女性にとって数学はどのような意味があるのか?18世紀イタリアの女性と数学

第370回 イタリア研究会 2011-03-09

女性にとって数学はどのような意味があるのか?18世紀イタリアの女性と数学

報告者:神戸大学教授 三浦 伸夫


この報告は図や表の説明が未完成です。修正中ですのでご了承下さい。


【司会】 それではお待たせいたしました。ただ今から、第370回のイタリア研究会例会を始めたいと思います。今日は久しぶりに科学史の演題でありまして、講演の題目が「女性にとって数学はどのような意味があるのか? ─18世紀イタリアの女性と数学─」で、神戸大学国際文化学研究科教授の三浦伸夫先生にお話をお願いしてあります。

皆さん、「女性と数学」というとあまり縁がないといいますか、対立するもののように思われるかもしれませんけれども、ミラノの女性の数学者、アニェージの話を中心に三浦先生がお話をしてくださるということです。

それでは、三浦先生のご略歴をご紹介したいと思います。先生は、1950年のお生まれで、名古屋大学の理学部の数学科のご卒業です。東京大学大学院理学研究科の科学史・科学基礎論博士課程を修了されまして、現在、神戸大学国際文化学研究科の教授をされております。ご専門は科学史、比較文明論ということでございます。そして、中世の数学史を主に研究しておられまして、現在、エウクレイデス全集全5巻を東京大学出版会から刊行中ということでございます。今日は、どういうお話を聞かせていただけるのか非常に楽しみにしております。それでは三浦先生、よろしくお願いします。

(拍手)



【三浦】 (自己紹介)ただ今ご紹介にあずかりました三浦と申します。私は神戸大学国際文化学研究科というところに所属しております。これは文系の学部でありまして、そこで科学史を専攻するということでありますので、専門分野はなかなか学生さんに興味を持っていただけないということがあり、最近では科学と文化を繋ぐ問題を中心にいろいろと講義に取り入れています。

私の専門は、先ほどご紹介のありましたように中世ヨーロッパの数学の歴史であります。中世ヨーロッパというのは、文化的にはアラビアからの影響を圧倒的に受けていまして、アラビアから中世ヨーロッパのイタリアやスペイン、そういった地域でいかに数学が受け入れられたか、そしてまた自分たちのキリスト教文化の中で数学がどのように消化していったか、そういったことに関心があります。したがって、数学そのものの内容もそうですけれども、数学がいかに移植されていくか、あるいは文化や社会の中でどのように変容されてていくか、そういったことを中心に広く研究しております。

特定の研究対象としましては、レオナルド・ピサーノ、通称フィボナッチという13世紀初頭の数学者について勉強しております。彼は、ヨーロッパで初めてアラビア数字を使った本を書いたということで、歴史上名前が残っています。それでもやはりヨーロッパ中世の数学ですから、今日から見ればそれほどレベルの高い数学ではありません。したがって、数学といろいろな学問との関係、場合によってはキリスト教神学との関係など、そういったことについても見ていこうとしているわけです。この視点を徐々に広げていきますと、中世だけではなくルネサンスや、あるいはもう少しあとの17、18世紀ごろではどうなっているのか、そういったことにも関心が進みまして、数学と文化あるいは社会とが時代の中でどのような関係があるのか、相互にどのように影響しあうのか、しないのかと、文化史の中で数学を見ていこうとしております。

一方では、純粋な数学史研究としましては先ほどご紹介がありましたように、古代ギリシャの数理科学者で音楽理論家、天文学者でもあった、ユークリッド(あるいはエウクレイデス)の著作の翻訳や解説、あるいはずっとあとの17、18世紀ごろのニュートンやライプニッツの数学の研究もしております。けれどもその時代においても文化史の中の数学ということに常に関心を持っております。したがって、今日は私の本来の研究テーマである中世ヨーロッパの数学ではないのですが、ずっとあとの時代18世紀頃の数学文化を取り巻く状況をお話ししたいと思います。

本日の話はおそらくあまりお聞きになったことはないと思いますし、またこの種のテーマに関しての本が日本語では読めるわけではありませんので、いろいろな人の名前が登場したりしますけれども、そこは初めての題材ということでご了承願います。

レジュメを配っております。レジュメと本日ここで紹介するパワーポイントの内容とは分量が違いまして、ご紹介するほうはレジュメの3倍ぐらいで、中には図像関係などレジュメにないものもございます。

(科学の歴史)本日の話がどのような位置づけになるかわかりにくいと思いますので、最初に、科学の大ざっぱな流れをご紹介します。といってもこれは既にご存じかもしれません。科学という用語自体にいろいろ問題を孕むものですけれども、図のように、オリエントではメソポタミアとかエジプトがあります。

次にギリシャ。それからローマではなくてアラビアに進みます。そしてアラビアからヨーロッパ中世という流れになっています。この辺が12世紀ごろで、私の専門の時代ということになります。それからルネサンスです。科学史において、ルネサンスという時代があったかどうかということに関しては様々な議論がありますけれども、これはレオナルド・ダ・ヴィンチの時代であります。それから科学革命があります。これが科学史においては非常に重要な時代といわれておりまして、17世紀ですが、とりあえずイタリアではガリレオ(あるいはガリレイといったほうがいいのかもしれませんが)、それからイギリスではニュートンがその代表ということになります。ここで、近代科学の理念、すなわち数学を使ったり、実験したりすると方法が確立されていくということになります。

ですから、イタリアが科学史に登場するのは、中世でもそうですが、古代ギリシャ時代でもそうです。そもそもアルキメデスはシラクサ出身でありますから、イタリア人と言えるでしょう。現代の国の名前を古代に当てはめるのはなかなか難しいところでありますけれども、科学史の中でイタリアが登場するのは先ほどの科学革命のガリレオあたりまでなのです。

次に、1800年初頭に「第2の科学革命」というのが起こります。17世紀の科学革命が科学の内容に関して議論された革命である一方、「第2の科学革命」ではそうではなくて、科学と社会との関係、つまり科学者が、国家あるいは集団の中に取り込まれて、その中で研究を進めていくということになります。すなわち、科学が国家や社会と密接に結び付くことになります。ですから、個別の科学者の問題というよりも、むしろ科学者を含む大きな集団が出来あがるということになります。それが起こったのが、いろいろありますけど、フランスです。そして、次にそのフランスをドイツがまねたということで、やがて19世紀後半になって科学の中心地はドイツに移ります。それまで、科学の歴史においては目立たなかったドイツが初めてここで登場するわけです。

そして、20世紀になってドイツやフランスやイギリスの制度をまね、またドイツやイギリスに多くの留学生を送り出して、アメリカが科学の中心地となる。これは20世紀でありまして、産業化科学、すなわち科学が企業と結び付き、あるいは国家のもとでの巨大科学や、あるいは軍事科学の誕生ということにもなります。

今日お話しするのは18世紀ですから、科学の中心地がイタリアから離れる時代であります。すなわち、18世紀のイタリアには、数多くの科学者がいますから不調と言ってはまずいのですが、科学史の年表を見てみると、フランス人やイギリス人が多く、イタリア人はほとんどいません。いてもこの表に挙げる人物ぐらいでありまして、おそらく皆さんがご存知なのはこのうち電池で有名なヴォルタぐらいで、あとは専門でない限りあまりご存じないのではないでしょうか。こういった状況から考えて、18世紀には科学の中心地はフランスに移ることがわかります。

今日の講演内容は18世紀のイタリアです。この時期イタリア科学は不調ですけれども、他方で女性の科学者が活躍した時代であります。これは非常に特異なことであります。科学史で女性の科学者を挙げよと言ったら、キュリー夫人など4~5人があがる程度で、非常に少ないでしょう。それにはいろいろ理由がありますけれども、18世紀イタリアはほかの国とは異なり、女性科学者が登場しました。なぜ18世紀のイギリスやアメリカではなく18世紀のイタリアなのか。そういったことを、とりわけ数学を中心に見ていきたいと思います。

(アニェージ)アニェージという「数学者」、この人は数学者といえるかどうか問題ですので括弧付にしました。つまり、数学者といえば通常、数学を研究しそれで生活している人、あるいは大学教授などの研究者です。しかしアニェージはそうではありません。 (写真はアニエージ)

話の後半では、イタリアの状況だけではなく広くほかの文化圏と比較をするため、日本やイギリスの同時代の女性と数学を見て、イタリアの特異性というものを浮き立たせたいと思います。いずれにせよ、アニェージという人物を中心に今日はお話をしていきます。

ところでその前に、18世紀のイタリアにおいて注意していただきたいのは、「科学者」とは何かということです。それは今日私たちが想像するような科学者ではなくて、科学も研究し、さらに少し広く世界を考える学者のことを指します。当時は世界の構造、世界はどのように成立しているかを考えるという自然哲学者がいました。「サイエンティスト」という英単語が登場するのが1840年代のイギリスですので、今日私たちが思い描くような科学者というのは、非常に大ざっぱに申し上げますと、19世紀の初めごろ英語圏で登場したということになります。もちろん例外はあります。ということで、ここでは「科学者」とは言っても自然哲学者と捉えたほうがよいことを一応頭に入れておいてください。

アニェージはミラノで生まれミラノで亡くなったので、その地にはこの地図のように「アニェージ通り」もあります。この写真のように建物の壁に取り付けられた石版の像も残っているようです。しかし名前は残されているけれども、ミラノの人は彼女のことをおそらくはあまり知らないのではないかと思います。

(アニェージの魔女)「アニェージの魔女」というのは曲線の名前で、この「魔女」という単語は英語でウィッチです。この図はアニェージの本からです。

円がありまして、直径を右回転させていきます。このとき直径はまずこの円とここで交わります。そして、延長していったとき下の接線と平行の直線と交わります。そのとき、そこから垂直に線を引きます。下の直線と平行な線と交わったところがここです。この点をつなげていきます。今、線をこのように傾けていますけれども、別の傾け方ならどうか、この辺になったらどうか。点を次々と取っていき、反対側も同じようにしますと曲線「アニェージの魔女」が描けるというわけです。

これがなぜ魔女というかをお話しましょう。既にアニェージより前にグランディという数学者がこれについては述べています。これは本来ラテン語でversusという、「早稲田vs慶應」とかのヴァーサスと同じ語源で、「向かい合わせる」という意味であります。この意味を持つ曲線としてグランディは既に研究していましたけれども、アニェージはそれを今度はイタリア語でla versieraとしました。このla versieraとしたというのは、このあたりから曲線の向きが変わっているからだと思いますけれども、また一方では当時としてl' aversieraという意味も持っていたそうです。こちらは魔女という意味です。そして、アニェージの本はイタリア語で書かれましたが、英語に訳したコルソンは後者のほうと解釈してしまい、ウィッチつまり魔女と訳してしまいました。したがって、その後この曲線は「アニェージの魔女」と呼ばれるようになりました。のちにトリノの数学者ペアノは、兜の頬のところを覆うようなものとこの形が似ているからでしょうか、viseraという名前を付けましたけれども、今日この曲線は「アニェージの魔女」と呼ばれています。

というわけで、要するにこれは些細な誤訳ということになりますが、その誤訳のおかげで今日アニェージの名前が知られることになりました。この曲線自体はそれほど数学的に重要であるわけではなく、むしろここで言いたいのは、アニェージは数学の歴史において、女性だから、そして誤訳されたからということが重なり名前が残っているということです。しかしこのことはアニェージの責任ではありません。彼女は当時その程度に知られたくらいでありまして、数学史で重要視されてきたということはありません。


(天才少女)さてマリア・ガエターナ・アニェージの生涯をご紹介しましょう。1718年に生まれ、1799年に亡くなりました。生涯は3つの時代に分けることができ、幼少のころ、数学研究時代、貧しい人たちの世話をする時代、この3つです。要するに、小さいころは英才教育を受け、天才として誉れ高く、やがて数学を研究し有名な本を書きます。しかし、あるときから突然数学をやめ、数学界とも断絶してしまい、貧しい人たちの世話をするということになります。以下ではなぜこういうことが起こったのか、そしてこのアニェージという「数学者」がなぜこの時代に生まれたのか、というお話をしていきましょう。

ミラノには一時期フランスが入ってくることもありましたけれども、アニェージの時代のミラノは、おおよそオーストリア・ハプスブルク家が支配した時代でありました。アニェージの亡くなるころになりますとナポレオンが入ってきて、わずかな期間だけチザルピーナ共和国ができ、その首都になります。

幼少期の彼女は早熟で、その生涯はモーツァルトとほぼ同じ時代と考えたらよろしいでしょう。実際アニェージの妹は、ミラノでモーツァルトとおそらく会ったことがあると考えられます。さて、なぜ天才といわれたかというと、家庭教師による英才教育のおかげです。アニェージの父親は絹織物の事業を起こしまして、アニェージ家は少し前の時代からかなり裕福になります。しかし、商人ということもあり、何とか貴族になりたいと希望し、社会的ステータスを求めていました。そのため学者や聖職者と交友を広め、幼少のアニェージには聖職者あるいは後に大学教授になる人たちの家庭教師をつけます。こうして、早くから語学教育を受けたアニェージは、古典語重視の世相のなか、ラテン語、ギリシャ語、フランス語を学び初めます。ある詩人が言うには、彼女は「セーヌの妖精よりも甘く荘厳に話すことができた」そうです。といっても、フランス語というのはこの時代ミラノや北イタリアにおいてかなり普及していた言語だったようです。出版のメッカのヴェネチアでも、この時代になりますとイタリア語で本を出してもなかなか売れないので、フランス語で出版することもあったようです。したがって、多くの人がフランス語を使えたことは事実ですけれども、アニェージはすでに5歳で話せ、9歳になるとさらにラテン語で演説までしている。しかもそれは、女性にとって学問は必要かどうかと高尚な内容で、古代ギリシャとローマの諸説を引用し論じるというすごいことをやってのけています。その演説は後にラテン語で2度出版されております。

スペイン語に関しては、本人はできないと言っていますが、状況証拠からできると考えていいと思います。また、ギリシャ語では翻訳したり会話もしています。それは現代ギリシャ語だと思いますけれども、とりあえず言われているのは、以上の言語が堪能であったということであります。

そのほかにも数学、自然科学、哲学を勉強しました。エドゥカツィオーネ・デラ・ヴェルジーネという幼い女の子への教育を題材とした絵が、これは昔からありましたけれども、この時代に、とりわけ北イタリアで好んで描かれています。これらの絵に描かれているように、女の子の教育として読み・書きが奨励されたわけです。通常の教育ではなくて、これは聖書を題材としています。当時女性には伝統的には必ずしも公的教育はなされませんでした。もちろん女の子には学校はないし、家庭で教わるぐらいでありまして、読み・書きのできない子もたくさんいました。しかし女の子への教育も必要だという風潮がでてきたこともあり、それを示す絵がたくさん描かれたというのが18世紀の前半で、しかも北イタリアに多かったようです。 (写真は女の子の教育)

ところでアニェージは15歳で数学の勉強を開始していますし、また20歳ぐらいではロピタルの『円錐曲線解析』という、ラテン語のかなり難解な、今日私たちがこれを読めと言われて覚悟のいるような本に注釈を付けております。この草稿は現存しますが未完でありますし、これについては研究した人はまだいないようで内容はわかりません。というわけで、20歳ぐらいにはかなり高度な数学を理解できたようです。

彼女は自然科学については何を勉強していたのでしょうか。この図は、実はあとで申し上げますアニェージの本の中身ですけれども、古代ギリシャのアリストテレス的なもので、内容としましてはまことに古いものです。18世紀のもので、ガリレオよりずっとあとの時代ですが、ガリレオが否定したアリストテレス的なものを取り入れています。また、宗教関係においては当時蔓延していたイエズス会的なものを取り入れ、また運動論の話をしています。またさらに進んだ内容がありますが、それはデカルト的内容ということです。天文学もあり、彼女は自然科学を全般的に勉強しているということが見てとれます。

(サロン)この図はコンヴェルサツィオーネ、つまり英語のカンヴァセーションです。学術会合と訳しましたけれども、サロンです。 18世紀はサロンの時代でありますが、それは集まっておしゃべりする場というのではなく、もう少し知的内容の場です。これは、アニェージの父親が社会的ステータスを求めるため、有名人や政治家や学者連中を呼んできて講演を聞いたり情報交換した場です。それができたのでアニェージ家はある程度の地位があったと思われます。

アニェージの妹マリア・テレーザ・アニェージはハープシコードの演奏家として著名で、後に作曲したりもしています。ですから妹はこの会合で演奏したことも考えられます。 (写真はマリア・テレーザ・アニェージ)

ここでアニェージ家を訪問したリヨンのド・ブロースという人の話をしておきましょう。このブルゴーニュの著名人がアニェージ家に来まして、会合に参加しました。アニェージの家庭教師ベルローニがラテン語で演説したところ、それを聞いたアニェージがすぐさま的確にラテン語で答えて、また参加者がそれぞれギリシャ語やドイツ語でアニェージに質問したところ、またそれぞれの言葉で的確に答えたということを、ド・ブロースがイタリア旅行記で書いております。ド・ブロースによりますと、アニェージはニュートン哲学にたいそう傾倒していたそうです。ここでニュートン哲学というのは、要するにニュートン物理学やニュートンの周りの人たちが述べた世界観で、当時最新の世界観ということになります。その歳で、そのような抽象的な学問に精通した聡明な子供を見たことがない、と学問の中心地フランスからやって来たド・ブロースが言っているわけですから、アニェージはよほど抜きん出ていたのでしょう。「彼女の演説は、ミラノの大聖堂よりも驚異」とも言っています。というわけですから、アニェージの才能は当時よく知られていたということになります。

ところでアニェージの父親は商人でありました。かなり経済力があり、何とか社会的地位を登り詰めたいということで、そのために子女の高等教育を利用します。すなわち、学術会合を開催して、そこで自分の娘の並みはずれた才能を見せびらかそうとしました。こうしてアニェージが演説をし、妹がハープシコードを演奏するということになります。実は父親は3度も結婚しており、21人の子どもをもうけていました。アニェージが一番年長です。当時、長女として弟たちの世話をしないといけないということもありました。ということで、結局彼女は父親の言うことにずっと従うことになります。語学を勉強しろといえば勉強し、数学を勉強しろといえば勉強し、ということになりますが、果たしてそれが彼女の本心であったのかということはあとで見ていきます。1752年父親が亡くなりますとアニェージは数学研究をぱったりとやめます。本当に見事にやめてしまう。そのかわり貧しい人たちの世話をすることになります。

(数学)アニェージの出版した本は3点です。まず自由学芸、つまり一般教養のような科目で、天文学や音楽や文法や修辞学などが取り上げられ、それらの研究が女性に決して不適切ではないことを示した本です。先ほど述べました演説の内容をまとめたもので、ラテン語で出版しております。次に哲学的諸問題についての本。これは先ほど自然科学との関係で紹介しましたけれども、アリストテレスの論理学やデカルト的運動論、宇宙論についてで、これもラテン語で出版しております。 (写真は『解析教程』表紙)

そして最後は、今日の主題であります『イタリアの若者向けの解析教程』。これはイタリア語で出版されております。アニェージが数学者として有名になったのはまさにこの本によってであります。この本は2巻4部で、1000ページ以上ですから膨大な分量です。図版も非常に多い。また非常に高価な紙を使っています。第1巻は、有限量の解析や微分計算、積分計算、逆接線問題についてで、要するに微積分の本です。この図がその表紙でありますけれども、見ても分かるように、図版があり非常に美しく仕上がった本です。ここには図形が描かれており、非常にきれいな本であります。

この本は後に英語とフランス語に訳されます。この図はフランス語版で、こちらの図は英語版です。ここで言えることは、数学的内容はどうであれ、非常にきれいな本ということです。しかし、英語訳のほうは実際は素っ気ない本で、図はありますけれども余分なものは何もありません。原本は2巻からなっていますが、フランス語訳は第2巻だけです。第1巻は基本を扱った内容なので簡単すぎるということで、第2巻のほうだけが訳されております。英語訳のほうはコルソンという人が英訳し、ずっとあとになって出版されました。これもやはり1000ページぐらいある本です。 (写真は英語訳)

いずれにせよ、この本は高等数学を扱ってはいますが、教程という名前のように入門書ということで、最先端の数学を扱った本ではありません。この本は、父親が自分の家に印刷所を設けてそこで印刷しました。高価な紙を取り寄せ使用し、出来上がったものは王侯貴族に送られました。オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアにも献上され、原文冒頭には謝辞が掲載されております。そのような本ですから一般の人は入手できない本でした。 (写真はフランス語訳)

そして何よりもこの本の特徴は純粋数学に限定した内容をもつことです。つまり全くの数学なのです。このことは、数学の本だからあたりまえではないかというと、そうではありません。当時数学と言えば、機械学や物理学や天文学などに応用するための数学だったのです。したがって数学の本には必ず天文学や物理への応用が載っております。それが物理の本なのか、数学の本なのか、なかなか分からないようなものがたくさんあります。しかし、アニェージはそういった応用には全く興味がありません。機械学や物理学には関心がなく、純粋数学、純粋解析だけを取り上げました。なぜ純粋数学だけなのでしょうか、なぜほかの内容は取り上げなかったのでしょうか。これについてはあとでまたお話しします。

(数学史上の評価)このアニェージの本の数学史上の評価は低いと言えます。そこには新しいことは何も書かれていないからです。18世紀数学史研究の第一人者であるチューズデルは、アニェージは初心者で、微積分学を勉強しながらその本を書いただけだ、ということを言っています。また、その頃のイギリスやイタリアの数学者にもあまり評価はよくありません。

その理由の一つは、当時、重要な数学書が立て続けに出版されたことです。一番有名なのはオイラーの数学書で、これが最も重要で、これが同じころ出版されたので、結局その影に隠れてしまったのです。いわゆる第一線の数学者はアニェージの本は読んでおりません。たとえ読もうと思っても、王侯貴族のところには回ってきても、数学者のところには回ってこなかった。そういったことがあります。この図は、第一線の数学者の本であります。著者ブーガンヴィルというのはフランスの航海者で、熱帯植物のブーゲンビリアを見つけた人でありますけれども、『積分論』という非常に重要な高等数学書を書いております。

イタリアの数学者もアニェージを評価しませんでした。ロンドンの王立協会、これは1660年ごろにできた世界初の学会であり、当時ヨーロッパの科学の中心であるといって過言ではない団体ですが、そこでも評価されませんでした。その理由の一つは著者が女性であるということです。第二に、用いられた記号法がライプニッツ式であったこと。これはあとで言います。

しかし、数学外では非常に反響がありました。有力者に送ったからでしょうか。ローマ法王ベネディクト14世は、数学を若いころ勉強してアニェージの本ぐらいは理解できたと思われます。全部読んだかどうかはわかりませんが、内容を理解した上で非常に称賛しまして、メダルと黄金の王冠を彼女に授けたということです。

後にでてきますけれども、アニェージと同じころ、ラウラ・バッシという非常に有名な女性物理学者がボローニャにいまして、こちらのほうは銀の王冠を授与されました。アニェージのほうが黄金なので、法王はアニェージのほうをより評価したようです。さらに法王は、アニェージにボローニャ大学数学教授職を与えました。しかし、この辺はまだはっきり分からないところでありますけれども、アニェージはそれを受け取らずに、結局はミラノを一歩も出ることはありませんでした。ボローニャに行くこともなかったし、もちろんそこで教えることもなかったのです。彼女は教授職を辞退したようです。しかし形式的にはボローニャ大学では、アニェージは亡くなる少し前まで教授であったことになっています。

オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアはこの本を献上され、お礼に指輪をアニェージに授けております。本が出版される前にアニェージはボローニャの学会であるアカデミア・デラ・シエンツァ(名前はいろいろと変わりますが)の会員になっていました。フランスの学者たちや、パリのアカデミーも非常に評価しました。だからフランス語に翻訳されたわけです。というわけで、イタリア、イギリスの数学者には評価されなかったけれども、フランスでは評価されたし、また数学者外でも高く評価されたわけです。

この本の意義として、英仏においては微積分学の入門書として影響を与えたことがあげられます。非常に簡潔な記述で、理論的解説よりも例題で説明している。つまり、問題が提示されそれを解くという形で進められていくものですから、解きながら理解していくというわけで、うまくできた教科書です。

アニェージによると、なぜイタリア語で書いたかと言えば、一つは自分の弟に数学を教えるためイタリア語を用いたということです。実際はトスカーナ語で書かれています。アニェージのイタリア語の数学は、アカデミア・デラ・クルスカというイタリア語辞典やイタリア語を定めていくような団体でモデルとされたし、後にイタリア数学の表現形式のモデルとなったと言われております。

(英訳)さて、英訳者のことをお話ししましょう。ジョン・コルソンという人ですけれども、この人物を調べようと思ってもなかなか難しいかもしれません。ケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いていた教授なので、実はすごい地位にいたのです。というのも、当時イギリスでは大学は5校しかありませんでした。ケンブリッジ、オックスフォード、エジンバラ、セント・アンドリュース、グラスゴーでしょうか。しかも、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのルーカス教授職という冠講座の教授は、第2代目があのニュートンであります。少し前までは、ビッグバン説を唱えたホーキングがこの職に就いていました。最も重要な教授職のひとつに就いていた学者であるにもかかわらず、コルソンは今日ほとんど知られていません。なぜかというと、理由の一つは数学史上取り立てて何か新しいことを発見したというわけではないことです。実を言いますと、興味深い業績もあるのですが、それはあまり知られていません。他方で女性用の本や学習書をたくさん書いていました。その際、コルソンはアニェージの本に出会い、だいぶ年を取ってから、翻訳するためだけにイタリア語を勉強し始め翻訳するわけです。したがって「アニェージの魔女」という誤訳が生まれたのかもしれません。そのうえ彼は中身の記号法も変えてしまいます。

ここで、少し数学記号法のお話をしましょう。当時18世紀は数学者の間で論争がありました。ニュートンとライプニッツによる微積分学の優先権問題です。イギリスがニュートン側、大陸はライプニッツ側ですけれども、ライプニッツはパリでも活躍したこともありますので、彼の弟子たちはフランス、イタリアにもたくさんいます。というわけで、イギリスとヨーロッパ大陸全体とが微積分学に関して、どちらが先に微積分学を確立したか、発見したかということで激しい論争中でありました。と同時に、それは数学だけではなく、キリスト教神学の論争でもありました。ニュートン派とライプニッツ派の神学論争もありまして、簡単にいいますと、世界は神が創造しましたが、それを時計になぞらえますと、神は時計を創ったと。そうしますと、ニュートン側のほうはその時計は遅れるかもしれないから常に神がその時計を調整するような、常に神が介入するという見方をとり、一方ライプニッツ側のほうは、そうではなくて神は完全なものをつくったのだから、その後時計はきちんと動いているだろう、なるようになるだろうということでありました。そういった神学論争も含めて両者は論争しておりまして、イギリスとヨーロッパ大陸にはあまり学問上の交渉はありませんでした。

アニェージはライプニッツ式の記号法を使っております。この図では、こちらがライプニッツ式でありまして、右のほうがニュートン式です。こちらは微分の式。今日数学で使われているのはライプニッツ式で、ニュートン式はあまり使われていません。というわけで、アニェージはこちらの図のライプニッツ式で書いたけれども、コルソンはこちらのニュートン式に書き換えてしまいました。 (式はライプニッツ(左)とニュートン(右)の微分記号) 

コルソンは女性向きの数学書を書いておりますけれども、学習書も数多く書いていました。したがってこのころヨーロッパ中で何やら女性向きの本が必要とされていたということが見えてきます。

 (女性向き科学書)それだけではなくて自然哲学書、これは自然科学と考えてもいいかもしれませんけれども、そういったものの出版が18世紀に今度はフランスで花盛りになります。少し前に、フランスではフォントネルが『世界の複数性についての会話』という非常に分かりやすい対話体の本を書きました。この作者は男性ですけれども、女性が登場し、女性の読者を想定しております。この種の本はたくさん書かれましたが、大抵そのパターンとしましては、夫は全然登場せず、公爵夫人のような主人公と男性の数学者、哲学者、科学者が登場し、お互いに最新の科学について議論をするというような形になっております。これは、非常に読みやすい形式であったということもありまして、この種のものがその後頻繁に書かれることになります。

 イタリアのほうでは、バルバ・ピッコラという女性がデカルトの『哲学原理』をイタリア語に訳しますけれども、それに序文を付けまして、女性も学問あるいは科学研究をしていいんだということを言うわけです。これも非常によく読まれました。 (写真はノレ『実験物理学教程』の挿絵)

 フランスのほうでは、シャトレ夫人がニュートンの主著である万有引力を述べた『プリンキピア』をフランス語に訳しまして、イギリスの最先端の科学をフランスに紹介するということになります。

 そういった中で、例えばこの図はフランスで出版されたものですけれども、『実験物理学教程』という本です。ノレ神父の作品で、10何巻の非常に分厚い本で図版がいっぱい載っております。これを見ますと、登場する図は女性の姿です。ですから、わざわざ女性が描かれているということは、女性の読者を想定しているということになります。これも18世紀の中ごろの話であります。

また、アルガロッティは『女性のためのニュートン主義』をイタリア語で書き、先ほど言及したフォントネルという人に献上しております。このニュートン主義は単に数学だけではなくて、神学にもかかわっていました。したがって、それはイタリアでは発禁になってしまいます。しかし中身はほぼ一緒で題名を替えて何度も出版されます。今度は、この本が英語に翻訳されるということにもなります。しかもそれはカーターという女性が翻訳しています。アルガロッティは男性です。この図は、その本の挿絵ですけれども、こういう非常にきれいな挿絵がふんだんに出てきます。 

(女性と数学)少しややこしい話になりますけど、なぜ女性科学者が出てきたかというと、思想史などでは必ずしも支持されている考え方ではありませんけれども、カトリック啓蒙主義の影響ということがいえるのではないかと考えます。イタリアではカトリックの影響が非常に強かったので、ガリレオが出て新しい科学が誕生したにもかかわらず、実際にはガリレオの新しい科学が大学で教えられていたかというとそうではありません。相変わらず旧来の科学がずっと教えられていた状況でありました。そういった中で、ムラトーリや、先ほど述べたアニェージに黄金の王冠を与えた法王ベネディクト14世、こういった人たちが出てきまして、カトリックを守りながらもガリレオ以降の新しい科学を導入しようという教育改革を行います。その際にイエズス会に反対したりします。

そこで特徴的なのは女性への教育振興であります。これらの人たちが言うには、女性に教育するということは母親に教育するということにもなり、それはさらに男の子のためにもなります。また自然哲学の教育、これは科学教育といってもいいですけれども、というのは、謙虚さや宗教的な徳を促進させることになるのではないだろうかということであります。と同時に、自然科学というのは勉強するのには時間がかかるけれども、男は仕事で忙しいので、中流階級以上の女性は家にいて案外時間もあるだろうから、女性にもできるのではないだろうかということで、女性に教育を勧めることになります。ただし女性向きの学校ができたわけではありません。

こういったことを進めた2人のうちの一人ムラトーリは歴史学者で、ミラノのアンブロジアーナ図書館司書でした。ラテン語よりも当時話されたイタリア語を用いたり、学問を行う研究機関がイタリアに非常に少ないので図書館をその中心にしようとしたりしました。またここが重要になるかと思いますけれども、精神の種というのは信仰生活に非常に重要であって、その中でも数学というのは最も確実な知識を持っているわけですから、数学が一番重要であるということを言っています。他方で、カトリック啓蒙は慈善こそ最高の徳であるということも言っています。したがって、数学が信仰生活に非常に重要であると同時に、また慈善というものが最高の徳であるということ、この2者はまさしくアニェージの考え方と似通っております。

ベネディクト14世はボローニャ出身でありまして、そこで学会をつくります。そして、ボローニャで教育改革を行い、新しい科学器具を購入したりしています。ルネサンス期にはアンドロヴァンディやコルシという著名な博物学者がいましたが、そういった人たちは博物標本を各地から集めました。それらは今日ボローニャのポッジ宮殿などに残っております。イタリアには他にもたくさんの奇妙な動物や一角獣の剥製などがいろいろ残っておりますけれども、ベネディクト14世もそういったものを集めていました。さらに彼はガリレオの著作集を刊行しました。イタリアなのになぜガリレオ著作集の刊行が18世紀なのかというと、先ほど言いましたように、ガリレオは宗教裁判にかけられたということがあり、またそれ以降イタリアでは新科学というのはあまり受容されずにいました。そういった厳しい状況の中で新しい科学を提唱したガリレオ著作集を出版するということは、またこれは驚くべきことでありました。またベネディクト14世は学会の報告書を発行したり、化学を推奨しました。この学問は新しい分野で、ルネサンス期にはまだ錬金術と見分けがつきませんでした。あるいは産科学も全く新しい学問であり、女性が伝統的に伝える技法でありましたけれども、それを学問として認め、大学にポストを作ったのです。彼はそういった新しい学問を導入した改革派の人です。こういう環境の中でアニェージが出てきたということであります。アニェージは数学をカトリックの枠組の中で研究しましたが、1点の数学書しか出版しておりません。彼女の考え方は、数学は絶対的な真理と抽象の窓であって、精神的な真理に至るためになくてはならないものであるというものでした。さらに彼女は具体的応用とか、適用というのは不純であり、不用であり、だから純粋数学なのだと。何のための数学かといったら、信仰に至るための数学であり、神と一体になるための数学であると、そういう意識が彼女にはあったということであります。若いころアニェージは数学を勉強しましたが、それは父親からの強制ではあったけれども、一方では以上のように納得して数学を勉強していたと思われます。

18世紀のボローニャというのは特別な意味がありまして、今日研究者の間では「女性の楽園」と言われることもあります。女性も学問が可能である場所であると。身体と精神の分離というようなデカルト主義が支持され、またマルブランシュの護教的な思想も流行し、カトリックを維持しながらも、科学を取り入れるというようなことが主張されました。さらに女性の社会的地位が向上しまして、女性の高等教育に関する議論もなされ、アニェージも議論に参加しました。それで女性も大学で学位を取ることが可能となりますが、このことはあとでお話しします。大学教授らしき女性も登場します。らしきというのは、ラウラ・バッシはボローニャ大学の物理学教授ということでありますけれども、教えたのは確かですが正式の教授かどうかはわからないからです。

アニェージは、大学教授職を授与されましたけど、実際にはボローニャには行っていません。当時ミラノといえば大学はその近郊のパヴィア大学でしょう。しかし、彼女がパヴィアではなくてボローニャ大学の職を与えられたというのは、やはりボローニャが18世紀は女性に非常に開放的な地域であったからというわけです。

この図のアンナ・モランディ・マンゾリーニという人は、女性でありますけれども、蝋人形で解剖模型を作りました。そして解剖模型作製法を教えたということで、一応ボローニャ大学教授というふうに伝えられておりますけれども、正式な教授ではなかったかもしれません。ボローニャやフィレンツェなどイタリア各地には、あるいはフランスにもそうですけれども、たくさんの蝋人形の解剖模型が今日でも存在します。彼女はそういった作品の作り方を確立した人物です。

(ファイーナとバッシ)ここで、もう一人人物を紹介しましょう。ファイーニという人物です。この人は当時北イタリアで最も著名な女流詩人でありました。イタリアで一番大きいガルダ湖のあるサロ出身で、その地から出ることはありませんでしたが、北イタリアではほとんどの人が知っていたという非常に有名な詩人でありました。けれども、あるとき詩の創作から数学研究に突然転向します。詩をやめ、絶筆するのです。詩は無価値であると言い出します。他方数学は普遍的で価値があると言うのです。この図がファイーニでありますけれども、これはちょうどそれを言い始めた頃の姿だと思います。ここには数学図形が描かれております。月桂樹というのは当時18世紀北イタリアにおいては、詩人というよりも自然哲学者がかぶるものであったというふうに言われております。したがって、それをまさにかぶろうとしている姿です。詩をやめて数学に移ることを象徴しているわけです。なぜかというと、ファイーニの言葉を借りれば、数学というのは最も確実であるからということです。 (写真はファイーニ)

数学はあらゆる知識の基礎であって、しかも最も確実な知識である、だから不確実な詩を勉強するのではなくて、数学こそまずは勉強しないといけない、ということでファイーニは詩の筆を折りました。ところがこの人は、筆を折って数学に進もうとしますけれども、その数学を勉強しようと思ったところで、住んでいたガルダ湖のあたりから離れようとしなかったわけですから、教えてくれる人もあまりいませんでした。したがってそんなに大して数学は勉強できたわけではありません。しかしこういう人までもが出てきたというわけです。

少し話は前後しますけれども、18世紀に何人かの女性が大学で学位を取り、場合によっては大学の教授にさえなる者もいました。とりわけ、ラウラ・バッシという女性が物理学で非常によく知られていました。実際は正式の教授かどうかはわからないですけれども、とりあえず教えていたことは確かでありまして、教授と呼ばれていました。非常に優秀であって、とりわけ教え方がうまかったのですが、それは実験を用いたからであります。すなわち、古い時代の人たちは実験もせず旧来の学問を繰り返し教えていたけれども、彼女は新しい題材を実験で示しながら教えたということで、結局ラウラ・バッシは当時ボローニャ大学で最高の給料をもらっていたと言われております。それほど教育者として好まれ、ボローニャ大学一の有名教授であったということです。実験物理学や物理教育で著名で、「ボローニャのミネルヴァ」とも呼ばれ、西洋で最初の女性大学教授であったとも言われています。

この図をご覧ください。ラウラ・バッシが学位を取得したとき、公開で討論会をしている場面です。学位を取得するときには公開討論会を開かないといけませんでした。こちらの図は、ボローニャ大学にある解剖室でありますけれども、そこで皆の前で公開討論会に出席していたという場面が想像できます。

しかし、そういう女性が登場した時代もやがて終わりを迎えます。1750年代に支持者たちが亡くなっていきます。またポーランド継承戦争、オーストラリア継承戦争などがありまして、サロンが危機的な状況になり、経済的な問題もそのような時代の終わりを告げる原因でした。さらに女性は学問に参加すべきでないという古くからあった主張が復活し、強くなってくるという状況にもなりました。したがって18世紀の前半から中ごろまでが、女性が科学に登場したということになります。ただしそれはイタリアの北部でありました。結局、この衰退の中で女性の学位取得者はなくなり、女性の科学者が消え、女性は家にとどまることになりました。 

バッシの次に女性で教授となったのはアニェージで、ボローニャ大学の数学教授職を一応は授かってはいますが、彼女は実際に教えたことはありませんでした。その次の女性の数学教授はソフィア・コアレフスカヤでありまして、100年以上たってからであります。というわけで、歴史上では女性教授が登場したのはごくわずかの期間ということになります。

イタリアではアニェージやラウラ・バッシなど少数でありますけれども非常に有名な学者がいまして、場合によっては大学教授になることも可能でした。ただしそれはボローニャ大学に限られていました。

(イングランドの場合)それでは他の文化圏と比べてみましょう。イングランドはどうかというと、その地では女性と数学の状況が異なっていました。イングランドには『レディーズ・ダイアリー』という女性向きの雑誌があり、その内容はウーマンズ・オールマナク、つまり女性向きの暦でありましょうか。またあとで紹介しますけれども、中流階級の女性は気晴らしに数学を勉強していました。『レディーズ・ダイアリー』は年に1回出版され、岩波新書のような大きさで、手ごろな価格の本であります。要するに、中身からいえば当時の週刊誌みたいなもので、年に1回しか出ておりませんけれども、やがてそこに数学の問題が出題されます。女性がクイズを楽しむように数学を楽しむわけです。

『レディーズ・ダイアリー』は全盛期には発行部数3万部となりましたが、これは当時のイングランドの人口から見ますと驚くべき数です。おそらくベストセラーだと思われます。1711年から多くの数学の問題が出題されるようになり、女性たちは数学を解くことを楽しみにするようになりました。しかし、徐々に中身が難しくなってきて、女性には理解できなくなります。女性は高等数学を勉強しようと思っても無理なのです。というのは、そもそも女性にはほとんど数学を勉強できるような学校はありませんでした。あったとしても、通常は家政、語学、簿記が教えられ、高等数学ではありません。しかし、この『レディーズ・ダイアリー』は後半になりますと高等数学の問題が載るようになります。そうしますと解けるわけがありません。初期の問題は、次のようなものでした。女性が「私は愛しい人に尋ねました。。。」とか「いつ、あなたは結婚しようと思うのですか」という、何か数を加えたり、四則演算で求めるという、今日でいえば単純な計算やせいぜい一次方程式で、しかも方程式を使わずにも解ける問題でもありました。

ですから英国において、女性はこの時代家庭にいて、中流階級の人たちは家庭で気晴らしに数学の問題を解いたのが実情だと思います。それがブームになりまして、当時よく読まれた女性向きの暦には、恋愛小説などにかわって数学の問題の占める割合が徐々に増えてきます。

(日本の場合)日本はどうかというと、江戸時代の日本には和算という独自の数学がありました。その代表的人物である関孝和という人の名前をお聞ききになったことがあるでしょう。和算は、通常「芸道としての和算」とも呼ばれています。つまり一種の趣味の和算です。ただし必ずしもこの言い方は正しいわけではありません。

さてこの図は「継子立て」といいまして、数学を使いはしますが一種のクイズです。しかしこの問題を数学的にいろいろ議論しますと、非常に高度な数学になっていきます。もちろんそんな高度な数学は知らなくても解けるような、クイズ問題であります。

こちらの図は縦書きの数学で、趣味の和算にはこういった問題がいっぱいあります。

この図は図形の問題でありますけれども、小さな図形、小と書いてある円はどの問題も全部同じ値になるように巧妙に問題が作られております。数学上あるいは実際上意味のあるような問題ではありません。ただ、おもしろいというか、美的に優れているというわけです。したがって、茶道や華道と同じ部類に属するものとしての和算です。また算額というのもありまして、神社に奉納するわけです。難題が解けたということで、神に感謝するために、その問題と解法が記述されています。

そのうちに和算を学ぶ女性が出てきます。遠藤寛子さんが書かれた『算法少女』という小説が今日ありますが、江戸時代には実際『算法少女』という和算書が書かれていました。少女が数学の問題を解いたという話があり、それは事実かどうかは分かりません。それを現代風にアレンジしたものが上の小説なのです。この図は珍しく算額の中に女性が登場しています。和算塾というのもあり、この図は少しあとですけれども、実際には和算塾の生徒の名簿を見ますと女性の名前がありますので、女性も数学を勉強していたということがわかります。

 というわけで18世紀はイギリス、日本、イタリアで女性が数学に関心を持っていました。しかしそれぞれ状況が異なります。イギリスと日本の場合は趣味や気晴らしとしての数学でした。イギリスの場合は、初めは女性がかかわったけれどもやがて女性が排除されていくようになります。イタリアの場合は、もっと高度な数学にもかかわるような状況ではありましたが、18世紀の後半からそれも消えていくということになります。

 (アニェージの最後)最後に、アニェージはその後どうなったのでしょうか。母親の死あたりからひどい神経症にかかり、学問から離れることをたびたび希望するようになりました。常日頃父親には、世俗生活を放棄して修道院に入りたいとか、舞踏会には出たくないとか、そんなことを言っていましたが、父親はそれを受け入れてくれない。とりあえず父親を喜ばせるためだけに数学を彼女は勉強しました。しかし父親の死後、ぷっつりと数学界と絶縁し、やがて家も出て、といってもアニェージは1718年生まれですから40歳を少しすぎてからですけれど、その後慈善施設を建設します。しかしそれはうまくいかず、次に財産を全部はたいて、法王から拝受した豪華な装飾品も全部売り払い、晩年はピオ・アルベルゴ・トリブルツヨという、ミラノに新設の慈善救護院というか、ホスピスに入居し、そこで無償で働きます。この写真はホームページから取ったので私は実際にはどういうものかよく知りませんけれども、アニェージが晩年過ごしたところです。やがて彼女は亡りますが、最期は葬式もされず、ほかの人と一緒に公共墓地に眠ることになりました。 

 ということで、結局アニェージというのは「アニェージの魔女」で知られるように数学研究をしておりましたけれども、やがて父親の死後、貧しい人たち、病人の世話をするということになります。この2点はともにアニェージにとっては、幼少のころから持っていた宗教的枠組みの中でとらえられるのではないでしょうか。最も確実な知識、それは数学であって、それこそが神を知る確実性を保証する、そういった意味での数学であり、また人生後半は数学を捨てて、より神に近づく活動である貧民救済に参加するということでありました。アニェージは非常に特殊な事例かもしれませんが、18世紀前半の北イタリアでは、上流階級の女性にはたいてい数学を学ぶ機会があったわけです。女性の科学者が登場したのはまさにこの時期の北イタリアです。しかし、18世紀中ごろからその支持者たちが亡くなっていき、女性数学者や科学者というのは消えていきます。そして大学というよりも軍事学校がたくさんできてきまして、そこで男性中心の数学者が誕生していきます。その中で一番有名なのがラグランジュです。彼はトリノ出身の数学者で、トリノの軍事学校で教えますけれども、やがてフランスに行きそこで活躍しましたので、通常はフランスの数学者といわれています。 

 今日お話ししたのは、レジュメにある文献をもとにしています。アニェージはミラノの人でありますけれども、イタリア人による研究というのはあまりなくて、100年ぐらい前に詳しい伝記が出たぐらいでした。しかし最近ではジェンダーと科学の問題に関心が高まり、英米系の科学史研究で取り上げられています。そういった研究の中で現在再発見され、再検討されつつあるということであります。以上でお話を終わらせていただきます。

(拍手)

 (資料紹介)さて、現物資料を少し持ってきましたのでここで紹介します。イタリアとは直接には関係ないのですが、絵馬の模型であります。これは学業成就の絵馬でもあり、現代に作られたものであり、算額は本来もっと大きいものです。絵馬や算額がこのような形をしているということがおわかりいただけるのではないかと思います。 

 また『レディーズ・ダイアリー』という本を紹介しましたけれども、その本がこれです。これは5~6年分をまとめて製本したもので、御覧のようにかなりの部分が数学にあてられています。ここに図形があります。これは、オールマナックでもありますので最初のほうには農事暦があり、今ごろどういう作物を植えればいいとか、そういった事柄が書かれています。読み捨ての暦なので今日ではほとんど現物が残っておらず、たいへん珍しいもので、すべてがそろっているところは世界中どこにもないのではと思います。これは150年間出版されました。

こういうわけでありますので、18世紀はイギリスでは女性が暇つぶしに数学を楽しみ、日本でも同じような状況でありました。他方イタリアの場合は必ずしもそうではなく、いろいろな人がいたということです。以上、まとまりのある話ではありませんけれども、18世紀の北イタリアの数学文化の一面を紹介しました。



【司会】 三浦先生、どうもありがとうございました。18世紀における我々の知らないような、女性における数学の広がりということを中心にお話しいただきましたけれども、僕も全く知らないことばかりだったので大変勉強になりました。どなたかご質問がある方はお受けしたいと思いますけれどもいかがでしょうか。はい、佐久間さん。


【佐久間】 ありがとうございました。彼女は、数学史にとって何か残るような業績があるんでしょうか。


【三浦】 数学史とは何かということになるわけですけれども、いわゆる最先端の数学だけをなぞっていくような数学史であれば、アニェージの業績はないと思います。数学教育史という観点から見ると、当時において非常に良い、まとまりある数学入門書を書いたということでしょうか。


【佐久間】 あと、和算では、例えばこんな問題を作って「おまえは解けるか」というのが随分残っていますよね。そういうようなことというのは、この時代のイタリアにはそういう伝統はなかったんですか。


【三浦】 なかったと思います。イギリスでは『レディーズ・ダイアリー』にありまして、これは毎年出版され、問題が出され、それが解けたらその回答を送るのです。するとその人の名前が雑誌に掲載されます。名前が載るだけでも非常に名誉であったということですので、そういったことはあります。そして、またいい解答を寄せたら、それが1年後ですけど掲載されて、その人には褒美がもらえるようなシステムでした。ただしその褒美は何かというと、この『レディーズ・ダイアリー』を3冊もらえるぐらいで大したことはありません。これらは日本とはちょっと違うやり方です。


【佐久間】 どうもありがとうございました。


【司会】 ほかにいかがでしょう。佐藤さん。


【佐藤】 全然知らなかったので、非常に興味深く伺いました。けど、数学者というのが成立する前というのは、算術師といいますか、錬金術師と同じような字で算術師と書くような、そういった存在だった時代もあったわけなんですが、彼女がそういう系譜の人なのかなとも思ったのですがどうなんでしょうか。数学教育者のはしりのような気もしますが、そのあたりはどうでしょうか。


【三浦】 アニェージは家にいたわけで、どこかで正式に教えたということはなく、家で弟たちを教えるぐらいでありました。ですから、教育者といえるのかどうかは疑問です。家で、親から数学を勉強しろと言われたので小さいころから何も知らずにどんどん勉強していった結果、それで才能が芽生え、当時の有名教授たちとも文通したりするまでになったということで、限定付きの数学者ということになると思います。彼女はプロフェッショナルとして数学を研究したわけではありません。しかし、同じ時代のラウラ・バッシという女性学者は、大学やアカデミーや自宅で物理学を教えたということで、こちらは物理学者といえるでしょう。ところで錬金術と数学とはあまり関係はありません。


【佐藤】 単なる字面の問題で、数術師というような、師も教師の師を書くようなそういう存在だったころがあったと思うのですが。


【三浦】 数学を教える人というのは昔からいまして、例えば13、14世紀あたり中世のイタリアですと、私の専門になりますけれども、フィレンツェなどには商人の子弟に数学というよりも計算法を教えるプロの人たちがいました。彼らは私塾をつくっておりまして、そこで12~13才から16才ぐらいまでに計算法を教えていました。中世は、今日皆様が日常使われている四則演算法が作られる時期であります。問題はイタリアの状況でありまして、地域によって重さの単位が違うし、貨幣の単位も違うということで、換算が非常にややこしい。ですから、比例計算や分数計算を鍛えるということで、専門の私塾がたくさん作られ、教科書もたくさん書かれました。私塾が乱立し出しますと学生を集めないといけないということで、今度は教師同士が競争をしまして、自分はこんなすごいことができるんだということを言い出すわけです。そういった中で、数学史上では、二次方程式はアラビアのほうですでに解決されましたけど、なかなか代数的に解くことができなかった三次方程式がイタリアの方で解けるようになったわけです。ただしこれはフィレンツェやピサ、あるいは南フランスだけの現象です。商人がいた場所で生じたということになります。


【司会】 ほかに……。どうぞ。


【林原】 大変おもしろいお話をどうもありがとうございました。アニェージは、数学史上ではあまり重要な発見はしていないというお話ですけれども、そのほかに女性の数学者で何か数学史上に……。例えば、オイラーやガウスに匹敵するような重要な発見をした女性数学者というのは、どなたか名前を挙げていただくことはできますか。


【三浦】 女性は数学者だけではなくて、科学者というのも非常に少ないわけすが、なかでも一番有名なのはヒュパティアという人です。最近話題になった映画『アレクサンドリア』の主人公です。ヒュパティアは新たな発見をしたわけではありませんけれども、かなりで優秀な数学者でした。他に、数学者というのはあまりいなくて、ずっと現代になりますけれども20世紀の初めころ、ネーターというドイツの女性数学者がいます。彼女は代数学方面で弟子をたくさんつくりまして、やがて彼らはアメリカに移り、そこで新しい学派をつくり、現代数学にも貢献しました。 1950年以降はたくさんいるとは思いますけれども、それ以前になりますと、最前線の数学で貢献したという女性の数学者はいないし、科学者もほとんどいないと思います。


【司会】 ほかにいかがでしょうか。それでは、私から1つ質問をしたいのですが、女性向けの数学書というのが出版されたということは、それだけの読者層がいたということだと思うんですけれども、そういった数学の啓蒙書を読めるような女性の層は、やはり上流階級に限られていたのか、あるいはある程度、中流階級とでも呼べるような層が存在していたのか、そのあたりはどうなんでしょうか。


【三浦】 イギリスの場合の女性向き雑誌では、中流ぐらいの階層では読める人もいました。だから、場合によっては数学だけではなくて医学に関する事柄も入っていたり、家政や料理法なども。それから、イギリスでは出版が18世紀になりますと非常に盛んになり、いいものがあるとすぐに翻訳されるようになります。翻訳文化、出版文化が非常に盛んでありました。これは、紙の供給の問題でもあります。紙を供給するギルドがあり、ギルドの規制が非常に緩やかになりまして、たくさんの本が出されるようになりました。こうしてこの『レディーズ・ダイアリー』はイギリス中で読まれるようになるわけです。どのように販売されたかというと、これを売りに来る人がいるんです。たくさん抱えて田舎のほうに行く。これをただ売るというのでは人は集まらないからということで、化学実験、電気実験を見せたり、ガマの油じゃないけれども何か薬を作って、そういったものと一緒に売ったりしたということで、かなり好評でありました。そしてまた、この雑誌には時々入れ歯やめがねなどの広告がついておりまして、これらの広告があることからもかなり多くの人びとが読んだことがわかります。


【司会】 よろしいでしょうか。大変珍しいといいますか、我々の知らない知識をたくさん教えていただきました。それでは、皆さん、もう一度三浦先生に拍手をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。

(拍手)