第363回 イタリア研究会 (2010年8月24日)
演題:「カポディモンテ美術館展をたのしむ-16・17世紀のローマとナポリの美術」
講師:渡辺 晋輔(国立西洋美術館 主任研究員)
【橋都】 皆さん、こんばんは。イタリア研究会の橋都です。本日は第363回のイタリア研究会の例会にようこそおいでくださいました。今日は、今国立西洋美術館でやっておりますカポディモンテ美術館展にちなみまして、「カポディモンテ美術館展をたのしむ-16・17世紀のローマとナポリの美術」という演題でご講演をお願いしております。
今日の講師は、国立西洋美術館の主任研究員の渡辺晋輔さんです。2年前ですか、ウルビーノのヴィーナス展でもお話をお願いしておりますのでお聞きになった方も多いのではないかと思います。
それでは、渡辺さんのご略歴をご紹介したいと思います。
渡辺さんは1972年鎌倉のお生まれで、東京芸術大学と東大とで美術史を勉強されました。ご専門はイタリア美術史で、これまで国立西洋美術館でキアロスクーロ展、イタリアルネサンス版画展、ウルビーノのヴィーナス展などを企画されております。著書に『西洋版画の見かた』『ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂』などの著作があります。イタリア美術史若手のホープといいますか、非常に学識のある方ですので、今日は既に美術展を見られた方にもこれから見られる方にも、参考になるお話がお伺いできるのではないかと思います。
それでは渡辺さん、よろしくお願いします。(拍手)
【渡辺】 皆さん、こんばんは。渡辺です。本日はどうもお招きいただきましてありがとうございます。今日は、今西洋美術館で開催中のカポディモンテ美術館展について、その内容を皆さんにご紹介するようなお話をしたいと思っております。
お話の内容は、特にルネサンスからバロックまでの絵画の流れというのを出品作品を通じてお話ししたい。出品作品がたまたまローマとかナポリの作品が多いものですから、「16・17世紀のローマとナポリの絵画」というふうに副題をつけてあります。
とはいえ、最初に展覧会がどういうふうなものなのか、大体の概要をさっとご説明したいと思っております。
まず、カポディモンテ美術館展ですから、カポディモンテ美術館とは何ぞやというところからお話ししますが、皆さんご存じナポリにある美術館です。この中で行ったことのある方ってどれくらいいらっしゃるんでしょう。さすがにイタリア研究会だけあってたくさんいらっしゃいますね。ナポリの山の上にあります。とても行きづらいですが、まさにその山の上というのがイタリア語だとカポディモンテといいます。山の上というか丘の上というような意味合いですけれども。ですから日本語で言うと山の上、丘の上美術館とかそんな感じになります。
この美術館は下に写真が出ていますけれども、美術品を収めること、それから山の上ですから狩猟のときに王様が立ち寄ること、その2つを目的として建てられた美術館です。いろいろ歴史的な事情があって、それを話し始めると長くなるので言いませんが、相続とか領地替えとか昔の王族特有の事情がありまして、莫大な美術品を王様が受け継ぎます。それの収容場所がなくなってしまいました。だから、しょうがないから山の上に、僕は狩りも好きだしということでこの美術館を造ったわけです。
ただ、とにかく大きい建物ですので建造がとても大変でした。1738年に造り始めましたが、完成したのはおよそ100年後だったということです。もちろん、完成までにある程度はできていたので美術品を運び込んだり、そこで住んだり、そういうこともしていました。
この下のほうがナポリの街です。やめたほうがいいのですが、皆さんがカポディモンテにもしバスで行くと、バスはこの辺をえっちらおっちら上ってこういうふうに行って、ここが美術館なわけです。この辺はナポリの中でも最も治安が悪いあたりです。晴れていても絶対に歩いてはいけないと言われています。
さっきちょっと言いましたけれども、カポディモンテ美術館は、そこにいろいろな事情で王様が美術品を引き継いじゃったから造った美術館と言いましたけれども、核となっているのはファルネーゼ家というルネッサンス・バロック期を代表する貴族が集めたコレクションです。
このファルネーゼ家というのはローマとパルマを本拠地としましたが、途中で男の子が生まれなかった。女の子がいましたが、女の子がスペインのブルボン家に嫁いでいたわけです。ということでファルネーゼ家のコレクションはファルネーゼ家からブルボン家のものになってしまいました。さらにもう1個重大なことがありまして、パルマがファルネーゼ家の本拠地だったんですけれども、領地替えみたいなことがありました。昔のヨーロッパではよくあったんですけれども、パルマはもうブルボン家のものではなくなってしまって、パルマの代わりにナポリと南イタリア、シチリアがブルボン家のものになったのです。
ということで、ファルネーゼ家から財宝を引き継いだブルボン家はパルマからナポリにやって来ました。そのときに美術品は全部持ってきます。だから、もともとナポリにはその美術品はなかったわけですから美術館なんてあるわけがないというわけで、新しく造らなければならなくなりました。そういう事情があるのです。
そういうふうにしてナポリにやってきたブルボン家ですけれども、ブルボン家はナポリを支配していますから、ナポリの美術も一生懸命集めるわけです。さらにブルボン家以降、サヴォイア家とかいろいろありますが、それも着々とコレクションを拡大していきました。そういうふうにして現在のカポディモンテ美術館の所蔵品はつくられたということです。
以上がすごく簡単なカポディモンテ美術館の説明です。さて、ここから展覧会の作品の説明に入っていきます。まずお話ししておくのは、黄色でキャプションを書いた作品は出品作品です。白い字で書いてあるのは出品されてない参考作品ということをあらかじめお話ししておきます。
さて、この展覧会は企画が始まったのが3~4年前ですけれども、私とカポディモンテ美術館の館長が中心になって始めました。どういうふうな内容にしようかというのをもちろん話し合うのですけれども、私は、できたらマニエリスム、ルネサンスのちょっと後の時代、後期ルネサンスとか言われていますけれども、そこからバロックの初期にかけての絵画展というのをやりたかったのです。しかもそんなに大きな規模でなくてもいいからそういうのをやってみたいという希望がありました。それをカポディモンテの館長に言ったら、全然やりたくないということで、向こうが言ってきたのはカポディモンテ美術館を紹介するような展覧会もしくはナポリのバロック絵画の展覧会をやりたいと言ってきたんです。
まず、カポディモンテ美術館を紹介するような展覧会というのが、果たして日本でそんなにやる意味があるのだろうかというのがあったのです。誰もカポディモンテ美術館なんて日本で知らないわけです。それが1つ。
次にナポリ絵画の展覧会というのは、後で皆さんはご覧になるんですけれども、とにかく背景が真っ黒けっけで地味なのです。そういう展覧会をやってもお客さんが入るとは思えません。私はやりたかったのですが、とてもペイしそうもないということでいろいろ妥協がありまして、取りあえず展覧会の作品はマニエリスムからバロックまでにしましょう。その作品を展覧しながら、なるべくカポディモンテ美術館の成り立ちについても説明できるようなふうに展示しますというふうにして、すごい妥協の産物で展覧会が成り立ったわけです。
ですから私はマニエリスムからバロックまでがよかった。最初のタイトルは「マニエリスムからバロックまで」というタイトルでしたが、さらに最後になって、共済がTBSですけれども、TBSが上の者がマニエリスムという単語を知らないからルネサンスにしてくれと言ってきまして、しょうがないので「ルネサンスからバロックまで」となったわけです。
「ルネサンスからバロックまで」とするからにはルネサンスらしい作品も入れなければいけないということで、この左のマンテーニャの作品を最後に付け加えたのです。私としては不本意ながら付け加えた作品ですけれども、とはいえこの作品があることによって、ルネサンスの絵画の造形の歴史というのは非常に皆さんに分かりやすくなったのではないかと思っております。まずその点を説明してみたいのです。
左が今言ったマンテーニャの作品、右はコレッジョという画家です。コレッジョもマニエリスムというよりはルネサンスに近い画家です。左はマンテーニャの1470年ごろの作、右は1515~1517年ごろ、美術史でいうと盛期ルネサンスと言われているころです。盛期ルネサンスからマニエリスムにちょうどさしかかったところですけれども、この2つを見てどういうふうに表現が違ってきているのか、そこが美術史の非常に大きなポイントになると思うのです。
この2つを見て、その印象はどういうふうに異なっているか、皆さんにちょっと考えていただきたいのですが、私が言っているのは非常に単純なことなのです。指していくのも時間がかかっちゃうので私が言いますけれども、左は横を向いているわけです。プロフィールです。右は前を向いています。ここが多分ものすごく大きい点です。さらに、左のほうを見ると動きが全くないのです。対して右は、ここでは動いてないけれども何か動きの感覚のようなものが認められます。恐らくそこが非常に大きな違いです。
もっと細かく見ますと、左は横を向いています。横を向いているから当然見る人と目が合いません。横を向いちゃっているわけです。実際にマンテーニャがこの絵を描くときに参考にした作品というのがあって、古代の浮き彫りです。浮き彫りとか特にコインの類だったと思うのですが、そういった作品をもとにしています。だから、この絵でもあたかも浮き彫りであるかのように陰影がなされています。あまり柔らかい感じはしないですね。石に絵を描いたような、色を塗ったようなそういう感じがします。
古代の特にコインとかそういうものというのは誰が描かれているかというと、王様とか皇帝が描かれているわけです。ローマの皇帝とかです。ですから、権力者のための肖像だったわけです。マンテーニャがここで描いているのはルドヴィコ・ゴンザーガだろうと言われているのですが、彼はマントヴァを統治する貴族のせがれだったわけです。ですから支配階級です。支配階級の肖像画を描くのに古代の有名な皇帝とかを描いた浮き彫りの形式。それは非常に似つかわしいものだったわけです。だからこそちょっと格式ばった感じ、見る人と全く心を交流しない感じ、そういう性格がここに表れているわけです。
ですから、ルネサンスそのものと言うのでしょうか。ルネサンスというのは古代の文芸・芸術を復活させた、直訳するとそういう運動なわけですけれども、まさにこれはそうですよね。古代の芸術の浮き彫りの芸術をルネサンスの現代でよみがえらせた作品なわけです。
さて、右ではどうなっているか。コレッジョはプロフィールはやめてこっちを見させるようにしたんです。そうすることによって、絵を見ている僕たちと絵の中のこのおじさんが心理的な交流をするようになります。僕らはこのおじさんを見ると、おじさんが絵の中から何かを訴えかけているような印象を受けるわけです。分かりやすいのは、選挙のポスターとかを考えていただきたいのですが、選挙のポスターで左みたいな顔で映っている候補者というのは1人もいないです。絶対落ちるわけです。みんな右のような、こんなちょっと元気がない感じではないですけれども、とにかく写真のこっち側、僕たちのほうを向いているのです。そうすることによって心理的な距離を縮めようとしているわけです。ここでも同じことをやっているわけです。
もう1つ非常に重要なのが、コレッジョはここで動きを取り入れています。しかもその動きの取り入れ方というのが僕はとても面白いと思います。このおじさん、聖アントニウスというんですけれども、聖アントニウスはちょっと首をひねっているのです。見れば分かりますよね。どうひねっているかというと、それだけの動きですけれども、それが非常に重要です。皆さん、僕から見ると左側に首をひねっているのです。見れば分かりますよね。どうひねっているかというと、ちょっと僕から見ると左側に首をちょっとひねって
皆さん、実際にやってみると分かるのですけれども、1つの体の部位というのを動かすと変化するのはそこだけではないのです。それにつれて体のほかの部分というのも連動して動いていくものなのです。例えばこうやるとどうなるかというと、こうするとこっちの肩はちょっと前にきて、しかも上に上がるのです。こちらの肩は下がって後ろに引っ張られるのです。なぜそうなるかというと、こうなると多分この辺の筋肉が引っ張られてそれにつれて肩が上がるのだと思うのですけれども、そういうふうに1つの動きが筋肉と骨の連動によって体の全体に広がっていきます。これだと首の動きが肩の動き、肩の動きがさらに背骨から腰に伝わって、こうすると腰も動くわけです。それにつれて足も重心が片寄っていきます。そういったところはあるのですけれども、コレッジョはそれをきちんと観察しているのです。
この絵を見ると、今僕が言ったように首をかしげることによって肩がこっちが上がります。そして手の位置とかもそれにつれて少しずつずらしています。そういう肉体の有機的な関係、動きというのを彼はきちんと観察してここで表現しているわけです。ですからこの絵を見たとき、僕たちはただ単にこのおじさんの首がこうなっているだけではなくて、それによって引き起こされた全体の動きというのも感じ取ることができるのです。
ちなみにこの中で画家の人がいらっしゃるかどうかは分からないんですけれども、絵を描くのが趣味の方はいらっしゃると思いますが、絵の勉強でヌードデッサンって普通やるんですよね。なぜヌードにならなければいけないかというと、そういう筋肉とか骨格の関係というのをきちんと勉強するためにヌードです。それが絵を描くときの基本中の基本になるのです。それが始まったのがまさにこのルネサンスとかその辺のころなわけです。
さて、今言ったようにこの2つの絵は両方とも男の人の上半身だけの像ですけれども、描かれているもの、そこの造形理念というのはものすごく大きく違います。それはお分かりになったのではと思います。全く動きのない古代の彫刻のような左の作品。そこから体の動き、1つの動きから全体へと広がるような体の動きというのを絵の中に閉じ込めるような、そういう絵へと変化してきました。
だから、左の絵は10分前あるいはこの絵の10分後、彼がどういう姿勢をしていただろうかと想像すると、どう考えてもこのままなわけです。彼は動いているわけがないんです。右の絵は10分後じゃなくても10秒後、あるいは10秒前この人はどういう姿勢をしていたのだろうかと考えると、この姿勢のわけがないのです。もっと違う動きをしていただろう。そういうのが想像されるのです。言ってみれば、こちらには時間性というものが全く表現されていません。逆に言えば永遠の時間というのが表現されています。右側は時間のつながりというのをぎゅっと凝縮してこの絵の中に閉じこめています。そういう感覚があるのです。
さて、そういう絵を描くときに画家はその辺にあるものを見て、ただ単に描き写すというわけではいかなくなってしまいます。さっき言ったように解剖学の知識というのをきちんと身に付けていなければいけません。そして彼をどういう姿勢で配置するのか、そしてそれぞれの肉体の部位というのをどういうふうにこの絵の中に閉じ込めていくのか、そういうのが非常に画家の重要な資質となってくるのです。
だから、そこの目の前にあるものを描くというところから、画家は1歩進んで頭の中で絵に描くことを構想します。そして、それを画面の中につなぎとめていきます。そういうふうな画家の創造に対する態度というのが変化してきているわけです。
今言ったコレッジョのことは、このモナリザでも同じことが見られるのです。モナリザというのは一見すると非常に静かで落ち着いた絵のように見えますが、実はそうではありません。滝川クリステルというのがいますけれども、彼女はニュース番組でニュースを読んでいたときにモナリザの姿勢をするようにとプロデューサーに言われるわけです。彼女はそのとおりやるわけです。そうすると、彼女が言うには「非常に体がつらかった」。
だから、同じことが言えるのですが、こうやっているのは静かなように見えて実は体が非常に無理をしているのです。なぜ無理なのかというと、手とかあるいは胸、そして顔というのが全部違う方向を向いているからなのです。そういうふうに静かであるけれども、その中に体の動きというのが同時に表現されています。それとともにそれによって引き起こされる時間的な流れのようなものも感じさせる、そこがこのモナリザという絵の非常に名作たるゆえんの1つなわけです。だから同じ造形的な考えにのっとって表現されているわけです。
さて、そういうふうな造形の理念というのでしょうか。それが次の世代にどんどん、どんどん浸透していくわけです。例えばこのパルミジャニーノの『アンテア』という作品。今回の目玉になっていますけれども、ここでもやはりその造形の理念というのが感じられるのです。見ると、若いきれいな女の子が絵の中にいてこっちを見ています。さっきと同じように絵を見た瞬間に、僕らは絵の中にすっと入り込むような感覚がするのですけれども、ここで気を付けて見てみたいのは彼女の姿勢です。
何かぼーっと絵の中に立っているような気がしますけれども、よく見ると違います。そこがとてもよく表れているのはここなのです。この彼女の左足の部分に注目すると、彼女が単に絵の中で突っ立っているのではないということが分かります。なぜかというと、ここだけスカートのすそが広がっているのです。ということはどういうことかというと、彼女はこう突っ立っているのではなくて左足をこういうふうに広げているということなのです。
さらに、広げているだけではなく、広げることによってやはりその動きというのが上半身にも伝わってきているのです。実際、とてもそれがよく分かるのは耳だと思うんですけれども、こちらの耳、僕らから見て左側の耳、彼女にとって右耳とこっちの耳を比べると、明らかにこっちのほうがたくさん描かれているわけです。ということは、この顔は正面を向いているのではなくて、大げさに言うならばちょっとこっちをこういうふうに向いています。そういうふうな動きがあります。
もうちょっと下にくると、今度は肩を見ますととても顕著ですけれども、明らかにこっちの肩よりもこちらの肩のほうが前に出てきています。ですから、足を広げるという動きが体の全体で繰り返されるというか、体の全体に浸透してきています。それによって何とも優雅な感じがこの絵の中に生まれてきているわけです。
さらにパルミジャニーノはそれだけではありません。そうした体の動きによって引き起こされる優雅さというのをもっと強調しようとしています。どういうふうに強調しているのか、よく見ると分かるのですが、この絵はとても変なのです。普通の女の人と比べるととても分かると思うのですが、この人は肩幅がちょっと広すぎるのです。この辺までが肩でしかもものすごいなで肩なのです。さらに手が非常に長い。そういうふうにパルミジャニーノは今言ったような、動きによって引き起こされる感覚というのを体全体をデフォルメすることによって強調しているのです。動きによって引き起こされた優雅な感じ、絵の中に生み出された感覚というのを、形をゆがめることで強調しています。それがこの絵の魅力なのです。
ちなみに、全然関係ないのですが、この人はこういう変な動物の毛皮を持っています。これは1匹の動物ではなくて何匹もつなぎ合わせて作っているのですけれども、これを見た日本ペストコントロール協会という変わった協会がありまして、そこの副会長さんが私に手紙をくれたんです。ペスト協会というのは、ネズミとかダニとかハチとかそういう害虫・害獣を退治するというのが目的として作られた団体のようですけれども、その人がこの襟巻きは実はノミよけの効果があるのだというのを教えてくれました。
なぜノミよけになるのかさっぱり分からなかったのですが、同封されていた資料によると、これを持っていると、当時ノミなんてうじゃうじゃいるわけです。普通に服を着ているとノミだらけなわけです。そこにさらにノミにとって居心地のよさそうなこういう毛皮をまとっていると、ノミが服から毛皮のほうにどんどん移動してくるらしいのです。この襟巻きをまとってある程度ノミが毛皮についたなと思ったら、その襟巻きを外してばん、ばん、ばんとやればノミを退治できるという、現代からするとちょっと信じがたいようなそういうことをやっていたそうです。全然関係ない話ですけれども。
話を戻しますと、パルミジャニーノは隠れた動きの感覚、そしてそれに調和するようなデフォルメの仕方、そういうことでこういう傑作を作り得たのです。ちなみに、今見た『アンテア』という絵はこの左の絵と同じころに描かれたと言われています。なぜそう言われるのかというと、ここの拡大図がこれですけれども、ここに出てくる天使がアンテアととてもよく似ています。だから、多分同じ人がモデルなんじゃないのかと言われているわけです。これはちょうどパルミジャニーノが死ぬ直前です。本当の晩年です。パルミジャニーノは37歳で死んだんですけれども、35歳から37歳の間ぐらいに両方とも描かれたのです。
さて、こちらの絵にもう1回注意を戻しますと、『アンテア』と比べると今僕が言ったようなことというのは、非常に強調されて表現されているというのがお分かりになるのじゃないかと思います。見た感じで変ですよね。明らかに首が長いとか顔が小さいとか異常に体がくねくねしているとか脚が長いとか、イエス・キリストの体もふにゃふにゃして今にも落っこちてしまいそうな感じ。この絵を見てからもう1回『アンテア』を見ると、パルミジャニーノが果たしてこの女性にどういった美意識で接したのか、どういう美をここで描き出したかったのかというのがある程度ご想像できるのではないかと思われます。
今言ったのはマンテーニャからコレッジョを経てパルミジャニーノへ、そういったような流れですけれども、同じようなこと、今パルミジャニーノについて言ったようなことというのは、ここに展示されているヴァザーリの絵でも言うことができます。この絵はどの程度までヴァザーリが描いてどこからどこまで助手が描いたのかというのは、説がいろいろあるんですけれども、ともあれここで見ていただきたいのはこの下のほうにいる兵士たちなのです。兵士たちが眠りこけているところをキリストが復活したという場面ですけれども、とても眠り込んでいるとは言い難いようなちょっと変な姿勢をした兵士たちがいるわけです。
右は皆さんご存じ、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画の一場面です。明らかにこのミケランジェロを勉強して描いているというのが分かるのではないかと思います。ミケランジェロは素描の達人だったわけです。本当に小さなころから素描を繰り返して、繰り返して、時には解剖とかもやって人間の骨格、そして筋肉の付き方というのを完全に自家薬籠中のものにするわけです。そうすると、彼はもうモデルを見なくてもあらゆる姿勢を描くことができます。こういうふうな動きをしたら、その筋肉はどういうふうにつながって、骨はどういうふうにつながってここはこうなるとかそういうのが全部頭に入っているわけです。
そこまでいっちゃうと、彼は通常あり得ないような姿勢というのも描き出すようになってきちゃうわけです。なぜなら、そういう姿勢のほうが彼にとっては美しいと感じるからです。だから単に目の前にいるモデルを写すというのではなくて、自分の頭の中でより美しい形というのを生み出してそれを描いていく、そこまでいっちゃうわけです。だから、ミケランジェロあるいはラファエロとかレオナルドもそうですけれども、そういう人たち、天才の芸術家たちの描く人体というのは実際の人物よりも美しい。芸術というのは自然よりも美しい。そういう考えが芽生えてくるのです。
さて、そうするとミケランジェロみたいな天才はいいですけれども、もうちょっと劣った画家たちがうじゃうじゃいるわけです。ヴァザーリもミケランジェロの弟子だったわけです。そうすると、ヴァザーリはどういうふうにして自分の腕を磨いていくか。自然を模倣するよりも、自然よりもっと上をいっちゃっているミケランジェロとかラファエロを模倣するほうが手っ取り早いと考えるわけです。だから、こういうふうにそのままミケランジェロみたいな人物を描いていくようになるわけです。
ちなみに僕はこの絵が好きなのはそういうところではなくて、単純にこの人が好きなのです。なぜかというと、展示をしたときにたまたまですけど、目の高さにこの人がいるのです。この絵の中で絵のこちら側に目を向けている人というのが、唯一この人なのです。さらにこの人はどう考えても絵の中で一番不細工な醜い顔をしています。何かそういうのが僕はとても面白くて好きなところです。
さて、今言ったような美術の流れ。理念的な方向というのでしょうか。思索的な方向というのでしょうか。そういうのが大きな流れとしてありますが、とはいえそれだけではありません。それが顕著なのがヴェネツィアの美術なのです。この絵はティツィアーノがヴェネツィアで描いた絵ですけれども、これを今見たようなヴァザーリの絵と比べると随分違うというのがお分かりになるんじゃないかと思います。
言うまでもないのですが、ティツィアーノは今言ったような何かちょっと変な、自分の頭の中で新しいポーズを考えちゃったりそういったことには、別にそこまでは興味はありません。全然興味がなかったわけじゃないのですが、実際にこの絵を見てもとても自然なポーズをしているわけです。さらにさっき見たミケランジェロの作品とかだと、筋肉の付き方とかそういうのを異常に観察というか頭の中で思い描いて描いているのですが、ここではそういうのは全然していません。ティツィアーノが描きたかったのはそういうことではなくて絵の全体の情感、あるいはこの若い美人の、聖人のつややかな肌であるとかあるいはふわふわした髪の毛であるとかそういうものの質感の描き分け、そういうほうに全然関心が移っているのです。
さらに僕がこの絵できれいだと思うのは、こういう背景の表現ですけれども、ちょうど暗闇が迫って夕闇の中でぼわーっと遠景がかすんでくるようなそういった感じ、そういった雰囲気といいますか、それをティツィアーノはここで描こうとしています。
ちなみにこれはほぼ夜景といっていいと思いますが、夜景というのはフィレンツェの画家はまず描かないです。何の意味もないと思うのです。フィレンツェの画家にとって重要なのは人体を描くことです。人体をきちんと描くためには光が必要なのです。そうすると、夜景の中に人物を置くなんてさっぱりわけが分からないです。逆にヴェネツィアの画家たちというのは、夜景の中で光が当たってそこに醸し出される得も言えぬ情感、そういったことを非常に描きたかった、だから夜景というのは非常にたくさん描かれるのです。
ちなみに、皆さんご存じかもしれませんけれども、これはマグダラのマリアという聖人です。もちろんキリスト教の聖人です。彼女は、伝説では元娼婦だった、売春婦だったとされているんです。それがあるとき悔い改めて、キリストに従いました。そのときに彼女がしたことというのが、自分の髪の毛でキリストの足を洗ったと言われています。さらに彼女はキリストが死んだときも、キリストの体を油できれいにしたわけですけれども、そういった彼女に関するエピソードというのが、この絵にはいろいろなところでほのめかされています。
まず、この長い髪ですが、これは髪の毛でキリストの足をふいたというのを暗示しています。この絵を現代の人が見ると何も思わないかもしれないんですけれども、さっきのアンテアを思い浮かべると、アンテアはきちんと髪の毛を束ねているんです。こういったような、髪を束ねないで長髪をこういうふうにだらだらとするというのは、当時は娼婦ぐらいしかいなかったのです。そういうところでも、彼女が元娼婦の出身だということがほのめかされています。
その彼女が、ここでは自分の昔の行為を悔い改めているわけです。それがこういうところでもほのめかされています。これは何なのかというと骸骨と本です。多分、宗教関係の本です。骸骨というのはそのままずばり、人間はそのうち死んじゃうよということです。現世がどんなにきらびやかであっても、人間はいずれ骸骨のようになってしまいます。次に本というのは思索的な生活です。読書というのはじっと座って頭を働かせる、そういう活動なわけです。だからここはそういう彼女の、今悔い改めて新しい生活をしている、そういうのがほのめかされているのです。娼婦という職業というのはものすごく現世的でしかも物質的な生活です。彼女はそれを悔い改めて、今はそれと全く真逆のことを暗示する、こういった骸骨であるとか本であるとかそういうものが象徴する生活をしています。そういうのをここで表しているのです。
1つ残りましたけど、ここに壺が描かれています。これは油が入っている壺です。この油で、彼女はキリストの足をふいた、そしてキリストの遺体をふいた、そういうことをほのめかしているわけです。
ついでに言いますとこのポーズです。皆さん、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』とかをご存じだと思うのですが、あれと同じポーズをしています。あそこでは、ヴィーナスは片手で胸を隠してもう片方の手で股間を隠していますが、ここでも似たようなポーズをとっています。ティツィアーノはわざと古代のヴィーナスの彫像、彫刻を参考にして、そのポーズをここで当てはめているのです。ヴィーナスというのはもちろん美の女神そして愛の女神なわけです。
マグダラのマリアはどういう人だったのかというと、娼婦でした。だから、愛ととても関係がある職業です。そして、娼婦ですから美しいわけです。ヴィーナスの図像というのをあえてここで下敷きにすることで、マグダラのマリアのかつての物質的、愛にかかわった生活、そして彼女の非常に美しい姿というのを強調しようとしたのだろうと思われます。
さて、今までがルネサンスからマニエリスムのことを長々と話しちゃったんですけれども、こうした中から次の世代の美術が生まれてきます。それをバロック美術と言っているんですけれども、それにお話を移していきたいと思います。
まず当時の歴史的な事情を言いますと、最も重要な背景というのが宗教改革です。この中で、とにかくイタリアとか南のほうはカトリックなわけです。ドイツとか向こうのほうはプロテスタントなのです。そうすると、プロテスタントがどんどんカトリックを批判します。それに対してカトリックの陣営も批判をし返したり、さらにはたるみきった自分たちの生活というのをもう1回刷新しようとする、そういったような背景が当時はありました。
さて、そうすると美術にも影響が及んでくるわけです。美術もそんなたるんだ表現をしていちゃ駄目だ、もっとカトリックの教えにかなったようなことをしなければならない、教会はそう考えるわけです。ここに3つあげましたけれども、対抗宗教改革、ですからカトリックの側がやっていたことが美術に求めていたことというのは、この3つに集約されるんです。
まず、美術が描くことは分かりやすくなければならない、そして写実的でなければいけない、さらに絵を見た人が宗教的に心を揺り動かされるような、そういったものでなければならない、カトリックはそういったことを主張するわけです。ちなみにこれを言っているのは私ではなくて、もとはウィットコワーという有名な美術史学者が言っているんです。ウィットコワーという人がイタリアのバロックに関する非常に優れた本を書いていまして、それは大変素晴らしい本なので、もし興味のある方は英語ですけれども読んでいただければと思います。
さて、今言ったようなこと、分かりやすいとか写実的だとか見る者の心を震えさせるとか感動させるとか、そういったような指針からすると、このマニエリスムの美術というのは全くなってないわけです。さっき見たこの絵でも、そもそも全然写実的ではないですよね。あと、この後ろの老人はここで何をやっているんだとか、何でこんな変な柱がここにあるんだとか、さっぱり分からないわけです。こういう絵は全然駄目なのです。こっちももうその最たるものなのです。これは愛というものの寓意が描かれているんですけれども、そもそもこんなエロチックな表現というのはカトリックでは到底許し難い。そういった中で美術の表現というのもドラスチックに変わっていくことになります。
とはいえ、そんなに簡単に表現というのは変わりません。それまでの表現というのを引き継ぐわけです。でも、その中で何とか変えていこうとします。そういった時期に描かれていたのがこういった作品です。まだこうやって体を引き伸ばして非常にマニエリスト的な、あまり写実的ではないのですが、とはいえ描いてあることがすっと頭に入ってきます。ここでもこのヒエロニムスが荒野で修行をしている姿が、見ればその瞬間に分かります。そしてある程度この絵の中の聖人に心を通わせるような工夫がなされているわけです。
そして、それが進んでいってバロックの時期にこういった絵が描かれるのですけれども、ここで僕が何を言いたかったのかというと、特に主題の選択というのが大きかったのです。これは放浪に出た息子が悔い改めて戻ってくるところです。そういうシーンです。だから宗教の教えに疑問を抱いた人がもう1回カトリックの教えに戻ってくる、そういったことを暗喩しているわけです。これは、この聖人が捕まって殉教する、まさにそういうシーンです。強い信仰の心というのを試されている、その瞬間です。これは後で出てくるので言いませんけれども、これも聖人の栄光というのが描いてあります。こういう主題の面でも非常に重視された主題というのが幾つも出てきます。
あとは有名な例で、これはさっきのマグダラのマリアですけれども、これが描かれたのは1567年というと、もう対抗宗教改革も結構進んじゃった段階です。ただティツィアーノは実はこの絵を描く前に右の絵も描いているのです。これは1530年から35年ですからおよそ30年前です。そのときに彼はマグダラのマリアを全裸で描いているのです。でも、こういう美しい若い女性を全裸で描くというのは、カトリックの側からするとあまり好ましくないという判断がなされてしまいました。だから、ティツィアーノはもう1回描くときはきちんと服を着させて登場させました。こういうところにも当時の宗教的なあり方の反映というのが認められるのですね。
さて、今言ったような宗教的な時流というのでしょうか、時代背景。そしてその中で被ってきた美術の表現。そうした中から新しい表現が生まれてきます。それが初期バロック美術と言われているものなのです。それを代表するのがカラヴァッジョとアンニバレ・カラッチという2人の画家です。これはカラヴァッジョの作品です。さっきと比べて明らかにものすごく写実的なわけです。見てとても分かりやすい、何が描いてあるのかというのがすぐ分かります。絵を見ると、本当にあまりにも写実的なので自分が絵の中にすっと入っていってあたかもこの宗教劇を目の前で見ているかのような、そういう感覚を得ることができます。
例えばこっちの絵で言うと、この人とこの人の間に空間が空いています。あたかも絵を見た僕たちを絵の中にいざなって、ここにいすを持ってきなさいと誘っているかのような感じなのです。さらに、見にくいかもしれませんけれども、ここに果物籠が乗っているんですけれども、わざとテーブルからちょっとはみ出させているんです。今にもこの籠がテーブルから地面に落っこちてしまうかのように描いてあります。そういうところでも僕たちを絵の中の世界に引き込もうとしているのです。
同じことは左の絵にも言えて、わざわざここではこの墓石を、ふたを対角線上に置いています。対角線的にと言うのでしょうか。だから、この絵を見るとここの突起があたかも絵の外にこうやってばーんと突き出てくるかのような、そういった工夫がなされているのです。さっきまでのマニエリスムの美術には全く考えられなかったことです。
さて、こちらがアンニバレ・カラッチという人の絵です。これを見ると、明らかにカラヴァッジョとは違うけれども、でも、さっき言ったような対抗宗教改革の勧める美術にはかなっています。非常に分かりやすいです。これは宗教画ではないですが、分かりやすいし何か写実的なような気もします。例えばこういうところにオウムがいたりとかです。あとは絵の中の出来事と絵を見る僕たちというのが非常にうまくつなぎ合わされています。
なぜそういうことが言えるかというと、僕はここで重要なのは目の動きだと思います。ここで2人が何をしているかというと、この鏡を見て互いにまなざしで愛を交わしているわけです。どういう場面なのかというと、これがアルミーダという魔女なのです。こっちがリナルドという男ですけれども、アルミーダがリナルドを魔法に引っ掛けて自分の魔法の館に連れてきちゃいます。そこで魔法にかかっていますから、リナルドはアルミーダにもう恋をしちゃっているわけです。それで、2人はここで愛を交わしている、そういうシーンなのです。
さて、ここで2人は何をやっているかというと、まずこのリナルドは、ここでは見えませんけれども、アルミーダの目を見ているのです。じゃあ、アルミーダは何をやっているかというと、アルミーダは今度はこの鏡を見て自分の目を見ています。こっちの2人は何をしているかというと、2人はこの2人を見ています。まなざしの動きによって、このリナルドを見るとここからこういうふうに見ています。アルミーダはこっちを見ています。もう1回こっちに戻る、そういうふうにまなざしの動きによって絵の中を僕らはふらふらと見て回ることになります。そういうところがこの絵のとても面白いところなのです。
ついでに言いますと、この2人はリナルドを救いに来た彼の仲間ですけれども、このやぶの陰からのぞきこんでいるんです。要するに、この2人が絵の中でやっていることというのは、絵を見る僕たちと全く同じことです。絵を見る僕たちも、この絵の中の2人の愛の営みというのをのぞき込んでいます。それを絵の中でこの2人は繰り返しているわけです。だからこの2人がいることで、僕らはすーっとこの絵の中に入り込むことができるのです。そういったところも非常に工夫されています。こういったところが非常に新しい美術の新しいたるゆえんだったわけです。
これはとても面白い例なので出しましたけれども、左は皆さんご存じミケランジェロのシスティーナ礼拝堂です。これはアンニバレ・カラッチが描いた壁画です。これはカラヴァッジョが描いた油絵です。なぜこれを出したのかというと、皆同じポーズをしているからです。これはたまたまではなくて、アンニバレ・カラッチもカラヴァッジョもこれを見ているんです。これを見てわざとこのポーズを自分でも使っているわけです。なぜかというと、ミケランジェロは非常に重要な画家だったからです。そうすると、三者三様の表現というのがなされています。
この2つを、特にこのカラッチとカラヴァッジョを見ると彼らがどういうふうに以前の芸術に対していたのかというのが分かります。カラヴァッジョは非常に写実的な面を重視しています。カラッチはそこまで写実的ではないけれども、同時にとても古代彫刻的というのでしょうか、古代的な理想の人体のあり方をここでブレンドさせてうまく表現しています。さらに重要なのは、2人とも新しい時代の画家ではあるけれども、とはいえその根本にはこういうルネサンスの画家、そしてマニエリスムの重要な表現というのがありました。そういうものを基盤にしながら、2人はバロックという新たな時代に2つの新しい方向へと進んでいくというのがお分かりになるのではないかと思います。
ちなみにこれが今見たカラッチの壁画です。さっきこういう男の人の1人を出したんですけれども、これはローマのファルネーゼ宮殿というところにあります。これがファルネーゼ宮殿で、現在フランス大使館になっています。これは予約をすると中に入れてくれるんです。ガイドがイタリア語とフランス語しかできないというとんでもないガイドなんですけれども、ともあれ入るとこういう非常に素晴らしい壁画を見ることができてお勧めです。これを見てもカラッチがこのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロであるとかあるいはこちらはラファエロとその工房ですけれども、こういったルネサンスの表現というのを下敷きにしながら製作しているというのがお分かりになるのではないかと思います。
カラッチもカラヴァッジョも新しい芸術をけん引する立場だったのですが、1つ大きな違いがありました。幾つも違いはありますが、大きいのはカラヴァッジョも基本的に弟子を取らなかったんです。対してカラッチというのは弟子がうじゃうじゃいたのです。カラッチはボローニャ出身ですけれども、ボローニャにもいとこがいて、いとこが工房を持っていました。そこに若い画家がたくさんやってくるのです。そうすると、その中から有能な人間を選抜してローマに送るのです。ローマにはアンニバレ・カラッチがいますから、彼はそういう有能な若者たちを自分の下で使っていました。非常に機能した工房を持っていたんです。
カラッチというのは壁画が一番得意分野でした。対してカラヴァッジョというのは、壁画はほとんど全く描きませんでした。当時、絵画にはヒエラルキーがありまして、壁画というのは絵画の中で最も地位の高い技法とされていたんです。そういうこともあって、カラッチはローマの画壇の中でも非常に重要な存在へと変貌を遂げていきます。また、今言ったようにファルネーゼ宮殿とかで描いているわけです。ファルネーゼ家です。だからファルネーゼ家は当時のローマではとても重要な家柄でした。そういったパトロンを持っていたというのもとてもプラスに働くのですが、パトロンの紹介とかでカラッチとその工房はローマでとても重要な注文をどんどんこなすようになっていくのです。そうすると、弟子の中からも重要な画家がどんどん出てきます。そういった人たちの中にいたのがこのアルバーニという画家だったりします。こちらのスケドーニというのはどちらかというとパルマとかそっちのほうで活動しましたが、こういう人もカラッチと大変関係の深かった人です。
このグイド・レーニ。彼もカラッチのアトリエで研鑽を積んだ1人です。ここで面白いのは、カラッチ的な古代の人体、そしてルネサンスの人体に範を取ったようなこういう美しい人体、そして非常に計算されつくした構図というのをカラッチから彼は引き継ぎながら、一方でとても劇的な明暗で2人を描いています。こういった明暗の方法というのはカラヴァッジョに倣っているのです。ですから、この絵というのは当時ローマで新しい芸術を興していたアンニバレ・カラッチとカラヴァッジョ、その2つの表現をとてもうまくブレンドしてここで表現している、そういう絵だとも言えるわけです。
展覧会に出ているのはこの左のほうですけれども、こちらはボローニャの絵画館にある絵です。今回は素描も十何点来ているのですが、こういう当時の製作のプロセスというのを知る上でとても面白い存在になっているんです。さて、ここでグイド・レーニが何をしたかったのかというと、こっちを見るとこの人です。この人をどういうふうに描くかというのを研究したのがこちらの素描です。さらにこの人の中でもグイド・レーニは何を研究したかったのかというと、顔とか手とかそういう肉体ではなくて、このひだの流れです。当時の画家は、そうじゃなかった画家もいるんですけれども、特にこのカラッチの工房の画家たちというのはものすごくデッサンをするわけです。デッサンをして何度も何度も繰り返して形を研究します。それを組み合わせてこういうふうな大きな場面を作ったのです。そういった製作のプロセスを知る上で、こういう素描というのはとても面白い存在になっています。
今まではローマのバロックを見ました。ですから、僕たちはここまでルネサンス美術、それからマニエリスム、そして初期バロック美術と見ていったわけです。ここからナポリの美術へと話を移していきたいのですが、皆さんちょっとお疲れかもしれませんので、ナポリの街をちょっと見てから絵の話に戻っていきたいと思っています。
ナポリに行かれた方ってどのぐらいいらっしゃいますか。結構いらっしゃいますよね。そうですよね。私は30歳ぐらいになるまでナポリって行ったことがなかったのですが、怖かったんです。これはナポリの全景です。ちょっと明るすぎてよく見えないのですが、ここにヴェスビオ山というのが本当は見えます。こういう港湾都市です。港があったから、ナポリというのは古代からヨーロッパでも非常に重要な都市として発展することができたのです。皆さんご存じでしょうが、ローマとかから来るとここに駅があってここに多分来るんです。ここで電車を下りて街に繰り出すんですが、この辺が街のチェントロ・ストーリコとなって旧市街です。カポディモンテ美術館はここにあるわけです。だから、ここにこういうふうに丘があるわけです。
これは駅前です。ここに駅があってとても怪しげな感じで怖いです。下を見ると本当に怪しげな感じの人たちがうじゃうじゃ。カポディモンテ美術館にまだ行ったことのない方は、お勧めしたいのはバスでは行かないほうがいいです。多分とても面倒くさいので。簡単なのは駅からタクシーに乗ります。ただ、ほぼ確実にぼられます。今だと多分9.5ユーロというふうに決まっているのですが、多分イタリア語ができないとまず20ユーロぐらい取られるんじゃないかと思います。僕はイタリア語ができても15ユーロぐらいふっかけられるんですよね。途中からもう大体分かって、そもそもメーターを回さないのです。だから、タクシーに乗るとカポディモンテ美術館までいくらって聞くのです。違うところで乗ったら、例えば駅までいくらってもうその場で交渉して値段を決めますが9.5ユーロと決まっていても大体15ユーロと言って、大体毎回そこで大げんかをして12ユーロぐらいに落ち着くという、とてもそういうところが嫌でした。
こういうごみごみした街なわけです。ただこういうごみごみしたところも、実はナポリの歴史的な事情というのが絡んでいます。ナポリというのはさっき言ったように港湾都市として発展するのですが、南イタリアの中心都市です。16世紀の末ぐらいから大発展してきます。そのときに人口が爆発的に増加します。何でそんなに人口が増えちゃったのかというと、ちょっと変わった政策がありまして、当時ナポリを統治していたのはスペイン人だった。まだスペインが本国で、その副王というのがナポリにいるんです。植民地じゃないですけどスペインの領土だったのです。
スペインのナポリに駐在していた副王の政策というのが、日本の江戸時代とちょっと似ているんですけれども、南イタリアの豪族というのがいます。日本でいう大名みたいなものです。それを全員ナポリに連れてきちゃったのです。お前らそんなところにいないでナポリへ来いと言って、ナポリに館を建てさせて呼んできちゃうのです。そうするとどういうことが起きるかというと、その人たちがお抱えの従者とかも一斉にナポリにやってきます。だから、地方がかなりすっからかんになっちゃうのです。それに連れられて、もっと貧民の人たちもうじゃうじゃナポリにやってきちゃうのです。
さて、そうするとナポリには人口が増えますから仕事も増えます。さらに拍車をかけたのが税金のかけ方だったんです。ナポリの街の税金というのは非常に奇妙ですけれども、スペイン人副王が簡単に決めることができなかったのです。その権限を持ってないのです。だから、ナポリ以外の地の田舎の税金というのはものすごく高かったのですが、ナポリの税金というのは非常に低かった。そういうこともあって、一斉に南イタリア中から人間がナポリに押し寄せてきてしまいました。だから、もう人だらけになっちゃう。ダメ押しのようにもう1つ変な政策がありまして、ナポリでは城壁の外に家を造ってはいけないという決まりがあったのです。城壁の中って大して広くないのです。本当に狭いです。歩いて回れるようなものですけれども、その中に南イタリア中の膨大な人間が集まってきちゃうから、大変なことになってしまいます。そこでナポリの街というのは劇的に変化したのです。
建物を造るスペースがまずありません。そうするとどうなるかというと、まず違法建築をどんどん建てるのです。ナポリの統治者というのは基本的にはスペイン人副王ですけれども、でも税金もそうですけど、あまり手出しができませんでした。だからもうやりたい放題です。違法建築をどんどん建てて、さらに場所がないから上にいくしかないんです。だから、どんどん、どんどん、上に上に建て増していきます。そうすると、高層住宅がどんどんできますよね。そういうふうになって、ごみごみした現代に見られるようなナポリの街ができあがったのです。
今でもナポリって非常にごみごみした印象ですけれども、17世紀のナポリというのはそんなものじゃなくて大変なことになっていたそうです。当時ナポリというのはパリに次いでヨーロッパで第2位の人口を誇っていたのですが、もう足の踏み場がなかったんです。ヨーロッパのほかの街からナポリに仕事とかでやってきますよね。そうすると、何に驚くかというと、とにかく人の多さに驚いたとみんなが言っているみたいです。私はもちろんその当時のことは見ていないですけれども、例えると年末のアメ横みたいな感じだと思うのです。とにかく動けない、もう人だらけで動けない、そういった状況だったようです。そういうふうに南イタリア中から人間が集まってうじゃうじゃした中でごみごみ暮らしている、そういう状態の中から、例えばナポリ人気質というものが生まれてきたりとかするのです。
だから、当時面白いのは、当時の記録で「古き良きナポリは失われてしまった」という記述がたくさんあるのです。17世紀ぐらいに。古き良きナポリというのは、そんなに人口がいなくてのどかなナポリということなのです。でも、それから人口がうじゃうじゃ増えて、でもそのときに、実は今のナポリ人気質というのが生まれたわけです。
こういうふうに私も仕事に行くと、そんなに仕事をしているわけでもないのです。もちろんしますけれども。時間があるとこういうふうに遊んでいるわけです。こういうふうに今はそんなに人はいないですけど、この赤い建物があってこれはすごく大きい建物ですけど、これはナポリ東洋大学という有名な大学です。
さて、もう1つ私が言いたいのはこの右の写真ですけれども、さっき言ったように17世紀のナポリというのは非常に大変なごみごみした状態でした。でも、現在ごみごみした街から1歩入ると、こんなにのどかな修道院がナポリの街にはごろごろあるのです。本当にナポリというのは教会だらけ。実際、当時もカトリック教会の力というのはナポリでは大変なものだったのです。それには、スペイン人副王もなかなか介入できませんでした。
なぜそんなに力を持っていたのかというと、第一に、宗教ですから現代の日本と一緒で税金が掛からないのです。だから何かお金をもうけると全部自分のものになるわけです。当時、ちょうど対抗宗教改革も仕上がって、キリスト教の均一な規範の中で人々は暮らしていました。そうすると教会は非常に大きい権力を持つことができます。教会のやったことというのが結構すごくて、信者たちに寄進をさせるのです。それは当り前ですけれども、一番すごいのはキリスト教だと、信徒は死ぬと1回煉獄に落っこちて、そこからある程度の務めを果たすとそこから天国に行ったり地獄に行ったりするんですけれども、死んだときに遺産を教会に寄進しなさいと言うのです。寄進しないとお前は煉獄でずっとすごく長い間苦しんじゃうよみたいなことを言うのです。そうすると、みんな怖いですから遺言書を書いて遺産を教会に寄進していきます。
とにかくそういうお金の収益というのがもうばかになりませんでした。だから、教会はナポリの街のかなりいいところをたくさん自分のものにすることができました。逆に言うと、それだけ教会が土地を取っちゃうからただでさえ少ない小さな街が、一層小さくなってしまいます。そして人口密度もどんどん上がっていきます。そういったスパイラルがあったのです。でも、ナポリの美術にとってはそういった教会の権力の伸長というのはなかなかいい面がありました。なぜならば、それだけ権力があってお金もありますから、どんどん教会を建てることができました。そうすると、まず建築家が必要です。教会を建てると中に絵を飾らなければいけません。彫刻を持ってこなければいけません。そうすると芸術家が必要になってきます。ですから、当時のナポリは教会があることによって、画家たち、彫刻家たち、建築家たちというのはかなりの仕事を保証されていました。教会が彼らの非常に大きな活動の場として保証されていたわけです。
ここからがナポリのバロック絵画になるのですが、そういった今言ったようなナポリの姿だったんですが、16世紀ぐらいにはナポリはローマに比べると全然後進都市ですから、芸術的にも全然駄目だったわけです。ナポリで当時はやっていた絵画というのはどういうものだったのかというと、この左のような絵です。非常にマニエリスティックな絵だと専門用語を使うと言えるのですが、さっきこういうのを見ましたよね。対抗宗教改革の教えにかなった分かりやすい絵。でも、前時代のマニエリスムの形を引き継いだような絵。そういうのが非常にはやっていました。
そこにうまい具合にローマからカラヴァッジョという画家がやって来ます。何でやって来るかというと、彼は別に来たくはなかったのですが、ローマで殺人を犯しちゃうんです。とても気難しい短気な人だったのですが、テニスをやっていて変ないざこざから相手を刺し殺しちゃったというとんでもない事件を起こして、指名手配になっちゃうんです。カラヴァッジョはしょうがなくてローマを後にします。
彼は南のほうに向かって行った。ローマから最初に着く南の大都市というのはナポリです。ですから、カラヴァッジョはまずナポリにやって来て1606年の末にやって来るのですが、ナポリでしばらく滞在して逃走資金を稼ぐのです。そのときに例えばこういう絵を描くのです。こうした絵がいかに当時のナポリの若い画家たちに衝撃的に映ったかというのは、もうこの2つの絵を見れば明らかなんじゃないかと思います。全然違いますよね。カラヴァッジョはナポリでお金を稼いでさらにシチリアに逃げて、シチリアからマルタ島まで逃げるのですが、やがてもう1回ナポリに帰ってきます。ナポリに帰ってきてローマに戻ろうと思います。恩赦を期待しますが、ナポリからローマに帰る途中で息を引き取ってしまいます。伝染病にかかって死んじゃったんですが、ともあれカラヴァッジョは2回ナポリに滞在しました。そして、こういう当時のナポリの中ではもう信じられないような革新的な絵を残すわけです。
彼がナポリの画家にどれだけ影響を与えたのか、この出品作を見るともうお分かりになるのではないかと思います。こっちがカラヴァッジョがナポリで描いた絵です。さっきの左に写ったような絵と比べるといかに、これはカラッチョロという人ですけれども、カラッチョロがカラヴァッジョ的な造形にひかれているのかというのはもう一目瞭然だと思います。
あと重要なのがこのリベーラという画家です。彼はスペイン人ですけれども、スペインからイタリアにやって来てローマとかパルマとかで修行して、ナポリに落ち着くんです。そして、ナポリで画家を牛耳るような存在になっていきます。この人はもうとんでもない人で、ナポリというのはさっき言ったようにローマに比べると全然後進都市ですから、たまにローマの進んだ画家がやって来ます。例えばグイド・レーニもやって来るのですが、そうするとリベーラは何をするかというと、彼は自分の仕事を失いたくないんです。特にローマの画家なんて強敵なわけです。
そうすると、例えばグイド・レーニの助手がいますよね。それを夜道で襲って袋だたきにして半殺しにして戻したりします。そうするとグイド・レーニは怖くなって逃げちゃったりとかします。ドメニキーノという画家も来るのですが、ドメニキーノには執拗にいじめをするのです。いじめて、いじめて、いじめ抜いて最後は、これは半分本当だと言われているのですけれども、リベーラたちに毒殺されちゃったとか、とにかくそういうかなりえげつないことをして自分の地位を保ったんですけども、ともあれ画家としては優れているのです。
これはさっきのカラッチョロのもう1枚の作品ですけれども、ちょっと表現がだんだん変わってきているのがお分かりになると思います。最初は、ナポリはカラヴァッジョしか知らないです。でも、今言ったようにグイド・レーニとかドメニキーノとかちょっとカラヴァッジョとは毛色の違う画家たちというのもやって来ます。どういう画家たちかというと、例えばルネサンスの古典的な画法を大切にしていたり、あるいはヴェネツィア派のようなとても美しい色彩を持った画家たち。そういうのもナポリにやって来ます。そういった表現を引き継いで、ここではカラッチョロはちょっと色彩的な絵を描いています。
ちなみにこの絵はとても面白い経歴の持ち主で、今はこういうふうになっていますけれども、ほんの数十年前まではこの女の人が真っ黒く塗られていたのです。ですからそのときまでみんなは、これは男の聖人の絵だと思っていたのです。修復で洗ったら女の人が出てきてみんな驚いてしまったのです。何でそんなことになったのかというと、最初はこの絵だったんです。これはヴィーナスとアドニスという、このヴィーナスです。ここでアドニスを狩りにいかないようにと嘆願するのですが、アドニスは狩りに行ってしまいます。そこでイノシシに突き殺されてしまうのですが、ですからこれは狩りの猟犬なんです。ここにハトが2羽いるんですけれども、2羽のハトというのはヴィーナスにいつも付き従っているものです。これはキューピッドです。
でも、ある時点でこのヴィーナスを塗りつぶしてしまいます。そうすると、この犬はいいんですけれども、例えば2羽のハトとかがいるとちょっと変です。何をしたのかというと、1羽を塗りつぶしちゃった。キリスト教の聖人にしちゃったのです。キリストの聖人と精霊を表わす1羽のハトという構図にしたんです。じゃあ、このキューピッドはどうなったのかというと、キューピッドなんていてもしょうがないのです。でも、うまい具合に裸で羽根が生えていました。だから天使にしちゃおうということで、キューピッドを天使にしちゃったのです。手には、この人は聖人ですからシュロの葉っぱとかを持たせてみたりしたのです。そのときに描いたシュロの葉っぱは修復のときに消さないでそのままここに残っているのです。もう1回修復して元のヴィーナスとアグニスに戻った、そういう非常に面白い絵です。
皆さん、見てみると特に面白いのがハトの1羽がまだちょっと黒いんです。だからここでもよく見えないのですが、塗りつぶされちゃった黒いままでこの絵の中に登場しているので、そういうこの絵の履歴にも思いをはせてみてください。
これはリベラの素描です。リベラは版画家でもあったのです。版画のための素描です。これはさっきも出てきましたけれども、ジェンティレスキという画家の絵です。当時、女流画家というのはほとんどいなかったのですけれども、彼女はその最初期の女流画家の1人です。女流画家がなぜ大変だったのかというと、そもそも女性って当時そんなには家から外に出られません。一番大変だったのは解剖学の実習とかそういうのは一切できなかったのです。解剖学というのはさっき言ったように、画家になる上ではとても重要なものだったわけです。だから当時の女流画家というのは大体肖像画とか静物画とか、あまり当たり障りのない女性でも描けるようなものを描いていたのですけれども、彼女はこういうふうに非常に立派な、こういうもののことを歴史画というんですけれども、聖書を題材にとった絵とかそういうものですね。それを描きました。歴史画家としては、彼女は最初の女性だと言われています。
こちらのカラヴァッジョの絵ですけれども、これを見ると、ジェンティレスキがいかにカラヴァッジョを勉強していたのかというのがお分かりになるんじゃないかと思います。こういう残酷な表現というのはそれまでなかったのです。これは首を切った後の表現なのです。これはどういう物語かというと、ユディトという人が街を攻めてきたホロフェルネスという人のところに行って、ホロフェルネスが寝込んだところを首を切って自分の町を守ったという、そういう物語ですけれども、それまでは首を切る瞬間なんて描かないのです。大体切った後か、切ってこうやって自分の街に帰る、そういうのを描いていたのですけれども、バロック、カラヴァッジョになってようやくさっきのような残虐な、しかし見る人の心に非常に強く訴えかけるような絵というのが生まれてきました。それをジェンティレスキも学んでいるわけです。
さて、さっき言ったようにナポリのバロック絵画というのはカラヴァッジョの影響を非常に強く受けていたんですけども、そのうちだんだんヴェネツィア派であるとか、あるいはローマの進んだ表現というのも取り入れるようになりました。ですからこういうのを見ると、とてもカラヴァッジョ的ではない、非常に色彩豊かです。こういったような表現も生まれてきます。この絵はとてもよく描けているんですけど、この指先とかそういうところの表現をぜひ会場に行ったらご覧ください。
これはランフランコという、やっぱりアンニバレ・カラッチの弟子ですけども、彼もナポリにやってきて仕事をしてローマの表現というのを伝えるのです。こちらはナポリの聖堂の壁画ですけれども、これはそれの構想を練っているときのデッサンです。さっき言ったようにこういうのを何枚も描いてこういう大画面に備えていたわけです。
この絵は最後のほうになりますが、ルカ・ジョルダーノという人の絵です。ジョルダーノというのはナポリ出身の画家ですけれども、非常に学習能力の高い人だったのです。あらゆる人の画風を自分のものにすることができました。そして、ナポリ以外でも作品を作って全ヨーロッパ的な名声を手にしたわけです。ここでジョルダーノはこちらの絵をもとにして描いているんです。わざと同じような構図を使っているのです。これはジョルダーノがまだ若いころの絵なんですけれども、ジョルダーノは恐らく当時割合名声を得ていたこちら、パチェッコ・デ・ローザという人ですけれども、その人の構図をあえて自分の絵の中で使いました。そして画風はヴェネツィア派とかあるいはヴァン・ダイクとかそういうちょっと違う都市の人たちですけれども、わざわざそういう人の画風でここで描いています。そういうふうにして、まだ若い自分の評判というのを高めようとしているわけです。
これも面白い例ですけれども、ジョルダーノはここの素描を描くときに、わざとこのカンビアーゾという人の素描の技法で描くのです。本当はこの人はこんな素描を描かないんです。なぜこのように描いたのかというと、カンビアーゾが素描の名手として名高かったからです。わざとカンビアーゾと同じ技法で描いて、自分はカンビアーゾと同じぐらい、あるいはもっと素描が上手なんだということを分からせようとしていたのです。
これが最後になりますけれども、ジョルダーノはヨーロッパ中で仕事をします。これはフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿にある壁画ですけれども。そして自分がナポリ以外でも名声を得ます。そうすると、ジョルダーノの成功によってナポリのバロック絵画というのがヨーロッパ中で認められることになるのです。ジョルダーノみたいな有名な画家が育ったナポリというのはどういうところだろうということになるわけです。ジョルダーノによって、ナポリのバロックの絵画というのはナポリだけのものからヨーロッパ全体に尊敬されるような、注目されるような存在へと成長することになったわけです。
今日の講演では、ものすごく大急ぎでルネサンスからバロックまで見たんですけれども、ぜひ会場に足を運んで1つ1つ絵を見て、表現の変化であるとかバリエーションというのを見ていただければと思います。今日の講演はこれで終了にします。ありがとうございました。(拍手)
【橋都】 渡辺さん、どうも大変ありがとうございました。いかがでしょうか。既にご覧になった方、あるいはまだこれからという方、ご質問もあるかと思いますのでお受けしたいと思います。いかがでしょうか。
じゃあ、私から。今日の話と直接は関係ないんですけれども、私は日本の画家の絵を見たときに、ヨーロッパの画家たちと違って、日本人の画家はなぜ群像というものが描けないのかというのを常に疑問に思っているのですが、それはやはりヨーロッパの画家たちはそういうデッサンをしたりしてトレーニングをしているからなのでしょうか。
【渡辺】 群像のほうは分からないですけど、例えば日本の小説家は長編が書けないとかいろいろありますけれども。多分日本の明治時代の西洋画の輸入というのが割合表面だけ、表面ということもないですけれども、それほど深まってはいないんだと思うのです。一番、多分西洋で重要なのは、すべての例えばデッサンとか解剖学とか絵にまつわるさまざまな知識というのが歴史画のために学ばれるということなのです。歴史画というのはさっき言ったような聖書の一場面であるとか、あるいは神話の一場面というのを描くことなんですけれども、すべての技法というのは歴史画のため。さらに歴史画を描くためには美術だけを知っているのでは駄目で、例えばその物語の内容を非常によく知っていなければなりません。神話だったら、神話の当時の人たちがどういう服装をしていたのかとか、そういうことも全部ひっくるめて勉強しないと描けないわけです。
だから、歴史画を描ける画家というのは画家ではあるけれども、ものすごく知性のある存在と言われています。多分、日本の美術の教育というのはそこまで理解がなされていないんじゃないかと思われます。だから今でも画家というと大体ばかとか思われているわけです。実際、頭がよくなくても芸大とかに入れるわけですけれども、実際はヨーロッパ的な絵の伝統の中では画家、芸術家というのは非常に知性の高い人というふうに思われるわけです。
【橋都】 そういうところの違いだと。
【渡辺】 だと思います。
【橋都】 ほかにいかがでしょうか。実際に展覧会に行かれた方もおられます? 私はもう見てきたんですけど、ご覧になった方はおられます? そうですね。何人かおられるようですけど、いかがでしょうか。ほかにご質問はございませんでしょうか。
【質問者1】 美術史とは全然関係のない質問です。実は私は今年の3月に現地で、それからこの前上野のほうで見せていただいたのですが、現地はたまたまかもしれませんが私が行ったときはがらがらで、実際向こうの美術館はがらがらなのかどうか。多分そうじゃないかなという…。
【渡辺】 カポディモンテですか。
【質問者1】 ええ。そうすると今申しましたように、この美術史とは直接関係ないのですが、イタリアのそういう美術館とか博物館、にぎわっているところもありますけど、そういうところは経営としてかなり国が応援しているのだと思うんですが、日本とどんな違いがあるのかというようなこと。
それともう1つ、現地と西洋美術館は造りが全然違うので、雰囲気というか、絵自体は同じでも雰囲気がだいぶ違います。持ってくるときに額や何かも同じように持ってきているのですよね。
【渡辺】 そうです。
【質問者1】 ちょっとお聞きしたいのは美術館の経営というのが日本とイタリアとで違うのかというのをちょっとお教えいただければ。
【渡辺】 まず、向こうのカポディモンテですけど、がらがらです。いつ行っても本当にがらがらでして、ただ季節によっては街の学校が子どもを連れてくるんです。そういうのに重なると、皆さん本当に悲惨な目に遭うのですけれども、うるさくてしょうがないです。そういうときもあります。基本はがらがらです。
今回の展覧会も東京の後に京都に行くのです。京都を含めないととてもじゃないけどペイしないからですけれども、そうすると最初は京都の会期が12月15日までじゃどうかというふうにナポリに提案したら、ナポリが作品はクリスマスまでに絶対に戻してほしいと言ったのです。なぜなら、クリスマスにカポディモンテ美術館で出したいろいろな名作を皆さんに見せたいからというのですけれども、クリスマスにイタリア人が美術館になんて行くわけがないです。普段だってがらがらなのに、クリスマスに行くわけないだろうと思ったんですけれども、ともあれそういうことがあって結局12月5日までになったのです。そういうふうにいろいろ今回も腹が立つことがあったのですけれども、がらがらです。
これとも関係するんですけれども、イタリアというのは、日本もですけれども、財政が大変悪いです。国家の財政が悪いです。そのしわ寄せは、どこでもそうですけど、文化関係の施設にいくことになるんです。イタリアではどういう困ったことがあるのかというと、まず美術館とか文化関係の機関は人員を雇えないです。ですから、私がフィレンツェとかナポリとかで一緒に仕事をするわけですけれども、一緒に仕事をする人は全員50代か60代半ばまでです。それ以下というのは見たことがないです。全員気持ち悪いぐらい同じような年代です。なぜかというと、彼らが20代、30代のときにかなり大規模な募集があったらしいんです。そのときに一気に採って予算がなくなっちゃったから、その後1人も採ってないんです。そういう非常に困ったことがあります。とてもイタリア的だと思うんですけれども。
ですから、本当に大変なのはイタリアの文化施設の人たちが一気にこれからやめていっちゃうんです。これから10年間でほぼ全員がいなくなっちゃいます。そうすると、それまでの仕事の蓄積というのがもうそこでなくなっちゃうわけです。継承されていきません。それがとても重要な問題と言われています。
今、イタリアでは、イタリアの美術館というのはものを持っていますから、美術館は自分で稼げと言われているんです。ですから、イタリアの美術展というのはここ10年ぐらいで一気に増えてきた。それまではイタリアの美術展なんてほとんどなかったんです。なぜ増えたかというと稼がないといけないからというのがとても大きいです。今回のこのカポディモンテ美術館展も、金額は言えないのですけれども、お金を払っているわけです。それを彼らは改築するんですけれども、それの費用にしたいのです。そういうふうにして、こういう必要、例えば改築したいといっても政府からはお金がこないから、しょうがないから日本に作品を貸してそれで自分で稼ごうと、そういうふうなことになっています。
ただ、現在、特にフランスが顕著ですけれども、美術品を借りるときってものすごいお金を請求されるんです。例えばこの間オルセー美術館展というのがあって、僕も金額は聞いてないですけれども、数億は軽く、ひょっとしたら10億ぐらい払っていると思います。イタリアはその辺もう全然かわいいというかそんなんでいいのだろうというぐらいの額です。
ともあれそういうふうな状態で、イタリアの文化機関というのは大変今逼迫しています。ついでに言うと、お給料もものすごく低いです。館長クラスで20万ぐらいしかもらってないんじゃないですか。という感じです。
【質問者2】 フィレンツェとかローマの美術館というのは、例えばフィレンツェだとメディチ家とか、ローマだと教皇とかすごいお金持ちとか何かがかなり個人的な趣味でいろいろな画家を集めているので、かなりコレクションが、有名な画家も豊富ですよね。ナポリの場合は、このカポディモンテもそうだと思うのですが、普通の商売人とか何かのお金持ちはあまりいなかったと思うので、集めた方というかコレクションをした方というのは、名前がある程度残っているんでしょうか。あるいは誰か大司教あたりがやっているのか、あるいは歴代の教会関係者が、誰だか分からないけど買ったとか、その辺はいかがでしょうか。
【渡辺】 幾つかありますが、まず基礎になったのはファルネーゼ家という貴族です。ファルネーゼ家は最初はローマとパルマに本拠があったんですけれども、彼らは成りあがりの貴族だったのです。貴族からたまたま教皇が1人出て、当時はよくあったことですけど、その教皇が一族郎党をかわいがるのす。どんどん教会の財産をファルネーゼ家のものにしちゃうのです。当時の教皇庁の収入の約1割がファルネーゼ家のものになっていたんです。そういうふうにしちゃったんですけれども、そうするとファルネーゼ家は、成りあがりだから美術品なんて持っていません。一生懸命買うわけです。そのときの買い方というのが、同時代の作家はもちろんそれまでの過去の作家もどんどん買います。そうすることによって、あたかも自分たちの家柄がものすごく昔から名門だったかのようにするわけです。それがまず1つ基礎になっているのです。
もう1つカポディモンテで重要なのはブルボン家です。ナポリを治めていた王様ですから。ブルボン家の集め方というのは、あまりファルネーゼ家のように特徴はないんですけれども、彼らにとって重要だったのは、当時ちょうどフランス革命とかいろいろな、啓蒙主義とか何だかんだというのが19世紀の初めぐらいにあって、そのときに教会がどんどんつぶれるのです。そうすると、教会にあった宗教画というのが行き場所がなくなっちゃってそれをどんどん接収するのです。それが現在カポディモンテ美術館に入っているというのがあります。
重要なのは多分この2つです。あとはもっと細かいコレクターみたいなのはあるんですけれども、ナポリではそこまで個人コレクターというのが発展はしていません。メディチ家とか何とかああいうのはいなかったです。
【橋都】 ありがとうございました。それではそろそろ時間となりましたので、今日の例会はこれで終わりにしたいと思います。渡辺さん、本当にどうもありがとうございました。(拍手)