デカメロンの楽しみ方

第333回 イタリア研究会 2008-01-20

デカメロンの楽しみ方

報告者:国立音楽大学講師 京藤 好男


第333回イタリア研究会(2008年1月22日 東京文化会館 大会議室)

講師:京藤好男

演題:デカメロンの楽しみ方


司会  皆さんこんばんは。イタリア研究会事務局の橋都です。今日は第333回ですね。イタリア研究会へよくおいでくださいました。今日はボッカッチョとデカメロンの楽しみ方ということでお話しをしていただきます。

講師の京藤先生、イタリア語を目指した方ならどなたもよくご存知だと思いますが、簡単にご紹介申し上げたいと思います。先生は1997年、東京外国語大学の大学院を修了され、イタリア文学を専攻されております。皆さんは、NHKラジオのイタリア語講座の講師を2005年、2007年にお勤めになりましたので、よくご存知ではないかと思います。現在、慶応大学、国立音楽大学、武蔵野音楽大学、武蔵大学の講師として、イタリア語を教えておられます。

今日はボッカッチョとデカメロン、皆さん名前はご存知だと思いますけど、実際読まれた方というのは比較的数が少ないのではないかと思います。イタリア文学の古典でありまして、ある意味ではイタリアらしい作品で、非常に楽しめるものだと思いますので、それをわかりやすく京藤先生にお話をしていただきます。

それでは、京藤先生、よろしくお願いします。



京藤  どうもはじめまして。京藤と申します。よろしくお願いします。330数回目ということで、立派な研究会に呼んでいただいて光栄です。最初は研究会とお聞きしましたので、何か研究発表をしなければいけないのかと思い、お断りしなければと思ったのですが、そうではなくて、今回は気軽に『デカメロン』に親しめるようにしたいということでしたので、僭越ながらお引き受けしました。とはいえ、私はこれの専門家ではありませんで、正直、古典に関しては個人的に楽しんでいるという程度です。しかし、文学の勉強をしてきましたから、きっとそれなりに時間をかけていますし、またイタリアで学んだこともありますので、その辺をかいつまんでお話したいと思います。それをきっかけに『デカメロン』を読んでみようかな、イタリア語で読んでみようかなと思っていただければ幸いです。そんなつもりでやらせていただこうと思います。


勝手にタイトルつけました。「楽しくデカメロン」。新年の最初に私などが出てきて、しかも題材は『デカメロン』で、どうなるかという感じなのですが、楽しんでいただければと思います。

個人的にはデカメロンを読むきっかけになりましたのは、大学で勉強をしていて、途中で留学をしたのですが、行った先がヴェネツィアでした。ヴェネツィアの大学で文献学の勉強をするということが名目だったのです。文献学、文献の調査というのは、昔は写本で手書きされていますので、所々に年代ごとに間違いがあるのですね。そうすると、同じものを読んでいても、ここに点があるのと、ないのとでは、文脈が変わるなどといった、いろいろなことが出て来てしまって、正しいテキストはどれなのかわからないわけです。それを判別して作り直していくという勉強をしていました。

その古い文献のなかに『デカメロン』もあったのです。その中に、ヴェネツィアが舞台の話があり、修道士アルベルトという人が出てきます。修道士なのですが詐欺師なのですね。彼はヴェネツィアに行きまして、そこで美しい女性を見初めると「あなたは天使のガブリエルから愛されております」と言うわけです。そして「夜、ガブリエルが降りてきますから、来たら楽しみにしてなさい」と。すると、なんと自分が天使の飾り物とか羽とかを身体中につけて、その女の人の部屋に忍び込んで、「天使が来たよ」と夜這するというお話なんです。うそみたいでしょう。

実を申しますと、そのお話があるということも知らずに、私はヴェネツィアに行ったわけです。イタリアで知り合った人には「文学の勉強で来ています」なんて言うのですが、「じゃあ、フラーテ・アルベルトの話は知ってるか」と聞かれて、「知らない」と言うと、「『デカメロン』を読んだこともないのか」とあきれられて。そんなことで、私の場合は読み始めました。

で、読んでみますと、意外とこれが読めるのです。『デカメロン』の原文は、現代イタリア語の知識でかなり。それで、頑張って読んでみようと思って、日本語の翻訳も出ておりましたので、それと照らし合わせながら始めました。

その後、日本に帰ってきますと、今度はイタリアとの差に気づくわけです。例えば、大学の身近な人に「『デカメロン』って知ってますか」と言うと、大体知ってます。「読んだことありますか」という問いには、身につまされる思いですが、「読んだことはないけど、名前くらいは知ってるよ」という感じですね。「誰が書いたか知ってるか」というと、「ボッカチオだ」と。イタリア語の正しい発音では「ボッカッチョ」なのですが、「ボッカチオだ」と。後ろにオがつくのですね。で、「じゃあ、ボッカチオはどんな人物か知ってるか」というと、「ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオというのを世界史でやった」と。その1人だということなのですが、その程度です。

大学でその程度ですから、更に回りを見てみますと、それはひどいものです。どうも『デカメロン』は、日本では虐げられている、とまでは言いませんが、かわいそうなくらいひどい目にあっているということがわかってきました。

で、まずどのくらい日本で『デカメロン』がおかしなことになっているかというところから入っていきたいと思うのです。まず、この写真なのですが、これが「デカメロン」です。(メロンパンの袋に「デカメロン」と書いてある)やりたくなる気持ちは、私もわかります。「デカメロン」と聞いた時点で。それを、やるかやらないかというのは、勇気がいると思うのですが、よほどこのメロンパンを他のものと差別化しなくてはいけなかったのだと思うのですね。ご覧のとおり、袋に入っていますので、この袋の発注をしないといけないわけです。きっと電話で「袋に白い文字でデカメロンと書いてください」と注文しているはずです。で、「カタカナで、デ、カ、メ、ロ、ンです」と言ったはずです。ゆっくり1つずつ。この人はよほど「デカメロン」という響きにほれているのだなと想像します。しかし、やはり扱いとしては違っているだろうと。


ということは、これも間違った扱いですね。(メロンの段ボールに「デカメロン伝説」と書いてある)メロンということで、やはりこれもやりたくなる気持ちはわかります。でも、それも、ここまで(デカメロン)でいいでしょう。しょうがないですが、さらに「伝説」と書いてしまったところに、北海道の今が大変だという感じがでています。

このようにちょっとした周りの風景ですが、日本で「デカメロン」の扱いはこういう具合になってしまっているということがわかります。みなさんも目にしたこがあるかもしれません。なんだかメロンを見ると、デカつけたくなるという思いが芽生えてくるかもしれないですね。

これも扱いが間違っています。もっと若い方が多いかなと思って、おまけでこれを入れたのですが、(レコードのジャケットに「デカメロン」と書いてある)1986年、少年隊というグループが歌ったのですが、歌詞、ぜひ聞いてみてください。ダウンロードとかできますので。間違っています。「千夜一夜、さあ」なんていう。それは「アラビアンナイト」でしょう。


というわけで、日本では「デカメロン」がちゃんとわかってもらってないということを私も認識しました。しかし、こんなことになるのはある理由があるからです。つまり、まず最初に、日本で『デカメロン』という作品が紹介されるときに、おかしな変遷があったのです。次に、そんな話を簡単にみておきたいと思います。

これは、ボッカチオ『デカメロン物語』となっていますが、野上素一さん訳で、日本で初めて全訳が出たときの本です。

その前に『デカメロン』は、実は明治43年にもうすでに訳が出ていました。出たのですが、よくよく調べると、「発禁」、発売禁止になってしまっているのですね。ということは、読まれてないわけです。訳は出ているのに読まれていない。これは水野さんの訳。下の名前がはっきりわからず、カズイチさんだと思うのですが、この人はフランス語の専門の方のようで、フランス語から訳したようなのです。

次に、大正5年に、戸川秋骨という人も訳をします。ところが、出たとたんにまた発禁なのですね。また発売禁止。何がいけないのか。

ほかにも、これでもかというくらいにどんどん出るのですね。ということは、人気があったはずなのです。それで、読めばおもしろいということはおそらくわかっていたはずなのに、次々に発売禁止になってしまう。困りました。

そして、昭和に入ります。昭和に入って、森田さんという人も訳をするのですが、こちらはかなり全訳に近い状態までいったらしいのですが、やはり発禁。

どういうことだと。よく調べてみると、掲載された雑誌がまずい。『100戦100勝、性愛秘訣大秘術考』という雑誌だったのですね。所謂「エロ本」に載せてたわけです。

それではまずいということで、これはちゃんとしたいい本なのだと、梅原北明さんという人が、発禁処分に対して、声明を出します。「今のお役人様方に、西鶴ものが頭から淫本断定下されてしまっているのと同様に、ボツカツチオ、デカメロンといえば、これまた頭から淫本と決定されてしまっている」と。しかし、この声明も受け入れられません。理由は何か。これを載せた雑誌も「変態資料・創刊号」という卑猥な雑誌です。これではまずその訴えは届かないでしょうね。

例えば、問題になった挿話として、第1日第4話、お百姓さんの娘と交歓の場という話があります。どういう場か想像してください。「老師に発見された若い僧が,奇計をめぐらせてベッドの下に潜入し、老師がいわば同じ穴の狢に陥るのを確認して、入牢を逃れた話で、老師が娘を従わせる口説きのくだりが悪いとの見解に、梅原氏は反論し」とあるのです。では、老師は何と言ったのか。「私が口説いたとて、いっこうにさしつかえあるまい。どれ、今のうちに頂戴するのが何よりじゃ」と口説いたと。口説いたというか、女の子と床に入る前に言ったらしいのですが、これは卑猥だということで発禁なのですね。現代なら、たわいないことのはずなのですけど、どうやらこの時代にはさしさわりがあったのですね。


もう1つあります。第3日第1話。「おしのまねをして、首尾よく女子修道院にもぐりこんだ青年が、修道女たちに競って添い寝をせがまれ、はじめ過剰需要に悩むが」という。「コントロール」ってここだけ英語にしなくてもいいと思いますが、「コントロールに成功して、大往生をとげるというストーリーが悪い」。

で、ここでまたこの男がいろいろやります。そのあとに、「女が男と一緒に寝る楽しみに比較すれば、世の中の楽しみなんて物の数ではないそうですよ」と。尼さんがこういうことを言うのは不謹慎だというのです。これだけ発禁処分にされていました。つまり、『デカメロン』は日本では普通に読むことができなかったというわけなのです。


そして、先ほど紹介しましたが、野上素一さんの訳でめでたく発売になるのですが、これが1948年です。戦後なのですね。『デカメロン』1つにしても、戦前と戦後では価値感といいますか、許容される物事の範囲が広がったかということがおわかりになるかなと思います。


では、その『デカメロン』がそんなに淫らと言われるほどのものか、じっくり見ていきたいと思うのですが、ここで一緒に本を読むわけにもいきませんので、映像で見てみたいと思います。この人物をご存知ですか。パゾリーニですね。作家でもあり、映画監督でもありますが、彼が『デカメロン』を題材に映画を撮っています。ほぼ原作に忠実に、構成だけ変えていますが、この作品を映像で表現しています。彼は全部で100話あるうちの8話にしぼって、その話をコラージュするように作っています。

ではまずは、その中で一般にいやらしいと言われているところを見たいと思うのですが、私は何度かテレビの仕事もしたことがありますので、上手くカットしてあります。残念な方は自分でDVDを買ってください。


女の人が裸で寝ています。そこに男の人が寝ております。この人は人妻です。それで、若い男を、だんなの留守中に家に入れて、お楽しみ中ということです。そうしておりますと、普段は帰ってこないはずのだんなが帰ってくると。おもしろいですよね。

(映画)

「マンマ・ミーア」(映画内に出てきたセリフ)というのはこういうふうに使うというのがわかります。

 さて、亭主が来てしまったので、どうしようかということです。外から「開けてくれ」と言っているのですから、まだ入ってこないのですね。そこで、この人を納屋に連れて行行くわけです。すると、大きな甕があるのです。そこに隠そうということですね。

 この人をそっちに連れて行って、自分は服を着替えて、そこに隠したと。それで、だんなのところへ行きますが、イタリアの女の人は、おかえりなさいませとか、そんな感じではないというのはご存知かなと思いますので、この人もいわゆる「逆ギレ」で迎えます。

(映画)

というわけで、イタリアの奥さんは、まずいことをしていても、「ああどうしよう」とか、「見つかったらどうしよう」ではなくて、「アンタ、何で帰ってくるのよ」と怒るわけです。イタリアの女の人と、もしおつきあいするときには、こうなるぞということがわかってなくちゃいけない。そういう意味でも、デカメロンは勉強になる。

ところが、このだんなさんが妙なおみやげ、つまり、奥さんを喜ばせてあげようとして、あるいいことをします。

(映画)

「おい、あの甕を買ってくれるってさ、このおじさん」みたいな。ところが、今そこには奥さんの愛人が入っている。「どうしよう」となるわけですね。で、ここから不倫の話に入っていく、そこで思い悩むというのが、現代のドラマではよくあるのですが、中世で、イタリアで、しかもボッカッチョでとなれば、ちょっと違うのです。

では、どうなるか見ていきましょう。

(映画)

「私、もう買い手みつけているの、あなたより先に。若者がいて、その人は8フローリン8デナーリで買ってくれると言うのよ。このおじさん、たった5フローリンじゃない」といくわけですよ。びっくりですね。反省のはの字もない。

(映画)

「その人は甕に入って、中を調べてるのよ。今、呼びに行こうか」みたいな。だんなも「そうかな」なんて思うわけです。

(映画)

普通のお客さんになってしまっています。

(映画)

というわけで、中にいた人が出て、この人が中に入って、甕を掃除するという状態です。「ああ、めでたし、めでたし」で、これで終わると日本昔話。ところがイタリアで、デカメロンで、ボッカッチョで、このまま終わるわけありません。

(映画)

だんなが今から中で削るわけですね。帰ればいいのに、違うことします。

(映画)

もうおわかりですね。この格好で、こういう。

(映画)

というわけで、「アモーレ・ミーオ」とか、「ダーイ、ダーイ」というのも、こう使うのか、というのがわかってくるのですね。

ともかく、こういうところがおそらく卑猥というか、発売するにはどうもというところなのでしょう。が、今や、このへんはもうおもしろおかしく笑える時代になっているのかなと思います。目くじら立てて、「こんなところ見せられない」みたいな、そんなことしなくてもよくなっていて、だから、DVDにもこういった話が平気で入っているわけです。これ「映画だからこんな演出にしてるのでしょう」と思うかもしれませんが、うそだと思ったら、『デカメロン』の第7日第2話読んでみてください。まさにこのままです。けっこうパゾリーニは、余計な脚色をせずに作っているというのがわかります。

ちなみに、その中のせりふです。これは原文です。ちょっと古典語なのですが、古いイタリア語なのですが、わからなければ注が入っています。「ラーディ」というのは「ラーデレ」つまり「削る」という意味です。さっき「削って」と言ってましたね。「クイ」は「ここ」。「コラ」は現代語の「ラー」です。「あっち、向こう」。だから、「クイ」と「ラー」みたいな。「こっちもあっちも削って」。それから、「ベーディ」、「見て」。「ネ」は代名詞のような役割です。「それ見てよ」と。「クイ、リマーゾ」、「ここに残っているでしょう」。「ウン・ミコリーノ」、「カスが。ほら、見て、ここにカスが残っているでしょう」。「もっと削って、削って」。原文にも書いてあるのですね。あの奥さんは別に映画を面白くしようとしてやっているわけではないということなのです。原文通りなんですね。

さて、この話は、何歩か譲って、いやらしいと、不謹慎な話だとしましょう。ですが、試しに、昔から子供たちにまで読まれているこんな物語を1つとってきました。

「○○の愛人イオは、その妻ヘラの怒りを買い、雌の牛に姿を変えられてしまいました。○○は雄牛に身を変えてイオと交わり、イオは息子エパーポスを生んだ」

 こうあります。ここ(◯◯)に入る人はとても有名なのですが、誰だかわかりますか。

 ゼウス、正解です。ギリシャ神話そのままなのですね。交わったというのは、別に普通に交わっているわけではなくて、子供を生むために交わってますからね。まさに『デカメロン』の世界です。それを神様がやると許されるのに、なぜ人がやると罪になるのか。

 中世という世界は、これが罪だという世界です。それを乗り越えようとして、芸術家が知恵を絞ったのがルネサンスです。つまり、ギリシャにあった世界感を呼び戻そうという前兆が、こういったところからも垣間見られます。

 ボッカッチョとか、ダンテ、ペトラルカというと、まずは「ルネサンスの作家」と言われますが、では具体的にどういうことをしていたのかと言えば、例えば、こういうところに見られるわけです。

もう1つ、これは、『デカメロン』の中でも有名なお話なのですが、またパゾリーニの映画に出てできます。今度はそのシーンというのがあるわけではなくて、あるおばあさんがその物語を語るように、ちょっと広場でそのお話をするという、パゾリーニの映画の中では異色の作りになっているところです。

(映画)

何か昔っぽいですね。紙芝居とかやっていそうな、日本で言えば。そういうおばあさんが語って聞かせる話です。昔、ロンバルディア地方であったお話です。

(映画)

今、画面にこの人と、もう1人のおじさんが出てきますが、映画的にはここに意味があるのですけれども、今はこちらのほう話を聞いていてください。

(映画)

また修道院の尼さんの話です。こっそり修道院にしのびこんで、男の人がやっていたということなのですね。

(映画)

他の尼さんが、その女性の尼さんがやっているというのをかぎつけて、修道院長に知らせに行ってしまいました。「あそこの部屋に寝起きしているイザベッラは、夜中に男を連れ込んでこんなことをしてますよ」なんてチクッたわけです。

(映画)

ところが、院長も同じことをやっていたというお話ですね。で、どうなったかと言いますと。

(映画)

坊さんのパンツをナイトキャップと間違えてかぶって、「コラ! あなた何をしてるの」と尼さんを怒りに行ったら、「修道院長さま、そこの頭に乗っかっているものは何ですか?」と。院長の行為が下々の者にもバレたというお話なのです。

この場面は、このおばあさんが何かの本を見て話しているような感じですね。実は『デカメロン』の第9日2話に載っている話です。

(映画)

というわけで、「男遊びが、院長の公認になりました」というすごい話ですが、ちょうど昨日だか、捕まった方がいますね。学長をやっていた方でね。こうなればいいのにみたいな感じですけども、まじめにやるので、ああなってしまうということです。

それは置いておいて、『デカメロン』はそんな話が盛りだくさんというわけです。どうですか。少しは読みたくなってきましたでしょうか。


さて、これを書いたジョヴァンニ・ボッカッチョという人なのですが、どういう人物かというのを次に見ていきたいと思います。

生まれは1313年ということですので、鎌倉後期の時代です。日本でも鎌倉時代のことなんか、あまりよくはわからないのに、ボッカッチョのことなんかわかるのか、という感じもしますが、まあ、つきあってみてください。

おもしろい小話みたいなのがありまして、「ボッカッチョBoccaccio」というのをちょっと字を崩してみると、「ボッカbocca」と「アッチョ-(a)ccio」にわかれまして、「アッチョ」というのは文法的には、「軽蔑接尾辞」というもので、「ひどい何か」を表すときに使います。スラングみたいな、悪い言葉を「パロラッチャ」なんていいますけど、「ッチョ」や「ッチャ」を付けると、こういう風に「ひどい何か」「卑しい何か」を意味します。ということは、ボッカッチョを訳すと「口悪さん」だと。口が悪い人ということになるのですね。

それで、その口悪さんが『デカメロン』を書くわけですが、これが1349年から51年くらいだろうと言われています。ですので、彼が36~7歳くらいに書いたものだということがわかります。なぜか僕と偶然にも同じ年頃に書いていたのですね。負けられません。

彼にゆかりのあるイタリアの町を1つご紹介したいのですが、チェルタルドという町です。ご存知の方いますか。何人かいらっしゃいますね。トスカーナ州にある小さな町なのですが、人口が1万5000人くらいです。それで、丘の上に中世の町が残っていまして、中に入るとこういった(写真を見せる)町並みがそのまま残っています。場所なのですが、フィレンツェがここにありますね。シエナがここだとすると、ややシエナに近いほうなのですが、真ん中辺りという感じです。中世から近世にかけて、フィレンツェ、シエナというのは、ここで抗争をやっていた大きな勢力でして、その間にあった小さなところですから、よく戦乱に巻き込まれて、こっちについたり、あっちについたりみたいなことを繰り返していたようです。わりと政治的な歴史が残っていたりして、僕は2度行ったことがあるのですが、面白いところです。

そこに、ボッカッチョの家というのが残っています。先ほどこちらの通りが映っていたのですが、そこを右に曲がっていくと、家が残っています。中は記念館みたいになっていて、今はボッカッチョに関する財団みたいなのが維持して、残しております。ということは、ボッカチオが住んでいたところかな、と思いますね。確かに、そうであるには違いないのですが。

ここに教会があります。サンティ・ヤーコボ・フィリッポといいます。ここにお墓があります。つまり、ここの町で亡くなっているのですね。本当に彼が埋まっている墓です。ということは、チェルタルドで亡くなったということはわかっています。

が、どこで生まれたかというのははっきりとしていません。チェルタルドの人はチェルタルドと言ってます。フィレンツェの人はフィレンツェと言ってます。パリと言う人もいます。パリ説はかなり信憑性がないということがわかってきたようなので、フィレンツェかチェルタルドのいずれかというのが今は有力です。僕が思うには、後でまた言いますけど、フィレンツェではないかなと思っています。チェルタルドはどうも盛り上がりすぎです。

また有名な人を紹介します。フランチェスコ・ペトラルカです。この人とボッカッチョは友達なのです。彼が9歳上で、亡くなったのが、彼が1年早くて、ボッカッチョが翌年に亡くなっています。ですので、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョといいますが、ダンテは2人とはかなり前の、昔の人なのです。で、ペトラルカとボッカチオが時代的に近い人なのですね。

この人(ペトラルカ)が、ちょうど2人が活躍しているこの時代に、何というか、町の腐敗、社会の腐敗を非常に嘆いているわけです。例えば、こんなことを言っています。ちょうど教皇庁がローマからアヴィニョン、フランスのほうに移っていた時代なのですが、「ここには敬虔、慈愛、誠実さはひとかけらもありません」とか、「ここでは傲慢、好色、嫉妬、貪欲が、手練手管を弄して我が物顔に振舞うのです」こんなことを言っていたり、またもう1つ、「純朴は馬鹿と呼ばれ、狡猾は知恵と呼ばれ、神は蔑まれ、金銭は崇拝され、法は蹂躙され、善人は嘲弄され」という、こういった手紙で2人はやり取りをしているのです。

ということは、先ほどの映画にもありましたが、かなり教会、あるいは聖職関係の人々が、どうも理想を追っているような方たちからすると、ちょっと放っておけないというような状態にまで、特にフィレンツェ辺りはなっていたのではないかと思われます。これは教皇庁のそばの話ですが、フィレンツェ辺りも、このような状態なのではないかと。かなり今の日本も、当時の教会寄りではないですかね。偽装聖職者みたいな。偽装問題みたいなのがいっぱいありますでしょう。

では、そういったことがちょっと面白くわかるという挿話がありますので、そこに行ってみたいと思います。6日目の10話です。『デカメロン』には、「第6日」とか日数が入っているのですが、全部で10日間、1日10個の話をするというルールになっています。つまり、6日目に話したなかの10番目のお話なのですね。それが、舞台が先ほど出ました、チェルタルドが舞台なのです。

この紋章がチェルタルドのものです。その頃は国だったのですが、国の紋章なのです。これ何かわかりますか。ラディッシュ、もう少し大きいです。たまねぎ、そうなんです。たまねぎ、イタリア語で何というか。そう「チポッラ」です。なので、このお話の主人公は「フラーテ・チポッラ」といいます。「たまねぎ修道士」という人が出てきます。

 舞台はチェルタルドですね。つまり、チェルタルドは、たまねぎの生産で有名な町なのです。

「さて、年に1度、チェルタルドに聖アントニオ教団という教団がありまして、そこの修道士のチポッラ、チポッラというのはたぶんニックネームなのですけど、チポッラ、チポッラと親しまれている人がやってくることになっています。今年もそのシーズンがやってきました。その人は、背が低く、髪が赤く、柔和な顔立ちで、世界で1番付き合いのよい仲間でした」

 これは訳文をそのまま読んでいます。続けます。

「この人が、大変話が上手で、いつも巧みに答弁をしていましたので、何も知らない人は彼を偉大なる雄弁家だとまで褒め称えていました」

 チェルタルドの人はほとんど農家ですので、何も疑わずに話したと。たぶん現代でいえば、こういう人じゃないかというのでちょっと入れてみました。怒られるといけないので消します。

聖アントニオ教団というのは、実は悪名高い教団で、この教団が詐欺師の群れであり、贋金作りに励んでいたことはしばしば非難の対象になっていた証拠があります。ダンテの「神曲」、これもなかなか読むことないと思うのですが、チポッラのついでに「天国」29歌あたりを読んでみて下さい。

「さて、免償へのかかる空頼(そらだのみ)から、確たる証は何ひとつなくても、どのような約束事にも民衆がどっとおしかけるおろかな習いが世にはびこった」ということで、何か裏づけがあるわけでもないのに、聖職者が「天国に行けますよ」とか、「罪が許されますよ」とか、「地獄に落ちますよ」とか、そういうことを言う風潮があったみたいなのですね。

 その風潮を上手く利用して、「聖アントニオ」というのはアントニオ教団のことですけれども、『神曲』では擬人化されて書かれています。

「おのれのブタを、また、ブタよりもっとブタに近いものども」、ダンテもすごいですね。言葉遣いが。いまなら放送禁止か差別用語になるかもしれないです。

「肥え、太らせ、正しい刻印のない贋造貨幣をばらまいている」、という具合で、こういったところ(『神曲』)に名前が出るほど、聖アントニオ教団というのはずいぶんいい加減で、悪徳で、詐欺師が多かったということがわかります。そういう背景を前提としています。

それで、この人、チポッラさんがやってきて、8月のある日曜日の朝、ミサに集まった農民たちの前で、こんなふうに言いました。

「皆様方は毎年、毎年聖アントニオ教団の貧しい修道士のために小麦とか、燕麦を喜捨してくださっておりました。特別なお礼として、神からの恩恵として、皆様にまたとない尊いすばらしい品をお見せしましょう」と。「クジカスギ」とありますが、どうも昔の時間の言い方で、午後の4時とか、5時とかです。「鐘の音を聞いたらお集まりください。そのときに皆さんにまたとない遺品をお見せします」と。それは何かというと、「天使ガブリエルの羽をお見せします」というわけです。すると民衆は「おお」と思うのですね、きっと。天使ガブリエルというのは最も有名な天使の一人で、この作品ご存知ですね。ダ・ヴィンチの『受胎告知』。聖母マリアに「身ごもりましたよ」と言いにきたあの天使がガブリエルなのですね。「その羽を私が持っています」と。「さすが、修道士さま」というわけです。

ところが、そこはイタリアですから、そう易々と物事を運ばせてくれません。ジョバンニ・デル・グランゴニエーラ、ビアッジョ・ピッチーニという2人の若者がいて、これがチポッラに対して悪巧みを思いつきました。チポッラがひと休みして、外に出ている隙に、宿に忍び込んで、宝箱を見つけ出し、そこにオウムの羽が入っているのを見つけるわけです。たぶんこれだろうと。これを見せて、これ見よがしにやるのだろうと感づいたので、代わりに箱いっぱいに炭をつめておきました。そんなこととは知らず、チポッラさんは、時間になって、その箱を大事そうに持って来ました。すると、まずは重々しく告白の祈りをささげます。次に、松明に火をつけさせます。頭巾を脱ぎます。薄い絹の敷物を広げて、宝箱を大事そうに、今から出ますよ、なんて。ところが、パッと開けると、中には羽根がないのですね。たぶんこんな感じです。はい、怒られる前に消します。

「私は若い頃に」、と急に話を変えます。「上司の命令でトルチェラーナの秘宝を探り出すために、太陽の昇る国のあたりへ派遣されたことがありまして」なんて話を変えるわけです。

まずいぞ、と、何とかごまかさなければならないぞ、ということで、例えば、「トゥルフィア」という国とか、「ブッフィア」という国とか、「メンツォーニャ」という国を旅したりしまして、とかいう話をし始めます。みんな知らないから、そんなところがあるのだと思っていたかもしれません。が、実はこれ意味があります。「トゥルフィア」、はイタリア語で「詐欺」、「ブッフィア」は「道化」、「メンツォーニャ」は「うそつき」といった具合で、ぜんぶごまかしなのですね。こういったところを原文読みますと、イタリア語での言葉遊びみたいなところが楽しめます。有名な挿話を少し読んでみたりすると、勉強になったりしますよ。

ともかく、そんなところを旅して、それから、エルサレムの司教さんで、「ノンミブラズメーテセヴォイピア」に謁見しました、なんていう話も出てきます。これもまたイタリア語の原文を見ますと、こんなふうに書いてあるのですね。「ノンミブラズメーテセヴォイピアーチェ」はNon mi blasmete se voi piaceこういうふうにちゃんとした文章にも直すことができます。すると、「ブラズメーテ」は「非難する」です。「あなた方、私を非難しないでください」というわけです。「セアヴォイピアーチェ」、「もしよろしければ」ということで、ここも実はジョークになっているわけなのです。

そんなことで、そのエルサレムのセボイピアーチェさんが、聖女クローチェの歯、遺体の歯でしょうね。それ1枚とサロモーネ寺院の鐘の音をつめたビン、いかにもですね。それから、天使ガブリエルの羽、これが今日持ってこようと思っていたやつです。そして、聖ゲラルド・ダ・ヴィーラマーニャの木靴。それで、殉教者聖ロレンツォが焼き殺されたときの灰になってますが、炭です、炭を分けてくれたのです。というところまで話を持っていくのですね。

ちなみに、聖ロレンツォというのは、火あぶりになって亡くなった聖者です。イタリアの教会をめぐっていますと、結構この絵がありまして。これ(写真を見せる)ロレンツォですね。下に、こう火をくべて、処刑されています。これが炭ですね。この炭をくれたのだと言うわけです。罰が当たるのではと思うのですが。

ともかく、こんなことを言います。「羽を入れていた小箱と、炭を入れておいた小箱が大変似ているので、私は取り違えをしてしまいましたと。しかし、これは神の御心のなせる業としか思えません。後2日後にはサン・ロレンツォ(聖ロレンツォ)の祝日が来るではありませんか」と言って、何とか、言葉巧みにその場を納めたというお話なんです。

どこか、とんち話みたいですけどね。こんなお話があったりします。いかにでたらめ、偽装かということがわかるというわけなのです。

ですので、もう1度ボッカチオに戻りますが、この人はそんな話をいろいろ集めてきて、1つの物語集にまとめているわけです。それが、大雑把ですが『デカメロン』の枠組みであるわけです。


では、この人がどんな人物なのか、見てみたいと思います。

ボッカッチョのお父さんがいまして、「ボッカッチーノ・ディ・ケリーノ・ダ・チェルタルド」といいます。よく名前に出身地名などが入ったりします。「ボッカッチーノ・ディ・ケリーノ」という人で、これがチェルタルドですから、お父さんはチェルタルド出身なのですね。この人が非常に独特というか、ボッカッチョの人生の鍵を握っています。ジョヴァンニ・ボッカッチョのことは、そのままボッカッチョと呼びますね。

そのお父さんの年表を作ってみました。

1297年に兄弟と一緒にチェルタルドからフィレンツェに出たのですね。サン・フレディアーノ地区というのは、駅のほうからすると、アルノ川の向こう側にあたるところなのですが、そこに住みました。下町です。それから、1314年に引っ越したという記録が残っています。そして、その数年後に、両替商をやっていたのですが、金融関係の大手、今でいうと大手銀行、商社みたいなところに入ります。それが「バルディ商会」という、フィレンツェや中世の歴史に詳しい方はこの名前を聞いたことがあるかと思います。それで、そこの組合員になって、出世をしたわけなのですが、ここで1つボッカッチョにとっては大事な事件が起きます。

ここまでお父さんは順調に仕事を積み重ねてきます。ところがと言うか、だからこそなのか、よくわかりませんが、別な女の人と結婚をします。ということは、彼を生んだお母さんはもうここでいなくなっているのですね。

で、ボッカッチョは、このお父さんのほうに引き取られます。彼の仕事の跡継ぎにさせようとするのですが、当時の金融業界とか、会社の形態は、自分の職を息子とかに継がせていく、あるいは、自分の業務に関しては、家族でやりくりをするという形態になっていたのですね。例えば、お父さんが今チェルタルドにいて、遠くの、例えばヴェネツィアあたりで商談があったとすると、代わりに息子さんを行かせるとか。それは身内でなければ駄目なのです。ですので、このお父さんにとっては、家族で男がいるというのは非常に大事であったのだろうと思われます。そんなわけで、離婚をしながらも、息子は引き取り、そして別の女の人と結婚している。ここにボッカッチョ、ジョヴァンニは、非常に大きな心の傷を抱えます。

ちなみにお父さんの結婚相手なのですが、名前がわかっておりまして、マルゲリータ。これ全部同じ人の名前ですよ。ある文献には、デ・マルドーリと出ています。そして、もう少し詳しく出ているやつは、マルゲリータ・ディ・ジャン・ドナーティ。ドナーティという名字がついておりました。そして、更に詳しく載っていたやつには、マルゲリータ・ディ・ジャン・ドナート・ディ・マルドーリとあります。

このドナーティという名前は、フィレンツェ史には欠かせない名前なのですが、聞いたことがある方いらっしゃいますか。この人はわかりますか。ダンテ。ダンテはフィレンツェを追放されています。ある有力な貴族の抗争に巻き込まれてというか、入り込んで、敗れて、出て行くわけです。その対立していた片方がチェルキ家。そして、その片方がドナーティ家です。どちらが勝ったかご存知ですね。ドナーティ家が最終的には勢力をつけて、こちら側を追い出したと。つまり「ドナーティ」というのは、この当時のフィレンツェの最も有力な家系の一つでした。

ダンテはチェルキ家のほうに味方をしていたわけですが、ダンテが恋人だと言っていた人がこちらです。ベアトリーチェ。名前くらいは聞いたことがあるかと思います。ダンテの『神曲』といえば、ダンテ、ベアトリーチェ、この哲学的な愛に結ばれた2人が天へ上って行く場面は有名です。一応これは後に描かれた絵ですので、こんな感じかどうかわかりませんが、ベアトリーチェとダンテが出会ったというシーンです。

このベアトーチェというのは、寓意といいますか、愛とか、学というものの化身というふうに解釈されますけども、もしこの人が、おそらくモデルになったであろう人を挙げるとすると、ビーチェ・ポルティナーリという人だといわれています。

ビーチェ・ポルティナーリという人は、何と先ほどのマルゲリータさんと親戚関係にあったらしいのですね。ということは、ビーチェさんなり、マルゲリータさんなりの行き来、交友があって、何かが残っているということなのです。で、もう少し調べてみますと、このビーチェ・ポルティナーリ、このダンテが好きだったという人は、シモーネ・ディ・バルディという人と結婚をしています。ダンテはまた別な人と、ジェンマという人と結婚するのですが、バルディというのは、あのバルディ商会のバルディです。ということは、この人と親戚関係にあるマルゲリータさんと結婚したということは、ボッカッチョのお父さんは有力者に取り入ったわけです。うまくやったわけです。ボッカッチョの実のお母さんと一緒にいても、ここまで出世は見込めないわけですから、やり手のお父さんだったみたいなのですね。

で、ボッカッチョはというと、違うお母さん、継母と過ごすわけです。その人はまた別の、自分の子を産むわけです。なので、彼はこの家からどんどん虐げられていくのです。そして、お父さんに利用されるように、商人に仕込まれていくわけなのですね。

しかし彼はそんな自分の生い立ちについて、「私の生みの母はパリの高貴な血を受け継ぐ女性なのです」と、ある叙事詩に書いているのです。そこから、パリ出身という説が出てくるのですけども、彼はこんなふうに事実をごまかさないと、もうやっていけないというようなところにいたのかもしれませんね。

それで、彼はすんなり商人になっていくのかというと、『デカメロン』を書くわけですから、そうではないわけです。商人になる心得というのがありまして、当時の記録によれば、「商人になるためには、常にインクに汚れた手を持つこと。あらゆる購入、売却、収入、店のあらゆる出入りを書き留めること。そして、常にペンを持っていること」というくらいみっちり仕込まれるわけです。「商人なったら、あらゆる経営のことに携わらなければいけない」。こういう厳格なことがあるのですね。

ところが、ボッカッチョはこんなふうに言っています。「父は私を商人にしようと幼い頃から私を仕込むのに懸命だった。算数を学ばされた後、大きな商人のところへ奉公に出されたとき、私は青春の敷居をまたいでもいなかった」。そのとき彼は12歳なのですね。「この商人の監督の下で、誰も取り戻すことのできない時間を私は浪費しただけだった」と。もう、嫌で嫌でしょうがなかったのでしょうね、商人になるのが。

1327年、お父さんがバルディ商会の仕事でナポリへ行くことになります。そこで彼は一緒について行きます。修業中ですからね。ナポリで修業しなさい、と。当時フィレンツェは、フランスのフランドル地方というところから羊毛を仕入れて、それで織物なんかを作って、それを輸出するという産業で栄えていました。それがフランスだけではまかなえなくなったので、イギリスとか、ナポリとかと取引をするようになっていたのですね。

彼はそんな中でナポリへ行くわけなのですが、ナポリへ行くと楽しかったのです。なぜか。フィレンツェの商人は、ナポリへ行くと、貴族同様に扱われた。なぜかというと、フィレンツェの商人は、お金も貸してくれたんです。ほかの商人、例えば、アラブの商人とか、ベニスの商人は、品物を持ってくるだけです。ところが、フィレンツェは金融業でも栄えておりましたので、お金を貸してくれるわけです。普通の方から、王族に至るまで、お金を貸しています。だから、特別扱いを受けていました。

特に彼がお世話になっていたのが、アンジュー家のロベルト王です。ここです。ナポリのヌオーヴォ城「カステル・ヌオーヴォ」です。ここに住んでいた。で、こちらは、フランス系ですね。アンジュー家ですから。フランス王の下にいたわけです。当時、フランスの王というのは、もちろんフランス本国とのつながりもありましたので、フランスのほうには吟遊詩人とか、プロバンス詩人とかいった、宮廷に招かれて、楽しい音楽をやったり、愛の歌を歌ったり、そういった盛り上げ役がたくさんいたのですね。そこにボッカチオは出入りしていましたから、商売よりもこちらのほうが面白いということで、そちらにのめり込みます。当時の彼の思いが残っています。

「やがて何かのきっかけで私の素質が文字を書くことに向いているとわかって、父は私に高位聖職者の判定を調べる仕事に就けようとした」

教会法というのがありますが、それを学ばせようとしたのですね。

「こういう修行が私は嫌で嫌でたまらず、先生たちや、私に向ける父の叱責にも関わらず、この職業に興味を持つことはありませんでした。私が愛着するのはただ1つ。詩とか文学だったのです」

 このように自分で書き残しています。それで、彼はこの宮廷に出入りするわけですが、何が面白かったかというと、ナポリのアンジュー家のプリンスやセレブたちの大半は、極めてカトリック的であると同時に、はなはだ放蕩者であったということなのです。

「この宮廷では、王が貴婦人に産ませた数人、庶子、めかけの子を数えることができた。例えば、ロベルト王が即位したその年には、その弟のフィリップ・タラントの妻イタマールが、伯爵で家臣のバルトロメオという人と関係を持って、あやうく重大な政治的結果を招くところだった」

 このような有様で、宮廷は先ほどの聖職者の方たちに劣らず、乱れていたということなのです。

そんな中、ボッカチオは商人の勉強なんかは放ったらかしで、そこで見聞きしたことをいろいろ書いて、作品にしていきます。こういった作品なのですが、ギリシャの神様なのですね。それに人物を当てはめていって、叙事詩風に、自分の人生とか、そこでの様子とか、人々を書き込んでいったのですね。このように、『デカメロン』を書く前に、そのナポリでの経験に基づいて、作家活動を始めていたわけなのですね。

やがて、彼が作家としてやっていこうと決意する重大な事件が起きます。1336年3月30日聖土曜日。場所は、ナポリに詳しい方はご存知かと思いますが、サン・ロレンツォ教会です。ここである女性に出会います。それが、彼が呼ぶには「フィアンメッタ」という女性です。これはボッカチオの別の作品ですが、フィアンメッタというのは、フィアンマ「炎」から来ていまして、「小さな炎」フィアンメッタと名づけて、彼はこの人を理想とします。

わずかですが、彼女と出会ったときの感動を書いております。先ほどありました『フィローコロ』という作品です。主人公、というのは自分のことらしいのですが、書き方は誰か別の人に委ねています。

「彼の胸が狂おしく波打ち始めた。その全身がいかんともしがたいおののきに包まれた。彼は一層注意をこめてその女性の目に見入った。そこには愛の化身が宿っていることが思われた」

このように、心底惚れ込んでしまうわけですね。

この女性も、作品の中の空想の人、それから彼の文学史的な説でいきますと、こういう気配をまとった「理想の女性」ということになっていますが、実はモデルがあったというふうに言われます。

マリーア・ダックィーノ。「ダックィーノ」というのはイタリア語読みなのですが、フランス系の名前です。そして、この人がなんと、先ほどのロベルト王の妾の子らしいということなのです。先ほどありましたが、「私の本当のお母さんは、パリの高貴な血を受け継ぐ女性なのですよ」。そして、「私の好きだった人は、フィアメッタなのですよ」と言いながら、実はどうやらフランス系の宮廷にいた女性ということで、なんだか現実のことと、彼が作り出していく言動とが、巧みに絡み合っているみたいにして、1つの作品にまとまっていくというような書き方がされております。

ちょっと長くなってしまって、何か歴史の話みたいになりました。そんなわけで、もう少しで『デカメロン』を書きますよ。

そのためにもう1つ大きな事件が起きます。1339年、バルディ商会が倒産してしまいます。この頃、お父さんはもうフィレンツェに帰っていました。そして、彼は勉強するとか、商人の仕事をするふりをして、ナポリにいて、そんなことはせずに作品を書いていたということになっています。

それでバルディ商会でしが、急に倒産してしまいました。なぜかと言いますと、先ほど言いましたが、バルディ商会は元々フランスのフランドル地方などと取引をしていたのですが、さらに手を伸ばしてイギリスのほうまで進出していたのです。そこでなんとこんなことが起こったのです。

1339年、英仏百年戦争ですね。最後はジャンヌ・ダルクが出てくるやつですね。これがまさかボッカチオに影響を与えているとは思わなかったかもしれませんが、このときに、なぜバルディ商会が関わったかと言いますと、元々ヨークシャー地方と羊毛の取引きをやっていたのですが、そこでまたお金を貸していたのです。そこで上客を得るのですね。それが英国王だったのです。当時はエドワード3世という人だったのですが、その人の戦争をするお金、軍事予算をバルディ商会が請け負っていたらしいのですね。それで、本当の戦争になってしったわけです。すると、今度はこんな戦争の最中にお金は返せないということになったわけですね。カード・ローンで「返せないよ」とは言えないのですけど、王様が「戦争中だから返せない」というのは通るのですね。だから、王様になって借金すればいいのだなということです。

さて、かわいそうなのはバルディ商会で、倒産してしまうのです。そのためにボッカッチョはフィレンツェに戻されます。そのときの彼の感想です。1340年にフィレンツェに帰ってきます。

「フィレンツェは不快な町だ」

 今フィレンツェに行きたくて、行きたくて、そしてフィレンツェ大好きで仕方ないみたいな人がたくさんいますが。

「フィレンツェは不快な町だ。傲慢で、強欲で、嫉妬深い町だ。それと反対に、ナポリは陽気で、平和で」

 ナポリでひどい目にあった人は、そんなはずないと言うかもしれませんが。

というわけで、彼はこの『フィローコロ』でフィアンメッタと出会い、これから文学活動を続けていくと心に決め、そして、フィレンツェに戻されてもそのことを思って、『テーセウス』、なんとなくギリシャの感じ、『アメートのニンフ』、これもギリシャ神話の感じ、『愛の幻影』、『マドンナ・フィアンメッタのエレジー』とつながっていきます。彼はナポリのことをずっと思いながら、ナポリで培ったギリシャ神話の知識を生かしつつ作品を編んでいくわけですね。

そしてもう1つ、『デカメロン』が生まれるのに欠かせない出来事があります。それが1348年のペストが流行です。ヨーロッパの人口の約4割がこれで亡くなったとも言われます。この惨劇を彼は目の当たりにするわけなのですね。

「私たちの市国フィレンツェ、このような苦しみの惨状の中で、尊ばれるべき法の一身は、宗教界においても、俗界においても、ほとんどみな地に落ちて、省みられなくなっていった」

 人々は、平和な時代には、こういった決まりを守ろう、こうしたしきたりが大事だ、こういった教訓がある、守らなくてはなんていうことを言っていた宗教の人たち。そして、法律や、商業や、行政に携わっていた人たちが、盗みをやったり、汚職をしたり、ということをやり始めたわけですね。どうせ死ぬのだし、みたいなことで。

そのような様々な出来事の末、彼が書き始めたのが『デカメロン』だったわけです。このようにして、少し細かく経過をたどってみますと、彼が単にエッチなものを書こうとしたわけでもなく、あるいは、ある聖職者なり、権力者なりの裏話を暴露しようとして書いたものでもない、という思いがしてきませんか。

では、『デカメロン』とはいったいなんだったのか。

そこで、今度はこの作品の構造を見てみましょう。『デカメロン』は、まず10日間で1日10個の短い話を語り合おう、それを10日続けて100話にしようという設定で編まれたものです。ただし、1番最初の序というのは、「こういう理由で僕たちはここに集まって、今から話を始めるのだよ」という前書きになっております。

フィレンツェでペストが流行っていますから、郊外へ逃げましょう。それで、フィレンツェの教会に集まった人たちで行きましょう、ということになり、女の人が7人、男の人が3人という組み合わせで「10」から始まるのですね。

この作りというのは、あるモデルがあります。ダンテの『神曲』なのですね。ご存知のとおり、「地獄篇」、「煉獄篇」、「天国篇」、3部からなっています。「地獄篇」を見ますと、34の歌があります。この「歌」は、イタリア語では「カント」といいますが、34の区切られた話に分かれています。それで、1は「序」になっています。「私がこの森に迷ってしまって、これから地獄に入るんだ」という前置きをするわけです。つまり34ですが、本編は1抜きますので、「地獄篇」としては33の歌があるというわけですね。

で、「煉獄編」も33、「天国篇」も33になっています。全部足すと99で「序」の1を加えて100になります。この100というのは、宗教的に完全数、パーフェクトな構造を持っているというものの証拠になるわけです。『デカメロン』のこの100という数字は、そこにつながっています。ということは、彼はなんらかの、ダンテの『神曲』につながる宇宙観のようなものを表そうとしているのではないか、というのがここで少し想像されます。

ちなみに、『デカメロン』の100の挿話の下地になっているものですが、これは全くボッカッチョが自分で見聞きした話もありますけれども、ほかにもいろいろ過去の作品からモデルを得ています。

例えば、『アラビアン・ナイト』ですね。古代ローマ時代ですが、『七賢人物語』。それから、同じように100の短いお話を並べた昔話集『ノベッリーノ』というのがすでに編まれていましたから、これも参考にしています。ボッカッチョはおそらく、これらを意識して読んで、こうしたものの枠組みを使って、なんとか独自の作品にできないかと試行錯誤した様子も見られます。

というわけで、『デカメロン』が日本で紹介された当初の頃のように、卑猥なというか、不謹慎なというか、そういったことが目的に書かれたものでは、どうやらなさそうです。もっと大きな広がり、時代や思想や感情や教養や、そうした広範な問題を背景に、彼は「人間の何たるか」を問いただすように書き始めたのではないかと思われます。

では、『デカメロン』の本質は何か。そう言うと、何か研究のようですが、もう少し気楽に、彼は『デカメロン』で何を言いたかったのかを最後にまとめてみたいと思います。

この作品を読んだ私の感想としましては、人間のこと、人間とはこういうものだよ、これが人間の自然だよ、というものを、カタログにするようにすべて明るみに出していくと、それを順番に追っていくと、「なるほど本当はこういう生き物だ」「実体はこうだ」というような真実を見せつけられるように思います。「こうした悪いところもある」、「こうした醜いところもある」、だから、「こんな法律を作ったり、こんな風に町を作ったり、こういう風に男と女が過ごしている」というような、社会の裏表、一人一人の人間の裏表があって、それらが集まっているのが私たちであると一目瞭然になるのではないでしょうか。彼はそれを文学作品として、1つの枠組みにしようとしたのではないかと考えられます。

それでは、そう理解したところで「人間はしょうがない」「やってられない」と悲観的に持って行くのかというと、そうではなく、それを肯定して「人間の賛歌」として捧げているように思われます。彼は前向きな話をこの中に盛り込んでいます。なんだか元気になる、人間の賛歌とも言える話もあるのです。最後に、それを一緒に見てみたいと思うのです。

2日目の5話、アンドレウッチョという人が出てきます。ナポリに馬を買いに来た商人ですね。こんなセリフがあります。

「人間が苦境に陥って、それでもしそこから這い上がって成功したいときに、一体何が必要なのだろう」

そこで出てくるのがこれです。これはイタリア語では「機転」のことです。そしてもう1つが「運」です。この両方ともを無視してはいけないと。きっちりと割り切れるような理屈だけでは、こんなに醜い私たちの世界は乗り切っていけないのだよというふうに彼は考えています。

では、このアンドレウッチョという人に、どんな不幸が起き、そして、彼はどう機転をきかせ、運を見極め、苦境を切り抜けるのかというところを見まして、今日のまとめとしたいと思います。

(映画)

これはアンドレウッチョです。先ほどのきれいなお姉さん、彼女が馬を買いに来ているこの男のことを知るわけです。彼女は実は、お金持っているから、うまくこの男から盗んでやろうとたくらみをします。

(映画)

お呼びですよと言って、仲間の子供を使って呼び寄せます。

(映画)

今だったらびっくりですね。「え、オレに妹がいたの」と。それで、チューなんかされたものですから、もう彼女のことを信用してしまう。

(映画)

ということで、すっかり晩御飯までご馳走になり、泊めてもらうという段階になってしまいました。それで、今日は何だかツイているな、いい日だなと、ご機嫌で寝るかということにします。

(映画)

たぶん夕食に何か盛られていたのですね。おなかが痛くなってしまうのです。

(映画)

というわけで、お金を取られ、彼はあの汚くなったまま放りだされます。こんな不幸ないでしょう。では、彼がここから機転を使い、運をつかみます。「ウンをつかみ」は別に駄洒落ではありません。

(映画)

2人は盗人なのですね。これ廃墟のような、廃れた感じですが、教会なのです。ある教会の司祭さんが亡くなって、埋葬した日の夜なのですね。

(映画)

というお話でした。これは『デカメロン』の中ではおとなしいほうというか、ほほえましいお話なのです。『デカメロン』には卑猥なだけでなく、こういった読んでいて楽しく、クスッと笑いたくなるお話もたくさん見られます。そしてそういう話からは、どこかイタリア人の本当の姿というか、格好をつけていない、素の彼らの姿を見られる感じがして、僕はとても親しみを感じるのですね。

結構厚い本ですけど、全部読むのは大変かもしれませんが、まずは今日ご紹介したような話からかいつまんで読んで頂ければと思います。「なるほど、昔はこうなのか」と思ったり、「こういうイタリア人、今でもいるね」ということがあったりするかと思います。言わば、イタリア人のカタログ、いや人間のカタログという気さえしてきます。ぜひ読むきっかけにしていただければと思います。今日はこの辺で終わりにさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。




司会  京藤先生、大変おもしろいお話をありがとうございました。それでは、皆さん、質問があれば受けたいと思いますが、いかがでしょうか。じゃあ私から最初に質問します。初期の作品ではずいぶん牧歌的な作品も書いているようですが、彼はその初期の作品からトスカーナ語で書いているのでしょうか。


京藤  そうですね。ダンテ以降、その前からもあったのですが、今僕たちが使っているような、習っているようなイタリア語で作品を書くということは、この頃には文学の潮流になっていました。彼は半分半分くらいなのです。つまり、今のイタリア語でわかるような俗語の作品もあるし、ラテン語でも書いています。やはりラテン語の教養というのは、知識人のステイタスになっていて、それも使いこなせるし、新しい文学の潮流である俗語、つまり民衆の言葉でも文学作品が書ける、芸術的なレベルで使えるということが大切で、彼は両方で書いております。


司会  ラテン語の知識も十分持っていたということですね、彼は。


京藤  そうですね。ペトラルカと一緒に勉強してますし。


司会  他にいかがでしょうか。


質問  今日は楽しいお話をありがとうございました。私も名前だけしか知らなかったので、読んでみようかなという気になりました。2つ質問があります。ダンテの『神曲』のほうは、イタリアは、高校でしたっけ、だいたいみんなたっぷり読まされるんだという話をよく聞きますが、『デカメロン』もやはり学校で習うというか、勉強したりするのでしょうか。もう1つは、教会とか、聖職者が攻撃の的になっているようですが、それに対して発禁処分はなかったかもしれませんが、教会のほうが、こんなもの読むんじゃないみたいな動きというのはあったのでしょうか。


京藤  まず最初の質問のほうですが、今日は特徴的というか、面白い部分をと思って、聖職者のまぬけな話とか、エッチな話を中心にしましたが、いい話とか、泣ける話というのもあるのですね。貧しくなった、勢力をなくした元貴族が、最後の持ち物であった唯一の財産である鷹をおもてなしに出すというお話とか、君主がどういうお后を選ぶといいかというのに、結果的には、よく働いて、誰からも愛される人を、お金ではなく、情愛の深さを選んだとかですね、そういうお話もあるのですね。ですので、イタリアの学生の場合『神曲』は中学、高校、大学を通して学んでいますが、『デカメロン』はそういういい意味で有名な話とか、地元が舞台の話なんかをかいいつまむようにして、教科書に入っているところを読んでいたように思います。ですので、今日やったようなところはあまりなく、たぶん教育的に差し支えないところを読んでいたと思います。

それから、当時の状況なのですが、まず彼がなぜこれを書いても大丈夫だと思ったかというと、かなり世の中の文学的な意欲が高まっていたと同時に、これだけ世の中が乱れていれば、出してもいいだろうと判断したふしもあります。それで、この本を出した後にいろいろ読まれて、世の中にも出回ると、やはり一応教会関係者は、読ませてもらえなくなったみたいです。教会の中にいる人は読めない。でも巷の人はそれを手に入れて読んでいました。ですから、(教会の人は)隠れて読んでいた。作品自体は普通に出版されていたようです。出版されてというのは、当時は写本ですので、書き写して出回っていたわけです。そういう一般社会のレベルでの、今日言うような発禁はなかったみたいです。


司会  よろしいでしょうか。それでは、もう1度、皆さん拍手を。どうも京藤先生、ありがとうございました。