ヴェネツィアをマーケティングする

第376回 イタリア研究会 2011-10-25

ヴェネツィアをマーケティングする

報告者:名古屋文理大学情報文化学部PR学科学科長 栗林 芳彦

 

・日時:2011年10月25日(火)19:00-21:00

・場所:東京文化会館4階大会議室

・講師:栗林 芳彦(くりばやし よしひこ)

 名古屋文理大学情報文化学部教授、PR学科学科長 

 フェニーチェ劇場友の会 事務局長

・演題:ヴェネツィアをマーケティングする



【橋都】 皆さん、こんばんは。本日は第376回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。私はイタリア研究会の運営委員長をしております橋都でございます。

今日は「ヴェネツィアをマーケティングする」という題でご講演をお願いしています。イタリア研究会の皆さまは、どなたもヴェネツィアが世界で最も魅力的な都市の一つであることはよくご存じだと思いますけれども、今日は単に観光ということではなく、マーケティングするという非常に面白い観点からお話をしていただくことになっております。

講師は名古屋文理大学情報文化学部教授で、PR学科学科長をお務めの栗林芳彦先生です。まずご略歴をご紹介しますと、1984年に東京大学文学部西洋近代語近代文学科を卒業されました。それから博報堂に入社されまして、2002年からは電通の中部支社に入社されました。そして同じく電通中部支社のマーケティング部長を経まして、2007年から名古屋文理大学の准教授、2008年からは現在の教授、PR学科学科長を務めておられます。

もともとマーケティングをご専門にしておられたわけですが、とにかくヴェネツィアについては素晴らしくお詳しいです。実は去年、私は栗林さんと一緒にフェニーチェ劇場友の会でヴェネツィアに旅行をしましたが、とにかくヴェネツィアの全てをご存じで非常に面白かったです。

日本人のツアーですからイタリア人のガイドが付かないといけないので、一緒にヴェネツィアの街の中を回ったことがありますが、そのヴェネツィア人のガイドが栗林さんの話を聞いて、なるほどとしばしばうなずいて感心していたという、ヴェネツィア人よりもヴェネツィアに詳しい日本人の方でございます。

それでは栗林さんに「ヴェネツィアをマーケティングする」ということでお話をお願いしたいと思います。それではよろしくお願いいたします。(拍手)

【栗林】 ただ今ご紹介にあずかりました栗林でございます。今日は「ヴェネツィアをマーケティングする」というタイトルでお話をさせていただきます。

この間、実はそのフェニーチェ友の会でイタリアに旅行中に、橋都先生の方から講演を引き受けてくれないかというお話がありまして、非常に迷いました。先ほど私は詳しいというお話がありましたが、別に何かの専門家であるわけではなく、歴史の専門家でもありません。今日は美術を中心にお話しをしますが美術の専門家でもありません。フェニーチェ劇場友の会をやっていますが、音楽の専門家でもなく全てにおいて素人なので、イタリア研究会の皆さまの前でヴェネツィアについてお話しをするのはちょっと大丈夫かと思いなかなか決心が付きませんでしたが、フェニーチェ劇場友の会会長の新井さんより、是非受けるようにという強いお勧めがございまして、それならばちょっとやってみようかということで、今日は名古屋からやってきた次第でございます。今日は4限に授業がございまして、授業を途中で抜け出して新幹線に乗りました。

では、早速始めさせていただきます。すみません、前の方の電気を消していただけますでしょうか。ご紹介いただきましたので上の方は飛ばします。マーケティングということで、中小企業基盤整備機構という仕分けの対象になってしまっている団体がありますが、そこで経営アドバイザーみたいなことをやっています。

大学は愛知県稲沢市にあります。稲沢市は画家の荻須高徳の生まれた町で、荻須記念美術館というものがたまたま大学と同じ敷地内にあります。荻須というのはパリで暮らしてパリを沢山描いている画家です。実は荻須は大のヴェネツィアファンでして、バケーションには毎年のようにヴェネツィアに行っては、ヴェネツィアの絵を沢山描いていたということもあり、そんなこともあってご縁がありまして、そこの協議員みたいなことをさせていただいております。それから先ほどご紹介がありましたように、フェニーチェ劇場友の会をやっております。

荻須は今年生誕110年ということで特別展をやっております。すでに名古屋、京都の展覧会は終わりまして、地元の稲沢が今月末、12月から来年の1月にかけて日本橋三越だったと思いますが、東京でも展覧会がございます。パリのコレクションを中心にヴェネツィアの絵も4分の1ぐらいございますので、是非見ていただければと思います。

素人だと言っておきながら、実は色んなところでヴェネツィアについて喋っており、大学の公開講座はもとより、例えば日伊協会とか色んなところでヴェネツィアについてお話をしております。私はヴェネツィアに通い始めて20年近くになりますが、回数だけはかなり多いと思います。たぶん50回は軽く超えていて、60回ぐらい往復していると思います。そんな中でよく日本人観光客を見かけますが、皆さん駆け足でヴェネツィアを回られて、あっという間にフィレンツェとかミラノに移られてしまいます。

なぜ今日はマーケティングをするというタイトルにしたかというと、沢山の日本人がヴェネツィアを訪れていますが、はたして本当のヴェネツィアを見ていただけているのか常々気になっているわけです。例えば私がやっているフェニーチェの関連でお話ししても、フェニーチェの1階にブックショップがあって劇場の案内というのが売っています。これがイタリア語、英語、スペイン語、フランツ語、ドイツ語で劇場の案内が売っていて、日本語はないわけです。今は総裁になりましたキアロットさんですが、以前はマーケティング部長でした。何で日本語がないのかと言うと、だって日本人は来ないからと。日本人は大体半日ぐらいいて、サン・マルコを見て、ゴンドラに乗って、スパゲティを食べて帰るので、そんな人たちはフェニーチェには来ないと言うわけです。確かにその通りです。

例えば、今年のJTBさんの旅行のパンフレットをこの間全部見ました。最近は便利なものでウェブで全部見られるのですが、パンフレットを見ますと、大体ミラノに入られると、ミラノを観光してその日の夜にヴェネツィアの方に来られて、明くる朝の8時半ぐらいから市内観光があります。そうするとサン・マルコ広場とドゥカーレ宮殿あたりを見て、それでお昼を食べて、早いツアーですと2時ぐらいにフィレンツェに向かってバスが行ってしまいます。ヴェネツィアに2泊というツアーの場合でも、取りあえず2時ぐらいまではお決まりの市内観光とお昼のイカスミスパゲティがあって、2時から夕方まで自由時間という形で正味1日なわけです。

1日で何が見られるのかというと、もちろん主立ったところは見られると思います。私の古い友人というか、仲の良かった女の子が旅行の添乗員をしていて、彼女はヴェネツィアに3回添乗に行ったけど一度もリアルト橋に行ったことがないと言っていました。リアルト橋にも行かないでヴェネツィアに行ったと言うのはちょっとまずいと思いました。

ただ、考えてみればサン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿を見ると半日ぐらい経ってしまいます。後からも出てきますが、ヴェネツィアというのは団体旅行に向かない街です。細い路地を20人ぐらいの団体で歩くと、大抵1人や2人は迷子になり、添乗員泣かせの街ではないかと思います。

そういった意味では、サン・マルコ近辺だけにして、自由時間もなるべく遠くに行かないでくださいみたいなことを言われているに違いないと思います。そんなこともあってなかなか日本人の皆さまにヴェネツィアでゆっくり時間を過ごしていただけないので、ヴェネツィアの魅力がなかなか伝わってないのではないかと思います。例えとしてふさわしいかどうかは分かりませんが、目の不自由な方が象のしっぽをにぎって、象というのは細長い動物ではないかと思っているという話がありますが、ヴェネツィアに関して言えばそんな感じではないかと思うわけです。

私の専門の話になりますが、私はずっとマーケティングというのを生業としていますが、今は大学でマーケティングも教えていますがどういうふうに教えているかというと、マーケティングとは何かという定義ですが、物やサービスが売れるためにはあれこれ考え実行すること、これがマーケティングだと私は学校で教えています。つまり物を売るためには、例えば値段をいくらにしようかとか、商品をどういうものにしようかとか、どういう広告をしようかとあれこれ考えるわけです。これは商品の売り上げを上げるために、沢山売るにはどうしたらいいかということを考えるわけです。

その流れからいきますと、ヴェネツィアをマーケティングするということはこんなふうに定義したらどうかと思います。より多くの人、特に日本人にヴェネツィアに興味を持ってもらい現地を訪れてもらうことだというふうに考えますと、どうしたらそれが可能になるのかということをちょっと考えてみた次第でございます。

マーケティングの世界でよく使われる手法にSWOT分析というものがあります。初めてご覧になる方もいらっしゃるかもしれませんが、自分たちの会社や自分たちの商品が今マーケティングでどういう状況にあるのかを分析するときに使う手法として非常にポピュラーなものです。SWOTというのは「Strength」、「Weakness」、「Opportunity」、「Threat」という4つの英単語の頭文字を取ったものです。「Strength」というのは強み、「Weakness」というのは弱みです。これは内的要因で、商品なり会社なりのそのものが実際にどうであるのかという内側の事情です。それに対しまして「Opportunity」、これはチャンスという意味です。それから「Theat」というのは脅威です。これは外的な要因で、自分たちでは何ともしようがないものです。与件というか前提条件のようなものです。この4つに状況を分解して調べてみると、よりよく我々の現状が分かるというものです。マーケティングの世界で非常によく使われますが、これをヴェネツィアに当てはめてみようと思います。

ヴェネツィアの場合、このSWOT分析で調べてみるとこんなことが言えます。まずは「Strength」、強みは世界に類を見ない景観です。景色が素晴らしいことです。それからユニークな歴史です。ちょうど今、江戸東京博物館でヴェネツィア展というのをやっていますが、あちらの方を見ていただいてもヴェネツィアのユニークな歴史がご理解いただけると思います。そういった歴史、文化、芸術、資産が豊富にあるわけです。

それから観光という点からすると非常に大きなポイントでは、ヴェネツィアは比較的安全であるということです。ミラノやローマ、フィレンツェは結構危ない思いをされた方もいらっしゃるのではないかと思います。ナポリはまた別ですが、フィレンツェやローマであっても、私も何度も行っていますが、ジプシーに囲まれたり色んな思いをしていますが、ヴェネツィアに限って言いますとほとんどそういった経験がありません。これは街の特性だと思いますが、ジプシーのような人たちがなかなか住めないということです。追いかけっこをしてもこちらの方が道を知っていますから、ヴェネツィアで逃げるのも大変です。そういうこともあって街で囲まれることはありません。ただ、混んでいる水上バスに乗ると時々すられたという話は聞きます。ただ、命が取られるような凶悪犯罪はありませんので比較的安全です。女性が夜1人で歩いても全然怖くありません。もちろん外国ですから、それなりの用心をしなくてはいけませんが、それぐらい安全な街だということです。

街の大きさはちょうど幅3キロぐらいしかありません。本島をぐるっと一回りしても10キロ程度なので、歩いて観光するのにちょうどいいサイズです。島なのでどんなに歩いていっても島の外には行けないわけです。フィレンツェやトスカーナの田舎の方の街を歩いていると、知らぬ間にどんどん街から遠ざかって戻るのに大変苦労したことが私はありますが、そんなことはヴェネツィアでは起こりません。そういったような色んな強みがあります。

逆に弱みを考えてみますと、日本を基点に考えてみると直行便がないことが大きなハンデです。必ずどこかで乗り換えないといけないので、個人旅行という観点からすると大きなハンデです。団体旅行で添乗員さんが付いていてくれないと乗り換えが不安でできないという方がいっぱいいらっしゃるので、直行便がないのはなかなか難しいです。

それから移動手段が徒歩か船に限られます。車がないのはいい面でもありますが、歩き疲れたのでタクシーでホテルまで帰ることはできません。ゴンドラを雇ってもいいのですが、ホテルに帰るだけで1万円を払うかというと、なかなかそうはいかないわけです。

それから物価が高いこと。これは観光都市ですから仕方ないです。ぼったくられているのではないかと思うぐらい高いです。ヴェネツィアに行った後にミラノに行くと食べ物の安さに本当に驚きますが、倍ぐらい値段の差があるのではないかと思うぐらい食べ物は高いです。ヴェネツィアで物を運んでいるのをご覧になった方はいらっしゃると思いますが、車でお店に横付けというわけにはいきませんから、基本的にはみんな人の手で運ぶわけです。そういった意味では非常に人手がかかっているので仕方ない部分があります。

それからあまりにも観光地化されているということです。聞くところによると、ヴェネツィアには年間1,700万人ぐらいの観光客が来ると言われているわけです。たかだか6万人の街にそれぐらい来るわけです。東京ディズニーランドにも大体それぐらい年間お客様がいらっしゃるわけですが、それと同じぐらい来るということです。ハイシーズンに行くと本当に人が多くてうんざりすることもあります。

これが内的要因だとすると、外的要因の方に目を向けますと「Opportunity」としては、1つは旅に対するニーズが多様化しているのではないかということです。今まではどちらかというと物見遊山という形で、観光がメインで旅行される方が多かったと思います。今でもそうだとは思いますけれども。その中でも2度目、3度目のヨーロッパ旅行という形になってくると、やっぱりちょっと違った旅がしたいという方が増えてきたということ。これは非常に心強いです。

それからもう一つは、非常に現実的な話ですが、今はとてもユーロが安いということです。私はマッキャンエリクソンという会社に勤めていたときの退職金を全部ユーロに替えました。将来はイタリアに家が欲しいと思っていました。そのときは119円でしたが、それがどんどん上がって170円までいってこれはいい、資産1.5倍だと思っていたらあっという間に下がってしまい、119円に戻る前には全部、今はブラジルレアルとトルコリラとオーストラリアドルに替えて事なきを得ております。私はある意味で例外かもしれませんが、今ユーロは安いので旅行するには非常にいいと思います。1ユーロ100円で旅行ができるので非常に分かりやすいという点もあります。

脅威としては、あまりないのかもしれませんけれども、全世界的に景気が後退しているのでムード的にはあまりよろしくありません。今はギリシャの問題が非常に毎日ニュースで放映されておりますが、PIIGS、ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインは危ない国の一つということになっていまして、イメージはあまりよろしくないです。こんなような分析ができるのではないかと思います。

ヴェネツィアはその他にもいろいろ優位点があると思います。まず一つは、ヴェネツィアは出版物が意外と多いことです。たまたま今日の『芸術新潮』がヴェネツィア特集ということで出ておりますが、旅行関係の雑誌や『FIGARO』とか『CREA』でも頻繁にヴェネツィア特集が取り上げられておりますし、いわゆる普通の単行本の類でヴェネツィア関連の本が非常に多いです。

歴史書も例えば安いものですと、白水社のクセジュ文庫の『ヴェネツィア史』であったり、色んな歴史の本が出ています。美術案内なども最近は翻訳物でヴェネツィアルネッサンスの美術案内の本が出ております。ヴェネツィアはイタリアの小さな一都市にすぎないですけど、そのわりには非常に豊富な出版物が日本語で読めるので、これは非常によいと思います。ヴェネツィアに興味を持っていただいたり、深く理解していただくという点で日本のそういうものを読めるというのは非常に大きなアドバンテージです。

小説は塩野七生さんの『海の都の物語』という大変優れた歴史小説がございますので、そういったようなものに触れていただくことができるというのは非常によい点だと思います。それからガイドブックの類にも、大体は翻訳物ですが何冊かいいものが出ています。昔は同朋舎出版から縦長の素敵なガイドブックが2種類ぐらい出ておりました。これももちろん翻訳物ですが、それはずいぶん前に絶版になってしまいました。今はナショナルジオグラフィックがどこかから翻訳物ですけれども、またいいガイドブックが出ていまして、非常に参考になるものが出ております。

今現在やっておりますヴェネツィア展もそうですが、ヴェネツィアに関連するイベントは意外と東京などで頻繁に行われていたりします。ですから情報的にはずいぶん沢山のものが日本で手に入ります。イベント等も色んなものがあり、そういう意味ではヴェネツィアに対して関心を持っていただく切っ掛けというのは比較的、特に東京においてはそうなのではないかなという状況です。

ヴェネツィアを訪れていただくことを前提に考えるのですが、私が個人的に思うヴェネツィアの芸術資産は2つあって、それは建築と絵画ではないかと考えています。絵画に関しては私は門外漢ですが、建築に関してはさらに門外漢なので、このあたりは陣内先生あたりにお話をしていただくなり、彼の本を読んでいただければいいと思います。

共和国ができたのが7世紀とか8世紀だと思いますが、それからヴェネツィア共和国が崩壊する18世紀の末まで、歴史の断絶というものがヴェネツィアにはありません。同じ政体、共和国がずっと1100年続いていたということで、途中で他から侵略されたりとか内部抗争があったりということは一切なかったわけです。そういった意味で、ロマネスク、ビザンティン時代のものからロココ時代に至るまで、ずっと文化というものが積み重なっている街なのです。それが非常に世界でも類を見ないことだと思います。そういった意味で、建築や絵画が500年、600年という時代を積み重ねて、それぞれの時代のものが非常に高い質と量を保っていることは特筆すべき点だと思っています。それらがどういう状態で保管されているかは非常に大事なことです。

最後にCom’era, dov’eraというイタリア語のフレーズが書きました。ご存じの方はいらっしゃると思いますが、このCom’era, dov’eraというのは、「あったところにあったように」というのがその意味です。このモットーは、実はサン・マルコ広場にあるカンパニーレ、鐘楼がありますが、あれは実は1902年に一度壊れてしまい、あれは10年ぐらいかけて再建されたものです。オリジナルは15世紀にできたものです。高さは100メートルあるので非常に重たいものですから、ちょっとでも下の地盤がずれたり歪んだりするとすぐに崩れてしまう非常に繊細な建物です。それが1902年の7月14日のフランス革命記念日に倒れてしまいました。それを再建したときのモットーがこのCom’era, dov’eraです。あったところにあったようにそのまま復元すると。つまり再建するときに新しいテイストを加えないというのがこの考え方です。

これはフェニーチェ劇場が先般に焼けて建て直されたときも同じモットーが使われていました。フェニーチェもあったところにあったように建て直されました。新しいテイストは加える必要はないということで使われているモットーです。ヴェネツィアの場合、建物は移すことはできないのでもともとあったところにしかないわけですが、例えば美術品などを考えてみると、特に東京などに住んでいると絵画は美術展、美術館で見ることが普通ですが、ヴェネツィアの場合はだいぶ様子が違います。

例えばアカデミア美術館に行かれた方はいらっしゃると思いますが、意外に規模が小さいですよね。例えばルーブルであったり、ロンドンのナショナルギャラリーであったり、ウィーンの美術史美術館であったり、そういうところに比べると本当に小さな美術館です。それはもともと意味合いが違っていて、アカデミア美術館というのはもともとヴェネツィアにあったものが世界に散逸するのを防ぐために作った美術館です。他の美術館というのはハプスブルグ家なり、フランスやイギリスが各地で略奪してきたものを展示するのがそういった美術館ですから、そもそも意味合いが違います。ヴェネツィアの場合は美術館が小さくても、街全体が美術館になっているようなところです。どういう意味かというと、街中に100軒ぐらい教会があって――教会を1軒、2軒と勘定するのかちょっと知りませんけれども、それぐらい教会がありまして、そこにそれこそ国宝級の絵画がそこら中にあるわけです。

後でまた触れますけど、それこそティツィアーノであったり、ジョヴァンニ・ベッリーニであったり、ティントレットであったり、本当に我々の常識からするとびっくりするような貴重な絵画が普通に教会の祭壇に飾ってある状況なわけです。これがやっぱりヴェネツィアで美術を見るときの非常に大きな利点であると思います。

どんな分野でもそうですが、(絵画は)昔は受注生産でした。もともとこの教会の祭壇に絵を描いてほしいということで、画家はどの場所に飾られるか発注するときにはもう知っているわけです。ということは、画家はこの場所だったらどこから光が入るだろうか、何時頃だったらどういう角度で光が入るか、そういったことは全部分かるわけです。それから、教会入り口から入ってくるとみんなここに注目するのはこういう状況、こういうタイミングでこの絵を見るということも画家は分かっているわけです。ということは、どんな環境でどういうふうに見られるのかということを、画家は想定をした上で絵を描いているはずです。ということは、もしもその絵をその場所からどこかに移してしまったら、そういった画家の配慮は全て意味がなくなってしまうわけです。ですから絵といえども、あったところにあったように置いてあること、これは極めて重要なことだと思います。それを十分堪能できるという意味では、ヴェネツィアというのは非常に素晴らしい場所なのではないかと思います。

ヴェネツィアの楽しみについてこれからいろいろお話をしますけど、私自身が個人で思う最大のヴェネツィアの素晴らしい点というのはそんなようなところにあるのではないでしょうか。例えば、そういった芸術作品ができたときのままで見られるものが非常に多いこと。全てがそうというわけではありませんけれども、そういったことがヴェネツィアを訪れる意義の一つではないかと考えています。

これからはちょっと美術史のお話をさせていただきます。何分にも私は門外漢ですので、それは違うよというところがありましたら是非ご指摘いただきたいと思います。日本ではあまりヴェネツィアの画家は知られていません。西洋絵画の帝王と言われているティツィアーノですら実はあまりよく知られていません。ヴェネツィアに行くようになってからそういった画家の存在を知ったという方もいっぱいいらっしゃいます。行く前に知っていたという人はあまりいませんでしたが、実は非常に優れた画家が沢山います。

例えば15世紀ぐらいから見ていきますと、ジェンティーレ・ベリーニであったり、ジョヴァンニ・ベリーニであったり、カルパッチョであったり、16世紀になるとジョルジョーネ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ。17世紀は大した画家はいませんけれども、18世紀なるとティエポロ、カナレット、グアルディなどの素晴らしい画家がいっぱいいるわけです。こういった画家の絵を見て歩くことは本当に楽しいものです。

なぜこんなに多くの優れた画家が活躍できたのか考えていきたいと思います。先ほども言いましたように、芸術作品というのは基本的に受注生産でした。今みたいに芸術作品のマーケットが存在しているわけではありません。例えば私が誰からも頼まれたわけではなく気まぐれで絵を描いて、こんなに素敵なものができたのでちょっと売ってみようと持っていて、気に入った人に買ってもらおうという仕組みは当時は当然ないわけです。というのは、絵の具というのはとても効果なもので、特に青色、ラピスラズリ、ウルトラマリンという言い方もしますけど、顔料はとても高かったのです。ですから売れる見込みのない絵を描くということがそもそも現実的ではなかったのです。

ですから、そもそも最初にパトロンがいて、こんな内容の絵を描いてという形で芸術家にお願いをして、それに対していくらの報酬が支払われると。その中には絵の具に使うお金はこれぐらいですよということがあらかじめ契約の中で決まっていて、その中でも青はどれぐらい使うとか、金はどれぐらい使うとか、非常に高価な顔料に関してはそこまで決めているわけです。そういったことがありまして、そもそもパトロンがいなければ絵は描けないということです。

ヴェネツィアは非常に絵画が盛んであったということは、パトロンが沢山いたということになります。誰がパトロンだったかというと、最大のパトロンはヴェネツィア共和国自身、政府そのものがたくさん絵の発注をしていたと。それから教会も100以上あるわけです。それからヴェネツィア特有のものとしてスクオーラというものがございます。これは日本語でいうと同信会館というような訳になっておりますが、古いガイドブックを見ると学校と訳しているものがありますが、学校ではありません。確かに、今はスクオーラはイタリア語で学校という意味ですけど、そういう意味ではありません。後で説明しますけれども、信仰を同じくする人たちの寄り合い場所、公民館みたいな感じかもしれません。それからもちろん個人です。貴族や金持ちの商人などパトロンが沢山いたのは非常に大きなことです。その中でも最大のパトロンはヴェネツィア共和国です。

もともとヴェネツィアというのは貿易国ですから外交を非常に重視していました。16世紀以降はイタリア本土の方にどんどん領土を拡張していますが、もともとのヴェネツィア本土というのは小さなところで、そこを中心に交易をしていました。そういった意味では、外交というのはヴェネツィア共和国にとっては大事なイシューでした。ですから海外から来たお客さんに対して、ヴェネツィアはすごいと思っていただく必要があったわけです。そのニーズを満たすためにパラッツォ・ドゥカーレやサン・マルコ寺院のような立派なものを建て、その中を優秀な画家によって装飾をさせること、これは外交手段の一つとして必要なことだったわけです。ドゥカーレ宮殿に行かれた方はよく覚えていらっしゃると思いますが、本当に素晴らしい装飾がされていて、現在のパラッツォ・ドゥカーレですとヴェロネーゼやティントレットなどの16世紀後半の超一流の画家が非常に素晴らしい絵を沢山描いているわけです。

実は火事があり、もともとベリーニやティツィアーノあたりが大きな油絵を描いていたのが全部焼けてしまい、その後はティントレットやヴェロネーゼあたりが描いたものが現在残っている形になります。それからサン・マルコ寺院というのはもともと総督の私的な礼拝堂という意味合いの教会でしたから、そこを黄金のモザイクで飾るというのは取りも直さず、そのドージェの威信、威厳というものを世に示すためのものであったということが言えると思います。

これは大評議会の間という一番大きな部屋です。ヴェネツィアの貴族はみんな参政権がありましたから、多いときは2,000人ぐらいの貴族がここに集って、いろいろ政策の審議をしたりしていました。どんつきにあるのがティントレット親子が作った『天国』というものです。これは世界最大のキャンバス画でとにかく大きいものです。そして天井にはヴェロネーゼの作品がいくつかあります。壁面にある絵は戦争の絵ばかりで、ヴェネツィアはこの戦争で勝ったということを示すための作品ですから、あまり大した画家が描いていません。昔はティツィアーノが描いたものがありましたが、そういうのは焼けてしまいました。

それから先ほどちょっと申しましたスクオーラ、同信会館ですが、もちろんみんなキリスト教徒、今で言うところのカトリック教徒ですけれども、その中でも例えばどの聖人、キリスト教には色んな聖人がいます。例えばサン・マルコとかルカとかマタイとヨハネをはじめとしていっぱい聖人がいますが、どの聖人に帰依しているかということです。例えば、サン・マルコの同信会館やヨハネの同信会館というような形で、聖人の名前に関した同信会館がいっぱいあります。

スクオーラも沢山ありますけれども、その中でもスクオーラグランデという大きな規模を誇るスクオーラは5つありました。サン・ロッコ、サン・マルコ、サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ、あと2つはちょっと忘れてしまいましたけれども、そのような形で大きなスクオーラと普通のサイズのスクオーラがあって、このスクオーラがパトロンとして非常に重要な役割を果たしていたわけです。

スクオーラで何をしていたかというと、要は町内会の寄り合いみたいなもので、そのための公民館みたいなものがあるのですが、ヴェネツィアは非常に頻繁にお祭りがあるので、そのお祭りのときにパレードのメンバーとして駆り出されるということが街の職務としてこのスクオーラに課されていました。

どこのスクオーラも聖遺物といって、例えばサン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタですと聖十字架といって、キリストの貼り付けになった十字架の一部を聖遺物として持っていたり、あとは何とかという聖人の指の骨とか足の骨を持っています。遺物を集めることは向こうの教会も非常に熱心にやっていますが、スクオーラも同じようなものを集めているわけです。お祭りがあると遺物を山車のようなものに入れてパレードしたり、あとは慈善事業、社会奉仕事業をします。例えば恵まれない人たちに対して食事を提供したり、あとは、昔、結婚するには女性は持参金が必要で、持参金が払えないとお嫁に行けなかったのですが、例えばこのスクオーラで自分たちの会員の中で、貧しい娘に対してスクオーラがその持参金を出してあげて嫁に行かせたり、色んな形で社会奉仕活動をしています。

このスクオーラが自分たちの寄り合い場所の建物を奇麗に装飾することに対して非常にお金を使っていました。例えばサン・ロッコ同信会館はティントレットの作品で埋め尽くされていますし、今は病院になってしまいましたが、サン・マルコ同信会館ですと、建物はピエトロ・ロンバルドであるとかマウロ・コドゥシというような非常に有名な建築家に建てさせて、しかも室内はティントレットの絵を飾っていました。サン・マルコ同信会館にあったティントレットの絵は今、アカデミア美術館の方に移っています。今は市民病院になっているところです。

例えば、これはサン・ロッコですけれども中はこんな感じです。サン・マルコにあるパラッツォ・ドゥカーレをちょっとスケールダウンしたような感じですけれども非常に豪華です。中にはティントレットが17年かけて描いた素晴らしい絵がいっぱいあります。これも後でもちょっと見てもらいます。

そのようなことでパトロンがいっぱいいたことがヴェネツィアの絵画を支えていたわけです。なぜパトロンが沢山安定的にいたのかということを考えると、やはりヴェネツィアの社会的な特性を考えざるを得ません。先ほども申しましたようにヴェネツィアは、ナポレオンに滅ぼされるまでは一度も制服されたことがありません。7世紀の終わりに最初のドージェが選ばれて、最後のドージェが万歳をしてしまうまでの約1100年間外的から侵略を受けたことは一度もないですし、内部抗争もほとんどありませんでした。

例えばフィレンツェなどを考えてみますと、メディチ家が支配をして、それが追い出されて、また戻って追い出されてという形で、非常に街の中の抗争が激しかったのですが、そういうことは幸いにしてほとんどヴェネツィアでは起こりませんでした。これはドージェという総督、大統領みたいなものと議会の仕組みにあります。例えばマキャベリなど、一つの理想的な政体としてヴェネツィアのそういった政体を挙げていますけれども、政治の仕組みは非常に巧妙にできており、独裁者を生まないような政治システムができていたことが一つあると思います。

あとは十人委員会という、塩野七生さんの本を読むと必ず出てきますけれども、内閣と検察がセットになったような組織が陰謀を未然に防ぐような手立てをいろいろしており、非常に政治は安定していました。それから、もともとヴェネツィアというのは地理的にローマから遠いということもありますが、交易も含めてコンスタンティノープルの影響が非常に強いです。これがヴェネツィアの文化や生活習慣等に大きな影響を与えているのではないでしょうか。

ローマとは時々折り合いが悪くなりよく喧嘩をして、例えば宗教行事を禁じられてしまうことが時々ありました。これは坊さんがミサを挙げてはいけないということになるので大変なことです。何が大変かというと、もちろん結婚式は挙げられないですし、葬式では坊さんがミサを挙げてくれないと死んだ人は天国へ行けないので、葬式が挙げられないということはキリスト教徒にとって困ったことでしたが、そうなることが度々起こったということです。ローマの影響力が比較的弱かったことが大きな特徴の一つです。

それからもう一つのヴェネツィアの特徴としては、商人の街であることです。ヴェネツィアの場合、貴族といっても実は商人なのです。他の街の場合、貴族というのは封建貴族ですから、領土を沢山持っていて、そこで農民が働いていてそこの上がりで食っている人たちですが、ヴェネツィアの貴族は基本的に自ら船に乗ってアフリカやアジアに交易に行く人たちでした。ですから政治家といえども商人としての考え方、非常に現実的な物の見方をする人たちが多かったのです。これもヴェネツィアの社会のあり方、芸術のあり方に大きな影響を与えていたのではないかと考えています。

そういった社会の影響を受けてヴェネツィアの芸術はどんなものになっていったかということですが、一つはそういった国際的な環境にありますので非常に国際性があります。それからもう一つは多様性です。色んな要素のものが、ある意味悪く言えばごった煮状態というような形で存在し続けているのがヴェネツィアの大きな特徴ではないかと思います。

もともと東ローマ帝国の影響は非常に強いのですが、ヴェネツィアのビジネスモデルといいますか、どうやって商売をしているかというと、アジアから仕入れた原材料を北ヨーロッパに売り、北ヨーロッパの加工品をアジアに売るという形で、ただ単にアジアの方ばかり向いていたわけではなく、当然ドイツやポーランド、オランダなどの北ヨーロッパとも交易をしていたわけです。ですからヨーロッパとアジアの接点みたいな部分があり、どちらからの影響も受けているということです。例えば、絵画も北ヨーロッパの影響を少なからず受けています。もちろん同じイタリア内ですから、フィレンツェのルネサンスの影響ももちろん受けています。ですから多様な要素がそこで混じり合っているということが言えると思います。

先ほど商人の街であると言いましたが、ヴェネツィアの芸術というのはある意味で非常に分かりやすく、見たまま感じたままをそのままストレートに表現するといったところがヴェネツィアの場合ははっきりしていまして、それが商人の気質によるかどうかは判断が難しい部分があるかもしれません。ただ、我々素人が見てもヴェネツィアの絵画は華やかで色彩が豊かでドラマチックだということで、フィレンツェの絵画等と比べても際だった差があります。

私は大学で比較文化論という科目を持っていまして、去年、一昨年はその科目でフィレンツェとヴェネツィアの芸術比較というものをやっていて、さっぱり学生に受けませんでしたので今年はやめて、「椿姫」を読むという軟弱なタイトルに変えてしまいました。そのフィレンツェとヴェネツィアの芸術には色んなところに違いがあります。ルネサンス時代の話ですが、フィレンツェの芸術は観念的で頭で考えた芸術です。例えば、物はこうであるとか、こうでなくてはいけない、こうあるべきみたいなものが先にあって、それを絵にしていくのがフィレンツェの絵画だとすると、ヴェネツィアはどちらかというとそういうことは何も考えず、こういうふうに見えるとか、こういうふうに見えた方が奇麗などあまり深く物を考えてないみたいなところがあり、これは極端な話ですが、そんなようなところに大きな違いがあります。そういった直感的というか、感覚的なものを大事にするのはヴェネツィアの芸術の大きな特徴ではないかと思います。

そんな話をしている間に時間の半分を使ってしまいました。今でも十分早口ですが、これからは駆け足で早口で喋ります。ヴェネツィアの美術の歴史をざっと見ていきたいと思います。

最初に東ローマ帝国影響のビザンティン様式ということです。

特にモザイク画というのがそのビザンティン様式の芸術のフォーマットとしては非常にポピュラーなものです。モザイク (foto-1)というのは今こうやって映っているようなものですが、色んな色のガラスや石を組み合わせて絵を作っていく。このモザイクという手法は、色を使って物を表現するというのが原則です。つまり輪郭を描いてそこに後から色を流し込むのではなく、もともとある面を特定の色の小さなパーツで埋めていく、つまり物を表現するのに色を使って表現するという考え方がこのモザイクの根本的な意味合いではないかと思います。これは後のヴェネツィア絵画のあり方の原則になっているのではないかと思います。つまり、大事なのは形、輪郭ではなく色であるということが、このモザイクという手法をルーツにヴェネツィアでずっと展開されていったのではないかと個人的には考えています。

このビザンティン様式の最も優れたものは当然このサン・マルコ寺院です。サン・マルコ寺院は実際に今の建物ができたのは10世紀頃です。中のモザイクをご覧になった方も沢山いらっしゃると思いますが、ちょっと見てみましょう。

(スライド)

サン・マルコの中のモザイクは何百年もかけて作っていて、完成するまでに400年、500年という時間がかかっているので、よく見ると様式が結構違っています。最初のできはじめた10世紀、11世紀ぐらいのころの、今から言えば漫画みたいなプリミティブなデザインのものから、ルネサンス時代以降になるとある意味の写実性みたいなものが表現されていますので、あちこち見てみると実に様々な様式の絵がここにも描かれていますけれども、基本になるのは最初のビザンティン様式のものです。すみません、パソコンの性能があまりよくないので絵がかくかく動きますが。

聞くところによると、午後2時ぐらいに見に行くモザイクが奇麗だということです。残念ながら日本のツアーですと混まない午前中8時半ぐらいに並んで朝早くに見てしまいますけれども、午後から見た方が奇麗だそうです。これがある意味ビザンティン様式の技術としては非常に大規模で、しかも内容的にも優れたものであると言えるのではないかと思います。

同じビザンティン様式のものでは、ヴェネツィア本島ではございませんが、トルチェッロ島という島があります。ヴェネツィア本島のフォンダメンテ・ヌオーヴェというバス停から船に乗って40分ぐらい北の方に行ったところにある島で、ヴェネツィアに6世紀、7世紀に人が住み始めたころはそちらの方が沢山人が住んでいましたが、水の流れが変わってしまいマラリアが発生するようになってからはどんどん人がいなくなってしまって、今は人がほとんど住んでいません。そちらにサンタ・マリア・アッスンタ教会という教会がございまして、こちらにとても素晴らしいモザイクがあります。私の友人はここがヴェネツィアで一番素敵だと言っていますが、私もある程度それには同感です。ここのモザイクは代表的なビザンティン様式です。これは聖母マリアとキリストです。

コンスタンティノープル、今のイスタンブールの例えばアヤソフィアなんていうモスクに、これと非常にテイストの似たモザイク画があったことを覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、直接的な影響を受けているというか、コンスタンティノープルから来た職人もこういったものの製作に加わっています。

時代はずっと先に行きますが、ビザンティン様式の後はパオロ・ヴェネツィアーノなどの画家が14世紀に活躍します。15世紀になりますとフィレンツェでルネサンスというものが始まります。そのルネサンスの影響というのは、当然同じイタリア半島ですからヴェネツィアの方にもやがて伝播してきます。それがどういった形で伝播してきたかというと、フィレンツェの画家が直接ヴェネツィアを訪れて色んなものを描いたり作ったりして、フィレンツェの新しいスタイルがヴェネツィアに導入されました。誰が来ていたかというと、コジモ・デ・メディチなどが庇護していた画家アンドレア・デル・カスターニョなどがサンザッカリア教会のフレスコ画を描いていたり、はっきりとした記録がないらしいですが、サン・マルコ寺院のモザイクの製作にも彼は関わっていたらしいと言われています。

それから遠近法の研究で非常に有名なウッチェロです。ウフィッツィに行きますとシエナとフィレンツェが戦争をしたときのでかい絵がありますが、ウッチェロも実はヴェネツィアに来てサン・マルコのモザイクづくりに加わっています。

それからレオナルド・ダ・ヴィンチも1500年ちょうどにヴェネツィアに来ています。彼は別に絵を売りに来たわけではなく、彼は何をしにヴェネツィアに来たかというと、潜水服を売りにきました。皆さんご存じだと思いますが、ダ・ヴィンチはアイデアが豊かで色んな発明をしていますが、その中の一つとして潜水服を発明してヴェネツィア共和国に売りにきたわけです。潜水服は何で役に立つかというと、もちろんヴェネツィアは周りが海ですから、敵が責めてくるときは船で責めてくるので、その潜水服を着て敵の船の下に行って穴を開けたり、爆薬を仕掛けたら戦争に勝てると言って、ダ・ヴィンチはヴェネツィア共和国に潜水服を売りに来ましたが、残念ながら買ってもらえませんでした。目的は芸術ではなかったのですが、当然そこで地元の芸術家との交流もあったと思います。彼は『モナ・リザ』の絵をずっと持って歩いていたので、そういったような絵を見せてもらったこともあったかもしれません。ということで、直接的にフィレンツェの芸術家から影響を受けるチャンスがあったということです。

先ほど名前が出ましたアンドレア・デル・カスターニョですけれども、彼はサンザッカリア教会の中にある小さな礼拝堂ですが、こちらの天井に色鮮やかなフレスコ画 (foto-2)が描かれておりますが、これはアンドレア・デル・カスターニョが1440年代に作ったものです。その下に金ぴかの祭壇があります。これも実は同じ1440年代に作られたもので、絵はアントニオ・ヴィヴァリーニという画家が描いているものですが、これは後期ゴシック様式です。ですから同じ礼拝堂の中で同じ時期ですが、上はフィレンツェから来た新しいルネサンス様式、手前はヴェネツィアでずっと過去から人気のあった後期ゴシック様式というものが同じ時代に作られているということになります。こういうものを見ると、先ほど多様性という話をしましたけれども、流行に敏感だけどみんなが右向け右をするわけではなくて、やっぱり古くてもいいものはいいという考え方がヴェネツィア人の一つの芸術に対する態度ではないかと思います。

上の方を見ますとこんな感じです。例えばこれより前のヴェネツィアの画家で言いますと、アカデミア美術館の最初の部屋にいっぱい飾ってありますが、パオロ・ヴェネツィアーノという画家が描いていたものと比べると、写実性といった点で進んでいるといいますか、特徴があります。

パトロンが大事だという話が先ほどありましたが、15世紀、16世紀のヴェネツィア絵画を見ると、絵画の様式がパトロンによってニーズが分かれています。例えば祭壇ですと、メインの祭壇に描いてほしいと教会が発注します。あとは裕福な商人は自分たちの家族祭壇というものを持っています。家族礼拝堂というものを持っていまして、そこに絵を描いてもらうことも盛んにありました。

それから同信会館のスクオーラでは大型の物語絵画――ちょっといい言い方がないのでこんなに稚拙な言葉にしていますけれども、とにかくこのスクリーンぐらいでかい絵を何枚も壁に貼るというタイプの海外がこういう同信会館で非常に発注されました。同信会館はまさにこの会議室と同じような形の真四角の建物が多かったので、この殺風景な壁を全て絵で埋めるというニーズがあり、そのために大型の絵画が発注されたのですが、それはその同信会館の人たちが信仰している聖人のストーリー、例えばウルスラという聖女がいますが、彼女の物語を綴ったカルパッチョが描いたものがアカデミア美術館にあったりします。

あとは、後でまたお見せしますけれども聖遺物です。例えばサン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタであれば十字架の一部を手に入れたという事実がありますが、その十字架の破片がヴェネツィアで色んな奇跡を起こします。その奇跡を起こしたそのシーンを絵として収めるなど、そんなニーズに画家が応えていて、大きなタイプのストーリー的な絵画を描いたりということがあります。

それからヴェネツィアで発達した絵画の形式の一つに肖像画がありますが、貴族や総裁、ドージェが折に触れて発注して自分の家に飾っていました。パトロンによっては発注される絵のタイプがちょっと違っていました。

ルネサンスの時代になってどんな画家が活躍していたかという話に入ります。ジェンティーレ・ベッリーニという人がいますが、この人はお父さんのヤーコポ・ベッリーニという人がヴェネツィアの画家で、この人の作品はほとんど残っていませんが、その子供、兄弟がジェンティーレとジョヴァンニという2人の兄弟がいますけれども、2人とも非常に優秀な画家です。このベッリーニはお兄さんの方ですけれども、非常に写実的な絵で祝祭的な絵を描くのが非常に得意でした。アカデミア美術館に行くと15世紀のサン・マルコ寺院の前のパレードの絵で非常に大きなものがあり、それは非常に見応えがあるものですけれども、そういったような群衆、群像を描くような大型な絵画も得意ですし、彼は肖像画も優れたものがあります。

今は両国でヴェネツィア展をやっていますが、あそこにジョヴァンニ・モチェニーゴの大変素晴らしい肖像画が今回は来ております。真横から描いた肖像画ですけれども、大変素晴らしいものなので是非ご覧になっていただきたいと思います。

例えば、これが先ほど言いましたサン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタの同信会館のために描かれた絵の1枚です。これはアカデミア美術館にあります。もちろんこれはヴェネツィアで、真ん中に僧侶みたいな人が聖遺物の十字架の入れ物を持って泳いでいます。これは確かパレードか何かのときに誤って運河に落としてしまったのを拾っている絵だったと思います。

ジェンティーレ・ベッリーニは一時コンスタンティノープルに派遣されていました。メフメト2世がヴェネツィアに対して、誰か腕のいい画家を送ってくれということになって、このジェンティーレに白羽の矢が立って行って、向こうでメフメト2世の肖像画を描きました。イスラム教徒は基本的に偶像崇拝などはしないので肖像画というものはあまりないので、そういった意味では非常に貴重な肖像画です。こういった絵を描いていたわけです。

それからその弟のジョヴァンニはジェンティーレ以上に優れた画家だと思います。彼は祭壇画だけではなく宗教画を沢山描いています。ヴェネツィア派という1つのグループとしてとらえた場合、誰を最初に〓開祖としてとらえるかという色んな考え方があると思いますが、このジョヴァンニ・ベッリーニは色の使い方という点では後世に大きな影響を与えた人だと思います。その弟子にジョルジョーネとかティツィアーノという有名な人たちがいますので、彼らを育てたという意味でも功績は大きいと思います。

例えばこんなような絵がありまして、これはアカデミアですけれども。青、赤、それから人間の肌の色、背景の緑など、色使いとしてはシンプルな色使いですけれども、これが絵全体にコントラストとリズムを与えています。このベッリーニの絵で注目すべき点は、一番下に四角いものが付いています。これはもうちょっと拡大するとこうですけれども、実はここに自分の名前を書いています。ヨハネス・ベッリーニというちょっとラテン語風にした自分の名前を書いているわけです。宗教画に自分の名前を書くというのは何となく奇異な感じがしないでもないですが、この時代はこのジョヴァンニ・ベッリーニやカルパッチョもそうですが、自分の名前をこういった宗教画に入れるようになりました。これは何を意味しているかというと、それまでの画家は職人だったわけです。つまり自分は芸術家ではなくて、例えばたんすを作ったり仏壇を作ったりというのと同じで、画家というのはそれまでは名を残さない職人でした。ところがこのジョヴァンニ・ベッリーニやカルパッチョに、自分たちはアーティストであるという意識が芽生えてきたのではないでしょうか。その証として、これは私が作ったもの、これは私が描いたものであるという主張を絵の中にさりげなく入れています。この場合は全然さりげなくありませんが、こういった形で入れるようになりました。そういうことで画家の社会的地位の向上ということがここから一つ言えるのではないかと思います。それまでは本当に無名の職人だったのが、アーティストとして社会的にも認められ、自分たちもそういった自覚を持つようになったのがヴェネツィアのルネサンス時代なのではないかと私は考えています。

これはサンザッカリア教会にある祭壇ですが、『聖母子と諸聖人』と言われているものです。これは非常に巧みな遠近法を使って描かれています。実は一番右端、左端は絵ではなく、石で作られた枠であり、それがあたかも絵の奥に続いているかのように描かれ、だまし絵のテクニックを使って非常に巧妙に描かれています。もうちょっと拡大するとこんな感じです。

ベッリーニの祭壇画の一つの特徴の静かな表現が感じられます。聖母マリアの表情は、いつもこういった憂いに満ちた表情で描かれることが多いです。これは一つにはキリストの将来を予感させるものだと思いますけれども、こちらでも先ほどの絵と同じように赤、青、緑、白といったはっきりした原色を使いながら絵全体の活気を表現しています。このジョヴァンニ・ベッリーニの場合はどこに光源があるのかよく分からない非常に柔らかい光の使い方をしていまして、これなどは全然場所も時代も違うのですが、フェルメールのような北方系の光の処理を予感させるようなものがあったりするわけです。もちろん直接的な影響はないのですが。

ただドイツの画家のデューラーなどは16世紀の初頭にヴェネツィアにやってきて、このジョヴァンニ・ベッリーニなどとも交流を結んでいます。そういうことを考えると、フェルメールとベッリーニにはもちろん直接的な影響はないのですが、どこかで繋がっている部分があるのかもしれないなと考えるのも非常に楽しいです。

それからこれはフラーリ教会にある祭壇画です。これは三連になったものですけれども、これも大変優れた作品の一つです。今月の『芸術新潮』の表紙はこの絵ですけれども、大変素晴らしいものです。それとジョヴァンニと同じ時代の画家で有名なのはカルパッチョです。カルパッチョというとイタリア料理屋に行くとよく食べる生の牛肉をスライスしたものにパルメザンチーズとオリーブオイルなどをかけて食べるあれがありますけれども、あのカルパッチョはこの画家のカルパッチョから取られています。ヴェネツィアのハリーズバーでやっているチプリアーニというシェフが考案したものです。ちなみにベッリーニというカクテルもジョヴァンニ・ベッリーニの名前から取ったものです。なぜ生の牛肉にカルパッチョという名前を付けたかというと、カルパッチョが描いていた絵にはああいう生の牛肉みたいな色がよく使われていて、カルパッチョの特徴的な色だということであの牛肉料理にカルパッチョという名前を付けたと聞いたことがありますが、真偽のほどは定かではあれません。

彼はこんなような絵を描いています。これもサン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタのスクオーラに描いたものの一つの『聖十字架の奇跡』です。ここに今描かれている奥にある橋はリアルト橋です。リアルト橋は今の石の橋になる前はずっと木の橋でしたから、奥に木の橋が斜めになっているのが見えますが、ああいうような形をしていたわけです。真ん中が跳ね橋になっていて、この当時は真ん中を帆船ができるようになっていました。今のリアルト橋ができたのは16世紀の末ですから、それまではこういう形になっていたわけです。今の石の橋はそこを大型帆船が通ることができませんが、これはある意味ヴェネツィアという街が船を使った交易から遠ざかって、大運河沿いに沢山の豊かな商人がいて、みんなそこに船を横付けして荷物を下ろすことがだんだんなくなってしまって、最後にはそれを諦めてしまったということの象徴です。ちょっと話が逸れました。

この絵は実は左の2階にちょっと頭のおかしくなった青年がいて、それに対して聖十字架の効力でそれを治すという話を描いたものです。それからこちらの方はサン・ジョヴァンニ・デッリ・スキアヴォーニという小さなスクオーラがあり、ヴェネツィアの東の方にあるカステッロにカルパッチョの絵の連作があります。とても素晴らしいところです。これはイギリスの守護聖人の聖ジョージがドラゴンをやっつけているところです。シリアの方に行くとドラゴンがどんどん人を食っていて、右の方に見えるお姫様が食われそうになったときに聖ジョージがドラゴンを退治して、そのお姫様の両親をキリスト教に改宗させたというお話を連作絵画で描いています。

それから聖ヒエロニムスの連作絵画がありますが、そのうちの最後の一つです。聖ヒエロニムスの連作絵画ですが写っているのは聖アウグスティヌスです。これは聖ヒエロニムスが死んでしまった後に光として聖アウグスティヌスのところに降臨する瞬間を描いた絵です。ですからこの絵画の主題は光です。室内の設えというのは、これはその当時の15世紀、16世紀のヴェネツィアの学者の家がこんな感じであったと。アウグスティヌスはその当時の学者の肖像画でもあるということです。犬も下の方を見ていますけれども、ここにカルパッチョのサインが入っています。ここの連作絵画はみんなああいった形でサインが入っています。ということで先ほども言いましたように、芸術家としての意識の芽生えがここでも見られています。

15世紀後半のヴェネツィア絵画はどんな特徴があったかを簡単にまとめると、北ヨーロッパのテイストとかルネサンスの影響みたいなものを自分たちなりにうまく咀嚼をして、新しい様式を作っていったのではないではないかと。それが16世紀のジョルジョーネやティツィアーノへの橋渡しの役をしているのではないかということです。それから最後に書いておきましたけれども、画家が職人から芸術家に変わったのはこの瞬間ではないかということです。

ジョルジョーネは作品が少ないことと、ティツィアーノと作風が似ていました。ティツィアーノとの共作のものもありますし、ティツィアーノとジョルジョーネのどちらが描いたのか分からないようなものもあってよく分からない部分がありますけれども、こんなような顔をした人です。31歳で若くして死んでしまいました。

これはアカデミア美術館にある非常に有名な『テンペスタ』、「嵐」という絵です。向こうの方で稲妻が光っており、手前に兵士とジプシーと言われている女性がいて子供のおっぱいをあげています。これが何を意味しているかさっぱり分からないと言われており、物の本によると20ぐらいの説があるようですが、どれが決定的な説なのかというのはまだはっきりしておらずどれも決定打になっていません。そもそもこれをレントゲンで撮ると、こちらの兵士には昔は女性が描いてあり、女性を塗りつぶして兵士を描いています。そもそもジョルジョーネに最初からプランがあって描いた絵ではなく、途中で方針を変更したということなのかもしれません。もしくはこの絵を発注したパトロンが、片一方は男の子に変えてという注文があったのかもしれませんが、その辺はよく分かりません。大きくするとこんな感じです。実に不思議な絵です。アカデミア美術館の作品の中では特に重要なものの一つです。

それからこの『テンペスタ』と並んで飾られているのはこの老婆の絵です。誰がこの絵を発注したのかよく分かりません。先ほども言いましたように、基本的には誰かパトロンがいて発注を受けて描いていると考えるのが自然ですが、この老婆が紙を持っていて、そこには「COL TEMPO」と書いてあり、それは「時と共に」という意味です。つまり時間が経つと若い女性もこうなるよという意味なのかもしれません。色んな解釈がされている絵です。実はこの女性が年を取ったときの絵を描いたのではないかと言っている人もいますが、あまり根拠はなさそうです。こういった絵を描いていたのがジョルジョーネです。

(ティツィアーノは)そのジョルジョーネの兄弟弟子です。ジョルジョーネとティツィアーノは2人ともジョヴァンニ・ベッリーニの工房にいましたが、このティツィアーノの方が若くて作品数も多く有名になりました。非常にヨーロッパでは評価の高い画家ですが、確か2年ぐらい前に『ウルビーノのヴィーナス』が日本の展覧会で出ていました。非常にドラマチックで色彩感覚の優れた画家です。ティツィアーノは実に長生きをして80過ぎまで生きていましたが、年を取ってからは結構さばを読んでおり、実際の年よりも年かさを増して、人に自分は何歳だと言っていたそうです。それは年を取っていた方がありがたがられるという商売上手な判断からだそうです。この人は非常に商売が上手でした。

フラーリ教会に彼の初期の傑作の『聖母被昇天』があります。祭壇の方に行きますと、後ろのメインの祭壇に飾られている絵です。ご覧になった方もいらっしゃると思います。この絵はもともとジョヴァンニ・ベッリーニに発注が行っていたらしいです。先ほど見ていただいた3連の祭壇はここのフラーリにありますが、このメインの祭壇は縦6メートルぐらいある非常に大きなものですが、その発注がベッリーニに行ったのですがベッリーニが死んでしまい、それで弟子のティツィアーノに仕事が回ってきて彼が描いたわけです。あまりにも斬新であまりにも衝撃的だったので、そのフラーリ教会の神父さんはこの絵の受け取りを一旦は拒否をしたと言われています。それぐらい当時の人たちにもショッキングな絵でした。こうやって今までいくつか絵を見ていただきましたが、その中でも明らかに異質です。西洋絵画の歴史の中で一つのターニングポイントになった絵ではないかと思いますが、その絵画がこちらの『聖母被昇天』です。

伝統的には、先ほど見ていただいたトルチェッロのサンタ・マリア・アッスンタの聖母子と考え方は一緒ですが、表現の手法が違います。この周りが金色ですが、金色というのは天国の色です。そこに向かってマリア様が上っていくという絵です。8月15日は聖母被昇天のお祭りで、この日にマリア様が天に召されました。マリア様は肉体のまま天に昇られたので骨は残っておらず、マリア様のお墓はありません。肉体そのものでそのまま天国に行ったということになっています。ですからその様子を描かれています。実際に若いままのマリア様が天に向かっていますが、これは娼婦をモデルにして描いたということで、それもいろいろと物議を醸したようです。下の方ではキリストの弟子たちが上を見上げています。

先ほどcom’era dov’eraという話で、ヴェネツィアの芸術はあったときのまま展示されているという話をしましたが、実際にどんな感じかというビデオを見ていただきたいと思います。十何年か前に日テレが作った番組です。

(ビデオ再生中)

ナレーションが入っているので・・・。すみません、これも絵がかくかく動きます。今一瞬映ったのはティツィアーノの墓です。薬師丸ひろ子ですね。教会の正面の入り口から入ると、ずっと長い奥に進んでいく形になって、途中に聖歌隊が座る席がありますが、その先にメインの祭壇がありまして、そこにティツィアーノの絵があります。こんなような感じで正面から進んで行くと見えます。これはコーラスが座る席ですが木造でできています。こんな感じで絵が収まっています。これは撮影だから彼女はこんなあたりまで行けましたけど、普段はこんなところまでは近づけません。こういった形で絵が飾ってあるわけです。

こんなに重要な作品、日本で言えばもちろん国宝級の作品がこういった形で見ることができるというのはとても素晴らしいことではないかと思います。この絵はここで見るのが一番ふさわしいですし、この場所からこの絵を動かしてどこか違う環境で見るということはほとんどあり得ない話だと思うのですが、でも実際はそういうことがされていたことがあります。

実はワーグナーはヴェネツィアが大好きで4回、5回来ているのですが、ワーグナーがこの『聖母被昇天』の絵を見たのが実はアカデミア美術館の中でした。その当時のアカデミア美術館の館長から、絵を貸してほしいとフラーリ教会の方に依頼がありまして、しばらくの間ですがこの絵がアカデミアにあった時期があります。ワーグナーにとっては非常に気の毒ですが、そのときに彼が来てこの絵を見たのがフラーリではなくアカデミアだったということです。

それからもう一つ例があります。それはツルゲーネフという『初恋』という本を書いているロシアの作家ですが、彼が『その前夜』という小説を書いています。これは岩波文庫にありましたが今は絶版になっています。この『その前夜』というのは実は日本でお芝居になり、そのとき松井須磨子が主役を演じて、『ゴンドラの唄』という、命短したすきに長しじゃなくて、「命短し恋せよ乙女」というあの歌です。この『ゴンドラの唄』がそのお芝居の挿入歌として使われましたが、『その前夜』という小説があって、その中でツルゲーネフも実はこの『聖母被昇天』の絵のことを書いていますが、残念ながら彼もやはりアカデミアで見たようで、フラーリで見たわけではなかったのです。

私は最初この絵がフラーリの外に運ばれたという経緯は全然知りませんでしたから、ツルゲーネフの小説を読んだときに非常に違和感を感じて、これは間違っているのではないかと思いましたが、よく調べてみるとツルゲーネフがヴェネツィアに来たときは確かにアカデミアにあったようです。いずれにせよ我々はこの素晴らしい作品をフラーリの中で見ることができます。ということで、お時間があと5分ぐらいになりました。ではどんどん飛ばします。

あとはティントレットです。これもアカデミア美術館で見ることができる『聖マルコの奇跡』、これも非常に素晴らしい作品です。彼は人形の模型を作りろうそくを当てて、光がどういうふうに当たるかという実験をして、それを絵に反映させてこういうふうに描いているということです。それからサン・カッシアーノ教会にある『キリストの磔刑』です。これを私が初めて見たときは本当に衝撃を受けました。こんな絵が16世紀に描かれていたということ自体が信じられませんでした。ビデオを見ていてビデオで一時停止にするとこういう絵になりますが、その当時はビデオなんて当然ないわけですから、動きの中の一瞬を切り出してこういう絵を描くという発想自体がとてつもなく新しいものだったと思います。

これはサン・ロッコ同信会館ですが、こちらはティントレットの絵で埋め尽くされています。これは『キリストの磔刑』ですが、ラスキンというイギリスの批評家は、この絵をヴェネツィアで最も素晴らしい作品と絶賛しています。本当に素晴らしいです。これはパラッツォ・ドゥカーレの『天国』の絵です。これは息子と一緒に描いています。

それからヴェロネーゼです。これはサン・マルコ図書館の閲覧室ですが、これは本当に素敵な場所なので、是非行って見ていただきたいです。コッレール美術館から入っていってどんつきにあります。天井に色んな絵がありますが、これは実はコンクールでした。ここで国家の画家、つまりヴェネツィア共和国を代表する画家をこのコンテストで選ぼうということがあり、ティツィアーノなどが審査員でしたが、ここでヴェロネーゼが見事この音楽という名前の寓意画ですがこれを描いて優勝したということです。この辺もヴェロネーゼの本当に素晴らしい作品ですが、ちょっと時間がないので飛ばさせていただきます。

何でこんなに素晴らしい絵が沢山生まれたかというと、一つには社会的に安定していたこと、それからヴェネツィアにはお金があったからです。共和国そのものはオスマントルコとの戦争とか、あとはカンブレー同盟で全ヨーロッパを敵に戦争をしたり、そういうようなことがあって戦費がかさんで国家の方は財政難でしたけれども、それでも教会やスクオーラや個人の人たちにはお金があったわけです。そういったパトロンがずっと安定的にヴェネツィアの中にいたことが、こういった絵画がずっと作られ続けた一つの大きな原動力になっていたのだと思います。

先ほどもちょっと申しましたが、ヴェネツィア派は色の巧みさ光の表現、空気感の表現に卓越していたということです。あとは感じたままというところがヴェネツィア派の特徴ではないかと思います。17世紀は実は画家はあまりぱっとしませんでした。17世紀は何が一番大事かというと、オペラハウスができたことです。モンテヴェルディという非常に有能な作曲家がたまたまヴェネツィアにいたので、そんなこともあってオペラが大ブームになりました。

1643年にサン・カッシアーノ劇場という、これは世界で最初のオペラハウスがヴェネツィアにできました。一時多いときは17ぐらいのオペラハウスがヴェネツィアにありました。なぜヴェネツィアにオペラハウスが生まれたのでしょうか。これも色んな見方があります。これはヴェネツィアの航空写真ですが、向こうの方にリアルト橋が見えます。サン・カッシアーノ劇場というのはここにありました。

実はこの辺は吉原みたいなところでした。ここにおっぱい橋 (foto-3)という橋があります。こういう橋ですが、これは何でおっぱい橋かというと、これが娼館だったのです。ここに窓が2つあります、これは太鼓橋です。ちょうど橋の一番上に来ると窓が真っ正面に見えて、そこでその当時の娼婦は胸をさらけ出して客引きをしていたので、それでここをおっぱい橋と言っています。石を投げればすぐ届くところにサン・カッシアーノ劇場があります。これは何を意味しているかというと、要はその当時のヴェネツィアにはすごく男がいっぱいいました。交易都市ですから外交官、駐在員、船乗りなど非常に沢山の男がいたわけです。こういった人たちのニーズをどうやって満たしていくかということで、一つはそういった売春、もう一つは、さすがに毎晩そういったところに行くわけにはいかないので、ある種エンタテインメントに対する大きなニーズがあったのです。それがその劇場、特にオペラです。お芝居は言葉が分からないと分かりませんが、オペラの場合は音楽を聴いていれば何となく楽しめます。ヴェネツィアにはそういった新しいエンタテインメントに対する非常に大きなニーズがあったのです。それがオペラハウスを生む一つの切っ掛けになり、あんなに小さな街の中に16も17もの劇場ができたということ、それだけ大きなニーズがそこにあったということです。そのようなことを街を歩きながら見ることができます。

あとはティエポロなど本当はいろいろ説明したいところがいっぱいありますが、ちょっとこの辺は飛ばさせていただきます。

モナコ&グランカナルというホテルに泊まられた方がいらっしゃると思いますが、あそこの上にリドットという部屋があります。リドットというのはカジノです。こちらはフランチェスコ・グアルディの描いた絵ですが、これはそのリドットを描いた絵です。実はあそこで賭け事をやっていたわけです。みんな顔がばれないように仮面をしたままやっていました。モーツァルトなどもここに遊びに来たことがあるようです。この辺は飛ばさせていただきます。

ヴェネツィアの楽しみというのは、今まで縷々説明してきたような美術というのも当然ありますし、歴史も面白いです。その他にも楽しみは当然あるでしょう。我らがフェニーチェ劇場もありますからオペラ鑑賞もできます。皆さんあまりご存じないですが、ヴェネツィアのショッピングってすごく実はよくて、ブランドショップが固まってあります。サン・マルコから3月22日通りの方に行きますと、ヴィトン、シャネル、グッチ、フェラガモ、セリーヌ、ボッテガ・ヴェネタなどとにかく色んなお店が歩いて5分以内のところにいっぱいありますので、お買い物も非常に効率的にできます。 

それからもちろんヴェネツィアの食べ物は美味しいです。篠さんなんかは本を書かれていますけど楽しみはありますね。ですから非常に色んな楽しみができるわけです。そういったヴェネツィアを誰に対して売っていくのかということですが、マーケティングするという話がこのレクチャーのポイントです。

初めての観光旅行でそんな旅行はなかなかできませんから、取りあえずイタリア1周旅行は経験されている方。やはり知的好奇心がないとこういうことにはなかなか興味を持っていただけないので、歴史、芸術に関心が多く、例えば絵画、建築、歴史などに関心のある方で、ただ単なる物見遊山な旅行では飽き足りないという方をターゲットにしていく必要があると思います。具体的にどんな人かというと、年金をもらっていらっしゃる方とかお金持ちです。あとは例えば30代以上で『CREA』や『FIGARO』などの雑誌を読んでいらっしゃるような、旅行とかそういった知的な活動に興味がある方を対象にヴェネツィアを売っていくのがいいのではないでしょうか。

個人旅行というのはなかなか難しいですから商品開発も必要です。例えば、発見する旅、体験する旅、学ぶ旅などの何かをする旅を作っていかないと新しい需要は喚起できません。私がいつも泊まっているホテルには夏にフライングカラーというアメリカ人のグループが来ます。この人たちは何をやっているかというと、絵の先生と生徒さんたちが一緒にやって来るのです。ホテルの中庭で水彩画の描き方の手解きを受けた生徒さんたちがヴェネツィアの街に散っていっては、自分たちで絵を描いてくるという旅行を毎年やっていらっしゃるそうです。私はそういうのを見て、こういうのもいいよねと思いました。やっぱり何か目的を持ってヴェネツィアに来て、単なる観光をするのではなく、そういう楽しみ方をするのも一つの旅行のあり方かなと感じました。

やっぱり1日では当然できませんので3日以上は行っていただきたいと思います。例えば美術を見るのであれば、私みたいな偽物ではなく、ちゃんとした資格を持った学芸員の方が同行されるとさらによいと思います。例えば出発前にセミナーをしたり、もしくは現地でセミナーみたいなものをしながら実際に見て歩くという形の旅行というのは、参加する者も非常に楽しいのではないかと思います。

どんな形でお客さん集めの告知をするかということですが、例えば展覧会のタイアップをしてみたり、こういう形式でも構わないと思うのでセミナーを開催したり、雑誌でのPR、それこそ『芸術新潮』でも構いませんし、『家庭画報』でもいいと思いますし、先ほど言いました『CREA』や『FIGARO』でもいいと思いますが、そういったところで興味、関心のある方を集めていくということだと思います。こういったヴェネツィアの楽しみ方をするというのは、必ずしも万人向けの旅行というわけにはいかないと思います。やはりある程度絞られた人たちが参加されると思いますので、こういった形で告知をしてみると。ただし、それを実現するためには旅行会社の企画力が当然必要です。それなりの知識とネタ、それから現地でのコネみたいなものがないとこういった旅行は企画できませんので、そういった意味では旅行会社の力量が問われるかもしれませんし、旅行会社だけではなく企画をするプロデューサー的な人や、現地を案内するナビゲーターなど、例えばお土産を買いたいとか、レストランへ行きたいとか、バーカロに行きたいというニーズは当然あるわけですから、そういったことに応えられるサポート体制みたいなものがないとなかなかこういった旅行は実現できないと思います。

ということで、「ヴェネツィアをマーケティングする」というタイトルで縷々お話をさせていただきましたが、なかなか簡単な話ではありません。結局、終わってみればマニアしか行かないのではないかということになるのかもしれませんが、やはりマニアの人にまず行ってもらわないことには何も始まらないわけです。まずはマニアの方に行っていただいて、その人が楽しかった、面白かったというふうに周りに言っていただき、ブログに書いていただいたり、「Twitter」でつぶやいていただくことによってより多くの人が、旅ってこういう楽しみ方もあるんだな、ヴェネツィアも面白そうだから自分も行ってみようという気になればもっと大きな市場を生む可能性があるということです。

大変申し訳ないのですが、最後にどうしてもこれを言ってこいとフェニーチェ友の会の会長が言っておりますので。来年のツアーはこういう予定です。5月の18日から24日に『ラ・ボエーム』と『夢遊病の女』をフェニーチェで鑑賞いたしまして、オプションではベローナに行ってみようかと。それから拡大版のヴェネツィア芸術散歩という、何の資格も持ってない私がまたご案内しますので、ご興味のある方は是非ご相談ください。ちょっと時間が押してしまいまして申し訳ございませんでした。どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)




【橋都】 栗林さん、どうもありがとうございました。いかがでしたでしょうか、ヴェネツィアにまた行ってみたくなった方が沢山おられるのではないかと思います。どなたかご質問があればお受けしたいと思います。はい、佐久間さん。


【佐久間】 楽しい話をありがとうございました。料理のカルパッチョの話ですけれども、今のヴェネツィア展では、ある伯爵夫人が生の肉しか食べてはいけないと言われて、それでハリーズバーで発注したということです。たぶんイタリアでは一般的にそういうふうに思っているのではないかと思います。説は沢山ありますが、それがイタリア人の中では一番多い説みたいです。展覧会に説明が書いてありました。


【栗林】 なるほど。


【橋都】 他にいかがでしょうか。それでは僕から一つ質問をします。観光税は今どうなっていて、どういう影響があるのでしょうか。もうすでにあれは…


【栗林】 導入されています。ホテルで1泊当たり、そのホテルのランクによって違いますけれども…


【牧野】 3つ以上。


【栗林】 3つ以上ですよね。3ユーロとか…


【牧野】 ヴェネツィアは4ユーロです。


【栗林】 4ユーロでしたっけ。モナコなんかだといきなりその日に現金で払えと言われます。私が泊まっているホテルはそんなことは言わず、最後にまとめて払えばいい形になっています。別にあんまり大きな影響はないのではないかと思います。

皆さんたぶんご存じないと思うのですが、実は東京都も取っていて、1万円以上のホテルに泊まるとその都度100円払えという形になっています。だからといって私が東京に来る回数が減ったということにはなりません。3ユーロや4ユーロはあまり大きな影響はないかと思います。


【橋都】 それは基本的には観光の振興などの目的税なのでしょうか。


【栗林】 詳しいことは私もよく分かりませんが、ただ一つ言えるのは、今は大変イタリアは緊縮財政ですから、例えばヴェネツィアなどでも観光資産となる街の中の橋とか建物の修復に金が回らなくてほったらかしになっているものがいっぱいあります。そういったようなものを修復していくことは、ヴェネツィアだけではなくイタリアに対する観光ニーズを維持していくためには必要な話だと思います。

ちょっと全然関係ない話ですが、ファンドをつくってそういうヴェネツィアの橋を直そうという形でお金を集めたらいいのではないかと思います。橋が治ったらそこに自分の名前を入れてもらったりすると、またヴェネツィアを訪れる理由が増えていいのではないかと思ったりしています。すみません。


【橋都】 他にご質問はございませんか。はい、高橋さん。


【高橋】 ちょっと俗な話を聞きたいのですが、木の台よりも上まで水が上がったときですが、観光客はどういうふうに行動すればいいのですか。長靴を買うとかそういう形ですか。そしてそれは大体いつごろから始まりますか。夏の雨が降るとジャーっと上がったのは何回か経験があるのですが、冬のすごく高いときは観光ではどういうふうに行動するのですか。


【栗林】 長靴です。もちろん長靴を持ってきている人はいないので、よくホテルにビニールのオーバーブーツみたいなものを売りに来ます。1足10ユーロぐらいですが、高級ホテルですと靴の上にさらにこうやってビニールで履くようなブーツを売りに来たりしています。安いホテルにはそんなものは売りに来ませんから、諦めて私が昔やったのは、スーパーのレジでもらえるビニール袋を靴に巻いて歩くとか、諦めて水の中をジャブジャブ歩くというどちらかです。冬に多いのですが、秋から冬にかけて沢山あって、一昨年はヴェネツィアで新年を迎えたのですが、そのときも3日間いて3日間ともアックアアルタでした。大晦日の夜にサン・マルコ広場でカウントダウンがあるのですが、そのカウントダウンに行ってもそのサン・マルコ広場が30センチぐらいの水で浸かっていまして、そこに人がうわっといっぱいいて、大騒ぎでカウントダウンをやって、その後花火を見に行ってという感じですから、もうとにかくそうなったときは濡れるときはしょうがないと諦めるしかないです。


【橋都】 他にいかがでしょうか。はい、猪瀬さん。


【猪瀬】 大変楽しい話をありがとうございました。ヴェネツィアが地盤沈下をしていて、それを何とか補強してそれを食い止めないといけないと。それに対してなかなかお金がないので国際的にも支援をしないといけないということが以前あったと思いますが、今の状況はどうなっているのですか。


【栗林】 アメリカ系のSave Veniceという団体があって、お金を集めていたりするようです。地盤沈下に関しては、もともとは本土側のマルゲーラという工場地域で地下水をばんばんくみ上げてしまったのが原因だと言われています。地下水のくみ上げは禁止されていますので、地盤沈下そのものは止まったと言われていますが、地球の温暖化等で海面の上昇があります。

モーゼ計画という計画をお聞きになったことがあると思いますが、アドリア海からヴェネツィアのラグーナに入ってくる入り口のところに堰を作ってアックアアルタを防ごうという計画があり、これは今実行されており工事はどんどん進んでいます。ですからリドの方からトルチェッロというラグーナの北の方に行かれると、その前を通るので工事現場を見ることができます。工事はやっていますが進捗状況がどうなのかはちょっと分かりません。そもそもイタリアですから、工事が期間中に予定通り終わるかどうかもよく分かりません。

もう一つ大きな問題は、実際に動かしてみないと分からないということです。つまりそこにもしも堰を作ってしまうと、ラグーナの中の生態系が壊れてしまうのではないかということです。例えば我々がヴェネツィアでよく食べているシャコやアサリ、ムール貝、イカ、エビなどはみんなラグーナの中で取れているわけですが、そこに堰を作ってしまったらそういったご馳走にありつけなくなるのではないかとも言われており、これは本当にやってみないと分かりません。九州の方でも、諫早湾で堰を作ったら生態系が変わってしまったということもあります。その辺はちょっとまだ定かではないところがあります。


【橋都】 他にございますでしょうか。よろしいでしょうか。それでは来年5月にまたフェニーチェ劇場の旅行があるようです。僕も昨年参加しましたけど非常に楽しい旅行ですので、ご興味がある方は是非ご参加いただきたいと思います。

それでは栗林さん、今日はどうもありがとうございました。


【栗林】 ありがとうございました。(拍手)