タブッキののこしたもの

第385回 イタリア研究会 2012-07-24

タブッキののこしたもの

報告者:東京大学大学院総合文化研究科准教授 村松 真理子


7月例会(385回)

・日時:2012年7月24日(火)19:00-21:00

・場所:東京文化会館

・講師:村松 真理子 東京大学大学院総合文化研究科准教授

・演題:タブッキののこしたもの


【橋都】それでは総会に続きまして第385回のイタリア研究会例会を始めたいと思います。皆さんご存じのように、今年の3月に,20世紀から21世紀にかけての現代イタリア最大の作家の一人であるアントニオ・タブッキが亡くなりました。ということで、ぜひタブッキに関するご講演をお願いしたいというふうに考えまして、今年の1月に続いて東京大学教養学部総合文化研究科の准教授である村松真理子さんにお話をお願いしました。今日は『タブッキののこしたもの』というテーマでお話をお願いしてあります。

それでは村松さんのご略歴をご紹介したいと思います。村松さんは東京大学文学部のご卒業で、文学部大学院人文科学研究科の修士課程および博士課程を修了されまして、1994年に文学博士となられております。その後ボローニャ大学の大学院で勉強されまして、博士課程を修了して1997年にPh.D.(doctor of philosophy)を取られたという大変優れた方でございます。前回はダヌンツィオのお話をしていただいたわけですけれども、今日は今年亡くなったアントニオ・タブッキについてお話をお伺いできるということで大変楽しみにしております。それでは、村松さん、よろしくお願いします。



【村松】皆様、こんにちは。村松でございます。橋都先生、大変立派なご紹介をいただきまして、どうもありがとうございました。また、今年2度こちらでお呼びいただくということで大変名誉なことだと思っております。ありがとうございます。私は今ご紹介にあずかりましたようにイタリア文学研究をずっと続けておりまして、一つはボローニャで勉強した分野というのも中世末からルネッサンス期の時代ということで勉強をしております。もう一つが前回お話しさせていただいたダヌンツィオ以降といいますか、19世紀末から20世紀、そして現代までの文学ということで、ちょっと欲張って2つやっております。専門家というのがいいものかどうかというのは昨今大変議論がございまして、専門家という人たちが信頼を失っています。文学に専門家というのはあるのかということがあって、文学というのは世界を何とか個人的な視点から捉えようという試みであり、言葉を駆使して、そして相手に対して語るという芸術なわけです。その文学を何とか自分なりに、そしてイタリア語の文学というものをテーマとしている中で2つ時代というものがある。ですから、今日お話しするタブッキにしても時代ですとか場所というもの、それは非常に重要でありながら、またそれを言葉によって超えていくというのが文学であるというふうに考えられるかと思います。

残念ながら、タブッキは今、橋都先生からお話がありましたように今年亡くなってしまったわけですけれども、そのタブッキという作家がどういう作家であったか。もしかすると、この中にはタブッキの愛読者の方がたくさんいらして、こんなことは今日わざわざ聞くまでもないというようなことをたくさん私が申し上げるかもしれませんけれども、そこは話のつながりとしてお許しいただきたいと思います。

まず、タブッキという作家がどういう人であったか。恐らくはイタリアの現代文学を担う作家たちの中で際立って国際的な、ヨーロッパ的な作家であっただろうと思います。1943年生まれですから、まだまだたくさんの作品を残してもらいたかったですね、非常に残念です。このタブッキはトスカーナの出身でピサの近郊で生まれて、ピサの人と言っていいのだと思いますけれども、この人が国際的である、ヨーロッパ的である、そしてそれ故に実はイタリアで認められるよりもフランスでの評価が非常に高かったのです。最初にフランスのほうで評価がされたということもあります。20世紀の文学もイタリアにおいては、イタリアの文化全般がそうですけれども、地域性というのが非常に重要です。その中で、そういうものが薄くも思えるような、ある意味で国際的または非イタリア的なタブッキという人の評価が遅れたのは納得がいくことで、ある時期以降のイタロ・カルヴィーノなどにもその傾向はあると思います。ですから、彼は非常に国際的な作家であり知識人であり、ヨーロッパにおいて認められた人です。

そして今、亡くなった段階で改めて考えてみますと、彼が作家として社会や歴史との関わりを非常に重要なテーマとしていたということです。それはどんな文学においても優れた文学というのはそういうものであるというふうに言えますけれども、一見ヨーロッパ的であり、非イタリア的であり、無国籍的でありながら、実はやはりoriginというものが非常に重要でした。つまり、ヨーロッパという軸と、もう一方でイタリア、そしてイタリアの中でも彼のorigin、出生地でもありますし、または家族の伝統というものを持っているトスカーナですね。非常にトスカーナ的な、自分の持っていた伝統・起源というものにこだわり、そこから出発し、それに最後までこだわった作家でもあったというふうに思われます。

ですから、もう一つ言えるのは、ヨーロッパとイタリア、ヨーロッパとトスカーナというような、彼の2つの軸というものです。そこで、言葉も彼はフランス語や英語ももちろんですけれども、特にポルトガル語とイタリア語を使って書いたバイリンガルの作家です。彼は40年来、1年の半分はイタリアで、残りの半分はポルトガルで過ごすというような生活スタイルも守った人です。それはまた彼の2つのアイデンティティーというものにつながっていす。つまり、文学者であり研究者である、作家であり大学でポルトガル文学を講ずる研究者でもあった。また、作家であり翻訳者でもあった、そういうことともつながっています。また大学人として公の人であり、作家としての個人でもあった、その部分も彼にとっては非常に重要で、どうも研究者の自分も好きだったみたいですね。別に最初から作家だと思っていなかったというふうに自分のことを言っています。

先ほど申しましたようにヨーロッパでまず成されたタブッキの評価ということになりますと、1987年にフランスで外国人に与えられるメディシス賞を取っていますし、またポルトガルやフランスから受勲をするというようなこともありました。イタリアではフランスよりも遅れてカンピエッロとかスカンノという賞を取って、そして晩年にEU全体の国際的な賞、そしてヨーロッパのジャーナリストからも賞を受けるような国際的な評価を既に受けていた、そういう人です。その評価は、特にジャーナリストからの賞ということを申しましたけれども、彼の文学作品だけではなく、先ほど申しました個人としての社会や歴史との関わり、いわゆるアンガージュマンといいますか、そのような活動に対しても与えられていたということです。小説においてもそういう社会への関心を表明しましたし、また、この人は日本でもかなり訳されている作家で、ウンベルト・エーコと並んでさまざまなエッセイがここ10年ほど訳されているのですけれども、それ以外にも社会的・時事的な批評というのは新聞とか雑誌などにもパリから、またはリスボンからも寄稿するという形で書き続けています。

また、例えばフィレンツェの市政が変わってトスカーナ州の政治的な行政の方針というものが変わったときには、1999年に『Gli Zingari e il Rinascimento』という、ファッションとか商業的なものを重要視しながら、さまざまな多様な新しいイタリアの人々、移民の人たちの生活環境や人権について語りながら、行政に対する批判として批評しているエッセイなども書いています。またペンクラブ的な国際的なコミュニティーにおいても彼のさまざまな勇気ある発言というのは評価をされていました。

彼は晩年に病気だと言われていましたけれども、心労にもなったであろう一つの事件というのが、シチリアのベルルスコーニ派の政治家であるレナート・スキファーニ上院議長に名誉棄損で巨額の損害賠償で訴えられていたことです。このスキファーニという人はシチリア出身の政治家で、彼がマフィアとの関わりがあると言ったわけではないのですが、新聞紙上においてさまざまなことがささやかれる、彼に代表されるようなシチリアのベルルスコーニ派の政治家たちには政治家として、国会議員として、自らの政治的・個人的な経歴をはっきりと国民に対して明晰に語る必要がある、語る義務があるということを言ったのです。ですから、タブッキは個人的な中傷をしようとしたわけではないのですけれども、個人的に作家が弁論によって、言論によってメディアを通して書いたことに対して、大変な金額を要求される裁判になったということです。それに対してここで『Sostieniamo Tabucchi』というふうにタイトルを書いておきましたけれども、『Sostiene Pereira(ぺレイラは主張する)』という彼の代表的な作品があるわけですが、それにかけてこういうタイトルで新聞等で報じられていました。これはどういうことかと言うと、彼の裁判に対して、まずどこから支持が上がったかというと、ルモンドなのです。晩年、最後にイタリアの大学で講じるという仕事を引退いた後、住んでいたフランスにおいてフランスの知識人がルモンド紙を中心に彼を支援しようという輪が広がりました。新聞紙上で世界の多くの知識人や作家たちがタブッキへの支持・連帯を署名し、表明したということです。

こういうタブッキの国際性とフランスを中心とする、そして日本でもこれだけ翻訳が出ているという点での国際的な評価ということなのですが、彼はまず最初にポルトガル文学研究者として出発しました。面白い親戚のおじさんがいたようで、その関係からパリに遊びに行ったり、あるいはルッカに作家志望で作家になれない文学的なおじさんがいて、子供のころからそういうおじさんと話をしたり、薫陶を受けてしまったらしいのです。そのパリに遊びに行った帰りに本が古本屋のワゴンに乗っていたので、安くて何気なく手に取った本をイタリアへ帰る汽車で読んで、その本というのがポルトガルのペソアの詩の本だったというのです。それが1960年代で、このような詩人を出した20世紀のポルトガル文学であれば自分は勉強してもいいと思ったと言うのですね。ただし、彼はピサのスクオーラ・ノルマーレ、人文系でも名門の大学ですけれども、そこでロマンス文献学で学位を取りました。そこでは16世紀のポルトガル文学。16世紀のポルトガルというのはスペインと併合され、バイリンガル(2重言語)の状況が歴史的な文学ではあるのですけれども、現出しました。その時代の文学に非常に興味を持ったということをインタビューなどでも言っています。ペソアの現代文学の研究や翻訳もこのころから始めました。

その後、彼はボローニャやジェノバやシエナの大学で教鞭を執りました。彼は常に作家と研究者、そして自分の個人的な生活というものを非常に大事にしていたのだということをインタビュー等でも言っています。小説なんかを書き始めたのは、まず子育てが落ち着いてからだったとか言っているのですけれども、彼の奥さんがマリア・ジョゼ・デ・ランカストレというポルトガル人で、ペソアの研究者であり、イタリア語訳など共訳もしています。この奥さんと結婚してから、自分の個人的な生活でもリスボンとイタリア、トスカーナを半々にして子供たちを一緒に育てたのだと言っています。ですから、彼の文学において、研究において、生活において常にイタリア語とポルトガル語の間を行ったり来たりしました。そういう行ったり来たりをする、自分が2つの言語によって語るというものと、ペソアという、彼が対象とした詩人の世界というものが重なってくると言えると思います。これは、ネットで見つけた写真ですけれども、自分の研究対象で愛する作家・詩人のペソアと一緒に並んでダブルをやっているところです。

このペソアとはどういう作家かと言いますと、リスボン生まれで1888年~1935年に生きた人です。ただしこの人はヨーロッパに生きただけではなくて、アフリカにも行っていましたし、学校にしてもポルトガル語の学校ではありませんでした。ポルトガル語と英語とフランス語を使って作家としても詩、散文も書いているという人なのですね。ここに挙げてある名前なのですが、彼は言葉だけではなく自らのアイデンティティーをさまざまな名前を使ってダブルにし、トリプルにするというようなことをやりました。ですから、本当にどんな作家だったのかが作家自身によって謎にされた、そういう詩人なのですね。彼の翻訳の詩集は日本語でも出ていますけれども、タブッキの世界につながるかなという気がして少し紹介しますと、「詩人はふりをするものだ。そのふりは完璧過ぎて本当に感じている苦痛のふりまでしてしまう。ふりをすることは自分を知ることだ」とか、「私たちの中には無数のものが生きている。自分が思い、感じるとき、私にはわからない。感じ、思っているのが誰なのか。自分とは単に感覚や思念の場に過ぎないのだ」。「この瞬間だけが私のことを知っている。私の記憶でさえ何物でもない。だから私は感じる。現在の私も過去の私も異なる2つの夢に過ぎないと」。「私は読書が嫌いだ。見知らぬページは読む前から私を退屈させる。私は自分が既に知っているものしか読むことができない」というようなことを書いていて、ペソアの文学世界というのは彼の生きた時代にももちろん非常に密接に結びついているわけです。ポルトガル史というのは私たちにはそうなじみがないものかもしれませんけれども、ヨーロッパの中でもフランスやイタリアと共通すると同時に特異な歴史でもあったというふうに言っていいのではないかと思います。


黄金の大航海時代という栄光の歴史を持ちながら1910年の革命まで王政が続いた国で、そしていったん共和制になりますけれども、そこでムッソリーニのイタリアやフランコのスペインと歩調をそろえるような独裁化の歴史というものを体験しました。そして、またこれはイタリアとも非常に違うことですけれども、過去の重みということを考えた場合にポルトガルには植民地というものがあって、非常に小さな国土でありながら自分たちの外側にそれより大きな国土、テリトリーというものを持つということを1970年代の半ばまでずっと続けてきました。そういうところでペソアという人も育ち、そしてリスボンに戻り、そしてさまざまな言語を使った、そういう人です。そのポルトガルをペソアを通じて、そして実際に個人の生活の中でタブッキはずっと生きてきた、見てきたということだと思います。

では、タブッキ自身のoriginということを考えた場合に、それがどういう作品で描かれているかということです。本当は本を持ってきて皆さんにお見せして、ちょっと広告すればよかったのですけれども、手元に一冊もなくて、ここで写すだけなのですけれども、私はタブッキが日本で翻訳される前からずっと好きで、この作家はぜひ翻訳するべきではないかと出版社の人に言ったら、そのときにもう日本で最初に翻訳出版された作品を須賀敦子先生が訳していらしたところでした。タブッキがイタリアでも、そしてフランスでも評価されるようになったのが80年代以降の作品なのですが、実はこの『イタリア広場』というのは彼が一番最初に文学作品として書いたものです。もちろん論文とかそういうものは書いているのですけれども、それは1973年に執筆して1975年から出た本です。須賀先生をはじめこんなに多くの翻訳者の方たちがタブッキ作品を訳しているのに、なぜかこれだけつい最近まで出ていなかったのです。

私はこの作品がとても好きだったので「じゃあ、やります」と言って訳したというのが、この最初の処女作『イタリア広場』です。私は基本的に好きな本を「やります」と言って、まず編集者の人と話して「じゃあ、やりましょう」ということになると「よかった、よかった」と思って始めるのですけれども、それで失敗したことが何度もあって、この『イタリア広場』もそうで、なんで誰も訳していないのかなと思っていたら、やり出したら分かって、…とても難しくて、訳しにくかったのです。話もとても複雑な筋になっていまして、「これはみんなやりたくないな」と訳してから気が付いて、とても苦労して、遅れて、編集者の方に怒られながら何とかやりました。ただ、そう言うと、そんなにややこしいのは読みたくないと思われるかもしれないのですが、思わないでいただきたくて、…とても魅力的な作品なんです。

多くの作家の場合、処女作というのはまだ作家になる前なのですね。自分が作家になるとは限らない。その後、幾つもいろいろな作品を書こうと思って作家は処女作を書くのではなくて、もしかするとこれが終わりかもしれないと思ってすべてのテーマを盛り込んでしまいがちなのが作家の処女作というものです。大作家において処女作というのが実はとても魅力的な場合が多いのですね。その未熟さを置いておいても、その後の生涯のテーマが実は処女作に詰まっているというようなことがしばしば多くの作家に認められることです。この『イタリア広場』はまさにそのような作品であるというふうに私は考えています。どういう話かと言いますと、トスカーナのある一家の物語。そこには土地が、風土が、そして3世代の家族の生きた村の歴史、そしてイタリアの歴史が書き込まれています。これはほとんど100年間にわたる物語になっています。

ただ、先ほど言いましたように80年代以降タブッキは非常に評価されていくのですね。ですから、最初に書いたときは、これも文学で例えばウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なんかも出したミラノのボンピアーニですけれども、そこから出したときはそんなに反響を呼んだわけでもなかったのですね。そして、その後のタブッキの作品が非常に多くの読者に読まれるようになってから、これが再版されました。タブッキはボンピアーニが最初ですけれども、その後ミラノのフェルトリネッリというところとシチリアのセッレリオという2つの出版社が彼の文学作品、創作のほうの出版社でした。そのフェルトリネッリのほうから1993年に改めてもう一度再版されます。そこに序文を書いているのですけれども、「20年経って読み直してみると、どうもおかしな感じがする。当時の私が書いた本を再び出すというのもおかしなものだ。その私は今の自分と同じなのか。それとももう一人の誰かなのだろうか」という序がついています。これは先ほどのペソアとの関連、ある意味ではペソアの引用なのかもしれません。「ただし」、この序はそう続くのですけれども、「この本が私の根っこであることは分かっている。個人としても作家としても、すべては元に戻る。いや、何も戻りはしないのだ。とにかくそんなことは分かる人に任せておこう」。そのような序文が置かれた90年代の再版の『イタリア広場』ですが、中身については副題を変えただけで、いじっていないと作家は言っていますし本当にそうみたいです。

どのような物語なのかということなのですけれども、まず場所はマレンマ地方の村、これは大文字でBorgo(村、集落)というふうに呼ばれて、名前は最後のほうにこんな名前だったのかなというふうに、ちらっと出てくるのですけれども、実在の都市の名前とか町の名前というものは出てきません。ただ、読んでいくとその風景とか場所の描写からマレンマ地方の村なのだなということが分かるのですね。そして、3代にわたるある一家の物語で、この人たちは農民でもない、地主でもない、職人でもない、庶民なのですね。そして、さまざまな生産手段とか土地というようなものを所有しないのだけれども、自分の腕と知性と言葉で何とか生きていくような、そういう非常に民衆的な一家の物語です。3代にわたるその家の男性が主人公です。ただ、30歳で死んでしまうのです。それが最初から決められたみたいに30年の人生なのです。「おじいさんから聞いた話を随分書いたのだ」と本人もインタビュー等で言っていますが、ピサの近郊におじいさんが住んでいて、自分が生まれるときにお母さんがそこの村に帰って出産したということで、タブッキの故郷と言ってもいいところです。ただ実際に大きくなってから、ふだんはずっとピサに住んでいたわけですけれども、生まれた地、家族のoriginの地、ヴェッキアーノがモデルであろうことが分かりますし、そこがずっとこの物語の舞台になっています。

構成も非常に特徴的で、プロローグではなくエピローグから始まってしまうのです。最初読んだ読者は「なんで終わりから始まるのだろう」と。しかも主人公らしき人物が死んでしまうのです。いつなのだろう、誰なのだろう、どうして死ぬのだろうと思ってエピローグから入ると、第1幕、第2幕、第3幕と続きます。そして、第1幕は19世紀末なのです。読んでいくと、最初に死んだガリバルドというのがいて、けれどもそれは19世紀末のプリーニオという主人公の一家であって、そしてその子供たちと、その子供たちの子供の物語になっているということなのです。最後にエピローグに戻ってくるわけですけれども、第3幕の最後、終幕と最初に置かれているエピローグはいつかというと第二次世界大戦後、イタリアが戦後の発展に入っていく、そういう社会の変動期に入っていく時代です。ですから、19世紀末のイタリア統一の時代から1950年代までが描かれています。

プリーニオというのが最初の、そしてこの大河的な家族の物語の最初の主人公ですけれども、その人の妻はエステリーナ。奥さんたちもみんなそれぞれ非常に個性的です。このプリーニオは少年としてガリバルディの千人隊に参加したということになっていて、まだ銃も使えないような少年だったということになっているのですけれども、それを非常に誇りに思っている、そういう物語です。そうすると、子供が生まれたら名前をガリバルディにしたかったのです。でも最初に双子の男の子が生まれてしまうので、2人ともガリバルドというガリバルディの単数形にしようと思って役所に届けるのですけれども、役所は「そんなのは受け付けられない」と言います。しょうがないので千人隊の乗船地と上陸地をとって、双子の男の子をヴォルトゥルノとクワルトという名前にします。その後で生まれる女の子がアニータという名前になって、4番目の男の子はガリバルディではなくガリバルドという名前になります。そして、ガリバルドの子供とアニータの子供が3番目の世代の主人公たちとして描かれていきます。

ここで語られる歴史はあくまで非常に民衆的な、貧しい、そしてその貧しい中で家族がさまざまな知恵を使い、実際に国家の法律から外れることもあります。そういう中で危険を冒しながら自分たちの人生を築いていくような一家。3代ともそうなのですけれども、あくまで家族の目を通した、家族の物語として語られます。けれども、そこで描かれていくのはイタリア統一、ガリバルディ。そして、そのガリバルディの像が広場でどのように人々に見られているか、ガリバルディの像をめぐって広場がどのように変わっていくのか。エピローグでガリバルドが最後に死ぬところ、そしてまたそこに戻っていく、それがイタリア広場なのですね。まずイタリア統一が語られ、アフリカ出兵が語られ、第一次世界大戦で出兵するという物語もあり、そしてまた移民ですね。長いこと北米に、そして南米に主人公が行って、また戻ってくる。そして、この作品の最後のクライマックスに向けて非常に感動的に描かれているのがファシズムからレジスタンスの時代です。その中で最後のガリバルドの友人たちの物語、村の人々の物語というものが描き込まれて、最後に戦後の時代になります。

ですから、ここでは視点というものが一つに設定された歴史が語られます。これは明らかに民衆から見た近代イタリアの歩みです。歴史や国としての、国民としての、そして民衆としての記憶というものが語られるのですけれども、その語りは民衆的でありながら非常に叙事詩的な広がりを持ちます。一つは、彼がこの作品を寓話というふうに呼ぶのですけれども、寓話(favola)であり、また神話的な地平というものを持っています。30歳でいつもみんな死んでしまうとか、リアリズム小説ではないのですね。魔術とか予言とか、さまざまなある種の夢であるとか、空想であるとか、そういうものが語られていく中で登場人物たちが造形されています。ですから、写実的な大河小説ではないけれども、民衆的な言葉を書き言葉に移していく、そういう実は非常に知的な実験が成されています。ただ、読むときにはその語り口こそが最初から最後まで読者をその世界に、人々の叙事詩の中に引き込んでいく作品になっています。1973年には『romanzo popolare』というふうに彼は副題で付けたのですけれども、それを1993年に唯一この作品でいじったと言っているのがこの「romanzo」の言葉で、それを『favola popolare in tre tempi,un epilogo e un’appendice 』。第3幕と呼ばれる構成、これは非常に劇場的で、舞台は広場を中心とする一つの村です。アリストテレスではないですけれども、場所はずっと一緒なのですね。そして、最初にエピローグが来て、最後にエピローグと付けられないのですね。その一家ではないけれども、狂言回しのように視点として最初から最後まで脇役ではあるけれども、村の重要な人物が、家族と常に関わりを持ってきました。それが、最初にはまだ若かったのだろうけれども、最後にはもう幾つなのか分からないぐらい年を取ったおばあさんと言える老婆とその村の司祭の物語です。その二人が主人公になるのが付録(appendice)になっています。今お話したように、これは歴史を知らなくても、イタリアのレジスタンスの歴史に興味がなくても、不思議な、非常に個性的な一家、常に「シニョーリ(旦那)たちの世界にはくみしない。自分たちは自由なのだ」と言って生きてきた3世代の男たちとその妻たちの物語として読めるのです。もう一つはレベルとして、中心的なテーマとして語られているのが近代イタリアであり、ファシズムであり、レジスタンスである、そういう作品になっています。

読んでくださっている方にとっては下手な要約で申し訳なかったのですけれども、この語り口というのがくせもので、とても魅力的なのですが訳すのは非常に難しいです。どう日本語にするか、私は非常に苦労したのですけれども、まず第1章の初めのところを少しご紹介します。「L’unica cosa che Garibaldi non riusciva a comprendere della vita era la morte」これもまた非常にパラドックスな、反語的な出だしで「ガリバルドが人生(生きること)においてたった一つ分からなかったこと、それは死だった。彼はそのとき父親が棺桶の中に小さくなって横たわっているのを眺めていた。両方の腕を婚礼の晴れ着の上に組んで、額のちょうど秘跡を受ける辺りには黄色い汁がこぼれ出さないように包帯が巻いてあって、それが黄色く染まっていた。すると、父親のほうが彼を助けてくれた。起き上がって座り、ポケットから腕時計を取り出して言ったのだ。まだ少し時間がある」。これがリアルな小説として、そういう言語で書かれていないというのは分かると思います。もう死んでいるはずの人が棺桶からもう一回起き直して「明日の朝までは」と言って自分の人生を小さな息子に語るのですね。

今、短い出だしのところでもシンタクスが一見すると単純です。言葉も非常に日常的な言葉がたくさん使われています。口語的な語いや慣用表現。けれどもそのシンプルな言葉に多くの意味が込められているのですね。そして、話し言葉のように短文のシンタクスが多用されています。「che」を使った関係節も出てくるのですけれども、それも非常に単純な話し言葉的な使い方をしています。けれどもそこに多くの象徴性が盛り込まれているということです。また、仕掛けとしては、これは後のタブッキの多くの作品でまた展開されていく仕掛けなのですけれども、円環の構造になっていて、プロットの構成が終わりから始まって、そして終幕でまた戻ります。

先ほどの子供たちの名前のところでもあったのですけれども、まず双子の名前を2人ともガリバルドにしたかったということです。その双子も統一イタリアになってからアフリカに出兵する、徴兵されるわけですね。ですから、ガリバルディとともに理想を持って戦った民衆の国家であったはずの国家において、旦那たち(シニョーリ)というのがいて、そして人々はどのような生活を強いられていくか。その一つがアフリカに出兵するということ、徴兵であったわけですね。そこで2人の若者として成長していたクワルトとヴォルトゥルノはアフリカに行くのですけれども、アフリカ大陸で1人は死に、1人は消えてしまいます。でも、本当にその2人は手紙に残されたように消えたのだろうか。死んだのは本当にクワルトのほうだったのだろうか。そのような交換可能な双子だから交換されてしまったのではないか。その子供たちの名前が、父親が死んだときに今度はまたその家族にとって重要なガリバルドという名前が3代目の主人公に冠せられます。それは幼かった子供に母親が改めて死んだ父親の名前を付けるという行為によって行われます。ですから、名前とともにその家族の歴史やさまざまなものが象徴的に継承されていきます。名前はアイデンティティーであり、けれどもそのアイデンティティーは揺るぎないものではなく、そしてまた繰り返され元に戻ってくるかもしれない。そのような表現や物語や名前の非常に多義的な世界、象徴性、曖昧さというふうにも読めるかもしれません。そして、その曖昧さや多義的なダブルというのが、言葉の上でも口語的な要素と書き言葉というものが混交された文体として縦横に使われているということになります。

そういう2つの極というのが常にタブッキの中にあって、その間でテーマも言葉も、そして彼自身の生き方も揺れるということが言えるかと思うのです。この作品の中では、どのような二項対立的なテーマがあるだろうかということを考えると、まずそれは個人と社会、国家と民衆という軸が常に出てきます。それがこの作品のクライマックスで非常にはっきりとした形で、そして近代イタリアの歴史においてはっきりとした形で出てきたというのがファシズムとレジスタンスという2つの対立するイタリアに分かれた、そういう時代であったわけですね。それがこの作品では民衆の目を通して描かれています。非常に魅力的な物語になっていると思います。そのような一つの歴史的な時間や空間の広がりの中で個人と社会という2つの軸があるとすると、今度は歴史的な時間の流れの中で常に生者と死者というものが存在します。死んだ人が地上から消えてこの物語にとって存在しなくなるかというとそうではなくて、常に死者たちと生きている人たちはつながっている、関わりを持ち続けるというのがまたこのタブッキ的な世界をこの処女作が予告している、まず最初に示しているというふうに言えるのですね。

そしてまた個人のアイデンティティー、先ほど言いましたけれども、もしかすると個人というものは本当にあるのだろうか。一方で個人と社会の対立を歴史的な事件の中で描きながら、同時にそれ自体が揺るぎのない前提であるかというと、タブッキはそれを常に揺らすのですね。ですから、アイデンティティーすらも交換が可能なものかもしれない、反復するものかもしれない。そして、死と生というものも常につながっている。死というのは生の断絶ではないのかもしれない。そういう世界をこの作品は描いています。そこで大きなテーマとして浮かび上がってくるのが民衆の記憶と呼ぶべきもの、もしくは歴史というふうに名付けられるものであるということです。

この『イタリア広場』から始まって、タブッキはさまざまな作品を書く中で、この処女作の中にあった2つの極というものを、揺れながら、どちらかに重心を置きながら書くということを続けていきます。1975年に『イタリア広場』が出版されて、2009年に日本で翻訳が出たのですが、1981年に『逆さまゲーム』というのが出て、1991年に『インド夜想曲』が出ました。1981年以降の『逆さまゲーム』『インド夜想曲』『レクイエム』『ぺレイラは主張する』、そこまででイタリアにおいても非常にタブッキの評価は高いもので確定していきます。そして2004年に『トリスタン死す』という作品がありまして、2009年に最後の長編の作品集の一つですけれども『時は老いをいそぐ』というのが出ていまして、それが今年、岩波書店から翻訳が出たところです。

最初にタブッキを日本の読者に紹介した須賀敦子先生なのですが、タブッキ作品の須賀敦子先生のあとがきで2分類というものがなされています。どういうことが言われているかというと、「タブッキの作品は大別して2つのジャンルに分けることができる。一つは頭脳的というのか、ゲーム性の強い、いわゆるメタ小説風の短編集で、もう一つは、これもメタ小説的手法においては1番目のジャンルと大差ないのだが、前者に比べて抒情性豊かでより完結した詩的な作品が認められる」というふうに言っています。ですから、非常に知的な作品と詩的な作品の2分類ができるのではないかと言うのですね。また別の批評家の言葉を引きますと、イタリアのジュリオ・フェルローニという批評家がいまして、この人は、本当は18世紀の演劇が専門ですが、個人でイタリア文学史をずっと中世末から現代まで書いたということをやった人です。その人が1991年の段階でタブッキを評しているのが、イタリア文学史の中の現代文学に当てられた章なのですが、「さまざまな外国文学や遠い世界の現実からの引用に満ちているタブッキの物語は、豊かな材料からインスピレーションを得て意外な関係や組み合わせを見出し、事実や人々を通常の場所から外の世界へと連れ出すのだ。そして、そこに見られるのが一種のポストモダン的なマニエリスムである。どこかで起こった、どこかで既に語られた、あるつくられた人工的な人生というもの、それにまつわる終わりのない奇妙な刺繍のようなものだ」というふうに言っています。

ただ、この2つに分類するというのは無理ではないかと私は思います。須賀先生にしてもフェルローニにしても最後までこの作家の作品を読まないうちに書かざるを得ませんでした。生きている作家については常にそうですね。ですから、その批評の限界を批判するということではなく、やはりフェルローニにしても須賀敦子にしても見出した二極性というもの、それがタブッキの作品の中では、どちらかというとメッセージとして私たちが読むときに「こっちかあっち」のほうが強く私たちに読み取れる。でも、それはもしかすると私たちが20年後に読んだら変わっているかもしれないし、私たちが今ここに立っていて、そしてイタリアの現代政治の状況を生きているのか、それとも日本から遠く眺めているのか、それによっても恐らくこの作品の持つ私たちへのメッセージというのは変わるのだろうと思います。

それは、言ってみればフェルローニの言ったある種のマニエリスム、須賀敦子の言う非常に知的なゲーム性というもの、それともう一つはより抒情詩的なものです。須賀敦子は詩だと言うのですけれども、それを抒情詩というふうに限定する必要があるだろうかと疑問符を付けながら、2番目の分類のほうを詩だというふうに須賀先生は呼んだのですけれども、それを叙事詩まで広げていくと、あるまとまりを持つ、非常にメッセージ性の強い、そして小説というものの大きなスケールを持つ物語性も含めるような、そういうものを持つ作品というふうに考えられる。マニエリスムと、その中でメッセージとしての政治性やモラルまたは歴史をどのように解釈するか、そういう広い意味でアンガージュマンと呼ぶとすれば、その2つにタブッキの作品というのは分けられるのですね。そうすると、非常に知的な技巧や遊戯性、ゲーム性に満ちている作品として読める、非常に完成した、優れた作品。多くの場合は短編集なのですけれども、それがこの青いほうの『逆さまゲーム』とか『インド夜想曲』とか『レクイエム』。歴史性や政治性というものが物語としてよりはっきりと描かれているものが『イタリア広場』であり『ぺレイラは主張する』。これは須賀敦子訳で『供述によるとぺレイラは…』というタイトルで白水社から出ています。

そして、まだこれはどなたも訳していないのですけれども、2004年に『トリスタン死す』という作品があります。トリスタンという一人の主人公、かつてのレジスタンスに参加したらしい、そしてそのときトリスタンというあだ名を持っていた老人が病気で苦しみ、苦痛の中で恐らく鎮痛剤の薬物治療を受けながら過去について語ります。その語りは非常に論理性がないのだけれども、それは過去と現在の距離と語り手の現在の状況がほのめかされる中で納得がいくような物語になっているのですね。

このタブッキ文学の世界でモチーフとして今申し上げましたように非常に特徴的なものが挙げられるのですけれども、それをとりあえず図式的に分けながら、その作品の世界でどのように描かれているかということをお話ししてみたいと思います。3つに考えてみるのですね。いつも二項対立的なものがあって「こっちかな、あっちかな」ということが共通しているようですけれども、一つは『逆転のゲーム』、それこそ彼が非常に評価を高めた『逆さまゲーム』、イタリア語のタイトルは『il gioco del rovescio』ですけれども、それがまず一つ。そして、逆転するものが何かというので特にタブッキが描くのは「生と死」というセットと「覚醒と夢」という状態のセットですね。また、ダブルなのですけれども、人がダブルでもあり得るし、状況がダブルでもあり得るし、解釈がダブルでもあり得る。けれども、そこに私たちはどのようなアイデンティティーというものを、同一性というものを見出せるのだろうか。それも彼の非常に重要なモチーフになっています。

本人は別に作家になりたくなかったし、処女作も「暑い夏に子供が生まれるのでどこにも行けなくて、暑いトスカーナに奥さんといて、やることがなくて、それで書いてみた」と言うのですね。これは須賀敦子先生が言っていたこととも通じていて面白いのですけれども、作家たちや学者たちがまだコンピューターをあまり使っていなかったころから、須賀敦子先生はすごくパソコン派でコンピューターが大好きで、「パソコンでカットしてペーストして切り貼りするのが自分はすごく好きだ。そうやって切り貼りすることで自分の作品ができるのだ」とおっしゃっていたのですけれども、タブッキの場合は、この最初の『イタリア広場』は本当にはさみで切って、床の上でこっちとあっちというふうに並べたと言っていました。書けた後にそれを忘れてしまって家の中に2年ぐらい置いておいたと言うのです。作家は噓をつくので本当かどうか。たぶん須賀先生は本当だと思いますけれども、タブッキは噓をついているかもしれないけれども、置いておいたらたまたま友達が夕食に来て、それが編集者で「あ、これいいんじゃない」と言って、だから自分は全く作家になるつもりはなかったと言っているのです。

そういうことをやっていたタブッキが、作家になるつもりはなかったのだけれども作家になってしまったというのが、この『il gioco del rovescio』という作品です。これは「逆転する」ということ自体を作品全体の共通の仕掛けとして発展させているものなのですけれども、短編集のタイトルにもなっていて冒頭に配されているのが『il gioco del rovescio(逆さまゲーム)』という短編の作品です。これはどういう話かと言うと、一人称で「私」というのが出てくるのですけれども、「私」にとって大事な存在だったことが暗示されるマリア・ドゥカルモという女性の死にまつわる物語なのですね。ただその女性について語る、その女性の記憶をたどっていくのですけれども、そこでどんなことが引用されていくかというとべラスケスの絵画や、詩人ペソアのイメージが引用されていきます。「彼女は一体誰だったのか、それが死によって問いかけられ、曖昧になり、夢と死と生が私の周囲で交錯する」。「私」はマドリッドからリスボンに、かつての友人の女性の夫から呼び出されるのですけれども、葬儀に出ることもかなわない。イタリアに帰る羽目になる。「移動し続ける私にとってのマリアは生い立ちにしても政治信条にしても、夫によって明らかにされるのとは全く異なる人生を送ったはずであった。夫が別れ際に私に手渡すのは彼女から託されていたという紙片で、ただ一言『sever』」。これはを逆さまから読んでみる。そうすると、フランス語がお分かりの方は見ていただくと分かるように「夢」になりますし、ポルトガル語では「逆さま」「逆転」という意味なのだそうです。ですから、確かであったはずの記憶が死によって呼びさまされて、その死者によって呼び出されて行ってみると、その人物と自分の関係も自分自身も、揺らいでしまう。それがまた、常に主人公が移動するということなのですね。そして、「その夜の私の夢に登場するその女性はべラスケスの侍女たちに囲まれている」。これは有名な絵の侍女たちですね。「私が画面のあちら側に自分も行くのだと言いながら、さらに別の夢の中に入っていく」というところでこの短編は幕を閉じます。

ですから、言葉の逆転、逆さまの視点、死から生に光が当たり直す、そういうperspective、そういうモチーフが夢や絵画のイメージとともに幻想的に描かれていて、その余韻の中で短編集のほかの物語が紡がれていく、始まるという趣向になっています。またちょっと謎めいたまえがきが付いていて「これは非常に自伝的なのだ」ということを言っています。この最初の短編の「私」というのはペソアの翻訳者であって、他者との関係において何か物を渡して受け取る役割を果たしながらマドリッド、リスボン、ローマとひたすら移動し続ける存在です。これは言ってみれば文学の研究者だとか翻訳者というものを象徴的に示すような登場人物なのかもしれないし、もしかすると本当にこれに類したような経験をタブッキ自身がしたのかもしれません。

この短編集の中にも入っていて、私がもう一つ非常に好きな短編は『カサブランカからの手紙』というタイトルがついています。これは書簡なのです。最後、晩年に書簡体だけで書いた作品というのも今度たぶん翻訳が出るのではないでしょうか。そういうものも書いていますけれども、これは短編で「私」から妹のリーナへの手紙なのですね。「私」なのか「僕」なのかということなのですけれども、幼年時代のイメージがここで語られていきます。遠く離れた妹に宛てて書かれた書簡なのですけれども、どうも病に侵されているらしい「私」が死の床にあるということが読んでいるうちに分かってきます。「カサブランカの病院の窓から眺めているヤシの木の葉の風に揺れる光景が私に幸福な子供時代を思い起こさせる」。主人公は死から自らの生を振り返り、掘り起こし、一つのイメージ、そのヤシのイメージによって喚起された記憶を何とか言葉にしようとしています。そこに認められるのが、やはり先ほどと同じで死から生の方向に向けられたperspectiveなのですね。

そしてその読者は「私」がこの手紙を受け取るはずの妹と共有しているらしい、幸福な幼年時代の追憶というものと両親の死にまつわる過去の不幸な事件を暗示する語りを追っていくうちに、もう一つの逆転の事件に立ち会うことになります。それは読んでいて非常にびっくりするような形で描かれているのですけれども、それはもう一つの逆転または転覆で、それは性にまつわるものなのですね。主人公の人生を決定づける物語の核心であって、物語の中で突如実現します。家族の絆がはっきりと明かされず、母親が父に殺されたらしいという不幸で不条理な事件とそれに伴う両親二人の死によって完全に断ち切られていきます。そして、妹とも別れアルゼンチンのおじ夫婦に育てられたらしい主人公は16歳で都会に出て、そして働いていたホテルで年老いた往年の女性花形歌手の突然の代役として急きょ何かに促されるようにして舞台に上がるのですね。そこで彼は女性歌手としての扮装と身振りで聴衆を夢中にさせます。この性的な転換の経験こそが死の影に脅かされていた少年の存在を再生させることになり、そして人生の方向自体がその事件によって決定づけられたことが暗示されます。

さらに時間を経て、死の病に侵されて手紙をつづっているらしい、その病床の「私」は妹への依頼として「墓銘碑に名前を書いてくれ」と言うのですが、その名前を自分で選びます。それは遠い幼年時代に家族が愛した、風に揺れる美しいヤシの木に付けていたあだ名、あの夜以来彼が使ってきた女性としての名前「ジョセフィン」なのです。本名の「エットレ」でななくて。そういう名前というものがここでも出てきて、生と死、そしてまた性の逆転というものがあって、この作品が書かれた時期はエイズの問題が非常に語られた時代で―今も語られるべきなで、私たちは非常に鈍感になっているのではないかと思いますが―、そういう時代に彼は短編集の中にこういうモチーフで非常に魅力的な構成の、よくできた作品を書いています。

その最初の部分なのですけれども、「Lina, non so perché comincia questa lettera di una palma」というふうに始まるのですけれども、「どうしてヤシの木の話で君にこの手紙を始めるのか自分でも分からない。もう僕のことを君が何も知らなくなってから18年経っているというのに。たぶんここにはたくさんヤシの木があって、それがこの病院の窓から見えるからだろうね。暑い風に長い腕を揺らして、真っ白に消え入るような炎熱の並木道通り沿いに並んでいる。僕らの家の前には1本のヤシの木があったね」。ここは非常にイメージ、映像、視覚というものが重要で、そこから記憶が喚起されるという効果的な文学の描写になっています。そこでは生と死、または夢と起きている状態というものが語られることになるわけですけれども、その「夢」をタイトルにしている作品をもう一つご紹介します。

これは『夢のなかの夢』というタイトルが付いています。この作品は他の作品でも暗示され続けるペソアから、こういう短編集、「夢」ですから、その結末にとっては当然かなという名前、つまりフロイトまでが出てきます。作家の個人的な経験や歴史ではなくタブッキの文学的な知的系譜の告白とも言えるようなイメージが非常に洗練されたパロディーとして描き込まれています。そこにはさまざまな歴史上の人物や文学者たちが出てきて、夢のような状況の中で語られていきます。それはある種の引用であったり、パロディーであったりするのですけれども、同時にタブッキがいかにそのような作家たちを読んできたか、そういう彼の知的な自伝につながるのですね。ですから、直接的な家族の歴史を語った『イタリア広場』と、もう一方で知的な彼のoriginというものを語った作品として対になる作品だと言ってもいいかもしれません。

また、このフェルナンド・ペソアについて『ペソア最後の三日間』という作品も書いていて、これはペソアの異名の分身たちがやってくるという不思議な物語で、1935年11月28日の夕方から30日の8時半までという時間帯に、ペソアにとっては分身であった、フィクションであったはずの人々がペソアのもとを訪れる、そういう非常に不思議な物語です。そして、そこでは病と夢というものが描かれて、夢とともにタブッキにおいて重要なのは不眠の状態なのですね。不眠だから私たちは物語を考えたり、空想したりしてしまいます。そして、それが死という終末に向かっていくという作品になっています。

この不眠というものについて、もう一つ日本で最初に非常に多くの読書人たちに読まれてタブッキの名前を広く知らせることとなった、また須賀敦子の名訳であったということもあるのですけれども作品が『インド夜想曲』です。この『Notturno Indiano』という作品には最初にまた謎めいた巻頭の注がありまして、そこにはこう書いてあります。「この本は不眠(insonnia)であり旅である。不眠は本を書いた者に属し、旅はそれをした者に属する」。これはどういう物語かというと、夢と覚醒のはざまの旅ということでありながら、主人公が失踪した友人(シャビエルという人らしい)を捜してインドを旅します。ポンペイ・マドラス・ゴアを旅して、ついには捜していたはずの友人と「僕」の関係が、さらに読者と作者と小説の枠自体に疑問符が付けられてしまい、それで作品が閉じます。だから、捜しているうちに誰が誰を捜しているのか、何が現実だったのか、誰が夢だったのか。でも、失踪した人を捜すのです。死んでいるかもしれない。ここにはサスペンスがあって推理小説的な枠があって、そしてさかのぼるような視点があります。このような手法はまた別の『ダマセーノ・モンテイロの失われた頭』という作品でも使われています。

これが先ほど読んだところですけれども、作品の注がまず読者に予告をする。これはどういう文学なのかということですね。今の『インド夜想曲』でもそうなのですけれども、「私」とは誰なのだろうか。「私」の境界線が分からなくなってしまう。ただし、いなくなってしまった、消えてしまった友人を捜すという物語に典型的なように他者との関係性がこの「私」にとっては非常に重要なのですね。でも、捜せば捜すほど見つからない他者は「私」との境界を失ってゆきます。他者が非常に即物的に意識される、登場人物によって認められるのはどういうシチュエーションかというと、それは即物的に他者がそこにいる。死体というモチーフも出てくるのですね。そう言うと、まだ読んでいない方は読みたくなくなってしまうかもしれませんけれども、恐ろしいシーンとかおどろおどろしいシーンはないのです。

そして、そういう旅というものによって常に「私」は移動し続けて、「私」の視点というのも一点にはとどまることがないのです。そして、ついにはその枠組み自体に疑問符が付くというのが典型的なタブッキの世界です。でも、タブッキはそのように非常に知的な20世紀的な、そして恐らくは21世紀的な問題、哲学的なテーマというものを探りながら、追求しながらも常に私たちの立つ位置に戻ろうとする、そういう運動を文学として表現しています。それが社会との関わり、歴史との関わりということです。ですから、言ってみれば彼は物語を語るというところ、そして語る「私」というところに常に戻っていく。そしてもう一方では、語ろうとしていることがないかというと、そうではないのです。語ろうとすること、語りたいこと、語るべきこと、それはタブッキにとっては、あるのです。でも、その語り方のほうに彼の作品のテーマが向かっていくときと、その語られるテーマ自体のほうにあえて技巧的な、一つの形式的な解決策をとりながら向かっていくときがあるのです。

ですから、『イタリア広場』であれば、それは一つの人工的な民衆の言葉というものを作品の中で実験的に表現して書き言葉にしていくことによって、イタリアの民衆から見た歴史を書いたというふうに言ってしまっていいかもしれません。もう一方ではアンガージュマンの作品として代表作であり、イタリアでベストセラーになった『ぺレイラの物語』の場合のように歴史との関わりをとにかく一つの単純なシンタクスにおいて語ろうとします。記憶の装置というものが物語を喚起する、先ほどの『カサブランカ』であれば、あるイメージから連想されるものを追っていくことによって私たちは過去に戻っていく、私たち自身の記憶の中に入っていく、そしてもしかすると死者を訪ねていくことになるかもしれません。私たちは自分たちの記憶の中にある非常に曖昧かもしれないものを手繰り出して、そしてそれを歴史として語ろうとします。そして、その歴史として語ろうとするのがポルトガルの現代史、またはファシズムのイタリアのトスカーナのレジスタンスであるかもしれません。

その代表作でイタリアでも非常に広く読まれた作品で、日本版の最後にも須賀敦子による明晰なあとがきが付けられているのですけれども、この『ぺレイラは主張する』というのがリスボンの1938年の夏という独裁化の過程において非常に劇的であった状況というものを、このぺレイラというやもめでカソリックで中年で新聞記者で、いわばアンチ・ヒーローであるような主人公をめぐって語られます。けれども、その語られた状況が、タブッキ自身も「自分はそのときは分かっていなかったけれども、本が出たときに本当に私が危惧していたような、作品の中で描きたかったような状況が現出してしまった」と言っているのですけれども、イタリアの戦後の流れの中でベルルスコーニ政権が出てきて社会が非常に変わっていった、その状況の危機感の中で、ある種の予感の中で彼は書きました。ですから、現代と呼応するような作品の物語が多くの読者たちに歴史的な小説というよりは現代の小説として、まるで状況を語っている小説のように読まれてしまい、それがこの『ぺレイラは主張する』という作品がベストセラーであったということにもつながったのだと思います。

それはどういう物語かというと、ぺレイラという人物がひょんなことから、何となく美しくて、かつての自分がもしかするとそうであったかもしれない、死んだ妻に恋をしていた学生時代の自分がそうであったかもしれないような、かつての自分を見るような若者に出会い、その若者がどうも自分に「お金が欲しい」と言っているらしい。でも、お金が欲しいと言って全く使いものにならないような文学的な記事を書いてきます。けれども、それに何となく引きずられていくうちにその青年と、その青年の美しい恋人たちがその状況の中で非常に危険な政治的活動をしているらしいということに気付いていきます。もう世の中から隠遁するような精神状態でそこまで生きてきた、妻を亡くしたやもめの中年男で太っていて汗ばかりかくような、そういうぺレイラはだんだんと彼らの状況の中に引き込まれていって、最後に非常に劇的な形でその若者の死を迎え、それをどのように自分が解決するかという決断を迫られる、そういう物語になっています。

この『ぺレイラ』の登場人物についてタブッキがやはり注を付けています。この小説は第10版まで重版されるのですけれども、第10版に小冊子で入れた注がありまして、それは非常にピランデルロを思わせるような注なのですけれども、どういうことを言っているかというと、「ぺレイラ氏が私を初めて訪ねてきたのは1992年9月のある晩のことだった。その当時、彼はまだぺレイラという名前ではなかったし、まだはっきりした特徴もなかった。何となく曖昧な、捉え難い、ぼんやりとした何者かだったのだが、確かにもう一冊の本の主人公になるという意志を持っていた。まだ作者を探す一人の登場人物にすぎなかったのだ。どうしてわざわざこの私を選んで語ってもらおうとしたのだろうか。考えられる可能性としては、その一月前、酷暑のリスボンの8月のある日、私がある人物を訪ねたことによるのかもしれない」というふうに言っています。そこでかつて亡命中のパリで知り合ったポルトガル人ジャーナリストの弔問に行ったことを語り、その人生から小説のインスピレーションを得たというふうなことを述べています。

ただし、実在の人物とぺレイラとは別の存在であり、「ある日、あの特権的なスペースたる眠りにつく直前の時間帯、私にとって私の登場人物たちの訪問を受けるのに最もふさわしい時間帯に彼が訪ねてきたのだ」と言います。そして、「再び彼が戻ってきたときにはぺレイラという名前も決まっていた。ポルトガル語で梨の木を意味するその名前はユダヤ系の人々によくあるもので、その命名を通じてポルトガル史に大いなる貢献を成しながら歴史の犠牲者でもあったその民族を記念したかったのだ」と述べます。ただし作中のぺレイラはカソリックです。さらにまた「『What’s about Pereira?』と題されたエリオットの小品中で結局最後まで誰なのか定かでないままの不思議なポルトガル人がぺレイラと呼ばれている」というふうに言って、この名前の引用の出典が象徴するところをわざわざ作家は注の中で説明しています。「主人公ぺレイラの人生に決定的意味を持つ1938年の暑い夏という設定を自分は見つけ出し、そして第二次世界大戦の破壊のふちに立ったヨーロッパのことを、スペイン内戦を、我々の近過去の悲劇を再興した」と言います。「脱稿したのは、やはり暑い夏の2カ月間を経て1993年8月25日、その日付は自分の娘の誕生日だったが、そこに言葉による命の連なりという意味を読み取る」というふうにタブッキは言っています。ですから、常に彼にとって小説は夏休みに書くものだったようですけれども、同時代の状況というものに結び付いている。そういうところから生まれてくるのだということを恐らく非常に重要なものとして意識をして、それを自分で説明もしています。

この物語を全部語ってしまうと読んでもつまらないので、これは非常にサスペンスに満ちた物語になっているので、最後の数十ページはどんどんひきこまれて読める小説だと私は思うのですけれども、最後は「開かれた」結末になっていて「無駄にする時間はない」と言って終わるのです。先ほどから言っている訳者の須賀敦子という人は ―私は須賀先生と勉強していて、自分の先生だったので、今お話しになれない須賀先生のことを批判するのは良くないので、そういうつもりではないのですけれども―、須賀敦子の翻訳は非常に名訳で、彼女の日本語があったからこそタブッキはここまで読者に広く読まれたのだと思うのですが、『供述によるとぺレイラは…』というのが日本語訳ですが、これはこの作品に通徹する『Sostiene Pereira』、現在形で『ぺレイラは主張する』という文がタイトルになっています。ですから、その後の現在というものがあるということをその語りの枠の中で、それはくどいぐらいに、—こんなに何度も何度も書いたら、下手な作者だったら編集者に直されるのではないかというぐらい―出てくるのですけれども、その「Sostiene Pereira(ぺレイラは主張する)」、そう言っているというのを非常に深く日本語に慣ならすような形で読んで、現在の視点がその「供述」という言葉に直されているのですね。ですから、開かれた結末が、ある意味でタイトルとして日本語訳においては一つの提示になっているということなので、そのタイトルをまずちょっと横に置いて、日本語の翻訳でもぜひ読んでいただきたいと思います。

もう時間なのですけれども、最後に紹介したいのは、最近日本語訳で出たものではなくて、まだ出ていない『トリスタン死す』という作品です。これは恋愛とレジスタンスが書かれていると言えば、まるで多くのレジスタンス文学の作品やレジスタンスを題材にした映画をもう一度見るような感覚を抱かれるかもしれません。ここでは語り手がいるのですね。先ほど言いましたけれども、その語り手がトリスタンという名前です。でも読んでいると、その語り手がそのまま語っているものが誰かによってただ録音されているのを私たちが読んでいるのではなくて、そこで「tu(君)」と呼ばれる人がいるらしいことがわかります。でもその「tu」というのは一言も自分の言葉を発しません。その「tu」というのが書き手だというのですね。「俺」はしゃべっているのですけれども、同時にその「俺」が過去の「俺」の場合には三人称でトリスタンという名前で呼ばれます。ですから、ここでは語り手が書き手になり、そして三人称の過去の人物として3つに分裂しているというふうに言ってもいいかもしれません。

そこで作家は何をしたのだろうか。先ほども言いましたように、この物語の主人公はどうも末期のがんに侵されているらしく、かつてのレジスタンスの英雄であった若者の恋愛もその戦いの中で、生と死が分かれる状況の中で体験しました。そして、その恋愛の体験こそが彼にとっては非常に重要なものとして今もあるような、そういう人物です。過去と現在とが交錯し、そして物語がいわゆる19世紀的な三人称ですべてを知っている語り手によって理路整然と語られる安心な小説では全くないのですね。ここでは語るということ自体の可能性が疑われているようなことが感じられます。つまり、物語の可能性というものがあって、本当に分かるように語ってしまっていいのであろうか。私たちの物語というのが一つの歴史として提示されてしまっていいのだろうか。私たちの物語や歴史や過去というのは断片化されたものでしかあり得ないのではないか。そういう作品のつくりになっています。ですから、まだ翻訳が出ないのだと思います。非常に訳しにくいと思います。でも、その作品を読んだときに「これはちょっと日本の読者には・・・」と私も思ったのですけれども、今、非常に魅力のある、そして最後のタブッキの一つの到達した地点というものを表現した作品であろうというふうに思っています。

今までお話ししてきて、幾つかの作品に限ってお話しいたしましたけれども、皆さんに読んでいただきたい。文学について語るというのは結局まだ作品と出会っていない読者を出会わせるということに尽きるのだと私は思っているので、肝心なところをちゃんと言っていないので何だか訳が分からないと皆さんは思っていらっしゃるかもしれませんけれども、そういう限界の中で今お話ししてきたことから「タブッキののこしたもの」ということをまとめてみます。まず21世紀の文学の可能性というものを技巧的・知的に、そして内容としても追及した作家だったからこそ日本語にも訳し得るし、私たちも、遠く離れたヨーロッパの歴史を共有しない者としても読む、そういう魅力を持つ作家です。彼の追求したことがこの先どうなっていくのか。本当に私たちは文学とか物語というものを語り続けることができるのか。でも語り続けていかなければいけない。語りたいものがあるのではないだろうか。そういう限界と希望というものをタブッキは書き残していったのではないかというふうに思います。

そして、それは物語の語りの言葉であり、また語る人、語る視点、語る「私」というもの、そういうアイデンティティーの問題になるだろうと思います。語る「私」、語るタブッキ、そして書いたタブッキというのは、あくまでもう死に絶えてしまったと一説には言われる知識人という存在の在り方にこだわったのではないか。知識人としていかに言語化していくか。そして彼が言語化したかった社会や文化や政治は人々によって担われて、人々によってつくられていった歴史であり物語であったのではないかというふうに思います。ですから、彼はさまざまな批判やさまざまな攻撃にもかかわらず最後まで、寿命を縮めたのではないかという気はしますけれども、政治的な発言からも身を引くことはありませんでした。そういう言論人でもあったのですね。

もう一つ言えるのは、彼があくまでトスカーナ、ピサ、そしてイタリアの言葉と風土と歴史にこだわりながらも常にそこにとどまって、そこを掘っていくだけではなかったということです。イタリア作家で今でもイタリアで非常に評価の高い作家というのはそういう作家が多いのですけれども、彼はそうではなくて、そこと常に行き来するもう一つの世界をつくろうとして、それを持っていました。それが彼の場合にはヨーロッパでありポルトガルであり、その2つを行き来する二重言語者というものが実はこれからの私たちの21世紀の文化とか世界の先駆的・象徴的な生き方であり、文学の在り方であり、知識人としての姿勢だったのではないかというふうに思います。ですから、私たちはoriginを否定することはないし、伝統やoriginを背負い続け、そこから出発し、それを掘り下げるけれども、同時にもう一つ別なものに移すということを常にやっていくことによって多くの開かれた世界というものに向かうことができる、それがタブッキという作家の残した一つの方向性、私たちに示していったものではないでしょうか。

これからもタブッキの作品でどういうものが特に読まれ続けるかということは分かりませんけれども、タブッキの両方の作風、どちらに軸足を置くかと言って2つに分けられる方向性があるというふうに申しましたけれども、やはりその両方がさまざまな私たちの文学や歴史や状況の局面において読まれ続けていくのではないかと思います。ノーベル賞を取らないまま逝ってしまったのは非常に残念で、晩年に翻訳が出たということで、毎年ノーベル賞のシーズンになると、—大抵そのときいつも私は外国にいたのですけれども―、通信社からわざわざ国際電話で「受賞したらプロフィール等を言えるようにしておいてください」と言われて、いつも「かかってくるかな、かかってくるかな」と思っていました。ここ数年、毎年残念だったので、来年こそはと願っていました。私の子供も「ママはノーベル賞の作家の訳者になれるかもよ」とすごく楽しみにしていたのですけれども。これからも、もしまだタブッキをお読みでない方がいらっしゃいましたらまず翻訳で、後はイタリア語でも読みやすいと思いますので、ぜひ原著で読んでみてください。

では、ちょっと時間が延長になりましたけれども、これで『タブッキののこしたもの』ということで終わりにいたします。どうもありがとうございました。(拍手)



【橋都】村松先生、大変面白いお話をありがとうございました。いかがでしょうか。ご質問もあると思いますので幾つかお受けしたいと思います。

それでは僕から最初に。タブッキがイタリアの作家の中では飛び抜けてヨーロッパ的であるということは事実だと思うのですが、その第一の要因としては彼の知性というものがたぶん一番影響していると思うのですけれども、そのほかに彼が育ったピサの町というのが果たして影響しているのかどうかですね。僕はピサにはあまり縁がなくて、ピサの町というのがどういう知的な雰囲気の町なのかということがよく分からないので、そういうことが関係しているのかということをちょっとお話しいただきたいと思います。


【村松】トスカーナという土地とピサの町は非常にイタリア的でありながら、非常に地方性というものにこだわり、それを守る土地柄でありつつ、同時に特に19世紀以降開いている国際的な場所であるということは関係していると思います。まだ日本で訳されていない旅をめぐるエッセイ集が2010年にイタリアで出ているのですけれども、パリとかリスボンとか、いろいろな町をテーマに書いてある章というのがあるのですけれども、その中でピサについて書いてあるところでも、やはり19世紀からの文学者とか知識人たちが集まる開いた町であったということを彼は非常に愛情を込めて語っています。

あと彼が非常に言っていたのはトスカーナの国際性ということと、ある種、血の中に流れているような民主主義ということです。私がイタリアに留学しているときはボローニャと、あと長くミラノに住んでいたので、中部・北部のイタリアはかなり生活感の中で自分は知っているつもりなのですけれども、この春に初めてフィレンツェに2カ月半ほど行きまして非常に楽しい春を送ってきました。そこで非常に感じたのは、やはりイタリア語のoriginにもつながりますし、例えばタブッキが来日したときに、最後、亡くなる前の須賀敦子先生と対談をしているのが1998年の「ユリイカ」のタブッキ特集に載っているのを今回、来る前にも読んでいました。そこでもピサとかトスカーナで生まれた物語がデカメロンに発するのだということを言っていて、デカメロンのような語る言葉につながっていくのはどういう文化であったかというと、それは言葉の文化、言語化する文化であって、それはさまざまな人が語る言葉を持つような文化です。ですから、民主主義という名前になる前の民主主義みたいなものがトスカーナには今でも生きているというようなことがあります。私も初めて長く行って、もっと長く住むとたぶん悪口もいろいろ言いたくなると思うのですけれども、2~3カ月いるだとやはりトスカーナというのは人々の洗練された言葉というものがあって、それは学者とか知識人というものではなくて、それぞれの人が豊かな言葉の世界を持っていて、それぞれの人が尊重されるようだと感動して帰ってきました。

私はピサはよく知らないのですけれども、きっとそういうトスカーナ的なものが、また恐らくフィレンツェとは違うピサの伝統というものがあると思います。あとは彼の知性ということを先生がおっしゃいましたけれども、彼が勉強して生活もしていたピサにはscuola normaleというヨーロッパ的な、ナポレオン的な大学制度が今でもあって、それはイタリアのほかの都市とはまた違う知性の制度であり、また国際性ではないかと思います。


【橋都】ほかにご質問の方はおられますでしょうか。はい、佐久間さん。


【佐久間】文法も単語も易しいのに言っていることが難しいというのはカミュと似た感じがするのですけれども、カミュの影響を受けているのでしょうか。


【村松】今ちょっと直接的に彼がそれを言っていたかどうかということはよく覚えていないのですけれども、ヨーロッパ文学に対して非常に広い知識とか読書体験というものがあったことは確かです。そして、フランスとの関係というのは、評価が高かったこととか、最後パリに住んでいたということもありますけれども、やはり戦後のフランス文学的な系譜というものが重要だったということは考えられると思います。


【橋都】ほかにいかがでしょうか。

ではもう一つ僕から、このフェルナンド・ペソアというポルトガルの作家ですね。僕もリスボンに行ってペソアの銅像と記念撮影してきましたけれども、タブッキがそもそもポルトガル文学に興味を持ったのはペソアからなのですか。そうではなくてほかの契機というのがあったのでしょうか。


【村松】ペソアだと言っていますね。まだ若いときに遊びに行った帰りにペソアを読んだということがポルトガル語を勉強しようと思ったきっかけで、ポルトガル文学をやろうと思う契機になったというふうに言っています。ただ、自分の最初の研究としてはもっと古く16世紀を扱ったということなのですけれども、ペソアを読むためにずっとポルトガル語を勉強して、ずっと読み続けて、そしてその研究者でもある女性と出会って結婚したというのが非常に大きいと言っています。


【橋都】いかがでしょうか。よろしいでしょうか。村松先生がおっしゃるようにタブッキをぜひ読んでいただきたいということです。『トリスタン死す』がまだ訳されていないけれども、今年新しく一つ翻訳も出ているということですね。


【村松】そうですね。


【橋都】僕はそれはまだ読んでいないのですけれども、確かに難しいといえば難しいのですけれども、すんなり読めるといえば読めるというなかなか一筋縄ではいかない文学かと思います。


【村松】今、『時は老いをいそぐ』というのがちょうど出たところですね。


【橋都】これが今年出たということですね。


【村松】あとは『他人まかせの自伝』とか、もう一つ岩波から最近エッセイが出ています。それから、白水社のUブックスで『逆さまゲーム』とか『インド夜想曲』『レクイエム』『ぺレイラは主張する』が出ています。『供述によるとぺレイラは…』はまず最初にお読みになると入りやすいですし、これは非常に抑制された、とてもうまい文章です。


【橋都】映画にもなりましたね。


【村松】そうですね。映画にもなっていますし、あと『インド夜想曲』や『レクイエム』なんかもフランスで映画化されていますし、『ぺレイラ』はマストロヤンニが主演する映画にもなっています。もし順位を付けるとしたら『供述によるとぺレイラは…』、それがいいと思ったら『インド夜想曲』『逆さまゲーム』というふうにお進みになっていただけるといいかと思います。


【橋都】ありがとうございました。大変素晴らしいお話をしてくださいました村松先生にもう一度拍手をお願いします。(拍手)

第385回 イタリア研究会 2012-07-24

タブッキののこしたもの

報告者:東京大学大学院総合文化研究科准教授 村松 真理子

7月例会(385回)
・日時:2012年7月24日(火)19:00-21:00
・場所:東京文化会館
・講師:村松 真理子 東京大学大学院総合文化研究科准教授
・演題:タブッキののこしたもの


【橋都】それでは総会に続きまして第385回のイタリア研究会例会を始めたいと思います。皆さんご存じのように、今年の3月に,20世紀から21世紀にかけての現代イタリア最大の作家の一人であるアントニオ・タブッキが亡くなりました。ということで、ぜひタブッキに関するご講演をお願いしたいというふうに考えまして、今年の1月に続いて東京大学教養学部総合文化研究科の准教授である村松真理子さんにお話をお願いしました。今日は『タブッキののこしたもの』というテーマでお話をお願いしてあります。
それでは村松さんのご略歴をご紹介したいと思います。村松さんは東京大学文学部のご卒業で、文学部大学院人文科学研究科の修士課程および博士課程を修了されまして、1994年に文学博士となられております。その後ボローニャ大学の大学院で勉強されまして、博士課程を修了して1997年にPh.D.(doctor of philosophy)を取られたという大変優れた方でございます。前回はダヌンツィオのお話をしていただいたわけですけれども、今日は今年亡くなったアントニオ・タブッキについてお話をお伺いできるということで大変楽しみにしております。それでは、村松さん、よろしくお願いします。


【村松】皆様、こんにちは。村松でございます。橋都先生、大変立派なご紹介をいただきまして、どうもありがとうございました。また、今年2度こちらでお呼びいただくということで大変名誉なことだと思っております。ありがとうございます。私は今ご紹介にあずかりましたようにイタリア文学研究をずっと続けておりまして、一つはボローニャで勉強した分野というのも中世末からルネッサンス期の時代ということで勉強をしております。もう一つが前回お話しさせていただいたダヌンツィオ以降といいますか、19世紀末から20世紀、そして現代までの文学ということで、ちょっと欲張って2つやっております。専門家というのがいいものかどうかというのは昨今大変議論がございまして、専門家という人たちが信頼を失っています。文学に専門家というのはあるのかということがあって、文学というのは世界を何とか個人的な視点から捉えようという試みであり、言葉を駆使して、そして相手に対して語るという芸術なわけです。その文学を何とか自分なりに、そしてイタリア語の文学というものをテーマとしている中で2つ時代というものがある。ですから、今日お話しするタブッキにしても時代ですとか場所というもの、それは非常に重要でありながら、またそれを言葉によって超えていくというのが文学であるというふうに考えられるかと思います。
残念ながら、タブッキは今、橋都先生からお話がありましたように今年亡くなってしまったわけですけれども、そのタブッキという作家がどういう作家であったか。もしかすると、この中にはタブッキの愛読者の方がたくさんいらして、こんなことは今日わざわざ聞くまでもないというようなことをたくさん私が申し上げるかもしれませんけれども、そこは話のつながりとしてお許しいただきたいと思います。
まず、タブッキという作家がどういう人であったか。恐らくはイタリアの現代文学を担う作家たちの中で際立って国際的な、ヨーロッパ的な作家であっただろうと思います。1943年生まれですから、まだまだたくさんの作品を残してもらいたかったですね、非常に残念です。このタブッキはトスカーナの出身でピサの近郊で生まれて、ピサの人と言っていいのだと思いますけれども、この人が国際的である、ヨーロッパ的である、そしてそれ故に実はイタリアで認められるよりもフランスでの評価が非常に高かったのです。最初にフランスのほうで評価がされたということもあります。20世紀の文学もイタリアにおいては、イタリアの文化全般がそうですけれども、地域性というのが非常に重要です。その中で、そういうものが薄くも思えるような、ある意味で国際的または非イタリア的なタブッキという人の評価が遅れたのは納得がいくことで、ある時期以降のイタロ・カルヴィーノなどにもその傾向はあると思います。ですから、彼は非常に国際的な作家であり知識人であり、ヨーロッパにおいて認められた人です。
そして今、亡くなった段階で改めて考えてみますと、彼が作家として社会や歴史との関わりを非常に重要なテーマとしていたということです。それはどんな文学においても優れた文学というのはそういうものであるというふうに言えますけれども、一見ヨーロッパ的であり、非イタリア的であり、無国籍的でありながら、実はやはりoriginというものが非常に重要でした。つまり、ヨーロッパという軸と、もう一方でイタリア、そしてイタリアの中でも彼のorigin、出生地でもありますし、または家族の伝統というものを持っているトスカーナですね。非常にトスカーナ的な、自分の持っていた伝統・起源というものにこだわり、そこから出発し、それに最後までこだわった作家でもあったというふうに思われます。
ですから、もう一つ言えるのは、ヨーロッパとイタリア、ヨーロッパとトスカーナというような、彼の2つの軸というものです。そこで、言葉も彼はフランス語や英語ももちろんですけれども、特にポルトガル語とイタリア語を使って書いたバイリンガルの作家です。彼は40年来、1年の半分はイタリアで、残りの半分はポルトガルで過ごすというような生活スタイルも守った人です。それはまた彼の2つのアイデンティティーというものにつながっていす。つまり、文学者であり研究者である、作家であり大学でポルトガル文学を講ずる研究者でもあった。また、作家であり翻訳者でもあった、そういうことともつながっています。また大学人として公の人であり、作家としての個人でもあった、その部分も彼にとっては非常に重要で、どうも研究者の自分も好きだったみたいですね。別に最初から作家だと思っていなかったというふうに自分のことを言っています。
先ほど申しましたようにヨーロッパでまず成されたタブッキの評価ということになりますと、1987年にフランスで外国人に与えられるメディシス賞を取っていますし、またポルトガルやフランスから受勲をするというようなこともありました。イタリアではフランスよりも遅れてカンピエッロとかスカンノという賞を取って、そして晩年にEU全体の国際的な賞、そしてヨーロッパのジャーナリストからも賞を受けるような国際的な評価を既に受けていた、そういう人です。その評価は、特にジャーナリストからの賞ということを申しましたけれども、彼の文学作品だけではなく、先ほど申しました個人としての社会や歴史との関わり、いわゆるアンガージュマンといいますか、そのような活動に対しても与えられていたということです。小説においてもそういう社会への関心を表明しましたし、また、この人は日本でもかなり訳されている作家で、ウンベルト・エーコと並んでさまざまなエッセイがここ10年ほど訳されているのですけれども、それ以外にも社会的・時事的な批評というのは新聞とか雑誌などにもパリから、またはリスボンからも寄稿するという形で書き続けています。
また、例えばフィレンツェの市政が変わってトスカーナ州の政治的な行政の方針というものが変わったときには、1999年に『Gli Zingari e il Rinascimento』という、ファッションとか商業的なものを重要視しながら、さまざまな多様な新しいイタリアの人々、移民の人たちの生活環境や人権について語りながら、行政に対する批判として批評しているエッセイなども書いています。またペンクラブ的な国際的なコミュニティーにおいても彼のさまざまな勇気ある発言というのは評価をされていました。
彼は晩年に病気だと言われていましたけれども、心労にもなったであろう一つの事件というのが、シチリアのベルルスコーニ派の政治家であるレナート・スキファーニ上院議長に名誉棄損で巨額の損害賠償で訴えられていたことです。このスキファーニという人はシチリア出身の政治家で、彼がマフィアとの関わりがあると言ったわけではないのですが、新聞紙上においてさまざまなことがささやかれる、彼に代表されるようなシチリアのベルルスコーニ派の政治家たちには政治家として、国会議員として、自らの政治的・個人的な経歴をはっきりと国民に対して明晰に語る必要がある、語る義務があるということを言ったのです。ですから、タブッキは個人的な中傷をしようとしたわけではないのですけれども、個人的に作家が弁論によって、言論によってメディアを通して書いたことに対して、大変な金額を要求される裁判になったということです。それに対してここで『Sostieniamo Tabucchi』というふうにタイトルを書いておきましたけれども、『Sostiene Pereira(ぺレイラは主張する)』という彼の代表的な作品があるわけですが、それにかけてこういうタイトルで新聞等で報じられていました。これはどういうことかと言うと、彼の裁判に対して、まずどこから支持が上がったかというと、ルモンドなのです。晩年、最後にイタリアの大学で講じるという仕事を引退いた後、住んでいたフランスにおいてフランスの知識人がルモンド紙を中心に彼を支援しようという輪が広がりました。新聞紙上で世界の多くの知識人や作家たちがタブッキへの支持・連帯を署名し、表明したということです。
こういうタブッキの国際性とフランスを中心とする、そして日本でもこれだけ翻訳が出ているという点での国際的な評価ということなのですが、彼はまず最初にポルトガル文学研究者として出発しました。面白い親戚のおじさんがいたようで、その関係からパリに遊びに行ったり、あるいはルッカに作家志望で作家になれない文学的なおじさんがいて、子供のころからそういうおじさんと話をしたり、薫陶を受けてしまったらしいのです。そのパリに遊びに行った帰りに本が古本屋のワゴンに乗っていたので、安くて何気なく手に取った本をイタリアへ帰る汽車で読んで、その本というのがポルトガルのペソアの詩の本だったというのです。それが1960年代で、このような詩人を出した20世紀のポルトガル文学であれば自分は勉強してもいいと思ったと言うのですね。ただし、彼はピサのスクオーラ・ノルマーレ、人文系でも名門の大学ですけれども、そこでロマンス文献学で学位を取りました。そこでは16世紀のポルトガル文学。16世紀のポルトガルというのはスペインと併合され、バイリンガル(2重言語)の状況が歴史的な文学ではあるのですけれども、現出しました。その時代の文学に非常に興味を持ったということをインタビューなどでも言っています。ペソアの現代文学の研究や翻訳もこのころから始めました。
その後、彼はボローニャやジェノバやシエナの大学で教鞭を執りました。彼は常に作家と研究者、そして自分の個人的な生活というものを非常に大事にしていたのだということをインタビュー等でも言っています。小説なんかを書き始めたのは、まず子育てが落ち着いてからだったとか言っているのですけれども、彼の奥さんがマリア・ジョゼ・デ・ランカストレというポルトガル人で、ペソアの研究者であり、イタリア語訳など共訳もしています。この奥さんと結婚してから、自分の個人的な生活でもリスボンとイタリア、トスカーナを半々にして子供たちを一緒に育てたのだと言っています。ですから、彼の文学において、研究において、生活において常にイタリア語とポルトガル語の間を行ったり来たりしました。そういう行ったり来たりをする、自分が2つの言語によって語るというものと、ペソアという、彼が対象とした詩人の世界というものが重なってくると言えると思います。これは、ネットで見つけた写真ですけれども、自分の研究対象で愛する作家・詩人のペソアと一緒に並んでダブルをやっているところです。
このペソアとはどういう作家かと言いますと、リスボン生まれで1888年~1935年に生きた人です。ただしこの人はヨーロッパに生きただけではなくて、アフリカにも行っていましたし、学校にしてもポルトガル語の学校ではありませんでした。ポルトガル語と英語とフランス語を使って作家としても詩、散文も書いているという人なのですね。ここに挙げてある名前なのですが、彼は言葉だけではなく自らのアイデンティティーをさまざまな名前を使ってダブルにし、トリプルにするというようなことをやりました。ですから、本当にどんな作家だったのかが作家自身によって謎にされた、そういう詩人なのですね。彼の翻訳の詩集は日本語でも出ていますけれども、タブッキの世界につながるかなという気がして少し紹介しますと、「詩人はふりをするものだ。そのふりは完璧過ぎて本当に感じている苦痛のふりまでしてしまう。ふりをすることは自分を知ることだ」とか、「私たちの中には無数のものが生きている。自分が思い、感じるとき、私にはわからない。感じ、思っているのが誰なのか。自分とは単に感覚や思念の場に過ぎないのだ」。「この瞬間だけが私のことを知っている。私の記憶でさえ何物でもない。だから私は感じる。現在の私も過去の私も異なる2つの夢に過ぎないと」。「私は読書が嫌いだ。見知らぬページは読む前から私を退屈させる。私は自分が既に知っているものしか読むことができない」というようなことを書いていて、ペソアの文学世界というのは彼の生きた時代にももちろん非常に密接に結びついているわけです。ポルトガル史というのは私たちにはそうなじみがないものかもしれませんけれども、ヨーロッパの中でもフランスやイタリアと共通すると同時に特異な歴史でもあったというふうに言っていいのではないかと思います。

黄金の大航海時代という栄光の歴史を持ちながら1910年の革命まで王政が続いた国で、そしていったん共和制になりますけれども、そこでムッソリーニのイタリアやフランコのスペインと歩調をそろえるような独裁化の歴史というものを体験しました。そして、またこれはイタリアとも非常に違うことですけれども、過去の重みということを考えた場合にポルトガルには植民地というものがあって、非常に小さな国土でありながら自分たちの外側にそれより大きな国土、テリトリーというものを持つということを1970年代の半ばまでずっと続けてきました。そういうところでペソアという人も育ち、そしてリスボンに戻り、そしてさまざまな言語を使った、そういう人です。そのポルトガルをペソアを通じて、そして実際に個人の生活の中でタブッキはずっと生きてきた、見てきたということだと思います。
では、タブッキ自身のoriginということを考えた場合に、それがどういう作品で描かれているかということです。本当は本を持ってきて皆さんにお見せして、ちょっと広告すればよかったのですけれども、手元に一冊もなくて、ここで写すだけなのですけれども、私はタブッキが日本で翻訳される前からずっと好きで、この作家はぜひ翻訳するべきではないかと出版社の人に言ったら、そのときにもう日本で最初に翻訳出版された作品を須賀敦子先生が訳していらしたところでした。タブッキがイタリアでも、そしてフランスでも評価されるようになったのが80年代以降の作品なのですが、実はこの『イタリア広場』というのは彼が一番最初に文学作品として書いたものです。もちろん論文とかそういうものは書いているのですけれども、それは1973年に執筆して1975年から出た本です。須賀先生をはじめこんなに多くの翻訳者の方たちがタブッキ作品を訳しているのに、なぜかこれだけつい最近まで出ていなかったのです。
私はこの作品がとても好きだったので「じゃあ、やります」と言って訳したというのが、この最初の処女作『イタリア広場』です。私は基本的に好きな本を「やります」と言って、まず編集者の人と話して「じゃあ、やりましょう」ということになると「よかった、よかった」と思って始めるのですけれども、それで失敗したことが何度もあって、この『イタリア広場』もそうで、なんで誰も訳していないのかなと思っていたら、やり出したら分かって、…とても難しくて、訳しにくかったのです。話もとても複雑な筋になっていまして、「これはみんなやりたくないな」と訳してから気が付いて、とても苦労して、遅れて、編集者の方に怒られながら何とかやりました。ただ、そう言うと、そんなにややこしいのは読みたくないと思われるかもしれないのですが、思わないでいただきたくて、…とても魅力的な作品なんです。
多くの作家の場合、処女作というのはまだ作家になる前なのですね。自分が作家になるとは限らない。その後、幾つもいろいろな作品を書こうと思って作家は処女作を書くのではなくて、もしかするとこれが終わりかもしれないと思ってすべてのテーマを盛り込んでしまいがちなのが作家の処女作というものです。大作家において処女作というのが実はとても魅力的な場合が多いのですね。その未熟さを置いておいても、その後の生涯のテーマが実は処女作に詰まっているというようなことがしばしば多くの作家に認められることです。この『イタリア広場』はまさにそのような作品であるというふうに私は考えています。どういう話かと言いますと、トスカーナのある一家の物語。そこには土地が、風土が、そして3世代の家族の生きた村の歴史、そしてイタリアの歴史が書き込まれています。これはほとんど100年間にわたる物語になっています。
ただ、先ほど言いましたように80年代以降タブッキは非常に評価されていくのですね。ですから、最初に書いたときは、これも文学で例えばウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なんかも出したミラノのボンピアーニですけれども、そこから出したときはそんなに反響を呼んだわけでもなかったのですね。そして、その後のタブッキの作品が非常に多くの読者に読まれるようになってから、これが再版されました。タブッキはボンピアーニが最初ですけれども、その後ミラノのフェルトリネッリというところとシチリアのセッレリオという2つの出版社が彼の文学作品、創作のほうの出版社でした。そのフェルトリネッリのほうから1993年に改めてもう一度再版されます。そこに序文を書いているのですけれども、「20年経って読み直してみると、どうもおかしな感じがする。当時の私が書いた本を再び出すというのもおかしなものだ。その私は今の自分と同じなのか。それとももう一人の誰かなのだろうか」という序がついています。これは先ほどのペソアとの関連、ある意味ではペソアの引用なのかもしれません。「ただし」、この序はそう続くのですけれども、「この本が私の根っこであることは分かっている。個人としても作家としても、すべては元に戻る。いや、何も戻りはしないのだ。とにかくそんなことは分かる人に任せておこう」。そのような序文が置かれた90年代の再版の『イタリア広場』ですが、中身については副題を変えただけで、いじっていないと作家は言っていますし本当にそうみたいです。
どのような物語なのかということなのですけれども、まず場所はマレンマ地方の村、これは大文字でBorgo(村、集落)というふうに呼ばれて、名前は最後のほうにこんな名前だったのかなというふうに、ちらっと出てくるのですけれども、実在の都市の名前とか町の名前というものは出てきません。ただ、読んでいくとその風景とか場所の描写からマレンマ地方の村なのだなということが分かるのですね。そして、3代にわたるある一家の物語で、この人たちは農民でもない、地主でもない、職人でもない、庶民なのですね。そして、さまざまな生産手段とか土地というようなものを所有しないのだけれども、自分の腕と知性と言葉で何とか生きていくような、そういう非常に民衆的な一家の物語です。3代にわたるその家の男性が主人公です。ただ、30歳で死んでしまうのです。それが最初から決められたみたいに30年の人生なのです。「おじいさんから聞いた話を随分書いたのだ」と本人もインタビュー等で言っていますが、ピサの近郊におじいさんが住んでいて、自分が生まれるときにお母さんがそこの村に帰って出産したということで、タブッキの故郷と言ってもいいところです。ただ実際に大きくなってから、ふだんはずっとピサに住んでいたわけですけれども、生まれた地、家族のoriginの地、ヴェッキアーノがモデルであろうことが分かりますし、そこがずっとこの物語の舞台になっています。
構成も非常に特徴的で、プロローグではなくエピローグから始まってしまうのです。最初読んだ読者は「なんで終わりから始まるのだろう」と。しかも主人公らしき人物が死んでしまうのです。いつなのだろう、誰なのだろう、どうして死ぬのだろうと思ってエピローグから入ると、第1幕、第2幕、第3幕と続きます。そして、第1幕は19世紀末なのです。読んでいくと、最初に死んだガリバルドというのがいて、けれどもそれは19世紀末のプリーニオという主人公の一家であって、そしてその子供たちと、その子供たちの子供の物語になっているということなのです。最後にエピローグに戻ってくるわけですけれども、第3幕の最後、終幕と最初に置かれているエピローグはいつかというと第二次世界大戦後、イタリアが戦後の発展に入っていく、そういう社会の変動期に入っていく時代です。ですから、19世紀末のイタリア統一の時代から1950年代までが描かれています。
プリーニオというのが最初の、そしてこの大河的な家族の物語の最初の主人公ですけれども、その人の妻はエステリーナ。奥さんたちもみんなそれぞれ非常に個性的です。このプリーニオは少年としてガリバルディの千人隊に参加したということになっていて、まだ銃も使えないような少年だったということになっているのですけれども、それを非常に誇りに思っている、そういう物語です。そうすると、子供が生まれたら名前をガリバルディにしたかったのです。でも最初に双子の男の子が生まれてしまうので、2人ともガリバルドというガリバルディの単数形にしようと思って役所に届けるのですけれども、役所は「そんなのは受け付けられない」と言います。しょうがないので千人隊の乗船地と上陸地をとって、双子の男の子をヴォルトゥルノとクワルトという名前にします。その後で生まれる女の子がアニータという名前になって、4番目の男の子はガリバルディではなくガリバルドという名前になります。そして、ガリバルドの子供とアニータの子供が3番目の世代の主人公たちとして描かれていきます。
ここで語られる歴史はあくまで非常に民衆的な、貧しい、そしてその貧しい中で家族がさまざまな知恵を使い、実際に国家の法律から外れることもあります。そういう中で危険を冒しながら自分たちの人生を築いていくような一家。3代ともそうなのですけれども、あくまで家族の目を通した、家族の物語として語られます。けれども、そこで描かれていくのはイタリア統一、ガリバルディ。そして、そのガリバルディの像が広場でどのように人々に見られているか、ガリバルディの像をめぐって広場がどのように変わっていくのか。エピローグでガリバルドが最後に死ぬところ、そしてまたそこに戻っていく、それがイタリア広場なのですね。まずイタリア統一が語られ、アフリカ出兵が語られ、第一次世界大戦で出兵するという物語もあり、そしてまた移民ですね。長いこと北米に、そして南米に主人公が行って、また戻ってくる。そして、この作品の最後のクライマックスに向けて非常に感動的に描かれているのがファシズムからレジスタンスの時代です。その中で最後のガリバルドの友人たちの物語、村の人々の物語というものが描き込まれて、最後に戦後の時代になります。
ですから、ここでは視点というものが一つに設定された歴史が語られます。これは明らかに民衆から見た近代イタリアの歩みです。歴史や国としての、国民としての、そして民衆としての記憶というものが語られるのですけれども、その語りは民衆的でありながら非常に叙事詩的な広がりを持ちます。一つは、彼がこの作品を寓話というふうに呼ぶのですけれども、寓話(favola)であり、また神話的な地平というものを持っています。30歳でいつもみんな死んでしまうとか、リアリズム小説ではないのですね。魔術とか予言とか、さまざまなある種の夢であるとか、空想であるとか、そういうものが語られていく中で登場人物たちが造形されています。ですから、写実的な大河小説ではないけれども、民衆的な言葉を書き言葉に移していく、そういう実は非常に知的な実験が成されています。ただ、読むときにはその語り口こそが最初から最後まで読者をその世界に、人々の叙事詩の中に引き込んでいく作品になっています。1973年には『romanzo popolare』というふうに彼は副題で付けたのですけれども、それを1993年に唯一この作品でいじったと言っているのがこの「romanzo」の言葉で、それを『favola popolare in tre tempi,un epilogo e un’appendice 』。第3幕と呼ばれる構成、これは非常に劇場的で、舞台は広場を中心とする一つの村です。アリストテレスではないですけれども、場所はずっと一緒なのですね。そして、最初にエピローグが来て、最後にエピローグと付けられないのですね。その一家ではないけれども、狂言回しのように視点として最初から最後まで脇役ではあるけれども、村の重要な人物が、家族と常に関わりを持ってきました。それが、最初にはまだ若かったのだろうけれども、最後にはもう幾つなのか分からないぐらい年を取ったおばあさんと言える老婆とその村の司祭の物語です。その二人が主人公になるのが付録(appendice)になっています。今お話したように、これは歴史を知らなくても、イタリアのレジスタンスの歴史に興味がなくても、不思議な、非常に個性的な一家、常に「シニョーリ(旦那)たちの世界にはくみしない。自分たちは自由なのだ」と言って生きてきた3世代の男たちとその妻たちの物語として読めるのです。もう一つはレベルとして、中心的なテーマとして語られているのが近代イタリアであり、ファシズムであり、レジスタンスである、そういう作品になっています。
読んでくださっている方にとっては下手な要約で申し訳なかったのですけれども、この語り口というのがくせもので、とても魅力的なのですが訳すのは非常に難しいです。どう日本語にするか、私は非常に苦労したのですけれども、まず第1章の初めのところを少しご紹介します。「L’unica cosa che Garibaldi non riusciva a comprendere della vita era la morte」これもまた非常にパラドックスな、反語的な出だしで「ガリバルドが人生(生きること)においてたった一つ分からなかったこと、それは死だった。彼はそのとき父親が棺桶の中に小さくなって横たわっているのを眺めていた。両方の腕を婚礼の晴れ着の上に組んで、額のちょうど秘跡を受ける辺りには黄色い汁がこぼれ出さないように包帯が巻いてあって、それが黄色く染まっていた。すると、父親のほうが彼を助けてくれた。起き上がって座り、ポケットから腕時計を取り出して言ったのだ。まだ少し時間がある」。これがリアルな小説として、そういう言語で書かれていないというのは分かると思います。もう死んでいるはずの人が棺桶からもう一回起き直して「明日の朝までは」と言って自分の人生を小さな息子に語るのですね。
今、短い出だしのところでもシンタクスが一見すると単純です。言葉も非常に日常的な言葉がたくさん使われています。口語的な語いや慣用表現。けれどもそのシンプルな言葉に多くの意味が込められているのですね。そして、話し言葉のように短文のシンタクスが多用されています。「che」を使った関係節も出てくるのですけれども、それも非常に単純な話し言葉的な使い方をしています。けれどもそこに多くの象徴性が盛り込まれているということです。また、仕掛けとしては、これは後のタブッキの多くの作品でまた展開されていく仕掛けなのですけれども、円環の構造になっていて、プロットの構成が終わりから始まって、そして終幕でまた戻ります。
先ほどの子供たちの名前のところでもあったのですけれども、まず双子の名前を2人ともガリバルドにしたかったということです。その双子も統一イタリアになってからアフリカに出兵する、徴兵されるわけですね。ですから、ガリバルディとともに理想を持って戦った民衆の国家であったはずの国家において、旦那たち(シニョーリ)というのがいて、そして人々はどのような生活を強いられていくか。その一つがアフリカに出兵するということ、徴兵であったわけですね。そこで2人の若者として成長していたクワルトとヴォルトゥルノはアフリカに行くのですけれども、アフリカ大陸で1人は死に、1人は消えてしまいます。でも、本当にその2人は手紙に残されたように消えたのだろうか。死んだのは本当にクワルトのほうだったのだろうか。そのような交換可能な双子だから交換されてしまったのではないか。その子供たちの名前が、父親が死んだときに今度はまたその家族にとって重要なガリバルドという名前が3代目の主人公に冠せられます。それは幼かった子供に母親が改めて死んだ父親の名前を付けるという行為によって行われます。ですから、名前とともにその家族の歴史やさまざまなものが象徴的に継承されていきます。名前はアイデンティティーであり、けれどもそのアイデンティティーは揺るぎないものではなく、そしてまた繰り返され元に戻ってくるかもしれない。そのような表現や物語や名前の非常に多義的な世界、象徴性、曖昧さというふうにも読めるかもしれません。そして、その曖昧さや多義的なダブルというのが、言葉の上でも口語的な要素と書き言葉というものが混交された文体として縦横に使われているということになります。
そういう2つの極というのが常にタブッキの中にあって、その間でテーマも言葉も、そして彼自身の生き方も揺れるということが言えるかと思うのです。この作品の中では、どのような二項対立的なテーマがあるだろうかということを考えると、まずそれは個人と社会、国家と民衆という軸が常に出てきます。それがこの作品のクライマックスで非常にはっきりとした形で、そして近代イタリアの歴史においてはっきりとした形で出てきたというのがファシズムとレジスタンスという2つの対立するイタリアに分かれた、そういう時代であったわけですね。それがこの作品では民衆の目を通して描かれています。非常に魅力的な物語になっていると思います。そのような一つの歴史的な時間や空間の広がりの中で個人と社会という2つの軸があるとすると、今度は歴史的な時間の流れの中で常に生者と死者というものが存在します。死んだ人が地上から消えてこの物語にとって存在しなくなるかというとそうではなくて、常に死者たちと生きている人たちはつながっている、関わりを持ち続けるというのがまたこのタブッキ的な世界をこの処女作が予告している、まず最初に示しているというふうに言えるのですね。
そしてまた個人のアイデンティティー、先ほど言いましたけれども、もしかすると個人というものは本当にあるのだろうか。一方で個人と社会の対立を歴史的な事件の中で描きながら、同時にそれ自体が揺るぎのない前提であるかというと、タブッキはそれを常に揺らすのですね。ですから、アイデンティティーすらも交換が可能なものかもしれない、反復するものかもしれない。そして、死と生というものも常につながっている。死というのは生の断絶ではないのかもしれない。そういう世界をこの作品は描いています。そこで大きなテーマとして浮かび上がってくるのが民衆の記憶と呼ぶべきもの、もしくは歴史というふうに名付けられるものであるということです。
この『イタリア広場』から始まって、タブッキはさまざまな作品を書く中で、この処女作の中にあった2つの極というものを、揺れながら、どちらかに重心を置きながら書くということを続けていきます。1975年に『イタリア広場』が出版されて、2009年に日本で翻訳が出たのですが、1981年に『逆さまゲーム』というのが出て、1991年に『インド夜想曲』が出ました。1981年以降の『逆さまゲーム』『インド夜想曲』『レクイエム』『ぺレイラは主張する』、そこまででイタリアにおいても非常にタブッキの評価は高いもので確定していきます。そして2004年に『トリスタン死す』という作品がありまして、2009年に最後の長編の作品集の一つですけれども『時は老いをいそぐ』というのが出ていまして、それが今年、岩波書店から翻訳が出たところです。
最初にタブッキを日本の読者に紹介した須賀敦子先生なのですが、タブッキ作品の須賀敦子先生のあとがきで2分類というものがなされています。どういうことが言われているかというと、「タブッキの作品は大別して2つのジャンルに分けることができる。一つは頭脳的というのか、ゲーム性の強い、いわゆるメタ小説風の短編集で、もう一つは、これもメタ小説的手法においては1番目のジャンルと大差ないのだが、前者に比べて抒情性豊かでより完結した詩的な作品が認められる」というふうに言っています。ですから、非常に知的な作品と詩的な作品の2分類ができるのではないかと言うのですね。また別の批評家の言葉を引きますと、イタリアのジュリオ・フェルローニという批評家がいまして、この人は、本当は18世紀の演劇が専門ですが、個人でイタリア文学史をずっと中世末から現代まで書いたということをやった人です。その人が1991年の段階でタブッキを評しているのが、イタリア文学史の中の現代文学に当てられた章なのですが、「さまざまな外国文学や遠い世界の現実からの引用に満ちているタブッキの物語は、豊かな材料からインスピレーションを得て意外な関係や組み合わせを見出し、事実や人々を通常の場所から外の世界へと連れ出すのだ。そして、そこに見られるのが一種のポストモダン的なマニエリスムである。どこかで起こった、どこかで既に語られた、あるつくられた人工的な人生というもの、それにまつわる終わりのない奇妙な刺繍のようなものだ」というふうに言っています。
ただ、この2つに分類するというのは無理ではないかと私は思います。須賀先生にしてもフェルローニにしても最後までこの作家の作品を読まないうちに書かざるを得ませんでした。生きている作家については常にそうですね。ですから、その批評の限界を批判するということではなく、やはりフェルローニにしても須賀敦子にしても見出した二極性というもの、それがタブッキの作品の中では、どちらかというとメッセージとして私たちが読むときに「こっちかあっち」のほうが強く私たちに読み取れる。でも、それはもしかすると私たちが20年後に読んだら変わっているかもしれないし、私たちが今ここに立っていて、そしてイタリアの現代政治の状況を生きているのか、それとも日本から遠く眺めているのか、それによっても恐らくこの作品の持つ私たちへのメッセージというのは変わるのだろうと思います。
それは、言ってみればフェルローニの言ったある種のマニエリスム、須賀敦子の言う非常に知的なゲーム性というもの、それともう一つはより抒情詩的なものです。須賀敦子は詩だと言うのですけれども、それを抒情詩というふうに限定する必要があるだろうかと疑問符を付けながら、2番目の分類のほうを詩だというふうに須賀先生は呼んだのですけれども、それを叙事詩まで広げていくと、あるまとまりを持つ、非常にメッセージ性の強い、そして小説というものの大きなスケールを持つ物語性も含めるような、そういうものを持つ作品というふうに考えられる。マニエリスムと、その中でメッセージとしての政治性やモラルまたは歴史をどのように解釈するか、そういう広い意味でアンガージュマンと呼ぶとすれば、その2つにタブッキの作品というのは分けられるのですね。そうすると、非常に知的な技巧や遊戯性、ゲーム性に満ちている作品として読める、非常に完成した、優れた作品。多くの場合は短編集なのですけれども、それがこの青いほうの『逆さまゲーム』とか『インド夜想曲』とか『レクイエム』。歴史性や政治性というものが物語としてよりはっきりと描かれているものが『イタリア広場』であり『ぺレイラは主張する』。これは須賀敦子訳で『供述によるとぺレイラは…』というタイトルで白水社から出ています。
そして、まだこれはどなたも訳していないのですけれども、2004年に『トリスタン死す』という作品があります。トリスタンという一人の主人公、かつてのレジスタンスに参加したらしい、そしてそのときトリスタンというあだ名を持っていた老人が病気で苦しみ、苦痛の中で恐らく鎮痛剤の薬物治療を受けながら過去について語ります。その語りは非常に論理性がないのだけれども、それは過去と現在の距離と語り手の現在の状況がほのめかされる中で納得がいくような物語になっているのですね。
このタブッキ文学の世界でモチーフとして今申し上げましたように非常に特徴的なものが挙げられるのですけれども、それをとりあえず図式的に分けながら、その作品の世界でどのように描かれているかということをお話ししてみたいと思います。3つに考えてみるのですね。いつも二項対立的なものがあって「こっちかな、あっちかな」ということが共通しているようですけれども、一つは『逆転のゲーム』、それこそ彼が非常に評価を高めた『逆さまゲーム』、イタリア語のタイトルは『il gioco del rovescio』ですけれども、それがまず一つ。そして、逆転するものが何かというので特にタブッキが描くのは「生と死」というセットと「覚醒と夢」という状態のセットですね。また、ダブルなのですけれども、人がダブルでもあり得るし、状況がダブルでもあり得るし、解釈がダブルでもあり得る。けれども、そこに私たちはどのようなアイデンティティーというものを、同一性というものを見出せるのだろうか。それも彼の非常に重要なモチーフになっています。
本人は別に作家になりたくなかったし、処女作も「暑い夏に子供が生まれるのでどこにも行けなくて、暑いトスカーナに奥さんといて、やることがなくて、それで書いてみた」と言うのですね。これは須賀敦子先生が言っていたこととも通じていて面白いのですけれども、作家たちや学者たちがまだコンピューターをあまり使っていなかったころから、須賀敦子先生はすごくパソコン派でコンピューターが大好きで、「パソコンでカットしてペーストして切り貼りするのが自分はすごく好きだ。そうやって切り貼りすることで自分の作品ができるのだ」とおっしゃっていたのですけれども、タブッキの場合は、この最初の『イタリア広場』は本当にはさみで切って、床の上でこっちとあっちというふうに並べたと言っていました。書けた後にそれを忘れてしまって家の中に2年ぐらい置いておいたと言うのです。作家は噓をつくので本当かどうか。たぶん須賀先生は本当だと思いますけれども、タブッキは噓をついているかもしれないけれども、置いておいたらたまたま友達が夕食に来て、それが編集者で「あ、これいいんじゃない」と言って、だから自分は全く作家になるつもりはなかったと言っているのです。
そういうことをやっていたタブッキが、作家になるつもりはなかったのだけれども作家になってしまったというのが、この『il gioco del rovescio』という作品です。これは「逆転する」ということ自体を作品全体の共通の仕掛けとして発展させているものなのですけれども、短編集のタイトルにもなっていて冒頭に配されているのが『il gioco del rovescio(逆さまゲーム)』という短編の作品です。これはどういう話かと言うと、一人称で「私」というのが出てくるのですけれども、「私」にとって大事な存在だったことが暗示されるマリア・ドゥカルモという女性の死にまつわる物語なのですね。ただその女性について語る、その女性の記憶をたどっていくのですけれども、そこでどんなことが引用されていくかというとべラスケスの絵画や、詩人ペソアのイメージが引用されていきます。「彼女は一体誰だったのか、それが死によって問いかけられ、曖昧になり、夢と死と生が私の周囲で交錯する」。「私」はマドリッドからリスボンに、かつての友人の女性の夫から呼び出されるのですけれども、葬儀に出ることもかなわない。イタリアに帰る羽目になる。「移動し続ける私にとってのマリアは生い立ちにしても政治信条にしても、夫によって明らかにされるのとは全く異なる人生を送ったはずであった。夫が別れ際に私に手渡すのは彼女から託されていたという紙片で、ただ一言『sever』」。これはを逆さまから読んでみる。そうすると、フランス語がお分かりの方は見ていただくと分かるように「夢」になりますし、ポルトガル語では「逆さま」「逆転」という意味なのだそうです。ですから、確かであったはずの記憶が死によって呼びさまされて、その死者によって呼び出されて行ってみると、その人物と自分の関係も自分自身も、揺らいでしまう。それがまた、常に主人公が移動するということなのですね。そして、「その夜の私の夢に登場するその女性はべラスケスの侍女たちに囲まれている」。これは有名な絵の侍女たちですね。「私が画面のあちら側に自分も行くのだと言いながら、さらに別の夢の中に入っていく」というところでこの短編は幕を閉じます。
ですから、言葉の逆転、逆さまの視点、死から生に光が当たり直す、そういうperspective、そういうモチーフが夢や絵画のイメージとともに幻想的に描かれていて、その余韻の中で短編集のほかの物語が紡がれていく、始まるという趣向になっています。またちょっと謎めいたまえがきが付いていて「これは非常に自伝的なのだ」ということを言っています。この最初の短編の「私」というのはペソアの翻訳者であって、他者との関係において何か物を渡して受け取る役割を果たしながらマドリッド、リスボン、ローマとひたすら移動し続ける存在です。これは言ってみれば文学の研究者だとか翻訳者というものを象徴的に示すような登場人物なのかもしれないし、もしかすると本当にこれに類したような経験をタブッキ自身がしたのかもしれません。
この短編集の中にも入っていて、私がもう一つ非常に好きな短編は『カサブランカからの手紙』というタイトルがついています。これは書簡なのです。最後、晩年に書簡体だけで書いた作品というのも今度たぶん翻訳が出るのではないでしょうか。そういうものも書いていますけれども、これは短編で「私」から妹のリーナへの手紙なのですね。「私」なのか「僕」なのかということなのですけれども、幼年時代のイメージがここで語られていきます。遠く離れた妹に宛てて書かれた書簡なのですけれども、どうも病に侵されているらしい「私」が死の床にあるということが読んでいるうちに分かってきます。「カサブランカの病院の窓から眺めているヤシの木の葉の風に揺れる光景が私に幸福な子供時代を思い起こさせる」。主人公は死から自らの生を振り返り、掘り起こし、一つのイメージ、そのヤシのイメージによって喚起された記憶を何とか言葉にしようとしています。そこに認められるのが、やはり先ほどと同じで死から生の方向に向けられたperspectiveなのですね。
そしてその読者は「私」がこの手紙を受け取るはずの妹と共有しているらしい、幸福な幼年時代の追憶というものと両親の死にまつわる過去の不幸な事件を暗示する語りを追っていくうちに、もう一つの逆転の事件に立ち会うことになります。それは読んでいて非常にびっくりするような形で描かれているのですけれども、それはもう一つの逆転または転覆で、それは性にまつわるものなのですね。主人公の人生を決定づける物語の核心であって、物語の中で突如実現します。家族の絆がはっきりと明かされず、母親が父に殺されたらしいという不幸で不条理な事件とそれに伴う両親二人の死によって完全に断ち切られていきます。そして、妹とも別れアルゼンチンのおじ夫婦に育てられたらしい主人公は16歳で都会に出て、そして働いていたホテルで年老いた往年の女性花形歌手の突然の代役として急きょ何かに促されるようにして舞台に上がるのですね。そこで彼は女性歌手としての扮装と身振りで聴衆を夢中にさせます。この性的な転換の経験こそが死の影に脅かされていた少年の存在を再生させることになり、そして人生の方向自体がその事件によって決定づけられたことが暗示されます。
さらに時間を経て、死の病に侵されて手紙をつづっているらしい、その病床の「私」は妹への依頼として「墓銘碑に名前を書いてくれ」と言うのですが、その名前を自分で選びます。それは遠い幼年時代に家族が愛した、風に揺れる美しいヤシの木に付けていたあだ名、あの夜以来彼が使ってきた女性としての名前「ジョセフィン」なのです。本名の「エットレ」でななくて。そういう名前というものがここでも出てきて、生と死、そしてまた性の逆転というものがあって、この作品が書かれた時期はエイズの問題が非常に語られた時代で―今も語られるべきなで、私たちは非常に鈍感になっているのではないかと思いますが―、そういう時代に彼は短編集の中にこういうモチーフで非常に魅力的な構成の、よくできた作品を書いています。
その最初の部分なのですけれども、「Lina, non so perché comincia questa lettera di una palma」というふうに始まるのですけれども、「どうしてヤシの木の話で君にこの手紙を始めるのか自分でも分からない。もう僕のことを君が何も知らなくなってから18年経っているというのに。たぶんここにはたくさんヤシの木があって、それがこの病院の窓から見えるからだろうね。暑い風に長い腕を揺らして、真っ白に消え入るような炎熱の並木道通り沿いに並んでいる。僕らの家の前には1本のヤシの木があったね」。ここは非常にイメージ、映像、視覚というものが重要で、そこから記憶が喚起されるという効果的な文学の描写になっています。そこでは生と死、または夢と起きている状態というものが語られることになるわけですけれども、その「夢」をタイトルにしている作品をもう一つご紹介します。
これは『夢のなかの夢』というタイトルが付いています。この作品は他の作品でも暗示され続けるペソアから、こういう短編集、「夢」ですから、その結末にとっては当然かなという名前、つまりフロイトまでが出てきます。作家の個人的な経験や歴史ではなくタブッキの文学的な知的系譜の告白とも言えるようなイメージが非常に洗練されたパロディーとして描き込まれています。そこにはさまざまな歴史上の人物や文学者たちが出てきて、夢のような状況の中で語られていきます。それはある種の引用であったり、パロディーであったりするのですけれども、同時にタブッキがいかにそのような作家たちを読んできたか、そういう彼の知的な自伝につながるのですね。ですから、直接的な家族の歴史を語った『イタリア広場』と、もう一方で知的な彼のoriginというものを語った作品として対になる作品だと言ってもいいかもしれません。
また、このフェルナンド・ペソアについて『ペソア最後の三日間』という作品も書いていて、これはペソアの異名の分身たちがやってくるという不思議な物語で、1935年11月28日の夕方から30日の8時半までという時間帯に、ペソアにとっては分身であった、フィクションであったはずの人々がペソアのもとを訪れる、そういう非常に不思議な物語です。そして、そこでは病と夢というものが描かれて、夢とともにタブッキにおいて重要なのは不眠の状態なのですね。不眠だから私たちは物語を考えたり、空想したりしてしまいます。そして、それが死という終末に向かっていくという作品になっています。
この不眠というものについて、もう一つ日本で最初に非常に多くの読書人たちに読まれてタブッキの名前を広く知らせることとなった、また須賀敦子の名訳であったということもあるのですけれども作品が『インド夜想曲』です。この『Notturno Indiano』という作品には最初にまた謎めいた巻頭の注がありまして、そこにはこう書いてあります。「この本は不眠(insonnia)であり旅である。不眠は本を書いた者に属し、旅はそれをした者に属する」。これはどういう物語かというと、夢と覚醒のはざまの旅ということでありながら、主人公が失踪した友人(シャビエルという人らしい)を捜してインドを旅します。ポンペイ・マドラス・ゴアを旅して、ついには捜していたはずの友人と「僕」の関係が、さらに読者と作者と小説の枠自体に疑問符が付けられてしまい、それで作品が閉じます。だから、捜しているうちに誰が誰を捜しているのか、何が現実だったのか、誰が夢だったのか。でも、失踪した人を捜すのです。死んでいるかもしれない。ここにはサスペンスがあって推理小説的な枠があって、そしてさかのぼるような視点があります。このような手法はまた別の『ダマセーノ・モンテイロの失われた頭』という作品でも使われています。
これが先ほど読んだところですけれども、作品の注がまず読者に予告をする。これはどういう文学なのかということですね。今の『インド夜想曲』でもそうなのですけれども、「私」とは誰なのだろうか。「私」の境界線が分からなくなってしまう。ただし、いなくなってしまった、消えてしまった友人を捜すという物語に典型的なように他者との関係性がこの「私」にとっては非常に重要なのですね。でも、捜せば捜すほど見つからない他者は「私」との境界を失ってゆきます。他者が非常に即物的に意識される、登場人物によって認められるのはどういうシチュエーションかというと、それは即物的に他者がそこにいる。死体というモチーフも出てくるのですね。そう言うと、まだ読んでいない方は読みたくなくなってしまうかもしれませんけれども、恐ろしいシーンとかおどろおどろしいシーンはないのです。
そして、そういう旅というものによって常に「私」は移動し続けて、「私」の視点というのも一点にはとどまることがないのです。そして、ついにはその枠組み自体に疑問符が付くというのが典型的なタブッキの世界です。でも、タブッキはそのように非常に知的な20世紀的な、そして恐らくは21世紀的な問題、哲学的なテーマというものを探りながら、追求しながらも常に私たちの立つ位置に戻ろうとする、そういう運動を文学として表現しています。それが社会との関わり、歴史との関わりということです。ですから、言ってみれば彼は物語を語るというところ、そして語る「私」というところに常に戻っていく。そしてもう一方では、語ろうとしていることがないかというと、そうではないのです。語ろうとすること、語りたいこと、語るべきこと、それはタブッキにとっては、あるのです。でも、その語り方のほうに彼の作品のテーマが向かっていくときと、その語られるテーマ自体のほうにあえて技巧的な、一つの形式的な解決策をとりながら向かっていくときがあるのです。
ですから、『イタリア広場』であれば、それは一つの人工的な民衆の言葉というものを作品の中で実験的に表現して書き言葉にしていくことによって、イタリアの民衆から見た歴史を書いたというふうに言ってしまっていいかもしれません。もう一方ではアンガージュマンの作品として代表作であり、イタリアでベストセラーになった『ぺレイラの物語』の場合のように歴史との関わりをとにかく一つの単純なシンタクスにおいて語ろうとします。記憶の装置というものが物語を喚起する、先ほどの『カサブランカ』であれば、あるイメージから連想されるものを追っていくことによって私たちは過去に戻っていく、私たち自身の記憶の中に入っていく、そしてもしかすると死者を訪ねていくことになるかもしれません。私たちは自分たちの記憶の中にある非常に曖昧かもしれないものを手繰り出して、そしてそれを歴史として語ろうとします。そして、その歴史として語ろうとするのがポルトガルの現代史、またはファシズムのイタリアのトスカーナのレジスタンスであるかもしれません。
その代表作でイタリアでも非常に広く読まれた作品で、日本版の最後にも須賀敦子による明晰なあとがきが付けられているのですけれども、この『ぺレイラは主張する』というのがリスボンの1938年の夏という独裁化の過程において非常に劇的であった状況というものを、このぺレイラというやもめでカソリックで中年で新聞記者で、いわばアンチ・ヒーローであるような主人公をめぐって語られます。けれども、その語られた状況が、タブッキ自身も「自分はそのときは分かっていなかったけれども、本が出たときに本当に私が危惧していたような、作品の中で描きたかったような状況が現出してしまった」と言っているのですけれども、イタリアの戦後の流れの中でベルルスコーニ政権が出てきて社会が非常に変わっていった、その状況の危機感の中で、ある種の予感の中で彼は書きました。ですから、現代と呼応するような作品の物語が多くの読者たちに歴史的な小説というよりは現代の小説として、まるで状況を語っている小説のように読まれてしまい、それがこの『ぺレイラは主張する』という作品がベストセラーであったということにもつながったのだと思います。
それはどういう物語かというと、ぺレイラという人物がひょんなことから、何となく美しくて、かつての自分がもしかするとそうであったかもしれない、死んだ妻に恋をしていた学生時代の自分がそうであったかもしれないような、かつての自分を見るような若者に出会い、その若者がどうも自分に「お金が欲しい」と言っているらしい。でも、お金が欲しいと言って全く使いものにならないような文学的な記事を書いてきます。けれども、それに何となく引きずられていくうちにその青年と、その青年の美しい恋人たちがその状況の中で非常に危険な政治的活動をしているらしいということに気付いていきます。もう世の中から隠遁するような精神状態でそこまで生きてきた、妻を亡くしたやもめの中年男で太っていて汗ばかりかくような、そういうぺレイラはだんだんと彼らの状況の中に引き込まれていって、最後に非常に劇的な形でその若者の死を迎え、それをどのように自分が解決するかという決断を迫られる、そういう物語になっています。
この『ぺレイラ』の登場人物についてタブッキがやはり注を付けています。この小説は第10版まで重版されるのですけれども、第10版に小冊子で入れた注がありまして、それは非常にピランデルロを思わせるような注なのですけれども、どういうことを言っているかというと、「ぺレイラ氏が私を初めて訪ねてきたのは1992年9月のある晩のことだった。その当時、彼はまだぺレイラという名前ではなかったし、まだはっきりした特徴もなかった。何となく曖昧な、捉え難い、ぼんやりとした何者かだったのだが、確かにもう一冊の本の主人公になるという意志を持っていた。まだ作者を探す一人の登場人物にすぎなかったのだ。どうしてわざわざこの私を選んで語ってもらおうとしたのだろうか。考えられる可能性としては、その一月前、酷暑のリスボンの8月のある日、私がある人物を訪ねたことによるのかもしれない」というふうに言っています。そこでかつて亡命中のパリで知り合ったポルトガル人ジャーナリストの弔問に行ったことを語り、その人生から小説のインスピレーションを得たというふうなことを述べています。
ただし、実在の人物とぺレイラとは別の存在であり、「ある日、あの特権的なスペースたる眠りにつく直前の時間帯、私にとって私の登場人物たちの訪問を受けるのに最もふさわしい時間帯に彼が訪ねてきたのだ」と言います。そして、「再び彼が戻ってきたときにはぺレイラという名前も決まっていた。ポルトガル語で梨の木を意味するその名前はユダヤ系の人々によくあるもので、その命名を通じてポルトガル史に大いなる貢献を成しながら歴史の犠牲者でもあったその民族を記念したかったのだ」と述べます。ただし作中のぺレイラはカソリックです。さらにまた「『What’s about Pereira?』と題されたエリオットの小品中で結局最後まで誰なのか定かでないままの不思議なポルトガル人がぺレイラと呼ばれている」というふうに言って、この名前の引用の出典が象徴するところをわざわざ作家は注の中で説明しています。「主人公ぺレイラの人生に決定的意味を持つ1938年の暑い夏という設定を自分は見つけ出し、そして第二次世界大戦の破壊のふちに立ったヨーロッパのことを、スペイン内戦を、我々の近過去の悲劇を再興した」と言います。「脱稿したのは、やはり暑い夏の2カ月間を経て1993年8月25日、その日付は自分の娘の誕生日だったが、そこに言葉による命の連なりという意味を読み取る」というふうにタブッキは言っています。ですから、常に彼にとって小説は夏休みに書くものだったようですけれども、同時代の状況というものに結び付いている。そういうところから生まれてくるのだということを恐らく非常に重要なものとして意識をして、それを自分で説明もしています。
この物語を全部語ってしまうと読んでもつまらないので、これは非常にサスペンスに満ちた物語になっているので、最後の数十ページはどんどんひきこまれて読める小説だと私は思うのですけれども、最後は「開かれた」結末になっていて「無駄にする時間はない」と言って終わるのです。先ほどから言っている訳者の須賀敦子という人は ―私は須賀先生と勉強していて、自分の先生だったので、今お話しになれない須賀先生のことを批判するのは良くないので、そういうつもりではないのですけれども―、須賀敦子の翻訳は非常に名訳で、彼女の日本語があったからこそタブッキはここまで読者に広く読まれたのだと思うのですが、『供述によるとぺレイラは…』というのが日本語訳ですが、これはこの作品に通徹する『Sostiene Pereira』、現在形で『ぺレイラは主張する』という文がタイトルになっています。ですから、その後の現在というものがあるということをその語りの枠の中で、それはくどいぐらいに、—こんなに何度も何度も書いたら、下手な作者だったら編集者に直されるのではないかというぐらい―出てくるのですけれども、その「Sostiene Pereira(ぺレイラは主張する)」、そう言っているというのを非常に深く日本語に慣ならすような形で読んで、現在の視点がその「供述」という言葉に直されているのですね。ですから、開かれた結末が、ある意味でタイトルとして日本語訳においては一つの提示になっているということなので、そのタイトルをまずちょっと横に置いて、日本語の翻訳でもぜひ読んでいただきたいと思います。
もう時間なのですけれども、最後に紹介したいのは、最近日本語訳で出たものではなくて、まだ出ていない『トリスタン死す』という作品です。これは恋愛とレジスタンスが書かれていると言えば、まるで多くのレジスタンス文学の作品やレジスタンスを題材にした映画をもう一度見るような感覚を抱かれるかもしれません。ここでは語り手がいるのですね。先ほど言いましたけれども、その語り手がトリスタンという名前です。でも読んでいると、その語り手がそのまま語っているものが誰かによってただ録音されているのを私たちが読んでいるのではなくて、そこで「tu(君)」と呼ばれる人がいるらしいことがわかります。でもその「tu」というのは一言も自分の言葉を発しません。その「tu」というのが書き手だというのですね。「俺」はしゃべっているのですけれども、同時にその「俺」が過去の「俺」の場合には三人称でトリスタンという名前で呼ばれます。ですから、ここでは語り手が書き手になり、そして三人称の過去の人物として3つに分裂しているというふうに言ってもいいかもしれません。
そこで作家は何をしたのだろうか。先ほども言いましたように、この物語の主人公はどうも末期のがんに侵されているらしく、かつてのレジスタンスの英雄であった若者の恋愛もその戦いの中で、生と死が分かれる状況の中で体験しました。そして、その恋愛の体験こそが彼にとっては非常に重要なものとして今もあるような、そういう人物です。過去と現在とが交錯し、そして物語がいわゆる19世紀的な三人称ですべてを知っている語り手によって理路整然と語られる安心な小説では全くないのですね。ここでは語るということ自体の可能性が疑われているようなことが感じられます。つまり、物語の可能性というものがあって、本当に分かるように語ってしまっていいのであろうか。私たちの物語というのが一つの歴史として提示されてしまっていいのだろうか。私たちの物語や歴史や過去というのは断片化されたものでしかあり得ないのではないか。そういう作品のつくりになっています。ですから、まだ翻訳が出ないのだと思います。非常に訳しにくいと思います。でも、その作品を読んだときに「これはちょっと日本の読者には・・・」と私も思ったのですけれども、今、非常に魅力のある、そして最後のタブッキの一つの到達した地点というものを表現した作品であろうというふうに思っています。
今までお話ししてきて、幾つかの作品に限ってお話しいたしましたけれども、皆さんに読んでいただきたい。文学について語るというのは結局まだ作品と出会っていない読者を出会わせるということに尽きるのだと私は思っているので、肝心なところをちゃんと言っていないので何だか訳が分からないと皆さんは思っていらっしゃるかもしれませんけれども、そういう限界の中で今お話ししてきたことから「タブッキののこしたもの」ということをまとめてみます。まず21世紀の文学の可能性というものを技巧的・知的に、そして内容としても追及した作家だったからこそ日本語にも訳し得るし、私たちも、遠く離れたヨーロッパの歴史を共有しない者としても読む、そういう魅力を持つ作家です。彼の追求したことがこの先どうなっていくのか。本当に私たちは文学とか物語というものを語り続けることができるのか。でも語り続けていかなければいけない。語りたいものがあるのではないだろうか。そういう限界と希望というものをタブッキは書き残していったのではないかというふうに思います。
そして、それは物語の語りの言葉であり、また語る人、語る視点、語る「私」というもの、そういうアイデンティティーの問題になるだろうと思います。語る「私」、語るタブッキ、そして書いたタブッキというのは、あくまでもう死に絶えてしまったと一説には言われる知識人という存在の在り方にこだわったのではないか。知識人としていかに言語化していくか。そして彼が言語化したかった社会や文化や政治は人々によって担われて、人々によってつくられていった歴史であり物語であったのではないかというふうに思います。ですから、彼はさまざまな批判やさまざまな攻撃にもかかわらず最後まで、寿命を縮めたのではないかという気はしますけれども、政治的な発言からも身を引くことはありませんでした。そういう言論人でもあったのですね。
もう一つ言えるのは、彼があくまでトスカーナ、ピサ、そしてイタリアの言葉と風土と歴史にこだわりながらも常にそこにとどまって、そこを掘っていくだけではなかったということです。イタリア作家で今でもイタリアで非常に評価の高い作家というのはそういう作家が多いのですけれども、彼はそうではなくて、そこと常に行き来するもう一つの世界をつくろうとして、それを持っていました。それが彼の場合にはヨーロッパでありポルトガルであり、その2つを行き来する二重言語者というものが実はこれからの私たちの21世紀の文化とか世界の先駆的・象徴的な生き方であり、文学の在り方であり、知識人としての姿勢だったのではないかというふうに思います。ですから、私たちはoriginを否定することはないし、伝統やoriginを背負い続け、そこから出発し、それを掘り下げるけれども、同時にもう一つ別なものに移すということを常にやっていくことによって多くの開かれた世界というものに向かうことができる、それがタブッキという作家の残した一つの方向性、私たちに示していったものではないでしょうか。
これからもタブッキの作品でどういうものが特に読まれ続けるかということは分かりませんけれども、タブッキの両方の作風、どちらに軸足を置くかと言って2つに分けられる方向性があるというふうに申しましたけれども、やはりその両方がさまざまな私たちの文学や歴史や状況の局面において読まれ続けていくのではないかと思います。ノーベル賞を取らないまま逝ってしまったのは非常に残念で、晩年に翻訳が出たということで、毎年ノーベル賞のシーズンになると、—大抵そのときいつも私は外国にいたのですけれども―、通信社からわざわざ国際電話で「受賞したらプロフィール等を言えるようにしておいてください」と言われて、いつも「かかってくるかな、かかってくるかな」と思っていました。ここ数年、毎年残念だったので、来年こそはと願っていました。私の子供も「ママはノーベル賞の作家の訳者になれるかもよ」とすごく楽しみにしていたのですけれども。これからも、もしまだタブッキをお読みでない方がいらっしゃいましたらまず翻訳で、後はイタリア語でも読みやすいと思いますので、ぜひ原著で読んでみてください。
では、ちょっと時間が延長になりましたけれども、これで『タブッキののこしたもの』ということで終わりにいたします。どうもありがとうございました。(拍手)


【橋都】村松先生、大変面白いお話をありがとうございました。いかがでしょうか。ご質問もあると思いますので幾つかお受けしたいと思います。
それでは僕から最初に。タブッキがイタリアの作家の中では飛び抜けてヨーロッパ的であるということは事実だと思うのですが、その第一の要因としては彼の知性というものがたぶん一番影響していると思うのですけれども、そのほかに彼が育ったピサの町というのが果たして影響しているのかどうかですね。僕はピサにはあまり縁がなくて、ピサの町というのがどういう知的な雰囲気の町なのかということがよく分からないので、そういうことが関係しているのかということをちょっとお話しいただきたいと思います。

【村松】トスカーナという土地とピサの町は非常にイタリア的でありながら、非常に地方性というものにこだわり、それを守る土地柄でありつつ、同時に特に19世紀以降開いている国際的な場所であるということは関係していると思います。まだ日本で訳されていない旅をめぐるエッセイ集が2010年にイタリアで出ているのですけれども、パリとかリスボンとか、いろいろな町をテーマに書いてある章というのがあるのですけれども、その中でピサについて書いてあるところでも、やはり19世紀からの文学者とか知識人たちが集まる開いた町であったということを彼は非常に愛情を込めて語っています。
あと彼が非常に言っていたのはトスカーナの国際性ということと、ある種、血の中に流れているような民主主義ということです。私がイタリアに留学しているときはボローニャと、あと長くミラノに住んでいたので、中部・北部のイタリアはかなり生活感の中で自分は知っているつもりなのですけれども、この春に初めてフィレンツェに2カ月半ほど行きまして非常に楽しい春を送ってきました。そこで非常に感じたのは、やはりイタリア語のoriginにもつながりますし、例えばタブッキが来日したときに、最後、亡くなる前の須賀敦子先生と対談をしているのが1998年の「ユリイカ」のタブッキ特集に載っているのを今回、来る前にも読んでいました。そこでもピサとかトスカーナで生まれた物語がデカメロンに発するのだということを言っていて、デカメロンのような語る言葉につながっていくのはどういう文化であったかというと、それは言葉の文化、言語化する文化であって、それはさまざまな人が語る言葉を持つような文化です。ですから、民主主義という名前になる前の民主主義みたいなものがトスカーナには今でも生きているというようなことがあります。私も初めて長く行って、もっと長く住むとたぶん悪口もいろいろ言いたくなると思うのですけれども、2~3カ月いるだとやはりトスカーナというのは人々の洗練された言葉というものがあって、それは学者とか知識人というものではなくて、それぞれの人が豊かな言葉の世界を持っていて、それぞれの人が尊重されるようだと感動して帰ってきました。
私はピサはよく知らないのですけれども、きっとそういうトスカーナ的なものが、また恐らくフィレンツェとは違うピサの伝統というものがあると思います。あとは彼の知性ということを先生がおっしゃいましたけれども、彼が勉強して生活もしていたピサにはscuola normaleというヨーロッパ的な、ナポレオン的な大学制度が今でもあって、それはイタリアのほかの都市とはまた違う知性の制度であり、また国際性ではないかと思います。

【橋都】ほかにご質問の方はおられますでしょうか。はい、佐久間さん。

【佐久間】文法も単語も易しいのに言っていることが難しいというのはカミュと似た感じがするのですけれども、カミュの影響を受けているのでしょうか。

【村松】今ちょっと直接的に彼がそれを言っていたかどうかということはよく覚えていないのですけれども、ヨーロッパ文学に対して非常に広い知識とか読書体験というものがあったことは確かです。そして、フランスとの関係というのは、評価が高かったこととか、最後パリに住んでいたということもありますけれども、やはり戦後のフランス文学的な系譜というものが重要だったということは考えられると思います。

【橋都】ほかにいかがでしょうか。
ではもう一つ僕から、このフェルナンド・ペソアというポルトガルの作家ですね。僕もリスボンに行ってペソアの銅像と記念撮影してきましたけれども、タブッキがそもそもポルトガル文学に興味を持ったのはペソアからなのですか。そうではなくてほかの契機というのがあったのでしょうか。

【村松】ペソアだと言っていますね。まだ若いときに遊びに行った帰りにペソアを読んだということがポルトガル語を勉強しようと思ったきっかけで、ポルトガル文学をやろうと思う契機になったというふうに言っています。ただ、自分の最初の研究としてはもっと古く16世紀を扱ったということなのですけれども、ペソアを読むためにずっとポルトガル語を勉強して、ずっと読み続けて、そしてその研究者でもある女性と出会って結婚したというのが非常に大きいと言っています。

【橋都】いかがでしょうか。よろしいでしょうか。村松先生がおっしゃるようにタブッキをぜひ読んでいただきたいということです。『トリスタン死す』がまだ訳されていないけれども、今年新しく一つ翻訳も出ているということですね。

【村松】そうですね。

【橋都】僕はそれはまだ読んでいないのですけれども、確かに難しいといえば難しいのですけれども、すんなり読めるといえば読めるというなかなか一筋縄ではいかない文学かと思います。

【村松】今、『時は老いをいそぐ』というのがちょうど出たところですね。

【橋都】これが今年出たということですね。

【村松】あとは『他人まかせの自伝』とか、もう一つ岩波から最近エッセイが出ています。それから、白水社のUブックスで『逆さまゲーム』とか『インド夜想曲』『レクイエム』『ぺレイラは主張する』が出ています。『供述によるとぺレイラは…』はまず最初にお読みになると入りやすいですし、これは非常に抑制された、とてもうまい文章です。

【橋都】映画にもなりましたね。

【村松】そうですね。映画にもなっていますし、あと『インド夜想曲』や『レクイエム』なんかもフランスで映画化されていますし、『ぺレイラ』はマストロヤンニが主演する映画にもなっています。もし順位を付けるとしたら『供述によるとぺレイラは…』、それがいいと思ったら『インド夜想曲』『逆さまゲーム』というふうにお進みになっていただけるといいかと思います。

【橋都】ありがとうございました。大変素晴らしいお話をしてくださいました村松先生にもう一度拍手をお願いします。(拍手)