中世の城塞集落を巡って

第334回 イタリア研究会 2008-02-29

中世の城塞集落を巡って

報告者:名古屋大学文学研究科 西村 善矢


第334回イタリア研究会(2008年2月29日)

演題:中世の城塞集落を巡って

講師:西村善矢 名古屋大学大学院文学研究科グローバルCOE研究員


司会  私運営委員の猪瀬でございます。今日は橋都先生が遅れられるということで、代わって司会を務めさせていただきます。今日は第334回のイタリア研究会例会でございます。月末のお忙しいところ、お越しいただきましてありがとうございました。

本日はご案内申し上げましたとおり、名古屋大学大学院の文学研究科グローバルCOE研究員——COEというのはCenter of Excellenceということだそうですが——の西村善矢先生に、こちらのスライドにも出ていますが、「中世の城塞集落を巡って」という演題でご講演をお願いいたしたいと思います。

 西村先生は、1989年名古屋大学文学部西洋史学科をご卒業なされました。その後、1993年から97年まで、ローマ大学ラ・サンピエンツァ校、こちらの文学部にご留学になって、ご帰国後、97年から99年まで日本学術振興会特別研究員をなさっております。その後、2002年に名古屋大学大学院博士課程後期を退学ということで、その年に歴史学博士の博士号を取得されました。2004年に名古屋大学大学院文学研究科の助手となられました。現在は先ほどご案内申し上げました大学院文学研究科グローバルCOE研究員であらせられます。ご専攻は歴史学(イタリア中世史)、特にトスカーナの農村史というふうに承っております。

 それでは西村先生、よろしくお願いいたします。



西村  ただいま紹介に預かりました西村善矢と申します。大変丁寧に紹介していただきましたが、今日は「中世の城塞集落を巡って」というテーマで話させていただきたいと思います。

 現在、私はCOE研究員として少し違う研究をしているのですが、今回お話しするのは以前から取り組んできたテーマです。とはいいましても、これからまだ研究しなければならないことはたくさんありますので、それほど深く掘り下げてお話することはできないかもしれません。が、できるだけわかりやすくお話したいと思います。

 実は私は大学院でイタリアの歴史を研究しようと決めたときに、最初はローマ——この画像はローマのフォロ・ロマーノです——やフィレンツェ——これはヴェッキオ宮です——、あるいは——司教座聖堂とカンポ広場が有名な——シエナ、やはりどうしてもこういった都市に関心を抱いていたのですね。皆さんもはじめてイタリアを旅行される場合、たとえばツアーですと、こういった有名な都市を旅行されると思います。しかしながら、私の場合、イタリアの歴史を学んでいくにつれて、農村もそれなりの歴史を持っていることに気づくようになりました。実際、都市から近辺の田園地帯に出かけると、やはり農村には都市とは違うものがある。私がここで取り上げる城塞集落がそのひとつです。イタリアは都市の国であるとよく言われますね。古代ローマ時代以来、あるいはもっと以前から、そうした都市の伝統が根づいている国ですけれども、レンタカーあるいはバス、電車でもかまいませんが、農村を巡ると、丘の上や山の中腹といったところにたくさん都市的集落というか、家の密集した集落があるということに気がつきます。必ずしもイタリアに限られるわけではないのですが、特にイタリアの北部から中部にかけて、この種の集落をたくさん目にすることができます。

 確かに、イタリアと聞いてすぐにイメージされるのは、古代ローマ都市の遺跡や中世都市国家、あるいは都市で花開いたルネサンス文化、芸術ということになるのでしょう。しかし、ここではふだん見過ごされがちな農村の視点からイタリアの歴史を見つめ直すことによって、これまでとは違うイタリアの姿を浮かび上がらせたいと思います。最終的には、農村は周囲から孤立しているのではなくて、都市と非常に密接につながっているということを知っていただければありがたいと思います。


 城塞集落の話に入る前に、集落を取り巻く自然環境について説明したほうが導入としていいのかなということで、最初にイタリアの自然環境についてお話しさせていただきます。

 イタリアは地中海に突き出た半島ですね。そこからすぐ思い浮かぶのは、夏、バカンス、海水浴ということですね。イタリアの夏はバカンスの天国で、それ以外の季節も快適に過ごすことのできる地中海性気候の国というイメージが強いのですが、城塞集落の点在する丘陵地帯は実は厳しい自然環境のなかにあったという点に注意したいと思います。この点は城塞集落の成立の背景を知る上でも有益であると思うので、少し詳しく説明いたします。

 まずこの地図で、イタリア半島が山がちの地形であるということを見ていただきたいと思います。次の地図を見ますと、アルプス山脈がイタリアとその北のスイスやフランスと分け隔てています。しかし山脈はアルプスだけではありません。よく見ると、イタリア半島の真ん中を背骨のように走っている山並みがある。これはアペニン山脈です。この山脈は見た目以上にイタリアの歴史に大きな影を落としているというと言い過ぎかもしれませんが、イタリアは非常に山がちの国であって、平野は少ないのです。ヨーロッパの北方、例えばドイツやポーランドなどでは、わりと平らなところが多いのですが、南ヨーロッパでは山地の地形が卓越しています。それが人間の暮らしや定住のあり方にも大きな影響を及ぼしています。今回の報告では、イタリアの北部や中南部も少し扱いますが、イタリア中部のトスカーナ地方の城塞集落を主に取り上げることとします。

 今申し上げましたように、イタリア半島は背骨のようにアペニン山脈が北から南に縦断しています。アペニン山脈は半島をティレニア海側とアドリア海側とに分け隔てています。この山脈が人や物の移動に古来大きな障害となっていました。ある意味では、この障害が地域に個性を与える役割をはたしているわけです。この写真はモリーゼ州です。おそらくイタリアで最も知られていない州の1つで、イタリア中南部、カンパーニア州の反対側のアドリア海側にあります。小さい州ですが、そこにアペニン山脈が高くそそり立っています。このあたりは国立公園になっていますが、意外と険しい山々が連なっています。手前にオリーブ畑があって、その向こう側に切り立った崖のような丘があって、その上にカステル・サン・ヴィンチェンツォという名前の城塞集落があります。この集落はこのあたりを支配していたサン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院と関わりの深い集落ですが、このように山がちなところに集落が立地しているのです。ところでイタリアには、ヴェスビオス山やエトナ山など、火山がたくさんあります。日本ほどではないにしても、イタリアでは今でも火山活動、というか地殻変動が活発で、かなり大きな地震もしばしば起こります。例えば、もう10年以上前ですが、アッシジの聖堂の一部が地震のために崩落しました。

 しかし一方で、火山活動が活発であることから、温泉もたくさんあります。ローマ時代の公共浴場跡からもわかるように、かつて古代ローマ人は風呂好きだったのですが、中世に入ると温泉浴は一時期廃れます。しかし中世後期に主として湯治のための温泉浴が再び盛んになります。今日の温泉町はちょっと寂れているところがありますが。この写真はサトゥルニアという、古代ロ-マ時代にはすでに存在していた南トスカーナの温泉です。

このように、イタリア半島はきわめて起伏に富んだ土地柄ですが、平野がまったくないわけではありません。例えば、ポー川平原がそのひとつですが、平地の多くは海岸沿いにへばりついた、広がりに乏しい海岸平野です。海岸平野の多くは現在では干拓されていますが、かつては湿地帯に占められていました。かつてとは中世のことを念頭においているのですが、中世には湿地帯が非常に多く、夏はマラリア蚊がそこで大量に発生して、非常に不衛生な環境となっていました。今日では沼沢地がほとんどなくなっていますが、たとえばトスカーナ地方ではルッカ近郊にフチェッキオ沼沢地が保護地区として残っております。

このように、とりわけイタリアでは、山地も平地も人間が暮らす場所としてはあまり適しておりませんでした。もちろんローマ人は高度な土木技術を用いて、平野に都市を建設していますけれども、中世においては、そういったところをできるだけ避けて、山と平地の中間地帯である丘陵地に人が定住する傾向が強かったのです。中世には自然環境が人間の定住場所をある意味で方向づけていたわけです。

ただ海岸部にも例外があります。アマルフィがその一例です。アマルフィは中世に入っていち早く地中海での交易活動を展開した海洋都市国家です。このように、よい入り江の港があるといった条件に恵まれれば、例外的に都市が発達します。

次に気象条件を見てみたいと思います。イタリア半島は主に地中海性気候に属し、基本的には冬は暖かくて、やや雨が降る。夏は暑くて乾燥するという感じです。ただ最近は異常気象の関係で、必ずしもそうではない。例えば、夏に行ってもなんとなくどんよりして、湿っぽいことがある。夜は熱帯夜に近いときもあります。しかし、基本的には紺碧の空ですね。日蔭に入れば涼しいというのが本来の地中海の気候です。

地中海の気候条件というのは、大まかに言えば夏と冬の2つの季節に——乾季と雨季というふうに言いかえてもいいかもしれませんが——分けられますが、夏は南からサハラ砂漠の暑い高気圧が張り出してきて、乾燥した好天が続きます。10月頃になると、今度は大西洋のほうから湿った低気圧が上陸してきて、これがしばしば雨をもたらします。

地中海地方は季節が基本的には夏と冬の2つだと申しましたけれども、時として例えば、冬に非常に寒いときがある。北のほうから大陸の冷たい風が吹いてきたりする。トスカーナでは糸杉という細長い木が植えられて、防風林の役割を果たしました。今日では一列に糸杉が並んだ景観は、トスカーナの典型的な風景の一コマとなっていますけれども、最近では観光資源として植えられているという例が多いようです。糸杉は本来、冷たい風から身を守るという、あるいは作物を守るという目的があったようです。

基本的には、イタリアは日本に比べてはるかに降水量が少ないです。降水量よりも太陽の熱による蒸発量の方が多く、水不足になりがちなのですが、そのためもあってイタリアの河川や湖沼ではそんなにふんだんに水が流れているわけではありません。枯れているわけでもないけれど、あまり流れていないのですね。しかしながら、山に雪や雨が降ると、地下に水が染み渡って、イタリア山は基本的に石灰岩でおおわれていますから、そこに水がたまります。そして地下水が山のふもとや中腹に湧き水として迸り出てきます。だから、たとえば標高600メートルあたりの湧水地点に、比較的大きい集落が点在していたりするのですね。人間が生きる上で欠かせない水の存在が、人間による定住の不可欠な条件となっているのです。

今度は土壌、植生の話に移ります。地中海の陸地は非常に複雑な土壌からなっていますが、基本的にイタリアに典型的な土はテラ・ロッサで、日本語に訳すと「赤土」となります。これは赤みの元となる酸化鉄が含まれているからこう呼ばれるのですが、基本的には粘土質の土壌です。例えば、シエナの東のほうにクレテ・セネージという粘土質の土壌で覆われた地帯が広がっています。シエナの町やシエナ近郊に点在する集落は赤レンガ色で覆われていますが、これは地元の粘土で焼いたレンガを使っていることによります。

テラ・ロッサはあまり栄養分を含んではおらず、大雨が降れば表土が大量に流出してしまう危険があるのですが、小麦栽培やぶどうなどの果樹栽培には適しています。ヨーロッパの北方の土は非常に重いですが、地中海地方の土はわりと軽いですね。

植生は、標高が上がるにつれて変化していきます。人間が植えてきた植物であれば、オリーブの木がかなり低いところからみられます。そして、標高500メートルを超えると、楢といった落葉性の木と広葉樹との混合林で占められるようになります。混合林地帯では、人工林の中で大きな位置を占めるのが栗林です。ローマなど街角では秋になると焼き栗の屋台がよくでていますが、田舎に行くと栗の収穫を祝う祭りが催されていたりします。栗は中世以来、農民にとって非常に重要な、不可欠な補助食品でした。

中世は大まかに言えば、5・6世紀から15世紀まで約1000年間つづいた時代を指しますが、一般的には西ローマ帝国の滅びた476年から、コロンブスがアメリカを発見する1492年くらいまでというふうによく言われます。中世も紀元1000年を過ぎますと、急速に人口が増えて、あちこちで都市が成長し、農村もまた発展していきます。その中で、穀物を増産する必要に迫られたとき、都市や農村領主は農地を拡大するためにしばしば開墾事業を手がけています。とりわけ小麦の栽培を増やすため、森が伐採されるのですが、こうして開かれた耕地は、見た目以上にもろい土壌からなっています。たとえば日本の森は樹木が密生していることが多く、土壌も肥沃です。しかし地中海地方の森は疎林というか、まばらな林であるため、樹木を伐採してもあまり肥沃ではない土地しか得ることができず、耕地としてはすぐに使えなくなってしまいます。

イタリアはある意味ではバカンスの場所として、地上の楽園というイメージを持つことがあるかもしれません。しかし現実は、少なくとも中世の人にとってはかなり厳しい自然環境にあったということですね。中世の人びとは、軽くてさほど肥沃ではない土壌や水不足など、さまざまな制約を受けながら生きていかねばならなかったわけです。



ここでようやく城塞集落の話に入るのですが、この写真はアルチドッソという集落です。アルチドッソは、シエナの南方にそびえるモンテ・アミアータ(アミアータ山)という山の裾野の、標高600メートルくらいの地点に立地しています。小高い山の斜面に家が密集して建てられている様子が、この写真からよくわかります。

もっとも高い場所に領主の館があって、少し降りたところに教会があります。アルチドッソは、グロッセートを拠点に、マレンマ地方からアミアータ地方にかけての地域を中心とする南トスカーナで強力な支配権を行使したアルドブランデスキ家という有力家系の拠点のひとつになったのですが、集落の一番高い所にこの領主の砦があります。しかし、教会が領主として君臨する集落の場合、教会が一番高い所にあったりもします。領主の館や教会を取り囲むように、斜面に農民や職人をはじめとする一般住民の家屋が軒を連ねています。

本来であれば、一番外側を城壁が取り囲んでいるのですが、アルチドッソの場合、建物の壁そのものが一種の城壁の役割を果たしています。あるいは崖が天然の要塞の役割を果たしております。

中世後期の絵画にも、しばしば城塞集落が描かれています。これは、現在市庁舎となっているシエナのプブリコ宮です。プブリコ宮の2階には「世界地図の間」という部屋がありますが、この広間の壁にフレスコ画があります。上下にならんで描かれた2つのフレスコ画のうち上の絵は、シモーネ・マルティーニという14世紀前半の画家がグイドリッチョ・ダ・フォリアーノというシエナの傭兵隊長を中心とする絵を描いています。

絵の左側には城塞集落がありますが、これまたアルドブランデスキ家の城のひとつ、モンテマッシといわれています。一方、絵の右側には、シエナ軍の野営地が描かれています。彼は、秀吉ではないですが、数日のうちに砦を作りあげ、そこを拠点にして城を攻め落とそうとしている。その野営地に白黒の旗がありますが、これはシエナのコムーネの紋章、ですから、シエナ軍というのが一目でわかります。

下の絵は、これよりもう少し早い14世紀初頭に、シエナの画家ドゥッチョが描いたとされる城塞集落の征服場面を描いたフレスコ画です。教会といくつかの建物が並んでいます。それからまわりには柵が張り巡らされています。今日の城塞集落は石造りの城壁が一般的ですが、早い段階では、木の柵といった非常に簡単な構造のものが使われています。

こちらの絵はシエナのもう1人画家アンブロージョ・ロレンツェッティの『海浜の集落』ですね。この集落は少し複雑な構造をしておりまして、1番右側に天守閣みたいな建物があって、左側には塔の林立する集落が広がっています。これは中世都市に典型的な風景で、今日のサンジミニャーノによく似ています。この絵の町は城塞集落というよりも、小都市と言った方がいいかもしれません。なお、この町はタラモーネという、シエナにとっては非常に重要な港町だというふうに言われております。

北イタリアのトレントという都市に司教の城がありますが、その中のアクイラの塔に農作業など春から冬まで各月の暦を描いたフレスコ画があります。こちらは4月と5月の暦の絵です。左側が4月、右側が5月ですが、5月の絵の上のほうに、白いゴシック教会を中心にした城塞集落が描かれています。ここでは農民が農作業をしている場面と、貴族の若者がピクニックをしている場面が描かれています。このように14世紀、15世紀頃の絵画には、城塞集落が背景によく登場します。

「城塞集落」と私が訳している元のイタリア語は「カステッロ」、「カストロ」です。これはラテン語で「カストルム」という用語から派生した言葉であり、英語の「キャッスル」と語源は同じです。キャッスル、あるいは城というと、私たちはふつう領主、あるいはその家臣団の一部が居住する領主の館や砦のイメージを思い描くことが多いですね。しかし、イタリア語のカステッロにはこの言葉にもう1つの意味があります。それは今までいくつか見てきた「高地防備集落」という意味です。つまり、領主の館だけではなくて、城壁に取り囲まれた集落全体を城と表現するのです。今日の報告の最初のほうでカステル・サンヴィンチェンツォという町の写真をお見せしましたが、あれもカステロという言葉が地名に含まれていることからもわかるように、防備集落そのものを指しているのですね。ですから、イタリアを旅行されると、カストロやその関連用語の名称で呼ばれる城塞集落にしばしば遭遇することになります。

このように、城塞集落というのは基本的に丘の上や中腹、あるいは河川の合流地点ないし天然の要衝となるような場所に建設されることが多いといえます。こうした立地条件からもわかるように、たいてい防備施設を備えています。中心の1番高い地点に領主の館、あるいは教会があり、その周囲に農民の家屋が密集しています。そしてその外側に城壁と門、あるいは崖があるわけですね。これが城塞集落の基本的な構造です。

これからいくつか具体例を見ていきたいと思います。モンテラテローネという集落は、アミアータ山岳地帯にある丘の頂から斜面にかけて広がる密集定住地です。モンテラテローニはモンテ・アミアータの西側の山裾に広がる地域にありますが、アミアータ山の東側の中腹800メートルくらいのところに、8世紀に創建されたモンテ・アミアータ修道院があり、この修道院がモンテラテローネの領主として君臨しておりました。修道士はここの農民から地代を徴収するだけでなく、住民を領主法廷で裁くなど、権力を行使していました。この写真は上から見たところです。右端のもっとも高い地点に領主の館、砦の遺構があり、その下に住民の家屋が所狭しと軒を連ねています。中腹あたりに教会の尖塔がみえますね。

モンテラテローニの入口には門がありますが、門をくぐって集落の中の道を上っていくと、2つ目の門があります。集落は人口が増加していけばどんどんその外側に人間が住んでいきますから、集落内の門はかつてここが集落の境目であったことを示しています。城壁内に家屋を建設する余地がなくなると、今度は門の外に家を建てていくことになります。そしてある時点で、この居住区域が新たに建設される城壁の中に取り込まれていくことになります。こうした居住区域の拡大とそれに伴う新たな城壁、門の建設は、12世紀から14世紀前半にかけて、あちこちの城塞集落で確認されています。

この写真はアミアータ地方の北側にあるオルチャ渓谷のバーニョ・ヴィニョーニという温泉町です。イタリアでは集落の中心にはふつう広場があるのですが、ここでは温泉が中心広場の位置を占めています。今はもうこの中に入ることはできませんが、そのかわり近くに温泉施設があります。バーニョ・ヴィニョーニの背景にそびえる山の上には塔のようなものが見えますが、これはカスティリオーネ・ドルチャという防備集落に屹立する砦です。元々はこの防備集落の領主がこの温泉町を自らのテリトリーとしていたようです。

このように、基本的には一番標高の高い、防御のできる地点に領主の砦があって、その下に住民が暮らしており、住民は領主に対して地代を払い、領主の裁判に服するわけですね。住民はまたこの集落を取り囲む城壁の維持管理や防備の任務も果たしました。

バーニョ・ヴィニョーニ東方にモンティキエッロという町があります。この集落は非常に規模が小さいですが、これも丘の上に城壁に囲まれて建っています。この門には白と黒の紋章がはめ込まれています。これはシエナの紋章ですね。ここは13世紀初頭に、都市国家であるシエナの支配下に入っています。紋章はシエナに従属する町の印です。門をくぐると、集落の中心に井戸つきの広場があります。高いところで暮らすには水が不可欠ですから、井戸が掘られています。これは城壁です。今は修復されていますが、1メートルくらいの幅があります。


以上、南トスカーナ内陸部の城塞集落をいくつか見てまいりましたけれども、今度は海岸部に目を移したいと思います。南トスカーナの海岸部はマレンマ地方と呼ばれ、グロッセートを中心都市とします。そのマレンマ地方の北の一角に、スカルリーノという城塞集落があります。この町では近年考古学調査の対象とされたこともあり、集落発展の歴史が再構成されています。そこでここでは、スカルリーノ村の定住史をご紹介したいと思います。

右上の写真は、丘の集落から海の方角を眺めた景色ですが、海上にエルバ島が見えます。かつてこの地域はエルバ島から産出される鉄の生産で栄えました。スカルリーノは海を見渡す戦略的な要衝としての役割を有していたのですね。山の中腹には今でも集落が広がっております。丘のもっとも高い地点に領主の館、そして城壁が残っています。

以下、シエナ大学の考古学調査隊による発掘調査の成果を紹介していくわけですが、スカルリーノ村は中世よりもっとはるか前から人が住んでいたことがわかっております。最初の定住の痕跡は青銅器時代に遡ります。「トスカーナ」という名称はご存知のように、エトルリア人の土地を意味する「トゥスキア」という言葉から派生しているのですが、エトルリア時代、この地域では都市や都市的集落を丘の上などに建設することが多かったのですね。スカルリーノでも当時の木造家屋や要塞の痕跡が確認されております。ここにはしばらく人が住んでいたようですが、ローマ時代に入るとこの定住地は放棄されたようです。ローマ時代には人々は基本的に平野で暮らすことになります。基本的な定住パターンは散居です。ところが7世紀、つまりローマ帝国はもはやなく、ヨーロッパの北方から移動してきたゲルマン人の一派ランゴバルド人がイタリア半島の3分の2程度を支配していた時期に、ここは定住地として復活しました。画像では中世初期のスカルリーノ村の想像図をお見せしていますが、藁葺きの屋根のある木造家屋や集落をおおう木の柵など、今のスカルリーノとは似ても似つかない姿をしています。このように、当時の集落が非常に簡素な構造をもっていたことが、発掘調査からわかっております。

ところが、スカルリーノ村は紀元1000年頃にその姿を大きく変貌させます。まずは、もっとも高い地点に立派な館が建てられます。さらに、木造の家屋が取り壊され、代わって石造の建物が建てられていきます。そして、集落を取り巻く城壁も、木の柵ではなくて、石を積んで取り囲むという、より堅固な防備施設に変わっていきます。当時の史料では、スカルリーノにかぎらず多くの定住地がこの頃から集落を「村」ではなく、「カストロ」などの用語で指示するようになります。こうした用語の変化も、紀元千年前後に定住地の構造が変動したことを教えてくれます。

11・12世紀のスカルリーノは、アルベルティという在地の有力領主が支配しておりました。この城塞は海を一望に臨む戦略の要衝であったという事情もあり、北方の海洋都市ピサが集落の掌握を狙う動きを示すようになります。なお11・12世紀にはイタリア北中部のあちこちで自治都市が国家的な組織として台頭してきますが、ピサもそのひとつです。こうして、在地領主とピサ、そしてこの地方の司教がスカルリーノの支配権をめぐって抗争を繰り広げることになります。

13世紀になると、都市国家として繁栄の極みにあるピサが、ここで支配権を確立しました。その頃には、もっと立派な砦が作られます。丸い円形の塔の付属する館がピサの守備隊の駐屯地として使われていくことになっていきます。

さらに14世紀になると、スカルリーノ村には五角形の天守閣ともいうべき本格的な城が建設されます。人口が増加し、家屋が増えたこともあり、城壁が拡張されます。こうしたことからも、集落が発展している様子がわかります。右下の平面図は中世後期におけるこの集落の定住構造を描いたものですが、ピサ部隊の駐屯する軍事的区画と一般住民の居住区画とがはっきり区分されていることがわかります。

スカルリーノ村の場合は、中世初期にすでに存在していた定住地ですが、11世紀、12世紀ごろに家屋が木造から石造りに変わり、城壁もより堅固になるなど、定住のあり方に大きな変動が生じています。これとは異なり、10世紀から12世紀に山の上などに新たに城塞集落が形成される場合も多々見られます。どちらのタイプにせよ、トスカーナ地方では当時、今日確認されるだけで2400の城が建設されています。航空写真からは、トスカーナで3600もの城が中世に存在していたことがわかります。もっとも、城といっても、すべてが城塞集落というわけではなくて、領主のみの居住する砦や緊急時の避難所としての役割を果たした砦もあったわけですが、この時期に多数の農民が一緒に暮らす集落が成立したのは間違いありません。とりわけ、10世紀から12世紀にかけて、今から1000年ほど前に一気にこの種の集落があちこちに建設されていくことになります。


それでは、なぜ集落が作られたのでしょうか。これまで歴史家によって主張されてきた城塞集落建設の動機は、3つ上げることができます。第一は伝統な見解ですが、それは具時的役割に集落形成の意義を認める見方です。イタリア半島では9世紀末頃から10世紀にかけて、南からはイスラム教徒が地中海沿岸のあちこちに拠点を持ち、襲撃を繰り返すようになります。さらに、北方からは遊牧騎馬民族マジャール人が馬に乗ってきて、略奪遠征を繰り返すようになります。こうした異民族の襲撃に対して身を守るため要塞が造られたというのが、かつて主流を占めていた見方です。確かに城壁や塔、門などの建造物は、集落が軍事施設の役割を果たしていたことを雄弁に物語っています。

しかしながら、研究が進むにつれて、城塞集落形成の契機がもっと別のところにあるのではないかという見方が有力となってきました[研究史上の画期となったのが、1973年に刊行された歴史家ピエール・トゥベールの大著『中世ラティウム地方の諸構造』です]。近年の研究者たちによって打ち出された見解は主として2つありますが、そのひとつは農村開発という経済的な理由です。たとえば、先に引用したモリーゼ州のサン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ修道院の建設した城塞集落の多くは、農村開発を主な目的としておりました。ヴォルトゥルノ川の水源近くにあるこの修道院は、カロリング王権の梃入れもあって9世紀には非常に栄えていたのですが、881年にイスラム教徒の襲撃によって修道院が破壊され、修道士たちも散り散りに逃げざるをえませんでした。その後、約1世紀を経た10世紀の末に、比較的肥沃ではあるが人口の希薄な修道院近隣地域を開発しようということで、修道士たちが人々を集めて、集落建設を働きかけました。この写真はヴォルトゥルノ川沿いにある城塞集落チェッロ・アル・ヴォルトゥルノです。岩盤の上に聳える堅固な砦が印象的ですが、この定住地もまたこうして建設されたカストルムのひとつです。

城塞集落建設のもうひとつの動機は、領主支配を実現するためというものです。この点をよりよく理解していただくため、中世初期イタリアの歴史を少し振り返ってみましょう。476年に西ローマ帝国が消滅して以降、ヨーロッパは野蛮人の支配する暗黒の中世を迎えたとかつては考えられておりましたが、近年ではこの見方はとられておりません。イタリアに話を限定しますと、東ゴート人が5世紀末に、そしてランゴバルド人が6世紀末というふうに、ゲルマン部族国家が半島に相次いで建設されました。さらに8世紀末の774年にはこれまたゲルマン系フランク人のカール大帝がランゴバルド王国を征服して、カロリング帝国を建設しています。これらゲルマン系の国家は、かつては国家というにふさわしくない未開な王国であったと考えられていたのですが、実はそうではない。ローマ的な制度や文化を簡素化しつつもかなり継承しているのですね。今日では、ゲルマン人が北方の森からやって来て、ローマ帝国の高度で洗練された文化を破壊して、野蛮な中世をもたらしたというようなイメージは完全に否定されています。

ここで強調したいのは、9世紀くらいまでは、ローマ時代以来の伝統といってもいいかもしれませんが、国家というか公的なものがかなり残っていたという点です。ところが、イタリアでカロリング王家の断絶する9世紀末頃から、だんだん状況が変わってきます。国家がうまく機能しなくなってくるのです。9世紀までは、一般の自由人男性は、国王の軍隊召集を受けて出征するのが普通であったわけですが、それがだんだんうまくいかなくなってきます。古いシステムが崩れていく中で、異民族の襲撃が激化します。もはや国王は異民族の襲撃に関して十分に対応できないという状況において、なお一層異民族の襲撃が激化してくる。悪循環です。

そうした中で、10世紀に新しい社会勢力が台頭してきます。農村領主層といわれる地域の有力者が力をつけてくるのですね。彼らはいわば荘園領主として領民を支配し、彼らから地代を取り立て、賦役労働を強制することによって経済的基盤を整えつつ、武装する家臣団をかかえて、政治的、軍事的実力を高めていきます。荘園と家臣団を基盤として力を伸ばしてきた彼らは、あちこちに城を作っていく。それをよりどころにして、地域防衛を担いながら、その地域の支配者として国家にかわって君臨するのですね。中世社会は基本的に自由人と非自由人という2つの身分から構成されていたわけですが、このうち自由人は本来、国王やその代理人の主宰する公法廷で裁かれるのを原則としておりました。しかし領主は公的な権限である裁判権を私物化して領民に行使し、自らの法廷で裁くようになります。

ところで、住民があちこちバラバラに住んでいるよりも、1ヶ所に、城壁の中に住まわせるほうが、領主にとってはより効果的に保護することができると同時に、支配もしやすくなりますね。城主は住民に対して城壁の維持管理や防備の義務を課していくという形で、彼らを自らの支配下に組み込んでいくのです。領主はイニシアティブを発揮して、戦略的に重要な拠点などに城を建設し、そこに近隣農民を集住させていく。そして領主が城主として、城をとりまく領域を一円的に支配していくという、そういった状況が、10世紀か11世紀くらいから加速度的にイタリアの中部や北部では広がっていくことになります。今日まで残る城塞集落の多くは、このような形で建設されています。


ここで、北イタリアのヴェローナ地方はノガラ村の事例について、伝来史料を読みながら城塞集落建設の背景を考えてみたいと思います。10世紀の初頭、王ベレンガリオ1世がイタリア王国の王位をめぐって、国王を僭称する別の人物と争っていたのですが、自らへの支持を取り付けるために、彼はあちこちの修道院や教会、有力貴族に特権を乱発します。こうして発せられた特権のひとつが、築城権です。城塞を建設する権限は本来、国王あるいは国王代官にしか認められていませんでしたが、ベレンガリオは地域の有力者にこの権利を惜しげもなく与えてしまうのです。

この文書は906年、ベレンガリオがヴェローナ教会の助祭に発給した特権状ですが、そこでは「カストルムを建設し、その城塞を見張り塔、防備用の狭間で固めることを認める」という文言にあるように、築城権を賦与しています。王はさまざまな経済的権益も賦与しています。すなわち、市場開設権のほか、「流通税、繋船税、賦課、その他あらゆる種類の貢祖と強制権」など、本来国王に属するさまざまな権限をヴェローナ教会助祭に与えているのです。

こうした特権賦与の背景には、マジャール人の襲撃に備えた防衛の拠点としての城が必要だということもあったのですが、先にも述べたように、ベレンガリオが支持者を得たいがために、特権賦与を乱発したという事情があるのですね。その中で、このヴェローナ教会はノガラという城を作って、更に、経済的な権益まで得ることに成功します。

特権状の発布から14年後の920年、今度はノガラに移住してきた住民25人とこの集落の領主が借地契約を取り結んでいます。このときまでに、領主はヴェローナ教会からノナントラ修道院に替わっておりますが。この借地契約文書によると、ノガラ住民はすでに居住している集落内の家屋と屋敷地にかかわる借地権の期限を延長するよう請願するとともに、城塞の維持管理や警備といった諸義務の履行を領主たる修道院長に約束しています。すでに述べたように、これらの義務は本来、国家に対する義務であったわけですが、ここでは城の領主に対する義務とされています。

この文書の後半におもしろい箇所があります。引用しますと、「我々には異教徒への恐怖のゆえに、別の場所で薪を集める勇気がない」ため、修道院領内の森林で薪を集める権利を認めるようにと住民が修道院長に請願し、この権利が認められています。この時代にはまだマジャール人が突然押し寄せてくる可能性があったため、修道院の保護下にあるより安全な森で薪を取らせてほしいというのですが、これを反対の立場から見ると、修道院長は住民の恐怖を逆手にとって、さまざまな義務を住民に課していくとも読めます。たとえば、城壁の維持管理や貨幣納の貢祖、そういったものを住民が徐々に領主に対して負っていくことになるのです。

領主が城を作ったのは、そこに人を集めて保護するだけではない。保護は支配と表裏一体の関係にあります。保護を提供するから、城壁の維持管理その他の義務を果たしなさいというわけです。領主裁判権を含め、一円的な領主支配権を構築していく上で、城塞集落は有効な手段として利用されていきます。


さて、いったん城塞集落が建設されると、定住形態が再編されるだけではなく、城壁の外に広がる農業空間も再編成されていきます。どういうことかといいますと、同心円状に広がる空間の中心に集落があります。そこに農民が住んでいるのですね。ですから、彼らは仕事に行くために、毎日城壁の門を出て、自分の畑まで歩いて行かなければならない。また帰りは坂を上って、城壁内の家に戻ってくると。この繰り返しですね。

ところが、農民の保有する土地は一ヵ所に集中しているわけではありません。野菜畑、ブドウ畑、穀物畑、それから放牧地があちこちに分散しており、家から何キロも離れた場所に穀物畑があるということもよくあるわけです。いずれにしても、理念的には集落からもっとも近いところには菜園があり、集約的な栽培が行われている。畑に水をやったり、雑草を抜いたりなど菜園は非常に手間のかかる畑ですが、そのような畑を家のすぐ近くに置くのですね。

菜園の外側には、だんだんと手間のかからないような耕地、非耕地を配置していきます。まずブドウ畑やオリーブ畑。その外側に、小麦などの穀物畑です。当時は小麦などの穀物はかなり粗放的に栽培されていました。もちろん雑草などは抜いたでしょうが。一番外側には、天然の牧草地や森が配置されます。そこで農民は豚などの家畜を放牧したり、栗の木を植えて栽培したり、薪などの生活物資を調達する場所として利用します。これは10年ほど前に私が撮った写真ですが、森といっても豚はこういった疎林でドングリを食べて太ります。そしてクリスマスの前に農民が豚を屠殺して、クリスマスには新鮮な肉を食べて過ごしますが、その後の1年間は豚肉を塩漬けにして保存食とします。豚は中世農民の典型的な食糧であったわけです。

なお、イタリアでは土壌の質が地域ごとにかなり多様であるため、適地適作という意味で耕地がモザイク状に配置されます。個々の農民が個々の土地を保有しているという、中世イタリア農民のもつ個人主義的な特徴もまた、ブドウ畑、小麦畑、オリーブ畑のモザイク状配置という景観を作り出します。


先ほど各地域に台頭した領主層が城を中心にして、一定の空間の支配者としてのし上がり、領民を支配するという話をいたしましたが、実は12世紀後半頃から状況が変わってきます。どういうことかというと、フィレンツェやシエナといった都市コムーネが市域を越えて、勢力を伸ばしていきます。都市が周辺の農村部、すなわちコンタードに点在する城塞集落を征服し、自らの領土に組み込んでいくという現象が起こってくるのです。コンタードなる用語は、フランク時代の国王代官である伯の統括管区(コミタートゥス)に由来しますが、都市はかつての管轄区域内にある城塞集落を征服する事業に着手するのです。

この写真はアルチドッソの門です。アルチドッソは1331年シエナに降伏し、その後、門にシエナの紋章がはめ込まれました。この門をくぐる人はすべてこの町がシエナの支配下にあることがわかる仕組みになっています。

この写真はモンテマッシの町ですが、これは先にお見せしたシモーネ・マルティーニの絵に描かれた集落であるとされています。元々ここは先ほど話に出たアルドブランデスキ家の拠点のひとつでしたが、傭兵隊長グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ率いるシエナの軍隊が、この城塞集落を軍事占領することに成功します。シエナ政府はこの偉業を記念して、わざわざ市庁舎内の壁に描かせたのです。


ここまで、領主のイニシアティブによって建設された城塞集落を扱ってきましたが、12世紀後半頃から新しいタイプの城塞集落が登場することになります。それは、幾何学的なプランをもつ集落です。それまでは地形にあわせて集落が建設されたため、集落が非常に不規則な形状をしていました。これに対して、新たな集落の形態は非常にシンメトリカルです。たとえば、ヴィチェンツァ近郊に1220年に建設されたチッタデッラという集落は、円形の形状をしています。チッタデッラのそばには、カステルフランコ・ヴェネトという、1195年に建設された方形の集落があります。こうして12・13世紀になると、ヴィラノーヴァ、ボルゴヌオーヴォ、カステルフランコ、つまり「新しい集落」、「新しい城砦」、「自由な城」とか、そういった名前のついた集落が、イタリア半島のあちこちに計画的に作られていきます。

それでは、なぜこの時期に計画的なプランをもつ集落が建設されたのでしょうか。主な理由は2つあります。1つは経済開発です。都市当局は住民に対して安い価格で食糧を供給しなければならないという任務を負っていたのですが、13世紀頃イタリアでは都市人口が急激に増加します。市民が空腹になると、いつ暴動を起こすかわからないわけですから、食糧需要が非常に高まっていた中で、都市周辺の農村を開発して食糧を増産しようという動きが現れます。計画的な集落の建設はそうした政策の一環でした。

もうひとつは、辺境のコントロールです。たえば、チッタデッラとカステルフランコは、ヴィチェンツァとパドヴァという2つの都市国家の境界地点に、それぞれにらみ合う形で作られています。辺境を固めてその地域の統治を確固たるものとするとともに、戦略的な要衝を固めることを目的として、都市政府や司教は計画的なプランを持つ集落をあちこちに作っていきます。

これの写真はモンテリッジョーニです。1210年代にシエナが北方に建設した城塞集落です。シエナは、今でもそうですが、歴史的にフィレンツェと非常に仲が悪い。シエナのサッカーチームとフィレンツェのチームが試合をすると、これはもうかなりみんな興奮して非常に熱くなります。シエナの人々に根付いたフィレンツェに対する強固なライバル意識は、過去の歴史にその発端があります。シエナと教会を接するフィレンツェは12世紀以降勢いを増し、領土を拡張していきますが、13世紀初頭にはシエナとフィレンツェの軍事的緊張が著しく高まります。そのときにシエナが、いわばフィレンツェ領の境界の近くに、戦略的要衝としてモンテリッジョーニを建設します。モンテリッジョーニはほぼ円形の形をしていますが、やや楕円形で、14本の塔が並んでいます。フィレンツェに対する防御を固めるとともに、辺境をコントロールするという目的を持って、シエナの都市がこの集落を建設したのです。この集落は、ダンテが『神曲』の地獄篇で取り上げているほど有名です。ダンテはフィレンツェ出身ですが、そのダンテに対してもモンテリッジョーニは非常に強い印象を与えたのですね。

以上、紀元1000年前後に領主がイニシアティブを握って建設した不定形な城塞集落とは全く別タイプの城塞集落が、今度は都市等によって計画的に作られていくことになっていくという例です。


すでに述べましたが、都市はコンタードと呼ばれる周辺の農村を徐々に征服し、自分の領土に組み込んでいきました。それは軍事的征服の場合もあれば、城塞集落の領主と協定を結ぶかたちで支配下に入れる場合もありました。さらには、都市が協定を結ぶ相手が城主ではなく、集落住民である場合もあります。

こうして、13・14世紀のイタリアは都市国家全盛の時代を迎えるわけですけれども、11世紀から13世紀にかけて、ジェノヴァやボローニャなど、イタリアの中世都市、とりわけイタリア中部の都市は、今以上にたくさんの塔が建っていました。サンジミニャーノの塔はとくに有名で、現在でも市内に14本の塔が残っております。それに引き換え、現在のシエナは司教座教会の鐘楼と市庁舎のマンジャの塔の2本以外に目立った塔はありませんが、実は13・14世紀頃には何十本もの塔が建っていました。それは当時のシエナを描いた絵を見れば一目瞭然です。ですから、塔の林立するサンジミニャーノの姿が中世イタリア都市の典型的な姿ということができます。サンジミニャーノすら今は14本しかありませんが、中世の最も多いときには72本あったと言われています。したがって、中世の城塞集落があちこちで作られていた時期とほぼ同時に、都市では堅固な城壁が作られ、かつ、夥しい数の塔が建てられています。この塔の特徴は、窓がほとんどない非常に無骨な建物である点にあります。

塔は都市と農村とのつながりを表しています。11、12世紀頃に都市が急速に発展を開始したとき、農村から領主層の一部が一族郎党を引き連れて都市に移住するという動きが見られます。都市が強制的に彼らを移住させるという場合もあります。都市人口が増えていくと、有力者間で様々な対立が生じてくるのですが、さらに領主層の移住にともない、農村の有力門閥間の対立、抗争が都市の中に持ち込まれます。彼らは市内の一街区を自分の縄張りとし、塔を建てて党派抗争を展開します。塔を中心として市街戦を繰り広げるわけですね。

 後に、自治都市が発展してくると、徐々に都市条例などで塔建築が規制され、とり壊されていきます。その結果、今日ではほとんど塔のない都市が多いのですが、わずかに残る塔は都市と農村が中世において密接に結びついていたことの証です。農村領主は城塞集落の砦を、都市の有力門閥は市内に塔を競って建てたのです。


本日は、農村の城塞集落についてお話しをしてまいりましたが、その大部分は今から1000年ほど前に形成されています。こうした城塞集落の建設は、領域支配をめざす領主によって推進されてきました。こうして、イタリアの中部、北部では、今日まで残る多くの集落が生まれました。

以上で私の話を終わりたいと思います。




司会  西村先生、すばらしいお話をありがとうございました。本当に自然の環境から始まって、紀元からずっと今日残された城塞都市というか、農村地帯にあるああいう城塞都市になるまでの間を、極めて理路整然と系統立ててご説明いただきまして、なにげなく我々イタリアへ行って、すばらしい風景だという印象はあるのですが、また今日のお話をお聞きして、いろいろ新たな興味がわいてくる思いがいたしました。たいへんありがとうございました。

まだ時間がございますので、この機会に先生に何かご質問おありの方、ぜひどうぞ。


質問  1つは、オルヴィエートという山の上にありますね。あれは都市コムーネ、城塞都市ですか。


西村  オルヴィエートは都市ですね。確かに都市も村落も、両方とも城壁を持っていて、規模の違いはあるかもしれませんが、一見するとあまり違いはないようにみえます。


質問  つまり、城塞都市と都市コムーネの差というのは何か、人口とか何かでどこかで線が引かれるというような、そういうことなのでしょうか。


西村  城塞集落は都市的集落であるとよく言われていますけれども、都市といえば基本的には司教座があって、城塞集落よりも人口が多く、複雑な社会構造をもち、商業活動や金融活動等も活発です。イタリアにおいては、オルヴィエートなども古くからの司教座都市であって、地域の宗教的統括者である司教の教会がある都市ですけれども、都市には国王代官も配置されていました。そうした代官が消滅した後、都市住民が自ら自治組織を立ち上げ、都市コムーネが成立します。とはいえ、確かに都市と村落としての城塞集落は必ずしもはっきりと区別することはできず、都市と村落の中間的な存在がたくさんあります。城塞集落といっても500人や1000人といった、当時の北ヨーロッパの基準では都市といっても差し支えないような場合もあります。判断は難しいのですが、基本的には城塞集落というのは、もともと人の居住していない場所や既存の村落を領主が城壁で取り囲んで、そこに住民を集めるという意味では、都市とは違う。今日、見てきた城塞集落は都市的な集落ではありますけれども、司教がいるような、あるいはその地域の拠点になるような都市ではないですね。宗教のみならず、行政的、政治的な意味においても都市と城塞集落はやはりはっきり区別されます。


質問  オルヴィエートで深い井戸を掘ったわけですが、他の城塞都市もみんな井戸がやはり当然あるのでしょうか。


西村  はい。


質問  何本もあるのですか。


西村  もちろん井戸はあったはずです。先ほど写真でお見せしたモンティキエッロの広場に1つ井戸がありましたが、基本的には集落は山の上、丘の上ですから、井戸を掘るか、麓に流れる川に水を求めています。やはり井戸は掘られていたはずですね。


質問  それから、塔のお話がありましたけれども、70本も塔を作る必要性というのはどういうことでしょうか?


西村  塔は、例えば都市当局が作ったというわけではありません。個々の有力門閥や有力市民、場合によっては、市民が何人かグループになって作るというようなことがあるのですが、必要というより、元々は軍事的な意味ですね。先ほど申し上げたように、イタリア中世都市の1つの特徴は、党派抗争が激しいという点にあります。その激しさは、村落内での党派抗争以上だったはずです。都市は非常に複雑な社会ですから、その中で彼らが塔をたくさん作って、市街戦で防備の要として使う。しかし、まもなく塔は社会的な地位のシンボルとしての意味をもつようにもなります。塔が高ければ高いほど、その人の社会的地位は高いという、非常に単純な理屈なのですが、有力家系が自分の地位の高さを示すために競って高い塔を作っていくのです。そうした競争原理も働いて、過剰なほどに多くの塔ができたのです。


質問  シチリアにもああいう都市がありますが、同じように考えていいのですか。


西村  今回は南イタリアの話はほとんど省きました。というのは、南イタリアは北、中部とは社会がかなり違うからです。歴史的にも南部ではノルマン人が来て、シチリア王国を建設した。そこで多かったのは、おそらくヨーロッパ北部について、いわば我々が持っているイメージの城、つまり、領主の館とその家臣たちがいるような、あるいは教会とかもあったと思いますが、そういったタイプの城が多かったと思います。シチリアにも確かにいくつか集落がありますけれども、ちょっとその点について私はまだ、完全に同じかどうか、おそらく同じようなものもあったかもしれませんが、お答えする準備がありません。申し訳ないですが。


質問  都市コムーネについてのお尋ねなのですが、先生が計画的プランを持つ、担い手は市政。つまり、今でいう都市を整備するために、公共事業みたいな形のものが、おそらく外から人を呼ぶこむためには、魅力的な土地作りをしないと。ならば、道路の整備とか、区画整備とかのためにお金が要ります。そのための例えば税制、そういったものはその当時かなり発展したのでしょうか。


西村  事業をするための資金をどうやって得たかということですか。基本的には13・14世紀くらいになってくると、都市政府が都市住民のみならず征服下に置いた農村住民からも自ら租税を徴収するようになってきます。臨時的に徴収する場合もあれば、恒常的な租税もありますが、そういった形でかなりの資金は調達できたとは思います。それから、地域住民を労働力として使役することも当然あったと思うのですね。イタリアでは13世紀、14世紀くらいから、都市財政の仕組みというのが徴税システムを含めて、かなり整備されてきております。


質問  その当時は、税というのは物納だったのですか。それとも、コムーネの中で通貨というものを発行して、それを使うようになっていたのでしょうか。


西村  12・13世紀くらいですと、例えばフィレンツェではフィオリーノ金貨や、ヴェネツィアでもドゥカート金貨など、主要な都市では通貨を発行しております。小規模な都市にはそこまでの財力はなかったので、ほかの都市の通貨を使っていたと思いますが。


質問  日本でいうと、昔からお城というのは戦争に使われて、いろいろ逸話が残っていますよね。イタリアの城を見ると、何か山の上にぼこっとあって、およそ戦争に使ったという感じはないようなのですが、イタリアでは実際どうなのでしょうか。


西村  今お話した集落としての城についても、領主間の、あるいは領主と都市コムーネ間の戦争は結構生じております。神聖ローマ皇帝の軍隊など、外部の勢力が侵入してきたりもします。ですから、12世紀、13世紀には戦争はあったのですね。そこでそういった城塞が使われていたかということですが、残されている文書から判断しますと、ある集落の住民と都市が協定を結んださいに、都市に緊急事態が発生した場合、その城塞を都市の軍隊が使うことを認めるといった内容の協定を結んでいたりします。さらに、そうした城塞がしばしば包囲され、占領されるということはかなり頻繁に起こっています。ただ戦争が恒常的にあったというわけではないのですが。やはり、とりわけ戦略的に重要な地点にある城塞は、何か緊急のさいには軍事的な行為の場になるということですね。


質問  今日のお話と少しはずれてしまうのかもしれませんが、例えばウンブリアのトーディにしても、トスカーナのモンテプルチャーノにしても、城壁の麓というか、すぐ近くのところに、わりと大きな教会がありますよね。その生活感覚として、ドゥオーモに継ぐ位置みたいな感じがあるので、とても城壁の外にあるのに大きな教会で、不思議な気がしたのですけれども、存在意義というか、それは城塞都市の歴史とかそういうものとはあまり関わりのないものなのでしょうか。


西村  トーディについてはちょっと存じ上げないのですが、今回城塞集落の外にある教会ということですか。


質問  そうです。本当に麓のところにぽつんとかなり大きな教会が建っていたりするケースがいくつもあると思うのです。


西村  適切な答えになるかわかりませんが、例えば、シエナの南にピエンツァという町がありますね。あれももともとは城塞集落であったのが、教皇がルネサンス都市に造り替えていますが、その麓にも確か教会があります。集落の麓にある教会というのは、中世初期以来、城塞集落が建設される前にすでにあった教区教会ですね。しかし城塞集落が建設されると城の中に教会が建てられます。すると住民が城壁内の教会に通い始めますから、麓の教会は使われなくなって、教区教会としての機能がだんだん失われていきます。ですから、すべてではないと思いますが、一部の教会は、元々はその地域の住人にとってのよりどころになる教会であったのですが、城ができ、城の中に教会ができて以後は、重要性が低下していきます。今でもいくつかこの種の古い教会が残っておりますけれども、もともとはこれらの教会は地域のなかでは非常に重要な役割を果たしていたのですね。


司会  もうそろそろ7時でございます。後お一方だけどなたか。それでは私からよろしいですか。今そういう城塞集落に住んでおられる住民の人たちというのは、中世の頃からの人たちの子孫なのですか。


西村  ケース・バイ・ケースだと思います。友人がトスカーナのある城塞集落に住んでいますが、たとえば彼の場合、そこの集落の住民だった彼の祖父母がローマに引っ越しました。ところが彼はまた祖父母の故郷に戻ってきています。ですから、先祖代々その集落に住んでいる、あるいは最近その子孫が戻ってきたという例も多々あります。ただ、最近ではどうやら、たとえばトスカーナでは、ドイツ人やアメリカ人などの外国人がかなり移住してきているという話はよく聞きます。


司会  西村先生どうもありがとうございました。