第346回 イタリア研究会 2009-02-20
イタリアの歌劇場と音楽史跡
報告者:トラベルライター 牧野 宣彦
司会 イタリア研究会例会を始めたいと思います。今晩実は橋都先生が、親友の奥様がお亡くなりになられて、お通夜に行かなくてはならないということで、急きょお休みになられましたので、私猪瀬ですけど、司会をやらせていただきます。
今回は、トラベルライターで、イタリア研究会の会員でもいらっしゃいます牧野宣彦先生にご講演をお願いしております。演題は「イタリアの歌劇場と音楽史跡」でございます。
牧野先生、簡単にご紹介させていただきます。1945年のお生まれで、早稲田大学文学部独文科をご卒業後、約3年間、イスラエル、あるいは英国などヨーロッパをあちこち旅をなさったそうです。その後旅行会社でお勤めになられて、1974年に日本ではじめてのウィーンのニューイヤーコンサート、あるいはスカラ座へのオペラツアーを企画されたそうです。この旅行会社に10年間ご勤務ののちに、コンピュータの会社を経営されて、1998年からイタリアにお住まいになっておられます。シエナのイタリア料理学校で、イタリア料理を学ばれ、また同じくシエナのレストランで修業もされたそうです。イタリアに関する音楽、グルメ、世界遺産、旅行などの執筆、写真撮影をなさっておられます。
ご著書に、「イタリア-歴史的ホテル・レストラン・カフェ」、あるいは「イタリアオペラ・ツアー」「ゲーテ「イタリア旅行」を旅する」「音楽と美術の旅、イタリア」「イタリアの歌劇場」などがございます。
本日、受付のデスクのところにこのご著書のうちの「ゲーテ イタリア紀行」と「イタリアの歌劇場」というのが置いてありますので、ご興味ある方はご覧ください。販売をいたしております。
それでは、牧野先生、よろしくお願いします。
牧野 それでは、本来ですと、北から南へとやっていくのですが、今日は南から北の方へやっていきます。
パレルモはシチリア第一の都市で、古くから文化の交差点でした。この写真はゲーテが世界で一番美しいと称賛したモンテピレグリノ山から見たパレルモ湾です。
パレルモを舞台としたオペラと言えば、ワーグナーの「恋愛禁制」とか、マイアーベーアの「悪魔のロベール」などがありますが、もっとも有名なのが、ヴェルディが1855年に作曲した、同じ年にパリで上演された「シチリアの夕べの祈り」があります。
このオペラは、1282年に実際に起きたシチリアの晩鐘事件を参考にしてヴェルディが作曲した曲で、1282年の復活祭の月曜日、フランス人の一団がサンスピリット教会の前で、若いパレルモの女性に乱暴を働いた、これを機に、当時フランス政府の圧政に苦しんでいたパレルモの人たちが一斉に蜂起しまして、約2000名のフランス人が一夜で虐殺され、その暴動はシチリア全土に広がっていきました。その事件が起こったのが、この今写真のサンスピリット教会です。この教会は、1178年にノルマンの時代に建設されました。
パレルモのテアトロ・マッシモです。1875年に公募で優勝したジョバンニ・バッティスタ・バジーレによって建設が始まりました。その後建設が遅れ、完成したのは1897年。バッティスタの息子のエルネスト・バジーレが完成させました。父のバッティスタは、1891年に亡くなりました。
この時、開場したときに上演されたオペラが、ヴェルディ最後の作品である「ファルスタッフ」で、ムニョーネの指揮でこけら落としが行われました。この時、20世紀イタリアの生んだ最大のテノールと言われるエンリコ・カルーゾがこのオペラに出演していました。
テアトロ・マッシモ。現在座席数は3200席ありまして、総敷地面積は7730平方メートル。舞台は1212平方メートル。五層のパルコがあり、イタリア最大の規模を誇っています。スカラ座が座席数2300、ナポリのサン・カルロが2500ですから、この劇場がイタリアで1番大きいということができます。
私がこの劇場で初めてオペラを見たのは2000年の3月で、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」が最初でした。その後、ヴェルディの「群盗」、2006年には「ノルマ」を見に行きました。私はこの時、15名の人々とテオドッシュウとバルチェローナの共演する「ノルマ」を見に行きましたが、オーケストラのストで、初日だけピアノ伴奏で「ノルマ」は上演されましたが、その後、3回同じ公演を見る予定でしたが、後は全部キャンセルになりました。
これはその時の「ノルマ」の最後の舞台です。
グランド・ホテル・エ・デ・パルメ、1874年創業のホテルで、このホテルは、テアトロ・マッシモを建設したバッティスタ・バジーレが、アールヌーボー調で建設しました。1881年にリヒャルト・ワーグナーとその家族がこのホテルに滞在して、ワーグナーは「パルシファル」を完成し、クリスマスの日に妻のコジマにささげました。このロビーにあるのが、ワーグナーの胸像です。
カターニャ。カターニャのドゥオーモは、11世紀末にノルマンのルッジェーロ1世によって建設されました。1693年のシチリア島を襲った大地震で崩れ落ちましたが、その後、バッガリーニによって再建されました。
内部にある、これがベッリーニのお墓ですね。ベッリーニの遺体は、彼の死後41年後の1876年にここに移されました。
今映っているのは、ベッリーニの生まれた家です。ヴィンチェンツィオ・ベッリーニは、1801年にこの家で生まれました。現在この家はベッリーニ博物館になっています。
ベッリーニ博物館の内部。内部には、死亡証明書、ベッリーニのオペラのポスター、「清教徒」の自筆楽譜などが置いてあります。
彼は1835年に急性大腸炎で、パリの郊外で死にましたが、その死因については、謎につつまれていて、赤痢とも、コレラとも、梅毒とも言われています。ですから、その死亡診断書のような医者の鑑定書というのですかね、そういうものが、他の作曲家の博物館と比べて多かったのが印象的でした。
これは、ステシコロ広場にあるベッリーニの像です。
これは、脇に4つ、「海賊」と「ノルマ」と「清教徒」と「夢遊病の娘」などのベッリーニのオペラの主人公が彫られていますけども、これは最大傑作の「ノルマ」の像です。
エトニア通りを歩いていくと、ヴィラ・ベッリーニという公園があって、すごく緑に包まれたきれいなところがあります。そこにベッリーニの胸像があります。
これが、テアトロ・マッシモ・ベッリーニ。1890年に開場したテアトロ・マッシモ・ベッリーニは、イタリアでも有数の美しい劇場ですけども造ったのは、アンドレア・スカラがデザインして、カルロ・サーダという人が、パリのガルニエをモデルにして、劇場の基本設計をしました。
私が最初にこの劇場を訪れたのは、1979年の2月で、その時見たのは、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」でした。それ以来、2001年、ヴェルディの「マクベス」2002年「トスカ」、この時は最後までチケットが取れないで、演目の開始まで待っていたら、劇場の人が突然パルコの1つを開放してくれて、ただで見させていただきました。で、2007年「ノルマ」2008年は「イル・トロヴァトーレ」などのオペラをこの劇場で見ました。
天井には、エルネスト・ベルランディが、ベッリーニのオペラ「ノルマ」「清教徒」[夢遊病の娘」などのオペラの絵を描いた、中央に「ベッリーニの昇天」が描かれています。
カターニャには、オペラの歴史のもう1人重要な人物がいて、それがマスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の原作を書いたジョバンニ・ヴェルガで、これがカターニャの市内にある彼の住まいです。
これはパスタノルマ、シチリアの名物料理ノルマで、トマトソースに揚げ茄子、その上にリコッタチーズをかけたものです。いろいろな説がありますけども、カターニャの人にとっては、「ノルマ」はベッリーニが作曲した最高のオペラで、ノルマは最高を意味する言葉です。20世紀初頭、カターニャ生まれの演劇人アンドレ・ムスコとニーノ・マルトーリオが食事をした時に、ムスコの姪がトマトソースのパスタに揚げ茄子を乗せ、リコッタチーズをかけたパスタを出しました。これを味わったマルトーリオは、「このパスタはノルマ級の味だ」と絶賛しました。
「ノルマ」はイタリアオペラ史上最大傑作の1つで、その歌唱は、アジリタの技法を身に着けたマリア・カラスのような名歌手でないと上手に歌えない。だから、カターニャの人は、ノルマ級のパスタというとき、そこには最高のべニッシモという意味が込められています。
私は2006年のノルマツアーのとき、パレルモで「ノルマ」に出演したテオドッシュウと参加者全員でノルマを一緒に食べたことがあります。おいしくてテオドッシュウもおかわりしました。
ナポリ。1787年2月にナポリを訪れたゲーテは、ナポリの景色を見て、「人々が何と言おうが、語ろうが、絵に描こうが、ここの景色はすべてを超えている」と絶賛しました。
カステル・ヌォーボ。1279年、アンジュー家のカルロ1世により建設がはじまり、その後ナポリの政治の中枢が置かれていました。現在市立美術館になっています。昔あった城と区別するためにヌォーボ、カステル・ヌォーボというふうに呼ばれています。
ピエロ・ディ・グロッタ修道院。この修道院は、同名の音楽祭で知られています。この音楽祭は、1774年にカルロ7世が、オーストリア軍をローマ南部のアルバーノの丘で破ったことに起源を持つと言われています。この音楽祭、ディ・カプアの「オーソレ・ミオ」デンツァの「フニクリ・フニクラ」などの有名な作品が生まれています。
サン・ジョバンニ・ア・カルボナーラ教会。1770年5月14日にナポリに到着したモーツァルト父子は、この教会の付属施設に2泊宿泊しました。モーツァルト父子はナポリに42日間滞在し、ナポリ派のオペラを見たり、カゼルタ、ポッツォーリ、ヴェスヴィオ、ポンペイなど、ナポリとナポリ近郊をほとんど訪れました。
サンタ・ルチアの記念碑。この近くでコットラウが「サンタ・ルチア」を作曲し、マリオが「遥かなるサンタ・ルチア」を作曲しました。この近くにパバロッティ、ジーリ、スキーパなどが訪れた1919年創業のレストラン「ベルサリエーラ」があります。
1882年創業の5つ星ホテル「ヴェスビオ」のロビー。1921年にカルーゾがこのホテルで48歳の生涯を閉じています。マリア・カラスがこのホテルに泊まった時は、いつもファンから贈られた赤いバラの花束で部屋があふれていたと言われています。
1894年7月に開催されたナポリサミットでは、当時のアメリカの大統領クリントン、フランスのミッテラン、ドイツのコール首相、日本の村山首相らが宿泊しました。この時、村山首相が魚介料理を食べすぎて、中川大臣ではないですが、粗相したと言われています。日本の首相や閣僚にとっては、イタリアはなんか鬼門なのかもしれません。
カルーゾの住んでいた部屋です。現在はスイートルームになっています。彼の弾いたピアノなどが展示されています。窓からはカステル・ヌォーボとナポリ湾の景観が見えます。
これはナポリの音楽院です。ナポリは世界オペラの中心になって、その時に活躍したのが、ベルゴレージとか、チマローザ、フェーオ、ポルポラ、ヴィンチ、スカルラッティ、タイジェッロ、ヨメッリなどで、これらの人々を輩出したのが、ナポリの音楽院で、ベッリーニやトスティや、指揮者のムーティなどもこの音楽院の出身です。
サン・カルロ劇場です。ナポリのオペラの黄金時代は、今話したような人たちが支えましたけども、彼らの活躍の場が、1737年に建設されたテアトロ・サン・カルロ。イタリア三大劇場の1つで、ブルボン家のナポリ王カルロ3世の命を受け、建築のジョヴァンニ・メトラーノが完成しました。
ロッシーニの「湖上の美人」1819年、ドニゼッティの最大傑作「ランメルモールのルチア」1835年、ヴェルディの「ルイザ・ミラー」1849年などが初演されました。1816年に火事にあうのですが、すぐ再建されて、その再開場を見ていたスタンダールは、ジュゼッペ・カンマラーノが描いた天井画を見て、オリエンタルの宮殿に来たかと思ったとその様子を書いています。
これは、ガンブリヌスですね。1860年に創業されたカフェで、ダヌンツォやムローロ、ジャコモなどが来た歴史的カフェです。エルネスト・デ・クルティスはここで「夜の声」という曲を書きました。ナポリの多くのカンツォーネがこのカフェで作曲されました。
これは、システィナ礼拝堂なのですが、モーツァルトがバチカンに来て、門外不出と言われたグレゴリオ・アレグリの「ミゼレーレ」を聞いたのは、1770年4月でした。その時彼はこれを1度聞いて、宿でこの楽譜を完璧にコピーしたと言われています。これはモーツァルトの天才を示す当時として語り継がれていますが、そのアレグリの「ミゼレーレ」が演奏されたのが、このシスティナ礼拝堂です。
ローマ歌劇場。1877年にドメニコ・コスタンツィがアキーレ・スフォンドリーニに建設を依頼し、1880年にロッシーニの「セミラーミデ」で開場しました。その後、マスカーニの最高傑作「カヴァレリア・ルスティカーナ」が1890年、プッチーニの「トスカ」が1903年に初演されました。
私がこの劇場をはじめて訪れたのは1976年1月ですね。その時見たのは、ザンドナーイの「フランチェスカ・ダ・リミニ」というオペラです。それ以来、10度くらい訪れています。1992年にデヴィアの出演した「ルチア」、そのあと、「ノルマ」「ドン・カルロ」「エジプトのモーゼ」など、最近では、昨年の1月、ゼッフィレッリ演出の「トスカ」を見ました。
これは、2006年の春に見たマリア・スチュアルダの舞台です。
テアトロ・ヴァッレ。現在はオペラの上演はないですが、過去には1817年にロッシーニの「チェネレントラ」などが上演されました。
アルジェンティーナ劇場。1732年開場で、1816年にロッシーニの最大傑作「セビリアの理髪師」が上演されましたが、野次られて歴史的な失敗に終わり、ロッシーニは生涯で1度、自分のオペラの上演後、涙を流したと言われています。また、1844年には、ヴェルディの「2人のフォスカリ」などが初演されました。内部には、1918年から1944年頃の写真、レコードなどの博物館があります。
夏には、古代ローマのカラカラ浴場跡で野外のオペラ公演があります。これは2006年に見た「トゥーランドット」の舞台です。個人的にはカラカラはあまり好きではないです。なぜかというと、マイクを使ってオペラの上演をするので。
カンピドーリオ広場に建つリエンツォの像。彼はワーグナーのローマを舞台としたオペラ「リエンツィ」の主人公で、14世紀中ごろ、貴族の横暴から民衆を守ろうとした護民官です。
ローマを舞台としたオペラには、ドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」、後、フォロロマーノを舞台としたモーツァルトの「ティートの慈悲」、スポンティーニの「La vestale」なんていうオペラがありますけども、最大傑作は、プッチーニの「トスカ」。
「トスカ」の舞台となった場所は、すべてローマ市内に残ってます。これが第1幕の舞台となったサンタンドレア・ヴァッレ教会です。
オペラでは冒頭、脱獄囚のアンジェロッティが逃げ込んできて、この絵が通称トスカの絵と言われている絵で、教会に入ると、左側廊にあります。オペラの第1幕では、カヴァラドッシが「妙なる調和」、スカルピアが「行けトスカ」を歌います。
オペラ「トスカ」の第2幕は、ファルネーゼ宮殿、現在フランス大使館になっているので、内部は見学できませんが、ボローニャ派の画家カラッチの描いた美しい壁画がある部屋があります。またオペラでは、ここでトスカが名曲「歌に生き、愛に生き」を歌い、貞操を要求されたトスカは、操を守るためにスカルピアに、これがトスカの接吻よと叫び、短剣でスカルピアの胸を突き刺します。
オペラ「トスカ」の第3幕。舞台は西暦123年頃、ハドリアヌス帝が建設したと言われるサンタンジェロ城に移ります。死刑囚になったトスカの恋人カヴァラドッシが、衛兵に連れられてきます。カヴァラドッシは昔を回想して、テノールの中の最も美しいアリア「星はきらめき」を歌います。本来の約束ですと、カヴァラドッシは偽の銃殺刑で助かるのですが、鉄砲には実弾が込められていて、銃殺されます。絶望したトスカは、城から飛び降りて自殺します。そしてオペラは終幕になります。
アポロ劇場跡。サンタンジェロ城の反対側のテベレ川のほとりに、テアトロアポロの劇場跡を示す石碑が建っています。1888年にテベレ川改修工事のために劇場は閉鎖されましたが、この劇場でヴェルディの傑作の「イル・トロヴァトーレ」が1853年に、「仮面舞踏会」が1859年に上演されました。記念碑にはこれらのオペラの初演演目とともに、天才ヴェルディは太陽のようなアリアで人の心を歌ったと書かれています。
キエティ。アドリア海沿岸のぺスカーラから14キロくらいの位置にあるキエティは、人口5万6千人くらいの小さな町ですが、旧市街には由緒ある建物が建て並んでいます。
テアトロマルチーノ。建築家のエウジニオ・ミキッテッリが建設し、1818年1月に開場しました。私が訪れたのは、2006年の4月でした。小さい劇場でしたが、とても内装などが美しい劇場で、上演されたオペラ「メフィストーフェレ」はとても美しい舞台でした。
一番驚いたのは、この小さい劇場に専属のオーケストラ、合唱団などがあったことです。裕福なエミリアロマーニャ地方の劇場でも、パルマやボローニャの劇場以外は、よそからオーケストラや合唱団などを呼んできて公演するのに、自分のオーケストラを持っているこの劇場には驚きました。今年の2月には、日本人指揮者の吉田裕史さんという方の指揮で、「トゥーランドット」が上演されました。
これはその時見た「メフィストーフェレ」の舞台。美しい衣装が印象的で、昨年もパレルモで「メフィストーフェレ」は見たのですが、アメリカのラスベガスみたいな舞台でしたので、こちらの方がよほどきれいでした。
オルビエート。オルビエートの大聖堂は13世紀末に建設されました。シエナのドゥオーモと同じゴシック様式の大聖堂です。
このオルビエートに美しい宝石のような劇場があって、劇場の名前はテアトロ・マンチネッリ。1886年にドニゼッティの「ファヴォリータ」で開場しました。劇場の名前になったマンチネッリは、オルビエート出身の指揮者、作曲家の兄弟がいて、1人はボローニャのテアトロ・コムナーレの指揮者で、19世紀から20世紀にかけて活躍しました。
私は、2003年9月にこの劇場を訪れたことがあります。日本人のテノール村上敏明さんがその劇場で、「リゴレット」のマントヴァ侯爵を歌ってデビューするというので行ってみましたが、劇場の天井画がすごく美しいのが印象的でした。
ウンブリア州のトーディとペルージャの中間に位置するモンテ・カステロ・ディ・ヴィビオという町がありまして、ここは標高422メートル、それで、小さな村ですけども、ここに地元の人が誇っている、世界で1番小さい劇場と言われているテアトロ・コンコルディアがあります。
これがそのテアトロ・コンコルディアの正面です。1808年に開場しました。週末ごとにコンサート、オペラ、プロザなどの上演があります。
座席数は99で、二層のパルコがあって、私が行ったときは、ペルゴレージの「奥様女中」が上演されていました。主役は日本女性が歌ってましたが、車がないと行くのがとても難しい劇場でした。オペラ終了後はタクシーもなく、劇場関係者に頼み、その人の車でホテルまで送ってもらいました。
テアトリーノ・ヴェトリアーノ。ルッカから15キロくらい北のペスカリアにあって、ギネスブックに登録された世界で1番小さい劇場で、ガルファーニアの建築家ヴィジオ・ヴィアジオーニが1891年に建設を始めました。
総面積は70平方メートル。二層のパルコがあって、平土間65席、パルコは2、3階合わせて34席あります。トータルが99席。現在FAIという団体が管理しています。先ほど言ったテアトロ・コンコルディアも、座席数は99なのですが、こちらの方が面積的には小さいみたいです。私がここへ行ったときは、約束の時間を1時間以上遅れて、この劇場の隣に住んでいた人が管理人と連絡を取ってくれて、見ることができました。劇場には歌手など出演者の休む楽屋、事務所などがあって、一通り劇場としての機能を備えています。
これはフィレンツェです。フィレンツェは、オペラの発祥地で、オペラは古代ギリシャ悲劇の音楽を伴奏に朗誦する劇で復活しようとしたのが始まりと言われています。史上はじめてのオペラの上演は1598年で、フィレンツェのコルシ邸、上演されたのはリヌッチー二の詩、ヤコポ・ペーリ作曲の牧歌劇「ダフネ」でしたが、楽譜が消失していて、現在建物は、今映っているのは、バンカ・インテーザ・サンパオロ銀行になっています。
現存するもっとも古いオペラは、作曲がヤコポ・ペーリ、ジュリオ・カッチーニ、台本がオッタヴィオ・リヌッチーニによる「エウリディーチェ」というオペラで、1600年、メディチ家のピッティ宮殿で上演されました。フィレンツェには当時文化サークル、カメラータがあって、ガリレオ・ガリレイの父親もその1人でした。これはピッティ宮殿です。
ポンテ・ヴェッキオ。フィレンツェで1番古い橋で、昔は生鮮食品の市場でした。プッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」では、ラウレッタが彼と結婚できなかったら、ヴェッキオ橋から身を投げて死にますと歌う場面があります。
フィレンツェのテアトロ・マッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーナ。フィレンツェ5月祭劇場は、1862年にテレマコ・ボナイウーティが計画し、建設しました。当初は野外劇場でしたが、1883年に屋根が取り付けられました。私がはじめてフィレンツェでオペラを見たのは、1977年、ロッシーニ作曲「ウィリアム・テル」で、指揮が当時フィレンツェのテアトロ・コムナーレの音楽監督だったリカルド・ムーティでした。オペラが終了したのは1時半で、朝5時には起きて、ピサからロンドンに行った思い出があります。それ以来この劇場では、1978年の春、「シチリアの晩鐘」、この時は、誘拐されたモーロ首相が暗殺されて、オペラの上演が延期になって、フィレンツェに1週間くらい滞在してそのオペラを見た記憶があります。その後、「イル・トロヴァトーレ」「ノルマ」「オテロ」[マダムバタフライ」「カヴァレリア・ルスティカーノ」など、約15本くらいのオペラを見ています。
テアトロ・コムナーレの内部です。すごく現代的な劇場です。見やすいのですが、すごく現代的です。
先ほど少し舞台が見えたと思うのですが、これは2007年1月に見たチャン・イーモウという人が演出した「トゥーランドット」の舞台です。中国風のすごい金ぴか趣味の典型的な舞台でした。日本でも上演されましたので、ご覧になった方もいるかと思います。
僕が昔、フィレンツェのテアトロ・コムナーレ、第4回目のツアーを企画したときは、
当時引退したマリオ・デル・モナコが来てました。それで、とにかくマリオ・デル・モナコが紹介されて、すごい拍手で、サインをもらった経験があります。そのサインは私の家の家宝だったのですが、友達にプレゼントしてしまいました。
「トゥーランドット」の舞台です。中国的なすごく金ぴか趣味の舞台でした。
これがペルゴラ劇場。1656年に宮廷歌劇場として開場したイタリアでもっとも古い劇場の1つです。1847年には、ヴェルディの「マクベス」の初演が行われました。また、イタリアで最初にウェーバーの「魔弾の射手」が上演された劇場です。
これはその内部なのですが、最近ではバロックオペラの公演などがこの劇場で行われています。私がはじめてこの劇場を訪れたのは2000年の5月で、この時はモンテヴェルディの「ポッペーアの戴冠」が上演されました。ルカ・ロンコーニの演出ですけど、すごく現代的な演出で、つまらなかったです。
これはフィレンツェのアルノ川のかなたにあるポッジオ・インペリアーレ・インスチュート・デッラ・サンティッシマ・アヌンツィアータ。現在は女性の寄宿する学校になっています。
これが、モーツァルトが来たことを記したプレートです。
モーツァルトが1770年7月2日にこのホールで演奏した。それゆえこの部屋は、サラ・モーツァルトと呼ばれています。モーツァルトはこの時、難しいフーガの問題を公爵閣下より提示されましたけども、まるでひとかけらのパンを食するように簡単に弾き飛ばして、皆を驚かせたという逸話があります。
モーツァルトがフィレンツェ滞在中に宿泊したホテルで、当時はデッラ・アクイラ、黒鷲亭というふうに言われていました。今現在はゴルドーニというホテル3つ星のホテルで、モーツァルトはフィレンツェに1週間滞在したのですが、ここに泊まりました。
これはその入り口。すごくなんというか古典的な感じがしますが、その入り口です。
フィレンツェを見たモーツァルトの父は、この町について、「フィレンツェ、人はここで生き、そして死ぬべきです」と書き送っています、彼の妻に。しかし、モーツァルトの時代はまだミケランジェロ広場というのは存在してなかったのですね。このミケランジェロ広場ができるのは、1869年のことです。おそらくモーツァルト父子は、サンミニャートあたりからフィレンツェの全景を見たかもしれません。
サンタクローチェ教会。フランシスコ会ではイタリア最大の教会で、アルノルフォ・カンビオが1294年に建設を始めました。現在ここにはミケランジェロ、マキャベリ、ロッシーニ、ガリレオ・ガリレイなどのお墓があります。
これはその中のロッシーニのお墓です。ロッシーニは1868年パリで亡くなりましたが、最初彼の遺体はパリのペール・ラシェーズのお墓に葬られましたが、1887年にフィレンツェに移されました。
ルッカ。城壁に囲まれたルッカは、中世の雰囲気のする町ですが、ここに1858年、ジャコモ・プッチーニが生まれています。これはルッカのドゥオーモで、建設されたのは6世紀ごろ。この中には、ヤコポ・ダ・クエルチャの「イラリア・デル・カレット」のお墓があります。この教会はプッチーニの父だとか、曾祖父などが主席オルガニストを務めてました。
サン・ミケーレ・インフォロ教会。若い頃プッチーニはこの教会の聖歌隊で歌っていました。
プッチーニがこの家で生まれたことを書いた石碑です。
今、プッチーニの生まれた家、これがその石碑です。
現在、プッチーニの生まれた家は博物館になってまして、3階建ての2階全部がプッチーニの家ですね。プッチーニの先祖の肖像画だとか、彼が作曲したオペラのポスター、自筆楽譜、手紙、「トゥーランドット」作曲時に使用したグランドピアノなど、多数の展示品があります。
テアトロ・デル・ジーリオ。この劇場は、1819年、建築家のジョバンニ・ダザリーニが建設しました。名前はブルボン家の紋章であるジーリオ、百合に由来しています。
1831年には、この劇場でロッシーニの「ウィリアム・テル」がイタリアで初めて上演されました。パリでは大失敗に終わりましたが、このルッカで大成功し、傑作として認められるようになりました。
私がはじめてこの劇場に行ったのは、2000年の5月、この時はプッチーニの祖父ドメニコ・プッチーニの作曲した「イル・チアルラターノ」というオペラブッファを上演してました。オーケストラボックスとか、そういうものがなくて、すごく小さい劇場という印象を持ちました。
ルッカのプッチーニの生まれた家の近くにあるプッチーニの坐像です。
1846年創業のカフェ・ディ・シーモ。かつてここにはプッチーニのオペラの台本を書いたジャコーザ、パスコリ、ウンガレッティ、デュアメルなどの文学者や芸術家が集まった文化サークルでした。
ヴィアレッジョにあるプッチーニの家。彼はここで「トゥーランドット」第2幕から「リューの死」まで書きました。
トゥレ・デル・ラーゴのプッチーニの家。彼の住んでいた家が現在博物館になっています。彼の墓もこの建物の中にあります。毎年夏にこの近くで、トゥレ・デル・ラーゴでプッチーニの音楽祭が開催されます。
これはルッカから十数キロ北にあるペスカリアのプッチーニの姉の夏の別荘です。
ここも現在プッチーニの博物館になってまして、発明王エジソンからプッチーニに贈られた蓄音機などの展示があります。
ピサのドゥオーモの広場、洗礼堂、ドゥオーモ、ピサの斜塔などが並ぶピサのドゥオーモ広場は、現在世界遺産になっています。
テアトロ・ヴェルディ・ディ・ピサ。1867年にロッシーニの「ウィリアム・テル」で開場しました。プッチーニが18歳の時、ヴェルディの「アイーダ」が上演され、それを見るために、プッチーニはルッカから徒歩で20キロの道のりを歩いてきて、「アイーダ」を見た後、プッチーニはオペラの作曲家になることを決心したと言われてます。
私が最初にこの劇場に行ったのは2002年の9月で、この時見たのは「カルメン」でした。その後は、去年の10月に行って、リッカルド・ムーティがパイジェッロの「予期せぬ結婚」を指揮して、それを見ましたけども、とても素晴らしい舞台でした。
アンコーナ。アドリア海沿岸の港町アンコーナは、ギリシャ語のアイコン、ひじが海に突き出ているような地形からこの名前がついたというふうに言われています。
テアトロ・ムーゼ。テアトロ・ムーゼが建設されたのは1827年。この劇場は、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場に似た美しい劇場でしたが、第2次大戦中の1943年に破壊され、その後修復作業が行われ、2002年10月13日に再開されました。
私はこの劇場、2度訪れています。最初は2006年、この時はドニゼッティの「ロベルト・デヴリュー」を上演しましたが、財政不足でオペラがコンサート形式に変更になりました。
これがその内部です。2回目に行ったのは2007年で、この時はヴェルディの「ナブッコ」を2回見ました。2度目の時、イズマエーレを歌っていたテノール歌手がいきなり倒れて、オペラはそのテノールなしで最後まで上演しました。
テアトロ・デッラ・フォルトゥーナ。これは、ぺーザロの隣の港町ファーノのフォルトゥーナ、幸運という名前の劇場です。ファーノの中心の9月20日広場のパラッツォ・ラジオーネの中にあります。
この劇場は、1845年から1863年にかけて、建築家のルイジ・コレッティによって建設されました。私がはじめてこの劇場に行ったのは2007年の末、この時はドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」を見ましたが、とても面白い演出でした。
フェラーラ。フェラーラのドゥオーモは、12世紀から14世紀に建設されたロマネスク様式の優れた建築で、かつてはフェラーラの音楽の中心でした。フェラーラは「ルクレツィア・ボルジア」「トルクァート・タッソ」「パリジーナ・デステ」など、たくさんのオペラの舞台となっています。
エステ城。1385年に建設されました。この城では過去に、ピサネッロ、マンテーニャ、ピエロ・デラ・フランチェスカなどの優れた画家が活躍しています。
フェラーラのテアトロ・コムナーレ。1778年にローマの建築家ジュゼッペ・カンパーナによって建設され、1798年に開場しました。
フェラーラのテアトロ・コムナーレの内部です。私が最初にこのオペラハウスを訪れたのは2000年で、このときはクラウディオ・アッバード指揮の「ファルスタッフ」を見ました。その後やはりアッバード指揮で2004年に「コジ・ファン・トゥッテ」、その後ヴェルディの「アッティラ」、ベリーニの「ノルマ」「トスカ」などを見ています。
コルプス・ドミネ。この中にルクレツィア・ボルジアが夫アルフォンソ1世とともに葬られています。教皇アレクサンドル6世の娘だったルクレツィア・ボルジアは、政争の道具として悲しい人生を送りました。フェラーラに嫁いだ彼女の夫アルフォンソは、彼女の3番目の夫でした。
ボローニャ。ボローニャは、現在音楽において、ユネスコの創造都市に登録されています。昔から音楽が盛んで、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニなどが訪れました。この景色は、2つの塔の1つアシネッリの塔から見たボローニャの市内です。
ボローニャの国際音楽資料館。昔この家にはロッシーニが住んでいました。現在は音楽資料館で、ロッシーニの「セビリアの理髪師」の自筆楽譜、世界最大の音楽家の400枚以上の肖像画のコレクションなどがあります。
これは、その中にありますマルティーニ神父の肖像画。かれは1770年にモーツァルトがボローニャを訪れた際、モーツァルトを指導しました。
音楽資料館にあるバイオリンコンチェルト「四季」の作曲家ヴィヴァルディの肖像画。ヴィヴァルディの肖像画は、世界でこれ1つしかありません。
モーツァルトの父レオポルドが作成したバイオリンの教則本で、マルティーニ神父にささげられました。
マッジョーレ通り26番地にあるロッシーニの家です。彼は1823年にこの家を購入し、1839年に売却しました。
テアトロ・コムナーレ。1763年にアントニオ・ガッリ・ビビエナによって完成しました。現在は、スカラ座やローマ歌劇場と並んで、イタリアでも有数の演奏水準を誇ると言われています。
これがその内部です。私がこの劇場に最初に訪れたのは1986年。その時は、シャイーの指揮で「ラ・トラヴィアータ」を見ました。その後、ボローニャに住むようになったので、今までトータルで20回くらい見てます。最近でも「ナブッコ」「イル・トロヴァトーレ」「トスカ」「セビリアの理髪師」「アルジェのイタリア女」を見てます。
これはサラ・スタバト・マーテル。アルキジンナジオ通りに旧ボローニャ大学の建物があり、その一角にスタバト・マーテルの間と呼ばれる部屋があります。この部屋は、1842年、ロッシーニの「スタバト・マーテル」がドニゼッティの指揮で初演された歴史的な場所です。内部にはそれを記念した碑がはめ込まれている。この碑は1868年にロッシーニが亡くなり、それを記念した1年後の1869年に取り付けられました。
これはパラヴィチーニ邸。ボローニャに来たモーツァルトは、1770年3月26日、この部屋でピアノを演奏して、拍手喝さいを浴びました。場所はサン・フェリーチェ通りの24番地です。
これはサン・ドメニコ教会。1770年10月6日にモーツァルトはこのオルガンを弾いてます。また内部には、ミケランジェロの製作した2体の彫刻があります。
これはロッシーニ音楽院ですね。この音楽院は、昔マルティーニ音楽院と言ってましたけども、最近ロッシーニ音楽院と名前が変わりました。ロッシーニが若い頃、ここで勉強したことを書いた碑があります。また隣は、サン・ジャコモ・マッジョーレ教会です。
パルマ。パルマは、近郊のレ・ロンコーレでヴェルディが生まれた関係で、今ヴェルディのオペラの上演に力を入れています。イタリアのオペラファンの中でも、パルマのオペラファンが最も熱狂的と言われ、特に最近はヴェルディのオペラの上演では、スカラ座をも上回っているのではないかと思います。毎年10月には、ヴェルディ・フェスティバルが開催されます。2013年のヴェルディ生誕200年祭まで、ヴェルディの全作品26の作品の上演が予定されています。また、パルミジャーノ・レッジャーノ、生ハムなどが生産される美食の町でもあります。写真のピロッタ宮殿は、コレッジョとか、パルミジャニーノなどの地元出身の画家を中心に膨大なコレクションがあって、中には16世紀ごろ建設されたテアトロ・ファルネーゼなどもあります。つい最近まで、コレッジョの展覧会が半年くらいやってました。
パルマのテアトロ・レージョは、1821年、当時パレルモ、パルマを支配していたハプスブルグ家のマリー・ルイーゼが、建築家のニコラ・ベットーリに建築を依頼して、1829年に完成し、ベッリーニの「ザイーラ」で開場しました。1849年に現在の名前に変わりました。
私がこの劇場にはじめて行ったのは1992年で、その時見たのは、マスネーの「ドン・キショット」でした。それ以来、パルマには20度以上訪れてます。もっとも最近の公演は、去年の10月のヴェルディ・フェスティバルで、「ジョバンナ・ダルコ」「リゴレット」、今年の1月のシーズンのオープニングでは、ヴェルディの「第1回十字軍のロンバルド人たち」を4回見ました。ヴェルディは、1829年、お金がなく、ミラノへ音楽の勉強に行けませんでした。それを見たブッセートの人たちは、音楽に造詣の深かったマリア・ルイーズに助けを求めました。マリア・ルイーズは、ヴェルディを面接して、ヴェルディは翌年奨学金を得て、ミラノへ留学することができました。1842年、「ナブッコ」で大成功したヴェルディは、翌年スカラ座から新しいオペラの作曲を依頼されました。作曲したのは「第1回十字軍のロンバルド人たち」で、金額は当時最高だったベッリーニの傑作「ノルマ」と同等の8000リラでした。義理堅いヴェルディは、この「第1回十字軍のロンバルド人たち」の楽譜をマリー・ルイーズにささげました。
ピロッタ宮殿の前にあるヴェルディのモニュメント、1913年に、ヴェルディ生誕100周年の記念事業として、ランベルト・クザーニによって製作が始まり、ブロンズを製作したのはエットレ・シメネーゼ。背面には、ヴェルディの生涯の重要な出来事が彫られています。中央には、イタリア統一の合言葉になった「ビバ・ヴェルディ」の文字が彫られています。
これは2006年に上演されたフーゴ・デ・アナ演出の「ファウスト」の舞台です。
20世紀最大の指揮者の1人であるアルトゥーロ・トスカニーニは、1867年3月25日にパルマで生まれました。1896年、トリノのテアトロ・レッジョでプッチーニの「ラ・ボエーム」の初演、1898年、31歳でスカラ座の音楽監督になり、1926年、スカラ座でプッチーニの「トゥーランドット」を初演しました。
内部は博物館になってまして、彼の指揮棒、ポスター、手紙など、多くの展示品があります。私今まで5回くらい行ったことがあります。
これは、パルマの郊外のブッセトーのテアトロ・ジュゼッペ・ヴェルディ劇場の外観です。1856年に建設が始まり、ヴェルディは建設に反対したのですが、1868年に完成し、ヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」「リゴレット」によって開場しました。ヴェルディは、劇場の建築費として1万リラを寄付しましたが、生涯1度もこの劇場を訪れたことはありませんでした。1913年のヴェルディ生誕100年祭では、トスカニーニが「ラ・トラヴィアタ」と「ファルスタッフ」を指揮しました。
私がはじめてこの劇場で見たのは、ヴェルディ没100年祭の2001年で、この時見たのはゼッフェレッリ演出の「アイーダ」でした。
ブッセトーのヴェルディ広場にあるヴェルディの像です。
レ・ロンコーレにあるヴェルディの生まれた家です。1813年10月10日、ヴェルディはこの家で、父カルロと母ウッティーニの息子として生まれました。父は食料品、雑貨などを扱う旅籠を経営していました。
ヴェルディが誕生したことが書かれた記念碑です。
ヴェルディの生まれた部屋です。
ヴェルディが洗礼を受けた、生まれた家の前にあるサン・ミケーレ教会。オーストリア軍が侵入してきたとき、ヴェルディの母ウッティーニは、幼いヴェルディを抱き、教会の鐘楼に避難し、隠れていたと言われています。
サンタアガータのヴェルディの家。ヴェルディは1853年から1901年に世を去るまで、サンタアガータの家で過ごしました。2番目の妻ジュゼッピーナ・ストレッポーニとブセットーで住んでいましたが、最初の妻のマルガリータの故郷ブセットーのオルランディ邸では、あまり歓迎されませんでした。そのため、ブセットーから北のサンタアガータに新居を購入し、この家でヴェルディは「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテッロ」「ファルスタッフ」など、後期の傑作を作曲しました。
サルサメンテリア・バラッタ。ヴェルディがブセットーに住んでいたオルランディ邸の近くにあるサルサメンテリアで、創業は1873年。しかし、それ以前、13世紀から店はあったと言われています。ここではヴェルディのラベルのワインだとか、ヴェルディグッズだとか、そういうものを買うことができます。ヴェルディ、トスカニーニ、ボイート、ヴェルディの「オテロ」の初演の時歌ったテノールのタマーヨ、カルーゾなどが訪れたと言われています。
ヴェルディが好きだったと言われるスパラ・コッタ。豚の肩肉の部分で、これはヴェルディが1862年、ロシアのサンクト・ペテルスブルグに「運命の力」の初演の時訪れた際、持参したと言われています。
往年の名テノール、カルロ・ベルゴンツィの経営する三ツ星ホテル「イ・ドゥーエ・フォスカリ」名前の由来は、ベルゴンツィが最初に歌ったヴェルディのオペラだったところから来ています。私はここに2回泊まりました。
モデナ。20世紀を代表する歌手、テノールのルチアーノ・パバロッティとソプラノ、ミレッラ・フレーニが1935年に生まれた町で、フェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティなどの高級車の製造や、バルサミコ酢、発泡性ワイン ランブルスコなどが生産されています。
今あったのが司教座大聖堂です。この町の守護聖人聖ジミニャーノに奉納され、町でもっとも有名な建築で、ロマネスク様式で作られました。最大傑作の1つで、今これは世界遺産、ユネスコの世界遺産に登録されています。今映ってるのは、テアトロ・コムナーレ・ルチアーノ・パバロッティ。1838年に建築家のフランチェスコ・ヴァンデッリによって建設が始まり、1841年に開場しました。2007年12月に、その都市の9月に亡くなったルチアーノ・パバロッティにちなみ、劇場の名前が変更になりました。
これが、ルチアーノ・パバロッティ劇場の内部なのですが、私がはじめて行ったのは1999年、上演されたのは、ドニゼッティの「マダム・サンジェーヌ」。その時主役を歌ったのが、モデナ出身のミレッラ・フレーニでした。それ以後、「ノルマ」「運命の力」「アッティラ」「イリス」「イル・トロヴァトーレ」など見るために、10回くらいこの劇場を訪れています。
レッジョ・エミリア、ロモロ・ヴァッリ。1857年に開場しました。1980年に、地元出身の俳優ロモロ・ヴァッリにちなみ、現在の名前は、テアトロ・ロモロ・ヴァッリと呼ばれるようになりました。1961年、モデナ出身のルチアーノ・パバロッティは、この劇場で「ラ・ボエーム」のロドルフォを歌い、デビューしています。
私がこの劇場をはじめて訪れたのは、1999年に上演されたマスネーの「ウエルテル」です。それ以来、15回くらい訪れています。特に印象深かった公演は、2006年に上演されたモーツァルトの「魔笛」で、クラウディオ・アッバードの指揮したモーツァルトの音楽が、本当に素晴らしかったです。オペラのチケットは、通常の4倍くらいしたのですが、十分満足した公演でした。去年は、ヴェルディ・フェスティバルの演目の1つだった「ナブッコ」が上演され、5回見に行きました。
テアトロ・ロモロ・ヴァッリはイタリアで最も美しい劇場だと思います。これはその天井画です。
市庁舎内にある三色旗の間。1797年、この緑、赤、白の三色旗は、チスパーダ共和国の旗に選ばれ、後これがイタリアの国旗になりました。
ピアチェンツァ。テアトロ・ムニチパーレ。現在のテアトロ・ムニチパーレは、1804年に開場しました。内装はネオクラシックで、正面はミラノスカラ座を建設したピエロ・マリーニが製作したので、スカラ座に似ています。
私がこの劇場で最初にオペラを見たのは、1999年1月に上演されたヴェルディの「レニャーノの戦い」、その後2000年には、「スティッフェーリオ」を見るためにまた行きました。その後もこの劇場では、ブルーゾンの出演したヴェルディ「二人のフォスカリ」「ノルマ」「アッティラ」最近では去年の10月にドニゼッティの「愛の妙薬」を見ました。ランカトーレのアディーナ、ネモリーノがシラクーザという公演で、とてもよかったです。
ピアチェンツァから南西34キロのところに、カステッラルクアートという町がありまして、ここにプッチーニの「ラ・ボエーム」とか「マダム・バタフライ」などの台本を書いたルイージ・イッリカの博物館があり、ここにプッチーニの「マダム・バタフライ」「トスカ」の台本などが展示されています。
これはプッチーニの「トスカ」の第1幕に、1800年頃、マレンゴの戦いが行われ、ナポレオンが敗れたニュースを知らせるシーンがありますが、ピアチェンツァとアレキサンドリアの中間くらいのところにマレンゴという町がありまして、そこに戦争博物館があります。ここは当時、ナポレオン軍の陣地などの模型が図解で説明されたりして展示されています。戦争の場面を描いた銅版画や、将校たちの肖像画などもあります。
ノヴァーラ。ミラノとトリノの中間に位置するノヴァーラは、農業を主とする町で、目につくのは聖ガウデンツィオ聖堂の丸いドームで、高さは121メートルあります。アレッサンドロ・アントネッリによって取り付けられました。
テアトロ・コッチャ。現在のテアトロ・コッチャは、1888年に開場しました。劇場の名前のコッチャは、18世紀にナポリで活躍した作曲家で、ナポリのバイオリニストの息子として生まれ、オペラはナポリ派の巨匠パイジェッロに学び、リスボン、パドヴァなどで成功し、1837年からノヴァーラで生活し、この地で生涯を終え、亡くなるまでに37のオペラを作曲しました。代表作は「クロチルデ」。
私はこの劇場は1度しか訪れてませんが、行ったのは2006年で、その時は、クライスラー作曲のオペレッタ「シシー」が上演されました。
これはその「シシー」の舞台です。
ペーザロ。アドリア海のリゾート地ペーザロは、1980年以来、夏にロッシーニ音楽祭が開催され、にぎわっています。
これはロッシーニの生まれた家です。
これはテアトロ・ロッシーニです。テアトロ・ロッシーニは、1818年、ロッシーニが「泥棒かささぎ」を指揮して、開場しました。現在ロッシーニ音楽祭は、この劇場でかならず1本はオペラの上演があります。
私が最初にロッシーニ音楽祭に行ったのは1994年で、その時見たのは「アルジェのイタリア女」です。その次に行ったのが1996年で、それ以後全部で10回くらい訪れています。1番印象に残ったのは、2001年に上演された「湖上の美人」。この時は、デヴィア、バルチェローナ、フローレスなど一流歌手総出演で、最高でした。それ以後、私はロッシーニ音楽祭は衰退していると思っています。今年はフローレスなども出演する「ゼルミーラ」「絹のはしご」「オリー伯爵」など、3本が予定されています。
アドリアティック・アレーナ。ペーザロの中心からバスで30分の場所にある現代劇場で、2006年からロッシーニ音楽祭はここで2本オペラの上演があります。
ロッシーニ音楽院内にあるロッシーニの像です。
パヴィア。パヴィアと言えば、郊外にあるチェルトーザ・ディ・パヴィア。1488年に着工されたイタリア屈指の大聖堂です。
テアトロ・フラスキーニ。設計したのはアントニオ・ガッリ・ビビエナで、1773年に開場しました。劇場の名前は、パヴィア出身の名テノール、ガエターノ・フラスキーニにちなんで、テアトロ・フラスキーニと呼ばれるようになりました。
私は、1度しかこの劇場には行ってないのですが、訪れたのは2007年12月。この時はフーゴ・デ・アナ演出の「トスカ」を見ましたが、素晴らしい舞台でした。この内装を見ると、ビビエナがやはり作ったなというのがすぐわかりました。ボローニャの劇場なんかとすごく似ているなと思いました。
これはビナスコ城。パヴィアの郊外に、ベッリーニの「ベアトリーチェ・テンダ」というオペラの舞台となったビナスコ城があります。建物の内部は現代的なオフィスになっています。この城が建設されたのは1329年。1418年には牢獄に使われました。1796年ナポレオンがイタリアに侵入したときは、この城でたくさんの人が抵抗したという記録があります。ベッリーニの「ベアトリーチェ・テンダ」は、ミラノ公が妻のベアトリーチェ・テンダに飽き、愛するアニーゼに乗り換えるために、妻とその恋人を殺す物語で、オペラは大体この城の中で演じられます。
ジェノヴァ。コロンブスの生まれた家。コロンブスは1451年にジェノヴァで生まれました。1492年に新大陸を発見しました。この建物は1800年代に再現された建物だそうです。だから、コロンブスが生まれた当時の建物とは違います。
シモン・ボッガネグラの城。ヴェルディは、1857年に「シモン・ボッカネグラ」を作曲しました。その主人公シモン・ボッカネグラの住んでいた城がサン・マルティーノ病院のある小高い丘の上にあります。シモン・ボッカネグラは実在の人物で、14世紀に活躍した人で、ジェノヴァ共和国の初代の総督でした。
これがそのシモン・ボッカネグラの像です。リグーリアの建築と彫刻の美術館にあるシモン・ボッカネグラの像です。
テアトロ・カルロ・フェリーチェ。現在のカルロ・フェリーチェは、1942年に爆撃され、その後再建されたもので、1991年、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」で再開しました。建設したのはアルド・ロッシという人で、外観の正面はギリシャ風の壮大な円柱が見られますが、内部は現代的です。
こういうふうに現代的です。私がはじめてこの劇場を訪れたのは1999年で、マスネの「マノン」を見ました。それ以後、ベッリーニの「清教徒」、プッチーニの「マノン・レスコー」、ヴェルディ「イル・コロサロ」「エルサレム」「ジョバンナ・ダルコ」「仮面舞踏会」など、約10回くらいは訪れています。2007年の1月に訪れた時は、ドニゼッティの「ラ・ファブリータ」が上演の予定でしたが、合唱団のストで、美しい衣装をつけて上演される予定のオペラが、演奏会形式に変わり、がっかりした思い出があります。
パスティチェリア・クライングーティ。1828年創業のカフェで、ヴェルディはここのブリオシュを食べ、私のファルスタッフより素晴らしいと言ったと言われています。内部にはそのヴェルディの自筆の書が飾られています。アイスクリームやケーキなどもおいしいパスティチェリアです。
ベルガモのチッタ・アルタ。ベルガモは旧市街と新市街に分かれてまして、旧市街には由緒ある教会などが立ち並び、中世の面影があふれています。イタリアオペラの中でも重要な作曲家の1人であるドニゼッティはこのベルガモの旧市街に生まれました。
ドニゼッティは、織物工業を営む父アンドレアの第3番目の息子として1797年11月19日にこの家で生まれました。
現在この家は博物館になってまして、ドニゼッティの肖像画、台所、食堂、書斎などが当時のままに残されています。
テアトロ・ドニゼッティ。現在のドニゼッティ劇場は、建築家のフランチェスコ・ルッキーニによって、18世紀末に建設されました。1897年にはドニゼッティ生誕100周年で、それを記念して劇場はテアトロ・ドニゼッティと呼ばれるようになりました。
テアトロ・ドニゼッティの内部です。私が最初にドニゼッティ劇場を訪れたのは、2000年10月のドニゼッティ劇場のシーズンの初日でした。この時は「アンナ・ボレーナ」が上演され、アンナがディミトラ・テオドッシュウ、ジョヴァンナがソニア・ガナッシというキャストで、私は同じ年、ピアチェンツァでテオドッシュウを聞いていましたが、この時はドニゼッティ劇場が異常な興奮に包まれた歴史的な公演でした。テオドッシュウを聞いて、新しいディーバの誕生だと確信した一夜でした。
このオペラの舞台は、2006年9月に上演されたドニゼッティの「ロベルト・デヴリュー」の舞台です。
ドニゼッティ劇場のチケット売り場の前にあるドニゼッティモニュメント。彫刻家のイエラーチェが製作しました。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会。12世紀後半に建設されたロマネスク様式の教会で、音楽的に重要な場所で、ドニゼッティに音楽を教えたドイツ人の作曲家シモン・マイヤーは、1802年にこの教会の楽長に就任し、音楽教育に携わり、また、オペラ「ラ・ジョコンダ」を作曲したポンキエッリも1882年から4年間、この教会の聖歌隊の指揮者を務めました。
ドニゼッティのお墓。今言ったサンタ・マリア・マッジョーレ教会にドニゼッティのお墓があり、師匠のシモン・マイヤーのお墓も教会の中にあります。
ドニゼッティ博物館。1897年に音楽家のクリストーフォロ・スコッティがドニゼッティ博物館を作りました。ドニゼッティの肖像画、書簡、手紙、自筆の楽譜などが展示されています。
これはベルガモにあるトルタ・ドニゼッティというお菓子で、とてもおいしいお菓子です。
カフェ・バルツァ。ドニゼッティ劇場の前にある1850年創業のカフェ・バルツァ。このカフェにプッチーニ、マスカーニ、マリア・カラスが訪れています。マリア・カラスは、1954年10月、ドニゼッティ劇場で、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」を歌っています。
ブレシア。ヴェローナとミラノの中間に位置するブレシアは、近くで産出する鉄鉱石で工業が発展して、オペラハウスなども1664年に建設されました。この劇場で特筆することは、1904年2月17日に「マダマ・バタフライ」がミラノのスカラ座で上演されましたが、歴史的失敗に終わりました。プッチーニはすぐにそれを書き直して、同じ年の5月にこのブレシアのテアトロ・グランデで上演し、圧倒的な成功を収めました。現在私たちがこの傑作を聞けるのも、ブレシアでの成功があったからと言われています。
これはその内部ですね。テアトロ・グランデの内部です。
マントヴァ。マントヴァは、2008年に世界遺産に登録された文化都市で、ポー川の支流ミンチョ川の中州に開けた町で、14世紀からゴンザーガ家が支配し、文化的に栄えました。
テアトロ・ソチアーレ。この劇場は、1818年に建築家のカノニカが建築をはじめ、1822年に開場しました。
私がこの劇場に行ったのは2007年でしたね。この時はチレアの「アルルの女」を見ました。ゴッホの絵画を使った美しい演出で、歌手などは物足りませんでしたが、映像的に楽しめた舞台でした。あそこにある2つの絵ですね。あれはゴッホの描いた「アルルの女」です。
テアトロ・シエンティフィコ。またの名をテアトロ・ビビエナというのですが、1769年に建築家のアントニオ・ガッリ・ビビエナによって建設され、アッカデミア・フィラルモニカとして開場しました。1770年、この劇場を見たモーツァルトの父レオポルドは、妻へ宛てた手紙で、「アッカデミア・フィラルモニカをお前も見れたらと思ったものです。私の人生の中でこのタイプでこれ以上の美しさを見たことがありません。これはもう劇場ではなく、広間にロージェをつけたオペラハウスのようだ」とその美しさを述べています。
マントヴァは、オペラ「リゴレット」の舞台となった町で、町にはリゴレットの家、スパラフィチーレの住んでいた家などがあり、これはリゴレットの家の庭にあるリゴレットの像です。
マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレは、15世紀からゴンザーガ家の所有になり、文化を愛したイザベラ・デステをしたって、マンテーニャやルーベンス、ジュリオ・ロマーノなどが来て、すぐれた作品をこの宮殿に残しました。
ヴェローナ。ヴェローナはサンピエトロ城から見る景色が1番美しいです。これはサンピエトロ城から撮ったのですが、下に見えるのがカステロ・ヴェッキオです。
テアトロ・フィラーモニコ。有名なオペラ劇場の建築家だったフランチェスコ・ガッリ・ビビエナが建築し、1732年に開場しました。
私が最初にこの劇場でオペラを見たのは1996年で、その時はドニゼッティの「愛の妙薬」でした。その次に見たのは2008年3月で、マリエラ・デヴィーアが出演したドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」でした。
この劇場の隣にホールがありまして、1770年1月5日、モーツァルトはこのホールでチェンバロ協奏曲を弾きました。
夏のヴェローナの音楽祭は、地元出身の名テノール、ジョヴァンニ・ザナテッロ、指揮者のトゥリオ・セラフィンらが共同で1913年に音楽祭を開催しました。その後発展を続け、現在はイタリア最大の音楽祭になりました。その時上演されたのが「アイーダ」で、「アイーダ」はこの音楽祭最大の呼び物になりました。
私はこの音楽祭に約10回くらい訪れています。1番印象的だったのは、2006年に上演された「ナブッコ」で、そのときはレオ・ヌッチがその日は生涯に歌った50回目の「ナブッコ」で、オペラ終了後、ピアノを出して、聴衆に感謝すると挨拶して、ナポリ民謡を数曲歌いました。
また、「アイーダ」は何回も見ましたが、ゼッフェレッリの演出が豪華絢爛な舞台で一番素晴らしかったです。現在上演されている「アイーダ」も1913年に上演されたのと同じ演出で、ゼッフェレッリの演出に似てますけども、とても素晴らしい舞台です。
これは2007年に上演された「トスカ」の舞台です。
これはロミオとジュリエットの家にある像です。幸運を求めて多くの人々が胸に触るので、胸がピカピカになっています。
これは聖トマーゾ教会で、1770年1月7日、モーツァルトはこの教会でオルガンを弾きました。当時オルガンを演奏した人は名前を記すのが定例で、中央にあるウィンド・チェストの左側にWSMのサインがあります。これはヴォルフガング・ザルツブルグ・モーツァルトのサインではないかと言われています。現在はセキュリティの問題で、上に上がって見ることはできません。
これはそのモーツァルトが弾いたオルガンですね。
これはフィリッピーノ教会。1947年、アレーナで「ラ・ジョコンダ」で歌ってデビューしたマリア・カラスは、ヴェローナの実業家のメネギーニと1949年4月、このフィリッピーノ教会で結婚式をあげました。
トリノは、18世紀にトリノを訪れた啓蒙思想家シャルル・ド・ブロスが言うように、ヨーロッパで1番優雅な町である。おそらくヨーロッパ一ということは世界一優雅な町であると言っています。
テアトロ・レージョ。トリノのテアトロ・レージョは18世紀に建設されましたが、1893年に「マノン・レスコー」が初演され、その後、1896年にこの劇場ではトスカニーニの指揮で「ラ・ボエーム」が初演されました。
現在のテアトロ・レージョは、1965年に建築家のカルロ・モリーノとマルチェロ・ザベラーニ・ロッシによって建てられました。こけら落としはディ・ステファーノ、マリア・カラスが出演し、「シチリアの夕べの祈り」が上演され、豪華キャストで話題になりました。
私がはじめてテアトロ・レージョに行ったのは1977年、この時はブルーゾンの出演した「マクベス」を見ました。その後1982年に「アンナ・ボレーナ」、今年の1月にはランカトーレの出演した「ホフマン物語」、去年の10月にはケルビーニの「メディア」など、合計すると15本くらい、ここで見ています。
カフェ・ビッチェリン。1763年創業のトリノで一番古いカフェ。プッチーニがよく訪れたと言われています。プッチーニの「ラ・ボエーム」はパリが舞台で、第2幕にはカフェ・モミュスが出てきますが、プッチーニはビッチェリンをモデルにしたと言われています。ビッチェリンやザヴァイオーネなどもおいしいし、またフランスの文豪アレクサンドル・デュマや、カヴールなども来訪したと言われています。
プッチーニが1884年6月24日から7月6日まで滞在していた家です。
それが書いてある碑です。
これはトリノのアゴスティーノ教会。プッチーニの住んでいた家の近くにある、プッチーニはこの教会でオルガンを弾いたと言われています。
王宮。カステル広場にあるサヴォイア家の城だった王宮です。1660年に建設され、1865年までサヴォイア家が住んでいました。内部は豪華に装飾され、ウィーンのシェーンブルン宮殿や、パリのベルサイユ宮殿以上に内部は豪華です。
トリエステ。イタリアの東の端に位置するトリエステは、長らくオーストリアの支配下にあり、そして、オーストリアの唯一の港町として発展しました。
これはヴェルディの住んでいた家で、ヴェルディはこの家で「イル・コロサロ」1848年、「スティフェーリオ」1850年を作曲しました。
この劇場で、今言った2つのオペラが上演されました。テアトロ・コムナーレ・ジュゼッペ・ヴェルディは、18世紀後半、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場を建設したジャンアントニオ・セルヴァによって建設され、1801年に開場しました。ヴェルディ死後の1901年からテアトロ・コムナーレ・ジュゼッペ・ヴェルディと呼ばれるようになりました。
私がこの劇場をはじめて訪れたのは1979年の冬で、この時は「アイーダ」を見ました。次に訪れたのは2000年5月で、見たのは「アドリアーナ・ルクヴルール」、その後、夏に開催されるオペレッタフェスティバルで10回以上訪れています。トリエステの夏のオペレッタフェスティバルは、本場ウィーンのオペレッタよりもっと美しいと言われています。
ヴェネツィア。サンマルコ寺院は11世紀に建設されて以来、ヴェネツィアの音楽の中心でした。1500年代には、ジョヴァンニ・ガブリエーレなどが出て繁栄しました。1613年にモンテヴェルディが楽長に就任し、彼はたくさんの宗教音楽を作曲しました。
フェニーチェ劇場。オペラはフィレンツェで1598年に始まりましたが、マントヴァの宮廷にモンテヴェルディが、一時期マントヴァが中心になりましたが、モンテヴェルディがヴェネツィアに移住すると、オペラの中心はヴェネツィアになりました。1637年、世界で初めての公開オペラハウス、サンカシアーノがヴェネツィアにできると、ヴェネツィアのオペラ熱は最高潮に達し、1700年頃までの間に、あの小さいヴェネツィアに17のオペラハウスが存在したと言われています。18世紀ヴェネツィアのもっとも重要なオペラハウスはサン・ヴェネデットでしたが、1774年に焼けて、その後その跡地に建設されたのが現在あるフェニーチェ劇場で、公募で選ばれたアントニオ・セルヴァが建設し、1792年にパイジェッロの「アグリジェントの大競技」で開場しました。その後、フェニーチェ劇場は1836年に火事にあいましたが、その7か月後に再建されました。その後、ヴェルディの「アッティラ」「ラ・トラヴィアタ」「エルナーニ」[リゴレット」「シモン・ボッカネグラ」など5本の傑作が初演されました。
私がはじめてフェニーチェ劇場に行ったのは1979年の2月、その時に見たのはシノーポリ指揮の「トスカ」でした。その後、1980年には夏に「オテロ」その他「イタリアのトルコ人」「ルクレツィア・ボルジア」「タンクレディ」など、焼ける前に7回訪れています。また焼けた後、1度、パラフェニーチェというテントで「オテロ」を見た経験もあります。また、修復が終わってから再開した後も、ドニゼッティの「ピーア・デ・トロメイ」、ヴォルフ・フェラーリ「4人の気難しがり屋」、ヴェルディ「ルイザ・ミラー」などを見ています。
これはマリブラン劇場。開場したのは1678年で、グリマルディ家の3番目の劇場でした。1834年にマリー・マリブランがベッリーニの「夢遊病の娘」を歌い、好評を博し、当時のオーナーが、マリブランの歌があまりにも素晴らしいので、名前をマリブラン劇場と変更しました。
私はこの劇場に一度行ったことがあるのですけども、何を見たか今ちょっと思い出せない。現在は主にバロックオペラや、軽い演目のオペラが上演されます。
パラッツォ・ドゥカーレ。ヴェネツィアが舞台となったオペラ、ドニゼッティの「マリノ・ファリエーロ」、ヴェルディ「2人のフォスカリ」などがありますが、この2つのオペラとも、ドゥカーレ宮殿のドージェの間や大評議会の広間などがオペラの舞台になっています。
コンタリーニ・ファザン館。オペラは、「オテロ」のヒロイン、デズデモーナが住んでいたと言われ、ロッシーニのオペラ「オテロ」では、デズデモーナがここで「柳の歌」を歌います。
サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会。17世紀には、モンテヴェルディの弟子であったカヴァッリが教会のオルガニストとして活躍しました。また、ドニゼッティのオペラ「マリノ・ファリエーロ」の第2幕の舞台であり、ここではフェルナンドはステーノと戦い、命を落とします。
内部にはヴェロネーゼの描いた祭壇画、外にはヴェロッキオの製作したコッレオーニ騎馬像があります。
ヴェンドラミン・カレルジー館。現在市の公営のカジノ。心臓病の持病のあったワーグナーは、1883年2月13日にこの館で69歳の生涯を閉じました。遺体はすぐバイロイトに運ばれ、葬られました。
モチェニーゴ館。1816年にヴェネツィアを訪れたバイロンは、この館で40人の召使いと数多くの鳥や動物、1匹のキツネとともに暮らしていました。彼はヴェルディのオペラの原作「2人のフォスカリ」「イル・コルサロ」などを書きました。またこの場所は、モンテヴェルディのオペラ「タンクレディとクロリンダの戦い」が1624年に初演された場所です。これはヴェネツィアにおける最初のオペラの上演と言われています。
カ・ドーロ。15世紀に建設されたヴェネツィア・ゴシックの代表的な建物で、ポンキエッリの唯一の歴史に残ったオペラ「ジョコンダ」はヴェネツィアが舞台で、そのオペラの第3幕第2場は、大勢の賓客が訪れますが、このカ・ドーロが舞台です。ここで有名なバレエ「時の踊り」が上演されます。昔、この建物は金で塗られていて、それでカ・ドーロと呼ばれるようになりました。
サンタ・マリア・グローリオ・ディ・フラーリ教会。1338年から1443年にかけて建設されたヴェネツィア屈指の教会です。
主祭壇の奥に、ティッツィアーノが1518年に描いた「聖母被昇天」があり、この絵を見たワーグナーは、「マイスタージンガー」の完成を決意したと言われています。
この教会にはモンテヴェルディのお墓があって、これがモンテヴェルディのお墓です。
ミラノ。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによって1386年に建築がはじまり、完成したのは1887年。かつてはミラノの音楽の中心でした。グルックの師のサンマルティーニ、大バッハの息子のクリスチャン・バッハなども、ここでオルガニストとして務めました。1924年には、ベルギーのブリュッセルで世を去ったプッチーニの葬儀がこの教会で行われました。当日はトスカニーニがスカラ座のオーケストラを指揮し、プッチーニのオペラ「エドガール」の鎮魂ミサを演奏しました。
スカラ座が誕生したのは1778年で、ピエールマリーニが建造しました。開場したとき、上演されたのは、サリエリの「見出されたエウロッパ」。フィレンツェで誕生したオペラは、ヴェネツィア、ナポリと隆盛が変化し、そして、スカラ座の誕生とともに、ミラノに中心が移っていきました。そして、スカラ座ではベッリーニの「ノルマ」ドニゼッティの「ルクレツィア・ボルジア」ヴェルディ「オベルト」「ナブッコ」「オテロ」「ファルスタッフ」プッチーニの「マダマ・バタフライ」「トゥーランドット」など、オペラ史上重要な作品が上演されました。
私が最初にスカラ座でオペラを見たのは1974年12月のカール・ベーム指揮の「フィデリオ」でした。そして翌日、クラウディオ・アッバード指揮のプロコフィエフ「3つのオレンジの恋」でした。それ以来50回以上訪れていて、最近で印象に残った公演は、2006年7月に上演された「チェネレントラ」。ポネルの指揮で、フローレス、ガナッシが出演して、よかったです。去年は「ラ・ボエーム」、ドミンゴの出演した「シラノ・ド・ベルジュラック」「アドリアーナ・ルクヴルール」などを見ましたが、最近はレベルが落ちてます。
これは2007年2月に見た「フィガロの結婚」の舞台で、演出はストレーラです。
スカラ座博物館。初代の館長は映画監督だったルキーノ・ヴィスコンティの父親モドローネ・ヴィスコンティ。部屋には、ヴェルディが幼年時代弾いたといわれるスピネット、ヴェルディ、ドニゼッティなどの肖像画、イタリアオペラの歴史を飾った数々の品々が展示されています。
サンマルコ寺院。ヴェルディは19世紀イタリア最大の作家マンゾーニを尊敬していましたが、彼が1873年に亡くなった時、レクイエムを作曲し、その演奏場所としてミラノで一番美しい場所サンマルコ寺院が選ばれ、ここでマンゾーニの死の1年後の1874年5月22日に、ヴェルディの指揮で上演されました。
音楽家憩いの家。若い時に活躍した音楽家が困窮するのを見て、音楽家が老後を平和に過ごせるように、音楽家のための養老院をヴェルディは作りました。ヴェルディの「オテロ」などの台本を書いたアルリーゴ・ボイートの弟カミッロが建設しました。ヴェルディはこの施設を、「私が作った最も美しい作品」と言いました。しかし、生きているときは、慈善家と言われるのを嫌い、オープンさせませんでした。それで、彼の亡くなった翌年1902年10月10日オープンしました。
憩いの家の中にはお墓があり、ヴェルディが愛した3人の女性、最初の妻マルガリータ、2番目の妻ジュゼッピーナ・ストレッポーニ、晩年の愛人で「アイーダ」のイタリア初演でアイーダを歌ったテレサ・シュトルツとともに眠っています。
サンタンブロージョ教会。ミラノの守護聖人聖アンブロジウスは、386年に殉教者の聖堂、現在のサンタンブロージョ教会を設立しました。1840年、ヴェルディの最初の妻マルゲリータが亡くなりましたが、彼女の葬儀が行われた場所です。またヴェルディのオペラ「十字軍のロンバルド人たち」の第1幕は、このサンタンブロージョ教会が舞台です。
ヴェルディは1901年1月27日、ミラノのグランド・ホテル・エ・デ・ミランのこの部屋で亡くなりました。88歳の人生でした。ホテルでは現在でもスイートルームとして、この部屋は当時と同じに保たれ、使われています。
グランド・ホテル・エ・デ・ミランの中にあるレストラン、ドン・カルロ。壁には、ジュゼッピーナ・ストレッポーニやヴェルディの肖像画などが飾られ、スカラ座の博物館のようで、優雅で美しいレストランです。
以上です。どうもありがとうございました。
司会 本当に牧野先生、ありがとうございました。途中少しスライドの不調等がありまして、中断いたしまして、誠に申し訳ありませんでした。何か今のお話で、本当にもうイタリアを南から北まで、大変な数の町々をご紹介いただいて、それぞれ10何回行っておられるとか、合計で何百回行かれたのかと、本当に驚いた次第でございますけど、何か先生にご質問おありの方いらっしゃいますか。よろしいですか。じゃあ1つだけ私、これだけの数のオペラ劇場ですか、これはどういう主体が経営してるのですかね。私は先生のお話であちこちこれだけあって、ちゃんと採算的に成り立っているのかと思うのですが、この点どうなのでしょうか。
牧野 経営しているのは市ですね。例えばミラノですと、ミラノの市長がスカラ座の総裁をやっているのです。パルマですと、パルマの市長が総裁。だいたい市長がその劇場の総裁をやっているのですね。で、今も非常に経営的に厳しくて、特にベルルスコーニ政権になると、オペラの予算を相当、前の政権の時も削ってしまったのですね。だから、今みんな四苦八苦で、例えば、サン・カルロ劇場のような有名な劇場でも、今年は3本しか演目ないのですね。スカラ座なんかも結局、バブルというか、金融も要するに崩壊して、多くの企業が手を引いたらしくて、前はチケット売り出すと同時に、イタリアものの、特にヴェルディなんかのオペラのチケットですと売り切れたのですが、最近はもうチケットが有り余っているみたいですね。
司会 どうもありがとうございました。