第358回 イタリア研究会 2010-03-30
「街並みの美学」再考―イタリアにおける近代都市の形成過程をめぐって
報告者:信州大学 紫野 均
第358回 イタリア研究会 (2010年3月15日)
演題:「『街並みの美学』再考―イタリアにおける近代都市の形成過程をめぐって」
講師:柴野 均(信州大学人文学部教授)
【橋都】 みなさんこんばんは。イタリア研究会の橋都です。
今日は第358回のイタリア研究会例会です。年度末のお忙しいところ、どうもようこそお出でくださいました。今日は、信州大学人文学部教授の柴野均先生に「『街並みの美学』再考―イタリアにおける近代都市の形成過程をめぐって」という題でご講演をお願いしております。
それでは、講師の柴野先生のご略歴をまずご紹介したいと思います。
先生は、1948年大阪にお生まれです。ただ、小学校の途中から東京だそうです。72年に東京大学の文学部の西洋史学科をご卒業になりまして、75年~78年にローマ大学政治学部に留学されました。83年に東大の文学部の助手となりまして、89年から信州大学人文学部助教授、95年から教授として現在に至っております。
柴野先生は、イタリアに関する大変広いテーマの研究をされているのですけれども、今回は、「街並みの美学」というお話で、建築家や都市計画の人とはまた違った観点からのお話がお伺いできるのではないかと思っております。
実は、私と柴野先生は幾つか共通点があります。第一はイタリアが好きということです。第二点目はサイクリスト。先生は雨や雪が降らなければ、大学まで自転車で通勤されているそうです。もう一つは、タバコ嫌いです。私も相当なタバコ嫌いなのですが、柴野先生も今、信州大学の敷地内禁煙に向けて努力しておられるということです。
それでは、柴野先生、よろしくお願いします。(拍手)

【柴野】 今、紹介に預かりました柴野です。
最初に幾つかお断りしておきますが、紙の資料を今日は一切配りません。私は今、大学の環境委員会で資源エネルギー部会長という役職をやらされておりまして、紙はとにかく使わないというのが今のわれわれのやり方になっております。今日のようなスタイルは私の授業のやり方なのです。
ですから、学生に紙の資料は一切配らないということにしています。ではどうするのかと言うと、大学の教育支援システムというネット・システムがありまして、使った教材をアップロードしておけば、学生が自分で見られるようになっています。したがって、紙は使いません。。
私も手元にいろいろ紙が残るのは嫌なものですから、できるだけいろいろなものを再利用しております。今日も話すためのノートをプリントしてきたのですけれども、これは昨年度やった学生の試験の裏紙で、この人はBで、その次のはBマイナスで、これはCが付いております。皆さんも余計な紙をもらっても迷惑するでしょうから、話だけのほうがよろしいと思います。今日はとにかく全部このパワーポイントでやります。
パワーポイントを私は電子紙芝居と呼んでおります。とにかく最初から1枚ずつ順番にやるしかありません。大体私の授業は脱線につぐ脱線なので、話がどんどんずれて行ってしまう傾向があります。それでもこれがあるから、何とか元に戻るようになりますので、今日も適当に時間を見ながら話があまりずれないように、それでも適度にずらしながらやっていこうと思います。
今日はイタリアの近代都市形成というテーマですが、タイトルに使いましたこの写真を皆さん見ておわかりになりますか。これがイタリアのどの町かおわかりになる方どれぐらいいらっしゃいますか。お一人ですか。
【会場】 わからない。
【柴野】 そうですか。これはサンテルモ城から見たナポリの写真です。この通りがスパッカ・ナポリといいます――スパッカーレというのは、真っ二つに割るという意味の動詞で、ナポリを真っ二つに割ると、まさに見ていただければわかりますが――このナポリのちょうどこの辺りが一番古い区域です。つまりギリシャの植民市の跡が残っているところです。その向こう――イタリア語でグラッタチエーリ(Grattacieli)と言いますが――高層ビル街が見えます。このもっとも古い地域から高層ビル街のあいだは2キロも離れておりません。つまり、3000年ぐらいの時間がここにギュッと凝縮されている町です。

実際、イタリアの都市を考えていくと、いろいろな意味で面白いことがあります。皆さんもイタリアには何度も行っていらっしゃいます。それはやはりイタリアのいろいろな町の多様性があるからどこへ行っても、それなりにまた新しいものを発見できると考えていらっしゃるためだと思います。
例えばミラノのドゥオモ、これはルッカです。そしてフィレンツェ。これはマテーラ――南イタリアになりますが――サッシと申しますけれども、石灰岩でできたがけに穴を掘って、そこが住居になっています。50年代まではここにやはり人が住んでいたのですけれども、今は人は住んでいません。ただし、これも世界遺産になっております。
こういうようにイタリアの都市の魅力というのは、多様性にあると確かに言えるわけです。ただ、多様性だけで全部が語られるかと言うと、そうでもないのです。特に近代都市を考えた場合には、もっといろいろ別なことが見えてくるというのが今日の話の趣旨です。
私が最初にイタリアに滞在したのは、1975年~78年で、ほぼ2年半おりました。先ほど紹介でありましたように、ローマで2年半過ごしまして、あとは2001年にナポリに半年おりました。それ以外は大体みんな短期の滞在で、長くても1カ月ぐらいしかおりません。

今、写っているのがローマのテルミニの駅前ですが、これはグーグルのストリートビューからもらってきた画像です。グーグルアースというのはとても面白いと思います。私はいつもあれを見ているのですけれども、自分が行ったところ、それから行くところを事前に見ておくというのも面白いと思います。
1975年の11月イタリア政府の給費留学生として初めてイタリアに参りました。空港から最初に着いたのがこの駅です。給費留学生ですが、イタリア政府から――今は多少システムが変わっておりますけれども――航空券もらってアリタリアのこの便に乗りなさいというので行くわけです。10人ぐらいまとまって留学生が行くのですが、音楽をやる人、建築をやる人、美術をやる人――私は歴史ですけれども――いろいろな人が一緒に行きました。1975年の11月でしたから、当然成田空港が出来る前ですので、羽田から出ました。
アリタリアはその当時北回り便もあったのですが、私たちが乗ったのは、南周りで香港、バンコク、テヘランと、26時間ぐらいかかる飛行機で、夕方出て翌翌日の朝に着くというとんでもない便だったのです。着いたのは金曜日の朝でしたから、ローマに行く人はいいのですけれども、ローマ以外の都市に行く人たちは、とにかく早く留学地に行きたいというので、まず外務省に行きました。

これはローマの北側にある外務省です。写真ではよくわからないですが、非常に大きい建物です。これはファシズム時代に造られている建築で、全体に外務省の辺り、ローマのテヴェレ川の右岸にあたりますけれども、テヴェレ川の北側にあたりますが、この辺りはここにオリンピック競技場、ローマ・オリンピックのときに使われた主会場ですが、もともとファシズム時代にこの辺りは全部整備された地区です。
ですから、このあたりはとにかく白い大理石を使って非常に大きく、ファシズム期の建築の、一種威圧的な感じを与えるような建築がずらっと並んでいるところです。とにかく朝パッと着いて、タクシーで外務省まで行って、その辺りで見た感じでは、すごいところに来ちゃったなという感じがしました。
それはどういうことかと言うと、結局イタリアの都市、あるいはイタリアの建築というのは基本的に石の文化です。きのうまで畳の上で寝ていた人間が四六時中ずっと石の上で生活するというのは、相当なストレスがあったと今でははっきりわかります。
皆さんは私とそれほど世代が変わらないと思います。つまり木の床と、せいぜいフローリングと畳と、その生活をしていた人が24時間石の上で暮らすというのは、これは相当なストレスがあるなと、そのときにつくづく思いました。

私が住んでいたのはこの辺りです。これもローマの北東部にあたりますけれども、ファシズム期に開発が進んだアパートです。ちょうどこの通りです。この左側にある建物は私が住んでいたアパートです。こういうのは、ストリートビューで見るとあまり変わっていません。あの店がまだある、あの店はなくなってというのはすぐわかって、非常に面白いです。
石の文化をつくづく思いながら2年半暮らして78年に日本に帰ってきて、翌年の79年に芦原先生のこの『街並みの美学』という本が出まして、出た当時も相当話題になった本です。毎日出版文化賞をもらっています。本格的に都市景観を論じた本だろうと私は今でも思います。古い版を実は見付けられなかったので、これは今、岩波現代文庫の中で生きている版です。これは非常な名著だと思います。
これは都市景観というものが一体どういうものからなり立っているのか、美しい街並みは何が条件なのかというようなことを逐一、いろいろな角度から分析した本で、例えば道路の幅と、建物の高さ、これは建ぺい率という形でわれわれの住宅などをするときに縛っておりますけれども、それをこの本は都市景観の美学的見地から考えています。
例えばニューヨークの高層ビル街における道路の幅と、後でお話しますが、ナポリの先ほど写したような旧市街区のものすごく狭い道で、5階建て、6階建ての石造りの建物がつながっています。ああいうものと、一体、人間が心地よく感じる建物の都市の条件とはどうものかをいろいろ論じています。広場の問題などもそこで扱われております。
この本の最初の部分で、広告および色使いというようなことが語られています。内部と外部というのもこの本の中では非常に大事なテーマで、これは今、読んでも古びていないとてもいい本だと思います。
「再考」などと今日は大それたタイトルを付けましたけれども、そこまでは行かないで、このようなこともありますということを今日はお話しようと思います。

芦原先生の本の紹介を少しいたしますと、例えば「色使い」というテーマがあります。この写真の場所はわかる方いらっしゃいますか。かなりの方はわかりますね。シエナのピアッツァ・デル・カンポ(Piazza del Campo)で、パリオをやる広場です。貝殻の形をしていまして、真ん中のほうに向かって傾斜していまして、見ていただければわかりますけれども、このカンポ広場(Piazza del Campo)の周りにある建物というのは決して統一が取れているわけではありません。色合いや窓の形はそれぞれありますけれども、しかし全体として一種落ち着いた雰囲気になっています。
特にトスカーナの場合は、赤っぽい瓦の色というのが共通しております。基本的に都市を作るときというのは、建材はその近辺で集めてきます。石材などは大体同じところから集めてきますので、そんなにいろいろな色の建物ができるというわけがありません。ですから、非常に落ち着いた感じになります。
もう一つ大事な点は、こういう古い都市の歴史的中心地区(チェントロストリコ)の場合には、色使い、特に広告、宣伝にかなり厳しい制約がかかっていることです。色や大きさに関しては随分厳しい制約がありますので、例えばこういうところに大きな看板を付けるようなことはできないようになっています。

比較対象として、これは銀座通りです。芦原先生の本でもやはり銀座の看板のことが扱われています。先ほどのグーグルはピントはくっきりですが、日本のストリートビューは随分規制がかかっておりまして、ピントはぼんやりしていますがわかると思います。
今日、私は松本から新宿に着いたのですけれども、電車の窓から見える新宿の風景で目立つものはやはり色使いです。まだ銀座の色使いは比較的おとなしいほうだと思いますが、この袖看板と呼ばれるビルから突き出た看板がボコボコ出ています。建物の不揃いもそうなのですけれども、色の不統一、看板の色に関するいわば統一した考え方がありません。そのために極めて乱雑な印象を受けるというのが芦原先生の指摘です。そのようなことは指摘されなくてもすぐわかります。
東大で助手をしていたときに女子学生が一人、シエナに2カ月ほどイタリア語の研修に行って帰ってきて、池袋の街に出るのが嫌になったと言っていました。彼女は池袋から西武線に乗って通っていたのですけれども、とにかく色が迫ってきて、街を歩くのに強い圧迫感を感じて、ひきこもりに近くなったという話をしていました。この場合、無理はないと思います。
このように都市のいわば景観に関するコミュニティの中での意志一致や統一した理念は日本の場合にはほとんどないと言っていいと思います。
ただ、1980年代に入り、私がちょうど東大で助手をやっていたころにイタリアから日本に来る留学生の数が少しずつ増えてきて――今は随分増えてきています――その当時の文部省の方針で留学生をとにかく増やすということで留学生に対して奨学金もたっぷり与えるようになり、イタリアから日本にたくさん学生が来るようになりました。
あそこに行けばイタリア語がわかる人がいるし、何とかしてくれるというので、こういう学生が困ったときには次から次へと私のとこに相談にやってくるのです。こういう連中といろいろなことを話しました。その当時のイタリアの大学で日本研究をやっているところはあまりなくて、ナポリに東洋大学(Studi di Orientale)というのがあります。あとはヴェネツィア大学にやはり日本文化研究科というのがあります。ヴェネツィアとナポリが双璧(そうへき)なのです。今はかなり日本研究のセクションというのはイタリアの大学でも増えています。
彼ら、彼女たちと東京の印象について話し合いますと、東京はきれいだと言うのです。そのきれいというのは、イタリア語で汚い、ばっちいということですが、スポルコ(sporco)汚れているというのと、プリート(pulito)きれい、清潔だと、こういう言い方があります。それからブルット(brutto)醜い、汚い、ばっちい、それとベッロ(bello)美しいという、イタリア語にはそういう表現がありますけれども、きれいだというときに、「東京はプリートという意味だろう」と聞く、「いや、そうではない。東京はベッロだ、ウナ・ベッラ・チッタ(Una bella città)美しい街だ」と言うのです。その辺をいろいろ聞いてみますと、彼らが言うときの街並みという考察の対象が、どうも私がそれまで抱いていたイタリアの街並みとは違うらしいということが段々わかってきました。
先ほどシエナのピアッツァ・デル・カンポ(Piazza del Campo)を見ていただきましたけれども、こういう15世紀、16世紀あるいはもっと古い、そういう時代の街並みですが、かつての時代の建築物をそのまま残した歴史地区というのは、町として生きているいわば生きている町ではなくて、一種の文化財のようなものになっているというのが、彼らなりの考え方です。
つまり、歴史的な街並みという存在は、例えば私が今住んでいる長野県には、馬籠というところに宿場町の跡――あれは保存しながら復元して、そして見事な形で中山道の宿場町を残しておりますけれども――ああいうものであって、一種の映画のセットや舞台の書き割りのような、そういうものとして観光客誘致という点では極めて有効なのですが、しかし、「そこは生きた町としてほとんど機能していないのではないか」と思います。そういうような場所がイタリアには結構あるのではないかと思います。
つまり、彼らの言うには、「生きている街並みであれば絶えず変化していく、人が生きて活動していく限りにおいては、どんどんいろいろなもの、新しい状況、新しい時代に応じて変わっていくのが当たり前で、東京はそういう意味ではダイナミックに変化していく」というのが、彼らから見て極めて魅力的だと、理解しました。確かにそうかもしれないと思います。
私も東京で育った人間ですけれども、東京の変化の激しさには戸惑うことが非常に多いです。地形や道路は変わっていなくても、建物があっという間に変わってしまって、それも非常に大事だと思うのもがパッと消えてしまのです。それは困ると思うのです。銀座はそれほど変わっていないけれども、渋谷や新宿は随分変わりました。
新宿などでは、この前学生と歩いていて、「ここにかつては浄水場があって」という話をしたことがありまして、「先生、それいつの話ですか」と学生が聞くのです。「いや、50年前かもしれない」という話をしまして、「それはさすがに古すぎる」というのです。しかし、確かに私の記憶の中には、西口にあった淀橋浄水場がちゃんとあるのです。いきなり脱線が過ぎました。

今日は、変化という局面からイタリアの近代都市を見ていくことが狙いです。前置きが長くなりました。
これは1860年代のローマの市街図です。外側のこれが城壁です。ムーラ・アウレリアーナ(Mura aureliane)と言われる大体3世紀~4世紀にアウレリアヌス帝の時代に造られた城壁です。これが今でもローマの中にはかなり残っていますが、この黒い部分が市街地で、つまりこの市街が終わったところから城壁までは茫漠たる空間が広がっています。ここが何に使われていたかと言うと、果樹園になっていたり、あるいは牧場になったり、そういうように使われていました。
1860年代は、この辺りがフォロ・ロマーノになりますけれども、ここはカンポ・ヴァッチーノ(Campo Vaccino)と呼ばれて牛飼いの野原、つまり牛の取引がある場所だったという記録が残っています。この地図でもわかるのですけれども、ここに1本線がスッと入っていまして、ここに建物があります。場所的な位置から見ておわかりになると思いますが、この線は鉄道です。1856年にローマ-フラスカーティ間の鉄道ができまして、テルミニ駅が1863年にできます。ですから、ちょうどこれは60年代に鉄道が引かれたころの地図です。

この写真が開業当時67年のテルミニ駅です。向こうに見えるのがディオクレティアヌス帝のテルメ(浴場)跡ですが、これが開業当時のテルミニ駅の写真です。あまりこういう写真が残っていませんので見つけるのがなかなか大変です。最近はネット上にたくさんこういう写真が出てくるようになりましたけれども、このときはなかなか見つかりませんでした。蒸気機関車が走っていますが、これが67年当時のテルミニ駅です。
ローマがイタリア王国に編入されるのが1870年ですので、首都になる前のテルミニです。これが1873年、つまりイタリア王国の首都になった直後のローマの都市計画図です。実際まだこういうようにはできておりません。先ほどのテルミニ駅がここに駅がありますけれども、この黒い部分というのが、その当時、新しく街区を作ろうとした地区ですが、まだできていません。
ローマの中心はどこかと言われると、なかなか難しいのですが、ヴァティカンがあって、この辺りにカンピドーリオがあって、ローマの市庁舎があります。この場合は、テルミニ駅からローマの中心に向かって真っすぐ道を作るというのが、ここでは一番主たる狙いとして都市がまず作られていきました。
首都になると、たくさん役人や軍人がやってきて、あっという間にローマの町は、建物が不足していきます。70年代~80年代にかけてのローマというのは、いわゆる建築バブルで、投機が非常に盛んになります――もちろんバブルはいずれはじけるのですが――そのころに作られた計画です。大体こういう計画に沿って街が作られていきました。

例えばこのローマのテルミニから中心に向かっていく真っすぐな通りの一つに、ヴィア・ナツィオナーレという通りがあります。これがヴィア・ナツィオナーレの開設を当時描いた版画です。
つまり道を作ると言っても、何もないところに作るわけではないのです。そこに建物があるので、それをつぶしながらそこに道を作っていきます。そういうことがローマの場合、かなり大がかりに行われました。その結果出来上がった通りがこれです。
こちらは1890年代のヴィア・ナツィオナーレの写真です。車ではなく馬車が走っていますが、これが今のイタリア銀行です。実は、このヴィア・ナツィオナーレの写真にグーグルのストリートビューを重ねますと、こうなっておりまして、まったく同じ場所の角度からではありませんけれども、ほとんど変わらないです。ほとんどこの辺は大体できております。イタリア銀行の建物がありまして、走っている車は違いますけれども、驚くほどこの辺は今もまったく同じです。
同じくもう1枚ヴィア・ナツィオナーレの写真です。ヴィア・ナツィオナーレは緩い下り坂ですから上のほうに少し登っていきますと、ここに一つ特徴的な教会があります。正面がディオクレティアヌス帝のテルメ(浴場)跡です。この当時はここに街路樹がありました。これが今はどうかいいますと、このような感じで、この辺もやはりあまり変わっていません。このあたりの建物は多少変わっていますけれども、ヴィア・ナツィオナーレの周辺はほぼ1880年代~1890年代に作られた形がそのまま残っています。100年前ですから十分長いと言えば長いですけれども、ただ、これはそんなに昔のものでないということがよくわかると思います。

この写真はヴィア・ナツィオナーレを上から見たところです。ここはピアッツァ・エゼードラと呼ばれていますが、ヴィア・ナツィオナーレの終わるところのに円形の広場があります。これは戦後すぐの時期の写真ですけれども、これをまたグーグルアースで見ますと、このような感じです。今ひさしが前に出てきておりますけれども、真っすぐこういうようにヴィア・ナツィオナーレができています。建物の形としてはそんなに変わらないです。建物の形、形式はその辺は1880年代~1890年代にほぼ出来上がったということがわかります。

同じようにローマの中心の一つですが、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂、イタリア人はヴィットリアーノと呼びます。ヴェネツィア広場の真ん中にあるばかでかいまっ白い建物です。ショートケーキのようなという言い方をする人がおります。ヴェネツィア広場(Piazza Venezia)そのヴィットリオ・エマヌエーレ記念堂から撮った写真です。
このピアッツァ・ヴェネツィアは、これもちょうどほぼ同じ時代、つまり1870年代~1880年代にかけて整備が進みました。これはヴィットリアーノの建設途上です。真ん中に今はここにヴィットリオ・エマヌエーレ2世の大きな騎馬像がありますけれども、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂、中は歴史研究所になっています。リソルジメント研究所というので、私はしょっちゅう出入りしていたのですけれども、エレベーターに乗ってこの屋上に出られます。この建物はローマのどこからでも見えるので、この上に立ちますとローマどこも見えます。ただ、そこは公開していません。この建物の前にはかつてはいろいろなものがまだ残っていました。

これは1870年のヴェネツィア広場で、こんなに狭いところだったのです。ほかに建物がいっぱいです。これはコルソ通りです。ヴェネツィア広場から西に向かうコルソ・ヴィットリオ・エマヌエーレ(ヴィットリオ・エマヌエーレ通り)という大通りです。まだその整備が進んでいない時代です。これはその当時の写真です。すごく狭かったので、こういうところを広げて広場を作り、そして大きなモニュメントを作っていきます。
それから、ヴェネツィア宮殿移築作業ですが、建物の向きを変えるということをやりました。どうやったかと言うと、石を崩して別のところへ運んでそれを建てるということをやります。これが20世紀初頭のヴェネツィア広場です。今と雰囲気が違うのですけれども、こういう感じになっていました。これも1920年ごろのファシズム体制成立以前のヴェネツィア広場です。

こちらはヴェネツィア宮殿です。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂ですが、現在はヴィア・デイ・フォーリ・インペリアーリ(Via dei Fori Imperiali)、このヴェネツィア広場からコロッセオに向かっていく幅100メートルぐらいある広い通りがありますが、この時代にはまだないのです。
ヴィア・デイ・フォーリ・インペリアーリ(Via dei Fori Imperiali)とは「皇帝たちのフォーラムの通り」ということで、ここにトラヤヌス帝やいろいろな皇帝たちのフォーラムがたくさんあります。ムッソリーニはここでもヴェネツィア宮殿の一番広い部屋を自分の執務場にして――バルコニーがこのヴェネツィア広場に面してあるのですけれども――そこから見たときに、「ここにいろいろ建物が建っているのが実に目ざわりだから、真っすぐコロッセオまで道を作れ」ということで、あの広い道を作ったので、あれはファシズム期に出来た道なのです。
これは反対側から見たので、わからないと思いますが、これがヴェネツィア宮殿で、こちら側にコロッセオがあります。これがフォロ・ロマーノです。ですから、ここにいっぱい建物があったというのがよくわかると思います。これはフォーリ・インペリアーリができる前の通りです。
こういうようにして、古い街並みを新しい都市計画で変えていきます。そのときの動機として、一つは政治的な狙いがあります。先ほど言いましたように、新しい都市の機能をどういうように作っていくのか、そういう視点がそこに入っていました。

この写真は今のヴィア・デイ・フォーリ・インペリアーリです。ここがヴェネツィア宮殿で、真っすぐコロッセオまで、先ほどのような小さな建物は全部なくなっています。
このテルミニ駅もご存じの方もいらっしゃると思いますが、ファシズム時代に整備が進んだ駅の一つです。ファシズム期に作られた駅舎で代表的なものは、このローマのテルミニとフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラの二つです。非常によく似ていると思います。
ちなみに、これが壊す前の旧テルミニ駅です。これもやはり19世紀の終わりに作られたものです。これはこれでなかなか趣があってよろしいように思うですが、こんな感じです。なかなか立派な建物だったのですけれども、新古典主義といういささか古めかしい建築様式です。ただし、それは作られた当時は最新のスタイルでした。

これから幾つかイタリアの都市の写真を見ていいただきますけれども、結局のところ、そういうように都市改造を行うときには、その都市改造を行った時代の最大公約数的な建築様式が採用されることはほとんどです。この駅も悪くない、このまま残ってもこれはこれでいいように思います。今のテルミニ駅は近代すぎていささか問題があろうかと思います。
つまり、都市計画の過程で失われたものというのは何なのか。先ほど言いましたように古い建物を壊して、そこに道路を作るということもありますけれども、そのほかにも例えばローマの場合、大事な重要な文化財、重要な空間が失われたというケースがあります。

例えば1873年のローマの都市計画図の中では手つかずに残っておりますが、テルミニから北側に向かって、ここに広い空間があります。ここはヴィッラ・ルドヴィージと呼ばれたある貴族の非常に大きなヴィッラ(villa)があったところです。この北側にはヴィラ・ボルゲーゼが今でも残っておりますが、このヴィッラ・ルドヴィージは、当時のローマで屈指の庭園と呼ばれたものです。ここはやはり1890年代に都市計画の対象とされました。現在ですとアメリカ大使館、ヴィア・ヴェネトの北東側に広がっているヴィア・ボンコンパーニという道がありますけれども、この碁盤の目状のこのあたりです。こういうようにきれいに区画整理されて、高級住宅地に変わっていきました。今はオフィス街になっておりますが、こうした変化もこの時代に起きたことです。
この消えたヴィッラはなかなか美しいヴィッラだったと言われています。ローマに訪れたいろいろな人がそれについて記録を残しておりますけれども、1909年になると、もうすっかりそれが消えていて、今のローマとそう変わりません。
これは今のローマです。結局、ローマの中でこの辺りが一番古くて、15~16世紀でこのあたりの整備が進み、そしてその後、さらに外へと発展していきます。ファシズム期に城壁外に広がっていって、戦後はもっともっと外に拡大していきました。そういう都市の発展の歴史があります。

この写真は2007年のローマです。このローマのコルソ・ヴィットリオ・マヌエーレの北側、ここにピアッツァ・ナヴォーナがありますけれども、この辺りですね。この辺が一番古い区域です。つまり、真っすぐな道がないのが自然な都市の出来方であろうと思います。先ほどのヴィア・ナツィオナーレはこの通りです。
ずっとローマが続きます。これは1870年代のテヴェレ川です。魚を釣っていますが、今でも釣れるようですが、食べないほうがいいという話も聞きました。カステルサンタンジェロです。ハドリアヌス帝のお墓があって、カステル・サンタンジェロがあって、向こうにヴァティカンのサン・ピエトロのドームが見えます。これはポンテ・サンタンジェロですけれども、ほとんど護岸工事ができていません。1870年ごろは結構、テヴェレ川が氾濫するようなこともよくありました。
これは逆方向から見た写真です。川に沿った道路ができまして、きちんと整備されています。こういうようになると、同じ川と思えないぐらいきれいに整備されています。
ファシズム期の建物と言いますと、もう一つは先ほどのテルミニが代表ですし、北側のスタジオ・オリンピコの辺りもそうですけれども、このエウルと言われるローマの南の地区がそうです――ここでF1を走らせるという話をしておりますが、かなり無謀なことのように私は思います――ここもファシズム期に作られた街区、1940年の万博のために作った街区ですけれども、代表的なものはこの建物です。これも典型的なファシズム時代の建築の一つです。

ファシズム期の建築は今、再評価が進んでいて、非常に高い評価を与えられているケースが多いようです。今、ローマをずっと見てまいりましたが、次はミラノです。
1801年のミラノの地図を見てまいりますと、まだ外側の城壁が残っています。ミラノではナヴィリオ(naviglio)と呼ばれていますが、運河が流れています。運河は今、上にふたをして道路になっておりますけれども、まだ水が流れているらしいです。外側のナヴィリオはまだ水が流れているのが見えます。このミラノの1801年の地図でもローマの場合と同じで、城壁のはるか内側で市街は終わっています。

ここに新しい時代が始まりますと、どうなってくるかと言いますと、これはちょうど区画整理が進む前のチェントロなのですが、わかりにくいのですが、後ろのほうにボーっとドゥオーモの姿が霞んで見えています。つまりドゥオモ広場の南西側から撮った写真です。これはピアッツァ・コルドゥジオ――下が少し切れていますけれども――というピアッツァ(piazza)です。これがその後1880年代に整備が進んで、ほぼこういう形で出来上がります。
つまり、この様式を見ていただきますと、先ほどのテルミニの古い駅とこれはほぼ同じで、この時代の建物が今も実はイタリア都市の特に中心部には残っています。
もう一つ、これはグーグルの今の写真です。ほとんど変わっていません。これはダンテの銅像で、市電が走っています。というように、ほぼ1870年代、1880年代にこういうように都市が新しくなるときには、そのころに一応の形が出来上がっていると考えればよいと思います。

これは、ピアッツァ・デル・ドゥオーモ、ドゥオモの前のピアッツァです。ガッレリア・ビットリオ・エマヌエーレ、アーケードが見えるところです。ピアッツァ・デル・ドゥオーモもこのころの整備です。様式としては、やはりボザールという様式もありますけれども、ほぼ19世紀終わりの建築様式をそのままここも取り入れています。やはりどこの街に行きましても同じようなものが多いです。
これはもう全然わからないと思いますが、これはフィレンツェです。ピアッツァ・デル・メルカート・ヴェッキオと呼ばれていた広場です。メルカート・ヴェッキオ、つまり古い市場ですから、もともとここは市場が立ったところです。実はこれは完全に姿を変えまして、今のフィレンツェの中心的な広場の一つになります。

それはどういう広場かと言いますと、ピアッツァ・ヴィットリオ・エマヌエーレ、これは真ん中にヴィットリオ・エマヌエーレの騎馬像がありますのでわかると思いますが、ピアッツァ・ヴィットリオ・エマヌエーレ、ところがこれも戦後になって名前が変わりまして、今はピアッツァ・デラ・レプッブリカ(Piazza della Repubblica)、共和国広場という名前が付いています。場所はどこかと言いますと、これを見れば皆さんわかると思うのですけれども、先ほどの写真とほぼ変わらない、角度は違いますけれども、建物はほとんど同じなのでよくわかると思います。馬車が写っていますけれども、これは20世紀入る前の写真です。
これは今の同じ広場です。真ん中の銅像がなくなりましたが、建物そのものはまったく同じです。先ほどの一番初めの古い市場のあの広場がこういうように模様替えをしていきました。これはそれを上から見た図です。このような感じの広場になっています。これはどこかと言いますと、こちらの右のほうに行きますとピアッツァ・デラ・シニョリーアそしてもう少し南のほうに行きますと、ウッフィーツィがあります。まさにフィレンツェの中心です。ここにエジソンという大きな本屋があります。フィレンツェのちょうど真ん中にあたる重要な広場です。

フィレンツェはこういうように航空写真で撮ればよくわかるのですけれども、赤い瓦が非常に特徴的ですので、高いところから見ると非常に美しいです。日本の都市も昔はこうでした。
今でも忘れていないのですが、私は1967年に大学に入ってすぐ京都に遊びに行きました。ちょうどそのころ京都タワーができて反対する人はたくさんいたのですけれども、出来たからとにかく登ってみようと、上から見て驚きました。もうバアーっと黒い瓦がずっと広がって非常に美しいのです。けれども、今は京都に行きまして――その後、京都タワーに登っていませんが――清水寺から京都の街を見ますと、もう全然そのような光景は見えません。いろいろな色が混ざり合っています。建物の規制はかかっていますが、色の規制はかかっておりませんので、上から見ると汚い町としか見えないです。こういう町にはなりません。やはりこれは都市景観に対して非常に細かな配慮があるということです。
ちなみに少しお話しておきますと、フィレンツェはもともとフィエーゾレという北側にある町の孫市というか、このアルノ川に掛る渡し場にできたローマ時代の都市が起源です。ローマ時代の都市の城壁の跡が実はこういう通りに見えるのです。これがそのローマ時代に城壁があったところです。ですから、まさにここが中心です。これがポンテ・ヴェッキオ、これがウッフィーツィ、ここにドゥオーモ、サンタ・マリア・デル・フィオーレが見えます。ここが本当の中心になります。
しかし、今のような都市になっていくのはやはり統一イタリア後のことだと考えたほうがよいと思います。もちろん都市の構造みたいなものは変わりませんけれども、少なくとも外観に関しては、相当そこで大きな変化があったと考えたほうがよいと思います。
フィレンツェの中央駅フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラという駅です。これもファシズム時代の駅です。ウルトラモダニズムと言っていいような、そういう建築様式がここには使われています。

今まで見た都市で言えることは、都市が変わるときのきっかけになるのは、鉄道だということです。これはアレッツォという町の場合ですが、この左下の黒いものは何かと言うと駅なのです。フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリといった大きな都市の場合は別ですが、大抵のイタリアの都市の場合には鉄道よりも前に城壁が既にあります。ですから、城壁を壊して、先ほど見ましたように建物を壊して、そこに線路を引いて駅を作るというのはとても難しいのです。つまり、利害関係者も多いし、お金もかかるし、抵抗も大きいです。ですから、大抵はイタリアの駅は城壁の外に作られます。
日本の場合もそうだろうと思います。私が住んでいるのは松本ですけれども、松本駅はもともと町外れに作られました。お城から少し離れたところで線路が通っています。
いずれにしても、町外れに駅を作りますから、その町外れの駅から町の中心に向かって道を作らざるを得ません。駅を作って道を作ったところから、実はこの点々の部分は、駅を作り、道路を作ったときに区画整理をした地区です。つまり、鉄道の導入が町の変化を促すということになります。

これはフェラーラの場合ですが、フェラーラはちょっとわかりにくいですね。行った方はおわかりになると思いますが、今でも城壁がきっちり旧市街を囲んでいます。フェラーラの場合もやはりここに駅を作ります。ただ、真っすぐではないです。一たんここに出て、ここから真っすぐ町の中心まで道を作るということをやります。
今のフェラーラの写真で見ていただきますと、これがフェラーラです。北と南の関係が多少おかしいですけれども、ここが駅です。駅からこちらに出て、ここから真っすぐフェラーラの中心部に向かって道路を作ったのです。ここにエステ家の城というフェラーラの中心がありますけれども、この道は随分幅は広いです。しかも、真っすぐ作ります。
つまり、こういうようにして、鉄道が入ってくることによって形が変わっていくことを経験した都市がかなりあります。ほとんどの都市はそうだと思います。鉄道駅からチェントロに向かう大通りを作ります。こういうように町ができていくことになります。

もう一つ例を挙げます。これはどこかと言いますと、これはピサです。アルノ川が流れていますけれども、ピサもやはり城壁が残っている都市です。城壁の南側に駅を作りまして、この駅から中心に向かって真っすぐに――途中から分岐しますけれども――道を作っていきます。それと同時に、この駅の周辺を再開発する計画が進みます。
これがグーグルで見ましたピサの今の図です。ここに駅がありまして、こういうように分かれていく道があります。ちなみに斜塔などがあるのは、ずっと北のほうです。ピサは眠ったような小さな町ですけれども、こういうように鉄道が入ってくるときに都市の形が変わっていくということを経験いたしました。

もう一つ、これはラヴェンナです。ラヴェンナはぎりぎり鉄道を城壁の一番外のところに作ります――これは特殊な例です――ここに駅を作って、ここの駅の周辺、斜線の部分の再開発をやります。ラヴェンナの写真もありましたけれども。雲がかかってわかりにくいですが、これが駅です。こういうように中心に向かって道を作っていくということをやりました。
ヴェネツィアは、ほとんどそういう変化を経験していないと私はずっと思っていました。ヴェネツィアは車は走らないし、馬車は走らない町だからほとんど変わっていないだろうと思ったのですが、実はそうではなくて、ヴェネツィアの場合も、ここにヴェネツィア・サンタ・ルチアという駅ができまして、鉄道が入ってくるようになりますと、この駅から中心、つまりピアッツァ・サン・マルコの方向に向かって大きな道を開きます。ストラーダ・ヌオーヴァという通りを作るのです。名前からして新しい通りなのですけれども、これがストラーダ・ヌオーヴァです。こういうように行く道です。
ただ、もちろん途中で終わります。歩いてみればわかるのですが、ヴェネツィアの道は、どこも狭い(カッレ)という言い方をいたしますが、小道です。これは明らかにストラーダと呼べるぐらい、トラックがすれ違えるほどの――トラックは走れないですけれども――十分幅の広い通りがそこに作られました。このようにヴェネツィアのような都市ですら鉄道は大きなインパクトを与えていることがわかります。
これはグーグルの写真です。ここに駅があります。この道です。こっちに行きますとサン・マルコのほうにつながっていきます。このようにほとんどの都市が鉄道によって変容を迫られていくことになりました。
それでは話をいよいよタイトルの写真に登場したナポリに戻します。私は半年ナポリにいたものですから、ナポリについてはいろいろあちこち歩き回った上で、留学生たちがなぜ東京はベッロ(bello)で、ナポリはブルット(brutto)だと言うのかをいろいろ考えていたのです。

これはナポリの港から陸地のほうを見た絵で、向こうに見えるのがカステル・サンテルモ(サンテルモ城)です。カステル・ヌオーヴォがあり、これは大きな波止場があって、そこから見たところです。
ナポリの場合は、絶えずいろいろな問題が起こります。大量の貧民が常に――特に大体15世紀ぐらいから、全体南イタリアは貧しいわけですので――食べられなくなった人たちがナポリの町に流れ込んでくるということがあります。

これは1656年のペストの流行のときのナポリの絵ですが、病死者を処理できなくなって一カ所にまとめているという様子を描いた絵です。何度も何度もナポリは疫病に襲われることになります。それは後でお話しますが、非常に厳しい条件がナポリにはありました。
一つは、やはりそういう大量の貧民の存在です。非常に人間が多い割には公衆衛生条件が悪いわけで、17世紀ぐらいまではペストですが、19世紀に入ると、今度はコレラがはやるようになります。コレラは――橋都先生はご存じでしょうが――もともとはベンガル湾の辺りから始まった風土病です。19世紀にはやはり日本にも入りますし、ヨーロッパにもやはり1830年代ぐらいから港町を中心に非常にはやるようになります。免疫がありませんので、大量の被害が出るようになります。
コレラの場合は、基本的には飲み水、下水など公衆衛生条件をよくすれば、大体収まってきます。ただ、それをうまくできないのがナポリの場合です。

これは1736年当時のナポリの地図です。海沿いの町ですので、基本的にずっと海から登っていきます。これを見てわかりますが、ここは丘になっており、今はここにフニコラーレ(ケーブルカー)が3本掛っています。上はヴォーメロというミドルクラスの居住区ができています。ここに卵城があって、カステル・ヌオーヴォがここにあって、ここにまっすぐ北に向かいます。今はヴィア・トレドという名前の道があります。最初に見たスパッカ・ナポリはこの通りです。
ナポリは大量の貧民がいます。その貧民たちは非常に悪い衛生状態の中で暮しています。これは1860年代サンタ・ルチア地区の写真です。サンタ・ルチアは卵城の近くです。つまり海岸地域で傾斜地に建てられています。こういう建物は、基本的に入口は一つしかありません。家はあっても入口は一つ、窓が一つ。あるいは、こういう建物は窓がなくて、入口だけが唯一の光や空気を取り入れるような家であることが多いのです。
こういう場所で一たんコレラなどがはやり出すと、大変なことになるわけです。何度も何度もコレラが流行して、1884年の流行というのが最後の大流行でした。実は、ナポリでは1960年代でもまだコレラが出ました。私の先輩がやはりその1960年代当時留学していまして、「まだコレラがはやるなどというのは恥ずかしい」という話をしていました。当然、1884年の段階でも、もうほかのヨーロッパの都市ではコレラはもうはやらないのです。

そのとき、「この地域はナポリのはらわただ」「ヴェントレ(ventre)である」と。デプレティスというのが当時の首相ですけれども、その首相が「ビゾーニャ・ズヴェントラーレ・ナポリ(Bisogna sventrare Napoli)、ナポリのはらわたちをズベントラーレしなければいけない」と発言しました。ズベントラーレ(sventrare)とは、はらわたを出してしまうことを意味します。どういうことかと言うと、魚や獣を猟して捕まえますと、日もちをよくするためにらわたを出してしまいます。そのことをズベントラーレと言います。ズベントラメントというのはまさにそういうことなのです。「こういうナポリのはらわたを全部きれいに出して、ナポリを新しい都市として作り変えなくてはいけない」というようなことを言い始めます。
そのために特別立法を作って、非常に大変な工事をやります。この当時のナポリがどれほど――今でもそうですが――危ないかということを統計的に研究した、フランク・スノーデンというアメリカの研究者の本があります。『コレラ時代のナポリ』というタイトルの本ですが、1878年~1883年、つまりコレラがはやる直前の時期で、1,000人当たりの主要都市の年間死亡率ですが、ウィーンは1,000人当たりで20.6人、ブリュッセルが23.1人、ロンドンは23.2人、ですから100人当たり2人、パリが24.6人、ベルリンが29.7人、ナポリは31.8人、こうして見ると確かにナポリは高いのですけれども、ウィーンの1.5倍という程度です。ただ、1.5倍というのは、統計から見ると、相当大きな差であるということは言えると思います。
コレラが流行した時期のナポリの地区はどうなっていたかと言うと――これは今でもこの地区分けは変わっていません――ポルト、名前からしてわかるように港のことです。サン・ジュゼッペ、これは教会の名前を取っています。サンタ・ルチア辺りはサン・フェルディナンド、メルカートというのは、これはメルカート広場という大きな広場がありまして、そこに今でも市場が立ちます。ヴィカーリア、これは監獄があるのですけれども、この辺りです。
そして、1884年当時のイタリアの主要都市の中で、ナポリの人口はほぼ50万人とすごく多いのです。ミラノが32万人、ローマはこのくらい、トリーノはこのくらいです。フィレンツェ、ヴェネツィア。ヴェネツィアの人口は、スペースが限られておりますので、16世紀~17世紀ぐらいからほとんど変わってないと思います。しかし、ナポリがこの当時でもイタリアの中でもっとも人口の多い都市であったということは間違いありません。
1884年の人口密度は、ロンドンが1キロ当たり1万3,000人、ローマが2万8,000人、パリが2万9,000人、トリーノは3万4,000人、しかしナポリはダントツで6万4,000人です。なぜこんなに人口が密集しているのかと言いますと、とにかく狭いところに密集しています。特にポルト、ペンディーノというナポリの中でも一番海に近い辺りでは、それがまたさらにはね上がります。ここが問題なのです。
その結果どういうことが起こるかと言いますと、ペンディーノ、メルカートの人口密度は1平方キロ辺り13万人です。1平方キロ辺りと言うのは、100メートル四方です。とにかくロンドンの10倍の人口密度でした。
1884年のコレラによるナポリの死者数は、メルカート地区が住民数5万5,000人に対して、死亡者数は2,714人、1,000人辺り30人です。ぺンディーノは24人、22人、16人、9人、この海よりのこの地区は一番多かったのです。場所と言いますとここです。メルカートがここです。ぺンディーノがここです。そして、ここがポルトです。この三つの地区が一番被害の多かったところです。

では、そこはどういうところだったのかということですが、これは実はズヴェントラメント以前のナポリの住居図です。先ほど申しましたメルカート広場というのは、これのことです。見ているとわかるのですけれども、つまりスパッカ・ナポリがあって、ここにドゥオーモの通りがあって、ただ、そこから外れますと、もうグチャグチャです。道幅は非常に狭く、馬車も通れないような道にびっしりこういう家が建っています。こういう家のほとんどが、後で写真をお見せしますが、もちろん平家ではありません。人口密度があれほど高いということは――当時としては高層です――5階建てぐらいの石積みの建物が建っています。
ですから、風は通らないし、日は差しません。日が差すとしても、晴れていても1日で数十分ぐらいです。要するに衛生条件が非常に悪いのです。また、水の問題があります。上水道の問題、下水の問題があります。ですから、一たんコレラなどの疫病がはやり出しますと、あっという間に死者がたくさん出てくるようになります。
その南のポルト地区です。もう少し南になると多少ましになります。これは今のビアトレドで、ここはスペイン人地区と呼ばれている比較的新しい17世紀ぐらいに作られた街区です。ですけれども、この辺もやはり相当に建て込んで狭くて背が高いです。
1880年代にナポリを訪れた人たちの中には、いろいろな人がいるのですけれども、例えばマーク・トウェインがヨーロッパを漫遊したときのことを書いたエッセイが残っています(日本語のタイトルは『地中海遊覧記』)。マーク・トウェインはナポリでの見聞記の部分で、「ナポリを見て死ね、というのではなくて、あれはナポリを見ると死ぬぞ」という意味だと彼は書いております。
また、1880年代にナポリで国際的な医学会が行われまして、医者たちがナポリにやってきたのですけれども、ドイツから来た医者たちはナポリの水を絶対飲まないで、ビールをずっと飲んでいたという話が残っております。それは確かにそうかもしれません。ナポリの衛生状態がわかる人たちは、とにかくここには近寄らないというので、まさに「ナポリを見て死ね」ではなくて、「ナポリを見ると死ぬ」というのは、正しかった時代も確かにあったのではないかと思います。
こういう言わばイタリアの恥と言えるような状態ですから、首相がナポリのはらわたを全部かき出さなければいけない。Bisogna sventrare Napoliというように言ったわけです。具体的にそれはどうするかと言いますと、ナポリの区画整理です。ナポリを根本から立て直すということになります。

これはその計画図ですが、少しわかりにくいかもしれません。ここにピアッツァ・ガリバルディ、ここに今のナポリ・チェントラーレという駅があります。その駅前にピアッツァ・ガリバルディという四角い長方形の広場を作りまして、その広場からナポリの中心に向かって真っすぐに広い通りを通しました。それだけではなくて、古い貧しい民衆が住んでいる地区をとにかく全部壊して、そこに計画的に街路を作り、建物を作ります。
もう一つは北に向かう道です。この駅から中心に向かって道路を作り、それと同時に区画整理をします。ほかの都市でも行われたこと――鉄道の導入にともなう都市改造――をナポリでは、はるかに大掛かりにやります。これはもちろんとんでもなくお金がかかる計画でしたので、特別立法をやりまして予算措置をします。それから外資を導入します。そうやってズヴェントラメントを進めていったのです。

そのズヴェントラメントの図が残っておりまして、それを見ると、元の街並みがどうなっているのかよくわかると思います。つまり、これが道路です。それぞれ見てもわかりますように、この家は1部屋しかないわけです。こちらの道に面して入口が一つ開いているだけで、こちらには窓はありません。要はうなぎの寝床のようにずらっと並んでいます。南イタリアの貧しい農民の家というのは、大体みんなこうです。そこに真っすぐある一定の幅でつぶし、壊して道路を作っていきます。壊すだけではなくて、そこにまた新しい街区を作って、新しく建物を作っていくということをやります。
取壊して再開発の対象になったのは、こういう貧しい民衆の地区だけではなくて、例えばこれは教会です。教会もこの中心的な部分は残しますけれども、この教会に付属する施設などは壊して、新しい道を作っていくということをやります。これぐらい強引にやらなければ変わらなかったとも言えると思いますが、まさに今のナポリは、100年ぐらい前の1880年代~1890年代にできた都市です。

これはナポリの駅から先ほどのピアッツァ・ガリバルディから北に向かう道路のズヴェントラメントの図です。正面に見えている大きな建物がアルベルゴ・デイ・ポーヴェリと呼ばれる救貧院です。これもま巨大な建物なのですけれども、北に向かう道路がこのときに整備されます。古い建物がたくさんあったのですが、これも一定の様式で建て替えられていきます。
もう少し大きな図にしますと、これがどれほど大掛かりで強引な計画だったかわかると思います。実際、この道はできます。これは今コルソ・ウンベルトという名前の通りになっています。ここにもう1本道を通すつもりだったのですが、途中でなくなります。ナポリ全体の改造計画も実はできていたのですけれども、そこまではできませんでした。できたのはほぼ、このコルソ・ウンベルトのこの街区だけです。

これがコルソ・ウンベルトです。ウンベルト1世通りです。ナポリの駅からスタツィオーネ・チェントラーレから真っすぐに道ができます。この道に沿って新しい建物――1890年代の建物――が造られていきました。ただ、この建物の裏辺りからまた昔の感じが少し残っております。
これはグーグルの衛星写真です。

コルソ・ウンベルトが真っすぐ出来上がりまして、確かにこの辺も区画整理が進み建物が出来上がってきます。では、ここに住んでいた人たちはどこに行ったかということですが、先ほども言いましたように、ヴォーメロという丘の地区は、これは金持ちが住む地区になりますので、ここにいた連中はほとんどナポリの海沿いの西のほうに流れていきます。キアイアと呼ばれる辺りに、また貧民たちの新しい街区ができます。この辺の駅の北の辺りはもう少し後になって整備されます。
私はナポリに半年住んでいたのですけれども、ナポリは怖くて行かないという人は結構日本の方には多いのです。そんな怖いという印象も私にはありませんでした。私は順応性はとても高いので、食べ物や町の雰囲気というのにはあまり苦労はしません。ただ、そういう私でもナポリはやはり一筋縄ではいかないようなところがあるとは思いました。
それはローマなども近いと思うのですけれども、アメニティと言いますか、町を歩くときの居心地の良さが関係してきます。それは単純に道の幅や、石畳がどうなっているかなどもあるのですけれども、それ以外に食べ物やトイレ――そういうものは観光客にとっては大事なことなのです――そういうものを比べてみますと、アメニティの良さというのは日本は抜群です。安全ということもありますし、休む場所があります。トイレもきれいなトイレも使えるというのは、イタリアではほとんどないと思います。私もいろいろな国に行きましたけれども、日本のような国はありません。外国からお客を呼ぶときには、このアメニティを中心に呼んだらいいと私は前から思っています。ローマもかなり悪いのですけれども、ナポリはそれに輪を掛けてひどいと思います。

これは典型的なナポリの下町の様子です。今でもそんなに変わりません。幅が3メートルか4メートルぐらいで、当然自動車が走れない道です。こうやって洗濯物を干すのはなぜかと言うと、つまり日も当たらないし、風も通らないわけですから、家の中に干すわけにはいかないのです。屋上まで上がって干すわけにはいかないので、結局これは向かいの家との間に了解を取って、滑車でワイヤーを通してこういうように干していきます。でも、湿った海からの風が吹いたりしますと、なかなか乾きません。満艦飾の道路に干してある洗濯物というのは、ナポリの名物のように思います。さすがにこんなに派手に下着から何から全部干している町というのはないかもしれません。これは売り物にはできないかもしれませんが、特徴としては打ち出せるかもしれません。
でも、ここに住むのはつらいだろうというように私は特に思うのですけれども、住んでしまえばそうでもないのかもしれません。やはりナポリに長く住んでいる日本の研究者がやはりおりまして、彼はナポリは非常にインコラッジャンテincoraggianteだ、つまり元気が出る町だというのですけれども、私はどうもそうは思えませんで、半年いて、ほうほうのていで帰ってきたという感じがあります。
これはいつも私が大学に行く途中に歩いていたヴィア・ポルタネディーナという通りです、こちらの手前に地下鉄の駅がありまして、その地下鉄にいつも乗って通って、そこから歩いていっておりました。
ナポリは石畳の状態が良くないのです。でこぼこして引っ掛かります。これは反対側ですけれども、車は止まっているし、人が多いのです。それでも車が走ってきます。半年いる間にこの通りで3回ぐらいころぶ人を見たことがあります。やはり全部老人です。石畳のとこかに足を引っ掛けてころぶのですけれども、一度は小さい赤ん坊を抱いたおばあさんとお母さん、おばあさんが赤ん坊を抱いていて目の前で転んだのです。赤ん坊がどこか打ったというので大変と言って、ちょうど右側が病院だったので、そのまま病院に駆け込んでいきました。

とにかく道は狭くて、車は多く、路面状態が悪く、治安もさして良くない。ただ、見てわかるようにオートバイでもスムーズに走れませんので、シッパトーリとイタリア語で言いますけれど、乗ってひったくりをやる連中には適していないです。ですから、そういう危険性は少ないのですけれども、こういうところを毎日毎日歩いていますと、段々疲れてくるというのが私の印象です。
これは先ほどのコルソ・ウンベルトです。こうして見ていきますと、イタリアの都市というのは、歴史的な中心地区はそれぞれに独自性があって、それぞれに特徴があるのですけれども、新しく作られた都市の部分に関して言いますと、どこに行ってもそんなに違わないというのが、私の印象です。
ナポリに住んでいる間、電車でよく旅行をしたのですけれども、バーリやマテーラ、あるいはターラントなど、南イタリアの田舎町を電車で移動していきますと、駅を降りてパッと見た風景がどの駅もあまり違わないのです。これは日本の地方都市がある意味で画一化して、どこへ行っても同じ景色になってくるというのとある意味では共通しています。やはり鉄道というものが引かれたときに作られた街区というのがそのままの形で残っているからです。
鉄道駅ができて市街の再開発が行われると、そのときの開発に誰が資本を出すのかということが問題になります。土地のブルジョアジーが出すケースもあれば、外国資本が出すケースもあります。南部などの場合には、その土地で資本を調達しているケースがほとんどだと思います。同じ時代の流行のスタイルで町づくりをしてしまい、そのせいで同じような町ができてしまいます。バーリや、マテーラ、あるいはターラントという駅の表示がなければ、一体ここはどこだろうと思うようなところが多いのです。
グーグルのストリートビューは、小さな町でも目抜き通りに関してはほとんど見えるようになっていますので、あちこち飛んでいって駅前の様子を見ていきますと、本当に今、言ったようにどこもみな同じだなというのがよくわかると思います。
というようなことで、「街並みの美学の再考」というような非常にご大層なタイトルを付けましたけれども、「あなたの都市には独自な部分は確かにあります。しかし、他の都市と同じような部分もたくさんある」ということをイタリア人に言いますと、カンカンになって怒る人が多いのです。それはわが町の独自性やわが町の誇りみたいなことを金科玉条にしている人がたくさんいるからです。カンパニリズモとも言いまして、ひいきの引き倒しみたいなところが随分あります。でも、そういう意味での郷土愛みたいなものを強烈に持っているというのも大事なことではないかと思います。
ちなみに私は今、信州に住んでおりまして、信州も実はかなりカンパニリズモが盛んだと思います。山一つ越えると全然違うというようなことがたくさんありまして、ここはイタリアに似ていると思うことがあります。でも、景観ということで言いますと、やはり信州の場合は、町から見える山の形が違うものですから、上田に来たとか、長野、松本というのはすぐわかるのです。しかし街並みそのものの独自性をやはりそれぞれの都市がもう少し何とかしたほうがいいと思います。最初に言いました町の統一したカラーみたいなものを出せば、それぞれもっと魅力的な町ができるのではないかと思います。
今日の私の話はそういう意味では、イタリアの都市の画一性とまでは言えないかもしれませんが、ある意味でよく似た部分というのが存在しているということを皆さんに考えていただくというきっかけにしていただければよろしいかと思います。
ということで、私に与えられた90分の時間ピッタリに収まりましたので、以上で私のお話をおしまいにいたします。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
【橋都】 柴野先生どうもありがとうございました。
一般に語られるイタリアの都市の再開発とは、また別の側面ということについてお話をしていただきました。いかがでしょうか、ご質問ある方あればお受けしたいと思います。
【質問者1】 大変興味深く拝聴いたしました。ナポリのコルソ・ウンベルトについての質問です。そこを作ったときに発掘調査が同時に行われたのではないかと思うのですけれども、ご存じでしたら、その結果を教えていただきたいのですけれども。
【柴野】 発掘調査は、全然記録に残っていないです。コルソ・ウンベルトの場合は、発掘調査は記録上としては読んだことはありません。
ただ、歴史地区に関しては今でも教会の改築などをやりますと、必ず何か出てくるのです。ご存じかもしれませんが、ナポリ・ソッテラーネアというツアーがありまして、ナポリの地下をどんどん降りていくというツアーがあります。ローマにはカタコンベがありますが、何となく似ていますけれども、もっと面白いです。カタコンベは行っても、行っても両側に骨があるだけですれども、これはローマ時代の遺跡、ここはギリシャのものというように、同じ場所で深さによって違うものが出てくるというツアーがあります。ナポリに行かれると一度ご覧になるといいと思います。ただ、日本語のガイドが付かないと思いますので、その辺がつらいのです。
ナポリに限りませんが、古い歴史を持つ都市では、公共事業の進み方がとにかく遅いのは、やはりそれなのです。なかなか文化財発掘が進みません。あるいは、見つかってしまうと、そこから先がなかなか進まなくなってしまうということがあります。
コルソ・ウンベルトで見つかったとすれば、どうでしょうか。意外に通りそのものは、一番古いところは避けているのです。もう少し内側の古い部分は避けたところにありますから、その話は、私は寡聞にして聞いておりません。すいません。
【質問者2】 去年ナポリに数日間おりまして、とにかく非常に汚い町だという印象が残っております。しかしそれにしてはホームレスがいないように思えました。大きい救貧院というお話がありしたが、あれが機能していたのでしょうか。それからもう一点、はらわたを出す大掃除のときに貧民に対して移住の救済措置があったのかどうか、その貧民を中心にお願いしたいと思います。
【柴野】 ナポリが汚いというのは、もうおっしゃる通りで、全体に汚い印象があるのですけれども、いろいろな理由があります。一つはやはりここのところ数年――いついらっしゃったかわかりませんけれども――ずっとナポリはごみの問題が未解決のまま続いております。実は、ごみの回収を一種の利権としている、ナポリのカモッラ(Camorra)と呼ばれる有名な犯罪組織があります。これがそこに絡んでいますので、焼却工場をなかなか作らせないということになり、何かあるとすぐストライキになって、ごみが山のようにたまるのです。たまったごみもありますけれども、ナポリの町そのものがやはり汚いのは、清掃が行き届いていないということもあるのです。
今ホームレスのお話が出ましたが、町の浮浪者たちを見えないようにしてしまうのは、ナポリでは伝統的に取られている方策です。先ほどお話に出たようにアルベルゴ・デイ・ポーヴェリ、貧民たちのアルベルゴ(albergo)、ホテルと呼ばれる、ものすごい大きな、幅が400メートルぐらいある建物なのですけれども、あれが造られたのがやはり18世紀なのです。そのころから貧民はとにかくいますが、見えないようにすればいいというのが、当時の――別に南イタリアだけではないのですけれども――いわば国家の側からの貧民に対する措置でした。
今、ホームレスがいないというのは、こじきみたいな人たちはたくさんいたと思うのです。こじきも結構いるし、ナポリは外から来ている、つまりエキストラ・コムニターリ(Extra Comunitari)と言い方をしますけれども、EU外から人たちも随分いるのです。特にナポリでよく感じるのは、行商や露店を開いている人たちがたくさんいます。これがナポリの流通網のかなりの部分を占めています。また、そこで売っている商品はものすごく安いのです。要するに、よく物を確かめて買えばとっても安くていいのです。ただ、それもさっき言いましたように、カモッラという正規の流通網の外に巣くっている結社が全部そういう商売をまとめています。
「ゴモラ」という映画がありました。その原作が日本語でも読めますけれども、『死都ゴモラ』という本があります。この中に外から入ってきた連中をカモッラがどうやって組織して、それを行商の中に組み込んで搾取するか、そういう人たちをとにかく一カ所に集めて、5~6人を1部屋に押し込めて、仕事をさせて上前をはねるという、そういう仕組みを作り上げているというルポルタージュがあります。恐らくそうした事情がホームレスを見ないということの裏側にあると思います。
つまり、ホームレスをしていると、町を支配している犯罪結社が彼らをうまく自分たちの組織の中に組み込んでしまう。結果として、ホームレスが何か物を売っているというような、そういうこともたくさんあると思います。ただ、私はこの人たちは決して危なくないと思います。
それからもう一つは何でしたか。
【質問者2】 貧民の行方です。
【柴野】 貧民の行方ですか、貧民はほとんど、保障されていないです。新しく建設した貧民地区を作ってそこに移れというようなことは、ほとんどされていないです。ほんとにただ追い出すだけでした。ですから、悲惨な境遇に陥った人たちが多かったと言われています。ナポリもはずれのほうが危ない感じがします。一番危ないのは、ナポリのここからもっと北のほうに行って、カポディモンテという丘の上に――この次美術展やりますけれども――大きな美術館があります。そこから降りてきた辺り、サニタという地区がありまして、この辺が一番危ないそうです。
私は知らないでそこを夜フラフラ歩いていたのですけれども、あとで、「あそこは一番危ない」と言われました。確かに何だか目つきが厳しい人が多かったなと思ったのです。物をあまり持たずに目的地があるような顔をして歩いていけば、あまり狙われることはないと思います。ただ、やはりナポリではバスの中や電車の中など何度かスリに遭いそうになったことはあります。
ただ、観光客が行くようなところは、カラビニエーリ(Carabinieri)がおりますので、そんなに危なくないと思うのです。1970年代に留学していたときに、やはり友達とナポリに行って、国立考古学博物館の前で本当に10歳ぐらいの子どもが知り合いの首にかかっていた金のネックレスをパッと取って逃げていきました。そのときの子どもがまた何とも言えず兇悪な顔をしていまして、「いや、これはすごいところだな」と思ったのですけれども、そうでない部分というのもたくさんあります。
とにかく危ない、危ないと言って――サファリツアーと申しますが――バスの窓からナポリを見ておしまいというような、ナポリ観光をする人が多いのですけれども、そこまで警戒する必要はないと思うのです。身軽にして、目的地に行けば、結構皆さん観光客の方は歩いています。
やはり日本でも新宿の歌舞伎町を夜の12時や1時に歩くのは怖いわけですから、あれと同じでして、つまり時間と場所をわきまえながら行動すれば、ナポリは決して怖くないというのが私の印象です。
ぜひ、この次、イタリアに行かれるときには、ナポリはとても魅力的な町だと思います。見るものもたくさんありますし、食べ物もおいしいですし、ぜひ何日かいらっしゃると楽しめると思います。ナポリだけではなくて、カプリに行ったり、ソレントに行ったりというような楽しみ方もできます。南イタリアは日本の人は少ないのですけれども、少ないだけに魅力的な部分はたくさん残っていると思います。シチリアはまた全然違うので、シチリアもまた日本人にとってはいい場所だと思うのです。すいません、あまり答えになっているかどうかわかりません。
【橋都】 ほかにございますか。僕から一つお伺いしたいのですが、ナポリがあのようなダイナミックな都市改造を受けているというのは知らなかったのですが、あれはナポリの市の当局ではなくて、国の事業としてやったのでしょうか。
【柴野】 そうです。国のお金が出ています。特別立法をして、ナポリの再開発のための法律を作ったのです。とにかく1884年のコレラで5,000人近い死者が出ています。これはもう当時のヨーロッパの都市の中では飛び抜けて多かったものですから、誠に国の恥であるというのが、当時のイタリアの政府の考え方でした。立法をしてお金を集めてやったのですけれども、結局足りなくなって全部はできていません。
ですから、そういう町であって、しかも石造りでお金がなくて、どんどんダイナミックに変わっていくということができないものですから、ナポリから来たイタリアの留学生たちが、東京はベッロだ、ベッロだと言うのは、ナポリに半年いてよくわかりました。石造りで変化がないところがいいという方もいらっしゃいますけれども、石造りで変わりようがないから嫌だという人も、もちろんいるわけです。
話は最初に戻りますが、「築30年、古いね」と言うのがわれわれの住宅建築に対する印象なのです。ですから、これを言えば築100年、物によっては築300年、400年というような、そういう建物に住んでする人たちから見ますと、30年経ってもう建て替えるのは信じられないのです。伊勢神宮のように、われわれは神様の住まいだって30年ごとに建て替えるということをやる民族なので、それは30年たてば木も育つから、新しい木を切って、また新しい建物を建てるというのが何となく私たちのDNAの中に染み込んでいるような、そんな感じがします。
石造りの、石の床、石の壁、石の天井、そこに何年も何年もずっと暮らしているというのが、今の私にはもうつらいなという感じがするようになってまいりました。若いときはいいのでしょうけれども、やはり年を取ると順応性がどんどん弱くなってまいります。
【橋都】 よろしいでしょうか。それでは柴野先生、どうもありがとうございました。もう一度拍手をお願いしたいと思います。(拍手)
それでは、今後のイタリア研究会例会のお知らせをしておきたいと思います。
来月は、4月23日金曜日、19時から、会場は表参道の南青山会館です。演題は、「水道が語る古代ローマ繁栄史」-ローマ水道が世界帝国を作った。そして江戸は?-ということで、江戸の水道とローマの水道と比較したお話をお願いしてあります。これは、東洋大学の理工学部教授の中川良隆先生にお願いしてあります。
それから、5月例会は、講師、高田和文先生、ローマ日本文化会館の館長で日本に戻ってこられましたので、ご講演をお願いしておりますけれども、ご都合によりまして、5月中ではなくて、6月7日月曜日に行います。6月の例会は、6月28日月曜日に東京大学文学部の南欧文学科教授の長神悟先生にお願いしております。演題名は未定です。
新年度になりますので、年会費のお支払をお願いしたいと思います。年会費8,000円、いつものようにメール、それからハガキに書いてありますけれども、イタリア研究会橋都浩平の口座あてに振り込みをお願いしたいと思います。
ほかに少しお知らせがあります。後ろにパンフレットが置いてあります。このイタリア研究会でお馴染みの関根先生が今度は、「ロミオとジュリエット」を公演されます。東京では6月4日と6月5日、国立能楽堂で行われます。ぜひご参加いただきたいと思います。
毎年恒例のイタリア映画祭が今年も連休に行われます。4月28日~5月4日まで有楽町朝日ホールで行われます。私もどういう映画が来るのか、まだ見ていないのですけれども、毎年非常に秀作が集まっているということは、皆さんよくご存じだと思います。毎年楽しみにされている方が多いと思います。まだ後ろにパンフレットありますか。後ろからパンフレットをお取りになって、どういう映画があるかをご覧いただきたいと思います。
また皆さんご存じのように、ボルゲーゼ美術館展が東京都美術館で行われておりますが、今度はポンペイ展が3月20日から横浜美術館で始まっております。僕もまだ行っておりませんけれども、壁画や工芸品、彫刻など秀作が集まっているようですので、ご興味のある方はぜひお出でいただきたいと思います。
ほかに何かイタリア関係のお知らせをしたい方、情報をお持ちの方おられますか。よろしいでしょうか。
それでは、本日は、どうもありがとうございました。(拍手)