者というのは、いっぱいフレーズを演奏して、それがだいたい演奏し終わると次に移る、その次に移ったときには、次の核となるようなエッセンスとなるようなモチーフがあるために、それを聞き分けると、踊り手は次のピッキアーダへ音楽が移ったのだなということがわかって、そして、ステップを変えるということをしているわけです。

というわけで、実際私はすごく一生懸命聞いていましたが、踊り手というのは、だからとても集中しています。決しておしゃべりなんかしながら踊れるものではありません。踊りを一生懸命音楽を聞きながら待ち構えているわけですね。ある程度経験的に次はこれだとわかっているからとはいえ、省略してもいいと私先ほど申しましたように、必ずしもその次とは限りませんから、一生懸命聞きながら、絶対次だと知っているモチーフが聞こえてくるときに、一緒に、できれば一緒に、ラウネッダス奏者が次のピッキアーダに入る瞬間に、自分も合わせてステップを変えるということを目指しながら、踊り手は踊っていくわけです。

そのように考えますと、実際なぜ反復できないかというのも逆にわかるかと思います。つまり、もし反復がOKであるとすると、1回演奏したのがまた次に来てしまうかもしれないわけですよね。そうしたら、せっかく踊り手は、次はこうだと待ち構えているのに、もし前のが演奏されるようだったら、絶対次を予測することはできなくなってしまうわけです。

そのように考えると、このイスカラというもの、順番が決まっているフレーズ、ピッキアーダのモチーフのつらなりがあって、それをベースに演奏していくというのは、実は踊り手にとっても大事、その踊りの構造というか、踊りのできかたそのものですね、にとっても重要になっている、つまり音楽のアウトラインというものが、実は踊りのアウトラインとも重なっていって、音楽と踊りとそっくりというか、どちらもなくてはならない存在として、お互いに寄りかかりあいながら、お互いを前提としながら、できているというふうなことが、実際私は踊りを習ってみることでわかったわけです。

だから、音楽だけを見ていると、なぜあまり変化のないものにイスカラというものがあるのかというのもなかなかわかりませんし、なぜイスカラでなければ、階段でなければならないかというのもわからないわけですけれども、踊りを習ってみて、踊り側から音楽を見てみることで、逆にその音楽の仕組というのが、とても合理的というか、それはそれでなければならないというのがわかったというのが、私の収穫の1つでした。

そういうわけで、私はサルデーニャの音楽というものを研究しようとして、ラウネッダスと音楽を研究しようとして、イスカラという概念が非常に重要だということを知ったときに、イスカラという概念を見ていくその中でわかったことが、ラウネッダスの音楽だけを見ているだけでは、音楽が実はわからないということですね。今もご紹介しましたように、例えば、その詩であるとか、詩の形についてはあまり説明しませんでしたけど、ラウネッダス奏者自身が詩に例えて音楽を語ったりするので、例えば、詩のこととか、あるいはその踊りのことですね。というものを見ていくと、その音楽というのが、音楽以外の要素とわかちがたく結びついていることがわかるわけです。

そういうわけで、実は私がその先行研究を批判するときに、まず第一にあげるのは、もちろん彼はいろいろなものをフィールドワークして、よく調べていますし、私は彼の研究資料なくしては自分の研究もできなかったわけですけれども、彼は最終的に、その音楽分析というものをするときに音楽を譜面に書き起こして、それで一生懸命分析しようとした。でもそれだとなかなか見えてこない、イスカラとはなんなのか、ピッキアーダとはなんなのかというのが見えてこなかった。でも、その音楽から1度いったん身をひいてみて、音楽以外のものを見てみると、逆に音楽の作りがわかってきたわけです。

そういうわけで、ラウネッダスの音楽を理解する上では、その音楽だけでなく、結局、音楽を取り巻いている文化全体というものを理解することが、とても重要になりました。

で、それは、実はラウネッダス音楽だけではなくて、いわゆる民俗音楽というものを研究する上では、とても大事なことだと私は思っています。

そういうわけで、民族音楽学というときにも、やはり音楽を研究するとき、どうしても音楽の分析というと、その音楽を譜面に書き起こして、分析するということが行われるわけですが、文化の中で音楽を見てみる、逆にその音楽を通してまた文化が見えてくるという面白さが、ラウネッダスの音楽にも、その民俗音楽というものにもあるというふうに思っておりますし、それが私の研究の中でのしみじみと実感した1つでした。



司会  金光さん、どうもありがとうございました、大変面白い話を。それでは、時間もありますし、ご質問のある方もおられるかと思います。いかがでしょうか。


質問  今日はどうもありがとうございました。初めて聞くことばかりで、とても面白かったです。先ほどおっしゃったこととも関係すると思うのですが、やはり、歴史的な背景とたぶんかぶってくるのだと思うのですね。よく民族音楽のイメージというと、なんか抑圧された気持ちを音楽で表現したとか、喜びを表現したとか、そういうものと関わってくると思うのですけれども、歴史的にはどうなのでしょうかというのが1つ目の質問で、もう1つは、若い人は踊れませんとおっしゃっていましたけれども、やはり日本でも、例えば、雅楽というのはなんか伝統的な文化の1つといった感じで、私たちの日常生活に決して身近な存在ではないと思うのですね。ただサルデーニャというのは、イタリアの中でも特殊で、民族的なものも色濃く残っているというふうに、ガイドブックなんかに書かれていますが、現段階ではどういう存在なのかというのをお伺いしたいと思います。


金光  まず2つ目の質問から答えさせていただきます。サルデーニャの民俗音楽というもの、今聞いたようなものが、実際今どんなふうに行われているのか、若い子は踊れないといったようなことも含めてですけれども、サルデーニャの民俗音楽、例えば、このラウネッダスであったりとか、テノーレスと呼ばれる四重唱があったりするのですが、そういったものは、もちろんサルデーニャの中ではおそらく古代から、そしてずっと現代まで脈々と彼らの中で、村レベル、共同体レベルで行われてきたわけです。そういうものを民俗音楽と呼びます。で、その音楽なのですが、そういった音楽がもちろん彼らの中で、例えば、お祭りとか、あるいは、酒場、バール、そういうところで行われてきたものの、ちょうど第2次大戦後くらい、第2次大戦中にも、禁止されました、1度。というのは、ファシズム政権になったときに、ナショナルなものをやらなければならないということで、1つは、集団で集まって、民族的な意識、サルデーニャだけで団結することを防ぐために禁止された。それから、その後、結局戦後になって、義務教育がイタリアという単位で行われるようになった。そういう経緯もあったので、1度禁止されたというのと、後は現代的な流れですね、やはりラジオが入る、テレビが入る、こういうのは格好悪いという時期がありまして、20世紀初頭くらいまで、もちろん民衆レベルで続いていたものが、いったん戦争というものを機会に意図的に、それから、その後に続く意識の変化で、1度とても下降します。ところが、80年代くらいに入って、こういうものが、ワールドミュージックブームとも関わって、逆に若者の間で、伝統的な文化を見直そうというのがサルデーニャでも起こり、今ではこういうものを、例えば小学校なんかで、市が行う、コミュニティが行うカルチャーセンターみたいなところで、例えば、ラウネッダス教室があって、ラウネッダス奏者が招かれて、若い人が学びに来たり、あるいは、大学の中でセミナーが行われて、ラウネッダスに触れてみたりというようなことも行われるようになっています。そういうわけで、元々はこれは民衆レベルで行われてきた音楽ですけれども、そういうわけで、今逆のというか、新たにサルデーニャらしさというものを求めて、注目を集めてきているというのもあります。これは1つ目の質問とも関わってくると思うのですが、元々こういう音楽は歴史的にはどういう位置づけにあったかというようなことになりますと、私自身は、あまり民衆の気持ちを訴えるためにとか、そういうことは考えていなくて、とてもある意味機能的だと思うのです。例えば、この音楽というのは舞踊が踊りたい、舞踊がなぜ踊りたいかというと、日常の仕事から解放されて、晴れの場面に行って、例えば女の子に会えるとか、そういうとても楽しい場面にあるのがこの音楽で、そういってやっているうちに、この音楽を聞くととても楽しい気分になるというような、ある意味とても機能的な、音楽なら音楽だけ切り離して考えるのではなく、祭りとか、そういう場面場面に結びついた中で、欠かせないものとして作られてきたし、受け継がれてきたというふうに私自身は考えています。


司会  他にございますでしょうか。


質問  ラウネッダス、楽器なのですが、それは、演奏者が自分で作っているのか、それとも、それを作っている職人がまだ残っているのか、またどのくらい持つのかなと。


金光  この楽器だけ見てもとても面白いのですが、これ基本は奏者の手作りです。楽器がいじれないと演奏もできないですね。というのは、先にリードというものがついているのですが、リードというのはもともと葦という意味で、葦を切り出したリード、くわえる部分のことをリードといいます。リードがだから結局自分で削ってうまく調整できないと演奏できないので、基本的に手作りです。ただし、今ではもちろんラウネッダス奏者を目指すだけであまりうまくならず、楽器作りを専門にやっている人もいて、そういう人から買うというのもよくあるパターンですね。楽器、とても面白いのが、葦もどこでとるかというのもとてもうるさくて、だいたいみんな秘密の場所というのがあって、絶対教えないのです、人に。しかも葦をとる時期というのが決まっているのですね。満月の時期で、12月から2月くらいの間で、しかも、日中だったか、とにかく時間帯も決まっているのです。何がポイントかというと、水分なのですね。葦に含まれている水分が1番少ないときがいいのです。もし水分が多かったりすると、その後で変わってくるのだそうです。そういうわけで、葦、場所をこだわっているというのも、海辺はなるべくいけないのですね。海に近いと水分が多いので、なるべく内陸のほうと決めていて、そういう葦をとってくることから始めまして、その葦を1ヶ月か2ヶ月乾燥させるのですね。そうやって乾燥させたものを使って作るわけですけれども、本当に1つ1つ個性のある楽器に結局なっていくわけで、同じところでとってきた葦でも、葦のよさというのは違ってきますし、その後の天気でも変わってきますし、リードなんてちょっとここがわれてしまえば、それでだめになってしまうわけですから、リードを変えるとまた違う音が出てきたりとか、本当にデリケートで、実際ラウネッダス奏者も子供を預かっているようなもので、本当毎日愛しんで、それこそ手入れもしてあげなくてはいけないし、ということをいいますね。もちというのも、いい楽器だとすごくもちますし、実際師匠か、マエストロが作った楽器を受け継いで演奏しているというのもありますが、リードはどんどん変えていきますね。ということで、いい楽器はもつでしょうし、駄目な楽器は駄目という感じです。


司会  音階や調性ということには触れられなかったのですが、それはどうなのですか、このラウネッダスの音楽というのは。


金光  今聞いていただいたように、明るい感じの、長調かなという感じに聞こえると思うのですが、基本的には、私たち旋法という言葉を使いますが、いわゆる西洋の短音階、長音階ではなく、それぞれの別の音階構成があって、旋法といわれるものがあります。実際、9種類あって、その9種類ごとに、音の並び方というか、音の組み合わせが違うのですね。だから、組み合わせが違うと、違う演奏ができるということになります。基本的に、なぜ同じような感じに聞こえるかというと、楽器の説明もあまりちゃんとしませんでしたが、こういうふうに持っているのですね。1番左の管、1番長い、1番右ですね、皆様から見ると。1番右の管は、1番長いですけれども、これ指孔がないのですね。つまり、1つの音しか出せないわけです。それがベースになっているわけです。そうすると、その音がずっと鳴っている。ある意味、調が変えられないというか、和音が変えられないというか、もうその上に乗っていくしかないわけですね。単調な印象というのは、ひとえにあのドローンといわれる、ずっと鳴り響く音というのが関係しています。1番下のベースの音に、その上の音がかぶさっていって、和音みたいなものができ、そして、その上でさらにメロディが奏でられるというようなつくりです。


司会  当然、バグパイプとの関係というのもいろいろ研究されていると思いますが、どうなのですか。どちらが先というのはあるのでしょうか。あるいは、どちらかから影響を受けているというようなことはあるのでしょうか。


金光  歴史的な部分はとても面白いのですけれども、先ほどご覧いただいたアウロスというのが、一応これの祖先だろうと言われています。アウロスというのは、古代ギリシャにあった葦製の、2本の、双管の笛なのですが、ただし、これがなぜ3本あるか、あるいは、2本がなぜ3本か、3本は世界でここしかないというのは実際とても問題で、だから、アウロスからできたのか、むしろアウロスとは別に並行して、別のルートで独自にできていたのではないかというのも考えられるわけです。バグパイプといいますのは、実際、管が3本くらいあるものが多いのですね。イタリアのバグパイプ、ザンポーニャといいますが、イタリアのバグパイプを、これと同じようにドローン管があって、長い管があって、それからメロディを吹ける管があってと、4本くらいあるものもありますし、バッグがついている点を除けば、とてもこれと似ているのです。ただし、そのバグパイプというものの歴史も複雑で、面白いのは、なぜこれにバッグがつかなかったかというのも逆に面白いのですが、バグパイプというものがいつできたかといいますと、わかりません。ただし、もしかしたら古代にあったかもしれないと言われています。皇帝ネロがウトゥリクラリウスutriculariusというような、バグパイプじゃないかといわれるものを吹いたという記述がありますから、もしかしたら、すでに古代イタリア、アレクサンドリア、エジプトあたりなどに、バグパイプがすでに紀元前に使われていたかもしれないというようなのがあるのですが、バグパイプの証拠となるようなものは、中世以降しか表れないのですね。書かれたものにはバグパイプと思われるものがあるのですが、しっかりとこれはバグパイプであるという証拠になるようなものは、中世以降しかなく、それはイングランドあたり、スコットランドとか、あちらのほうを中心に、ヨーロッパ、イタリア、フランスなんかで出てくるものなので、実際このラウネッダスとそれが関係するのか、どちらが先かというのは、今のところはわからないというのが現状です。


司会  他にいらっしゃいますか。はい、植田さん。


質問  すごく面白いなと聞いていたのですが、3つほど質問があるのですが、元々サルデーニャは羊飼い、内陸は羊飼いの文化だと。アルタイのほうから来た民族らしいよとか、よくわからないよという話を聞くのですが、ギリシャもそうですよね。ギリシャのほうから来たのか、そういうような羊飼い的な文化、神話で羊飼いの人たちが葦をとっては手遊びに笛を吹いてとか、ギリシャのお話の中にありますが、似たような文化圏に、似たような文化、音楽があるのかどうか。それから、非常に即興性と個人性が高い音楽だなというのはわかったのですが、それでも例えば、ラウネッダス音楽の中に、スタンダード的なものとか、あるいは、名曲的な、あれやってよといったら、うんやってやろうみたいな、そんな感じのものがあるのか、共有されたそういう曲があるのかどうか。最後は一体ラウネッダス音楽を研究している人は、世界中に何人くらいいるのだろうかと。その中で、踊りまでやってみようかという、酔狂といえば酔狂なアプローチをした人はどうなんですかねと、気になりますので聞いてみようと思ったのですが。


金光  ありがとうございます。1つ目なんでしたっけ。文化圏で、羊飼い。サルデーニャは羊飼いということで、羊飼いの国というか、有名というか、そういう文化圏ですね。で、同じようなところは、実際地中海の辺りにあるわけですよね。羊放牧を中心とする文化圏。羊飼いそうなのですが、実際この葦がとれるという意味で、この葦笛のたぐいというのは、地中海全般に広く見られるのですね。北アフリカから、もちろんトルコとか、そちらのほうも入って、ギリシャもそうですし、見られるわけですが、今1つそういえばと思い出したのが、グラツィア・デレッダというイタリアでノーベル文学賞をとった女流作家がいまして、その彼女が、民話をもとにラウネッダスの誕生というお話を書いています。その民話の中では、ラウネッダスはどうやって誕生したかというのは、実は、1人の羊飼いが、もちろん葦笛を吹いてる羊飼いがいた、ただそのときまだ彼は3本では吹いてなかったのですね。その老人の羊飼いが、ある日、フェニキア人が、古代の話です、これは。フェニキア人が攻めてくるのを見たわけですね。で、奥さんと子供、娘と羊を連れて、お前たちは山奥へ逃げろと、私は1人ここに留まっているからと言って、その羊飼いが待っていますと、フェニキア人がやってくる。そのときに、彼らがいろいろ羊を食べたりした後に、何かお前吹いてみろと言われて、笛を吹くのです。その笛の音があんまり美しいので、フェニキア人の若い隊長は、それを3本まとめて、もっといっぱいまとめて吹いてみろと言ったと。そして、じゃあといって、今まで吹いていた葦笛を全部まとめて吹いてみたところ、最初はしどろもどろだったのが、そのうち美しいメロディが流れ出し、フェニキア人の隊長は聞きほれて、これまでにないくらい安らかな眠りにつくことができたと。それで、隊長は、お前の望みをなんでも言ってみろと。その老人は、じゃあ私の家族を助けてくださいと言って、隊長が娘さんを見て一目ぼれをして、ハッピーエンドということになるのですが、面白いのは、そこでフェニキア人が出てくるところなのですね。フェニキアというのは今のシリアとかレバノンあたりのところですけども、実際そのあたりというのが、古代にはとても力を持っていて、サルデーニャまで来ているのですね、フェニキア人というのは。その後、カルタゴ人なんかもやってきますが、つまり、こういうものはもともとはオリエントのほうから実際やってきたという可能性をその民話は語っていると思いますし、3本で持ってきたかどうか、あるいは、言われて3本になったかというのはともかく、葦笛というものは、ギリシャなんかより前にフェニキアに伝わって、サルデーニャに入ってきたという可能性は大いにあると思います。

2つ目は何でしたっけ。


質問  名曲があるか。


金光  そうですね。ある意味、1つの楽器に1つの曲があるのですね。1つのイスカラがあるので。ただ、1つのイスカラといっても人によっての表現の仕方が違うので、かなり違ってくるのですが、名曲というか、難しい楽器といわれているのがありまして、それはありますね。それはほとんどの人がそのイスカラを知らなくて、実際1番最後に習うイスカラとされている、なかなかみんなそこまでたどりつけないので、そういう難しい楽器というのがあって、それを演奏できるのは、実際2人くらいしかいませんでした。そういう難しい楽器というのはありますね。つまり楽器イコール曲なので。1つの楽器に1つのイスカラ、1つの曲があるというふうなものですね。ただ曲といっても、楽譜に書き起こせるように固定したものではないので、あくまでも、しかるべきラインというものにそって、後は自分で即興的に表現するというのが、とても個人芸的なものが、1つ1つの演奏がとても個性豊かになるわけです。


質問  骨格が決まっていて、挿入のところだけが即興なのですか。


金光  そうではないです。つまり、うまく説明できなかったと思うのですが、私がこれと待っているようなモチーフがあると言いましたよね。それはとても短いものなのですね。実際にはもっとちゃんとフレーズとしては立派なフレーズを演奏しているわけですから、ある決まったこういうものを入れなければならないものがあるとしても、それ以外の部分は即興的に、もちろんパターンというものはあるわけですが、フレーズというのを展開していっているわけです。だから、とても個性というか、個人技というものもあります。その場その場の条件というものが反映されてくるわけです。

3つ目が、こういうものを研究している人が他にいるかということですね。ずばりいませんね。私だけだと思います。デンマーク人です、もう1人研究しているのは。彼は1960年代にここにやってきて、これを研究し、そして、彼?のラウネッダスの本も英語になっています。フィールドワークでこういう映像なども残したのですけれども、彼は35歳でガンで亡くなってしまったのですね。そういうわけで、研究者というのは他にはいません。


質問  今のご質問とも関連するかも知れませんが、この楽器が葦ということで、サルデーニャの中の葦の分布なんかとも関係するかも知れませんが、私の疑問は、この音楽がサルデーニャ全体均等に残っているのかと。というのは、例えば、北のほうに主に残っているとか、南のほうに残っているとかというのがあるのかどうかですね。実は私、サルデーニャの北のサッサリに友達がいるので、今日の話を伝えたいと思っているのですが、そういうサルデーニャの中の分布的なものがもしあったら教えていただきたいと思うのですが。


金光  大変よい質問をありがとうございました。私が話し損ねたのをまさにご存知かのように質問してくださいました。サッサリのご友人には、今日の話はなさらないほうがいいかもしれません。といいますのも、これ南部の楽器なのです。サッサリ、かなり北部のほうですよね。サッサリではだから全く演奏されていません。もしかしたら古代には演奏されていたかもしれないのですが、少なくとも17世紀くらいから、旅行家なんかの記述した資料がある17世紀後半くらいから見るかぎり、南部でしかラウネッダスは演奏されていません。そして、現在でも南部でしか演奏されていません。中部には、別のテノーレスと呼ばれる男声四重唱、アカペラで歌う、男性4人が歌う四重唱があるのですね。その文化がありまして、中部ではだから、いまではさすがに大丈夫かもしれませんが、ラウネッダスがあるなんてそんなことは許される世界では、さわりたくもないくらいだと思いますね。そういうわけで、これは南部の、あくまでも南部の文化です。


質問  葦は南のほうに分布しているということもありますか。


金光  調査し損ねましたが、北にもありますよね、きっと。どうなんでしょう。


司会  たぶんあるとは思うのですけどね。サッサリ辺りもあるとは思うのですが、僕も確認はしてませんが。馬場さん、どうぞ。


質問  非常に貴重なお話ありがとうございます。サルデーニャの民俗音楽についてはほとんど情報がないものですから、非常に楽しんで聞かせていただきました。私は、偶然なのですが、新酒の祭りに出くわしまして、小さなオリスターノのほうのミディスという村なのですが、そこでちょうど音楽をやって、私も連中の輪の中に入って、踊りを教わったりなんかしたことがございますが、今もお話がありましたように、分布というのは、どういうふうなことになっているのでしょうか。例えば、テノーレスなんて気に入って、私この間も聞きにいきましたし、それで、レコードも買ってきたりしたのですが、サルデーニャとしてみた場合に、北部のほう、また中西部、中東部とあると思いますが、どういうふうな分布、どういうふうな種類の音楽が分布しているのでしょうか。


金光  ありがとうございます。今日、サルデーニャの民俗音楽といいながら、ラウネッダスのお話しかしなかったわけですが、まさに分けてくださったように、大きく分けると、北部、中部、南部というふうに分けることができます。それで、南部が今言ったようにラウネッダスが代表するものなのですね。それから、中部は今おっしゃってくれましたようにテノーレスという男声四重唱がありまして、アカペラですね。無伴奏で男性が4人で歌うものなのですが、お聞きになった方、とても面白いのです。これも羊の声を真似しているなんて、ちょっとのど声で、ヴェーというのど声を使って伴奏して、その上に1人がメロディをのせるというような、ある意味、ラウネッダスを声でやったようなというそういう感じの印象の四重唱があります。それが中部ですね。それが北部になりますと、ギターがとても盛んです。スペインの影響が大きかったのもあると思うのですが、そのギターに合わせて歌を歌う、即興の歌があるのです。とても技巧的な歌があるのですが、歌とギターというのが代表するジャンルですね。


質問  東と西とではどうなのでしょうか。ちょうど真ん中で分かれて、何か特徴が違うような気がしましたので。


金光  東と西ですか。


司会  中央が山地といいますか、だから、東西が違うという可能性は、文化的に違うという可能性はあると思うのですが、音楽的にはどうなのでしょうかね。


金光  東と西というのはないかと思います。やはり、北、中部、南ですかね。オリスターノはぎりぎり南に入って、ラウネッダスもありますし、そうですね。


質問  面白い話をありがとうございました。2つ伺いたいのですが、1つはそういう民族芸能の場の楽器が職業化した、プロ化したという、普通はわりあい村の若者が先輩から習って、広くそういう音を共同体として保持していくと思うのですね。それが非常に高度なテクニック、あるいは、秘伝を限られた人だけが伝承するというような、それはある意味では、その音楽と踊りを共有している社会の、割合最近になって、その楽器奏者が高度化したのかなという気もするのですが、もう少しああいう場で楽しまれるものだとすると、演奏自体が開かれていていいような気がするのですが、それが1つと、それから、先ほど新幹線の路線図で説明していただいたのですが、今ユニットというか、新横浜‐沼津が、決して東京と新横浜の間には来ないということのわけですよね。で、例えとしても、手紙を書くようなものだとか、言葉のようなものだと。川田順造さんなんかがおっしゃっているような、その太鼓言葉ではないけども、音律というか、単位自体に、もともとなんらかの不可逆的な、決してCはAとBの間にこないみたいな、なにか音自体にかつては意味があったというようなことは考えられないのでしょうか。その2点なのですが。


金光  1つ目の、もっと音楽はオープンなもので、そうですよね、そもそも舞踊というのは、みんなが集まる場で行われる音楽で、もっとオープンなものであっていいのではないかという話なのですが、実際、ここまで私が今日お話したようなイスカラというのは、ある意味とても美的に昇華されたというか、こんなものにまで発展したのは、ある1地域の、ある1時代に集中して?発達したものだと思います。オリスターノにも同じようにラウネッダスあるのですが、そこのラウネッダス奏者というのは、イスカラという概念を知らないし、そんなことは考えずに演奏しているのですね。つまり、最初のレベルでは、同じような節を何回も何回も繰り返して、こんな決まりなんて考えずにやっていたと思うのです。それが、ある意味職業化して、そして、毎週日曜日にみんなが踊るような関係が出来上がっていく上で、その踊りもそういう音楽と一緒にステップを変えるなんていう高度な価値感が生まれ、音楽のほうもそれに合わせてイスカラなんていうものを整えていったに違いないと考えられます。

それから、こうやって見れば、そうなんだといわれればそうなのでしょうということになるのですが、じゃあAのモチーフとBのモチーフが、なぜAの次はBでなければいけないかというのは、後付ではなく、それ自体に、自明的な関係があるのかというと、ないような気がするのですよね。実際、それは経験的に形作られてきたのではないかとしか思えないわけですが、うーん。


司会  言葉との関連というの