イタリアにおける中国企業の台頭

第369回 イタリア研究会 2011-02-14

イタリアにおける中国企業の台頭

報告者:法政大学大学院イノベーションマネジメント研究科准教授 松本 敦則


【橋都】 皆さん、こんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。ようこそ第369回のイタリア研究会例会においでくださいました。今日の演題は「イタリアにおける中国企業の台頭」という演題です。そのように仕組んだわけではないですが、先月のお話と連続する内容のお話です。

今日の講師は、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科准教授の松本敦則先生です。それでは、松本先生のご略歴をご紹介申し上げたいと思います。

松本先生は1968年のお生まれで、最初は第一勧銀、現在のみずほに就職をされ5年間仕事をされました。2001年から2003年まで国立ボローニャ大学に、法政大学大学院の学生海外留学生として留学されました。2003年11月からミラノの日本総領事館の専門調査員、経済担当としてお勤めになっておられます。2005年から静岡県立大学の経営情報学科の助手をされまして、2007年から現在の法政大学大学院イノベーションマネジメント研究科の准教授をされております。

先生の研究の内容はイタリアの地域産業です。今日はプラートのお話が中心になりますが、そういったイタリアにおける地域産業の力といいますか、それの発展ということが研究のテーマということです。我々にとってもこの中国企業の台頭というのは、これから日本も直面しなければいけないテーマのように思いますので、松本先生にそのあたりを分かりやすくお話ししていただきたいと思っております。それでは松本先生、よろしくお願いします。(拍手)


【松本】 皆さん、こんばんは。法政大学の松本と申します。今日は1時間半ぐらいお時間をいただきまして、特にイタリアの地域産業や産業集積のお話をさせていただきたいと思います。最初の30分ぐらいでイタリア経済の概要等をお話しして、それからプラートのお話をさせていただきたいと思います。

まず最初に、私がなぜイタリアに留学したかというところからお話をさせていただきたいと思います。私は大学を卒業したあと銀行員になり、中小企業の方たちを相手に仕事をしていました。ちょうどその頃に第3次ベンチャーブームでベンチャーが盛んになり、このまま銀行員で中小企業のことをやるよりも、むしろ今度は新しいベンチャー企業の、アメリカのアメリカンドリームみたいなことを勉強しようかと思い大学院に入り直しました。1997年のことです。

最初の2年間はずっとアメリカの中小企業、ベンチャー企業の研究をしていましたが、勉強をしながら、どうも違うのではないかと思うようになりました。一発当てて、株式公開をしてアメリカンドリームを実現すると言う、そういうベンチャーとかモデルとはちょっと違うのではないかと。シリコンバレーとかアメリカのベンチャーの話をしていると必ず反対側に、家族主義や小さい会社がたくさんある、イタリアの中小企業の話が出ていました。勉強をしながら、自分は銀行員として地域の中小企業の相手をしていて、アメリカンドリームの勉強をするより、もしかしたらイタリアの方が面白いのではないかと思うようになりました。そこで思い切って方向転換をして留学はイタリアに行くことにしました。

私はトスカーナ州にあるプラートという地域の産業集積の研究をしようと思い、フィレンツェ大学に行こうと思っていました。2000年の秋に初めてイタリアに行きました。実は当時、2000年のときはフィレンツェ大学の経済学部が、地理が正確にはよく分からないのでうまく言えませんけれども、ポンテ・ヴェッキオの3つ手前の駅側寄りの橋の横にフィレンツェ大学の経済学部と政治学部がありました。駅に近いところですので周りが全部観光ホテルでした。すぐにここで勉強をするのはちょっときついと思いました。その次の日にボローニャに行きました。ボローニャに行かれた方はお分かりかもしれませんが、やっぱりここだなと。別にフィレンツェが嫌だったわけではないですが、今もあまり変わらないかもしれませんが、当時は前を見ても、横を見ても、後ろを見ても日本人観光客がいるような状況でした。

ボローニャに行った瞬間に、本当に留学をして勉強をするならここじゃないかということで、急きょボローニャの先生のところに行ってお願いをして、ボローニャに行くことになりました。その後はボローニャに3年弱おりました。基本的にはボローニャ大学に留学したと言いつつ、ほとんどフィレンツェに通っていました。

後で出てきますが、フィレンツェ大学にプラート分校というのがありプラートに校舎があります。そこで私が最初に指導していただこうと思っていた先生の授業があったので、2001年、2002年はずっとプラートに通っていました。それから中小企業研究の一大拠点はフィレンツェ大学ですが、実はもう一つはモデナ大学です。ここにすごく優秀な先生がいらっしゃいまして、いわゆる産業集積というような専門の先生がたくさんいらっしゃいました。ボローニャはどうかというと、実はミラノにボッコーニ大学という有名な大学があり、どちらかというとアメリカ寄りの経済学の研究をするところです。ボローニャも先生によっていろいろいらっしゃいますが、経済学部はどちらかというとボッコーニ寄りというか、少し新しい学問というか、マネジメントの研究をするような先生が多く、どちらかというと私はフィレンツェもしくはモデナの方に通っていた感じになります。

ですから、私がボローニャでいた学部も教育学部の社会学の先生、もちろんボローニャやエミリア=ロマーニャ州の地域の産業の歴史をやっていた先生ですが、その先生のところに付き、自由にモデナやプラートやフィレンツェに通っていたという状況でした。それを終えて2003年から在ミラノ日本総領事館の経済担当の専門調査員のポストがあり、ここで2年間仕事をさせてもらって、それから日本に戻りました。

この研究会にもたぶんローマの日本大使館関係の方はたくさんいらっしゃっていると思います。ミラノの総領事館の方はなかなかいらっしゃらないと思います。なぜかというと、働いている方の人数が全然違うわけです。ローマの大使館は日本人だけでも数十人はいますが、ミラノの場合は、日本から派遣されている人は私を含めて8人、9人しかいないので、規模が全然違います。ですから基本的には、大使館はローマにあるので、大きい外交の仕事は全部ローマの方でやって、ミラノの方は経済や地域担当ということでやっておりました。

ミラノの総領事館は、ヨーロッパの中の総領事館で一番パスポートの再発行が多いです。それだけ観光客が多くちょっとした盗難・紛失等もあるため、実はその部分はすごく忙しいです。これはローマよりも多いです。ローマとミラノの管轄がどこにあるかというと、エミリア=ロマーニャ州より上の州はミラノの管轄です。フィレンツェとボローニャの間で切ります。フィレンツェより下の州はローマの大使館になります。つまりフィレンツェでパスポートを落とすと再発行はローマに行かなくてはいけなくて、ボローニャで落とすとミラノです。下の方が地域面積は大きいですが、住んでいる日本人の数は上のミラノの管轄の方が多いです。ミラノ、トリノ、ベネチア、ボローニャが入っており、そういった感じでミラノは機能しておりました。

あと、ミラノは非常に日系企業が多いです。これはローマよりも圧倒的に多く、7~8割はミラノ、トリノ、ブレシアなどの北部にたくさんあります。そういった意味ではミラノにも人が必要だったということです。

本当は私はミラノ総領事館に3年間いる予定でしたが、急きょ日本で仕事が決まってしまい、2年間で泣く泣く戻る形になりました。静岡の大学を経て、現在の法政大学に至るということです。あと1つは、文化ファッション大学院で非常勤講師をしています。文化服装学院というところがあり、そこが持っている大学院です。ここでファッションを中心とした経営を教えております。また経歴のことも少しずつお話しさせていただきたいと思います。

基本的に私の研究は、イタリアの地域産業や中小企業がメインになっています。前回の研究会はフォルミコーニさんがお話しになられて、本当にその続きになります。私も今まで何度もフォルミコーニさんにいろいろと教えてもらいましたので、今回は引き継がせていただきました。

イタリアの中小企業は分かっているようで分かっていらっしゃらないところもいっぱいあると思いますので、まずはそういったところのおさらいからやっていきたいと思います。

基本的にイタリアの産業は繊維とか衣類とか、あとは皮革、鞄、靴とかが中心です。伝統的な分野や非常に多いということです。ハイテク分野が本当は必要なのかもしれませんが、やってないこともないですが非常に少ないです。その中で、デザインや品質で、国際市場で優位性を持っていました。

イタリアの中小企業や地域産業を語る場合に必ず出てくるのが、産業集積という言葉です。日本だと地場産業と言いますが、イタリア語だと〓ディストレッティ インドゥストリアーリ〓と言います。産業集積とは、1つの地域に同じような分野の会社が集まっている、産地を形成しているということです。イタリア政府も1980年代半ばくらいから徐々に産業集積の重要さを認め始め、こういう国立の統計局などでデータを出すようになりました。

産業集積は繊維関係でみるとプラート、コモ、カルピなどがあります。コモは北の方です。カルピというのはモデナ県です。靴とか皮がマルケ、ヴェネト、エミリア=ロマーニャです。貴金属とか宝石が、ヴィチェンツァ、ヴァレンツァ、アレッツォ、この辺です。アレッツォはフィレンツェの下になりますが、ヴァレンツァはミラノの左側の上の方です。ヴィチェンツァがベネチアの横になります。それから自動車、オートバイはモデナ、ボローニャとありますけれども、実は皆さんご存じのスポーツカーやスーパーカーはほとんどがモデナにあります。フェラーリもそうですし、ランボルギーニ、マセラティ。オートバイでいくとドゥカティで、ほとんどこういったものが集積しております。フィアットはもちろんトリノですが、それ以外のほとんどはこの地区にあります。実はランボルギーニとフェラーリは本当に数キロぐらいの距離です。一応、住所的にはランボルギーニはボローニャに入ります。フェラーリがモデナなのですが、ほとんど県境のところで並んでおります。

それから眼鏡産業です。ヴェネト州のベッルーノという眼鏡のフレームとか、サングラスを作る産業集積があります。このベッルーノは、日本で鯖江という福井県の地域があるので、これの比較もずいぶんやっております。

私が2001年からどういう仕事をしてきたかというと、いろいろな大学の先生とか商工会議所、中小企業庁の委託とかをやってきました。ミラノ総領事館にいたときは何人もの国会議員のおともをしました。あまり言えませんが、本当はこの辺も面白い話がいっぱいあります。当時、ミラノ総領事館では私と総領事がちょっとイタリア語をしゃべれましたが、それ以外は全員イタリア語がしゃべれない人の中で、たくさんの国会議員の相手をしまして、かなり大変だったことを覚えております。ミラノ総領事館にも派遣員さんという日本人の女性がいらして、その方がちょうど夏のその時期に日本に帰られていましたのでこのような状態になりました。この時代はたくさんの日本の関係者が非常にイタリアに興味を持って来られていました。

イタリア経済の中小企業の魅力という、今の話の続きですが、実は当時、JETRO(日本貿易振興機構)に、中小企業庁が助成金を出して、それをもとに各国のJETROが受け入れをして、世界中の地域産業同士のコミュニケーションを取るというローカル・トゥ・ローカルという事業がありました。その中で、ヨーロッパではイタリアが一番多かったのです。たくさんの日本のミッションがイタリアに訪れたということです。私がいたときもちょうどこれに重なっていました。ミラノにはJETROミラノセンターといのがありますので、そこの方と一緒に2年間、ひたすら日本の中小企業団体の受け入れをやっておりました。例えばこの辺でいうと、TAMA協会という、八王子とか相模原とか埼玉にかけての地域の商工会議所みたいなところがありますが、そこがヴィチェンツァに行ったり、あとは新潟県燕の商工会議所の方が来られて、その方たちと一緒にイタリアの中小企業を回ったりしました。これもいろいろと成果もあればうまくいかなったこともあります。

後でお話ししますが、今はJAPANブランド事業と少し形と名前を変え、いろいろなことを継続しております。日本のものづくりはすばらしいので、それをどうやって海外に売っていこうかということで今助成金が出ています。

実はこの1~2週間で4つぐらい、イタリアの話を聞きたいという人が急に来ました。ある地方の県庁の地場産業課の担当者、東京の某区役所の方、JETROの担当者、それから静岡の某商工会議所からもいただきました。これはザッケローニ監督の影響だか、長友の影響だかよく分かりませんが、突然イタリアブームになってしまいました。去年はあまりなかったのですが、本当にこういうブームがあるのかなという話です。

某県では知事、某区では区出身の国会議員が、これからはイタリアだと突然言い出したそうです。とにかくイタリア産業の話が聞きたいということで、突然私の方も急に忙しくなってしまい、よく分かりませんが今はそんな状況になっております。そういった意味では、イタリアのものづくりが少しずつまた見直されてきているのかなという気がします。

実際にどういうところに行っているかという話ですが、例えばコモです。コモというのはシルク、ネクタイ、スカーフの産地です。ここもいくつか会社がありまして、いつも行っています。あとはプラートとかの繊維関係です。基本的には繊維関係が一番多いです。

それからデザイン。これは今もJAPANブランドという事業で続いていますが、日本はデザインのセンスがないのではないかという話になっています。日本のものづくりをしたものをイタリア人のデザイナーにデザインしてもらうのが一時はやり、やたらと来まして、僕も受け入れをずいぶんやっていました。

あと、これもすごく有名な話ですが、私も新潟県燕の商工会議所の方たちとあちこちイタリアを-回りましたが、やかん1個にしても、うちは1,000円で作れるのにアレッシィのやかんは1万5,000円するという話です。うちの方がいいものを作れるし、機械だって日本の方が新しいものを使っていると。でも、そうではないというところがなかなか難しいところです。

基本的にイタリアの人たちは、アレッシィの家具をキッチンに置いておくことで自分の生活を豊かにしたり、心を豊かにしたりという付加価値の部分を求めてデザインをしています。でも日本人はどうしても、いいものを作ればいいという、その物だけしか見てないので、そこで本当に値段も10倍ぐらいの差が開いてしまいます。イタリアのものづくりはそういう形でずっと来ています。

ですから日本の方と回っていても、物自体は絶対に日本のものがいいということをよく言われます。機械もいいものを使っているけれども、そういった部分がちょっと足りないのではないかと。こういった事業は今でも続いており、現在でも私のところにいろいろなところから、イタリアに物を売ってみたい、イタリア人にデザインを頼みたいという話が来ております。私は関わっていませんが、それを一つ実現したのが、ピニンファリーナにいらっしゃった奥山さんが、山形の家具や南部鉄瓶、それから自動車のデザインをしたりして、今はイタリアンデザインにも日本の中小企業は関心を持っております。

最後です。ちょっと分かりづらい写真ですが、このすぐ横はミラノのドゥオーモの広場前です。ここで関西展という、関西のものを集めてお茶会をやったり、大阪の堺の自転車で発表したり、こういった受け入れをやっておりました。

これは1回行ったからうまくいくというものではないですが、継続的にやっていくことが大事かなという気もしております。

簡単にイタリア経済の概要をお話しさせていただきます。戦後、日本と同じようにイタリアは敗戦国としてそこから復興しました。特に1950年代後半から1960年代にかけて、イタリア経済は奇跡の成長を遂げたと言われております。その中心は北部にあるジェノヴァ、トリノ、ミラノのあたりを工業三角地帯と言っておりました。当然、フィアット、オリベッティ、タイヤのピレリなど、この辺は大企業、大工場がある中心でした。このあたりが第1のイタリアと呼ばれていたところです。

一方、南部のローマより下の州や、サルデーニャ、シチリア島も含めた地区です。南部地域はもともと工業化が進まなかったところや、大規模な鉄の工場や、そういった公共投資をメインにしてきたので、なかなか企業が育たなかったと言われております。農家の方たちの取り分の問題があるとよく言われています。

例えば、1つの畑や田んぼで収穫をして、北部の方は採ったうちの半分を納めればいいので、自分は頑張った分だけたくさんもらえます。だから一生懸命、努力をしてやってきました。一方、南部の方はどちらにしても搾取されてしまうので、起業家精神が芽生えなかったと言われておりました。今までは二極化、二分化ということで南北問題とか二重構造と言われていて、北か南かという二元論でずっと議論をされていきました。それが1960年代の後半に、労働争議や石油ショックがあり非常に停滞が続いていましたが、1980年代の半ばに、イタリア経済第2の奇跡といわれるようになりました。その経済成長の源がエミリア=ロマーニャ州、ヴェネト州、トスカーナ州、マルケ州の4つの州だったのです。このあたりを、北部でもない南部でもない第3のイタリアと呼ぶようになりました。これまでなぜこの辺が注目されてこなかったかというと、政治的な問題がありました。今もそうですが、このあたりは基本的に左派の人たちが多い地域で、共産党が強かったところです。戦後の経済の復興の時期に、日本では傾斜生産方式で特定の産業にお金を投入しましたが、イタリアでは復興資金のほとんどが、ジェノヴァ、トリノ、ミラノのあたりに投入されていて、この辺はいわゆる赤い地区と見なされていて、ほとんどお金が回ってこなかったのです。ですからこの辺には大きい会社がありません。その分、左派系の思想が強いところはみんなで支え合ったり、女性を大事にしたり、共同組合的な思想が非常に生まれており、ここに小さい会社がたくさん生まれました。

国の統計が10年に1回出ます。1971年、1981年、1991年、2001年に出てきますが、実は1981年のデータが出るのが1984年とか1985年で遅くなるわけですが、1980年代の半ばになって、実はイタリア経済を支えているのはこの地区だということが分かりました。それまでは本当に北部と南部しか見ておらず、ほとんど無視された存在でした。家で職人みたいにやっているぐらいにしか思われてなかったのですが、労働争議とかオイルショックの後の統計を見たら、この地区が非常にイタリア経済を支えていることが分かりました。そこでだんだんイタリア政府の方も保護をし始めたということです。

ここが第3のイタリアと呼ばれる地域です。これだけはお聞きになったことがあるかもしれません。都市で言うと、フィレンツェ、アンコーナ、モデナ、ボローニャ、ベネチアあたりです。この辺を第3のイタリアと呼んでおります。ピオリとセーブルというアメリカの学者が『第二の産業分水嶺』という本を書き、これが世界中に広まりました。

この本は、基本的にフォードなどの車の大量生産方式ではなく、職人や中小企業による分業とネットワークを通じて、多品種少量生産を実現するシステムを、柔軟な専門化=フレキシブルスペシャリゼーションと呼び、これまでの大量生産型に始まる新しいモデルではないかという本を書かれたわけです。そこで一気に世界中でイタリアブームが起きました。

日本はいつブームになったかというと、1993年に入ってからです。なぜかというと、日本語に訳されたのがこの時期だったからです。ですから、ほとんどみんな知らなかったわけです。1990年代半ばに日本でものすごいイタリアブームになり、そこからイタリアに学ぶということで、各地の商工会議所や各地域の政策担当者のイタリア詣でが始まりました。先ほどお話ししましたように、特定の地域に特定の産業が集中していることがよく知られるようになりました。

もう一つ、ちょうどこの時期に出てきた文献がいくつかあります。1979年ですが、フィレンツェ大学の先生でジャコモ・ベカッティーニという先生がいます。もうかなりのご高齢ですがまだ現役です。私もこの先生のところで勉強をするためにフィレンツェに行こうと思ったぐらい非常に有名な先生です。イタリアの産業集積の基礎をつくった先生です。この先生が1979年に発表された論文で、イタリアの産業集積というのはただ単に中小企業が集まったところではなく、実はその集まった中の中小企業間におけるある種の文化的、宗教的、社会的な価値を共有しているからこそたくさん集まっていて、これはイタリア特有のものだという定義をして、これは非常に広まりました。この論文は英語に訳されたのが90年代ぐらいです。こういった先生がイタリアの地場産業の特徴をどんどん出していきました。

それから1980年にセバスチャン・ブルスコというモデナ大学の先生で、私が留学していた2002年~2003年に亡くなられましたが、この先生が『エミリアンモデル』という論文を出しました。エミリアンモデルというのは今回のテーマとはずれますが、実はエミリア=ロマーニャ州は行政側の政策が一番成功したモデルとして非常に知られるようになりました。オートバイや車、包装機械などが非常に盛んなところで、行政側がうまく施策をやったからよくなったということで、エミリアンモデルというので非常に広まりました。行政担当者はこのエミリアンモデルというのを学びにボローニャに来ていました。

ここで産業集積の特徴ということを出しておきます。1つは、フォードモデルの大量生産型ではなく、柔軟な専門化と呼ばれる中小企業に特化したもの。それから、職人さんとか中小企業が産業集積を形成して、それぞれネットワークを組んでいるということです。これはどういうことかというと、イタリアの人たちはみんなが集まることのメリットをよく分かっています。ボローニャに行ったことがある方がご存じかもしれませんが、広場の横に市場があり、2軒しかないお魚屋さんが並んでいます。つまり、彼らは隣同士になることのメリットをよく分かっているということです。

日本だと、例えば商店街とかでいろいろありますが、例えば自分が八百屋さんをやっていて、八百屋さんが来るというとちょっと妨害をしたり、来させないようにしたり、自分さえよくなればいいと思ったりする場合もあります。後で出てきますが、イタリアの人たちは非常に集まることのメリットをよく知っています。

それから第3に、特定の地域に産業が集積しています。カルピというところがニットと書いてありますが、セータとか洋服です。プラートでは、スーツとかジャケットとかズボンとかの生地を作るのをテキスタイルという言い方をしていますが、プラートというのはそういう生地を作る産地です。初期のころだけですが、カルピはベネトンの下請けをしたりしておりました。それからサッソーロ、これもモデナ県です。セラミックタイルや焼き物、あとはトイレ、キッチンなどのタイルが有名です。それからアンコーナの靴です。それからレッジョエミリアという、これもエミリア=ロマーニャ州ですが、農業機械が非常に盛んで、こういうふうに集まっています。

それから、これも有名になりましたけれども、コンバーターとかインパナトーレというのをお聞きしたことがあるかもしれません。これはどういうものかというと、中小企業がたくさんあるので、それをコーディネートする人です。例えばその人が注文を受けた場合、この洋服を作るには、どことどこの会社を組み合わせればこれだけのものが作れるかをちゃんと考えるわけです。例えばよく言われるのが、お花の刺繍をするにしても、大きいお花の刺繍が得意な職人さんと、小さいお花の刺繍が得意な職人さんがちゃんといると。そういう人たちを全部分かっていて、その人たちをコーディネートしていって製品を作るというシステムです。ですから、日本の中小企業の学会でもイタリアのインパナトーレに学べというような話がずいぶん出てきました。大企業でもないのにそういう小さい企業をまとめる人がいて、それもその産地の中にいます。私も今、静岡の浜松などの産地の研究もしていますが、どちらかというと、東京とか大阪の商社さんが話を持ってきて売ったりします。こちらの場合は中にそのコーディネーターがいて、中も外も分かっている人がちゃんとやっています。これはよく知られていることです。

先ほどお話ししたように、イタリアの産業集積はある種の文化的、社会的、宗教的な価値を共有することによって相互信頼関係が成り立っており、お金の貸し借りをしたりします。これはまだちゃんと解明されていませんが、ある先生が言われたことがあります。イタリアには大きい銀行がたくさんありますが、中小企業や地場産地が発展しているところには銀行は少ないです。逆に言うと、大銀行があるところには産業集積がないのです。例えば、シエナですが、やっぱり大きい銀行があると中小企業が伸びてないのです。

それはなぜかというと、銀行がないからこそみんなで支え合ってお金を出し合ったり、無尽をやったりということで相互信頼が成り立っていて、みんなで大きくなろうというのがあったわけです。銀行があると銀行に頼ってしまうのでみんなの絆が生まれなかったとも言われています。まだ本当のことはよく分かりませんが、間違いなくそういったことはあるのではないかと思います。先ほど郷土愛という言い方をしましたが、その土地の人たちみんなでの支え合いがすごく特徴的なものになっています。

企業間の関係も、日本の場合だとどちらかというと、大企業があって、それで下請け企業があってというピラミッドがあります。浜松の繊維産地でも、問屋さんがちゃんと東京や大阪にそれぞれいて、問屋さんのピラミッドがあります。隣の会社が同じことをやっていても、問屋さんが違うと仕事の話は全然ないわけです。それぐらい日本のシステムは固定化されています。

イタリアの場合は資本関係も何もないですし、それぞれの中小企業はそれぞれで取引をします。先ほど、柔軟な専門化と言いましたが、それぞれの専門の人たちは、それぞれ自分たちが独立しており、下請けに入るわけではなく、個別に契約を結んでものづくりをしています。実際には下請けのようなところはありますが、それぞれ独立してやっていて、今日の場合と明日の場合と仕事があれば、それぞれの組む会社も違うということで、地域としてそういうシステムができているのが知られています。

先ほど魚屋さんの話をしましたが、競争と協調という言葉が1つのキーワードになっています。要するに、集まることのメリットが分かっています。集まればそれだけお客さんが来てくれて、お客さんがその2つ、3つをどうやって選ぶかというのは、今度は店の中で競争をしていくわけです。そうやって集まることをよく分かっています。ですから、原材料を一緒に購入したり、見本市に一緒に出たり、組合を結成したり、こういったところは非常にうまいです。競争するところと協調するところがよく分かっている、そういった特徴があります。

それからマイナス面にもなりますが、中小企業が多いということは従業員が1人とか2人、お父さんとお母さんだけという場合、長時間労働などの無理が利いてしまいます。逆に言うと、無理をせざるを得ない状況に追い込まれてしまう場合もあるので、よくも悪くも柔軟に対応してしまいます。頼む方も頼みやすく、逆の面から見ると、安い労働力でたくさん働かされているという見方も出てきます。

そうは言っても、第3のイタリアというのは日本でも90年代半ばから知られた状態です。私がイタリアに居たのは2005年までですが、それまでにも日本からたくさんの方が来られていろいろ見に来ました。EUは統合をして、2002年の1月からユーロに変わりました。統合はされていましたが、通貨が変わったのは2002年からです。通貨が変わるとやっぱり大きく変わります。

イタリア産業が強かったとお話ししましたが、実は相当、輸入制限と保護主義をやっています。例えば自動車も、ひどいときには日本からの輸入は年間1,500台です。それからかなりの関税を掛けていて、日本から輸入品を来させないようにしていました。かなり守っていた面があります。これも聞いた話なので本当のことはよく分かりませんが、日産がヨーロッパに自動車会社をつくるときに、最初はイタリアに行きたいという話があったらしいのですが、イタリアの方はフィアットを守らないといけないということで大反対したらしいです。それで断念してイギリスで工場をつくりましたが、EUが統合してしまったらイタリアにEU域内商品としてどんどん入ってきてしまったと。それだったら最初からイタリアにあったらよかったみたいな話で、そういうような話は良く聞きます。

あとは、実はこれが一番大きいのですが、今まではリラを使っていたので、貿易が不利になるとリラの切り下げをするなど、そういう調整ができました。物を安くすることによってたくさん輸出をしたり、そういう通貨の操作によって貿易を有利に行えました。それがユーロになってしまってからはできなくなり、今までの裏の面も使えなくなってしまいました。

実はEUは中国のところと繊維協定の話がありましたが、EUの中でも繊維を作っているところと、作ってないところがあるわけです。中国から物をたくさん輸入する場合、例えばイギリスとかドイツは、中国から安い洋服が入ってくるからいいじゃないかということです。一方でフランスとかイタリアは、繊維をたくさん作っているから、そんなことをしたら自国の産業がつぶれてしまいます。でも結局、交渉はEU対他の国ということで、EUでやるわけです。ですから自国ではどうにもならないようなことがどんどん起きてしまって、そういった意味で、今はイタリアの製造業も厳しい状況を迎えております。

ここでちょっと区切ります。ここから本題に入らせていただきたいと思います。これからはプラートの中国系企業の話をさせていただきたいと思います。

プラートというのはフィレンツェから20キロぐらいで、車だと30分ぐらいで行けます。電車でも20分ぐらいで行けるところです。トスカーナ州プラート県です。ここはルネッサンスの時期に、フィレンツェが一番華やかだったころ、そこの隣の街として非常に栄えました。昔から毛織物、生地を作るところが盛んでした。先ほどお話ししましたように、ジャコモ・ベカッティーニというフィレンツェ大学の先生が経済学者のマーシャルのモデルを利用して、プラートの産業集積を分析してそれが広まったわけです。それから先ほどのピオリとセーブルもこのプラートという地域を取り上げ、ここがまさしくイタリアのモデルで、今いわれている中小企業のモデルの根本がこのプラートにあったわけです。JETROの事業もたくさんの日本の商工会議所が視察に来ています。プラートというのはイタリアの産業の中心の中心です。そのプラートですが、これは地図です。ここがフィレンツェで空港があります。その上がボローニャで下がローマの方になりますが、その上に上がった途中です。ボローニャでここまで電車に乗っていくとプラートです。こっちに行くとシエナとかピサの方に行く方になります。ピストイアとかルッカがあるような、そういった電車の通りになります。

プラートは先ほど言いましたように、柔軟な専門家というのがあり、あとは生地が非常に美しく、技術も高くセンスもあります。それから競争と協調もあり、地域全体がみんなで支え合う信頼感がある街ということでよく知られています。それから、繊維関係に関する全ての工程を提供できます。後でデータを出しますが、プラートに繊維関係の会社が約8,000社あります。世界中を見ても、これだけ繊維関係が集積しているところはありません。ヨーロッパではもちろんナンバーワンです。今では毛織物だけではなくいろいろな生地も扱っています。2005年ぐらいにイタリアも環境問題がいろいろ言われるようになりました。ある調査では、プラートが一番水の浄化とかで環境問題に気をつけているということで、1位を取って表彰されました。布なので、染めたりして化学薬品を使いますが、そういったことにも街としてちゃんと環境問題に気を使って、廃棄物や変な液体を流さないようにきっちりとやっている場所です。

企業数は8,300社です。これは国立統計局の統計なので、2011年のものが出ないと本当のことは分からないのですが、一応この段階では8,300社で従業員が4万7,570人です。従業員1人から9人の極めて中小企業が多いです。家族でやっていたり、少しの従業員さんを雇っている会社です。企業ではなく個人でやっている場合もたくさんあります。これが7,100社。比率としてはこんな状況です。49人までの小企業でも1,194社です。それから、中小大企業の50人以上ですら85社しかない状態です。極めて中小企業が多く、大企業が少ない地区になっています。こういう中小企業の人たちがネットワークを組んで生地を作ることが特徴として知られていました。

このプラートの中で産地内に属する住民間における文化的、宗教的、これはみんな共有することで成り立っていたと。今、学問の間ではスクオーラ・フィオレンティーナといってフィレンツェ学派というのがあります。ジャコモ・ベカッティーニという先生がいて、私が付いた先生もこの先生のお弟子さんですが、学問的にも学派を形成しています。イタリアで学派と呼ばれているのはほとんどここしかないぐらいです。モデナの方も言われることはありますが、基本的にはフィレンツェ学派と言えば通じてしまうぐらい、そういうことを専門にした先生がたくさん集まっているところです。そんなプラートで、イタリアの一番のモデルとなるべき産業集積でどういうことが起きているかというと、中国系企業の台頭と中国人の増加です。

プラートに住むイタリア人でさえも実態がほとんど分からないということです。私は2001年からずっとプラートに通っていました。今でも年に1回か2回は必ずプラートに行って、先生にお会いして、話をして現場を見ますが、本当に分からないと言います。実は、僕は去年の今ごろプラートに行きましたが、先生が初めて言ったのは、やっと学生の卒業論文でここを取り上げる人が現れたということで、それが去年の話です。先生はイタリア人の女性の先生ですが、僕がいろいろとしつこく聞いたら、私だって中国語なんて分からないから分かるわけがない、とおっしゃっていて、それぐらい現地の先生も分からない状況でした。

これは人口です。これは正規の統計局のものです。プラート県の人口は2007年で24万人ぐらいです。24万人のうち、2006年段階で中国の人が1万人です。外国人が2万6,000人しかいませんので、外国人のうち42%が中国人で占められています。外国の企業数ですが、中国人の企業が60%で、2004年の段階で1,020社です。なぜ2004年かというと、統計もとってあるときと、とってないときがあったり、国のものだったり、商工会議所のものだったり、いろいろなところにデータがあってちょっと分かりづらいところもあります。2004年はプラートの商工会議所が特別にリポートを出しました。これだけ国があるうちで、非常に中国人の企業が多くなっています。

彼らは何をしているのか。これは中国人、それからアルバニア人で、さっきの2位のところです。アルバニア人は家畜の皮を剥いだりする仕事をしていますが、中国の人は74%が繊維関係です。ほとんどの中国の人たちは衣類、既製服などの繊維関係の仕事に就いています。小売業やレストランなどもたくさんありますが、大部分の74%は繊維をやっています。とにかくめちゃくちゃ多いです。いつからプラートに中国人が広がっていったか、これもいろいろと調べてもよく分からないところもありますが、戦後から60年代にかけて中国人の方たちがずいぶん来られていたということです。また、1990年前後から繊維工場の安い労働力としてものすごく入ってきたということです。もともとイタリアの会社だけでも8,000社あった地域なので、そういう安い労働力で働いている人が欲しかったわけです。ですから、かなりの中国の人たちが入ってきてもイタリア人の経営者はうまくやり、日本だったら日本から中国に工場を移転しますが、イタリアの中に中国の人たちが移転する場所があったということで使っていました。イタリアに住む外国人は3カ月以上いる場合、みんな滞在許可書を取らないといけませんが、1990年に中国人は正式な登録者が38人しかいませんでした。それが1998年には8年間で3,000人になっています。

先ほどは1万人と出ていましたが、たぶん3万人以上はいるだろうと言われています。ほとんどが不法滞在者です。私が最初にプラートに行ったのは2000年ですが、その当時もプラートに行くと中国人がたくさんいて、プラート中央駅などは中国人ばかりでした。バールの人もみんな中国人ばかりで、当時から多いとは思っていましたが、このときはあまり話題になっていませんでした。プラートに行くと中国食材店がたくさんあります。ボローニャにもいくつか中華食品を売っている店がありますが、プラートに行ったときの食品の多さとは全然違います。ここ5~6年ぐらいで急増したと言われています。

なぜかというと、2001年に中国はWTOに加盟をしたわけです。ですから、正式に堂々と国際ルールに則って、中国が貿易の連盟に加入してきたと。それから2005年に、さっき繊維協定と言いましたが、多少の制限はあるものの自由に繊維が入れるようになりどっと来たということです。

実はもう一個あります。ご存じの方がいらっしゃるかは分かりませんが、2002年と1990年代の終わりに、イタリアはあまりにも不法滞在者が多くて人数が把握できなかったので、ここで1回浮かび上がらせるために、ある期間の間に警察署に申し出れば、今までの不法は無かったことにして、ちゃんと滞在許可書を出しますという政策やりました。そうしたらなんと、イタリアに行けば滞在許可書がもらえるということで、ヨーロッパ中から中国人が集まってきてしまいました。その政策はいかがなものかという話もありましたが、一方で先ほどお話しましたように、あまりにも移民が多すぎて、イタリア政府としても実態がつかめず、犯罪も起きてしまうから、ここでちゃんと正規に登録させて把握をしようとしたのです。当時、私はボローニャで学生をやっていましたが、そこでの日本人の間でもこんなことはできるのか、どこに行けばもらえるのかと大騒ぎでした。でも、日本人がこれに乗っかったという人はあまり聞いたことはありません。

そのような中で2002年に中国人はたくさん増えたようです。こういったことをイタリア政府はやってしまったので、いいか悪いかはよく分かりませんが、本当にこういったことがありました。

今度は何でプラートなのかということです。先ほど言いましたように、ヨーロッパ最大の繊維の産地だからです。ここはパリとかミラノのコレクションの材料の供給地です。今でも、フィレンツェにピッティ宮殿がありますが、そこでピッティフィラーティという見本市をやっていて、フィレンツェで作った糸の展示会を年に2回、毎年やっています。パリやミラノの人たちが糸や生地を買いに来ます。非常に高品質付加価値の高い生地を作る場所です。ですから世界中の次の繊維に関する流行とか色とか材質とか、全部情報が入ってきます。ですから彼らもここに入ってきます。ここでなくてはならないということで、「中国人にとって働きやすい環境」と書きましたが、これは微妙な書き方です。

前回の研究会でフォルミコーニさんも言っており、ここはさっきも言いましたが、実はプラートは今までは中道左派の政権だったので、移民に対してうるさくありませんでした。今は国の政権の中に北部同盟が入っていますが、そこは外国人排斥で、絶対に外国人は追い出せと言っているところです。特に北部のミラノの上の方は北部同盟が強く、そこは北部中心主義で南部の人や外国人を極端に嫌う、右に極端に偏った人たちのものです。例えば北だったら、北で稼いだお金を何で南部につぎ込まないといけないのかとか、自分たちが稼いだお金で、何で外国人に食わせないといけないのかというのです。今でも政権に入っているので結構そういう主張があり、こういう排斥のことがあります。実はプラートというのは非常に寛容です。私はプラートに行ったり、フィレンツェに行ったり、ミラノに行ったりしていますが、だいたいフィレンツェとかボローニャの先生に、中国人がすごく多いのですがどう思いますか、と聞くと、しょうがないのではないかとか、いいのではないかと言う先生が多いのです。しかし、ミラノの人はこの状態はあり得ない、何とかしないとだめだという先生が多く全然違います。ミラノの方がどちらかというと右派系の人が多いというわけではないですが、寛容ではありません。ですから先生と話をしていても全然違います。やっぱりプラートは地域柄か、ここに来やすいというか、そういう場所なのです。

それからコモとの比較ですが、これもちょっと古い統計です。実はプラートだけだということを言いたいのです。プラートにたくさん中国人が来ていますが、コモで一番多い外国人はモロッコ人、ルーマニア人、チュニジア人だったりします。繊維という大くくりではコモもそうですが、コモではなくて、やっぱりプラートです。プラートにいるからこそ彼らのビジネスが成り立っています。

それから、どういうルートでプラートに入ってきているかというと、もともとフィレンツェは鞄とか革の産業が発達していたので、そこで中国の人たちが革の産業に携わっていたということがあります。あとはエンポリという、フィレンツェの下の方ですが、ここは婦人服の産地です。ここに中国の人たちが洋服の産地ということで入ってきました。ミラノやローマ、パリから入ってくる場合もあります。北京から来る場合もあるし、せっこう省の温州からたくさん来ていますが、ここから直接入ってきている場合もあります。

これも本当かどうかは分かりませんが、いわゆる中国系のマフィアと呼ばれる人たちがいくつか入っているのではないかと言われています。本当のことは分かりません。電車で荷物と一緒に送り込んできたとか、船の中にいっぱい詰めて送ってきたとか、そういったいろいろな噂はありますが、いろいろなところからプラートに入ってきているということです。

それから中国系企業の特徴ですが、温州の出身者が多く、ほとんどがこの地域ばかりのようです。逆に言うと、この人たちは非常に起業家精神があり、どんどん海外に出てきているということです。最初は中国からの輸入を扱う商店、中華料理屋、食材店から始まり、それから繊維に転換していくということです。あとはイタリア系企業の労働者から独立する場合です。それからイタリア系企業を買収すると、「合法的に経営者になる」と書いてありますが、中国からお金を持ってくる場合もありますし、ある意味、地下経済と言えるでしょうか。それからあとは自分たちの仲間からお金を工面してもらって経営者になる場合もあります。

それからプロントモーダといいまして、今までプラートというのは高付加価値の生地を作っていますから、次のコレクションに出すまでに長い時間をかけてものづくりをしていくわけですが、このプロントモーダというのは、簡単に言ってしまうと、数日で洋服を作ってしまう生産システムのことです。当然、彼らは四六時中そこで仕事をしていますので、あっさり物を作ってしまうということです。基本的には男性服とか、あるいは女性服も扱っているということです。それから物自体も中国の流通ルートを彼ら自身で持っているということです。衣類も、何を持ってメード・イン・イタリーと言うか、これも非常に微妙なところです。彼らは中国で作ったものをこっちに輸入してきて、それでタグを貼り替えて、イタリアで出してメード・イン・イタリーにする場合もあります。最後の工程だけをイタリアでやって、それで付ける場合もありますし、その辺は本当によく分かりません。これはイタリアの人も全然分からないと言っていました。中国人はあまりイタリア人との交流がなく、自分たちのルートでやっているので、見えないところでいろいろな活動がなされており、こんな状況になっています。

今はもう8,000社中、2,000社以上は中国の人たちがプラートで繊維の会社をやっています。そのプラスの面は何かというと、イタリアの貿易収支への貢献です。要するに、中国の人たちがイタリアで作ったものをイタリアに輸出すれば、イタリアの貿易収支に貢献するということがあります。それから地域活性化としてプラートの経済を支える。今、8,000社あるうちの2,000社がなくなったらどうなっちゃうのという話も実際問題としてあって、なくてはならない存在になっています。

それからこんなこともあります。中国人にイタリアの人たちを雇ってもらう。例えば日本の繊維産地を考えてみると、どこの繊維産地もそうですが、昔は岐阜にしても、浜松にしても、桐生にしてもたくさんあって、働く人が多くいましたが、それがだんだん低コストを求めて中国に行ってしまいます。当然、工場が向こうへ行ってしまえば日本でも雇われる人が減ってしまいます。ですが、中国人はプラートにいるイタリア人を雇ってくれるということです。あとは、洋服を作るのにイタリアの若いデザイナーを雇って洋服を作らせています。当然、若者にとってみれば中国系企業であれ洋服のデザインをさせてくれると。こんなチャンスはなかなかないですから、こういったところでやるようです。

それから、これは一番大きいですが、実は中国の人たちに不動産を貸しているイタリア人の大家さんがたくさんいます。つまり、自分たちはやらないけれども彼らにアパートとか工場を貸すことによって収入を得てしまっているので、そっちの方が楽だということになってしまいます。高齢化も進んでいるので、イタリア人が中国人の人たちに不動産を貸すということが起きています。

次はマイナス面です。1つ言っておきますが、私は今、大学にいるものですから、中国人の留学生はゼミ生にもいます。みんなまじめに勉強している良い学生です。これからお話することは、あくまで一つの現象として見ていただきたいと思います。

まず不法滞在です。今は正規登録の人口の3倍以上はいるだろうと言われています。これは分かりません。それから労働法を無視して、低賃金で24時間労働をさせるということです。それから脱税です。領収証が発生しない取引がたくさんあります。だからもう分からないのです。マクロロットという工場団地がありまして、そこにベンツのディーラーがあります。みんな中国の人が現金で買っていくそうです。イタリアの人たちが分からないところで物の売買が進んでしまっています。それから偽造品、模造品とあります。パリとかミラノで流行しそうなものをまねしてすぐに作ってしまったり、コピー商品をたくさん作ります。これもよく分からないということです。それから通貨。これは今でもよく言われていますが、人民元は価値が安いので、彼らにとってすごく有利な取引になってしまうということです。それからタグの貼り替えです。その下は、税関を通らない。プラートというのはトスカーナにあるので、もともと中国から物を輸入した場合にはリボルノの港に入るらしいです。港で一番大きいのはジェノヴァの港ですからジェノヴァに入ることがあるらしいですが、実はこの人たちはみんなナポリ港に持って行くそうです。ナポリの税関が機能してないらしいからです。だからここでも全然分からないと。あえてナポリに持っていくということで税関も通らないので、貿易の統計もよく分からないです。でもナポリまで入ってしまえば、あとはイタリア中どこに流しても分からない。さらにEUで国境がなくなっていますから、陸続きのフランスやドイツに物を持って行くにはノーチェックなので、そういったことが起きてしまうということです。

それから環境問題です。プラートではもともと非常に環境問題に注意をしていましたが、彼らは廃液の垂れ流しをしたりするということです。それから犯罪です。これは微妙なところですが、イタリア人に対して犯罪をするわけではないのです。ですから逆に言うと、イタリアの中でもそんなに変な動きが起きないというのもあります。彼らの中だけのいざこざが多いそうです。それから、さきほどベカッティーニ先生のところでお話ししましたが、産地とか地場産地のものづくりは基本的にその地域の文化とか、宗教とか、そういったものがみんな分かって、あうんの呼吸であるからこそ、根本のところでみんながわかり合っているからこそ相互作業が成り立つとお話ししましたが、それが通用しないということです。

それから、産地構造の変容というのがあります。実はいろいろな現象が起きています。もともとテキスタイルというのは洋服を作る生地を供給しているところです。アパレルというのは、洋服それ自体を作っているものですが、プラートというのは洋服を作るところではなくて生地を作るところです。このときには8,000社のうち7,000社がテキスタイルの企業で、アパレルの割合が12%だったのが、今では40%です。本来の生地を作る産地から洋服を作る産地に変わってきてしまいました。開業数と廃業数ですが、生地を作っているところがどんどん廃業していって、洋服を作るところはどんどん増えています。これも中国の人たちが入ってきているからこそ、こういう現象が起きてしまっているということです。これは実は同じように見えるかもしれませんが、大きな違いです。

何でこういうことになってしまったかというと、1つは、日本と同じで繊維産業自体がだんだん外国に出るようになってしまって、現経営者が引退を機に工場を手放してしまうことが多いということです。それから、この前までは繊維産業をやっていたけど、今はピッツェリアになってしまったみたいなところも聞いたことがあります。繊維だともう無理だから業種転換をしてしまうと。拠点もルーマニアとかトルコとか、チュニジアに移ってしまう場合もあると。それから、インドとか中国の競争。特にインドからの競争が激しいという話をしていました。

プラートには繊維関係の5年制の高等専門学校がありますが、ここにはもう経営者の子供が入学しなくなりました。20年前までは生徒の半分が家業を継ぐ人たちが多かったらしいですが、今はほとんどいないということです。要するに、息子も継ぎたくないし、親も継がせたくないということでどんどん手放してしまっているということです。

あと実際には、さきほど従業員が50人以上は80社とありましたが、本当に商売ができるのがこれぐらいしかなくなってきてしまっています。だんだん数も減ってきて、見本市もやりづらくなってきています。去年、私はピッティフィラーティという見本市に行ってきまして、そこで知り合いの日本人が働いている会社があってそこで聞きましたが、数年前に比べると寂しいほど見本市会場ががらがらになってしまっていると。昔はピッティの建物の3階まで全部、見本市を出店していたのが、今はもう2階までしか使われなくなっていてだんだん寂しくなっているということで、そういった繊維産業自体が低くなってきているということです。これもミラノの見本市に統合されたり、こういった状況になっています。

プラートに対する中国人の関係ということですが、大きなターニングポイントがありました。実はプラート産業連盟という商工会議所みたいなものがありますが、この連盟に2005年1月に初めて中国人の経営者の加入が認められました。現在まででこの1社だけです。 Il Sole 24 Oreという日本でいう経済新聞によく出てきて、中国人の会社は悪い会社ばかりではない、自分みたいにちゃんと産業連盟に加盟して正規にちゃんとやっている会社もあると、いつもアピールはしていますが、実は1社しかないということです。

さらに驚くべきことですが、2007年6月にプラートで温州デーというのが開かれました。温州の人たちがプラートに来て、温州にも投資をしてくださいというセミナーをやっています。実はプラート市と温州市で姉妹提携を結んだのです。これは左派の市長のときに行われました。行政側もウェルカム状態になっています。

中国人の方たちは労働者としては多かったのですが、大学で勉強するような状況ではなかったのです。それがこのフィレンツェ大学プラート校に行ったら、普通に中国の人たちがそこでいっぱい勉強をしているわけです。次の世代の子どもたちがイタリアの普通の大学に入るようになって、極めて当たり前になっているということです。

一方、2009年の6月とか7月ですが、ベルルスコーニ政権で北部同盟という外国人排斥政権が入っているもので、かなり外国人を追い出せという話をしたり、滞在許可書のチェックを全国的にやりなさいという話があり、ナポリとかカラブリアの方で外国人の排斥問題で暴動が起こったりしたことがありました。そのときに確かベルルスコーニが行ったんだと思うのですが、このときにあまりにもこのプラートの現状がひどいということで、3,000人だか何千人だかの警察と軍隊をプラートに派遣して、不法滞在を一掃するみたいなことを言いました。実際にやられたかどうかはよく分かりませんが、中国人に対してプラートの方の地方政府は歓迎状態、一方でイタリア中央政府の方は中道右派ですから、これはけしからんという話になって、こういう温度差がある状況になっています。

基本的にはこの現状をどう捉えたらいいのかということですが、これは正直言って非常に難しいです。中国人がいっぱい来ていることをどう捉えたらいいのかということと、イタリア人と中国の人たちの文化の融合はできているのかということです。さきほどコミュニティーの問題が出ましたが、私が一番問題だと思ったのは、中国人対イタリア人という対立を言っていますが、実はイタリア人の中にも受け入れ大歓迎な人と、受け入れは困るという人が二分されていることです。私が2年前に行ったときに、職人組合、商工会議所、産業連盟、大学といろいろお話を伺いに回りましたが、それぞれの団体によって、やっぱりイタリアですから左派寄りと右派寄りというのがあります。協同組合一つにとっても、左派系の共同組合と右派系の協同組合が必ずイタリアのどこに行っても必ずあります。特にフィレンツェとか下の方は左派系が強いです。私は1回、右派系の職人組合の人に案内をしてもらいましたが、冗談じゃない、奴らが俺たちの仕事を奪っているのだという話をしていました。もう片方のところへ行くと、もう我々は彼らと一緒にやっていくしかない、彼らは我々を支えている、というような意見があり、イタリア人のコミュニティーの分断もあります。

あとは、イタリア人には住居とか工場を中国人に貸して生活をしている人がたくさんいます。その人たちは中国人がいなくなったら困るわけです。あと10分ぐらいですが、写真をいっぱい持ってきていますので、ちょっとなかなかイメージがつかなかったと思いますが、写真を見ながら少し解説をさせていただきたいと思います。

これがプラートのドゥオーモという教会です。僕は専門家ではないのであまり分かりませんが、いわゆるフィレンツェの方の影響を受けています。それから、こっちの方にはシエナとかピサがありますので、こっちの影響も受けた形の教会です。城壁がこんな感じでまだ残っているところです。それから、ここがフィレンツェ大学のプラート校です。プラート中央駅の次の駅の真ん前にある分校です。僕もここに通っていました。

実はプラートはお金持ちの一戸建てがすごく多いです。フィレンツェは観光地ですしアパートがたくさんありますが、ここはお金持ちの人が一戸建てでここに住んでプラートに通うという、非常に静かで落ち着いたところです。昔からそういう位置です。地図はちょっと持ってないのですが、こういう城壁があって、旧市街地と外があるとしたら、この外の一本目にヴィアピストイエーゼという2キロぐらい続く長い通りがあります。このピストイエーゼという通りが大変にことになっています。これは銀行です。この看板も見えづらいですが全部漢字です。ここにいる人も全部中国人です。これは繊維関係の建物です。これは男性服ですが、これを詰めていたり運んだりして働いています。これはのぞき見をして撮りましたが、こういうふうにミシンなどがあります。彼らは縫製をここでやっているわけです。これもこっそり撮ってしまいました。たまにバチンとドアを閉められたりしました。1回ちょっとチャレンジをしようと思い、見学オーケー?と紙に書いて出しましたが、バチンとやられました。これは男性用のスーツです。これもどこまで中国でやってこっちで作ったのか分かりませんが、こういった感じで並んでいます。これもこっそり。この車も全部彼らのものです。

これは何と書いてあるか分かりますか。実はこれはアラビア語と英語とイタリア語と中国語になっていますが、何ということはなく、「唾とか痰を吐くな」と書いてあるわけです。中国の人が道路にペッとかガァーッと本当にやるので、それをやるなということです。でも中国語だけではまずいので、イタリア語と英語とアラビア語で作ってありますが、結局、中国人に対してのものです。

それから温州風味というのがあります。ここの食堂に入りましたが、ボローニャとかミラノにある外国人向けの中華料理とは完全に一線を画しており、現地の人たち用の食べ物です。このとき行ったのは2008年で、前の職場の静岡県立大学の先生と2人で一緒に行きました。先生とこのお店に入ってご飯を食べながら、冗談で僕たちはもしここで変に怪しまれたら、たぶん誰にも分からないまま消されてしまうのではないかと、注文をするのも緊張しました。顔ではばれなくても、しゃべれなかったらばれるだろうという感じで、恐る恐る頼んで2人で食べました。もちろん何の問題もなかったのですが。この通りは2キロぐらいありますが、本当に何百人もの中国人がいます。僕は怖くて写真が撮れませんでした。でも、同僚の先生は写真を撮っていて、今日使ってもいいかと聞こうと思いましたが、できませんでした。果敢にも中国の人が一斉にたむろしている写真を撮っていました。イタリア人は誰もいないので、あそこでつかまったらそのままどこに行ったか分からなくなります。

今、温州風味と出ましたが、温州から見た世界への進出という研究テーマを慶応の先生と一橋の先生が行っています。僕が学会で発表したときにこの先生たちから、中国の温州から見ないでイタリアからばっかり見て中国人がどうだと言うのはおかしいだろうと言われました。中国人側から見れば、彼らのネットワーク、温州モデルというのがあって、それが全世界に進出していて、その成功モデルがプラートといわけです。ですからその先生は、ちゃんとあなたも中国に行ってきなさいと。僕はちょっと否定的なことを言っていますが、実はこういう研究からすると、中国の温州ネットワークというすごく奇麗なものになるわけです。奇麗とか汚いというのもおかしな話ですが。ですから、どっちがいい、悪いではなくこういう見方もあるわけです。

これはプラートの中国の子供たちが来る学校です。それから会計事務所、これは不動産会社です。全部中国語です。「工場を貸します」とか「家を貸します」とか、こんなのばかりです。それから、「これを売っています」、「工場を売ります」と。それから、これは職人の求人です。こういうのに電話番号を書いてばんばん貼っています。僕は読めないのでよく分かりませんが、こんな感じで壁中に貼ってあります。これは壁にそのまま書いてあります。壁中にマジックで書いています。これはたぶん、けしからんということで白く1回消していて、またその上から書いています。書いてはだめという張り紙が貼ってあったり、中国語で書いてあったりします。

ここはマクロロットという工業団地です。ここは何本も規則正しく道を整備をしたところです。道路が1本あり、両端に会社があって、工場団地は全部で200区画ぐらいあります。この200の工場団地中に中国系企業はどのぐらいあると思いますか。実はほぼ全部、200が中国系の企業です。ここは20年ぐらい前にプラートの政府が開発した工業団地です。このときには全部イタリアの企業でしたが、20年後の今は全部です。

このマクロロットはちょっと市街から離れた高速道路に近いところですが、ここのことはどう思いますかとイタリア人に聞きました。プラートの市が整備した工業団地にこれだけ入っているということは、政府がオーケーしているからどうしようもないと。これが工業団地の看板です。たまにかっこいい英語があったりしますが、必ず漢字があったりして、イタリア語っぽい名前も付けていますが、これは全部中国の会社の看板です。これもそうです。このプロントモーダというのは、あなたのご要望を数日間で実現します、洋服を作りますのでどんどん注文をしてくださいという看板です。これも全部が団地内です。

さきほどのピストイエーゼ通りのところもそうですが、歩いていると、とてもイタリアとは思えないような状況です。ぜひ一度行ってみてください、と言いたいところですが、ちょっと危険というか、別にイタリア人や日本人に悪いことをするわけではないですが、あまり行かない方がいいかなと思います。写真を持ってないのが残念ですが、特にお昼休みの時間などには想像を絶する中国人が二重三重で道路にいます。さすがに彼らも僕が行っても、もちろん日本人ですから洋服がちょっと違うので分かるのか、じろじろと見られているので、写真を撮るのも緊張しながら行っている状況です。

このおじさんのところにいつも行きます。このおじさんはプラートの端っこで繊維工場やっていて、おじさんにどうなのかと聞くと、俺も実は中国人に貸しているからいいんだみたいな感じでいろいろと教えてくれます。このおじさんの横にバールがあって、イタリア人がやっています。このおじさんは約束の時間にいない時に横のバールに行って、バールのお兄さんと話しながら、僕は日本人だけど、ここの中国の人はどうなのかと聞いたら、お客さんとしていっぱい来てくれると言いながら、かなり否定的なことを言っていました。僕が日本人だと安心してからいろいろなことを教えてくれました。そうしているうちに中国の人たちがお客さんで入ってくると、また機嫌良くカフェを出したりするわけですから、何とも微妙な中で成り立っている状態です。

プラートの歴史は説明しなかったのですが、もともとぼろ布を集めてきて、それをほどいて繊維に作り直すというのが始めで、これは昔のものが残っていますが、こんな感じになっています。ちょっと言ってないこともたくさんありますが、だいたい時間ですのでこのぐらいで終わりにしたいと思います。質問等をしていただければと思います。

ただ、正直分からないことが多すぎるのと、この現象をどう捉えたらいいのかというのは、非常に難しいところがあります。

話は違いますが、この間札幌に仕事で行ってお話を聞いたら、よく言われていますが、北海道のスキー場でも中国の人たちが土地を買い占めていると聞いて、どう捉えたらいいのかという感じはしました。その辺も含めて、もしご意見があればいただければと思います。

ただもう一回言いますが、私が別に中国の人が嫌いなわけではなく、学生にもずいぶんいますし、去年も中国人学生に連れて行ってもらって中国を訪問してきました。そういった意味で、決して中国人が悪いというわけではありません。個人的な感想として、あまりにも同じところに集まり過ぎていて、イタリア社会と分断しているということが問題だとおもうのです。ですから、これは横浜、神戸、長崎にある中華街とはもしかしたらちょっと違うのかもしれません。どっちがいいのかは分かりませんが、そういったことがあります。私も毎回イタリアに行くたびに、プラートに行っていますので、今後も続けていきたいと思います。ということで、一応お話はこれで終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)



【橋都】 松本先生、どうもありがとうございました。なかなか一筋縄ではいかない問題という印象ですけれども。いかがでしょうか、ご質問がある方はございますか。はい、高橋さんからどうぞ。


【高橋】 一番基本的なことを聞きますが、中国人は土地を買うことや建物を買うことができるんですか。そこをちょっと教えてください。


【松本】 できるようです。


【高橋】 土地も買えると。


【松本】 はい。これは日本もそうですが、民間の話になってしまうので、政府が分からないところで知らぬ間に行われています。日本も場合もそうですか、政府の介入なしに売買をしているそうです。


【高橋】 そうすると中国本土みたいに、おしまいと言って取り上げることはできないと考えていいですか。


【松本】 そうだと思います。それは日本と一緒です。イタリアの中での話なので、その取引も全部民間ベースになっています。


【山田】 日本でも最近はずいぶん中国パワーが問題になっていまして、日本の企業も毎月1社、2社買われていますが、イタリアの場合は若干裏経済があって緩いところがあるので、そういう意味では中国人が入って行きやすいのかなと思っています。それから1つご参考までに申し上げると、確かナポリの実態をイタリア人のジャーナリストが書いてカモッラのことをかなり詳しく書かれました。


【松本】 『ゴモラ』ですね。


【山田】 あの本の中で中国人が大量にナポリ近郊に不法入国して働いている話があり、あれはたぶんだいぶ前の話だと思うのですが、その人たちが流れてきたのかなと思ったりしますが、その可能性はありますか。


【松本】 あると思います。『ゴモラ』にいろいろ載っていて、その辺がそういう人たちの活動がよく載っています。


【山田】 その頃は中国人が使っているのではなく、イタリア人がうまく中国人を使って、安い繊維製品を作っていたので、その人たちが自由人になって逃げてトスカーナにきてしまったのかと。


【松本】 それを斡旋する業者がいて、連れてきます。そこから逃げた人もたくさんいたでしょうけれども。


【山田】 それからもう一点、イタリアの外人問題の排斥が若干はあったけれどもそれほどはなかったと言われましたが、ただこの感じでいくと、今後ある日突然かなり厳しくなる可能性もあるんですか。


【松本】 さきほどはあまり触れませんでしたが、今の市長は右派に変わりました。ですから少し流れが変わってくるかもしれません。今まではずっと左派の政権でしたが、市長が右派に変わって、少し規制が厳しくなったり、査察というか、いきなり踏み込んで滞在許可書のチェックみたいなことが出てくるかもしれません。


【橋都】 他にいかがでしょうか。


【猪瀬】 外国人労働者の問題になるとドイツが昔から話題になっていて、トルコ人70万人、ユーゴ50万人という枠を決めて昔はやっていました。中国人はどうしてドイツに行かないのか、あるいは現在行っているのかは私には分かりません。それから、貧しい国というのはどうしても豊かなところへ出て行きます。プラートでもまだ1万人というと大した経済規模ではありません。イタリアの中ではどのぐらいのウエートになるのでしょうか。


【松本】 ドイツのお話ですが、もちろんドイツにもたくさんいらして、どこにでも彼らはいると思います。2002年の、今まで不法だった人たちを浮かび上がらせるために滞在許可を出しますというようなことをやったら、ヨーロッパ中からイタリアだったら籍を得られるということで出てきて、それで集まったということもあります。もちろんドイツにもフランスにもたくさんいると思います。イタリアに多いのはいろいろな意味で生活がしやすいからだと思います。そうした人はみんなイタリアに来るのではないかという気がします。

それから規模の話ですが、1万人というお話をしましたが、その1万人というのはあくまでも正規の人たちだけで、不法を合わせると4万人ぐらいになっているかもしれません。全体の経済規模は分かりませんが、プラートの繊維の産業という面から見ると、もうかなりのウエートを占めているので、8,000社中の2,000社、もしかしたらもう2,500社になっているかもしれませんが、そういった意味では影響力はかなり大きいと思います。もしこの2,500社がなくなったらプラートの経済は回るのかとなると、これはなかなか難しいかもしれません。


【橋都】 はい、富永さん。


【富永】 非常に興味のある話をいただき、ありがとうございました。先ほどイタリアの小企業間の連帯関係、ジュウタイというのは宗教的、文化的な価値があるとおっしゃいました。今はIT技術が進んで、ウェブで取引をするというのは中小企業でも進んでいると思いますが、イタリアの中小企業、小企業の中では他の国と比べてITの利用の仕方、それが今のジュウタイ関係にどういう影響を及ぼすのかを説明していただくとありがたいのですが。


【松本】 イタリアでよく言われているのが、物流に関しては、遠くからでもすぐに持ってこれるかもしれないと。ただ、ノウハウだったり、地域ならではの歴史とか風土はなかなか引き継がれないという発想があります。物だけではなく、プラートでは繊維関係の全ての情報が集まるので、中国の人たちもそこを通すことによって1つ箔を付ける形になるので、あえてプラートブランドを通すことによって自分たちを正当化しようとしているという気はします。

ITの件で言えば、今はコモ地区のスカーフやネクタイが盛んだという話ですが、あそこはプリント技術が有名で残っていると言われています。プリント技術とは何なのかというと、エプソンの機械が素晴らしいという話になったりします。でも、そのエプソンの機械とコモの人たちの今までの伝統の技術があって、それがいい布にできるというのがあります。そういった意味では技術もどんどん取り入れられます。

ちょっと地区は違いますがカルピの件でいうと、アルマーニの工場がありますが、それもアルマーニがモデナの工場を買収しました。そこには職人がいるのと、ものづくりが行われているということがあります。実はデザイン部門は全部ミラノにあって、そこから電子ベースで送り、モデナやカルピで作って持っていきます。やっぱり、そこにはそういう技術があるからです。でも、ものづくりはモデナでやらないといけません。だったらものづくりも、それが例えばチュニジアとかヨーロッパとかでいいのかというと、やっぱりそれはイタリアでないといけなくて、でもデータは全部ミラノからやります。モデナも中心にはならないけれども、地域としてはまだ残っているという、そういう微妙なバランスはあると思います。ですからその辺のネットワークもそれはそれでものづくりにとっては大事ではないかと思います。


【富永】 1990年代にフィレンツェ近郊の皮革産業に中国人が増えて問題になりましたが、先ほどの先生の話を聞くと、その人たちがプラートに移ったということでしたが、移動するというか、一定量の人たちが移動するのか、それとも絶対量として、フィレンツェにも実は結構残っていて、またプラートの分だけ増えるのか、そういうパターンなのかちょっと教えていただきたいです。


【松本】 すみません、その辺はおっしゃる通り、プラートの方の統計をちゃんと採ってないので分かりません。統計もたぶんないでしょう。いろいろなパターンがありますと書きましたが、いろいろな人たちがいるということで、どうやら必ずしもこれがというわけではないみたいです。もちろん残っている人もいるでしょうし、こっちに来た人もいると思います。

ただやっぱり、あれだけのヨーロッパ最大の中国人のコミュニティーができていて、生活というか全ての面において、弁護士や会計士も全部いるわけです。不動産屋さんも、食料品も、食べ物も全部中国人です。もしかしたら、フィレンツェの中にいると警察官にいきなり滞在許可書を見せろと言われるかもしれないのに、プラートだったら言われないという話になれば来るかもしれません。それはちょっとよく分かりませんがいろいろなパターンがあります。


【富永】 どうもありがとうございました。先月、フォルミコーニさんにも品質の問題を聞きました。彼は品質はかなり悪くなっているけれども、いいところもあるというお話でした。今日お聞きしてもっと深刻なのは、テキスタイルの比重が非常に下がって、縫製の方が伸びていると。そうするとイタリアのファッションを支えていた良質の生地を生産する人が少なくなっているわけで、それはどこか代替のところを見つけているのですか。だんだんイタリアファッション自体が非常に危機に瀕するじゃないかという気もしますが、その辺はいかがですか。


【松本】 たぶん後者で、代替のところはたぶんないと思います。ヨーロッパもパリも、ミラノもそうですけど、ほとんど生地の供給はここで、8,000社ぐらいの規模でした。さっき品質の話をされていましたが、実は品質も何も別物になってしまっています。プロントモーダといって、ミラノとかパリではやっているものをまねして、いかに安く売るかというだけの話ですから、それは品質という意味では、洋服の品質と生地の品質は全く別ものなので、分けて考えないといけないと思います。生地の方で考えると、非常に数も減ってきて、それを支える人たちが減ってきているということは、すぐにということではないとしても、さっき本当に勝負ができるのは8,000社あるうちの80社と言いましたが、その数がどんどん減ってきていると思います。ゼロになることはないのかもしれませんが、非常に厳しい状況になる可能性はあります。


【橋都】 はい、どうぞ。


【黒田】 生々しい興味深いお話をありがとうございました。私は30年間ピッティフィラーティに通い続けてきました。リーマンショックの煽りで2年前に仕事はストップしていますが、10年前までイタリア企業とデザイナーとして契約をしていました。その時点でもすでに中国企業はすごく、プラートに行くと看板がほとんど中国企業になっていた時代がありました。1つ言いたかったのは、ピッティフィラーティというのは生地の展示会ではなくて糸の展示会です。イタリアの2年先を占って、製品になる2年前から、その糸からトレンドを作ります。その展示会です。そこで全てが決まるということで、ピッティ宮殿の中に人がたくさんいらして、ずっと通っていました。

お聞きしたいことは、今は温州からの人が多いとのことで、中国の中での温州の位置づけというか、なぜ温州なのか、あるいはどの辺にあるのか、全然分からないのでご説明いただければありがたいです。


【松本】 分かりました。地図はありませんが、場所から言うと、上海のずっと下の方です。分かりやすく言うと、台湾の大陸地寄りに廈門という場所があり、その右上のあたりです。浙江省温州市というところです。そこは慶應の先生方の論文を見ると、非常に起業家精神が強く、中国の中でも特別外に出て行く人が多い民族らしいです。


【橋都】 華僑を輩出している地域ですので、外国に出るのに全く抵抗感がない人たちだと思います。


【松本】 あと、フィラーティーのところは失礼しました。そのときにそこで聞いたのが、こういう糸を生地するときに、どのぐらい中国の人たちがあなたの会社で関わっているんですかという話をしたら、基本的にはかかわってないと。ただ、卸したところの下の、次の工程で裁断とか単調作業がいっぱいあるらしいのですが、その段階で彼らに卸しているかどうかまでは分からないと、ただ上の方の人たちはそこにはやってないけれども、そこからどう流れてきているかまでは分からないので何とも言えないという話がありました。


【黒田】 ありがとうございました。続きでちょっとお話ししたかったことを思い出しました。イタリアの企業と10年前まで契約をしていて、9・11で終わりました。実はその企業はフィレンツェにあって、工場が全部プラートに全部ありました。イタリアで糸の分野ではファッション系でナンバーワンでした。ところが、リーマンショックの後に会社更生法で倒産しました。一番クリエーティブな新しい糸を出す会社でしたが、1カ月したら中国人がコピーをして中国に出回ります。最初のうちは、いくらコピーされても自分たちは次の新しいものを出すと胸を張って言っていましたが、ついに3年前にリーマンショックでつぶれてしまいました。


【松本】 これは新聞で読んだ話ですが、糸に関しても、そのときそのときで太さやはやりがありますが、それを彼らはどんどん中国から持ってきて、失敗をして損をしても次にまたチャレンジをして全然めげないと。だからこそ、それを盗みに来たり見に来たりというところで、プラートじゃないといけないところがあって、たくましいという話をしていました。

そこで聞いたのが、昔は中国の人が糸を買ってくれと持ってきていたのが、糸を買っていくならそのまま生地も買ってくれと、だんだんと糸から今度は生地をそのまま持ってくるようになってしまい、だんだん糸を織る工程もイタリアでやらなくてもよくなってきてしまっています。


【橋都】 よろしいでしょうか。そろそろ時間ですので今日の例会はこのあたりで終わりにしたいと思います。我々もこれからはどう中国と付き合っていくかというのは大問題だと思いますので、大変参考になる話だったと思います。それではもう一度松本先生に拍手をお願いします。

(拍手)