第384回 イタリア研究会 2012-06-25
ギリシャ、イタリア、フクシマ
報告者:毎日新聞前ローマ支局長 藤原 章生
・日時:2012年6月25日月曜日19:00-21:00
・場所:東京文化会館
・講師:藤原 章生 毎日新聞(夕刊編集部:特集ワイド面)
1961年福島県いわき市生まれ。北海道大学工学部卒後、住友金属鉱山を経て、89年、毎日新聞記者。長野支局、ヨハネスブルグ、メキシコ市、ローマ特派員を経て現在は夕刊編集部記者。2005年、『絵はがきにされた少年」で開高健賞を受賞。主著に「ガルシア=マルケスに葬られた女」「翻弄者」「ギリシャ危機の真実」
・演題:ギリシャ、イタリア、フクシマ
【橋都】 皆さん、こんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は、第384回のイタリア研究会にようこそおいでくださいました。今日は、ついせんだってローマから戻られたばかりの毎日新聞社前ローマ支局長の藤原章生さんにお話をお願いしております。演題名は『ギリシャ・イタリア・フクシマ』ということで、現在問題になっておりますギリシャ、そしてそれがどうイタリアと関連するのか。またフクシマというのはどういう意味なのか、そういったことをお話していただきたい、そういうふうに思います。
それでは藤原さんのご略歴をご紹介したいと思います。藤原さんは1961年に福島県いわき市でお生まれになりまして、北海道大学の工学部を卒業した後に、住友金属鉱山に入社されましたが、1989年から毎日新聞の記者となられ、長野支局、ヨハネスブルグ、メキシコ市、ローマ支局長をへて、現在は夕刊編集部の記者をされております。2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健賞を受賞され、その他に『ガルシア=マルケスに葬られた女』『翻弄者』『ギリシャ危機の真実』といった著書もある、大変広い知識と興味をお持ちの方です。今日は、『ギリシャ・イタリア・フクシマ』という演題でどういうお話をお伺いできるか楽しみにしております。私ごとになりますが、実は藤原さんは私の同業者で、私の若い友人である小児外科医の先生がいるのですが、その中学、高校でしたか。
【藤原】 中学です。
【橋都】 中学の同級生で、私もその同業の先生からご紹介していただいたという経緯がございます。それでは藤原さんよろしくお願いいたします。
【藤原】 よろしくお願いします。(拍手) 皆さま、初めまして。聞こえますか。藤原章生と申します。今、大体紹介していただいたのですが、このイタリア研究会、メーリングリストには入れていただいて、ローマにいたとき、その内容をいろいろ拝見していたのですが、実際こうやって皆さんとお目にかかるのは初めてなので、どうぞよろしくお願いします。私は、実際イタリア研究をやっておりませんので、イタリア全般に関する知識はあまりありません。特に美術などは好きですがきちっと研究したことはありませんので、あくまでもアカデミズムというよりはジャーナリズムの世界にいただけですので、ザクッとした話になってしまいますが、1時間できるだけ分かりやすく話したいと思います。
まずは自己紹介も兼ねて。私が今やっている仕事というのは新聞記者なのですが、新聞だけではなくて、雑誌、月刊誌、週刊誌などにも時々書きますし、今は本も書いております。今回のタイトルの『ギリシャ・イタリア・フクシマ』というのは、私が付けたタイトルではなく、本を書くように依頼してくれた編集者の人が、いろいろ僕の話を聞いてそういうタイトルにしたんしたのです。最終的に本になるときには、多分タイトルは変わります。彼が今現在付けているタイトルは『資本主義の向こう側』なんてというタイトルになっております。『資本主義の向こう側——ギリシャ・イタリア 周回遅れのトップランナー』なんてというタイトルになっております。本当は大学の先生なんかの場合ですと、ちゃんと起承転結があって最終的にきちっとした結論みたいなものがあって、皆さんにお話をするという形になるのんですけれども。、まだ起・承・転くらいまではいいですけれども、結ができていない時点でしゃべっているという状態なので、どういう話になるか自分でも考えながらしゃべっていくということになりますので、。皆さん自身も考えていただいて、私に後で「実はこういう結論のほうがいいのではないですか」と言っていただくと、それは参考になりますのでよろしくお願いします。
僕は4月生まれなので、1989年、28歳になったときに新聞記者になりました。それまでは3年間、エンジニアをやっていたんいたのです。全く新聞の世界に入る気などなかったんなかったのですが、新聞記者になる前年の1988年5月に突然思い立って、ぎりぎりまでエンジニアの仕事をしてから始めました。23年間原稿を書く仕事をずっとやってきたんきたのですね。原稿を書く仕事というのはどういうことなのかと自分なりの自己分析をしてきました。実は自己分析とか自己評価というのは、昔の人も今の人も一番難しいことだと思うのんですけれども、常に頭の中に3つ4つぼんやりした感じであるんあるのですね。なんで3つ4つあるかというと、例えば今週の場合ですと、今週4本書かなくてはいけなくて、そのうちの1本が400字詰め25~26枚書かなくてはならないというのが、ドーンという感じでここにあるんあるのですね。これとは全然関係ない湯川秀樹先生の話なんです。それとは別にあさってまでに書かなくてはいけないのが、『ぼろぼろになるまで読んだ本』というタイトルの新聞記事です。読売新聞の主筆の渡辺恒雄さんにインタビューして、それと関川夏央さんという作家の方がいるんいるのですが、その人にもインタビューして、紙の本と電子本の頭に残る感じがどう違うのかみたいなことを二人の言葉を元に分析していくものです。そうするとその二人の言葉がその辺にあって、いつもぶつかっていて、そこに僕自身の言葉が入ってきて、三人がうわーっとやっているのが歩きながらもいつもあるような状態です。それ以外にも2つ別のテーマがあって、その4つがこういう状態になっていて、最終的な締め切りが近づいてきて、そうなってくるとそれがもっとすごい勢いで回転し始めて、どっちみち、あと1時間しかないみたいな感じでざっと終わりというような状態が続いていると。今日もこの講演の前に本を基にした資料などを用意したのんですけれど、きちっとした話になるかどうかというのも、それも結構しゃべっている中で、きちっとした1章2章3章というふうにいく場合は問題ないのんですけれども。、しゃべっているうちにそこから脇道にずれて、ディテールのほうに入っていっちゃっていってしまって、そのディテールから戻れないままに終わってしまうなどということもあるかもしれませんので、その辺はご容赦いただければ。
先ほど、関川夏央さんという作家の名前を言いましたけれども、別の作家と話していたときに、70年代から現在にかけて、どんなふうに本の読み方が変わってきたかというような話になってきて、そのときにその人が言っていたのですけれど、60年代くらいまでは、皆さん全集なんかを家にそろえていて、愛書家という人が結構多かったのです。それが実際に家で読まなくても全30巻くらい置いていて、そのうち3巻くらいしか読まないのでしょうけど、それを時々取り出したりして。昔は三笠書房なんていうところのセールスマンがやってきて、―家にもあったのですけど―全30巻を売るのです。そして最終的に全部そろえると本棚をくれる。そういう時代がありました。
その後70年代になりますと―これは僕が中学くらいのころですけれども―1974年というのは、一番文庫点数が多いのですね。あらゆる文庫、エンタティメントもどんどん入りましたし、教養の岩波文庫などその辺のものが入って、一番点数の多いときで、角川書店が「読む前に観るか、観る前に読むか」などというキャッチフレーズで、映画とタイアップして「人間の証明」とか「野生の証明」とか大体がっかりする内容でした。そのころから、読まない人も買うようになった。70年代、80年代というのは経済がピークというわけではないのですが、経済が伸びましたので、読まないで置いておく感じの人がかなり多かったのですね。買ってもちょっとしか読まない。90年代になりますとどうなるかというと、経済が落ちだしますので、読む人しか買わなくなっていくと。では2000年代はどうなっていくかというと、読む人も買わない。10年代、現在はどうなっているかというと、買う人が押し売りするしかないみたいな状況になりましたので。そういうわけではないのですが、皆さん、終わった後ご興味のある方は、私の本で、ギリシャの話の新書タイプの本と、先ほどご紹介いただいた開高健賞を取った、文庫になっている「絵はがきにされた少年」というものがありますので、もしよろしければ買っていただければということで持ってまいりました。
それでは本題に入ります。今からちょうど5か月前、今年の1月24日の深夜、私はローマにいました。イタリア人の記者から、テオ・アンゲロプロスという人が死んだという電話を受け取りました。「お前、この間話したときに彼のことを書いたって言っていたよな。だから一応連絡しようと思って」と。私は次の日から出張だったので、早めに11時半くらいに寝ていたのですが、12時過ぎくらいに電話をもらいました。いずれにしてもすぐにコンピューターを開きました。AP通信などが流れているので、それを見ますと、次のようなニュースが流れていました。「幾多の受賞歴のあるギリシャの映画監督―フィルム映画ですね―テオ・アンゲロプロスが、火曜日、交通事故で死亡した。アテネ近郊ピレウス港の映画のセット近くで道路を横断中、オートバイにはねられた。」
皆さんの中でテオ・アンゲロプロスのことをご存じの方、ちょっと手を挙げていただけますでしょうか。テオ・アンゲロプロスというのはギリシャを代表する映画監督で、私が大学生の1980年ごろですが、日本で「旅芸人の記録」という映画を作りました。作ったのは70年代ですけれども日本に来たのは80年代。79年でしたかね。僕がいたのは札幌ですから、札幌でロードショウ公開されたのが80年の冬でした。日本人は割と彼の映画が好きで、例えば「こうのとり、たちずさんで」とか「永遠と一日」など。2年か3年に1本の割合で作ってきた人なのです。彼が交通事故で死んだ、と。そのときはびっくりしたのですけど、実はそのちょうど7か月前、去年の6月24日―全く同じ24日だったのですけど―の夜に僕は彼にインタビューをしているのです。そういうこともありました。
そしてよく調べてみると、彼がそのとき作った映画についてはインタビューを受けているのですけど、政治や社会についてジャーナリストにインタビューを受けたのは、それが最後だったので、彼が最後に語った言葉というものに、僕は何か引っかかるものがありました。実はそれよりも1年前にあたる去年の6月、インタビューした後から彼について少しずつ書き始めていたのです。そして亡くなったと。彼の言葉というのは、一篇の詩のような感じです。映画もどちらかといいますとポエティックといいますか、詩のような感じの映像が多いのですが、言葉自体も、予言なのかあるいは詩なのか、あまり具体的に、このようなプロセスでこうなっていくというような語り方をせずに、私に語ってくれたことがあったのですね。それを基にして、彼の言葉の背景には何があったのだろうかというようなことを探るようになったのです。ここで2011年6月24日、アテネの彼の事務所でインタビューしたときの彼の言葉を朗読させていただきます。私はイタリア語で質問して、彼は最初英語あるいはイタリア語でしゃべろうとしていたのですが、聞き取ることはできるのですが、答えるときはイタリア語では答えられなくて、英語に変わったりして、最終的にはギリシャ語で答えて、通訳がそれを英語に直しました。そのテープを全部起こしたのが次のような内容です。
「私はギリシャで幾つかの戦争―これは私の注意書きですが、第二次大戦と戦後の内戦、それと独裁時代の抗争ですね―を経験したが、今は最悪の時代である。将来を見通せず未来というものがない。人々は昨日、今日を語るが、そこには歴史的な視点がない。軍事政権下でも―これは67年から74年です―その物語が終わり、より良い時代が来るのを知っていた。でも今はそれがない。私たちはただ落ちていくだけだ。問題は経済ではない、政治だ。人々に未来を指し示す政治が、ギリシャに限らず世界中どこにもない。行き先を示す政治があれば、ファイナンス―財政とか金融問題ですね―など解決できるが、政治家たちも学者も広場に集まる人々も、自分たちがどこに向かっているのかを知らない。ただ待合室に固まり、チェスの駒を動かしながら扉が開くのを待っている。票を求める政治家と見返りのばらまきを求める有権者。この国は長い時間、約30年をかけて借金を増やしてきたが、誰がとも、なぜとも誰も聞こうともしない。我々は今、大きな収容所にいるようなものだ。理由のない暴力にはならない。かつての革命のような暴力はもうない。我々はより大人になった。そのときは来る。我々は考えて大人になるのでなく、時間のかかる関連のある出来事の積み重ねをへて、より成熟する。そして突然の爆破。そして私たち自身もその爆発のプロセスを理解できない。西欧社会は、ギリシャも含め長く真の繁栄を手にしたと信じてきたが、突如それは違うと気付いた。その驚きと怒りは政治家にぶつけられる。驚くのはいいが、怒りは本来なら我々自身に向けるべきものだ」
ここで彼は一区切りしまして、「扉」という言葉を使われましたので、私は「その扉というのは何なのですか」というようなことを質問したら、「その扉の正体が分かるのは、まだ時期が早い」なんて言い方をするわけですね。具体的になかなか言ってくれないのです。「まだそのときは来ない」
彼の映画は面白いのですよ。溝口健二という日本の映画監督の影響をすごく受けている人なのですよね。長回しなのですね、ずっと。近くの誰かを撮っているかと思うとだんだん引いていって、そこに大きな画面の隅に登場人物たちは動いているみたいな感じです。そのときも、突然登場人物が画面の方向に向かって一人で何かを語り始めるという、そういう場面もあるのです。そのときも彼自身がまるで映画の登場人物のように、たった一人で独白を続けるみたいな、そんな感じのインタビューだったのです。続けます。
「まだそのときは来ない」つまり扉を開くときはまだ来ない、と。そしてこの後が大事なのですけど。「イタリアの扉は壊れるだろう。ベルルスコーニは負ける。捨てられる。そして扉は開く。イタリアにしばらく前までいたが、イタリアの怒りは日々悪化している。でもまだ扉を壊すときではない。世界は今変わらなければならない。なぜなら、ある国はよその国に影響を与える時代に我々は生きているからだ。誰も一人ではいられない。日本で3月に起きたことは私に大きな影響を与えた」ここでまたガラッと話が変わりまして、
「ところで私は言いたいのだが、私はどれだけ日本人の威厳を崇めているかということをわたしは言いたい」このように一言だけ言ってまた話は全然別な話になるのですね。
「スペイン、イタリア、ポルトガルと他の国々。スペインの核となるような人たちが、今ギリシャ人を支援すると声を上げている。私がイタリア、スペイン、ポルトガルにいたとき、共犯者たち、つまり私と同じ考えを持った人々に会った。フランスでもそうだった。」そしてこの後、ここが私が引っかかったところですけど。
「思うんだが、いつか地中海諸国が扉を奥まで押し始める最初の地になるだろう。私は楽観主義でも悲観主義者でもない。ギリシャは売られない。世界市場は1928年から危機で失った財政収支を回復させた。ブレヒトの「三文オペラ」が書かれた時代は私の次の作品の舞台の一つだ。次の作品は、この時代の危機についてのものだ。
「若い俳優劇団が―これは彼の映画の作品についての説明ですね。結局未完に終わりましたけど―若い俳優劇団が市営劇場で、移民やストをしている人々、あるいはその国で迫害をされてきた人たちを前に芝居をするが、いろいろな障害があってうまくいかない。仕方なく路上で演じていると、最後は誰もが参加する大きなオペラになっていく。オペラでは何を語っているのか。ブレヒトが劇で書いている一文。銀行を盗むのと新しい銀行をつくるのをどう比べたらいいのだろうか。問題はファイナンスが政治にも倫理にも美学にもすべてに影響を与えていることだ。これを取り除かなくてはならない。扉を開こう。それが唯一の解決策だ。今の時代で始め、次の世代へと。ファイナンス、お金の移動がすべてではなく、人間同士の関係の方がより大きな問題なのではないかと私たちは想像できるだろうか。」
ここでとりあえず終わるのですね。それから一服置いて日本の話になるのです。
「初めて日本に行った1981年のことをよく覚えている。私の長女が生まれたばかりで、私たち夫婦は彼女が生き続けられるかどうか分からず、彼女は未熟児を入れる保育器に入れられたままだった。その後、私は一人で日本を旅行した」
その前に、スタッフたち一団で行ったため、彼はジャーナリスト的な仕事を結構しているのです。それでようやく自分の時間ができたので一人で旅行した。
「京都に着いた。溝口健二の墓に行った。墓の前に脚本が置かれていた。」
脚本といっても本物の脚本ではなくて、石でできているような脚本なのです。なんて日本語で言っているのでしょうね。エピタフでもないし、何かこう、脚本が置かれているのです。
「彼が書ききることのできなかった最後の脚本だ。私は彼が大好きだった。彼は私に影響を与えた監督の一人だ。そしてその後、小津の墓に行った。―小津安二郎ですね―そこに書かれた言葉を見た。―これは一文字書いたものですね―それは『無』だった。『無』という言葉だった。」
私はまだ続くのかなと思って聞いていたのです。そしたらしばらく間を置いて、「Thank you very match.」って言ってくれたので、それはつまりインタビューは終わりですよという合図ですけれど。30分くらいのインタビューだったのですけど、そういうことだと。その翌年に彼は亡くなってしまうので、実はその後もう一度お会いしているのですけど、そのときは芝居に行く途中で「これから芝居に行くから」と。そのときちょうどギリシャのパパンドレウ政権が終わった日だったので「どうですか。これはいい方向に行きますか」「ああ、いい方向に行くよ」みたいなことを言っておられたのですけど、そのとき、文書で質問を書いてくれって言われていたので、書いて、結局答えを得られないまま彼は亡くなってしまったということです。
ここで僕がピンと来たのは、彼が言っている言葉の中にある「人間関係」です。人間関係について彼はいろいろ言っているのです。要するに「ファイナンスの移動(つまり金融関係のこと)がすべてではなく、人間同士の関係のほうがより大きな問題ではないかと私たちは想像できるだろうか」それでちょっと思ったのが、そのちょっと前に実はイタリアで有名な建築家でレンゾ・ピアノという人がいるのですが、その人にインタビューをしたことがあるのです。その人が、ニュアンスは違うのですが似たようなことを言っているのですね。彼がどんなことを言っていたのかというと、私は日本の3.11について聞いたのですね。「あの後、イタリアにどのような影響を与えましたか。あるいは日本についてどう思いますか。そしてあれが今後世界にどのような影響を与えていくでしょうか」というようなことを聞いているわけですね。それを一つにまとめたのは次のような言葉です。また朗読をします。
「私は、技術は信奉しているが、社会を傷つける技術は支持しない。技術には良い技術と悪い技術があり、原発はやはり後者ということが明らかになった。私は自分の中の一面を日本人だと思っている。―自分の中にある一つの面を日本人だと思っている―日本人と合流することで、私は彼らの素養をつかんだ。だから日本人として以前から原発のことが心配だった。それでも原発をうまく使いこなせるのは日本人くらいだと常々多くの人に語ってきた。私が関西新空港を建設した38カ月の間、32回の小規模地震があった。それでも5千人の関係者が誰一人として死ななかったのは彼らが日本人だったからだ。日本の技術管理は類を見ないと今も思っている。原発の限界があらわとなり、日本にさえ隠蔽があると世界は知った。―隠蔽体質ですね―技術への楽観には限度がある。自分たちの営みを管理するには限りがあることを知ったのだ。私は核融合の技術が、あと40年もすれば実用化すると信じている。そしてその研究を支持している。だが何千年も放射能が残るウランなど、核物質を扱うのは、やはり危うい。日本でさえ、ということを、今多くの技術者は考えているはずだ。我々は新たなシステムを受け入れなければならない。できるだけエネルギーを使わない世界をつくることだ」それで彼は今までやってきたことで、エネルギーを使わないための建築などについて説明しまして、その後「まずは一人一人が生活のスタイル、意識を変えなければならない。大震災は日本のみならず世界で人間と技術のあり方を考える大きなレッスンを与えた。科学技術の大転換には40~50年はかかると言われる。だが何十年かかろうと私たちは変わっていくはずだ」ここが大事ですけど、「私は、日本の大災害を自然と人間の関係が変わるガリレオ・ガリレイ―これは1564~1642の人です―あるいは、ルネッサンスの時代ほどの大きな転換点になると捉えている」こういうふうに語ったのです。いずれにしてもどういう形で具体的な技術に対する考え方、エネルギーに関する考え方というものが、1~2年のタームで変わっていくのかという見方ではなく、結構長いという見方、レンゾ・ピアノさんは30~40年という言い方をしているし、テオ・アンゲロプロスのほうは、何世代にもわたってというような言い方をしています。いずれにしても何か変化の起点というところに、フクシマを置いているというところが興味深いところでしたね。
もう一つ、それに絡んで、イタリアの経済学者でレオナルド・ベケッティという人がいるのですが、その人の言葉を言いますね。テオ・アンゲロプロスに絡んで聞いたものです。テオ・アンゲロプロスの言葉を全部イタリア語にしまして、前もってファックスなどで与えておいて、翌日などにそれに対してのインタビューに行くわけです。そのときの彼の反応を短く読ませてもらいます。
「私の研究の基本となる論文に、匿名性と市場―マーケットですね―との関係をテーマにしたものがある。市場、マーケットでの人間関係はとても質が悪い。これについては数々の実験を試みたが、社会的な距離が遠い相手との関係ほどモラルが低くなることが分かった。もし私の相手が目の前にいればその人をできるだけ傷つけないようにするだろう。しかしコンピューターのスクリーンの前にいれば私は何だってできる。ギリシャの破産に金をかけることもできる。そして気付かずに多くの人の生活を壊すことができる。国債はとても重要なものであり、それを市場に乗せるべきではないというのが私の意見だ。イタリアの国債はついこの間まで安定していた。後にも先にも実体経済では目立ったことは何も起きていない。予算の内容も前よりはかなりいい。なのに市場のメカニズムは突如イタリアに対して意地悪になった。もちろん市場でユーロへの攻撃があることは誰もが知っている。アメリカのドルとユーロのけんかはある。アメリカ人はユーロが世界の通貨になるのを憂いている。そんな中、特段の理由もきっかけもないのに突然イタリアたたきが始まった。そういうことが平然と起きてしまう状態はどうかと思う」と彼はそういうことを言っていました。
以上、その3つの引用を中心に話させていただきました。私はここで思ったのは、アンゲロプロスさんは具体的なことをさほど言ってはいないのですが、イタリアが一番先に進んでいるという言い方をしたのですね。同じ地中海圏、彼の言葉の中で面白いと思ったのは、地中海圏がトップランナーになる、トップランナーといいますか、扉を最初に壊すと。その扉は何なのかをきちっと言ってくださいと言ってもなかなか言ってくれないのですけど。いずれにしても、大きな待合室で世界中の人々は待っている。そこでチェスか何かをしていて、誰も勝てないチェスをいつまでも続けている。すると扉が気になってくるわけですね、待合室にいるわけですから。扉を「次の方」みたいな感じで開けてくれればいいのですが、誰も開けてくれない。仕方ないので誰かが開けようとするけど、開かない。扉の向こうに何があるのかも分からない。これ一つのメタファーですけど。その中で彼が言ったのは、もしかしたらというよりはかなり断定的に、地中海諸国が、世界中のいろいろな国の中では、最初にこの扉を開けようとするムーブメントが起きてくるというようなことを言うわけです。その中でもイタリアが一番前に進んでいるというようなことを言っているのです。どういうふうに進んでいるのですか、というようなことも聞いているのですけれども、ベルルスコーニは間もなく捨てられるみたいな。去年の6月の時点ですから、ベルルスコーニはまだ政権についていたときなのです。その後、具体的にどういうことになったかといいますと、ベルルスコーニは6月の時点ではまだ政権にありまして、彼が辞めるのは11月です。そのインタビューの5か月後に辞めたのです。ただ2011年の6月の時点では、2008年4月に始まったベルルスコーニの第4次政権は、まだ続くのではないか、あと1年くらい、とりあえずぎりぎりくらいまでは、政権途中で降りることはないかなという感じだったのです。そんなにパッとやめるような感じではなかった。ところがテオ・アンゲロプロスはうまく言い当てて、ベルルスコーニは5か月後に辞めました。彼は「ベルルスコーニは捨てられる」という言い方をしたのですね。これはいろいろな見方があると思うのですが、市場―マーケット―を中心に世界の動きを見る人たちから見ると、ベルルスコーニが辞めたときに「彼は市場―マーケット―に追い出された」という報じ方をしたのです。あるいはサルコジ、メルケルから愛想を尽かされて、あの二人の圧力によって出されたとか、そういう見方を割としていたのですけれども。そうなのかと思って取材をしてみたら、彼の側近とはいいませんが、かなり身近なところに謀反といいますか、彼に反対票を投じる動きがかなり早い段階から出ていたのです。それがちょうど夏のころからで、最終的には結局、政局といいますか、日本の民主党の例ではないですが、何人かが反ベルルスコーニ票を投じたことによって、彼は政権運営をできないということで辞めた。しかしなぜ急にそういう動きが出てきたのかといいますと、もちろんルビーという女の子がいまして、そのルビーと遊んでいてどうのこうのという下ネタ的な問題もあったのですけれども、それよりも社会が変わってきたというのが大きかったのではないかなと思うのです。例えば、どんなふうにイタリアの社会が変わってきたか、社会って何だ、最近フェイスブックなどがありますが、社会というのはそういう個人的な仲間の組織、小さなソサイアティから始まっていって、それがだんだん大きくなっていって、もし一つの国が国民一丸となってというような形で一つの固まりになれば。一番、イタリアには似合わない言葉だと思いますがね。
話は変わりますけど、最近、国会でよく聞くのは、額に汗して働いている人たちとか言いますけど、あれもあまりイタリアでは聞かないなと思います。額に汗して国民一丸となって。国会議員が一番使う言葉ですが。そういう、僕の場合ですとローマのうちの近所の社会あたりから見ていくわけですが、どんなふうに変わってきたのかというと、決定的に変わったのは、3月11日のフクシマの前と後で雰囲気が変わったのですね。具体的にどんなふうに変わったかと言いますと、僕の住んでいたところはローマのトラステヴェレという駅のちょっと南にあるローマの下町ですかね。ローマは小さい町で、日本でいえば山手線の中にすっぽりと入ってしまうような規模で、人口も300万人足らずの町ですから。東京でいえば、墨田区とか台東区のような下町方面です。そういうところに住んでいたのです。メキシコから連れてきた犬を飼っていまして、そこの近所を毎日散歩させて、カプチーノを飲んで、そこの人としゃべって、新聞も買って、部屋に帰って新聞を読んで。そんな感じで仕事を始めるのですけれども。10時くらいになるとまた下りていってエスプレッソ飲んで、午後になるとまた行ったりというようなことが良くあるので、その近所の人たちとはよく話すのです。大体同じようなメンバーで、大体サッカーの話をしているのですけれど。僕はサッカーの話はよく分からないので、僕が来ると他の話になるのです。大体あいさつが「どうだい、最近のベルルスコーニは」とベルルスコーニ話をずっとやっていたのです。3月にたまたまリビアに行っていたときに、3.11を聞いたのですね。リビアのゲリラのキャンプのところにいたのですが、そのとき、そのキャンプにBBCだけ入る衛星アンテナがあったので、生であの津波を見たのです。その後ローマに戻ってきます。僕は日本政府スポークスマンみたいな感じで、毎日皆に取り囲まれて日本について語らなくてはいけないような状況に立たされた。大方の人はもうご存じだと思うのですが、彼らは「日本人はすごい、とにかくすごい。あんなときにも誰一人として泣き叫ぶこともなく、威厳を持っている」みたいなことを言っているわけですね。ラクイラというところで地震があったとき、皆おとなしかったよ、泣き叫ぶ人なんて誰もいないし、震災なんてあんなもんなんだよと言っても、絶対認めないのです。日本人は全然違うんだと。我々みたいにならないと言って。いくら言っても言うことを聞かない。ひどい場合は、イル・テンポという新聞があるのですが、そこの副編集長が、以前から何かあったときは電話してと、これはどういうことなのと聞いていたのですが、逆に今度は向こうから聞いてきて。次の日などは、新聞を見たらこんな大きな記事になっていて、「Akio Fujiwara日本の特派員が語る日本の侍精神」なんていうタイトルになっていて。何か一言、言ってくれ、ああいう日本人たちも震災にあっても皆割り込みもせずに並んでいる姿勢は、あれは何だ。言葉で説明してくれ。なんて書くかなと。あまりいちいち表に出さない、武士は食わねど高楊枝という言葉があるなと言ったら、それは何だということになり、それを全部イタリア語で説明したら、武士は侍か、みたいに勝手に解釈して。侍はどんなに腹が減っても絶対に腹が減ったとは言わない、とか(笑)。まさに日本人そのものだ、というようなことが書いてある。しかも、日本だったらこれくらいの記事なのに、全面2ページにわたって。よっぽど記者がいないというか、1人当たりの書く量が多いのですけれども。
それからしばらくフクシマ問題で延々と聞かれるわけですね。こんなことでいいのか。なんで皆逃げ出さないのだ。それで私の息子は、前の年の夏にまだローマにいたのです。皆知っているわけです。その息子が9月入学で東京の大学に入ったので、日本に帰ったのです。そうしたら近所のワイン屋のおじさんが毎日電話をしてくるのですね。「とにかくすぐに呼び戻せ」と。「いやいや、呼び戻せと言ったって、東京はそういう状況じゃないから。フクシマじゃないのだから」「いや、それはそういうふうに言っているけれど絶対にそんなことはない」なぜかっていうと「政府は本当のことを言うわけないんだ。俺が知っている情報では……」とか言って「皆、もう東京なんかとっくにやられている」と。「そんなことをいってまだ皆住んでいるじゃないか」と言うと、「この間、RAI(国営放送)でやっていたけど誰もいないっていうよ」「うそだよ。それはゴールデンウイークに撮っているのだよ。ゴールデンウイークの霞ヶ関なんかとって、誰もいません、なんていったってそれは誰もいませんよ」みたいな話をしていたら「いいからお前、頼むから連れて帰ってくれ」と最後には叫ぶわけです。「学校もあるし」と言えば「学校なんかどうでもいい」みたいな話になってきます。そういうある種エキセントリックなところもあるのですけれども。そのような反応に対しても、毎日「いやー、そんなことはないよ」みたいな感じで答えていたのです。
そのようなことがあってしばらくして落ち着いたところで「ところでベルルスコーニはどうなったか」なんて話をしたのです。そうしたら「Basta!」「もううんざり!」みたいな感じなのですね。前には、ベルルスコーニを嫌いだったり好きだったりいろいろな人がそこにいるのですけれども、大体そこにいて悪口を言うわけです。悪口を言ったり、「あんなやつがいる限り」とかいったり。いずれにしても話題の中心になっていたのです。だけど、もう話題にもしたくないとなったのが、3月11日の後です。なんでだろうと思って。それから4月くらいになってまた落ち着いてくるかなと思っても、理髪店の知り合いに「ベルルスコーニは最近どうなったの」と聞くと「ああ、もういい。もう口にもしたくない」という感じがずっと続いていたのです。
そのころ、去年の6月14、15日に国民投票がありまして、それは最終的に日本でも大きく報じられました。脱原発が決まったのですが、脱原発以外に水の民営化ですとか、ベルルスコーニはじめ、首相など大事な要職についている人たちを、その要職についているときでも裁判にかけることができるかどうかなど、4つの内2つが水関係、そして1つが原発です。原発は具体的にどういうことかといいますと、イタリアはすでに1987年に「原発NO」という答えを出しているのです。1987年はどういう答えかということを簡単に言いますと「あなたの村で原発の建設が決まった場合、それを最終的に決めるのは、あなたの村か、国か」という問いなのですね。国が決めるということでいいですか、というようなことです。それに対して大半の人が「NO」と言ったのです。やはり自分の村で決めたいと言うのですね。それを大きくジャーナリズム的に言いますと「脱原発」ということになるのですけれども、具体的にはまだ。その法律をまた変えていけば原発を進めることができるということで、2008年からベルルスコーニ政権になってから、クリーンエネルギーということで、ちょっとずつやっていったのです。そして原発を新たに導入する法律ができて、今度はその法律についてどうですかということですね。つまりそれは本当に今度は法律を廃止するかどうか。つまり原発再開法というものがありまして、その法律の廃止かどうか。それで結局、廃止ということになったのです。
そのときに、国民投票というのは日本にはないから今一つ分かりづらいと思うのですけど。イタリアの場合は王政か共和制ということで、1948年に王様を戦争責任の首謀者だということで追い出す結果になったのですね。そのとき、どちらかというと北のほうの人たちが皆王政に反対していて、南の方の人たちは〓王様が逃げていた〓というところもあるのですけど、割と王政になじみがあるというところもありまして、6~7割くらいは王政を支持していたのですけど、最終的にはトータルで言いますと、ぎりぎり、具体的な数字は述べられませんが、50何パーセント対40何パーセントということで王政が廃止されたと。それが始まりで、その後ずっと国民投票はなかったのですけど、1970年代になって一種国民投票ブームのようなものがありました。なぜブームになったのかと言いますと、その当時、離婚あるいは中絶の問題、カトリックの国ですから離婚してはいけないというふうになっていたのですが、結局離婚を禁止する法律を廃止したと。国民投票でです。国民投票というのは常にある法律を廃止するかどうかを問うものなのです。その後、中絶も事実上合法化されて。どちらかというとそういう倫理的な問題ですね。二人の人間が、極端な二人の人間がいつまで議論を交わしても、結局答えが出ないというようなそういう問題について扱うことが多いのです。その国民投票が5月にありまして、私はそのときには成立しないだろうと思っていたのですね。なぜかと言いますと、国民投票が成立するためには有権者の50%プラス1票が投票に行かないと実現しないわけです。人の選挙ですと投票率7割くらいいきますから、それくらいいっても良さそうですけど、その前に国民投票は、95年6月に57%の投票率が成立して、一度成立しておりまして、その後2003年と2005年と2009年は、全部不成立に終わっているのです。投票率はひどいときは3割くらいしかなくて。今回もイタリアの大方のメディアなどは、多分ぎりぎりくらいで、50%に達しないだろうと。50%に達しないと、皆が「原発NO」といてもそれは無効化されますので。そう思っていましたら、結局ふたを開けてみると、成立したと。なぜ成立したのかと言いますと、もちろんフクシマの影響が一番多いのです。その次には、さきほど言いましたように、ベルルスコーニに対する「うんざり感」みたいなものがすごく広がって、それが結局票を押し上げた。
それまでは国民投票というのは野党の、どちらかと言うと左翼のとにかく何でもNOというための武器に過ぎないみたいな、割と否定的な見方をされていたんのですが、社会というものはもう少しポジティブに国民たちが自分たちが決定できる道具というものを前向きにとらえるようになったという転機が、5月の国民投票だったと。その前段としてフクシマだった。つまり社会は少しずつですが変わっていっているのだな。そうした中で政治もどういうふうに変わってくるかというと、やはりベルルスコーニに対して、それまではいろいろ異見がありますから、特にベローナなど北の方の人たちは、中小企業組合などで結構ベルルスコーニに優遇されていたところもあるので、ずっと指示していたのですけれども、そのあたりから崩れていくのです。このままベルルスコーニに続けていってもらっては、非常にイタリア統治環境も悪いし、良くないなんていう話になっていって、そういう有権者たちの声が票田のそこの議員たちを押し上げていって、最終的に11月の謀反というか、寝返り、造反議員を一気に生み出すという結果につながっていったと。
ですからまたテオ・アンゲロプロスに戻りますが「ベルルスコーニは間もなく国民に捨てられる」、「捨てられる」という表現をしたのですが、当たらずとも遠からず。単なる政局の変化あるいは市場に追い出されたというのと違う、結局3月に始まっている、国民あるいは社会の大きなうねりの中で、最終的に「彼はポイと捨てられた」というような表現がピタッとくるのではないかという点では、少なくともさっきのテオ・アンゲロプロスが言っていた詩的な言葉の中で、具体的なものについては確からしく当たっている。彼はイタリアが、特に地中海諸国が先に世界の変革の前に立つという言い方としていますが、地中海諸国はどこも老いていく国々ですね。日本の平均年齢が45歳ということですが、イタリアは44歳くらいだし、ギリシャも40代前半、スペインも高い。そういう国で大きな社会変革とか世界に大きな変動を与えるようなことを起こすようなことはあるんだろうかということをずいぶん考えたのですが、なかなかそのプロセスが見えなくて。ただイタリアは何か進んでいるんだよと言っている以上は、何がイタリアは世界に先駆けて進んでいるのかということを考えて幾つか列挙しました。
まず日本などと比べたらいいと思うのですが、「pigrizia」なんて言いますが、イタリアの人たちは「怠慢」という感じが大きく特徴としてあると思います。社会運動などですが、ギリシャで、よく映像で石を投げたりしている若者たちを見たりするのですが、あれはテレビカメラはそういう場面だけを集中的に撮りますが、すぐその裏側ではコーヒーを飲んでいる人たちがたくさんいて、そこに催涙弾がバンッと撃ち込まれたりすると、普通にそれまでカフェで飲んでいる人たちが一斉に逃げ出すみたいなそういう状況があるので、あれだけじゃないのです。本当に国民が全部まとまっているかというとそうでもないのです。イタリアの場合も、デモとかやっているようでそんなに大きくは広がらない。それが1つのイタリアの特徴です。
それともう一つ、順法精神の欠如です。とにかく守らないといいますか。北の人たちは、日本と似たような感じで、いいのですが、特にローマはひどいですね。もっとひどいのはナポリです。ナポリに行くとヘルメットをかぶってバイクに乗っている人などはほとんどいない。ヘルメットをかぶらないのは違法なのです、ヘルメットはかぶらなくてはいけない。そしてひどい場合だと10歳くらいの子供がオートバイに乗っている、ノーヘルで乗っているような状況です。最初驚きましたけど。ギリシャもそうなのです。ギリシャのアテネでそうだから。そういう意味で順法精神の欠如と。それに絡んでどういうことがあるかというと、地下経済が大きいです。脱税のことですが。税金を払わないでいろいろ経済が動いているということです。地下経済というとマフィアが絡んでいるみたいな感じですが、そうではなくて普通の人たちが、ごく日常の買い物やアルバイトなどで全然税金が絡まないで商業活動が続いている。ギリシャはOECDの発表では、大体GDPの30%くらい。2006年のデータなのでデータは古いのですが。大体データもどこまで正確に取れるか。地下経済何パーセントなど、29.5%とか具体的で、何でそんなに取れるのかと思うのですが。ギリシャが1番ですね。2番がイタリアで26%。日本はどれくらいかというと10%未満ということです。アメリカも。こういう点ではものすごくイタリアはすごい。
もう一つ、頑固なのです。僕の印象だとイタリアの人って結構頑固なのではないかと思う。頑固って何かというと、例えばライフスタイルみたいなものは変えないですね。お金がなくなっても夏休みはきちんととる。例えば前の年はホテルみたいな少し安めのところに泊まってそこに1カ月過ごしていました。次の年はお金がないからどうするかといったら、友達の家に1カ月そのままいる。そして友達と交換をしてなど、いろいろと工夫をしながら。時間という点では絶対的に譲らないみたいなすごい頑固さがあります。これだけ経済がひどいのだからもう少し働くとか何とかと普通考えたりなどするのですが、ギリシャの人、イタリアの特に南のほうの人は、その辺だけは絶対に譲れないというような強い気概みたいなものがあるということがイタリアの進んでいる点かなと。
もう一つは、結構ペシミズムという感じも強いのではないかなと思います。なんとなくイタリアというとネアカでいつも明るく生きているという感じがあり、僕もイタリアへ行く前はそう思っていたのですが、何か暗いなみたいな感じ、意外に暗いなイタリア人、という感じです。どんなふうに暗いかというと、確かに毎日楽しそうにやっているようには見えるのですが、根の部分では、どうせ人生うまくいかないかな、みたいに思っているようなところが感じられるのですね。どうせ人生面白くないし。面白くないことはないだろう。面白いんだけどなかなかうまくいかない、人生なかなかうまくいかない。そんなときにちょっときれいな女の人が通ったりすると、「ああっ」と思ったりするわけですね。それがすごく幸せというふうに思わないとやってらんねえと。だけどうまくいって当然じゃないかと思ったり。逆にちょっとでも嫌なことがあったり、職場に嫌な人が増えたりとかそれだけでも何か暗い気持ちになってしまうなど、その辺どちらが明るいのか、というところはあると思うのですけれども。
ペシミズムという感じが人生だったり。それは向こうの社会学者がローマの人に「ローマの人ってどんな人」という企画をやったのです。そのときローマ人について調べている社会学者が法王が変わるたびに、良い法王のときはいいのですが、突然悪い法王が来たりすると殺されちゃったり、突然全部物を持っていかれちゃったりなどそういうひどい経験を延々積み重ねてきたので、何も信じていない。世の中うまくいっているようで突然悪くなるみたいなことは、根っから我々は持っているのですよというよな、一見もっともらしいことを言っていたのですが。そういうところもあるのかなと、これは分からないですけれどもね。それは結構日本なんかにもあります。
後、雇用の悪化は言わずもがなです。プレカリアートという言い方がありますが、日本では非正規雇用とか派遣とかといろいろ言い方がありますが。要するに終身雇用じゃなくて何回も仕事を変えなくては生きていけないとか、1年などの短期契約で次の年続けられるかどうかというような状態の人たちを、イタリアではつい最近までプレカリアートという言い方をしていました。最近はあまり聞かないですね。もうそれが当たり前になってしまって、皆それだから、わざわざそう呼ぶ人もいない。それはいつ始まったのかというと90年代の前半です。そのときは34歳以下の若者の失業率が20%くらいありました。これは何とかしなければいけない。職は限られている。だったらワークシェアリングではないが、若者たちで少しずつ分け合ったらいいんじゃないかみたいな発想で始まっていって、法律を変えて、もっとフレキシブルに、アメリカやオランダの影響だったりもするのですが。オランダみたいなところは、きちんと社会保障があった上で、フレックス、労働の柔軟性が取り入れられているのですが、イタリアの場合は土台の社会保障がしっかりしないところで、先に柔軟性だけ取り入れてしまった。企業としてはその方が楽ですから、「インターンね、ただね、はい、帰って」みたいなそういう感じで雇っているような状態がずっと続いていると。現在それで良くなったのかというと、2011年時点の若者の平均の失業率というのは、34~35%が多いですね。20%だったものが上がってしまったのですね。ローマ大学サピエンツァ校というものがあるのですが、そこの就職相談窓口をやっている社会学者の先生に聞きましたら、きちんとした職に就ける学生は1割くらいということです。きちんとした職と言っては失礼ですが。イタリアには終身雇用などという言葉はないですが、5年以上の契約を伴った仕事ということです。それ以外は大体1~2年、長くて3年という形ですね。もちろん公務員の場合は別ですけれども。最近、公務員の職も減っていますから、大学を出てもきちんとした職業に就けないということが当たり前のようになってきてしまっている。そういうような雇用の状況です。
その次に、イタリアが世界に先駆けてどんな進んだ特徴があるかといいますと、根深い、どうしたって絶対に立ち直りようがない、根の深い政治不信ということがあると思います。政治不信というときれいな感じがするのですが、そうじゃなくて政治家が嫌いなのですよね。マルコ・パネッラという人がいました。その人はどのようなタイプの人かといいますと、八十幾つのおじいさんで終身上院議員のようなことをやっていて、人気のある毒舌で左翼の政治家なのです。常に私は庶民と共にみたいな人で。日本でいうと―もう亡くなっていますが―上田耕一郎みたいな人です。ちょっと似ているのですよね、上田耕一郎と。ですがもうちょっと毒舌家です。その人のラディオ・ラディカーレの番組を聴いていたのですね。ライターでたばこに火をつけて、コーヒーをすすりながら「最近のベルルスコーニはひどいもんだ」みたいなことをずっとしゃべるのです。どちらかというと庶民派の人なのです。その人があるときに、反ベルルスコーニムーブメントみたいなものがあり、そのデモに参加するために行ったのです。そこに「マルコ・パネッラさんも参加しました」とテレビカメラがずっとくっついて行っていました。そうしますとそこにいる人たちが「お前、何しに来たんだ」という感じで彼に詰め寄るわけです。そうすると彼は「私は庶民の味方だよ。みんなと一緒に歩こうじゃないか」みたいなことを言ったのですね。そうしたら「いや、お前、帰れ」みたいなことを40~50代くらいの若い参加者の人たちに言われました。しかし「まあ、しょうがないな。だけど皆とにかくがんばっているみたいだよ」みたいな形でずっと映っているのですね。デモはまだ全体が集まっていないような状態なのですが、その中で彼が歩いていて、中には、マルコ・パネッラは有名人なので「マルコー」などと言って手を振る人もいまして、それに答えながら歩いて行ったのです。そうしたら急に、ツカ、ツカ、ツカと男が来て、「誰だ?」というふうに見て「何だあ」というふうに帰って行くのですね。その映像がずっと映っているのです。―イタリアで「Stronzo!」という言い方があるのです。「くそ野郎!」という意味ですが。―その彼は帰って行って途中でふっとまた戻ってきて、「Stronzo!」と言ってペッと唾をマルコ・パネッラの顔に浴びせかけたという場面があったのです。それはもうライブでやっていたものですから、私は家でライブで見ていました。それはただ小さなエピソードという感じもするのですが、何か一つ象徴するような感じです。日本で言えば、土井たか子さんや上田耕一郎さんみたいな、どちらかというと庶民派という方で、絶対政権はとれないが言いたいことはどんどん言ううるさ型のおじいちゃん。赤尾敏という人も昔いましたが、赤尾敏を左翼にしたみたいな。そして街角につじ立ちして皆にいつも「この政権はけしからんですよ」と言っているような人で、親しみを持てる人でも、政治家、議員というだけでものすごく嫌われている。ああいうところに参加しようとしても、平然と唾をひっかけられる、そういう深い政治不信というものがイタリアにあると思います。北のほうも、そこまで露骨ではありませんが、特にローマ以南ですね。来年の春にイタリア選挙があります。今年の暮れくらいから選挙キャンペーンといいますか、選挙をめぐる話でかなり荒れるといいますか、既成政党に対する不信感みたいなものが相当強まっていますので、どうなっていくかというのが見ものなのですけれど。政治不信というものは日本もかなり進んだと思うのですが、ギリシャ、イタリアの場合は、かなりはるか先にいっているという感じです。
先ほどの話に戻りますが、プレカリアートというものが増えていって終身雇用が終わる。終身雇用みたいなものはなくなっていきます。そうすると何かネガティブなものしかないのではないのかという感じですが、ボランティアワークなどといいますと貧しい人たちを皆で救おうというボランティアだと思うのですが、そうではなくて、近所のおじいさんが一人で住んでいて、買い物も足が悪くてなかなか行けないというような状況のときに、隣の家の人が「じゃあ、一緒に買い物をしてきてあげるわ」とか、あるいは身内に勉強が分からなくて困っている子供がいるので家庭教師が必要だが誰も家庭教師をやってくれる人がいないというときに、誰かが行ってただでやるとか。そういう意味での正しいことみたいなことを言うと、これは経済学者でそれを専門に調べている人がいるのですが、GDPに反映されないあらゆるデータというものを積み上げている人なのですが、ヨーロッパの中ではイタリアはかなり高いのですね。世界で見るとカナダがかなり高いのです。それがイタリアの場合は進んでいます。それは何かというと家族間のしがらみといいますか、つながり、絆などと言ってもいいのかもしれません。日本の場合は、戦後、普通であれば貧しい時代をへて、都市集中した上で、そういうようなものがだんだんなくなっていったようなものが、イタリアにはまだ残っている。
それから小さくまとまるのが得意なのです。小社会を作ることが。全体で一丸となってというのは、なかなかなれないのですが。Facebookというのがありますね。日本でもいろいろな人がやっていますが。僕もやっていますけれども。イタリアの場合はすごいのです。
すごいというのは何がすごいかというと、Facebookというのは、自分の友達みたいなものをどんどん作っていって、自分がこんなことをやりましたといったときに、全然関係ない友達が集まってきて、さらにその友達が友達を呼んできて、というような形で輪が広がっていくというタイプのものなのですが、あれが日本だと少しなじまないのは、日本の場合は1対1ということを非常に大事にしますので、この人と私は友達、だけど私とあなたの友達とは一緒にはしないからね、みたいな約束事があるかもしれないのですが。向こうは例えばパーティなどがありますと、友達を5人連れてきてしまうみたいなことがありますので、そういう形でネットワークが作りやすいというようなことがあります。
後、特徴は何かというと、ケチということがあります。お金をあまり使わない。
後は、スローフードなんていいますね、遅いですね、何でもね。
後、反グローバリズム、何て言うとかっこいいですが、地元のものが好きですね、何でも。食べるものでも、地元のものなら一番だと思っているみたいな。日本だと例えばワインだと甲州ワインよりイタリアのワインの方が高級というような感じがありますが、向こうは逆で地元のものが一番みたいに思っているところが、皆ではないですがあります。
それからおいしいものが好き。とにかくおいしいものを食べるためには、多少は金を使う。
そんなところがイタリアがちょっと進んでいるいろいろな特徴です。それが未来の扉をこじ開ける何かにどういうふうにつながっていくのかというところが非常に分かりにくいのですけれども。
ただ、先ほど言いましたテオ・アンゲロプロスの言葉を新聞に一度書いたのですね。何欄に書いたのかといいますと芸能欄に書いたのです。世界のニュースが入っている国際面がありますが、そこに企画ものをよく書いていたのですが、そこに「テオ・アンゲロプロスのインタビュー取れました」と言っても誰も反応がなくて「誰だそれ」という感じで、説明をしても「そうか。難しそうだな」みたいな話になり、結局芸能面に回されてたのです。なぜかといえば、映画担当の編集者は「これはすごい人だよ」という話になったので、芸能面に載ったのです。そして語ったうちのごく一部で、写真もとても小さく、本当に小さく載ったのです。毎日新聞の夕刊は、―私は夕刊に書いているのですが―大体200万部も出ていないです。しかも東京県内を中心にしたとことしか出ていない。あまりたいして大きく扱ってもらえなかったのですが、その後、日本の読者からすごく反響があったのです。もちろんネットを介して広がっていったということもあるのですが。「あの原稿は面白かった」「テオ・アンゲロプロスさんの話をもっと聞きたい」などそういう話が来ました。それからこの本を書くきっかけにもなった新潮社の編集者も「もっと書いてください」など。結局、雑誌なども月刊誌で「世界」という雑誌があるのですが、それに彼の言葉と背景を全文書いて載せました。そしてまたそれに対する反響もあったりなどしました。作家の高橋源一郎という人がいますが、朝日新聞で社会時評のようなことをやっていまして、朝日新聞で僕が書いたテオ・アンゲロプロスの言葉について、長々と書いてくれたりなど、そのような反応がありました。
そうしますと単なる老…、老なんて言っては失礼ですが、ギリシャの映画監督のひとり言みたいなものがこれだけ反応が来たのは何なんだろうなというと、そこにあんまり理屈はないのですね。ただ直感的に彼の言葉に響いたという感じのところが強いようなのです。「扉は開かれる」とか「扉の前に今我々は立ちずさんでいる」とか、そういうような言葉にひかれて。つまり、言い古されている言葉ですが、「閉塞感」とかいわれる中で、そこにヒントがあるのではないかという思いが、結構多くの人が反応してくれたのです。
そこで、直感と聞くと何かあまり良くないことなんじゃないかと感じがする。前に早稲田大学の科学を専門とするジャーナリズムの講座で講演したときに、アフリカのことをしゃべってくれと言われていろいろしゃべっていたのです。多くの人は喜んだのですが、最後にある女性の助手に「藤原さんの話は大変面白かったのですけれども、非常に直感的な感じで、ちょっとアカデミズムとかそういう話とは違いますね」とか言われました。直感的とかいうと何か軽く思いつきで言っただけじゃないの、みたいなそういうイメージがあると思うのですが、実はそうじゃないんじゃないかなと思っているのですね。
そんなふうに思っていたら、デイヴィット・イーグルマンという人がいまして、日本でも結構翻訳が出ているアメリカの脳学者です。その人は脳外科医でもあるのですが、同時に精神分析などもやる人で、その人が「直感とは何か」ということを書いていてそれを引用しようと思ったのですが。どういうことかと言いますと、長い時間をかけて、何カ月何年と頭の中で考えてきたこと、あるいは頭の中で考えていたけれど意識していなかったことというのは、人間にはあるはずですね。彼に言わせますと、意識と無意識があるとします。私がそれまでとらえていたのは、フロイトなどを読んでいたので、意識というのがあって、その下に無意識というのが張り付いていて、結構同じくらいの大きさじゃないかなと思っていたのです。実はその人が実験などを重ねた結果言っているのは、意識というのは、大海原で一人で航海しているポンポン船の密航者くらいの大きさしかないと。大海原を密航しているたった一人の密航者、それが意識に過ぎないと。そして彼としては一人でその大海原を、太平洋でもいいのですけど、ずっと密航していって、私は今密航して逃げている、あの別の大陸に行くというふうに思っているのですけれど、実際に動かしているのは船であり、またその下にある大きな海原が彼の航海を左右しているのですがそれに気づいていない。それと同じように、ほんの氷山の一角にあるのが意識であり、その下の膨大なものが無意識であると。それを踏まえますと無意識は意識に上ってこなければ、夢に出てきたりするのでしょうけどなかなか説明できない、想念なんていうとちょっとかっこいいのですけれど、いろいろな考えがあるので、よからぬ考えとかいろいろなものが。それはもちろんいろいろなものを見たり読んだりしたものをもとにして言葉にならない形で出てくる。そんなときにある人のある言葉を聞いたりとかあるものを読んだときに、何か刺激が入ったときに「あっ、これは面白いアイデアだ」と思ったりする場合がある。それが直感だと思うのです。実は直感というのは突然ポッと入ってきたというよりも、その中に脈々と何年もできあがってきたものが、外側の刺激によってバッと表に現れて自分の意識にようやく現れてきたものというような解釈をしているのです、その人は。結構その言葉に、読書というのはずっとたらたら読んでいるのですけれども、パッと何か言葉があたると。あっ、この感じは分かるなと僕は思ったのですが。
テオ・アンゲロプロスの言葉についてのいろいろな人たちの反応というのは非常に直感的だと私は言ったのですけれども、そういう感じで人々を刺激するのです。それは何か。そうしますと大きく意識している社会と関係なくて、社会の中に社会の意識というのがもしあるとして、なんとなく社会が全体で一緒とは言いませんが、うごめいているようなもの、そこに響いてくるような関係のものなのではないのかなというふうに思ったのです。
それを結局彼自身もなぜあのような言葉を言ったのかというと、フクシマが非常に大きなインパクトとして自分にこういうことを考えさせている。レンゾ・ピアノも同じようなことを言っている。そういうことはいろいろ考えていたのですが、扉はどういう形でどういうふうにしてイタリアで開くのかというのは、具体的に言えればいいのですが、未来のことなので、5年先あるいは10年、30年先なんていうことになったらとてもじゃないけれども何も言えないと。特に今の場合ですと、半年先もどうなっているのか分からないみたいな状況ですから。特にギリシャなどは今はあのような状況になっていますけどどうなのかと。
そこで、学者というよりもどちらかというと哲学者に聞くべき話ではないかと思いましたので、ジョルジョ・アガンベンという人がいるのですが、その人に会いまして、その人に同じテーマで聞いたのです。それはこちらに帰ってくる直前ですから、2月になります。彼もこんな言い方をしているのです。僕は「フクシマの事故をどう見ましたか?今グローバル化の下で、ある土地での災害が世界に瞬時に大きな影響を与えます。あなたの何かを変えましたか?」ということを2時間ほどのインタビューの最後に聞いたのです。「かなり大きな衝撃だった。ひどく心を乱した。日本についての私のイメージも変わった。広島、長崎の経験の後、日本が50基以上もの原発を設置していたとは想像もしていなかった。そんなことは考えもしなかった。日本はこうした問題を指し示す上で、寓意的な事例だと思う。なぜ、広島の悲劇を生きてきた国が、50基もの原発を建設できたのか。私にとっては謎のままだ。非合理的な要素に見える。おそらく過去を乗り越えたかったのだろう。そして資本主義の神父たちの思慮のなさが、日本人に国の破壊を極めて日常のこととみなせるようにしたのだ」。彼は資本主義の神父たちと言っていますが、これは現在の市場を中心とした経済体制、それの神父たちというのはどういう人たちなのかというと、IMFに限らず、第二次大戦後の現在に至るまでの資本主義、特に新自由主義的な資本主義の担い手たちのことですから、そこには政治家など政・官・財の人たちが入っているわけなのですが、そういう人たちの思慮のなさが日本人に、国が破壊すること、自分の故郷が破壊することは、まあ日常の一コマに過ぎないというふうに見なさせたのだろうなんて言っているのですね。そして私がそれに対して原子力の平和利用ということで、自分たち自身を欺いていたというところもあると思いますと言ったら「ええ、でもあれは過ちだったのです。まさに資本主義宗教―彼は資本主義を宗教ととらえたのですけれども―の非合理性が見えます」と。彼はそれまで資本主義というのは非合理性が一つの特徴だと言っていたのですが「さほど大きくない国に50基もの原発を築くということは国を破壊する危険を犯していることです」と言ったのです。
この人に、テオ・アンゲロプロスの言葉を全部、インタビューの前に送りまして、彼がどう思うかを聞いたのです。それに対するジョルジョ・アガンベン氏の返事はまた非常に長いのです。イタリアの人というのは、1回しゃべり出すと終わるまで10分くらいずっとしゃべって、ふっと沈黙が現れたときにまたこちらが質問するというような形のインタビューなのですが、そのうちの一部です。
「テオ・アンゲロプロスの言葉の中では、経済という独裁者が、社会生活のすべての細部にまで入り込んでいるという指摘に、とても感銘を受けた。世界の内面を考える際に、とても役に立つ処方箋だ」メタファーなのですが、処方箋という言い方をしていますね。「これらを理解するには未来の問題に至る前に、資本主義がこの世界を支配しているという現実をまず理解しなければならない。資本主義というのは単なる経済に関する一つの主義というよりも一つの宗教だ」という言い方をして延々とその説明が続きます。最後に扉の話になっていくのですが、こんな言い方をしています。「テオ・アンゲロプロスは、その扉を最後には突き破る必要があることを説いていたと私は受け止めている。でも私自身も扉は突き破られるのではないかと恐れている。どんなふうに開くか。それを語るのはとても難しい。どういった転覆があるのか。どのようなプロセス―課程―をへていくのか。革命的なもの、あるいはカタストロフを生むだけなのか。」カタストロフというのは、大破壊といいますか。「時々カタストロフが変化をもたらす。フクシマがそうであったように」その後、ちょっと飛ばします「政府はGDPを膨らまさなければならないという考えにより行動する。だからこれは合理的に見れば不可能だ。システムは終わったのだ。無限のものなどない。これもまた合理の問題ではなく、非合理の問題なのだ」彼はまた、ふっと思いついたように「そのさく裂とは、南イタリアの大砲か」みたいな言い方をするのです。それでパッと言葉を止めるのですけれども。
「ところで扉はこのさく裂で開くのか。それとも優しく開くのか。それとも爆発か。私は優しく開けることはできないと思う。でもテオ・アンゲロプロスの考えは間違っていない。なぜなら地中海諸国というのはまさに雑多で多様な集まりだからだ。だからここで扉は開くかもしれない。断言は難しい。でも他の地域ではなく地中海圏で開けるほうが簡単だと思う。なぜならここには過去の遺産がある。つい最近のものもある。そしてそれがまだ生きている」というような言い方をしていました。
要するに、扉というとなんか、僕はこのさく裂してバンッと開くというのにはちょっと賛成しかねるのですけれど、この人もやっぱり分からないって言っているのですね。一応イタリアでかなり優れた哲学者と言われるアガンベンさんでもです。いずれにしてもはっきりしているのは、イタリアの場合、この先の経済成長は、70年代までは7~8%の成長、そして80年代から平均4%成長ですね。そして90年代に2%成長。00年代になりますともう0%台の成長。現在になるとマイナスみたいな状態があって、その後戻ることはあると思うのですが、もう前のような成長は望めないと。そうなりますとどうやってうまく落ちていくのかというところが結局ポイントだと思うのですが。その辺を聞きましてもなかなか、例えば伝統的に資源を産まない国々は下降、落ちていくと。日本も静かに落ちていくと。イタリアも脱成長段階つまり成長を終えた段階で、積極的に成長しないというのではなくて、現実問題として成長は終わった段階で。その点に世界は注目してると。どうやって落ちていくのかと。
こうした考えからイタリアは世界に向け何かを発信できるのだろうか、というようなことを話しあったのですが。彼はこういう言い方で「結局答えは分からない。ただはっきりしているのは、イタリアが過去40~50年間、世界の列強の実験場だったという点に注目すべきだ。―つまり赤い旅団なんていましたけど―赤い旅団などによるテロリズムの実験場だった。様々な国のちょう報機関がイタリアのテロを研究し、テロ対策を考案した。今は資本主義モデルをどう維持するかの一つの実験場と言える。実験場だと言ったのは、新たな問題にどう立ち向かい、どのような新しい生活のあり方を試みるかという考えを言いたかったからだ。イタリアでは人が自主的に生きてこられたわけではない。いつも外からの強い圧力があって、実際、底辺から何が出てくるのか、どう変わっていくのかは分からない。過去にそういうこともあったわけではない」
そして彼はまたこんな言い方をしまして「でも間違いなく下層から何かが生まれてくるだろう。でもそれがどんな方法でやってくるのか、そしてどう盛り上がっていくのかを今語ることはできない。でもそれを見ていく必要がある」と。
その下層からの変化というのは何なのですか、と聞きましたら、その下層の動きに反対する勢力ですね、それを抑えつける勢力が新たに生まれてくるだろうと。それともその動きを放置する、まあそれを自分たちの中で何とか収めることができる程度のものと見なしてそれを放置するか。まあそこを、外の人間はとにかく見極める必要がある。というのは必ずその何かが出てきたときに、逆に当局側の動きと言いますか、あるいは外圧も含めて、そういうような動きが出てくる。結局ここまでしか彼は分からない。
哲学者であるジョルジョ・アガンベンっていう人が分からないことをこれ以上考えてもしょうがないんじゃないかということで、もううんざりしてきたのですけど。やっぱり僕自身はんもんしてるところがありまして。はんもんというのは、イタリアはどうなっていくんだろうか。でもそれはイタリアのことだけじゃなくて、日本のことも含めてです。日本の場合は国が大きい、経済規模も大きいですから内需、何とか国内でしのいでいけるみたいなところで、問題がはっきりした形で現れないところがあり、変化も結構遅いと思うのです。その突先にいるのが、性格的なところは違うと思うのですが、やっぱり日本と似たような環境で、そういうイタリアの動きだと思うのです。
そういう中でもし結論めいたことを言うとすれば、30年40年かかるとしても、今の形の経済システム、それを全部ぶっ壊してそれに代替するようなものは何もないわけですから、それがどういう形で壊れるかってはっきりしないのですけど。あるいは今みたいな形がだんだんとその中身を変えていくっていう形を取るかもしれないと思うのですけど。ただフクシマに私も行って思ったのですけど、フクシマの人たちはあのような被害に遭っていることもありまして、原発に対する考え方っていうのは割と極端な形、極端といいますか、割と正直な形で現れているところがあると思うのですけど、外にいるとそんなふうに日々のことだとは感じない。でも彼らみたいに実際に原発の被害だとか、あるいはギリシャ、イタリアみたいに、イタリアもこの先、市場を中心としたマーケットの被害に遭っていくことで、日々の生活が不安になって、近未来の予測がつかないような事態に陥っていくと。そうなると「このままでいいんだろうか」「このままではいけない」と感じる人が当然増えていくと。
テオ・アンゲロプロスが言う扉というのは、おそらくそれに気づく人の数が次第に増えて、大勢を占める時代に至ることではないかと思うのです。ただその過程がどういうことになっているのか。先ほどいったような7~8つ挙げたイタリアの、他の国よりも突出した特徴がありますね。というか国に対する不信、政治に対する不信、あるいは勝手に独自で生きていくみたいな、そういう部分が伸びていくのであるとすれば、かなり長い期間をカオスの時代といいますか、混沌とした時代というのが続くのではないのかと思っております。
結論がはっきりしない形なのですが、皆さん、何かそこから、「そんなのこうなるに決まってるじゃないか」というようなことがあれば、言っていただければ、大変うれしく思います。非常に長い時間、雑ぱくとした話で恐縮でしたけれども、どうも皆さんご清聴ありがとうございました。
【橋都】 藤原さん、どうもありがとうございました。テオ・アンゲロプロスからアガンベンまで、大変興味深いお話だったと思います。どなたかご質問される方がいらっしゃいますでしょうか。誰もおられないようですので僕から。
僕はアンゲロプロスやアガンベンも印象的なのですけど、別のお一人引用された経済学者の言葉で「見えない人に対して、側にいない人に対しては残酷になれる」という。それは僕、非常に大きな一つのポイントのような気がするのです。僕は医学をやっていますので、常に進化論的にものを考えるのですけど。やっぱり人間の心というのは、数百万年、農業が始まるまでは小さな集団で移動しながら生活するという中で、人間の精神のシステムというのが作られてきたと思うのですね。ですから身近な人に対してはそれこそ優しくなれるけれども、見えない人に対して優しくなるということは、それは口では言えるのですけどそれはそもそも無理ではないかと思うのですね。ですから今経済のグローバル化が、ギリシャ、イタリアの国債を狙い撃ちして、経済システムを破壊するというのはある意味では当然だと思っているのですけれども。ですからそれに対する再生があるとすれば、やはり身近なところ、自分が見える範囲の人、そこから何かものを作っていく以外にはないんじゃないか、人間の心というのはおそらくそういうふうにできているんじゃないかと、僕自身は思っているのですけれども。
【藤原】 テオ・アンゲロプロスが言っていた、ファイナンスの問題と人間同士の関係、どちらが重要だということは彼は言ってないのですけれど、人間同士の関係のほうが重要であるということを私たちは想像することはできるだろうか、という。「想像することはできるだろうか」というところに重みがあるんじゃないかなって思うのですよね。つまり多分それは洞察力とかそういうところがあるでしょうし、人に伝えるってことにしても、本当に自分が経験しないとあるいは目で見ないと分からないのか、というところもあると思うのですね。僕はアフリカなんかに長くいたものですから、それがなかなか日本の人に分かってもらえないというところがあったのですけど。でも人によっては洞察力、分かる力みたいなものがあるとは思うし、そういうものが少しずつでも消えない形で人の中に広まっていけば、何か変わっていくんじゃないかというふうに思います。
【中川】 中川と申します。面白い話をありがとうございました。私はナポリというか南イタリアが好きで。皆さんあまり好きじゃない方が多いようですけれども。雑多で混沌としていて危なくてということで言われる人が多いのですが。これを6~7年、毎年のように行っているのですが。何が好きかというと、例えば日本との対比で、私くらいの年齢になって公園に行きますと、特に男性ですが、ぽつねんとベンチに座っている人が多い。ところが向こうに行くと、中高年、男ですけれども意外と、それこそおっちゃんたちがつるんでカフェで一杯やったりとか、女の人はあまりいないですけどね。日本は女の中高年の方がつるんでというのは非常に多いですが、南イタリアは特に逆で、いいなと。ともかく日本は中央集権国家だと思っているのですが、それに対して向こうは、特に南のほうは皆つるんでなんだかやっているし、ですからそういうことで自殺とかそういうのも少ないしと。酒を飲むのも多いのでしょうけども、なかなかいいんじゃないかなというふうに思うのですが。
今説明されたように他からも話がありましたけども、中央集権に対して、グローバル化もそうですが、そういう小さな村とか小さなコミュニティというのが私は必要なんじゃないかと思っているのですが、それが壁を破るのかどうかは分かりませんけれども。そういう小さなコミュニティということについて、どのようにお考えかなという。
【藤原】 僕はそういうのは好きなのですね。南のほう、アフリカに5年半いましてメキシコに4年いて、それからローマに行ったので、そういう段階できたものですから、イタリアというのはすごく進んだ社会だなという目で見ていたわけですね。ただ日本から直接行くと、やっぱり遅れたという感じがあると思うのですけれど。その南の良さっていうのはあって、やっぱりシチリアなんかずっとやっていますしね。そういう光景っていうのは僕、子供のころの昭和30~40年代は見ていましたし、あと高校が上野高校だったのですけど、根津のほうに帰っていくと、裏道とか通っていると、縁台っていいますか、将棋を指している、周りでこうやってるおじいさんのグループがいたのです、結構。別にそれをわざわざ見るってことはないのですが、当たり前のように見て帰っていたのですけど。ふと気づいたときに、僕の同僚なんかもそうなのですけど、谷中とかあの辺の感じというのが、ちょっとノスタルジックな感じでいい雰囲気で江戸情緒があるみたいな感じで、どんどん外から人が来て、マンションを立てて、大きいやつじゃなくて2階建てみたいな3階建てくらいのコーポみたいなのをどんどん作っていって。風情を求めてきた人たちの熱い気持ちが風情を壊しちゃったみたいなところがあると思うのですけど。その辺なんかイタリアの人はすごい頑固というか、変えたくないですよね。中はすごいハイテク化されていても表だけは絶対変えないみたいなですね、だからその箱の重要性みたいなところも多分あるのですけど。そこに何かなくなっちゃうといられるような場所もないと。
コミュニティの強さみたいなものを見ますと、やっぱり南に行くともっと強いですし。もっと地中海の向こう側のリビアなんかに、イスラム圏なんかに行くと、僕も最初知らないころは、イスラムっていうと回教なんていう言い方もされて、ぐるぐる回ってなんかっていう悪いイメージがあったのですけれど。実際はあれはなんていうかお祈りも大事なのですけど、一日5回とかやってるやつですね。あれ一番大事なのはおしゃべりなのですよね。お祈りをやる前に、朝もそうですけど、男たちが集まるのですね。男たちがお茶飲むとかコーヒー飲むところがあって、そこはもうばーっと人がいて、そのうちにアッラー・アクバルなんて言い出すと「ああ、じゃあそろそろ行くか」なんていう感じで、みんなでこぞって行って、お祈りをして、それで一緒に。その前にぜんぶ洗ったりしますけど。それは衛生的でもあるのですけど。それをまた戻ってきて、もう一回そこでまたお茶飲んでまたしゃべっているのですね。それから仕事に行って、1時間くらいするとまたアッラーとか始まりますので。それを一日5回繰り返すんだから。そしてこれは絶対に変えないです。ぜいたくなのですよね。だけどそのぜいたくさみたいなものを、シチリアなんかもアラブ色が結構強い場所もありますから、それがやっぱり南に行けば行くほど強いと。
今日は挙げませんでしたけれど、フランコ・カッサーノというバーリ大学の先生でしたけど、その先生は『南の思想』という本を96年に出したら、爆発的に売れてですね。南の思想だとかそういうものを取り戻そうという運動なのですけど。だけどそう単純に戻れるわけではないと彼は分かっている。だからその辺はバランスをどうやってとるかということですね。そのコミュニティ的な部分を残して、最先端の、自分の利益のためにコミュニティも捨てていくような、どちらかというとお金中心の世界というものを、どちらかっていうのではなく、うまい具合にバランスを取りながら生き残っていく道というのを探っていこうじゃないかというのが彼の言い分なのです。
そのバランスのとり方、日本なども完全に消えたわけではなくて、コミュニティ社会みたいな部分はまだ残っているところは残っていますから、その辺で、完全に「3丁目の夕日」の世界には絶対に戻れないし、果たしてあの時代が良かったのかということがありますが。結構、くみとり便所なんか臭くて嫌だったな、なんていう思い出もあるのですけれども。だからパッと戻るのではなくて、その良い部分というのを捉えて、うまい具合にバランスさせて生きていく、それがたまたまGDPに跳ね返らなければしょうがないというところもあるし、跳ね返ればいいだろうと。そんな感じの考え方がいいんじゃないかなと思うのですね。
【橋都】 いかがでしょうか、他に。では猪瀬さん。
【猪瀬】 猪瀬です。結構なお話をありがとうございました。ギリシャの危機と言いますか、ギリシャのこれからについてご意見を伺いたいのですが。ギリシャはあのような状態なのですけれども、ユーロから離脱するとか、これからどうやってあそこの国を経済再建していくんだというというようなことの、なかなか道が見えない。一方で最近、毎日新聞さんでしたか、ロシアがキプロスに巨額の援助をする可能性があると。キプロスはやはりギリシャと同じような経済の危機に陥りつつあるけれども、EUのメンバーですが、EUの世話にはなりたくない。EUから借りるくらいならロシアから金を借りよう。ロシアは宗教的にもロシア正教で、ギリシャ正教とは親戚ですし、ロシアはもともと昔から伝統的に不凍港というか南の方に進出したいということで、常にバルカン半島から地中海のほうへ出てこようとして、過去の歴史でもロシアとトルコは戦争をしたわけですよね。あの辺のバルカンの火薬庫とかいわれた不安定の大きな原因になっているわけですね。
今回、ギリシャがあのような連立政権ができて、すぐEUから離脱ということは何とか避けられるのではないかと思うのですが、ただ、あの国が経済的にユーロ圏の中にとどまって完全に自立してやっていくというのは無理であると。そうするとユーロ圏の中に置いておくためには、ドイツをはじめとして北ヨーロッパの国が、何だかの形で援助しながらやっていかなければならない。ユーロ圏を離脱したら今度はロシアのほうに行ってしまう―ロシアは今、南に進出しようとしているから―。ロシアがギリシャにお金をどんどん提供して南のバルカン半島のほうに出てくるというようなことは、EUとしたらぜひ避けたい、避けなければいけない。NATOもそうだと思うけれども。そうするとその辺の兼ね合い、もう一つはギリシャ文明、ギリシャというのはヨーロッパの文明の源流である、ご先祖様でもあって、私はやはり北の豊かなEUの国がギリシャを何とか援助しながら、これからも多額のお金を出しながらユーロ圏にあるいはEUに留めるのではないかと、その状態でずっと行くのではないかと思うのですが、いかがですか。
【藤原】 非常に難しい質問ですがとても大事だと思うのですけれども。結構その質問に関する答えがこの本「ギリシャ危機の真実」の中にもいくつか出ておりますけれど。(笑)そうですね、聖地のマウントエイトスに行きましたら、あの周辺はロシア人観光客ばかりなのですね。観光客といってもそんなにお金を使うという感じではないのですが。やはり聖地巡りですね。ギリシャはこの経済危機下でも、去年の2010年後半から現在にかけて、ツーリズムは伸びているのですね。伸び方というのは結構な伸びです。10%はいきませんけれども7~8%です。他は全部バーッと落ちているのですが。それはなぜ伸びているのかというと、やはりロシアやバルカン諸国からのツーリストが増えている。大きな理由というのは宗教的な同じ宗教というところがあると思うのですけれども。それで支えたいということもあると思うのですが、ギリシャのほうもそういうことをうまい具合にPRして、集めるのもうまいという。短いタームでいくとしばらくユーロ圏の中に残っていくと思いますが、長くいくと、それこそ5年10年くらいのタームでいくと、いつか出ざるを得ないのではないかなと思います。と言いますのは、出なくてもいいんだったら、その時点でユーロ圏そのものが、かなり変わってくるだろうと思いますから、それがギリシャが選ぶというよりはドイツが決めると。例えばお金はユーロとしてどこでも使えます。だけど借金のかたみたいなものはそれぞれ別ですから。ギリシャのやつとドイツが同じように扱われてしまっているというということですから。メカニズム上問題のあるユーロということが結局こういう問題を引き起こしているのです。それが少し共通線ができるかどうかは別にしても、弱い国債を支えるお金か何かがバンとドイツあたりから出されるかどうかということでかなり延命すると思うのですね。その辺を今回の場合ですと、結構報道で見られたのは、ギリシャ国民の恐怖が、このままいったら私たちユーロ圏から追い出されてしまう。こんなんだったら私たちはひどい目に遭ってしまう。ああひどい悲しい。そういうような思いが今の政権に投票させたと。どちらかというと親ユーロ派の政権をとりあえず連立政権に結びつかせたというような報道があるのですが、僕はちょっと違うのではないかと思っているのです。恐怖とかはあまりないのではないかなと思います。ギリシャの人たちって、日々の生活はあれでしょうけれど、結構先を呼んで計算高く、次はだれが金を出すかということを見ているというのはあると思うのです。以前に銀行員が3人死んだ暴動があったのですが、そのときに行ったら、翌日、皆葬式をやっていていろいろな人が集まってきて「中国が金を出すって本当か」という話になっているわけです。とにかくこれまでの歴史―この本にも書いているのですが―、どこがパトロンなのと、パトロン見つけることがすごくうまい国民性みたいなところはあると思うのですよ。そうしますと、先ほど言った、ロシアのほうから来る場合もあるし、後はユーロ圏の中枢からどれくらい来るか。実際絶対返せないと思います。もうすでに借金の内、半分は返さなくていいということになりましたから。後残り半分も多分返さない。首相は、絶対返しませんなんてはっきりとは言いませんよ。言いませんが、一般の人は、返すわけがないじゃないかと皆言っています。現実問題、計算してみても返せないですよね。返せないけれど、ではどうするのかという話になってきて、それはもう貸した側も多分返せないだろうと分かっている。だけど経済規模が小さいですから、あまり騒がないでそこで長生きさせるか、あるいはもう切っちゃったほうがいいか。もう計算までしていますからね。切った場合には来年のGDPは26.7%減とまた細かく計算しているのですが、どこまで本当か分かりませんけれども、落ちるらしいのですね。そうするとイタリアは17%くらい落ちる。スペインも落ちる。フランスも落ちる。しかしギリシャ一国だけを追い出した場合に最終的にどうなってくるかというと、2~3年でプラスに転じる。だけどユーロ圏全体が崩壊した場合には、4~5年はかかる。その辺の計算はもうすでにしていて、まだとりあえず寝た子を……という感じで動かさない感じでじわじわ行くと思うのです。なぜかというと今回何が変わったかというと何も変わっていないのです。連立政権といっても、どこかの一つの政党が自分の言いたいことをそのまま主張できるというようなことにはなっておらず、前と一緒なのです。右と左がくっついてお金を借りる瀬戸際になったときに、ちゃんとやりますと言って借りて、その後またお金がなくなったときに、今度また借りるということを続けるという状況が続いているわけです。瀬戸際劇場というふうに書きましたけれども。私はそれを決して非難しているわけではないのです。国民が生き残るうえで非常に強いところだと思っているのです。そんな状態がしばらく続きます。そうこうするうちに、この間スペインが落ちましたが、今度はイタリアの政治が始まってきますね。イタリアの場合は、ペッペグリッロさんという人が、今人気が出ています。彼はどちらかというとアナーキストに近い人で、そういう人が今人気が出てきていますから、イタリアはどうなっていくかというとちょっともめていくと。そこでしばらくじわじわと行きますけれども、最終的にはヨーロッパ全体の経済が勃興するということはあり得ませんから、どれだけ伸びていくかというところで、当然劣等生という形で出てくる。その間にロシアからある程度投資ももらいながらというところです。
ギリシャには米軍基地が、4カ所くらいありました。日本の場合には自分たちがお金を出して、思いやり予算で、米軍に守ってもらっているところがありますが。ギリシャは一時、アメリカからお金をもらってソ連からもお金をもらって。昔のパパンドレウのお父さんがサダム・フセインと仲が良くて、そこまでいくとアメリカが行かないでくれということになって、行かないためにはお金をもらったりとかそういうことを実に巧みにうまくやっているのです。「今はとりあえず、何とか税金で生活していますが、こんなんじゃやっていけません」というようなことを皆書いているのですね、そういう状況がしばらく続くと、そしてやっていくのではないかと思うのですね。ですが長い目でいくと、先ほど言ったような近未来ということで考えていくと、やはり崩壊していくのではないかなと思いますけれども。崩壊というか長いカオスの時代が始まるという感じがします。お答えになっているかどうか分かりませんけれども。
【橋都】 いかがでしょうか。もしおられればもう一方。では佐久間さん。
【佐久間】 佐久間といいます。先ほどイタリア人は地元だけが好きだというお話がありましたが、今度の経済危機などいろいろなことがあると、だんだんイタリア人という意識が強くなっているように感じるのですけれども、どうお考えですか。シチリアの人たちだったらシチリアの町だけが住人であって、イタリア人ではないという意識が昔は強かったのが、だんだんイタリア人的な意識が強くなっていくように感じています。
【藤原】 現在のイタリアですね。ナショナリズムということ。そうですね。例えばボンド、国債が下がってしまったことに対して、理由は、ギリシャもそうですが、とにかく自分たちの国債だけは買わないというような感じで、他の国の国債は買うのですが。そういう時代が長く続いたのです。とにかく自分の国の国債を買おうじゃないかというような運動が起きまして、それが結構支えた部分も、わずかですがあります。そういう面で、普通の言い方で言うと、強敵であるマーケットに対抗してもっと地道に行こうというような形で。そういう面でのナショナリズムは結構出ていると思います。地元というのは、向こうでやっている「KMO(キロメトロ・ゼロ)運動」などという地元のものしか消費しないようにしようみたいな、そういう意味で地元が好きだという言い方をしたのですが。ナショナリズム全体のイタリア人のどうのというのは、この先どういう形で出てくるのかなというのは、僕がいた時点ではまだはっきりと分からなかったですね。サッカーのときなどはすごく盛り上がりますけれど、日々の中では。国家主権主義というのはフランスなどはすごく強いところだと思いますが、後はドイツも強い。特にフランスですね。国家主権主義という考え方がすごく後に入ってきたのはイタリアで、もちろん国家統一ということが遅れたということもあるのですが、それでも明治維新と同じくらいの時期に国家統一したわけですから、全く国家意識、アイデンティティがなかったというわけではなかったと思いますが、その割にはイタリア人意識というのは、そのような大きなイベントのときには現れているとは思います。日々の生活の中では強く受け止めていないなということは強く思いました。日本人の悪口を言われたときに、自分が日本人だとしたら自分がばかにされているような印象が少なからずあるのですが、イタリアの場合はそんなにないな、その辺は越えちゃっているな、あるいは元々そういう国家意識みたいなものが薄いなという感じがしたのですが、それが急激にどういう形に伸び上がってくるか。またムッソリーニみたいな強権的な人が出てくれば別ですが、今のところそういう状況ではないと。そんな印象で、大きく変わっているというような印象は持たなかったです。
【橋都】 どうもありがとうございました。藤原さん。大変面白いお話をしていただきまして、皆さん、もう一度拍手をお願いいたします。どうもありがとうございました。