イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~

第382回 イタリア研究会 2012-04-06

イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~

報告者:イタリアの食研究家 粉川 妙


4月例会

・日時:2012年4月6日(金)19:00-21:00

・場所:東京文化会館(上野)

・講師:粉川 妙 イタリアの食研究家

・演題:イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~


【橋都】 皆さんこんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は第382回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。

今日は非常に面白い「イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~」という演題でお話をしていただきます。我々は洋食というとすぐにステーキと考えてしまいます。しかし本来牛は食べてはいけないもので、働かせたり乳を搾ったりするもので、食べる動物といえば豚と昔から決まっていました。そういう意味では豚は食べられ尽くしてきて、非常に面白い食べ方、色々な食習慣があるので、それを今日はお話ししていただきます。

では、講師の粉川妙さんをご紹介したいと思います。粉川さんは甲南大学文学部の社会学科のご卒業で、7年間会社に勤務した後2005年にイタリアへ渡り、スローフード協会公認の料理学校イタルクック、後ろにパンフレットが置いてありますが、そちらでイタリア各州の料理を勉強されました。その後はライターや通訳者としてイタリア各地を巡りながらイタリアの食文化、イタリアの豚食の研究を続けておられます。現在はウンブリアにお住まいということです。私は以前からヨーロッパの豚食文化には興味を持っていたので、どなたかこういったテーマでお話ししていただけないかと思っていたところ、まさに適任の粉川さんという方に出会うことができて、今日講師をお願いした次第です。それでは粉川さん、よろしくお願いします。



【粉川】 よろしくお願いします。

先ほど橋都様からご紹介いただきました、スローフード研究家、ライターをしております粉川妙と申します。本日はちょっと強い風が吹く中お越しいただきましてありがとうございます。これから90分間にわたりましてイタリアと豚、豚を取り巻く文化、ガストロノミアということでイタリアの豚文化を深めていければと思います。

先ほどご紹介に与ったプロフィールですが、橋都さんが一つだけ言い忘れたことがありまして、こちらの「butako」です。私は自分でブログをやっておりまして、「butakoの2年間の休暇」という名前で6年間ブログをさせていただいています。

なぜbutakoというペンネームを使うようになったかといいますと、大学中に文化人類学を専攻していたわけですが、卒論が目前に迫り何かいいネタはないかと考えており、そんなときに神戸の華僑の人がやっているお店で豚の貯金箱を見つけたわけです。何で豚なのだろう他の動物では駄目なのかということで、豚に特別なシンボルといいますか、象徴的なものがあるのではないかと思い卒論の研究対象にしたわけです。それ以来名前はbutakoといいまして、縁があってイタリアに住むことになったのですが、日々の生活の中で豚に対するアンテナを立てこの6年間情報を収集してきました。

ちなみに宣伝になりますが、私は著書がありまして、『スロー風土の食卓から』というのが扶桑社さんから出ていますので頭のお留め置きいただければと思います。そのbutakoが住んでいるのは、先ほどありましたが、ウンブリア州というイタリア半島の真ん中です。握り拳のような形でまるで心臓のような形なので、山深い、緑が多いということから、別名イタリアのハートと言われている州です。私が住むウンブリアのスポレートという町ですが、ローマ時代にかけられた水道橋があり、山も文化もあってということでとてもこのスポレートという街は気に入っています。こちらはロマネスク式のドゥオーモですが、かの有名なフィリッポ・リッピの遺作となる聖母マリアの一生というフレスコ画があり、ローマ時代からルネサンス期まで幅広い文化がある街です。そしてオリーブオイルが有名です。

そういうわけで本題に入ってきます。今日お話しすることですが、すでにbutakoはお話しさせていただきました。他のキーワードは「サラダボール」、「ポチ」、「男のロマン」です。粉川さんは豚の話をするのではなかったのかと思われるかもしれません。サラダボールというのは、アメリカの文化を言うときにるつぼとかそんな感じで言いますけれども、イタリアの豚文化を追いかけていくとどうしても避けられないのが周辺地域です。

地中海の中のイタリアなので、ギリシャはもとよりエジプトとかシリアの方まで目を向けないとなかなか理解できないような文化的なことがあります。そんな地中海のイタリアということで、特にローマ時代などでサラダボールというキーワードを当てました。

そして中世の豚ですが、香辛料だとか聖人と豚の関係などは面白いテーマです。犬を飼われていらっしゃる方がいると思いますが、私にとって典型的な犬の名前はポチですが皆さんはいかがですか。猫はタマですよね。シロかもしれませんが。豚にも名前がありそれを聖人と関連づけてお話ししたいと思います。そして男のロマンということで、イタリア各地に伝わるサラミのご紹介をいたします。こちらは職人さんが力を振り絞って作っているサラミです。その現場をつぶさに見ているとその仕事の姿で男のロマンを感じてしまいました。

ということで、まずはこちらの文化的な潮流ということで、ちょっと西アジアに目を向けていきたいと思います。こちらの方はテンポよく進めていきたいと思います。

ユダヤ教徒、イスラム教徒の豚観です。ご存じの通り豚は不浄である、汚れている、そして豚を全く食べません。コンスタンティノープルの方にあったヴェネツィアの守護神サン・マルコの遺体をどうしてもヴェネツィア人たちは運びたかったが、サラセン人の軍隊がそれを阻んでいました。その際、ヴェネツィア人たちは塩漬け豚の樽の中にサン・マルコの遺体を隠して運んだと言われています。

そしてシリア諸国です。歴史家のヘロドトスが書いていますが、豚に触れた者はその後一日中お寺に入ってはいけない、人々から遠ざけねばならないということで不浄のシンボルでもありました。かたや多神教の神様に捧げる生け贄として豚は使われていて豚食です。エジプトは不浄であり聖なる者、こちらは後からご紹介します。

そして面白いことに年に一度だけ豚を食べます。その流れを汲みまして、ギリシャ、豚文化、豚好き、豚食。イタリアもこの線を結局行っていると思います。特にギリシャ、ローマに関しては古代エジプトの流れを非常にくんでいます。農耕文化であるということ、多神教であることで神話を照らし合わせると価値観が非常に似ていることが分かります。

こちらはエジプトの神話と豚ということですが、ピラミッドで眠っているファラオはこの太陽神ホルスの化身とされています。それに楯つく悪神セト。セトは仲間である豚を連れています。ある日、豚の体に化けてホルス神の目を傷つけた、と『死者の書』に書かれています。そしてセトには兄妹がいます。妹のアセト、そして兄であるアサルです。アサルは顔色が悪いですね。彼の顔が緑色なのは葉緑素のためです。彼は農業の神様ということで、民たちに麦の栽培法やパンづくり、ワインづくりなどを教え、非常に人気がありました。神話の世界ではよく近親相姦が行われていますが、アサルはアセトと結婚をします。

 一方、悪神セトは人気者のアサルにジェラシーを燃やし「あいつを殺してやるぞ」と陰謀を企ててアサルを殺し、なんとバラバラにしてナイル川に投げ込んでしまいました。それを見てアセトが泣きながらその遺体を一つずつ集めますが、どうしても男根だけ探すことができません。しかたがないのでグルグル巻きにして―これはミイラの包帯という意味ですが―つなぎ合わせます。それで復活するのですが体の一部分が欠けているので下界に下りていくことができず、アサルは冥界の王となるわけです。ギリシャではこのアサルのことをオシリス、アセトのことをイシスと呼んでいます。アセトが冥界で最後に審判を下します、こちらは死者が列を作ってその審判を待っているわけです。

そこで豚が登場してきます。悪い豚を猿が棍棒を持ってたたいています。『門の書』にはこのような場面が描かれています。セトの友達で悪の化身と言われている豚です。シリアでは以前、豚は不浄である、汚れているということで非常に嫌われていました。エジプト人の豚飼いは迫害を受けていて、嫁のもらい手や婿のゆき手がなくて豚飼い同士で結婚せざるを得ないほど迫害されていました。しかしながら豚飼いがいるということは豚を食べているということですが、なんと年に1回だけ彼らは豚を食べているのです。アセトの月の祭典で、豚はアセトを殺した悪いものとして祭壇に供えられ、焼かれて食べられます。

そのように年に1回だけ殺して食べるために飼われているのですが、豚が年に1回しか殺されないというのは逆に保護されている、と言えるのではないでしょうか。聖なる者の「聖」という字はどこかに取っておくという意味もあり、結局こうやって取っておかれて飼育された豚は聖性を帯びていきます。ですので、豚は「聖なるもの」であり「汚れたもの」であるという2つの性質を持っています。

まとめますと、このアサルがギリシャにいるとオシリスという名前になり、同時にギリシャにはディオニソスという再生を司る神様がいます。そのディオニソスはデメテルという女神とよく一緒にされています。ローマに行くと男性神のディオニソスがワインの神様のバッカスとして名前が変わります。一方、デメテルはケレスという名前になります。こういうわけで農耕と豚、死と再生、そして豊穣を司るということで3つのこの地域は非常に似ていると言えます。

次にギリシャの話をしましょう。豊穣神デメテルは、ギリシャ神話の最高神ゼウスの姉であり妻でした。デメテルは豊穣の神で、麦を作る方法を民たちに教えるきわめて温和な女神でした。しかし怒ると飢饉をもたらすという性格を持っていました。このデメテルの娘がペルセポネです。冥界に下ってしまうペルセポネのお母ちゃんということです。

ギリシャでは豊穣にまつわる非常に面白い祭があります。アテネのテスモポリア祭といい、それは女性だけの儀式です。アッティカの暦の第4の月(10月、11月)に行われており、豚を殺す儀式があります。豚の死体と小麦粉の菓子、松の枝を捧げ、冥界に下ったペルセポネを悲しむのと同時に、それが再生するよう願う式が執り行われます。

それはどのように行われていたのでしょうか。殺した豚と松の枝、菓子を聖なる洞窟と言われている場所に置きます。そして数ヵ月後「引く女」と言われる女たちがそれを密かに引き上げるのですが、建前ではそこに住む聖なる蛇がそれをさらってしまったということにしています。すっかり腐敗してしまった豚を、畑に麦の種と一緒に蒔くのですが、そのようにして蒔かれた種は、豊かに実ると約束されています。テスモポリア祭とは、再生と豊穣の祭りなのです。

さて、この祭はギリシャのある地方のエレウシスの秘儀へと発展していきます。秘儀ということなので、何カ月間は処女でいないといけないとか男子禁制などの秘密めいた儀式だったので、その内容は明らかにされていません。それを皮切りに、一種の“秘儀ブーム”が地中海世界に起こります。その秘儀ブームが、ポンペイの秘儀荘へ発展するのですね。この画像は、秘儀荘にある非常に美しいフレスコ画です。ポンペイの場合はデメテルではなく、男神ディオニソスを崇拝した祭になっています。その祭では、豚は神やニンフ(妖精)に「感謝の生け贄」として捧げられました。

ホメロスの書いた『オデュッセイア』の話はご存じでしょうか。トロイ戦争の後、オデュッセイアが故郷に戻るまでの旅路を書いているものです。故郷に戻ると絶世の美女である妻ペネロペが男たちに言い寄られているのに怒り、その男たちに復讐するという話です。

その『オデュッセイア』の中にエウマイオスという人の良い豚飼いが出ています。ある場面で、オデュッセイアと一緒に豚を食べるのです。「オデュッセイア、久しぶり。生きて会えるとは思ってなかった」と、再会を喜び、今日は僕の飼っている豚を一緒に食べよう、ということになります。当時の豚は中世まで非常にワイルドで、イノシシみたい。ひどい剛毛で、タテガミがあるものさえいました。エウマイオスは、豚の毛をきれいに焼き、切り身のお肉にして、豚の網脂でくるみ、小麦粉をはたいて暖炉の火で焼きました。オデュッセイアは、その肉の塊を7つに切り分けました。1つは旅を祈願するため、旅の神様と言われているヘルメスに。1つは今まで生き残れたということでニンフに捧げます。一番おいしいとされている背肉はオデュッセイアが食べ、残りをエウマイオスが食べました。

ちなみにエウマイオスは50匹の雌豚を12の囲いに飼っていました。一囲い50匹いてそれを12の囲いということなので600頭です。毎年子豚を1,800頭も産出していたというので、イタリアの養豚専門家アントニオ サルティーニ氏(Antonio Saltini)によると、現在の養豚の技術からみても非常に高い技術と、コメントしています。

また、デルフォイの神殿にて子豚の血で清めたオレステスの逸話も興味深い。当時は、子豚は穢れを清める威力があると信じられてきました。この若き王子オレステスは母親の陰謀で父親を殺害され、それに恨みを抱き、母親を殺めるという“実母殺しのタブー”を犯してしまいます。殺害した直後、デルフォイ神殿に行って、血で汚れた体を幼い豚を殺して清めます。この子豚による浄化は、ローマ時代にも続いていきます。

食べ物の話を聞きたいのに文化の話ばかりで、つまらないという方もいらっしゃるかもしれません。今、指し示している写真、これはパニーノですが何をサンドしているか分かりますか。中部地方の名物、豚のポルケッタです。豚の骨を除き、香草をお腹に詰めて、オーブンで一晩じっくりと丸焼きにしたものです。現在のイタリアの豚は体重が200キロぐらいあって脂肪が非常に多いのですが、ポルケッタにすると、その脂肪が肉の中に入り込み、得も言われぬミルキーな感じの豚に仕上がります。それを切ると、外はカリカリで中はしっとりしています。あちらではそれをパニーノにして、軽食代わりにします…いわゆる伝統的なファーストフードですよね。それをケレスもデメテルも気に入って、このスライドでは「ボニッシマ(とってもおいしい)!」と言っています。

イタリア語で豚をポルコと言いますが、ポルコは「o」の母音で終わっています。イタリア語には女性名詞と男性名詞があるのですが、「o」で終わっていると男性名詞です。ケッタと付く場合、こういうのはディミヌティーボ(縮小辞)といいまして、「小さい」ことを表します。ポルコにケッタを付けたら小さいということになります。でも、ポルコで終わっているので、本当は縮小辞をつけるとケット、つまりポルケットになるはずですが、ポルケッタは女性名詞の「a」で終わっています。これはやはり、かつて豚が豊穣の女神ケレスに捧げたということで、女性名詞ポルケッタに変化したとみる学者たちもいます。

そのポルケッタづくりを簡単にご紹介します。こちらは家で作りたいけれども家のオーブンはこんなに大きくないから無理ということで、ノルチネリア(豚肉加工店)やマチェレリア(肉屋)で作られています。あらかじめ屠畜場で殺された豚を、天井にかかる巨大なフックに吊り下げて、毛をバーナーで焼き切っていきます。そして腕っ節の強そうなオジサンが、全身の力を入れて、四つ足状態の豚をパカッと両面開きにします。開いた豚を、さほど大きくない刀で、骨と身をはがしていき、骨抜きを行います。片手に棒状のヤスリを携帯し、ちょっと骨を抜いてはそのヤスリで刃を研いで…という風に、奇麗に鋭利な刃物で骨だけを抜いていきます。そして香草ですね、ローズマリーと塩こしょうとニンニクをちょっと潰したものを、開いた肉の部分に沢山塗りこみ、最後は棒を通して紐で結っていきます。哀れな豚さんたちは、オーブンに入るまで、まるで口とお尻に、巨大な棒が貫通しているような状態で、スタンバイしています。業務用のオーブンに入れるか、もしくは炭火で焼くかになります。その料理の原型は、前述した語源と合わせみても分かるように、ローマ時代にさかのぼります。

ローマ時代、皇帝が大宴会を催した際、大きな豚のお腹に、肉質の違う野鳥の焼いたものを詰め込んで、ロースにしてもてなしました。華々しい宴会料理ですので、みんなが出そろったときにパッとお腹を切り分け、他の肉(鳥など)を出したりします。なかには趣向を凝らして、生きた鳥を出すこともあったようで、当時の王侯貴族がいかに来賓者を驚かせるのに必死になっていたか、というのが分かります。ポルケッタは宴会料理の主役なんですよね。

そして私の知り合いのイタリア人マイアちゃん(1歳4カ月)を紹介します。このマイアという名前は、最近イタリアで流行中の名前です。イタリア女性の名前というとマリアとかルチアとかロザンナかもしれません。マイアなんて聞き慣れない名前ですね。実は源はローマ時代、ギリシャ時代のマイアというニンフ(妖精)から来ています。ゼウスに寵愛を受けたニンフですが、そのマイアも豊穣の神であります。このマイアがマイアーレの原型になっています。イタリア語を習っていらっしゃる方は豚という言葉がポルコだけではないことをご存じだと思います。マイアーレというのも豚ということです。一般的に、食材にはマイアーレ、動物としての個体はポルコを使います。このマイアーレの語源は、彼女だったのです。

ということで、先ほどの表にマイアーレを付け加えました。ちなみにこのデメテル、ケレスなどの豊穣の女神のうちのケレスは穀物を指す言葉「チェレアーリ」の原型になっています。ケレスはイタリア語で「チェッレレ」といいますので、チェッレレ→チェリアーリ、いわゆる英語のシリアルの語源になっています。そしてマイアはマイアーレの語源なのです。


では、本格的にローマ時代の豚についてお話ししたいと思います。イタリア中部、北部を旅すると豚料理にたくさん出会います。イタリアの豚に関する諺を現地の人々に聞いてみると、かならず「Del Maiale non si butta via nulla(豚は捨てるところが何もない)」という返事が返ってきます。日本人の鯨のような感覚でしょうか。耳も鼻も脳みそも食べますし、蹄のところも食べます。あとは血もサラミにして食べます。サングイナッチョといいますが非常に美味、また後で紹介します。ですので、豚一頭を屠るとすべて食べることができます。食べられないのは、豚の鳴き声だけ、というジョークがあるくらい。

ローマ時代は子豚への意味合いが深くなっていきます。ローマ帝国はあれほどに覇権を広めましたが、最初は本当に小さい領地で、海のものとも山のものとも言えないようなラテン人の集まりでした。同盟国を増やし、繁栄に欠かせない儀式として、同盟の誓い、契約、結婚などを行いましたが、その際には、生後5日になる豚を双方の前で殺して、同盟を破ったらあなたはこのような末路を辿ると、脅迫に豚を使ったりしました。

ローマは、現在のニューヨークやロンドンに匹敵するような当時のコスモポリタンでした。こちらはローマ帝国の領土が最大であった紀元120年のことです。ヨーロッパ全域と中央アジアの一部を治めています。ローマの人口は150万人にまで膨れ、市民を飢えさせないため、食物確保は政府の命題でした。重要なタンパク源である豚の肉は魅力的でしたが、残念なことにローマ人は農耕民族で、豚飼いは自分たちとは違う職業だし、飼育場所も適していないと思っていました。なので初期のローマ人は、畑を耕してブロッコリーやキャベツなどの野菜を、毎日、山盛り食べていたのです。当時の豚は森でドングリを食べさせて飼うものだったので、その野蛮な森林に住み、豚を飼うことは、ちょっと卑しいことだとローマ人は考えていました。

そのため現在のボローニャやパルマのあるポー川流域に住むケルト人が森林で飼っている豚が、ローマの市場で非常に珍重されました。ローマへは一度アドリア海に出て、フラミニア街道を通って300kmあまりの道のりを経て、丸々と太った豚を運んでいきました。巨大な豚が運び込まれてきたトラヤヌスの市場ですが、市場の道を挟んだ反対側にコロッセオにあります。ローマに土地勘がある方はピンと来るでしょう。その市場からほどなく行くと、パニスペルナ通りがあります。この通りではパンやハムが売られていました。ローマではパンは、無償で市民に供給されていましたが、実は豚肉も供給リストに含まれていました。当時から、非常に貴重なタンパク源だったということですね。


皆さん、ちょっと疲れてきましたでしょうか。この辺でクイズをやりたいと思います。イタリア研究会さんというだけあってイタリアに詳しい方も多いでしょうが、生ハムの産地当てクイズをします。これだけだと漠然として分からないと思うので三択でいきましょう。では、パルマの生ハム、サンダニエレの生ハム、ノルチャの生ハム、のうちどれでしょう。直感でどうぞ。サンダニエレは聞き慣れない名前かもしれないですが、北部ヴェネト州ウーディネ近郊の小さな街です。生ハムの王様がパルマだとしたらサンダニエレは女王様かもしれません。こちらは蹄が付いていて楽器のバンジョー型に形成されたものです。サンダニエレを見分けるときは蹄を見てください、ちょっと平べったい形にわざと形成されています。

問題はパルマとノルチャです。ほとんど同じに見えます。肉の表面に塗ってある塩と米粉の練り物の色が違うのでしょうか。実は大きな違いがあります。それは皮に被われている面積です。生ハムというのは、ちょうどモモを切り取った部分です。この丸い骨は大腿骨です。そこの皮が触れあっているところがこちらのハムは少ないですが、こっちはもっとベロンと皮を取ってしまっています。これが違いです。パルマの生ハムは甘塩だと言われているので、肉の出ている部分が少ない方がパルマです。生ハムを作るときは塩にまぶして3日ほど漬けて置いておきますが、表面積の狭い方が、塩の吸収が少なく、甘塩になるのです。

古代ローマ当時も、生ハムのメッカと呼ばれた地域がありました。それは先ほども申し上げた、ケルト人が住むパルマ近郊です。彼らは戦争に行くときも生ハムを2個結わえて、1個は前の胸の方に、もう1個は背中の方に背負い、すごいスピードで移動していたということです。そしてノルチャは現在も生ハムが有名です。

ノルチャから50キロぐらい行ったところに私の住むスポレートがありますが、ノルチャの話をしましょう。ローマ帝国が大きくなるにつれ、ポー川流域のハムだけでは、ちょっとやっていけなくなりました。そこでローマ人たちが目を付けたのがノルチャでした。ちょっと乱暴ではありますが、ユダヤ人との戦争で捕虜が獲得できたので、捕虜たちをノルチャに住まわせてハムづくりに携わらせました。ユダヤ人は豚を食べないので絶対に豚を盗むことはありません。なかなか良くできた戦略だと思います。

ノルチャはフラミニア街道とサラリア街道の真ん中ぐらいに位置している風光明媚なところ。ここはアペニン山脈を背後に抱く盆地で、空気は乾き凛と張っていて、生ハムを作るには非常に適しています。昔はこの山間にあるサンタ・スコラスティカ平原などで豚を飼っていたそうです。飼育のみならず、ハム作りなどの加工もやっていました。今でもノルチャの旧市街には、ユダヤ人街と呼ばれる場所が残っています。

そして彼らの豚をさばく技術がやがてローマやフィレンツェにも伝わります。この街の名前を取ってノルチーノというふうに豚肉加工店、肉屋さんを呼ぶようになりました。ノルチーノを日本語に訳すと「ノルチャ人」というか「ノルチャの」という意味ですが、それが派生してお店のことをノルチネリアと言います。中部イタリアを旅すると豚の加工屋さんがノルチネリアという看板で使われているのは、まぎれもなくノルチャが由来です。

中世後期になると、ノルチャの人々は冬の間、大都市へ出稼ぎに行くようになります。秋にドングリの実で十分に太らせた豚は、バクテリアが繁殖しにくい冬に屠殺されます。そこで冬の間、大都市へ行って加工し、春にはノルチャに帰ってくるというノルチーノ特有の出稼ぎスタイルが生まれました。

ヨーロッパには守護聖人がいて、それぞれの町や国、また商業組合を守っているのですが、ノルチャの街は聖ベネディクトが守っています。聖ベネディクトは、カトリック修道会の歴史を語るうえで非常に重要な人物で、彼が作ったベネディクト修道会は、ヨーロッパ全土に影響を及ぼしました。ノルチャは、歩いて回っても2時間ばかりで足りるほどの小さい街ですが、メインストリートには、豚肉を加工したサラミを売っているノルチネリアが鈴なりで立っています。ちなみにこの写真は、ディスプレイ用の豚の膀胱です。


話をローマ時代に戻しますが、いったい古代ローマ人たちはどんなものを食べていたのでしょうか。こちらはタルクィニアというトスカーナ州に近いラツィオ州の町にあるエトルリア人のお墓です。死者たちが天国でも生活できるようにと、当時の台所を復元したところに死者たちを眠らせているのがエトルリア方式のお墓であり、死者の祭り方です。これは台所の壁画なので豚の話とはあまり関係ないのですけれども。

例えば古代ローマ料理の一つで、Porcellum Traianeoトラヤヌス風ポルチェルム(トラヤヌス風の豚)という料理があります。こちらは料理の神様と言われてるアピキウスが記したレシピです。もともとトラヤヌス帝の時代にダキア、現在のルーマニアに戦いに行っていた兵士たちが負けてしまいましたが、負けてもただでは帰らず、向こうのレシピを盗んで帰ってきました。ということで、これはルーマニア風の豚料理です。現在でもルーマニアではPasdramパスドラムという名前で作られているそうです。

トラヤヌス風ポルチェルムの作り方ですが、まず肉の塊をマリネします。オイルとガルム(ガルムは青魚の内臓を漬け込んで作る魚醤)です。オイルとガルム、ワインとネギ、コリアンダー、胡椒、セリ科のハーブ、オレガノ、セロリの種などをこの肉にすり込んで、そして紙で結んで燻製にします。それをさらに塩水で煮込みます。一応これはサラミということですが、燻製させて煮込むという非常に手の込んだ料理になっています。肝心の味ですが、食感はチャーシューのように柔らかく、複雑なスパイスの香りがします。スパイスは、これだけ複合的だとちょっとウスターソースっぽい味がしたりして、非常においしい料理でした。

一方、これはストゥファートという煮込みです。豚肉を普通に挽いて、それをオーブンで焼いて煮込むストゥファートです。こちらは洋なしとカスタードクリーム、それに黒胡椒を振ったものです。いずれもアピキウスの料理に載っているものです。

とても素敵な夜でした。この料理は何かということですが、ノルチャの隣町のカッシャというところでペルージャ大学の考古学研究室の子たちが研究費を稼ぐために行ったディナーでした。彼女らは若さ弾ける現役大学生たち。こんなに黒いのは海で日焼けしたからではなく、発掘作業をしているからと聞いて、見た目は派手で華やかそうな子たちなのに真面目だな、偉いなと思いました。学生がいて、それを仕切るのがこちらの教授です。そしてこちらマリーノ氏はそれに協力するシェフです。シェフは通常の仕事があるなかでの準備だったので、100人分の食事会のために1週間ぐらい下準備をしておりました。

ローマ時代、ローマ市内に住む市民は先ほどの料理を食堂で食べることができて、パンの配給もあり豊かな暮らしをしていました。かたや郊外の農民たちは野菜ばかりを食べていたと言われています。しかし繁栄が続いたローマ帝国ですが、やがて陰りが見え始めて、そして北方で起こった勢力がローマ帝国を破壊して打ち負かせていきます。ということで中世前期になります。


中世と一口に言っても、紀元500年から1500年までの1000年間という非常に長いスパンを指しています。中世前期といえば大体紀元10世紀ぐらいまでですね。現代を生きる私たちは、現在から振り返って歴史を中世や近代というふうに名づけ分類しますが、当時の人は全くそういう感覚はありません。たとえば313年にミラノ勅令でキリスト教が公認されてその後国教となりましたが、新教が取り入れられた後も、ローマ神話の八百万の神様はうまい具合にキリスト教の聖人たちにすり替わり、当然彼らの生活の中に生きながらえました。たとえばカレンディマッジョという祭は、春の息吹を祝う聖母マリアの祭で、5月の初旬に行われています。ご覧いただいている写真は、その祭を開催中のアッシジの様子です。こんな感じで、イタリア各地でカレンディマッジョ(五月祭)が行われています。

この祭は夏に向けてこれから農作物が育ちますようにという願いを込めたダンスをしたり、花を飾ったりします。前述したギリシャの祭―腐りきった豚と小麦の種を蒔いて―を思い出して頂きたいのですが、蒔いた麦の種が発芽するのが5月になります。当時、そのお祝いに祭りではポルケッタが食べられていたそうです。

中世はどんな時代だったのでしょうか。そのローマ帝国の覇権が消滅し、蛮族が台頭してきます。蛮族のなかでもロンゴバルディという部族が勢力を増してきます。ロンゴバルディの「ロンゴ」はロングで「バルディ」は髭なので、長い髭という意味です。ロンゴバルディ族は長身で、男性は長く立派な髭を蓄えていました。彼らは北方のドイツにいたので、どんどん南下してイタリアの勢力の弱いところを公国にしていきます。その当時は私の住んでいるスポレートもスポレート公国になっていました。大体紀元7世紀~8世紀のお話です。

ここは先ほど見ていただいたサンダニエレの生ハムが有名なところに近いチヴィダーレ・デル・フリウリというところです。ここもロンゴバルディの美しいレリーフがサンタ・マリア・イン・ヴァッレ修道院聖堂祈祷院に残っています。さて、そのロンゴバルディ族ですが、森からやってきたので、豚に関しては非常に優秀な部族でした。それまでもポー川流域は豚が盛んでしたが、ロンゴバルディ族も自分たちのノウハウを持ち、さらにポー川流域を豊かな豚の森にしていきました。結局さっきお示しした3つの生ハム当てクイズのサンダニエレはチヴィダーレの近くにあり、パルマもロンゴバルディ族が住み着き、スポレートもノルチャも同様で、それぞれロンゴバルディに縁のある街なのです。彼らの通った道は、養豚と加工の技術がますます発展していきました。


そしてこれは豚飼いの図になります。これは『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』です。この祈祷書の10月を見ていただくと、さそり座と射手座があります。こちらは11月の図です。当時の豚飼いというのは中世に入ってすごく位が上がってきました。いわゆる一目置かれて、しかもマエストロと言われるまでになっています。

ローマ帝国が終焉を迎えてから643年までに書かれた書物の中で、いくつか民事を取り扱ったものがあります。例えば法律で殺人を犯したとして、殺人者は裁かれて罰金を科せられるわけです。でも誰を殺すかによって課せられる罰金の料金は違っていました。先ほどご覧いただいたフリウリ州のチヴィダーレには、そういったことを記した古い書物が残っています。それによると農民を殺した場合は20ソルディ(ソルディというのは当時の通貨の単位)、豚飼いを殺した場合は50ソルディということで、豚飼いを殺した方が罰金は高かったのです。すなわち豚飼いの方が農民よりも身分が高いということです。豚飼いの地位の高さは、豚がそれだけ貴重だったことを示しています。

また豚は、森の面積を測る単位に使われていました。「この森は豚500頭が飼えるぐらいの大きさ」というように、ヘクタールなどのそういうのではなく、豚500匹という表現が使われていたのです。ということで森と豚は切り離せないものでした。

ちなみにあるデータによると、豚を太らせるにはドングリがもっとも有益です。ドングリを食べさせると豚肉のオレイン酸の含有量が上がり、科学的にも美味くなると証明されています。イベリコ豚などもそれで品質のカテゴリーが変わってくるぐらいです。1日平均8キログラムのドングリで1キロ豚が肥えてくれるというわけです。1キロ増やすのに8キログラムのドングリが必要です。大体それで計算をすると、3カ月で体重は90キログラム以上に増加します。そして1頭当たり25本から30本の樫の木が必要になり、そうなると目安では、1から2.5ヘクタールの土地の面積が必要になります。ですので、豚を飼うには広大な森が必要だったのです。


こちらは去年の春休みにちょっと巡った教会の一つです。トスカーナの外れにあるグロッピナ村のサン・ピエトロ教会です。8世紀の礎が残るロマネスク様式の教会ですが、教会内の柱頭に、かわいらしいレリーフがあります。雌豚が4匹の子豚に乳を与えているところです。当時の豚もイノシシに似て、たてがみがありますね。非常に単純な線で彫られていて、ちょっとにっこり微笑みを誘うというか、思わずちょっと和むようなレリーフです。ここは教会なので、豚が乳をあげている図というのは非常に珍しいです。中世後期になると、暦の中で屠殺される豚の図は多いのですが、実際に乳をあげているというのは、非常に珍しいです。イタリア人の食研究家ロッサーノ・ニストリ氏は「マドンナ・マイアーラ」(聖母の豚)というふうに言っています。彼は、そういう呼び名で言っているのですが、ただ注意しなければいけないのは、イタリア語には「神を冒とくする言葉」が非常に多く、たとえば「ポルコ・ディオ(神様、豚野郎)」と言ってしまえば、皆から非難されてしまいます。

上記の「マリア様豚」もよくない言葉ですが、ニストリ氏つけた愛称であり、正式な名前ではありません。教会建築には、聖書の話やシンボル以外に、暦にまつわることや、庶民の願いを込めたフレスコやレリーフが作られていました。だからこの母親豚と子豚のレリーフには、ある意味教会の目指すべき理想が描かれているのでは、ないでしょうか。すなわち、教会は信徒を養う場なので、母豚が乳を与えることによって子豚である信徒を養うという象徴です。あと乳には、信仰、聖性が込められているので、あえてこういうレリーフにしたのではないかと考えられます。残念ながら、こういうユニークなレリーフはほとんど現存していません。このグロッピナの街は、ローマからストリ、ボルセーナ、アレッツォ、フィレンツェと通っているカッシア街道沿いにあり、ローマ時代から中世初期まで非常に栄えていた地域でした。その後下火になってしまい、ルネッサンスや後世の文化の波が押し寄せることもなく、中世の佇まいが残っているのです。それに対して、フィレンツェは、ルネサンス文化が華麗に花開いたため、それ以前のロマネスクやゴシック美術は「古い」「流行遅れ」といった理由で、塗り込まれたり、破壊されたりしました。グロッピナの教会は、ほとんど中世以降人通りがなくなってしまった街ので、奇跡的にこういう素朴なものが生き残ったのですね。

教会で見られるレリーフの多くは、こういった感じのものです。これはオクトーバーと書いているので10月の農民の風景です。ドングリをはたき落として豚たちに食べさせています。これでどんどん太れよ、ということです。こちらは11月で、豚を屠殺する時期です。豚の屠殺は冬と決まっています。それは豚に寄生するバクテリアから豚肉を守るためです。気温が低くなると雑菌が繁殖しにくくなるので、豚の屠殺は11月終わりから2月いっぱいまでと現在もされています。このレリーフが見られるのはヴェローナのサンゼノ教会です。

そして中世も豚の解体が盛んです。もはやロンゴバルディの勢力で養豚の技術も広まっていったので、中世の初期は農民もかなり貧しかったようですが、中期以降はどんどん豊かになって農村も栄えていき、こういった屠殺の風景が見られるようになりました。相変わらず豚は黒く、私たちの知るピンク色の豚とは違います。殺して血を出していますが、この血も血のサラミとして使うのでしょう。

現在もこのようにして豚を殺してサラミに加工する文化があります。こちらは私の行っていたイタルクックという料理学校の校外です。地元の人たちが集まって、解体作業を行います。これはちなみに豚の膀胱を膨らましているところです。こんな感じで豚は鉄砲で一撃され、そして先ほどのようにつり下げられ、お尻から小型の斧で背骨を切っていってこのように真っ二つに切られていきます。これが正しい解体の仕方です。内蔵は水分を取りだして洗って食べたりサラミに混ぜたりします。そして解体された肉は3日ぐらい冷所に馴染ませ、それから親戚一同が集められて、今日は加工するから来てよ、ということで加工が始まります。

豚の腸をサルシッチャ(腸詰)にしている場面です。この女性は腸に穴がないか確認しています。挽いた肉に角切りにしたラードを入れ、そして胡椒を入れてこちらの機械にかけていきます。この機械は昔ながらの手回しですが、腸詰めを装着して送っていくとどんどん肉が詰まっていくわけです。新鮮なお肉なのでちょっと食べさせてくれませんか、とお願いして頂いたのですが、すごく甘みがあって美味!卵黄を上にのせて、ユッケのようにして食べたのですが、新鮮で健康な豚肉がこんなに美味しいのかと、感激しました。

そして暖炉が活躍します。これは豚の大腸でチャリンボリと呼びます。マルケの地方では腸を暖炉で乾かして食べてしまいます。暖炉は、サラミや乾燥用のサルシッチャを干して若干燻すことで、保存に一役買っています。中世はすごく貧しい時代だった、と言われていますが、実はそうでもないのではないかと思います。

農村がだんだん発展していく過渡期で、豚を飼いさえすればドングリの林は無料だし、勝手に太ってくれるし、あまり元手もいらずに、美味しい肉がたまに食べられた。そんなに貧しくなかったのではないでしょうか。まずい塩漬け肉ばかり食べていたとか、香辛料の普及が望まれた、とも聞きますが、実際に豚の解体とかサラミ作りを見ると香辛料といっても、せいぜい胡椒くらいですし、よしんば使わなくても塩さえあれば保存ができます。しかも冷所で熟成させていくと、優良なバクテリアのおかげで薫り高いハムやサラミに仕上がるのです。塩漬けは不味いでしょうが、どうも上記の言い草は、後付けで現代人が言い出したことなのではないか、と勘ぐってしまいます。現代人は今のグルメが一番と自負しているでしょうが、当時だって人々グルメには関心があり、それなりに美味しく食べたはずです。

香辛料を使えるのは上流階級のみでした。ただし上流階級層(王族や貴族、商人)は肉をフレッシュで食べることにこだわっていました。フレッシュミートとは、狩の獲物や豚の肉など。中世も後期になると子牛なども喜ばれました。屠殺したらすぐに食べると決められており、その財力に任せて香辛料を、料理の最後に振りかけて香りを楽しんだり、サフランで色を楽しんだりしていました。しかし、肉の保存でそもそも香辛料を必要としていたのは農民たちでした。ただ彼らも、知恵を駆使して美味しく頂いていたのです。繰り返しになりますが、香辛料神話というのはちょっと違うのではないかなーと思っています。ちなみにそれについては歴史学者のマッシモ・モンタナーリ氏も著書で述べています。

そして中世後期の豚です。こちらはシエナのパラッツォ・コムナーレ内部で、アンブロージョ・ロレンツェッティが描いた善政の間というタイトルのフレスコ画です。大広間に善政によってもたらされる世界、その向かいに悪政によってもたらされる世界が描かれております。良い政治は、良い生活にする、ということを示したフレスコ画。その作品のなかですが、城壁の外部には腹に白い帯の模様がある豚=チンタセネーゼをつれています。セネーゼというのは「シエナの」という意味なので、「シエナの豚」という名です。

一方、城壁の内部を見ると、サラミを売る街の女がいて、とても活気づいています。市場も中世後期になると、ますます栄えていきます。市民の文化が花開き、地方都市が非常に力を持ってきて、そして商人たちがギルドを作ったりして市民たちが自立してきた時代です。

ちなみにさきほど紹介したロレンツェッティの絵は、新潮社さんの『イタリア古寺巡礼』フィレンツェ→アッシジの本のなかに、ロレンツェッティの絵と母豚のマドンナ・マイアーラの写真が載っています。レシピのページは私が担当しました。一方、『イタリア古寺巡礼』ミラノ→ヴェネツィアには、チヴィダーレのルンゴバルディのレリーフが載っています。著書は金沢百枝先生と小澤実先生で、非常に分かりやすい表現と写真が満載なのでお勧めです。

そろそろ時間がなくなってきました。豚の調理についてはざっと流したいと思います。当時から去勢豚がもてはやされていました。幼い頃に去勢術を施された豚は肉も軟らかく臭さがないというのでもてはやされました。とあるフィレンツェ貴族の夕食会の内容をご紹介させていただきます。サルシッチャの油を落として焼いたパン、生ハムのパイ、肩ロースのソースがけ、子豚とパンを交互に刺したもの、豚の喉肉を添えたパン、ギオッタソース、生ハムが乗ったパイ、あとは頭の肉や耳とか鼻を煮てゼリー寄せにしたものがあり、夕食会にも非常に豚がもてはやされています。

しかしこれからだんだん中世後期になっていくと、豚は農民のものになっていきます。王侯貴族たちは、「農民は豚を食べたらいい、私たちは野鳥を食べたい」とか「子牛がいい」とかドンドン食の嗜好が変わってきます。貴族たちは周りの人と違うものを食べることによって特権階級を誇示するのです。自然界と人間界を同義と見なし、例えば野鳥などの鳥を食べることは、高いところを飛ぶ鳥を食べる人は階級も高い…などというヒエラルキーを食の世界にも当てはめて、食材のチョイスをするようになっていきました。イタリアには、他のヨーロッパ諸国には見られない“子牛ブーム”がありました。これはイタリアの貴族にのみ見られた文化のようです。

豚は食肉用に、人間によってイノシシから家畜化された動物です。そういう肉は、貴族の目から見ると、魅力がなく、卑しく感じたのでしょうね。豚は農民のモノ…と貴族の価値観は変わっていきました。

これは16世紀の紋章ですが、シエナの近くでブルネッロというワインが有名なモンタルチーノのコムーネの広場にかかっているもので、パリジーノ家の紋章だそうです。先ほどの地元のチンタセネーゼの紋章です。

あとこれはシエナの銀行に私が行ったときにポスターが貼っていて、色んなシンボルがあったのですが、その中に豚らしきものがあったので、それを写真に撮りました。ひょっとすると、シエナなどのトスカーナの一部の地方でチンタセネーゼが有名なところは、豚も珍重され続けていたのではないかと思います。

そして聖アントニオの話です。豚を語るとき、この聖人をはずすことはできません。1月17日は聖アントニオが殉死した日で記念日になっています。聖人の生涯ですが、は紀元200年から356年まで生き105歳で長寿を全うしました。彼の亡くなった1月17日は、イタリア各地でお祝いします。このスライドを見て分かるように、牛や馬や豚が描かれています。彼は家畜の守護聖人なので、飼い主たちは、自分のペットを教会まで連れていきます。この羊飼いたちは司祭に水をかけて祝福してもらうために羊たちを持って教会前に集っていますね。聖アントニオはエジプト生まれで、こういう風に髭を生やした老人として描かれています。T字の杖を持ち、傍らに豚をいつも連れているというのがシンボルになっています。

彼は隠遁者の先駆けとされていて、荒野でいくつもの試練に遭いました。隠れて生活をして神と対話をするという生活を好みましたが、それを半分裸の女性や悪魔の誘惑を受けます。この図は悪魔たちが信仰など捨ててしまえと誘惑していますね。聖アントニオは誘惑を受け、それを克服した聖人として知られています。おじいさんなのに髪の毛を引っ張られていてかわいそうです。

それでは、なぜ聖アントニオは豚や動物の守護聖人になったのでしょう。それには一つの出来事があります。彼が亡くなった後世、12世紀に麦角病という病気が流行ります。麦が突然変異でこんなふうに悪くなってしまい、麦角アルカロイドという悪性の物質ができてしまうのです。アルコールなどもアルカロイドの一種でして、植物由来のものですが、非常に強力で、直接的に体を攻撃します。それが発疹だとか、ひどい場合には体の末端に溜まって壊死が起こります。循環器系に作用すると壊死になり、神経系に作用すると焼き付くような痛みを感じるようになるのです。この焼けるような痛みのことを当時の人はサンタントニオの火と呼ぶようになりました。では、なぜか?

ちょうどこの病が流行ったとき、フランスの聖アントニオス修道院では、修道士たちが罹患者を介抱しました。ここの修道士たちは豚を飼っていましたが、縄もつけずに連れて歩いていました。病人には、その豚を屠って食べさせ、病気に対する抵抗力を付けさせました。また、すでに壊死を起こしている人たちの手術を行い、その部分を切り取って豚の膀胱で包んだり、もしくは焼きごてで切断した部分の血止めをした後、ぐらぐら煮えたぎった豚の脂を塗って化膿止めにしていました。

それらの活動により、人々はアントニオス修道士たちを慕うようになります。パリではシャルル5世の命で、修道士たちは豚を連れてもよいという許可を得たため、縄もせずに街中を連れて歩き、喜捨をお願いしました。人々も修道士が連れている豚を見て喜んで施しをしたのです。豚が糞をしたらなおさら人々は喜びました…糞で喜ぶなんて! 運が付くというのは日本だけだと思いましたが、あちらでもそうなのでしょうかねぇ。

「ニーノ」というかわいらしい愛称の説明をしましょう。私の友人は、屠殺用の豚を飼っており、毎年、毎年、豚が代わってもニーノと呼び続けているので、なぜかと聞いてみました。なんと、聖アントニオの愛称だったのです。アントニオ→トニーノ→ニーノというように変わったわけ。何々ちゃん、という感覚でしょうか。まるで犬をポチと呼ぶように言われている、というので、最初にあげたテーマの「ポチ」のオチがここでつくわけです。この後、友人宅のニーノ君は、残念ながらこのように加工されてしまい、美味しくいただきました。


もう時間がありません。では5分だけオーバーさせていただいて、簡単にサラミ旅行ということでご紹介させていただきます。私は食紀行のアテンドやコーディネートもしているのですが、山梨でハム工房を営むハム日和さんと一緒に、去年、サラミをテーマに中北部イタリアを縦断しました。ローマやトスカーナやエミリア=ロマーニャ、最後はサンダニエレと美味しいところばかりを回りました。

まずはローマの下町テスタッチョ広場です。彼は、現在もここで活躍しているノルチーノです。彼のおじいさんはノルチャ出身。おじいさんの代までは、ノルチャから出稼ぎでローマに出ていたのでしょうね。それが現在はローマに定住しています。そんなノルチーノたちがここ2世代くらいでとても増えているような、気がしました。彼らが信仰のよりどころにしているSantissima Madonna della Querciaサンティッシマ・マドンナ・デッラ・クエルチャ教会は、ノルチーノたちが通う教会です。13世紀末に建設が始まりました。

次の写真ですが、この店は、何でもサラミが揃うボルペッティというノルチネリアです。テスタッチョ地区にあります。

こちらはカンポ・ディ・フィオリにあるノルチネリアです。豚の皮や軟骨、顔面の肉をゼリーで集めて固めたCoppaコッパ。一方、こちらはSfrizzoliスフリッツォリ(Ciccoliチッチョリ)という、エミリア=ロマーニャ特産のものです。いわゆる油かすですねぇ。この店、地方のものも豊富に揃うのです。大都市に行けば、全国のあらゆるものが揃うという現象ですね。地方じゃ、そうはいきませんが。こちらは私の家の近くでマルケ州とウンブリア州の一部で作られているチャウスコロというソフトサラミです。このサラミはイタリアに来た友達がびっくりしたのですが、口溶けがなめらかで、パンに塗れるくらいに柔らかい。これだけ白いということは、脂肪がふんだんに練り込んでいて、カロリー的にも非常に危険ですが、パンに乗せて食べると口の中でとろけて、非常に美味です。チャウスコロは中はソフトですが、それでも2カ月ぐらい熟成させます。2ヶ月ももつ秘密はやはり燻製です。暖炉などの煙でいぶすことで、保存作用があるのですね。このように半分火の消えかけた暖炉で燻製しています。

これはさっきの聖母の豚があるグッピナの近くで、座布団みたいに大きいパンチェッタを作っています。タレーゼという名前のパンチェッタで、地名はヴァルダルノです。ヴァルは谷、アルノは川、アルノ川の谷という地名です。ここのパンチェッタは本当に巨大でした。少し辛くて、豚の野性味あふれる力強い味がしました。私たちはハムを見学させてくださいと、言っただけですが、地元のキャンティでワインまでご馳走になってしまい、飲みなさいという感じで非常にアットホームなところでした。これがお店の外見です。店主の友達たちや近所のオバサンが次々とやってきました。この男性は狩った鹿を持ち込み、加工してくれないかという依頼をしていましたし、普通の近所の人たちが井戸端会議をしに来たりしていました。地元で愛されているマチェレリア(肉屋)です。

そしてこれがチンタセネーゼです。白い帯のあり、そんなに大きく成長しません。野性の豚に近く、肉の味は非常に濃厚です。それ以外にも数種類あり、いわゆるメード・イン・イタリアで、どこの品種とも掛け合わせてない純粋な豚が7~8種類イタリアにはいます。その純粋な品種の代表格がチンタセネーゼなのです。

こちらの山脈の写真ですが、雪ではありません石切場です。カッラーラという場所でトスカーナとリグーリア州の境にある有名な大理石の山です。ローマのバチカン市国にある大理石もみんなこちらから切り出されてきましたし、ミケランジェロも好んで使ったと言われるカッラーラの大理石です。ここはカッラーラから上に行った寒村コロンナータ村ですが、昔からラードを大理石で漬け込み熟成させて、食べていました。石切場の生活は肉体労働で大変なので、昔はカロリー補給のためにラードを食べていたのです。こんな風に石の箱の中に塩、胡椒、ローズマリーやオレガノなどのブレンドしたハーブに漬け込んでいって、3~4カ月したら食べ頃になります。先ほどのように細くスライスしてアンティパストとして食べています。料理のベースに使っても美味しいです。

こちらはマレガートという名前のサングイナッチョ、血のサラミです。血のサラミはイタリア各地にあって、わりにどこでも作られています。中に干しぶどうを入れたり松の実を入れたりして若干甘くしているところがほとんどです。

そして食の街ボローニャです。こちらはご存じのモルタデッラです。こちらはロゼッタという種類のサラミになります。この店が非常に面白く、なんと、持ち込みができる、お酒のみを売っているオステリアなのでした。逆に言うと、食べ物は売っていません。市場のノルチネリアで、サラミをスライスしてもらい、パン屋さんでパンを買って、ここに持ち込みました。こういう種類のオステリアは1960年代ぐらいまでは、イタリアのあらゆる街で見られていたそうです。いわゆるお酒だけを売るという所。今はほとんどなくなってしまいましたがボローニャにはまだあります。すっかりここが気に入った私は、ボローニャに行くたびにここのオステリアに行っています。場末の感じが、とても面白かったですよ。

そして生ハムのパルマ。

こちらはクラテッロです。クラテッロは、ジベッロ村やコロルノ村などパルマから北西へ10~30キロほど行ったポー川流域の霧の多いところで作られているハムです。湿気が多いと重量が13-15kgもある生ハム1本の熟成は不可能です。というのも、あれほど大きな塊を、多湿なところで熟成させると、途中でカビが生えてきてしまうからです。だからサイズを小さくし、生ハムの一番美味しい部分だけを切り取って熟成します。クラテッロの「culo」はお尻という意味で、お尻野郎…って感じかしら。非常に美味で、一時期作り手が減ってしまったことから、珍味としてもてはやされていました。この部屋でクラテッロが熟成していますが、床の下は川が通っているので、ここは湿気だらけです。いいカビだけを繁殖させて、熟成をカビたちに担わせているんですね。

こちらはサンダニエレのハムになります。

最後にご紹介するのは、今回のルートとは関係のないシチリアです。シチリア島でも先ほどのチンタセネーゼのような野生に近い豚がいます。山の方に行くと豚たちが寒いので、それを保護するような豚のための家があったりします。これが肉屋のご主人です。

豚は山を2つ使って飼っており、彼が加工もしています。黒かった豚は毛を除いたら黒くはありません。ここのお肉は普通に焼いて食べても美味しくて、脂肪のところが炭火でカリッと香ばしく、ジューシーでうまみたっぷりです。適度に歯ごたえがあり、噛んでも初めから飲み込む前まで美味しさが持続します。脂肪が非常に良質だと感じました。サラミにしても美味しいです。そのネブロディの豚で作った生ハムはこれです。豚が非常に小さくて足首もこんなに細いということが言いたい写真です。脂肪がすごく多いため今の効率から言うと非常に効率が悪い豚ですが味は驚くほど美味しいんです。これは近くのおじさんがたまたま世間話をしに来たので、その人と写真を撮ったものです。

ということで非常に駆け足でしたが、イタリアの豚と文化ということでお話をさせていただきました。お話はこれで終了です。ご静聴いただきましてありがとうございました。


【橋都】 粉川さん、どうもありがとうございました。歴史から実際のサラミづくりまで、広範に豚についてのお話をしていただきました。ご質問のある方があると思いますのでお受けしたいと思います。質問をされる方は最初にご自分の名前を言っていただけるとありがたいと思います。ちょっと電気を点けてください。どなたかご質問はございますか。はい、どうぞ。


【佐藤】 佐藤と申します。今回は大変面白いお話と、そして美味しそうな写真をいっぱい見せていただきましておなかが空いてまいりました。2点お伺いしたいと思います。

一つはドングリを食べさせて太らせるという伝統的な飼い方についてです。今でもイベリコ豚など、ポルトガルあたりでもそれを売り物にしているようですが、イタリアではドングリを食べさせて太らせたものだという売り方をしている豚はあるのでしょうか。

それと2番目ですが、ハムやサラミなど加工して食べる豚はすごくバリエーションが豊富だと思いますが、フレッシュなお肉として豚を料理に使うことはそれほどバリエーションがないように思われるのですが、そのあたりをご存じでしたらお聞かせください。


【粉川】 まず一点目の質問ですが、イベリコ豚はドングリを食べさせているものとそうではないものをきちんとブランド化して表示しています。それを表示しなければ違反になってしまいます。残念ながらイタリアではそういう表示はありません。ただ、白い帯の豚のチンタセネーゼや黒豚のネブロディなどは樫の木が茂る山で飼っているので、自然とドングリを食べています。作り手でもこだわっている人は、ドングリが美味しい肉になるということをちゃんと認識しています。ただ規定としてはないので、精肉屋さんに行ってこれはどうなのかと聞いても誰も答えることができない状況です。

ハム、サラミ以外のフレッシュなお肉の調理法ですが、佐藤さんのおっしゃる通り意外とありません。冬場などはお友達と一緒に暖炉を囲んでワインを飲んで食べたり、ということを頻繁にするのですが、その中で一番のご馳走は肉を炭火で焼くことです。あえて家庭料理に目を向けると、アリスタという背中の脂肪が若干少ない部分をミルクで煮たものがあります。紅茶豚というのが日本でもありますが、その紅茶で煮込むもののミルクバージョンです。あとは香草と一緒にグツグツと煮たストゥファートというシチュー、あとはハンバーグ状のポルペッタなどです。若干凝った料理として、塊肉にパンチェッタを巻いてそれをローストにします。幾つか出てきましたが、サラミの種類に比べたら多彩ではありません。


【橋都】 他にいかがでしょうか。それでは僕から一つ質問します。ローマ時代の伝統からノルチャにユダヤ人を連れてきて豚肉の加工をされたということですが、今も伝統的に豚飼いあるいは豚の加工業者にはユダヤ人が多いとか、そういうことはあるのでしょうか。


【粉川】 今、ノルチャの人口は3,000人ぐらいですが、人種としてはほとんど薄まってきてしまった感じです。ただ、街の伝統としては豚肉を加工する技術は今も残っていて、今でもローマなどに出稼ぎに行っています。飼育するということは廃れてしまっているので、彼らはよそから買った肉を加工している状態です。


【橋都】 他にいかがでしょうか。はい。


【辻】 辻康介といいます。ものすごく面白い話でした。豚の肉は全部使うということですが、骨は何かに使いますか。


【粉川】 いい質問です。骨は豚骨のスープにするとか、私もこれを発表する前に考えたのですが、骨付き肉を煮込むということはあります。例えばあばら骨はコストレッレといいますが、それをぶつ切りにして煮込むと骨から良い出汁がでます、例えばこの辺の骨をスープだけに使うかというと、圧倒的に去勢をした鳥や牛の方がスープとしては珍鳥されているので、ほとんどないと思います。


【橋都】 他にいかがでしょうか。はい、どうぞ。


【小西】 すみません、小西と申します。大変面白い話でした。ちょっと一つ質問をしたいのですが、今から20数年前、私がイタリアにいたときですが、日本ではなかなか生ハムは作れなかったようです。技術書を読んだだけでは失敗ばかりしていたようです。その一つの原因が、イタリアではわりあい自然環境の中で野ブタというか、放牧みたいな感じで健康的に豚を育てていますが、日本は配合飼料で急に大きくしてやっているので生ハムはできないという話をその当時は聞いていました。それはやはりそういうことなのかなというのが一つ。

もう一つは、イタリアでハムやベーコンやサラミというのはどちらかというと生の方が好まれていて、どこを見ていても生の方が多くて、日本は火の入ったハムやソーセージですが、その辺はイタリア人の嗜好から言うとどっちが好きなのか、この2点を教えていただければと。


【粉川】 分かりました。豚の肉質ですが、去年日本で生ハムを日本でやりたいというハム日和さんと一緒に巡ったのですが、加工しているイタリア人たちに実際インタビューをしたら、イタリアで加工する肉は200キロぐらいのものがいいと言っていました。でもハム日和さんは、日本ではせいぜい120キロで、それ以上肥やしたら肉がまずくなると言っていました。私も飼料かどうかは分かりませんが、種かもしれないですけれども、太らせたらまずくなってしまう日本の肉には問題があるのではないかと思いました。

2点目ですが、一応カテゴリーというか実際にもですが、プロシュートコットとか加工の工程で火を入れたものもありますが、全体の割合から言うとコットではない火を通してない方が多いですし、イタリア人は好きだと思います。


【橋都】 はい、どうぞ。


【一色】 一色と申します。ありがとうございました。ポルケッタの丸焼きの写真が衝撃的でした。私もトスカーナにいたのですごく親しみがあるのですが、トスカーナとかウンブリアではメルカートなどでも見かけますが、南や北に行ったときはあまり出合わなかったような気がするのですが、それはたまたまだったのでしょうか。やっぱり地域性があるものなのでしょうか。


【粉川】 はい。一色さんのおっしゃる通り地域性がもろに出ていると思います。ローマで発祥して、中部イタリア、トスカーナ、ウンブリア、マルケぐらいまではポルケッタは非常に作られていますが、やっぱりそれ以外は文化がないのではないでしょうか。そういう習慣がなければ、あれは釜も大きいし、あんな技術も1日では身に付かないというので、私も南や北に行って見たことはないのでおっしゃった通りだと思います。


【橋都】 いかがでしょうか、他にご質問はございますでしょうか。よろしいでしょうか。それでは豚の歴史から食べ方、加工食品まで大変面白いお話をありがとうございました。もう一度拍手をお願いしたいと思います。(拍手)

第382回 イタリア研究会 2012-04-06

イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~

報告者:イタリアの食研究家 粉川 妙

4月例会
・日時:2012年4月6日(金)19:00-21:00
・場所:東京文化会館(上野)
・講師:粉川 妙 イタリアの食研究家
・演題:イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~

【橋都】 皆さんこんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は第382回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。
今日は非常に面白い「イタリアとブタ ~ブタを取り巻く文化と食習慣(ガストロノミア)~」という演題でお話をしていただきます。我々は洋食というとすぐにステーキと考えてしまいます。しかし本来牛は食べてはいけないもので、働かせたり乳を搾ったりするもので、食べる動物といえば豚と昔から決まっていました。そういう意味では豚は食べられ尽くしてきて、非常に面白い食べ方、色々な食習慣があるので、それを今日はお話ししていただきます。
では、講師の粉川妙さんをご紹介したいと思います。粉川さんは甲南大学文学部の社会学科のご卒業で、7年間会社に勤務した後2005年にイタリアへ渡り、スローフード協会公認の料理学校イタルクック、後ろにパンフレットが置いてありますが、そちらでイタリア各州の料理を勉強されました。その後はライターや通訳者としてイタリア各地を巡りながらイタリアの食文化、イタリアの豚食の研究を続けておられます。現在はウンブリアにお住まいということです。私は以前からヨーロッパの豚食文化には興味を持っていたので、どなたかこういったテーマでお話ししていただけないかと思っていたところ、まさに適任の粉川さんという方に出会うことができて、今日講師をお願いした次第です。それでは粉川さん、よろしくお願いします。


【粉川】 よろしくお願いします。
先ほど橋都様からご紹介いただきました、スローフード研究家、ライターをしております粉川妙と申します。本日はちょっと強い風が吹く中お越しいただきましてありがとうございます。これから90分間にわたりましてイタリアと豚、豚を取り巻く文化、ガストロノミアということでイタリアの豚文化を深めていければと思います。
先ほどご紹介に与ったプロフィールですが、橋都さんが一つだけ言い忘れたことがありまして、こちらの「butako」です。私は自分でブログをやっておりまして、「butakoの2年間の休暇」という名前で6年間ブログをさせていただいています。
なぜbutakoというペンネームを使うようになったかといいますと、大学中に文化人類学を専攻していたわけですが、卒論が目前に迫り何かいいネタはないかと考えており、そんなときに神戸の華僑の人がやっているお店で豚の貯金箱を見つけたわけです。何で豚なのだろう他の動物では駄目なのかということで、豚に特別なシンボルといいますか、象徴的なものがあるのではないかと思い卒論の研究対象にしたわけです。それ以来名前はbutakoといいまして、縁があってイタリアに住むことになったのですが、日々の生活の中で豚に対するアンテナを立てこの6年間情報を収集してきました。
ちなみに宣伝になりますが、私は著書がありまして、『スロー風土の食卓から』というのが扶桑社さんから出ていますので頭のお留め置きいただければと思います。そのbutakoが住んでいるのは、先ほどありましたが、ウンブリア州というイタリア半島の真ん中です。握り拳のような形でまるで心臓のような形なので、山深い、緑が多いということから、別名イタリアのハートと言われている州です。私が住むウンブリアのスポレートという町ですが、ローマ時代にかけられた水道橋があり、山も文化もあってということでとてもこのスポレートという街は気に入っています。こちらはロマネスク式のドゥオーモですが、かの有名なフィリッポ・リッピの遺作となる聖母マリアの一生というフレスコ画があり、ローマ時代からルネサンス期まで幅広い文化がある街です。そしてオリーブオイルが有名です。
そういうわけで本題に入ってきます。今日お話しすることですが、すでにbutakoはお話しさせていただきました。他のキーワードは「サラダボール」、「ポチ」、「男のロマン」です。粉川さんは豚の話をするのではなかったのかと思われるかもしれません。サラダボールというのは、アメリカの文化を言うときにるつぼとかそんな感じで言いますけれども、イタリアの豚文化を追いかけていくとどうしても避けられないのが周辺地域です。
地中海の中のイタリアなので、ギリシャはもとよりエジプトとかシリアの方まで目を向けないとなかなか理解できないような文化的なことがあります。そんな地中海のイタリアということで、特にローマ時代などでサラダボールというキーワードを当てました。
そして中世の豚ですが、香辛料だとか聖人と豚の関係などは面白いテーマです。犬を飼われていらっしゃる方がいると思いますが、私にとって典型的な犬の名前はポチですが皆さんはいかがですか。猫はタマですよね。シロかもしれませんが。豚にも名前がありそれを聖人と関連づけてお話ししたいと思います。そして男のロマンということで、イタリア各地に伝わるサラミのご紹介をいたします。こちらは職人さんが力を振り絞って作っているサラミです。その現場をつぶさに見ているとその仕事の姿で男のロマンを感じてしまいました。
ということで、まずはこちらの文化的な潮流ということで、ちょっと西アジアに目を向けていきたいと思います。こちらの方はテンポよく進めていきたいと思います。
ユダヤ教徒、イスラム教徒の豚観です。ご存じの通り豚は不浄である、汚れている、そして豚を全く食べません。コンスタンティノープルの方にあったヴェネツィアの守護神サン・マルコの遺体をどうしてもヴェネツィア人たちは運びたかったが、サラセン人の軍隊がそれを阻んでいました。その際、ヴェネツィア人たちは塩漬け豚の樽の中にサン・マルコの遺体を隠して運んだと言われています。
そしてシリア諸国です。歴史家のヘロドトスが書いていますが、豚に触れた者はその後一日中お寺に入ってはいけない、人々から遠ざけねばならないということで不浄のシンボルでもありました。かたや多神教の神様に捧げる生け贄として豚は使われていて豚食です。エジプトは不浄であり聖なる者、こちらは後からご紹介します。
そして面白いことに年に一度だけ豚を食べます。その流れを汲みまして、ギリシャ、豚文化、豚好き、豚食。イタリアもこの線を結局行っていると思います。特にギリシャ、ローマに関しては古代エジプトの流れを非常にくんでいます。農耕文化であるということ、多神教であることで神話を照らし合わせると価値観が非常に似ていることが分かります。
こちらはエジプトの神話と豚ということですが、ピラミッドで眠っているファラオはこの太陽神ホルスの化身とされています。それに楯つく悪神セト。セトは仲間である豚を連れています。ある日、豚の体に化けてホルス神の目を傷つけた、と『死者の書』に書かれています。そしてセトには兄妹がいます。妹のアセト、そして兄であるアサルです。アサルは顔色が悪いですね。彼の顔が緑色なのは葉緑素のためです。彼は農業の神様ということで、民たちに麦の栽培法やパンづくり、ワインづくりなどを教え、非常に人気がありました。神話の世界ではよく近親相姦が行われていますが、アサルはアセトと結婚をします。
 一方、悪神セトは人気者のアサルにジェラシーを燃やし「あいつを殺してやるぞ」と陰謀を企ててアサルを殺し、なんとバラバラにしてナイル川に投げ込んでしまいました。それを見てアセトが泣きながらその遺体を一つずつ集めますが、どうしても男根だけ探すことができません。しかたがないのでグルグル巻きにして―これはミイラの包帯という意味ですが―つなぎ合わせます。それで復活するのですが体の一部分が欠けているので下界に下りていくことができず、アサルは冥界の王となるわけです。ギリシャではこのアサルのことをオシリス、アセトのことをイシスと呼んでいます。アセトが冥界で最後に審判を下します、こちらは死者が列を作ってその審判を待っているわけです。
そこで豚が登場してきます。悪い豚を猿が棍棒を持ってたたいています。『門の書』にはこのような場面が描かれています。セトの友達で悪の化身と言われている豚です。シリアでは以前、豚は不浄である、汚れているということで非常に嫌われていました。エジプト人の豚飼いは迫害を受けていて、嫁のもらい手や婿のゆき手がなくて豚飼い同士で結婚せざるを得ないほど迫害されていました。しかしながら豚飼いがいるということは豚を食べているということですが、なんと年に1回だけ彼らは豚を食べているのです。アセトの月の祭典で、豚はアセトを殺した悪いものとして祭壇に供えられ、焼かれて食べられます。
そのように年に1回だけ殺して食べるために飼われているのですが、豚が年に1回しか殺されないというのは逆に保護されている、と言えるのではないでしょうか。聖なる者の「聖」という字はどこかに取っておくという意味もあり、結局こうやって取っておかれて飼育された豚は聖性を帯びていきます。ですので、豚は「聖なるもの」であり「汚れたもの」であるという2つの性質を持っています。
まとめますと、このアサルがギリシャにいるとオシリスという名前になり、同時にギリシャにはディオニソスという再生を司る神様がいます。そのディオニソスはデメテルという女神とよく一緒にされています。ローマに行くと男性神のディオニソスがワインの神様のバッカスとして名前が変わります。一方、デメテルはケレスという名前になります。こういうわけで農耕と豚、死と再生、そして豊穣を司るということで3つのこの地域は非常に似ていると言えます。
次にギリシャの話をしましょう。豊穣神デメテルは、ギリシャ神話の最高神ゼウスの姉であり妻でした。デメテルは豊穣の神で、麦を作る方法を民たちに教えるきわめて温和な女神でした。しかし怒ると飢饉をもたらすという性格を持っていました。このデメテルの娘がペルセポネです。冥界に下ってしまうペルセポネのお母ちゃんということです。
ギリシャでは豊穣にまつわる非常に面白い祭があります。アテネのテスモポリア祭といい、それは女性だけの儀式です。アッティカの暦の第4の月(10月、11月)に行われており、豚を殺す儀式があります。豚の死体と小麦粉の菓子、松の枝を捧げ、冥界に下ったペルセポネを悲しむのと同時に、それが再生するよう願う式が執り行われます。
それはどのように行われていたのでしょうか。殺した豚と松の枝、菓子を聖なる洞窟と言われている場所に置きます。そして数ヵ月後「引く女」と言われる女たちがそれを密かに引き上げるのですが、建前ではそこに住む聖なる蛇がそれをさらってしまったということにしています。すっかり腐敗してしまった豚を、畑に麦の種と一緒に蒔くのですが、そのようにして蒔かれた種は、豊かに実ると約束されています。テスモポリア祭とは、再生と豊穣の祭りなのです。
さて、この祭はギリシャのある地方のエレウシスの秘儀へと発展していきます。秘儀ということなので、何カ月間は処女でいないといけないとか男子禁制などの秘密めいた儀式だったので、その内容は明らかにされていません。それを皮切りに、一種の“秘儀ブーム”が地中海世界に起こります。その秘儀ブームが、ポンペイの秘儀荘へ発展するのですね。この画像は、秘儀荘にある非常に美しいフレスコ画です。ポンペイの場合はデメテルではなく、男神ディオニソスを崇拝した祭になっています。その祭では、豚は神やニンフ(妖精)に「感謝の生け贄」として捧げられました。
ホメロスの書いた『オデュッセイア』の話はご存じでしょうか。トロイ戦争の後、オデュッセイアが故郷に戻るまでの旅路を書いているものです。故郷に戻ると絶世の美女である妻ペネロペが男たちに言い寄られているのに怒り、その男たちに復讐するという話です。
その『オデュッセイア』の中にエウマイオスという人の良い豚飼いが出ています。ある場面で、オデュッセイアと一緒に豚を食べるのです。「オデュッセイア、久しぶり。生きて会えるとは思ってなかった」と、再会を喜び、今日は僕の飼っている豚を一緒に食べよう、ということになります。当時の豚は中世まで非常にワイルドで、イノシシみたい。ひどい剛毛で、タテガミがあるものさえいました。エウマイオスは、豚の毛をきれいに焼き、切り身のお肉にして、豚の網脂でくるみ、小麦粉をはたいて暖炉の火で焼きました。オデュッセイアは、その肉の塊を7つに切り分けました。1つは旅を祈願するため、旅の神様と言われているヘルメスに。1つは今まで生き残れたということでニンフに捧げます。一番おいしいとされている背肉はオデュッセイアが食べ、残りをエウマイオスが食べました。
ちなみにエウマイオスは50匹の雌豚を12の囲いに飼っていました。一囲い50匹いてそれを12の囲いということなので600頭です。毎年子豚を1,800頭も産出していたというので、イタリアの養豚専門家アントニオ サルティーニ氏(Antonio Saltini)によると、現在の養豚の技術からみても非常に高い技術と、コメントしています。
また、デルフォイの神殿にて子豚の血で清めたオレステスの逸話も興味深い。当時は、子豚は穢れを清める威力があると信じられてきました。この若き王子オレステスは母親の陰謀で父親を殺害され、それに恨みを抱き、母親を殺めるという“実母殺しのタブー”を犯してしまいます。殺害した直後、デルフォイ神殿に行って、血で汚れた体を幼い豚を殺して清めます。この子豚による浄化は、ローマ時代にも続いていきます。
食べ物の話を聞きたいのに文化の話ばかりで、つまらないという方もいらっしゃるかもしれません。今、指し示している写真、これはパニーノですが何をサンドしているか分かりますか。中部地方の名物、豚のポルケッタです。豚の骨を除き、香草をお腹に詰めて、オーブンで一晩じっくりと丸焼きにしたものです。現在のイタリアの豚は体重が200キロぐらいあって脂肪が非常に多いのですが、ポルケッタにすると、その脂肪が肉の中に入り込み、得も言われぬミルキーな感じの豚に仕上がります。それを切ると、外はカリカリで中はしっとりしています。あちらではそれをパニーノにして、軽食代わりにします…いわゆる伝統的なファーストフードですよね。それをケレスもデメテルも気に入って、このスライドでは「ボニッシマ(とってもおいしい)!」と言っています。
イタリア語で豚をポルコと言いますが、ポルコは「o」の母音で終わっています。イタリア語には女性名詞と男性名詞があるのですが、「o」で終わっていると男性名詞です。ケッタと付く場合、こういうのはディミヌティーボ(縮小辞)といいまして、「小さい」ことを表します。ポルコにケッタを付けたら小さいということになります。でも、ポルコで終わっているので、本当は縮小辞をつけるとケット、つまりポルケットになるはずですが、ポルケッタは女性名詞の「a」で終わっています。これはやはり、かつて豚が豊穣の女神ケレスに捧げたということで、女性名詞ポルケッタに変化したとみる学者たちもいます。
そのポルケッタづくりを簡単にご紹介します。こちらは家で作りたいけれども家のオーブンはこんなに大きくないから無理ということで、ノルチネリア(豚肉加工店)やマチェレリア(肉屋)で作られています。あらかじめ屠畜場で殺された豚を、天井にかかる巨大なフックに吊り下げて、毛をバーナーで焼き切っていきます。そして腕っ節の強そうなオジサンが、全身の力を入れて、四つ足状態の豚をパカッと両面開きにします。開いた豚を、さほど大きくない刀で、骨と身をはがしていき、骨抜きを行います。片手に棒状のヤスリを携帯し、ちょっと骨を抜いてはそのヤスリで刃を研いで…という風に、奇麗に鋭利な刃物で骨だけを抜いていきます。そして香草ですね、ローズマリーと塩こしょうとニンニクをちょっと潰したものを、開いた肉の部分に沢山塗りこみ、最後は棒を通して紐で結っていきます。哀れな豚さんたちは、オーブンに入るまで、まるで口とお尻に、巨大な棒が貫通しているような状態で、スタンバイしています。業務用のオーブンに入れるか、もしくは炭火で焼くかになります。その料理の原型は、前述した語源と合わせみても分かるように、ローマ時代にさかのぼります。
ローマ時代、皇帝が大宴会を催した際、大きな豚のお腹に、肉質の違う野鳥の焼いたものを詰め込んで、ロースにしてもてなしました。華々しい宴会料理ですので、みんなが出そろったときにパッとお腹を切り分け、他の肉(鳥など)を出したりします。なかには趣向を凝らして、生きた鳥を出すこともあったようで、当時の王侯貴族がいかに来賓者を驚かせるのに必死になっていたか、というのが分かります。ポルケッタは宴会料理の主役なんですよね。
そして私の知り合いのイタリア人マイアちゃん(1歳4カ月)を紹介します。このマイアという名前は、最近イタリアで流行中の名前です。イタリア女性の名前というとマリアとかルチアとかロザンナかもしれません。マイアなんて聞き慣れない名前ですね。実は源はローマ時代、ギリシャ時代のマイアというニンフ(妖精)から来ています。ゼウスに寵愛を受けたニンフですが、そのマイアも豊穣の神であります。このマイアがマイアーレの原型になっています。イタリア語を習っていらっしゃる方は豚という言葉がポルコだけではないことをご存じだと思います。マイアーレというのも豚ということです。一般的に、食材にはマイアーレ、動物としての個体はポルコを使います。このマイアーレの語源は、彼女だったのです。
ということで、先ほどの表にマイアーレを付け加えました。ちなみにこのデメテル、ケレスなどの豊穣の女神のうちのケレスは穀物を指す言葉「チェレアーリ」の原型になっています。ケレスはイタリア語で「チェッレレ」といいますので、チェッレレ→チェリアーリ、いわゆる英語のシリアルの語源になっています。そしてマイアはマイアーレの語源なのです。

では、本格的にローマ時代の豚についてお話ししたいと思います。イタリア中部、北部を旅すると豚料理にたくさん出会います。イタリアの豚に関する諺を現地の人々に聞いてみると、かならず「Del Maiale non si butta via nulla(豚は捨てるところが何もない)」という返事が返ってきます。日本人の鯨のような感覚でしょうか。耳も鼻も脳みそも食べますし、蹄のところも食べます。あとは血もサラミにして食べます。サングイナッチョといいますが非常に美味、また後で紹介します。ですので、豚一頭を屠るとすべて食べることができます。食べられないのは、豚の鳴き声だけ、というジョークがあるくらい。
ローマ時代は子豚への意味合いが深くなっていきます。ローマ帝国はあれほどに覇権を広めましたが、最初は本当に小さい領地で、海のものとも山のものとも言えないようなラテン人の集まりでした。同盟国を増やし、繁栄に欠かせない儀式として、同盟の誓い、契約、結婚などを行いましたが、その際には、生後5日になる豚を双方の前で殺して、同盟を破ったらあなたはこのような末路を辿ると、脅迫に豚を使ったりしました。
ローマは、現在のニューヨークやロンドンに匹敵するような当時のコスモポリタンでした。こちらはローマ帝国の領土が最大であった紀元120年のことです。ヨーロッパ全域と中央アジアの一部を治めています。ローマの人口は150万人にまで膨れ、市民を飢えさせないため、食物確保は政府の命題でした。重要なタンパク源である豚の肉は魅力的でしたが、残念なことにローマ人は農耕民族で、豚飼いは自分たちとは違う職業だし、飼育場所も適していないと思っていました。なので初期のローマ人は、畑を耕してブロッコリーやキャベツなどの野菜を、毎日、山盛り食べていたのです。当時の豚は森でドングリを食べさせて飼うものだったので、その野蛮な森林に住み、豚を飼うことは、ちょっと卑しいことだとローマ人は考えていました。
そのため現在のボローニャやパルマのあるポー川流域に住むケルト人が森林で飼っている豚が、ローマの市場で非常に珍重されました。ローマへは一度アドリア海に出て、フラミニア街道を通って300kmあまりの道のりを経て、丸々と太った豚を運んでいきました。巨大な豚が運び込まれてきたトラヤヌスの市場ですが、市場の道を挟んだ反対側にコロッセオにあります。ローマに土地勘がある方はピンと来るでしょう。その市場からほどなく行くと、パニスペルナ通りがあります。この通りではパンやハムが売られていました。ローマではパンは、無償で市民に供給されていましたが、実は豚肉も供給リストに含まれていました。当時から、非常に貴重なタンパク源だったということですね。

皆さん、ちょっと疲れてきましたでしょうか。この辺でクイズをやりたいと思います。イタリア研究会さんというだけあってイタリアに詳しい方も多いでしょうが、生ハムの産地当てクイズをします。これだけだと漠然として分からないと思うので三択でいきましょう。では、パルマの生ハム、サンダニエレの生ハム、ノルチャの生ハム、のうちどれでしょう。直感でどうぞ。サンダニエレは聞き慣れない名前かもしれないですが、北部ヴェネト州ウーディネ近郊の小さな街です。生ハムの王様がパルマだとしたらサンダニエレは女王様かもしれません。こちらは蹄が付いていて楽器のバンジョー型に形成されたものです。サンダニエレを見分けるときは蹄を見てください、ちょっと平べったい形にわざと形成されています。
問題はパルマとノルチャです。ほとんど同じに見えます。肉の表面に塗ってある塩と米粉の練り物の色が違うのでしょうか。実は大きな違いがあります。それは皮に被われている面積です。生ハムというのは、ちょうどモモを切り取った部分です。この丸い骨は大腿骨です。そこの皮が触れあっているところがこちらのハムは少ないですが、こっちはもっとベロンと皮を取ってしまっています。これが違いです。パルマの生ハムは甘塩だと言われているので、肉の出ている部分が少ない方がパルマです。生ハムを作るときは塩にまぶして3日ほど漬けて置いておきますが、表面積の狭い方が、塩の吸収が少なく、甘塩になるのです。
古代ローマ当時も、生ハムのメッカと呼ばれた地域がありました。それは先ほども申し上げた、ケルト人が住むパルマ近郊です。彼らは戦争に行くときも生ハムを2個結わえて、1個は前の胸の方に、もう1個は背中の方に背負い、すごいスピードで移動していたということです。そしてノルチャは現在も生ハムが有名です。
ノルチャから50キロぐらい行ったところに私の住むスポレートがありますが、ノルチャの話をしましょう。ローマ帝国が大きくなるにつれ、ポー川流域のハムだけでは、ちょっとやっていけなくなりました。そこでローマ人たちが目を付けたのがノルチャでした。ちょっと乱暴ではありますが、ユダヤ人との戦争で捕虜が獲得できたので、捕虜たちをノルチャに住まわせてハムづくりに携わらせました。ユダヤ人は豚を食べないので絶対に豚を盗むことはありません。なかなか良くできた戦略だと思います。
ノルチャはフラミニア街道とサラリア街道の真ん中ぐらいに位置している風光明媚なところ。ここはアペニン山脈を背後に抱く盆地で、空気は乾き凛と張っていて、生ハムを作るには非常に適しています。昔はこの山間にあるサンタ・スコラスティカ平原などで豚を飼っていたそうです。飼育のみならず、ハム作りなどの加工もやっていました。今でもノルチャの旧市街には、ユダヤ人街と呼ばれる場所が残っています。
そして彼らの豚をさばく技術がやがてローマやフィレンツェにも伝わります。この街の名前を取ってノルチーノというふうに豚肉加工店、肉屋さんを呼ぶようになりました。ノルチーノを日本語に訳すと「ノルチャ人」というか「ノルチャの」という意味ですが、それが派生してお店のことをノルチネリアと言います。中部イタリアを旅すると豚の加工屋さんがノルチネリアという看板で使われているのは、まぎれもなくノルチャが由来です。
中世後期になると、ノルチャの人々は冬の間、大都市へ出稼ぎに行くようになります。秋にドングリの実で十分に太らせた豚は、バクテリアが繁殖しにくい冬に屠殺されます。そこで冬の間、大都市へ行って加工し、春にはノルチャに帰ってくるというノルチーノ特有の出稼ぎスタイルが生まれました。
ヨーロッパには守護聖人がいて、それぞれの町や国、また商業組合を守っているのですが、ノルチャの街は聖ベネディクトが守っています。聖ベネディクトは、カトリック修道会の歴史を語るうえで非常に重要な人物で、彼が作ったベネディクト修道会は、ヨーロッパ全土に影響を及ぼしました。ノルチャは、歩いて回っても2時間ばかりで足りるほどの小さい街ですが、メインストリートには、豚肉を加工したサラミを売っているノルチネリアが鈴なりで立っています。ちなみにこの写真は、ディスプレイ用の豚の膀胱です。

話をローマ時代に戻しますが、いったい古代ローマ人たちはどんなものを食べていたのでしょうか。こちらはタルクィニアというトスカーナ州に近いラツィオ州の町にあるエトルリア人のお墓です。死者たちが天国でも生活できるようにと、当時の台所を復元したところに死者たちを眠らせているのがエトルリア方式のお墓であり、死者の祭り方です。これは台所の壁画なので豚の話とはあまり関係ないのですけれども。
例えば古代ローマ料理の一つで、Porcellum Traianeoトラヤヌス風ポルチェルム(トラヤヌス風の豚)という料理があります。こちらは料理の神様と言われてるアピキウスが記したレシピです。もともとトラヤヌス帝の時代にダキア、現在のルーマニアに戦いに行っていた兵士たちが負けてしまいましたが、負けてもただでは帰らず、向こうのレシピを盗んで帰ってきました。ということで、これはルーマニア風の豚料理です。現在でもルーマニアではPasdramパスドラムという名前で作られているそうです。
トラヤヌス風ポルチェルムの作り方ですが、まず肉の塊をマリネします。オイルとガルム(ガルムは青魚の内臓を漬け込んで作る魚醤)です。オイルとガルム、ワインとネギ、コリアンダー、胡椒、セリ科のハーブ、オレガノ、セロリの種などをこの肉にすり込んで、そして紙で結んで燻製にします。それをさらに塩水で煮込みます。一応これはサラミということですが、燻製させて煮込むという非常に手の込んだ料理になっています。肝心の味ですが、食感はチャーシューのように柔らかく、複雑なスパイスの香りがします。スパイスは、これだけ複合的だとちょっとウスターソースっぽい味がしたりして、非常においしい料理でした。
一方、これはストゥファートという煮込みです。豚肉を普通に挽いて、それをオーブンで焼いて煮込むストゥファートです。こちらは洋なしとカスタードクリーム、それに黒胡椒を振ったものです。いずれもアピキウスの料理に載っているものです。
とても素敵な夜でした。この料理は何かということですが、ノルチャの隣町のカッシャというところでペルージャ大学の考古学研究室の子たちが研究費を稼ぐために行ったディナーでした。彼女らは若さ弾ける現役大学生たち。こんなに黒いのは海で日焼けしたからではなく、発掘作業をしているからと聞いて、見た目は派手で華やかそうな子たちなのに真面目だな、偉いなと思いました。学生がいて、それを仕切るのがこちらの教授です。そしてこちらマリーノ氏はそれに協力するシェフです。シェフは通常の仕事があるなかでの準備だったので、100人分の食事会のために1週間ぐらい下準備をしておりました。
ローマ時代、ローマ市内に住む市民は先ほどの料理を食堂で食べることができて、パンの配給もあり豊かな暮らしをしていました。かたや郊外の農民たちは野菜ばかりを食べていたと言われています。しかし繁栄が続いたローマ帝国ですが、やがて陰りが見え始めて、そして北方で起こった勢力がローマ帝国を破壊して打ち負かせていきます。ということで中世前期になります。

中世と一口に言っても、紀元500年から1500年までの1000年間という非常に長いスパンを指しています。中世前期といえば大体紀元10世紀ぐらいまでですね。現代を生きる私たちは、現在から振り返って歴史を中世や近代というふうに名づけ分類しますが、当時の人は全くそういう感覚はありません。たとえば313年にミラノ勅令でキリスト教が公認されてその後国教となりましたが、新教が取り入れられた後も、ローマ神話の八百万の神様はうまい具合にキリスト教の聖人たちにすり替わり、当然彼らの生活の中に生きながらえました。たとえばカレンディマッジョという祭は、春の息吹を祝う聖母マリアの祭で、5月の初旬に行われています。ご覧いただいている写真は、その祭を開催中のアッシジの様子です。こんな感じで、イタリア各地でカレンディマッジョ(五月祭)が行われています。
この祭は夏に向けてこれから農作物が育ちますようにという願いを込めたダンスをしたり、花を飾ったりします。前述したギリシャの祭―腐りきった豚と小麦の種を蒔いて―を思い出して頂きたいのですが、蒔いた麦の種が発芽するのが5月になります。当時、そのお祝いに祭りではポルケッタが食べられていたそうです。
中世はどんな時代だったのでしょうか。そのローマ帝国の覇権が消滅し、蛮族が台頭してきます。蛮族のなかでもロンゴバルディという部族が勢力を増してきます。ロンゴバルディの「ロンゴ」はロングで「バルディ」は髭なので、長い髭という意味です。ロンゴバルディ族は長身で、男性は長く立派な髭を蓄えていました。彼らは北方のドイツにいたので、どんどん南下してイタリアの勢力の弱いところを公国にしていきます。その当時は私の住んでいるスポレートもスポレート公国になっていました。大体紀元7世紀~8世紀のお話です。
ここは先ほど見ていただいたサンダニエレの生ハムが有名なところに近いチヴィダーレ・デル・フリウリというところです。ここもロンゴバルディの美しいレリーフがサンタ・マリア・イン・ヴァッレ修道院聖堂祈祷院に残っています。さて、そのロンゴバルディ族ですが、森からやってきたので、豚に関しては非常に優秀な部族でした。それまでもポー川流域は豚が盛んでしたが、ロンゴバルディ族も自分たちのノウハウを持ち、さらにポー川流域を豊かな豚の森にしていきました。結局さっきお示しした3つの生ハム当てクイズのサンダニエレはチヴィダーレの近くにあり、パルマもロンゴバルディ族が住み着き、スポレートもノルチャも同様で、それぞれロンゴバルディに縁のある街なのです。彼らの通った道は、養豚と加工の技術がますます発展していきました。

そしてこれは豚飼いの図になります。これは『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』です。この祈祷書の10月を見ていただくと、さそり座と射手座があります。こちらは11月の図です。当時の豚飼いというのは中世に入ってすごく位が上がってきました。いわゆる一目置かれて、しかもマエストロと言われるまでになっています。
ローマ帝国が終焉を迎えてから643年までに書かれた書物の中で、いくつか民事を取り扱ったものがあります。例えば法律で殺人を犯したとして、殺人者は裁かれて罰金を科せられるわけです。でも誰を殺すかによって課せられる罰金の料金は違っていました。先ほどご覧いただいたフリウリ州のチヴィダーレには、そういったことを記した古い書物が残っています。それによると農民を殺した場合は20ソルディ(ソルディというのは当時の通貨の単位)、豚飼いを殺した場合は50ソルディということで、豚飼いを殺した方が罰金は高かったのです。すなわち豚飼いの方が農民よりも身分が高いということです。豚飼いの地位の高さは、豚がそれだけ貴重だったことを示しています。
また豚は、森の面積を測る単位に使われていました。「この森は豚500頭が飼えるぐらいの大きさ」というように、ヘクタールなどのそういうのではなく、豚500匹という表現が使われていたのです。ということで森と豚は切り離せないものでした。
ちなみにあるデータによると、豚を太らせるにはドングリがもっとも有益です。ドングリを食べさせると豚肉のオレイン酸の含有量が上がり、科学的にも美味くなると証明されています。イベリコ豚などもそれで品質のカテゴリーが変わってくるぐらいです。1日平均8キログラムのドングリで1キロ豚が肥えてくれるというわけです。1キロ増やすのに8キログラムのドングリが必要です。大体それで計算をすると、3カ月で体重は90キログラム以上に増加します。そして1頭当たり25本から30本の樫の木が必要になり、そうなると目安では、1から2.5ヘクタールの土地の面積が必要になります。ですので、豚を飼うには広大な森が必要だったのです。

こちらは去年の春休みにちょっと巡った教会の一つです。トスカーナの外れにあるグロッピナ村のサン・ピエトロ教会です。8世紀の礎が残るロマネスク様式の教会ですが、教会内の柱頭に、かわいらしいレリーフがあります。雌豚が4匹の子豚に乳を与えているところです。当時の豚もイノシシに似て、たてがみがありますね。非常に単純な線で彫られていて、ちょっとにっこり微笑みを誘うというか、思わずちょっと和むようなレリーフです。ここは教会なので、豚が乳をあげている図というのは非常に珍しいです。中世後期になると、暦の中で屠殺される豚の図は多いのですが、実際に乳をあげているというのは、非常に珍しいです。イタリア人の食研究家ロッサーノ・ニストリ氏は「マドンナ・マイアーラ」(聖母の豚)というふうに言っています。彼は、そういう呼び名で言っているのですが、ただ注意しなければいけないのは、イタリア語には「神を冒とくする言葉」が非常に多く、たとえば「ポルコ・ディオ(神様、豚野郎)」と言ってしまえば、皆から非難されてしまいます。
上記の「マリア様豚」もよくない言葉ですが、ニストリ氏つけた愛称であり、正式な名前ではありません。教会建築には、聖書の話やシンボル以外に、暦にまつわることや、庶民の願いを込めたフレスコやレリーフが作られていました。だからこの母親豚と子豚のレリーフには、ある意味教会の目指すべき理想が描かれているのでは、ないでしょうか。すなわち、教会は信徒を養う場なので、母豚が乳を与えることによって子豚である信徒を養うという象徴です。あと乳には、信仰、聖性が込められているので、あえてこういうレリーフにしたのではないかと考えられます。残念ながら、こういうユニークなレリーフはほとんど現存していません。このグロッピナの街は、ローマからストリ、ボルセーナ、アレッツォ、フィレンツェと通っているカッシア街道沿いにあり、ローマ時代から中世初期まで非常に栄えていた地域でした。その後下火になってしまい、ルネッサンスや後世の文化の波が押し寄せることもなく、中世の佇まいが残っているのです。それに対して、フィレンツェは、ルネサンス文化が華麗に花開いたため、それ以前のロマネスクやゴシック美術は「古い」「流行遅れ」といった理由で、塗り込まれたり、破壊されたりしました。グロッピナの教会は、ほとんど中世以降人通りがなくなってしまった街ので、奇跡的にこういう素朴なものが生き残ったのですね。
教会で見られるレリーフの多くは、こういった感じのものです。これはオクトーバーと書いているので10月の農民の風景です。ドングリをはたき落として豚たちに食べさせています。これでどんどん太れよ、ということです。こちらは11月で、豚を屠殺する時期です。豚の屠殺は冬と決まっています。それは豚に寄生するバクテリアから豚肉を守るためです。気温が低くなると雑菌が繁殖しにくくなるので、豚の屠殺は11月終わりから2月いっぱいまでと現在もされています。このレリーフが見られるのはヴェローナのサンゼノ教会です。
そして中世も豚の解体が盛んです。もはやロンゴバルディの勢力で養豚の技術も広まっていったので、中世の初期は農民もかなり貧しかったようですが、中期以降はどんどん豊かになって農村も栄えていき、こういった屠殺の風景が見られるようになりました。相変わらず豚は黒く、私たちの知るピンク色の豚とは違います。殺して血を出していますが、この血も血のサラミとして使うのでしょう。
現在もこのようにして豚を殺してサラミに加工する文化があります。こちらは私の行っていたイタルクックという料理学校の校外です。地元の人たちが集まって、解体作業を行います。これはちなみに豚の膀胱を膨らましているところです。こんな感じで豚は鉄砲で一撃され、そして先ほどのようにつり下げられ、お尻から小型の斧で背骨を切っていってこのように真っ二つに切られていきます。これが正しい解体の仕方です。内蔵は水分を取りだして洗って食べたりサラミに混ぜたりします。そして解体された肉は3日ぐらい冷所に馴染ませ、それから親戚一同が集められて、今日は加工するから来てよ、ということで加工が始まります。
豚の腸をサルシッチャ(腸詰)にしている場面です。この女性は腸に穴がないか確認しています。挽いた肉に角切りにしたラードを入れ、そして胡椒を入れてこちらの機械にかけていきます。この機械は昔ながらの手回しですが、腸詰めを装着して送っていくとどんどん肉が詰まっていくわけです。新鮮なお肉なのでちょっと食べさせてくれませんか、とお願いして頂いたのですが、すごく甘みがあって美味!卵黄を上にのせて、ユッケのようにして食べたのですが、新鮮で健康な豚肉がこんなに美味しいのかと、感激しました。
そして暖炉が活躍します。これは豚の大腸でチャリンボリと呼びます。マルケの地方では腸を暖炉で乾かして食べてしまいます。暖炉は、サラミや乾燥用のサルシッチャを干して若干燻すことで、保存に一役買っています。中世はすごく貧しい時代だった、と言われていますが、実はそうでもないのではないかと思います。
農村がだんだん発展していく過渡期で、豚を飼いさえすればドングリの林は無料だし、勝手に太ってくれるし、あまり元手もいらずに、美味しい肉がたまに食べられた。そんなに貧しくなかったのではないでしょうか。まずい塩漬け肉ばかり食べていたとか、香辛料の普及が望まれた、とも聞きますが、実際に豚の解体とかサラミ作りを見ると香辛料といっても、せいぜい胡椒くらいですし、よしんば使わなくても塩さえあれば保存ができます。しかも冷所で熟成させていくと、優良なバクテリアのおかげで薫り高いハムやサラミに仕上がるのです。塩漬けは不味いでしょうが、どうも上記の言い草は、後付けで現代人が言い出したことなのではないか、と勘ぐってしまいます。現代人は今のグルメが一番と自負しているでしょうが、当時だって人々グルメには関心があり、それなりに美味しく食べたはずです。
香辛料を使えるのは上流階級のみでした。ただし上流階級層(王族や貴族、商人)は肉をフレッシュで食べることにこだわっていました。フレッシュミートとは、狩の獲物や豚の肉など。中世も後期になると子牛なども喜ばれました。屠殺したらすぐに食べると決められており、その財力に任せて香辛料を、料理の最後に振りかけて香りを楽しんだり、サフランで色を楽しんだりしていました。しかし、肉の保存でそもそも香辛料を必要としていたのは農民たちでした。ただ彼らも、知恵を駆使して美味しく頂いていたのです。繰り返しになりますが、香辛料神話というのはちょっと違うのではないかなーと思っています。ちなみにそれについては歴史学者のマッシモ・モンタナーリ氏も著書で述べています。
そして中世後期の豚です。こちらはシエナのパラッツォ・コムナーレ内部で、アンブロージョ・ロレンツェッティが描いた善政の間というタイトルのフレスコ画です。大広間に善政によってもたらされる世界、その向かいに悪政によってもたらされる世界が描かれております。良い政治は、良い生活にする、ということを示したフレスコ画。その作品のなかですが、城壁の外部には腹に白い帯の模様がある豚=チンタセネーゼをつれています。セネーゼというのは「シエナの」という意味なので、「シエナの豚」という名です。
一方、城壁の内部を見ると、サラミを売る街の女がいて、とても活気づいています。市場も中世後期になると、ますます栄えていきます。市民の文化が花開き、地方都市が非常に力を持ってきて、そして商人たちがギルドを作ったりして市民たちが自立してきた時代です。
ちなみにさきほど紹介したロレンツェッティの絵は、新潮社さんの『イタリア古寺巡礼』フィレンツェ→アッシジの本のなかに、ロレンツェッティの絵と母豚のマドンナ・マイアーラの写真が載っています。レシピのページは私が担当しました。一方、『イタリア古寺巡礼』ミラノ→ヴェネツィアには、チヴィダーレのルンゴバルディのレリーフが載っています。著書は金沢百枝先生と小澤実先生で、非常に分かりやすい表現と写真が満載なのでお勧めです。
そろそろ時間がなくなってきました。豚の調理についてはざっと流したいと思います。当時から去勢豚がもてはやされていました。幼い頃に去勢術を施された豚は肉も軟らかく臭さがないというのでもてはやされました。とあるフィレンツェ貴族の夕食会の内容をご紹介させていただきます。サルシッチャの油を落として焼いたパン、生ハムのパイ、肩ロースのソースがけ、子豚とパンを交互に刺したもの、豚の喉肉を添えたパン、ギオッタソース、生ハムが乗ったパイ、あとは頭の肉や耳とか鼻を煮てゼリー寄せにしたものがあり、夕食会にも非常に豚がもてはやされています。
しかしこれからだんだん中世後期になっていくと、豚は農民のものになっていきます。王侯貴族たちは、「農民は豚を食べたらいい、私たちは野鳥を食べたい」とか「子牛がいい」とかドンドン食の嗜好が変わってきます。貴族たちは周りの人と違うものを食べることによって特権階級を誇示するのです。自然界と人間界を同義と見なし、例えば野鳥などの鳥を食べることは、高いところを飛ぶ鳥を食べる人は階級も高い…などというヒエラルキーを食の世界にも当てはめて、食材のチョイスをするようになっていきました。イタリアには、他のヨーロッパ諸国には見られない“子牛ブーム”がありました。これはイタリアの貴族にのみ見られた文化のようです。
豚は食肉用に、人間によってイノシシから家畜化された動物です。そういう肉は、貴族の目から見ると、魅力がなく、卑しく感じたのでしょうね。豚は農民のモノ…と貴族の価値観は変わっていきました。
これは16世紀の紋章ですが、シエナの近くでブルネッロというワインが有名なモンタルチーノのコムーネの広場にかかっているもので、パリジーノ家の紋章だそうです。先ほどの地元のチンタセネーゼの紋章です。
あとこれはシエナの銀行に私が行ったときにポスターが貼っていて、色んなシンボルがあったのですが、その中に豚らしきものがあったので、それを写真に撮りました。ひょっとすると、シエナなどのトスカーナの一部の地方でチンタセネーゼが有名なところは、豚も珍重され続けていたのではないかと思います。
そして聖アントニオの話です。豚を語るとき、この聖人をはずすことはできません。1月17日は聖アントニオが殉死した日で記念日になっています。聖人の生涯ですが、は紀元200年から356年まで生き105歳で長寿を全うしました。彼の亡くなった1月17日は、イタリア各地でお祝いします。このスライドを見て分かるように、牛や馬や豚が描かれています。彼は家畜の守護聖人なので、飼い主たちは、自分のペットを教会まで連れていきます。この羊飼いたちは司祭に水をかけて祝福してもらうために羊たちを持って教会前に集っていますね。聖アントニオはエジプト生まれで、こういう風に髭を生やした老人として描かれています。T字の杖を持ち、傍らに豚をいつも連れているというのがシンボルになっています。
彼は隠遁者の先駆けとされていて、荒野でいくつもの試練に遭いました。隠れて生活をして神と対話をするという生活を好みましたが、それを半分裸の女性や悪魔の誘惑を受けます。この図は悪魔たちが信仰など捨ててしまえと誘惑していますね。聖アントニオは誘惑を受け、それを克服した聖人として知られています。おじいさんなのに髪の毛を引っ張られていてかわいそうです。
それでは、なぜ聖アントニオは豚や動物の守護聖人になったのでしょう。それには一つの出来事があります。彼が亡くなった後世、12世紀に麦角病という病気が流行ります。麦が突然変異でこんなふうに悪くなってしまい、麦角アルカロイドという悪性の物質ができてしまうのです。アルコールなどもアルカロイドの一種でして、植物由来のものですが、非常に強力で、直接的に体を攻撃します。それが発疹だとか、ひどい場合には体の末端に溜まって壊死が起こります。循環器系に作用すると壊死になり、神経系に作用すると焼き付くような痛みを感じるようになるのです。この焼けるような痛みのことを当時の人はサンタントニオの火と呼ぶようになりました。では、なぜか?
ちょうどこの病が流行ったとき、フランスの聖アントニオス修道院では、修道士たちが罹患者を介抱しました。ここの修道士たちは豚を飼っていましたが、縄もつけずに連れて歩いていました。病人には、その豚を屠って食べさせ、病気に対する抵抗力を付けさせました。また、すでに壊死を起こしている人たちの手術を行い、その部分を切り取って豚の膀胱で包んだり、もしくは焼きごてで切断した部分の血止めをした後、ぐらぐら煮えたぎった豚の脂を塗って化膿止めにしていました。
それらの活動により、人々はアントニオス修道士たちを慕うようになります。パリではシャルル5世の命で、修道士たちは豚を連れてもよいという許可を得たため、縄もせずに街中を連れて歩き、喜捨をお願いしました。人々も修道士が連れている豚を見て喜んで施しをしたのです。豚が糞をしたらなおさら人々は喜びました…糞で喜ぶなんて! 運が付くというのは日本だけだと思いましたが、あちらでもそうなのでしょうかねぇ。
「ニーノ」というかわいらしい愛称の説明をしましょう。私の友人は、屠殺用の豚を飼っており、毎年、毎年、豚が代わってもニーノと呼び続けているので、なぜかと聞いてみました。なんと、聖アントニオの愛称だったのです。アントニオ→トニーノ→ニーノというように変わったわけ。何々ちゃん、という感覚でしょうか。まるで犬をポチと呼ぶように言われている、というので、最初にあげたテーマの「ポチ」のオチがここでつくわけです。この後、友人宅のニーノ君は、残念ながらこのように加工されてしまい、美味しくいただきました。

もう時間がありません。では5分だけオーバーさせていただいて、簡単にサラミ旅行ということでご紹介させていただきます。私は食紀行のアテンドやコーディネートもしているのですが、山梨でハム工房を営むハム日和さんと一緒に、去年、サラミをテーマに中北部イタリアを縦断しました。ローマやトスカーナやエミリア=ロマーニャ、最後はサンダニエレと美味しいところばかりを回りました。
まずはローマの下町テスタッチョ広場です。彼は、現在もここで活躍しているノルチーノです。彼のおじいさんはノルチャ出身。おじいさんの代までは、ノルチャから出稼ぎでローマに出ていたのでしょうね。それが現在はローマに定住しています。そんなノルチーノたちがここ2世代くらいでとても増えているような、気がしました。彼らが信仰のよりどころにしているSantissima Madonna della Querciaサンティッシマ・マドンナ・デッラ・クエルチャ教会は、ノルチーノたちが通う教会です。13世紀末に建設が始まりました。
次の写真ですが、この店は、何でもサラミが揃うボルペッティというノルチネリアです。テスタッチョ地区にあります。
こちらはカンポ・ディ・フィオリにあるノルチネリアです。豚の皮や軟骨、顔面の肉をゼリーで集めて固めたCoppaコッパ。一方、こちらはSfrizzoliスフリッツォリ(Ciccoliチッチョリ)という、エミリア=ロマーニャ特産のものです。いわゆる油かすですねぇ。この店、地方のものも豊富に揃うのです。大都市に行けば、全国のあらゆるものが揃うという現象ですね。地方じゃ、そうはいきませんが。こちらは私の家の近くでマルケ州とウンブリア州の一部で作られているチャウスコロというソフトサラミです。このサラミはイタリアに来た友達がびっくりしたのですが、口溶けがなめらかで、パンに塗れるくらいに柔らかい。これだけ白いということは、脂肪がふんだんに練り込んでいて、カロリー的にも非常に危険ですが、パンに乗せて食べると口の中でとろけて、非常に美味です。チャウスコロは中はソフトですが、それでも2カ月ぐらい熟成させます。2ヶ月ももつ秘密はやはり燻製です。暖炉などの煙でいぶすことで、保存作用があるのですね。このように半分火の消えかけた暖炉で燻製しています。
これはさっきの聖母の豚があるグッピナの近くで、座布団みたいに大きいパンチェッタを作っています。タレーゼという名前のパンチェッタで、地名はヴァルダルノです。ヴァルは谷、アルノは川、アルノ川の谷という地名です。ここのパンチェッタは本当に巨大でした。少し辛くて、豚の野性味あふれる力強い味がしました。私たちはハムを見学させてくださいと、言っただけですが、地元のキャンティでワインまでご馳走になってしまい、飲みなさいという感じで非常にアットホームなところでした。これがお店の外見です。店主の友達たちや近所のオバサンが次々とやってきました。この男性は狩った鹿を持ち込み、加工してくれないかという依頼をしていましたし、普通の近所の人たちが井戸端会議をしに来たりしていました。地元で愛されているマチェレリア(肉屋)です。
そしてこれがチンタセネーゼです。白い帯のあり、そんなに大きく成長しません。野性の豚に近く、肉の味は非常に濃厚です。それ以外にも数種類あり、いわゆるメード・イン・イタリアで、どこの品種とも掛け合わせてない純粋な豚が7~8種類イタリアにはいます。その純粋な品種の代表格がチンタセネーゼなのです。
こちらの山脈の写真ですが、雪ではありません石切場です。カッラーラという場所でトスカーナとリグーリア州の境にある有名な大理石の山です。ローマのバチカン市国にある大理石もみんなこちらから切り出されてきましたし、ミケランジェロも好んで使ったと言われるカッラーラの大理石です。ここはカッラーラから上に行った寒村コロンナータ村ですが、昔からラードを大理石で漬け込み熟成させて、食べていました。石切場の生活は肉体労働で大変なので、昔はカロリー補給のためにラードを食べていたのです。こんな風に石の箱の中に塩、胡椒、ローズマリーやオレガノなどのブレンドしたハーブに漬け込んでいって、3~4カ月したら食べ頃になります。先ほどのように細くスライスしてアンティパストとして食べています。料理のベースに使っても美味しいです。
こちらはマレガートという名前のサングイナッチョ、血のサラミです。血のサラミはイタリア各地にあって、わりにどこでも作られています。中に干しぶどうを入れたり松の実を入れたりして若干甘くしているところがほとんどです。
そして食の街ボローニャです。こちらはご存じのモルタデッラです。こちらはロゼッタという種類のサラミになります。この店が非常に面白く、なんと、持ち込みができる、お酒のみを売っているオステリアなのでした。逆に言うと、食べ物は売っていません。市場のノルチネリアで、サラミをスライスしてもらい、パン屋さんでパンを買って、ここに持ち込みました。こういう種類のオステリアは1960年代ぐらいまでは、イタリアのあらゆる街で見られていたそうです。いわゆるお酒だけを売るという所。今はほとんどなくなってしまいましたがボローニャにはまだあります。すっかりここが気に入った私は、ボローニャに行くたびにここのオステリアに行っています。場末の感じが、とても面白かったですよ。
そして生ハムのパルマ。
こちらはクラテッロです。クラテッロは、ジベッロ村やコロルノ村などパルマから北西へ10~30キロほど行ったポー川流域の霧の多いところで作られているハムです。湿気が多いと重量が13-15kgもある生ハム1本の熟成は不可能です。というのも、あれほど大きな塊を、多湿なところで熟成させると、途中でカビが生えてきてしまうからです。だからサイズを小さくし、生ハムの一番美味しい部分だけを切り取って熟成します。クラテッロの「culo」はお尻という意味で、お尻野郎…って感じかしら。非常に美味で、一時期作り手が減ってしまったことから、珍味としてもてはやされていました。この部屋でクラテッロが熟成していますが、床の下は川が通っているので、ここは湿気だらけです。いいカビだけを繁殖させて、熟成をカビたちに担わせているんですね。
こちらはサンダニエレのハムになります。
最後にご紹介するのは、今回のルートとは関係のないシチリアです。シチリア島でも先ほどのチンタセネーゼのような野生に近い豚がいます。山の方に行くと豚たちが寒いので、それを保護するような豚のための家があったりします。これが肉屋のご主人です。
豚は山を2つ使って飼っており、彼が加工もしています。黒かった豚は毛を除いたら黒くはありません。ここのお肉は普通に焼いて食べても美味しくて、脂肪のところが炭火でカリッと香ばしく、ジューシーでうまみたっぷりです。適度に歯ごたえがあり、噛んでも初めから飲み込む前まで美味しさが持続します。脂肪が非常に良質だと感じました。サラミにしても美味しいです。そのネブロディの豚で作った生ハムはこれです。豚が非常に小さくて足首もこんなに細いということが言いたい写真です。脂肪がすごく多いため今の効率から言うと非常に効率が悪い豚ですが味は驚くほど美味しいんです。これは近くのおじさんがたまたま世間話をしに来たので、その人と写真を撮ったものです。
ということで非常に駆け足でしたが、イタリアの豚と文化ということでお話をさせていただきました。お話はこれで終了です。ご静聴いただきましてありがとうございました。

【橋都】 粉川さん、どうもありがとうございました。歴史から実際のサラミづくりまで、広範に豚についてのお話をしていただきました。ご質問のある方があると思いますのでお受けしたいと思います。質問をされる方は最初にご自分の名前を言っていただけるとありがたいと思います。ちょっと電気を点けてください。どなたかご質問はございますか。はい、どうぞ。

【佐藤】 佐藤と申します。今回は大変面白いお話と、そして美味しそうな写真をいっぱい見せていただきましておなかが空いてまいりました。2点お伺いしたいと思います。
一つはドングリを食べさせて太らせるという伝統的な飼い方についてです。今でもイベリコ豚など、ポルトガルあたりでもそれを売り物にしているようですが、イタリアではドングリを食べさせて太らせたものだという売り方をしている豚はあるのでしょうか。
それと2番目ですが、ハムやサラミなど加工して食べる豚はすごくバリエーションが豊富だと思いますが、フレッシュなお肉として豚を料理に使うことはそれほどバリエーションがないように思われるのですが、そのあたりをご存じでしたらお聞かせください。

【粉川】 まず一点目の質問ですが、イベリコ豚はドングリを食べさせているものとそうではないものをきちんとブランド化して表示しています。それを表示しなければ違反になってしまいます。残念ながらイタリアではそういう表示はありません。ただ、白い帯の豚のチンタセネーゼや黒豚のネブロディなどは樫の木が茂る山で飼っているので、自然とドングリを食べています。作り手でもこだわっている人は、ドングリが美味しい肉になるということをちゃんと認識しています。ただ規定としてはないので、精肉屋さんに行ってこれはどうなのかと聞いても誰も答えることができない状況です。
ハム、サラミ以外のフレッシュなお肉の調理法ですが、佐藤さんのおっしゃる通り意外とありません。冬場などはお友達と一緒に暖炉を囲んでワインを飲んで食べたり、ということを頻繁にするのですが、その中で一番のご馳走は肉を炭火で焼くことです。あえて家庭料理に目を向けると、アリスタという背中の脂肪が若干少ない部分をミルクで煮たものがあります。紅茶豚というのが日本でもありますが、その紅茶で煮込むもののミルクバージョンです。あとは香草と一緒にグツグツと煮たストゥファートというシチュー、あとはハンバーグ状のポルペッタなどです。若干凝った料理として、塊肉にパンチェッタを巻いてそれをローストにします。幾つか出てきましたが、サラミの種類に比べたら多彩ではありません。

【橋都】 他にいかがでしょうか。それでは僕から一つ質問します。ローマ時代の伝統からノルチャにユダヤ人を連れてきて豚肉の加工をされたということですが、今も伝統的に豚飼いあるいは豚の加工業者にはユダヤ人が多いとか、そういうことはあるのでしょうか。

【粉川】 今、ノルチャの人口は3,000人ぐらいですが、人種としてはほとんど薄まってきてしまった感じです。ただ、街の伝統としては豚肉を加工する技術は今も残っていて、今でもローマなどに出稼ぎに行っています。飼育するということは廃れてしまっているので、彼らはよそから買った肉を加工している状態です。

【橋都】 他にいかがでしょうか。はい。

【辻】 辻康介といいます。ものすごく面白い話でした。豚の肉は全部使うということですが、骨は何かに使いますか。

【粉川】 いい質問です。骨は豚骨のスープにするとか、私もこれを発表する前に考えたのですが、骨付き肉を煮込むということはあります。例えばあばら骨はコストレッレといいますが、それをぶつ切りにして煮込むと骨から良い出汁がでます、例えばこの辺の骨をスープだけに使うかというと、圧倒的に去勢をした鳥や牛の方がスープとしては珍鳥されているので、ほとんどないと思います。

【橋都】 他にいかがでしょうか。はい、どうぞ。

【小西】 すみません、小西と申します。大変面白い話でした。ちょっと一つ質問をしたいのですが、今から20数年前、私がイタリアにいたときですが、日本ではなかなか生ハムは作れなかったようです。技術書を読んだだけでは失敗ばかりしていたようです。その一つの原因が、イタリアではわりあい自然環境の中で野ブタというか、放牧みたいな感じで健康的に豚を育てていますが、日本は配合飼料で急に大きくしてやっているので生ハムはできないという話をその当時は聞いていました。それはやはりそういうことなのかなというのが一つ。
もう一つは、イタリアでハムやベーコンやサラミというのはどちらかというと生の方が好まれていて、どこを見ていても生の方が多くて、日本は火の入ったハムやソーセージですが、その辺はイタリア人の嗜好から言うとどっちが好きなのか、この2点を教えていただければと。

【粉川】 分かりました。豚の肉質ですが、去年日本で生ハムを日本でやりたいというハム日和さんと一緒に巡ったのですが、加工しているイタリア人たちに実際インタビューをしたら、イタリアで加工する肉は200キロぐらいのものがいいと言っていました。でもハム日和さんは、日本ではせいぜい120キロで、それ以上肥やしたら肉がまずくなると言っていました。私も飼料かどうかは分かりませんが、種かもしれないですけれども、太らせたらまずくなってしまう日本の肉には問題があるのではないかと思いました。
2点目ですが、一応カテゴリーというか実際にもですが、プロシュートコットとか加工の工程で火を入れたものもありますが、全体の割合から言うとコットではない火を通してない方が多いですし、イタリア人は好きだと思います。

【橋都】 はい、どうぞ。

【一色】 一色と申します。ありがとうございました。ポルケッタの丸焼きの写真が衝撃的でした。私もトスカーナにいたのですごく親しみがあるのですが、トスカーナとかウンブリアではメルカートなどでも見かけますが、南や北に行ったときはあまり出合わなかったような気がするのですが、それはたまたまだったのでしょうか。やっぱり地域性があるものなのでしょうか。

【粉川】 はい。一色さんのおっしゃる通り地域性がもろに出ていると思います。ローマで発祥して、中部イタリア、トスカーナ、ウンブリア、マルケぐらいまではポルケッタは非常に作られていますが、やっぱりそれ以外は文化がないのではないでしょうか。そういう習慣がなければ、あれは釜も大きいし、あんな技術も1日では身に付かないというので、私も南や北に行って見たことはないのでおっしゃった通りだと思います。

【橋都】 いかがでしょうか、他にご質問はございますでしょうか。よろしいでしょうか。それでは豚の歴史から食べ方、加工食品まで大変面白いお話をありがとうございました。もう一度拍手をお願いしたいと思います。(拍手)