第393回 イタリア研究会 2013-03-18
ラファエロの芸術- -展覧会によせて
報告者:京都造形芸術大学 水野 千依
3月例会(第393回)
(1)日時:3月18日(月)19:00~
(2) 講師:水野千依氏(京都造形芸術大学教授)。
(3) 演題:「ラファエロの芸術- -展覧会によせて」
(4) 会場:上野・東京文化会館4F大会議室
<講師から>盛期イタリア・ルネッサンスを代表する画家ラファエロ。ヨーロッパ以外で開催される初めての大規模なラファエロ展(国立西洋美術館)によせて、出展作品を軸としながら、さらに展覧会では見ることのできないヴァティカン宮殿のフレスコ画などの代表作も交えつつ、ラファエロ絵画の魅力をお話します。
<講師ご略歴>
1990年京都大学文学部哲学科卒業、
92−95年、フィレンツエ大学留学、
97年京都大学大学院文学研究科 博士後期課程単位取得退学、日本学術振興会特別研究員を経て、
2000年、京都造形芸術大学専任へ。
現在、同大学教授。博士(京都大学、人間・環境学)。
2012年、第34回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞。主著『イメージの地層—ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』(名古屋大学出版会、2011)など。
【橋都】皆さんこんばんは。イタリア研究会の第393回の例会に、ようこそおいでくださいました。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は皆様よくご存知のように、3月2日から国立西洋美術館でラファエロ展が開かれておりますので、それについてのご講演をお願いしてあります。「ラファエロの芸術~展覧会に寄せて~優美な古典主義の完成、そしてその超克」ということで、水野千依先生にお話をお願いしております。
水野千依先生は、京都造形芸術大学の教授でいらっしゃいます。ご略歴をご紹介いたしますと、1990年京都大学文学部哲学科のご卒業で、92年から95年、フィレンツェ大学に留学されました。97年に京都大学大学院の文学部研究科の博士後期課程単位取得退学、その後日本学術振興会特別研究員を経て、2000年から京都造形芸術大学専任になり、現在は教授でいらっしゃいます。京都大学の人間環境学の博士号をお持ちで、2012年には第34回サントリー学芸賞を受賞されております。これは『イメージの地層‐ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』という本で、名古屋大学出版会から出版された書籍ですけれども、これに対して受賞をされたという大変素晴らしい経歴の持ち主です。今日はラファエロの芸術について、お話をしていただきます。それでは水野先生よろしくお願いします。(拍手)
【水野】ご紹介ありがとうございました。はじめまして、水野と申します。ただ今ご紹介いただきましたように、私の著書『イメージの地層』は、過去10年ほどの研究をまとめたもので、書店などでご覧くださった方はその厚さに驚かれたことと思います。しかもそこでは、ルネサンスといっても、いわゆる近代の「芸術」という概念からとりこぼされてきた、予言的表象であったり、蠟人形であったり、デスマスクであったり、あるいは奇跡を起こす聖像であったりと、一風変わった角度からルネサンスを捉える図像を扱っております。そのような研究を重ねてきた私が、巨匠ラファエロの話をするのは、いささか不釣り合いではないかとも思われますが、今回の展覧会に際しましてカタログの一部を執筆させていただいた関係もあり、今日はラファエロの偉大なる芸術をめぐってお話したいと思います。もちろん巨匠と称される芸術家についても研究してきておりますので、どうかご安心ください。
皆さんは、もう展覧会はご覧になられましたか。まだこれからという方もいらっしゃいますか。美術館のすぐそばでの企画にもかかわらず、今日は残念ながら休館日ですので、後日、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。
さて、今回の展覧会は、盛期ルネサンスを代表する三巨匠の一人、レオナルド(Leonardo)やミケランジェロ(Michelangelo)と並び称されるラファエロの、かなりまとまった数の真筆作品を集めており、日本においてこのように記念すべき展覧会が実現したことを私自身も嬉しく思っております。ご覧になった方はご存知だと思いますが、ラファエロの手になる特に前期の作例が、肖像画から聖画像に至るまで数多く来ております。さらに今回の展覧会は、こうした作品を通じてラファエロ芸術を堪能する醍醐味に加え、修復という問題も提起しています。後でご紹介しますけれども、今回の展覧会の顔ともいえる《大公の聖母》は、まさに修復の孕む重要な問題を私たちに示しています。加えて、ラファエロが着想した図像の伝播に、ルネサンス時代に生み落とされた新たなメディアたる版画芸術がいかに重要な役割を担ったかということも、今回の展覧会が伝えてくれるメッセージのひとつではないかと思います。そして、ルネサンスの芸術制作を特徴づける工房体制についても示唆を得ることができるでしょう。ラファエロは大規模な工房を構え、特に晩年は数多くの重要な仕事を大掛かりなスケールでこなしました。そうした工房運営の実態を示してくれるのが、今回出展されている数々の弟子たちの作品です。ラファエロという一人の巨匠を知ると同時に、さまざまな視点からルネサンス美術の制作のあり方、受容のあり方を知る、実に示唆に富む機会といえます。会場は混み合っていますので、ゆっくり時間をかけてご覧いただけたらと思います。
さて、今日の講演では、1時間半で展覧会の出展作全てについてお話することはとてもできませんので、ラファエロの作品を中心にご紹介するとともに、展覧会に来ていない作品、特にローマに移ってからの大規模な装飾――フレスコ画は日本に持ってくることができませんから――、ヴァチカン宮殿の「スタンツェ」と呼ばれる教皇の居室に描かれたフレスコ画など、現地でしか見ることのできない作品を交えながら、年代順にラファエロの足取りを追ってお話したいと思います。
まず、副々題のようにタイトルを三つも並べてしまいましたけれども、「優美な古典主義の完成、そしてその超克」とサブ・サブタイトルをつけました。ラファエロというと、「優美(グラーツィア)」という言葉とともに語られる傾向があるように、甘美で、繊細で、調和に富んだ画面がまず思い浮かびますが、「優美」というのは、ルネサンスの非常に重要な美の概念です。計測可能で数的比例に還元される「美」とは違って、数字にも言葉にもしがたいけれど、目にしてそこはかとなく心地よさや美しさを感じる、そういう美を「優美(グラーツィア)」という言葉で当時は語ったわけです。そして、まさにその名を冠して歴史の中で語り継がれてきたのが、このラファエロという人物だと思いますが、一方で、晩年にはその優美を超えるダイナミックな画風が萌します。そうした展開をご紹介したいと思います。
同時代を生きたレオナルドやミケランジェロが、それぞれかなり強い個性の持ち主であるのに対して、ラファエロは、ある意味で、美術史家にとって語りにくい存在ともいえます。強い個性の持ち主であれば、比較的形容しやすいのですけれども、ラファエロは調和が取れているだけに、言葉でとらえがたいところがあります。これら三巨匠を比較しながら語るという可能性もあるのですが、今回は、ラファエロがレオナルドやミケランジェロの芸術からさまざまに学び吸収しながら独自の画風を作り上げていった経緯に目を向けていきたいと思います。
ご覧いただいている作品は自画像といわれていますが、右の素描は18歳ぐらいの時のもの、左のものは今回の展覧会で最初に皆さんをお迎えする肖像画です。一般に自画像とされておりますけれども、異説もあります。20歳超えたぐらいのラファエロでしょうか。ラファエロが非常に美しい相貌をしていて、繊細で、人柄も柔和だったことは、ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)をはじめ、語り継がれてきていますが、作風だけでなく、人間としても優美な画家ラファエロの初期について、まず見ていきましょう。
ラファエロは、レオナルドやミケランジェロと違い、ウルビーノという地方の出身です。長靴状の形をしているイタリアの、この辺り、アドリア海に近いウルビーノという町で生を受けます。イタリア研究会の皆さんのなかには、この地を訪れた方も沢山いらっしゃるものと思います。ルネサンス期に宮廷が栄え、小さいながらも非常に高度な文化を誇った都市です。とりわけそれを率いたのがフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro)という、ラファエロの一世代前の公爵です。
ラファエロは、フェデリーコが亡くなって一年後に生を享けるのですが、父親はよく知られているように、画家のジョヴァンニ・サンティ(Giovanni Santi))です。彼は詩人でもあって、『韻文年代記(Cronaca rimata)』という書物も著しています。この中で、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公爵を称える詩と、当時のいろいろな芸術についての文章を残しています。その父の下で、ラファエロは幼少時から絵画に親しみましたが、早くも11歳のときには父が亡くなります。母親はそれより先に逝去しており、両親をともに亡くしてしまうわけですが、その工房で父と共作していたエヴァンジェリスタ・ダ・ピアン・ディ・メレートとともに絵を描き、工房において絵画制作を学んでいったのが、最初の修行時代です。
ウルビーノは、今お話したフェデリーコ、そしてその息子のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(Guidobaldo da Montefeltro)という公爵の時代に栄え、人文主義者を集め、非常に高度な宮廷文化を開花させていきます。美術においても、アルプスの北側、フランドルの美術を早くから収集し、イタリアとは一味違う様式への趣向も育んでいました。イタリア人画家では、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)などが活躍するのがフェデリーコの時代です。さらに近隣のフェッラーラ、そしてヴェネト地方やフィレンツェの画家達もやってきて、ルネサンスの精華を集めた文化が、ウルビーノの宮廷で早くから花開きました。その遺産が、自然と幼いラファエロの身の回りにあり、その芸術の素地をなしたのです。
次いでラファエロは11、12歳ぐらいに、ペルージャのピエトロ・ぺルジーノ(Pietro Perugino)という、当時名だたる芸術家であった人物の工房に修行に行きます。その中で、ペルージャやチッタ・ディ・カステッロなど周辺の小都市で、たくさんの作品をともに手がけます。それ以外にもルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)やピントゥリッキオ(Pinturicchio)など、いずれもヴァチカン宮殿で、ラファエロよりも前の世代にシスティーナ礼拝堂側壁の壁画を描いて高い評価を得た人たちの影響を受け、美術を学んでいったのです。
17歳になってラファエロは、若くして自らの工房を構えます。当時としてはそれほど珍しい年齢ではないですが、マエストロとして抜きん出た才能を早々に発揮していくことになります。画像をご覧いただきますと、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロについては、ピエロ・デッラ・フランチェスカがその相貌を絵(《フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとバッティスタ・スフォルツァの肖像》フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵)に残しています。おそらく皆さんも目にしたことのある夫婦の肖像だと思います。この人物がまずウルビーノの宮廷文化を築くわけです。この絵自体も、フランドルの風景表現の影響を受け、見晴るかすように鳥瞰図的視点で捉えた風景が広がるなかにプロフィールの夫婦の肖像を描いています。
今日は肖像画についてお話することが多いので、少し基本的なことにも触れておきます。古代以来途絶えていた個人の肖像がルネサンス期にあらたに生まれてくるとき、古代ローマ皇帝のメダルの肖像形式を借りて、プロフィール(側面観)という形が選択されました。絵を見るものの視線に目を合わせないという意味で時間を超越したモニュメンタルな形式、永続性や記念碑性を強調する描き方が、初期ルネサンスの肖像表現といえます。ピエロのこの肖像でもこの形式が選択されています。フェデリーコの妻バッティスタ・スフォルツァ(Battista Sforza)は、肖像画の制作時にはすでに亡くなっていたので、これはデスマスクに基づいて造られた――これは私の研究テーマですけれども――肖像です。この人物たちが、まずウルビーノ文化を築いていくのです。
そしてフェデリーコが亡くなった後、息子――まだ彼が10歳の頃に父が亡くなるわけですけれども――グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが、その後、公爵を継承します。この親子の肖像は、ペードロ・ベルゲーテの作品(《フェデリーコとグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ》ウルビーノ マルケ州国立美術館)に見ることができます。グイドバルドはまだ幼かったので、政治的には姉が重要な役割を果たし、さらにこの姉はラファエロを庇護し、フィレンツェなどに紹介した人物でもあります。後ほど詳しくご紹介します。こうしてウルビーノの宮廷文化は、ルネサンスにおいて非常に高い文化を誇ります。
例えば16世紀には、バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione )が、『宮廷人』という有名な本を著します。宮廷の儀礼作法書です。ラファエロも後期に《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》(パリ ルーヴル美術館)を描いており、それがご覧いただいている作品です。この著作の中でまさに理想とされたのが、このウルビーノの宮廷でした。ルネサンスの宮廷文化はあまた存在するとはいえ、多くの人が賞賛し褒め称えたこのウルビーノにおいて、宮廷画家を父として、ラファエロは誕生したわけです。
ではラファエロの父親はどのような絵を描いていたのでしょうか。今回出展されている作品が、皆様から見て右側のもの(《死せるキリストと天使たち》ウルビーノ マルケ州国立美術館)になりますが、出展されていない作品(《聖母子》ロンドン ナショナル・ギャラリー)も左に加えてみました。画風としては、例えば石棺のような欄干の上に、眠るキリストを置くという構想は、およそ33年後に受難を経た後に死を迎え石棺に横たえられる、死せるキリストを悼むピエタの図像を予見している図像です。これは、ヴェネト地方、ヴェネツィア周辺で15世紀後半に流行る図像です。さらにこちらは、まさに《ピエタ》ですね。キリストへの哀悼を示す「天使のピエタ(エンジェル・ピエタ)」といわれる図像です。これらはいずれも、ヴェネト地方で流行を博し、ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini)を筆頭に数多く描かれたもので、こうした伝統的な図像に則っています。ラファエロの父の絵というのは、独創性が強いというよりは、伝統的な図像を借りつつ、精緻な仕上げや明暗の明快さに特色をもつといえるでしょう。ジョヴァンニ・サンティは、ラファエロが11歳の時に亡くなりますから、ラファエロは父から直接学ぶというよりは、むしろピエトロ・ペルジーノの工房に入って以後、新しい芸術を学び始めたといえるでしょう。
今回の展覧会には、皆様から見て左側の作品(ピエトロ・ペルジーノ《聖女フラヴィア》 ヴァチカン美術館)が出展されていたと思いますが、ペルジーノというと、この仰ぎ見る相貌、この顔が特徴的ですね。概してこの頭部表現がトレードマークのように繰り返されます。ここ(ペルジーノ《聖セバスティアヌス》パリ ルーヴル美術館)で描かれているのは、矢に射られて殉教を遂げる聖セバスティアヌス、この聖人は最期には斬首されますが、そうした殉教場面を描いていても、ペルジーノの画面は非常に甘美で、痛みひとつ感じさせず、むしろ男性の身体の美しさを解剖学的に研究して、美しい身体の表現として提示している、非常にルネサンス的な裸体像です。いずれの作品も優雅で穏やかな画風で、これこそがペルジーノの特徴です。ペルジーノは、現在はルネサンスの三巨匠と並べて言及されることはあまりないですし、日本でもさほど知られていないかもしれませんが、当時はヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂――ミケランジェロが天井画と《最期の審判》を描いたあの有名なシスティーナ礼拝堂――の側壁面を飾るよう招聘されて、非常に高い名声を得た画家でした。この地方では、当代一の芸術家だったといっても過言ではないと思います。ボッティチェッリ(Botticelli)や、ルカ・シニョレッリなどと名を連ねて、この礼拝堂で絵を制作した芸術家なのです。
先程お話したような、空を仰ぎ見る美しい身体美というだけではなくて、遠近法表現などにも優れていたぺルジーノの画風は、この作品(《聖ペトロへの鍵の授与》ヴァチカン システィーナ礼拝堂)からも伝わると思います。まさにシスティーナ礼拝堂壁画装飾の一例です。教会の鍵をペテロに授けるキリストを描いた場面ですが、背後には理想都市のように、非現実的なまでに抽象化された合理的な建築と空間が描かれていて、ピエロ・デッラ・フランチェスカが研究した遠近法を吸収し、ルネサンスの芸術的成果を見事に結晶化させた絵画です。ペルジーノはこうした様式によって名声を高め、その工房には非常に多くの注文が集まりました。
ペルジーノの工房の大規模な運営は、おそらくラファエロの後の工房のあり方に多大な影響を与えただろうと考えられています。工房では、マエストロたるぺルジーノ自身が作品をまず構想し、その着想を伝えるデッサンが素描帳などに整えられ、弟子たちは、分業体制でそれぞれが得意とするものを模倣し、専門化していく、そしてそれらが複数再生産されていく…ですから、工房作品というものも数多く存在し、先程の斜め上を見上げるような甘美なぺルジーノ風の顔貌表現も複製されていくことになります。早くからラファエロも一員であったこの工房から、彼は後に自身の大規模な工房運営のあり方を学んだであろうと思われます。
では、ラファエロの初期作品がいかなるものであったのかを見てみましょう。これ(ラファエロ《十字架磔刑》(チッタ・ディ・カステッロの祭壇画》ロンドン ナショナル・ギャラリー)は残念ながら出展されていませんけれども、非常に早い段階の作品で、抽象的ともいえる空を背景に、磔刑のキリストが描かれています。先程の、仰ぎ見る視線の聖人や、斜めに首をかしげたメランコリックな聖人がここにも見られます。こうしたモティーフは左側のぺルジーノの作品(ペルジーノ《十字架磔刑》シエナ サンタゴスティーノ聖堂)に明らかに見られるもので、ラファエロはそこから吸収したのでしょう。ただラファエロの場合は、人物の数をより縮減して、その中に必要な感情表現を凝縮させています。そして、背景描写についても、ペルジーノの作品には穏やかな自然描写が見られますが、ラファエロ作品では自然描写も残しながらも、抽象化され、瑞々しい空間が作り上げられています。構図も非常に凝縮されたものになっていきます。
ラファエロは、これから見ていくように、さまざまな人から影響を受けて画風を形成していきます。他の芸術家の優れた部分を吸収し自分のものにする力に非常に優れていたのですね。しかもただ摂取・模倣するというのではなく、自分が表現したいものに必要なものを巧みに選り分け、それを自らの造詣言語として純化していく、その力をはっきりと見て取ることができます。
それ以外にラファエロは初期の段階に周辺地域でもいくつか作品を残しています。ピントゥリッキオといわれるペルジーノと同世代の人に素描を与えたりもしています。これはピントゥリッキオが手がけたシエナ大聖堂のピッコローミニ図書館の壁面装飾ですが、この素描はラファエロが提供したと考えられています。素描というのは当時、作品の構想を担う非常に重要なものと考えられており、本来なら大工房のマエストロが担うものでしたけれども、それを若いラファエロが供しているということからも、非常に早くから才能が認められつつあったことがわかるでしょう。
今回の展覧会では、ウルビーノやペルージャ、チッタ・ディ・カステッロ周辺をめぐっていた初期の作品としては、《バロンチ祭壇画》の断片が来ています。これは解体されてしまっていますけれども、《聖ニコラウスの戴冠》を描いた作品で、素描が残っています。精緻な素描からは、父なる神が上方で冠を捧げていて、真ん中に聖ニコラウスという聖人がいて、その人が倒した悪徳の象徴である人物が足もとに横たわり、周りに聖人や天使たちがいるという構図であったことがわかります。ご覧いただいてわかるように、かなり大きな作品ですが、会場では近くで見ることができますので、ぜひ細部の緻密な表現をご覧いただけたらと思います。
ところで、当時は、事前に作品の入念な準備素描というのがまず作られました。先程の小さい素描だけでなく、しばしば原寸大の下絵、いわゆるカルトンが制作され、それを画面に置いて、素描に穴を開けて、そこから粉を摺り付けて転写するというスポルヴェロ方式がとられました。ここでも、聖母と父なる神にはカルトンが使用され、ケルビムの頭部にはスポルヴェロの痕跡が見られます。近くでご覧になると、穴を開けた点の跡も見られます。それからご覧いただきたいのは、ペルジーノは非常に塗りが薄いのですが、早くもこの時代、ラファエロの画面は厚塗りになっています。非常に精緻に素描された、卵形のような聖母とケルビムたちと父なる神。表面の仕上げが肌理細やかに尽くされており、素描も非常に正確です。実作品を前にしてしか楽しめないのが、やはり絵の表面の質感ですから、いかにラファエロが衣の一つとっても、材質感の違いであったり細やかな刺繍であったりという質の表現にまで、この早い段階で心砕いているかを、ぜひ堪能していただけたらと思います。
今回、バロンチ祭壇画の断片の一部が展示されております。いずれも後代に解体されて、背景が黒塗りなどされていたようです。近年の修復でその下層からオリジナルの絵画層が現われて、「ああ、この祭壇画の一部なんだ」ということが判明し、同定されました。バラバラになって、いろいろな美術館に散らばってしまったものの一部が、この日本で何百年かぶりにようやく一堂に会したというわけです。もちろん全てはまだ見つかっておらず、依然として全体像を結ぶには至っていません。この天使も、ラファエロらしい繊細な輪郭線と優雅な髪、そして細密な装飾性が、近くから見てとることができる作品ですね。この天使の断片は残念ながら来ていませんが、パリのルーブル美術館に所蔵され、やはり最近、この祭壇画の一部だとわかったものです。
さらに初期の作例としまして《聖セバスティアヌス》も来ています。これは、もっと大きな全身像だったのではないかという意見もあったのですが、近年ではこれが単体で、おそらく個人向けの小型の礼拝像として描かれたのではないかとされています。この像も襟ぐりあたりの装飾の精緻さが丹念極まりなく、目を凝らして見ていただきたいと思います。赤い衣の斑点はかなり汚れているように見えますが、これは後世の修復の跡が残っているものです。やはり斜めに顔をかしげた感じなどには、ペルジーノを踏襲していることがうかがえますけれども、穏やかに起伏する顔の表面の凹凸であるとか、ちょっと赤みの差した頬の柔らかさとか艶やかさであるとか、あるいは生き生きとした精彩ある眼差しであるとか、こういった何気ない存在感というのが、初期のラファエロの素晴らしいところだと思います。もっとも、この作品にもモデルとなるペルジーノの絵(ペルジーノ《マグダラのマリア》フィレンツェ パラティーナ美術館)があって、それを見本のひとつとしながら、ラファエロは自分の表現へと昇華させているのです。
さらに《若い男の肖像》(ブダペスト国立西洋美術館)、これは残念ながらモデルが誰なのか特定できておりません。この人物が誰かがわかる印が、絵の中になく、資料も残されていないのですね。けれども非常に優美な表情をした男性像で、これはラファエロの自画像ではないかという説も、かつては出ていたようです。ただ、よく見ると、首が大変太く、肩と首の区別もつきませんよね、人体比例という点ではおかしいのです。ただ、ラファエロはときに遠近法も正確ではなかったりするので、この作品も近年は、ほぼラファエロの真筆だと認められております。
画面手前の欄干に、トロンプ・ルイユ(「騙し絵」)的に手を乗せて、あたかもこちらの私たちの空間と絵の向こうの空間を連続させるようなだまし絵効果というのも、また、私たちのほうに視線を送ることで、モデルと鑑賞者との感情的交流を促すような肖像画の描き方というのも、実はやはりペルジーノ(《フランチェスコ・デッレ・オペレの肖像》フィレンツェ ウフィツィ美術館)に倣っています。ペルジーノ自身はさらにアルプス以北、フランドルの画家、ハンス・メムリンクの肖像画の型を踏襲しています。ですからプロフィール形式の肖像が、イタリアでは主として描き継がれてきたのですけれども、1470年代ぐらいから、5~4分の3正面観、ないし正面観に非常に近い類型というのがでてきます。特にレオナルドの《白テンを抱く少女》が非常に有名ですけれども、こうした表現は北方から入ってきて、しだいに私たち鑑賞者とのアイコンタクトを構築していく肖像画というものが生まれてくるわけです。その延長線上に、この優美な微笑をたたえた若い男の肖像もあるわけです。
この時代の、やはりペルジーノの影響を色濃く残すのが、《マリアの結婚》(ミラノ ブレラ美術館)です。この作品も残念ながら来ておりませんが、初期のラファエロの代表作の一つです。聖母の結婚相手を、並み居る候補者の中から選ぶにあたって、手にしたオリーブの枝に葉が芽吹いた者が結婚することになります。そこで選ばれたのが、このヨゼフです。この場面では、背後に奥行きをもった三次元空間が広がり、遠近法の消失点は「空」、すなわち何もない、この建物の開口部という非常に象徴的な場におかれています。また、集中式の教会堂というのもルネサンスの一つの象徴です。こうしたモティーフは、先程ご覧いただいたペルジーノのヴァチカンの壁画(《聖ペトロへの鍵の授与》 ヴァチカン システィーナ礼拝堂)や、同じ《マリアの結婚》(カーン美術館)でも描かれています。ですがペルジーノの場合は、直線的に人々が並列して描かれ、平面的であり、風景はやや低い視点から捉えられています。それに対して、ラファエロの作品は、俯瞰的に、ダイナミックに、空間や奥行きを凝縮させているのがわかるでしょうか。師の構図を模倣しながらも、三次元的な人物の配置や、動き、多様なポーズの豊かさなどを含め、ラファエロ固有の画面というものが作り上げられていることが見てとれるかと思います。
このように早くからマルケ地方を転々としながら、ラファエロは優れた作品を生み出していたわけですけれども、それがウルビーノの宮廷の人々にも認められたのだと思います。この後ジョヴァンナ・フェルトリア・デッラ・ローヴェレという人の紹介で、フィレンツェ共和国の国家主席ピエロ・ソデリーニ(Piero Soderini)に紹介されて、ラファエロは1504年、フィレンツェに赴くことになります。このジョヴァンナ・フェルトリア・デッラ・ローヴェレこそが、先程のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘にあたり、次の公爵グイドバルドの姉にあたります。この人物が早くからラファエロを高く評価して庇護し、数々の作品も注文してきたのです。
ラファエロはフィレンツェに移住して、大いなる飛躍の時代を迎えます。フィレンツェといえば、まさにルネサンス発祥の地であり、200年にわたるそのルネサンスの成果というものが、まず遺産として存在しました。ジョット(Giotto)から数えてなので、正しくはゴシック末期というべきかもしれませんが、ジョット以降のさまざまな美術の遺産が存在していたわけです。さらに同時代にはレオナルド、ミケランジェロ、フラ・バルトロメオ(Fra Bartolomeo)などの盛期ルネサンスの芸術家たちが、次々に新しい様式を打ち出していた時代ですね。そのただ中に、ラファエロが飛び込んでいくことになるわけです。
ちょうどその頃の肖像画が、先程もご紹介しました初期のものです。20代そこそこのラファエロです。これもやはり首が変ですよね。首が解剖学的には太く、肩との区別がつきませんよね。ラファエロ特有の描き方なのかもしれませんが、これもラファエロの作ではないとされた時期がありました。近年はX線の調査などで素描の確かさなども含め、ラファエロの真筆だと認められております。
この時期のイタリア、フィレンツェの状況に触れておきましょう。1492年、メディチ家の当主、ボッティチェッリらを庇護したことでも名高い「ロレンツォ豪華王」、すなわちロレンツォ・イル・マニーフィコ(Lorenzo il Magnifico)が亡くなります。そのあと、厳格で禁欲的な説教で知られるドメニコ修道会士ジローラモ・サヴォナローラの「虚飾の焼却」により、古代異教的で享楽的なロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)のもとで花咲いたルネサンスの文化が宗教的に断罪されます。さまざまな芸術が焼き払われ、破壊され、失われていきました。さらにイタリアは、政治的にもさまざまな国から攻められて、いわゆる「イタリア戦争」が勃発します。そのような非常に不穏な時代情勢のなかで、メディチ家も追放されていきます。そしてこうした混乱が一旦収束し、共和制が落ち着いた時期が、ラファエロが移住した1504年であり、再び芸術を復興させよう、フィレンツェという共和国を高めていこうという動きが見られる時代になります。この時代にミケランジェロがまず、有名なダヴィデ像(フィレンツェ アカデミア美術館)を彫り、市庁舎の前の公的な空間に据えられ、フィレンツェの象徴とみなされるわけです。さらに、シニョーリア広場に立つシニョーリア宮殿(市庁舎)の「五百人広間」に、《アンギアーリの戦い』(Battaglia di Anghiari)と《カッシーナの戦い』(Battaglia di Cascina)といわれる戦闘場面を、レオナルドとミケランジェロ両巨匠がそれぞれ描くことになり、ちょうどこのような素描が公開された時期でもあります。残念ながら、二作とも完成されず、素描段階、構想段階で終わってしまいましたけれども、素描からも両者の作品が人々に与えた衝撃を想像することができるでしょう。レオナルドの、後ろ足で嘶く馬に乗って戦う兵士たちのアクロバティックな群像表現。あるいはミケランジェロの筋肉隆隆とした身体、解剖学的研究により一体一体どれも違うポーズを示し、しかも数多くの困難な姿勢や骨格を易々と描きあげてしまう見事な離れ業。こうした新しい芸術というものが、この当時、フィレンツェでは次々に発表されていました。そこに、まだ20歳そこそこのラファエロがやってきて、こうした糧をどんどん吸収していくというのが、フィレンツェ時代です。
その最初の作例とされるのが、今回、展覧会にも来ています。小さいながらも非常に精緻な《聖ゲオルギウスと龍》です。風景表現には、ペルジーノの影響を残す、なだらかで穏やかなウンブリア風の景色が見られますが、画面自体は、対角線構図にダイナミックな運動感、躍動感というものをともなった構図を取っています。嘶く馬の背に乗っているのが、聖ゲオルギウスという戦士聖人です。町を荒らし、子どもたちを犠牲に要求する龍がちょうど王女様を犠牲にしようとしていました。そこで、聖ゲオルギウスがその王女様を解放し、龍を退治するシーンを描いています。これは古くから描き継がれてきた主題で、異教徒対キリスト教徒の戦いなど、寓意性をもって文学でも取り上げられた伝統的図像です。
ここで聖ゲオルギウスは、嘶く馬の上でマントを翻し、矢が刺さっているのにまだ飛びかかろうとしている生命力旺盛な龍に対して剣を振り上げている、けれども顔は非常に穏やかで、むしろ龍という怪物に対する超越性、優越性というものを穏やかな表情に凝縮させています。
この作品は、同じくパリのルーブル美術館にある、同じ年代に描かれた《聖ミカエルと龍》という非常に良く似た作品と、対幅として古くから飾られていたことがわかっています。おそらく《聖ミカエル》が先に描かれて、その後《聖ゲオルギウス》が描かれ、後でペアにされたのではないかという説が多いのですが、いずれにしても早い段階から対幅として受容され、受け継がれてきたことは確かです。その注文主に当たるのが、先に述べたジョヴァンナ・フェルトリア・デッラ・ローヴェレだと考えられています。ラファエロの庇護者ですね。彼女が、なぜこのような作品を注文したのかといいますと、聖ミカエルというのは、彼女の息子フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレが、フランスの聖ミカエル騎士団の騎士に任じられるという栄誉を授かったため、それを記念して描かれたのではないかと考えられています。展覧会に来ているラファエロの《リンゴをもつ青年》はこのフランチェスコを描いたものではないかという説もあります。
一方、ジョヴァンナ・フェルトリア・デッラ・ローヴェレの弟にあたるグイドバルド・デッラ・ローヴェレは、同時期に、聖ゲオルギウスを守護聖人とするガーター騎士団の勲章を受けます。先にベルゲーテの絵に見たフェデリーコの幼い息子グイドバルドはもう大人になって、こういう美しい青年(ラファエロ《グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの肖像》フィレンツェ ウフィツィ美術館)に成長しており、フェデリーコの跡を継いでウルビーノ公爵に就いたわけです。ジョヴァンナは、この二つの家族の栄誉を祝して、この対幅を描かせたのではないかと考えられています。
もっとも、もう一つの説があります。グイドバルドには子どもがいませんでした。そこでウルビーノ公国を後代に受け継がせるためには養子が必要で、この甥フランチェスコを養子に迎えます。後にフランチェスコはウルビーノ公国の領主になるわけですけれども、この対幅はその養子縁組を記念したものではないかという説も出されています。フランチェスコの叔父にあたるのが、後に出てくる教皇ユリウス2世、ラファエロをローマに招聘する教皇です。ですから、ウルビーノとローマ教皇庁との関係は非常に強く、そうした環境の中でラファエロは数々の作品を描いていたことがわかると思います。
このように二作は、ガーター騎士団の守護者と、聖ミカエル騎士団の守護者を描くことで、ジョヴァンナの家族の栄誉を記念し絵画化したという可能性が考えられます。しかしながら、いずれも悪に対する正義を象徴した主題を扱っているため、そこに注目した、もう一つの解釈も提起されています。この当時ウルビーノは、暴君ボルジア家に牛耳られていました。教皇庁もアレクサンデレという同じボルジア家出身の教皇に支配されており、先程の息子フランチェスコ・デッラ・ローヴェフェなどはフランスに逃避していました。ですので、そこでフランスの称号を得ているわけです。この絵には、こうしたボルジア家との戦いによって勝利を収めるという、政治的なニュアンスも込められていたとも考えられているのです。はっきりとしたことは、資料に裏付けられないので、いくつかの仮説をご紹介するしかないのですが、いずれにしてもこういう宗教画には、当時の時勢を反映したアクチュアルな意味が込められていた可能性があります。
さらに難しいことに、もう一枚、ラファエロが少し後に描いた《聖ゲオルギウスと龍》の絵が現在ワシントンのナショナル・ギャラリーにあります。これも聖人のガーターベルトに、まさにガーター騎士団のモットーが記されており、この作品こそが先の説に該当するものかもしれない、など、様々な仮説に包まれて、結論は出ません。
いずれにしましてもラファエロはフィレンツェにやってきまして、最初にまずこの作品を手がけましたので、作品自体に見られる様式にも目を向けておきたいと思います。何よりも嘶く高い声が聞こえてきそうなほど臨場感溢れる馬の表現ですが、これはウフィッツィ美術館素描室に下絵素描が残っています。まだそこにはアンティオキアの王女様も描かれていませんし、下のほうには骸骨が転がっていたりと、構想が後にかなり変更されたことが分かります。
ラファエロは素描だけでなく、絵を実際に描きながらも、「ペンティメンティ」すなわち「描き直し」を重ねています。絵を描きながら構想を練っていたプロセスが浮かび上がってきます。このような馬の表現は、まさにレオナルドが先程の《アンギアーリの戦い》のために、たくさんの習作を残しています。ラファエロが直接に下敷きにして模倣した作品がどれとは言えないのですが、モティーフとして、このように嘶く、躍動感のある馬の表現をレオナルドから学んだ可能性は十分にあると思います。さらにレオナルドの素描の興味深いのが、あるものを描きながら、形を模索しつつ線を自由に引く中で、いつしか別のものの表現へと変容していく点です。馬を描きながらライオンになっていくとか、人の顔になっていくとか…、このように変容していくのが、レオナルドの素描のおもしろいところで、当初何か決まった構想があって、一つのものを描き切るというよりも、筆を動かしながら新しい着想へと導かれていくわけです。ラファエロはおそらく、このような素描のあり方についても、レオナルドから学んでいる可能性があると思います。
さらにラファエロは、やはりレオナルドを通じて古代へと導かれます。具体的なモデルになったのは、ローマのモンテ・カヴァッロと言われている有名な古代彫刻です。クイリナーレの丘に残る噴水のそばに、ローマ帝政期の馬があります。おそらくラファエロは、これらの馬を直接的にはモデルにしながら、レオナルドの表現力、あるいはダイナミックさや躍動感を加味して、この作品を作り上げた可能性が高いと思われます。もちろん翻るマントや、冑なども、レオナルドはよく似た素描を残しています。そういったものも、おそらくモティーフになっているでしょう。それから先ほどの素描には下方に骸骨がありましたが、骸骨とこのような騎馬像との組み合わせは、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)というドイツ・ルネサンスの画家が木版画で描いています。それ以外にもマルティン・ショーンガウアー(Martin Schongauer )など、アルプス以北の美術の影響を受けています。フィレンツェに集まっていた様々な芸術潮流や情報を、ラファエロはいちはやく捉えて、自らの作品に凝縮・昇華させていっていったというのが、この小さな作例一つからでもうかがえると思います。
今回の展覧会には、まさにラファエロのパトロンであったジョヴァンナの息子、ウルビーノの公爵になるフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレの肖像とされる作品も来ています。手に林檎を持って、非常に豪華な衣装を着ています。当時の、まさに貴族然とした服ですね。この種の見事な質感表現もやはり実作を見ないと分かりませんね。実際に手で触れることはかなわずとも、触感を目で知覚するという楽しみは、ぜひ展覧会で味わっていただけたらと思います。
さらにグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの奥さん《エリザベッタ・ゴンザーガの肖像》も来ています。つまりラファエロは、ウルビーノ宮廷を支配したこの一族のほとんどの肖像を手がけていたことも、この展覧会で浮き彫りになっていると思います。これらの肖像は、ラファエロがフィレンツェとウルビーノを行き来しながら、何度かウルビーノに戻っては、制作を手がけたと想像されます。太陽の光に照る独特の風景を背景に、正面観ながらも視線をやや右へずらすことによって、ある種の瞑想性や落ち着きのある表情を示しています。この女性は、マントヴァのゴンザーガ家から嫁ぎ、自らさまざまな学問にもいそしんだ人で、特に錬金術に凝っていたそうです。頭飾りにはさそりがあしらわれていたり、解読できそうな、できないような、ヒエログリフのような装飾もなされ、とても凝った洋服ですね。こうした意匠も、ラファエロ自身の着想というより、モデル本人たちの意向によって、かく見られたい、かく自分をプレゼンテーションしたいという欲求に合わせて、描かれたものだと思います。夫の肖像がこちらですね。いずれもラファエロの作品ですが、展覧会に来ているのは左側(妻の肖像)だけです。
こういう一連の肖像画とともに、ラファエロがフィレンツェで掘り下げたものに、今回の展覧会の目玉といえる《大公の聖母》をはじめとする数々の聖母像があげられます。まさにこのフィレンツェ時代の聖母像の探究が、ラファエロを「聖母の画家」と呼ぶ所以となった、そういっても過言ではないと思います。非常にたくさんの聖母像、優雅な聖母像を描いています。
《大公の聖母》の話を始める前に、ラファエロの聖母像の系譜をご紹介しておきたいと思います。ラファエロの聖母像もやはり、レオナルドがまず出発点だったと言われています。いうまでもなく聖母像、聖母子像というのは、古くから描き継がれてきましたが、絵画表表現の重要な契機となったのは、四三一年のエフェソス宗教会議です。そこで、マリアはキリストの母ではあるが神的な位格は認められないとするネストリウス派の見解が否定され、「神の母」「テオトコス」としての地位が公式に認められ、そこから聖母像というのが描かれ始めます。レオナルドの聖母子は、キリスト教の象徴性を帯びた記号――原罪を示す林檎や純潔を示す白百合など――をできるだけ抑制して、母子という存在の普遍性であったり、人間としての母と子の感情的交流であったりを表に出しながら描くというのが一つの特徴ですね。ゴシック末期頃からイタリアに兆す、一つの自然主義的流れの延長とも言えます。ビザンティン美術によく見られる超越的な「神の母」としての表現よりも、親しい身近な人間的感情になぞらえて、キリストの物語を理解しようという考え方が、フランチェスコ会やドミニコ会といった、托鉢修道会の思想とも共鳴して、ゴシック末期以降に広がって行きます。その流れの中に、このようなレオナルドの作品も位置づけられます。
この作品(《ブノワの聖母》サンクト・ペテルブルク エルミタージュ美術館)は、いわゆるレオナルドの「スフマート」と言われるぼかし技法が生かされていて、闇の中に輪郭線が融解し沈んでいます。そして光が当った部分だけが、ハイライトとして浮かび上がってくることで、独特の存在感を人々に伝えています。ラファエッロのこの聖母子(《ナデシコの聖母》ロンドン ナショナル・ギャラリー)にはまだスフマート技法は見られませんけれども、構図や、親しげな母と子の表現を学んでいることは、見て取ることができるのではないかと思います。
さらにラファエロは、簡潔な三人の構図の中に「差異と調和」を探究していきます。これは、《美しき女庭師》(パリ ルーヴル美術館)と呼ばれる有名な作例ですけれども、いわゆる古代の彫刻で理想化された「コントラポスト」という表現を取り入れています。コントラポストというのは対比、対称ということで、異なるものを対比させつつ調和をはかるという理想的な概念です。コントラポスト、例えばどのようなものかというかと、支える足と遊ばせる足、それから挙げる手と横に下げる手、あるいはS字型に相反する方向性を一つの像の中に組み合わせつつも、バランスよくまとめ上げるというような描き方です。一つの像のなかに、違うベクトルに向く動きなり、方向性なりというものがあって、それを巧みに対比、対称させながらバランスをとるというのが、コントラポストの描き方というわけです。ラファエロの絵でいえば、幼児キリストが立っているのに対して、洗礼者ヨハネは腰を下ろすという、2体の間にコントラポストが見られています。後に洗礼者となるヨハネが荒野で修行しているときに、聖母子と出会うという話を描いています。キリストが4分の3正面観なのに対して、ヨハネが側面観で描かれ、対比させながら、全体として三角形の構図へとまとめ上げられています。さらに視線も、ヨハネからイエス、そして聖母へと流れるように導くわけです。こういう描き方も、ラファエロはやはりミケランジェロやレオナルドから吸収します。とりわけこの幼児の姿などは、ミケランジェロ(《ブリュージュの聖母》ブリュージュ 聖母聖堂、《タッデイの聖母子》ロンドン 王立美術アカデミー)から学んでいることがわかります。《タッデイの聖母子》では、座っている聖母の膝の上にキリストが横たえられ、立っているヨハネと対比をなしていますね、2体の間の対照性も、ミケランジェロから学んでいます。当時、とりわけ聖母子像において話題になったのが、レオナルドの、《聖アンナと聖母子》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)です。パリのルーヴルにある《聖アンナと聖母子》の素描ですが、ただこれは、もう少し後の素描で、1501年にレオナルドはこの主題を描いた別の素描、非常に大きな下絵を公開して、多くの注目を集めたことがわかっています。残念ながら、そのカルトンは残っていないのですが、おそらくラファエロもそのカルトンに学んだ可能性があります。それは、この素描よりも、完成作の油彩画の構図に近くて、それを反転させたような構図だったと推測されています。レオナルドは1502年にこの油彩を描き始めて、一生涯、自分の手元に置いて、手を加え続けました。レオナルドにはそういう作品が多いですよね。画面もすごく複雑ですね。たった4体のモティーフが描かれているだけだなのですが、子羊の上にキリストが乗り、そのキリストは聖母の足元に乗っていて、さらにその聖母はアンナの上に乗っています。幾重にも重ねあうような形で、本来ありえないようなポーズをとっているわけです。これは、もちろんさまざまな解釈を呼んでおり、背後の峻厳たる風景、どこの地形とも判別できない風景と相俟って、レオナルドならではの宇宙観や原初性の関わりが指摘されています。森羅万象を司る原理を求めたレオナルド独特の聖母子像と言えると思います。母の上に母が乗っているという点では、まさに母性の強調ですね。
このように、レオナルド自身は、様々な意味を込めてこの深遠な世界を描きだしているわけですが、ラファエロはこの構図、有名なこの作品のもとになった素描に倣いながら、いくつかの絵を描いています。これ(《聖母子と仔羊》マドリード プラド美術館)は今回の出展作品です。ご覧の通り、やはり仔羊の上に乗るキリストが、さらに聖母に重なるようにして描かれているけれども、ここではアンナはヨセフになっていて、いわゆる聖家族と仔羊という図像に変えられています。ここでは風景も自然らしい田園の景色が広がっていて、人物たちも深遠さや不可解さ、不可思議さ、そういったレオナルド的な要素を湛えているというよりは、非常に親密に、身近にいる家族のように描かれています。そこがラファエロとレオナルドの大きな違いです。ラファエロは、あくまでも肖像画なら肖像画で、その人の個性、モデルそのものを描くという描き方をし、聖母子は聖母子で、非常に身近な存在、親しい存在として描き出しています。そこが、レオナルドから影響を受けながらも、方向性として違ってくるところです。
今の図像にもう少し人物を増やしたのが、この聖母類型、《カニジャーニの聖家族》(ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)です。聖ヨハネとその母エリザベッタ、そしてキリストと聖母とヨセフという、聖ヨハネの家族と聖家族とが出会っているシーンです。このようにいくつもの群像を組み合わせつつ、三角形構図にまとめることで均衡を取っています。そして、この体をひねって回転させるようなポーズをしているヨセフなどには、ミケランジェロからの影響が明白ですね。S字型ポーズ、蛇状身体といわれるものです。ですから、ミケランジェロの身体表現と、そしてレオナルドの群像の構想、そうしたものを取り入れつつも、自らの造形言語へと昇華していく、それがラファエロの絵の描き方なのです。
例えば三角形構図は、まさにレオナルドが打ち出していたもので、《岩窟の聖母》(パリ ルーヴル美術館)にも見られます。ここでは、湿った原初風景のような岩窟、あるいは子宮を思わせるような女性性の象徴たる岩窟の中に聖母が描かれていて、天使も足を見ると怪物のような形をしていて、非常に謎めいています。こういったレオナルドの難解で神秘的な解釈というものに、ラファエロは距離を置きつつ、その構図を取り入れていく。ここ(《ベルヴェデーレの聖母》ウィーン 美術史美術館)にも、美しい穏やかな風景の中で睦み合うキリストと幼い洗礼者ヨハネと聖母とが均衡のとれた三角形構図を形作っているわけです。ラファエロはラファエロで、聖母子をたくさん描いて、非常に人気を得、評価を高めました。レオナルドとは違う描き方ですが、このえもいわれぬ、伏せた優美な聖母の目というのも、もちろんレオナルドに由来します。ですけれども、それが神秘性というよりも優美さにかわり、聖母の美徳のようなものが内面から滲んでくるような、そういう表現に変えていく、まさに聖母子を描く独自の造形言語を探究していることがお分かりになるかと思います。ですから見た感じは、どれもレオナルドに比べるとラファエロの聖母子には平凡な印象を感じるかもしれません。それでも、どの身体を見ても、どれか一つ部分を変更したり取り除いたりしても、均衡が崩れるような、部分と部分、部分と全体とが一つの調和をもたらすような、計算しつくされた構図というのを生み出していますね。それがまさに「古典主義」といわれるラファエロの描き方になります。つまり、異なるポーズや異なる動きを孕みながらも、全体として一つの調和にまとめあげていくところが、まさに古典主義の最骨頂なわけです。
これ(《ヒワの聖母》フィレンツェ ウフィツィ美術館)は損傷が激しく、後世に修復の手が入って再構成された作品ですけれども、鶸という受難の象徴をともなう聖母子です。この種の聖母の翻案がたくさんが描かれています。あるいは母と子が頬ずりして、母が子をいとおしむという聖母の型(《テンピの聖母》ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)なども描いています。
やはりラファエロ(聖母子の習作 ロンドン 大英博物館)も、先ほどお話したレオナルドの素描制作と同じく、かなりランダムに引いた線の中に卵形の聖母の顔形を探し求めていきます。もともと決まった構想があるというよりも、自由に線を描きながら、形を追究していくという素描の描き方です。数々の美しいラファエロの聖母像が、当時、高い評価を得て、まさに「優美、甘美な聖母の画家」というのがラファエロの形容詞になっていくわけです。
このように美しい女性をたくさん絵に描いたことについて、ラファエロの言葉も引いておきたいと思います。これは聖母子像についてというよりも、カスティリオーネに当てた書簡のなかで、後にローマで描く《ガラテイアの凱旋》(ローマ ヴィッラ・ファルネーゼ)について記した有名な言葉です。「美しい婦人を描くためには、多くの美しい婦人を見なければなりません。しかし美女は不足しているので、私は脳裏に浮かぶある観念(certa idea)を利用します。それに何らかの芸術的価値があるかどうかはわかりませんが、その卓越性をもとうと努めております。」というふうに言っています。
これをどう解釈するか。ルネサンスの時代には、古代の『ゼウクシスの神話』が頻繁に引かれます。ゼウクシスは古代の画家ですけれども、ある女神の絵を描くにあたって、クロトンの村で美女コンテストをしました。そして5人の美しい女性を選ぶわけですが、自然の中には誰一人として完全な美を備えた者はいないので、その中からそれぞれの美しい最良のパーツを選んで、芸術家はそれを選択し一つの最高の美にまとめ上げたといいます。芸術家の力を謳歌すると同時に、プラトンのイデア論を髣髴させる神話です。つまり、イデア、天上の志高のイデア、美の理念というものは、この世には存在せず、到達もできないものだけれども、不完全ながらも分有され現世に散りばめられている不完全な美を拾い集めることで、芸術家はそのイデアに達成しようとするのだ、という考え方ですね。そういう古代の美、イデア論的な考え方というものを、翻案していると考えられます。
これは当時、宮廷文化の中で人々がよく引き合いに出したゼウクシスの神話で、これをそのまま受け取る必要はないのかもしれませんが、ラファエロの言葉にはそうした理念が共有されていたことがうかがえます。さらにラファエロは、女性との戯れも好んだらしいのですね。そうしたことともに、この文章を解釈する人もいます。20世紀の美術史家エルヴィン・パノフスキーという人は、「感覚的な経験の総和が何らかの方法でひとつの内的精神像へと変貌する」ことを言っているのではないかと、観念主義的に解釈していますが、いずれにせよ、多くの美しい婦人のスケッチを通して、自分なりの美というものを追究しようとしたラファエロの姿が見えてくるのではないかと思います。
そのいわば集大成というか、フィレンツェ時代の聖母子像のさまざまな探求を凝縮させているように思えるのが、この《大公の聖母》です。これはトスカーナ大公フェルディナンド三世の元に長らく置かれていたので、このような名前がつけられていますけれども、本来の注文主ではなく、後世の所有者です。作品自体の由来ははっきりわかっていません。今回の展覧会の一番の顔であるこの非常に存在感のある聖母子ですが、展覧会でもはっきりと示されているように、漆黒の背景は残念ながら、後世に塗りつぶされてしまっているものです。背景がいかなるものであったかについては、いろいろな議論があったのですけれども、近年の科学調査以後、ラファエロの構図がご覧いただいているものとはちょっと違うものだったことが判明しました。後でご覧いただきますけれども。
ここでまず見ておきたいのが、ラファエロの、左手に幼子を抱いて私たちの方に緩やかに視線を投げかけている、とりわけキリストが鑑賞者の方に視線を注ぐという図像で、こうした表現は彼には珍しいものです。ラファエロがこの作品と、後で見るローマの作品とでだけ試している表現です。そして聖母はやはり、うつむき加減で下向きの視線を投げかけていて、右下の方から見上げると、なんとなく視線が合うような感じです。
このように立像で、左手に幼子キリストを差し出すというのは、古くはビザンティン美術からの定型で、ホデゲトリア形式といわれる図像です。これ(《聖母子》ローマ サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂)はビザンティン美術の影響を受けたローマの作品で、6世紀と非常に古いもので、キリストと聖母がまだ生きていたときに、福音書を著した聖人ルカが直接その姿を前に描いたという謂れを持つ聖母像の一つです。ルカは3枚の聖母像を描いたとされ、そのうちの2枚がローマに来ているという伝承があります。残念ながら確かなものはいずれも残っていないのですが、キリスト教会はこうした由緒正しい、真正な、さらには奇跡をもたらす聖像を所有することを望み、「聖ルカの聖母」を主張するプロモーションがあちこちで行われるといった現象があり、この作品も「聖ルカの聖母」と謳われたきわめて名高い聖母です。
ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会、テルミニ駅のすぐ近くにある古いバシリカ教会ですが、そこにこの聖像はあります。人間ではなく聖人であるルカが聖母子を前にして描いた、非常に貴重な由緒ある絵とされ、数々の奇跡を起こしたので、ローマでも大切にされた像で、ルカの聖母像が「ホデゲトリア」形式で描かれていたという説を受けて、この像も同じ類型を示しています。あるいはヴェネツィアのトルチェッロ島の大聖堂に描かれているこのような立像の聖母も、典型的なホデゲトリア形式です。金地を背景に、超越的な神であるイエス・キリストの母、「テオトコス」として描かれた聖母像です。聖母は正面を向いて、キリストは少し4分の3正面観になっていますけれど、私たちのほうに真正面から視線を向けて、いわば向こうから私たちを見下ろすような超越性を湛えているのが、かつての描き方だったわけです。
しかしラファエロは、こうした伝統的図像を借りつつも、まさに血肉を供えた温かみのある聖母像へと描き変えているわけです。人間らしいプロポーションをして、触れたら押し返してくるような、この柔らかい、張りのある皮膚の描き方や、人間としての実在感というものを、目で見ながら触覚まで喚起するような描き方で表出しているわけです。のびやかなコントラポストと、穏やかに起伏していく明暗、そして柔らかな色彩と、レオナルドから学んだぼかし技法「スフマート」によって、人間として描きながらも、人間でない存在。ラファエロならではの、内面から聖性が漲りほとばしる、そういう真正な聖母像が作り上げられているわけです。この上なく静謐で、繊細な視線、穏やかな微笑みも含めて。この作品の素描(ウフィツィ美術館 版画素描室)を見ますと、本来は円形で描く予定がなされていて、四角形と円形の両方が試されていて、考え抜いたあとが見えます。聖母の後ろには背景が描かれています。それゆえに以前から研究者たちは、この時代に黒塗りの背景をした聖母像は珍しいので、下層に背景か何かが描かれているのではないかと、黒塗りは後世のものではないかと考えてきたのです。それが、最近のX線調査によって、聖母の後ろに欄干のようなもの、建築的な構造があって、ここに風景に面した窓が描かれていて、実はこういう室内の聖母像だったということがわかりました。ただ残念ながら、下の層のオリジナルの画面がかなり痛んでいるので、上の黒い絵画層を剥がすのではなく、残したまま処置してあって、記録として背後はこうだったということがX線写像を提示することで示されています。
この修復というのも、近年、美術史の中で問題になっていることです。ラファエロという巨匠のオリジナル画面を救いだすことが必要なのか、それとも、このように後の時代に黒塗りされた画面にも歴史的価値を認めるか、という問題です。漆黒の背景から聖母像が浮き上がってくる、まるで私たちの前に顕現したかのような聖母像は、この黒塗りの画面とともに、長い間私たちがこの作品を受容し、鑑賞し、記憶のなかに形成してきたイメージにほかなりません。この絵が辿ってきたアフターライフ、死後生と私はよく呼んでいるのですが、絵がいったん完成されてから、死へと刻んでいく時間というのがあると思うのです。それを延命させるという修復の考え方と、そうではなくて死へと緩慢な時間を刻みながらも、多くの人たちの中で絵が息づいてきた過去の時間、絵が今まで生きてきた死後生というか、アフターライフ、長らく絵の中に積もってきた時間の層というものをどう見るかについては、修復家の判断だけでなく、見る私たち自身にも課せられている問題だと思います。つまり多くの人は、この黒い、後世に塗りつぶされたかたちで、ラファエロの図像を享受し、頭の中に思い描いてきたという歴史があるわけです。だからこれを簡単に、後のものだからといって、剥がしてしまっていいというものでもないのです。この絵自体が生きてきた長い歴史の証言のひとつ、記録でもあるわけです。
ただそうなると、実際にはこのあたり、この暗い背景に溶けていくような繊細で柔和な聖母や幼児の輪郭線も、結局は後世の人が描いたものになるわけですよね。だからよく見てください。ラファエロは、表面の仕上げの完成度が非常に高い画家ですよね。絵の具のタッチを残す現代美術とは違って、むしろ塗り残しを一切嫌って、どこまでもどこまでも精緻に対象を描きつくす、仕上げつくすというのが、ラファエロの古典主義的な描き方です。そうだとしたときに、私たちに示されている非常に美しい精緻な輪郭線や光輪や髪の毛の房のどこまでが彼の手なのか、どこからが後世の介入なのか、その辺りを私たちも意識して見ていく必要があります。もちろん多くの人の手が介在してきて今作品がここにあるわけですから、どうあってもオリジナルの画面を無媒介に見ることなどできないのですけれどもね。
こうした修復についても、今回の展覧会は、私たちに一つの課題を教えてくれたと思います。残念だ、という声もあるかもしれませんが、多くの人のラファエロ体験というのが、この作品の、この黒い背景から浮かび上がる聖母というイメージであったことも否めないわけです。オリジナル崇拝というのも、近年、美術史では乗り越えられてきていて、オリジナルだけが素晴らしいというのではなくて、ラファエロが現代までどう見られ、どう享受されてきたか、どう理解されてきたのか、作品の歴史性にも価値を見る動きが萌しています。それを示す一つの記録としても、本作は非常に意味のある作品だといえると思います。
時間がないので急ぎますね。それ以外にラファエロの、この時代のものとしましては、一連の肖像画が上げられます。先ほど初期に見たものはウルビーノの宮廷と近いものでしたが、これ(《無口な女(ラ・ムータ)》)は、まさにジョヴァンニ・フェルトリア・デッラ・ローヴェレの肖像画ではないかと言われています。ラファエロのパトロンだった女性ですね。ご覧のとおり、まさにレオナルドの《モナ・リザ》のポーズを引き写しています。レオナルドの女性は、画面からは誰なのかわかりません。モデルの特定を、研究者は必死で試みてきていますが、画中には少なくとも彼女が誰なのかを示す記号がありません。何の紋章も描かれていないし、どの家のご婦人なのかがわかるような指輪やアクセサリーも身につけていない。原初的な風景と、誰でもない、あるいは誰にでもなりうるような可能性を秘めた《モナ・リザ》の魅力というものに対して、同じポーズを借りながらも、ラファエロは明らかに、誰か特定の個人を描いています。ですから、かなり考え方が違うわけです。
この場合、女性はかつて流行した、リング台に4つの爪でルビーを留めた「a notte(夜の)」形式と言われる指輪と、リング台にサファイアを埋め込んだ最新の指輪をはめており、当時のアクセサリーの流行まで描きつくしながら、一人の個人の豊かな貴族の女性を描いているわけです。同じ構図がさらにフィレンツェの有名な銀行家のドーニ家の夫妻の肖像(フィレンツェ パラティーナ美術館)の女性像にも使われています。この夫妻は宝石のコレクターだったので、非常にたくさんの宝石が描かれています。一角獣をあしらったペンダントは、純潔、処女性を表す真珠や、力と繁栄を表すエメラルド、純潔を表すサファイヤなど、それぞれが処女性を帯びた宝石を顕示しています。これも日本にかつて来ました、有名な《貴婦人と一角獣》(ローマ ボルゲーゼ美術館)です。これも同じポーズですよね。ラファエロはレオナルドの創案になるポーズを借りながらも、まったく違う、高貴な特定の女性たちを描く一つの定型として描いています。レオナルドの画面がいろいろな多義性を持ち、さまざまに変容しうる可能性、潜在性というものを孕んでいたのに対して、ラファエロはその潜在性を現実の個人一人一人に実現させていくのです。それがラファエロの肖像の描き方と言えると思います。
今回はコピー、カヴァリエル・ダルピーノ(Cavalier d'Arpino)という弟子が描いた《死せるキリストの運搬》がきていますが、これがラファエロの作品(ヴァチカン美術館)ですね。これが、フィレンツェでの最後の作品と考えていいと思います。これは、1500年にペルージャの支配権をめぐるオッディ家との構想で暗殺され夭折した息子グリフォネットのために母アタランタ・バリオーニが弔いのために注文した作品で、まさに気絶する母と死せる息子を対照的に描いています。キリストの物語を描きながらも、母と子という注文主の状況を投影した作例です。この作品がもともとペルージャにあったのを、ローマに移すことになり、ペルージャの人たちが怒ったので、弟子がラファエロの絵の代りとしてこのコピーを作ったそうです。ここでは、静謐で優雅な画面を特徴とするラファエロだけれども、どちらかというと劇的な構図というか、あるいはミケランジェロ的な、蛇状にひねる身体などの影響も見られます。これ(《聖家族(ドーニ家のトンド)》フィレンツェ ウフィツィ美術館)はミケランジェロが描いた作品ですが、背後のヨゼフからキリストを受け取る聖母の姿勢が、まさにここ(気絶する聖母を支える手前の女性像)などにも援用されていて、レオナルドやミケランジェロから吸収した要素が見られます。
さらに今回展覧会で、この下の部分のプレデッラ(裾絵)も来ています。これはグリザイユといわれる単彩画で描かれた寓意像で、希望と慈愛と信仰を表す寓意像がここに並んでいて、あとここのペンデンティヴ部分のグロテスク文様の装飾も来ています。
時間が押してきましたので、ローマ時代に話を移していきたいと思います。
ラファエロはこのようにフィレンツェで、多くの芸術家たちの優れたところを吸収しながらも、自らの芸術言語を確立していったわけです。そのような中で、ローマから非常に大きな仕事の話がやってきます。一説には師であった人物からの紹介でローマに行ったとも言われていますが、教皇ユリウス2世という先程のウルビーノ出身の教皇が、ローマの中心にいましたので、その人間関係もあって、ローマに呼ばれた可能性も指摘されています。1508年、彼はローマに移ります。そこから1520年に亡くなるまでの12年間――30代で亡くなりますから、非常に短い人生ですけれども――1520年までの間に、歴史に残る大作を描いていくわけです。
展覧会では、フレスコの大作をもって来ることはできませんので、それに関わる素描であったり、あるいはそれを翻案した作品であったりというものが展示されていますが、それもまた作品を多面的に理解する視点を与えてくれると思います。この場では、展覧されていない部分を紹介しておきたいと思います。
ローマというのは、今の私たちでいえばまさにカトリックの総本山で、非常に重要な場ですけれども、中世以来、長らく教皇庁というのは2つに分裂していた時代があって、大分裂、「シスマ」といいます。ローマは古代ローマの威光を失って以後、どちらかというと周縁的な土地でした。文化的にはやや遅れた、放擲された場であったわけです。ルネサンス期になって、それをキリスト教世界の中心として再興していこうという動きが生まれます。それを推進した代表的な人物が、教皇ユリウス2世、デッラ・ローヴェレ家出身でまさにウルビーノ出身の人です。彼は、政治面ではローマを安定させ、教皇領を統一し、イタリアを攻めにやって来た外国諸勢力を放追することを掲げます。文化面では、サン・ピエトロ大聖堂を再建していきます。4世紀に建築された、古い異教の遺構を作り直して大聖堂が造られたのですけれども、それを新たに再建するという作業です。そしてシスティーナ礼拝堂の天井壁画装飾をミケランジェロに依頼し、さらに教皇の居室の装飾を企てます。そしてまさにこれが、ラファエロに関わる事業なわけです。彼の考え方というのは、古代の異教文化をキリスト教に吸収しようとするものです。本来なら、キリスト教と異教、つまりキリスト教以前の文化は、別ものです。しかしルネサンスの人文主義を背景としながら、古代異教の優れた文化というものも、キリスト教文化の中に生かして吸収していこうという考え方が萌します。それを受け継いで、さらにユリウス2世が亡くなった1513年以降、メディチ家出身のジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世に就任して、その下でもラファエロは描き続けるわけです。この人物のお父さんがロレンツォ・デ・メディチ、豪華王と言われたイル・マニーフィコだったわけです。フィレンツェの盛期ルネサンスを代表した人ですね。ロレンツォの芸術庇護をもう一度ローマで花咲かせたいという願いもあって、レオ十世は文人たちを宮廷に招き、古代ローマの威光によって教皇の威信を高め、考古学的な事業にも尽力していきました。この二人の教皇の下で、ラファエロのローマ時代というのが展開していくわけです。
ラファエロが描いた、亡くなる数年前の《ユリウス2世の肖像》(ロンドン ナショナル・ギャラリー)です。本来、教皇は髭という男性的象徴は生やしてはいけないのですが、このときイタリアはさまざまな国から攻められてきていて、かなり苦境にあったため、願掛けではないですけれど、全ての困難が解決したら髭をそるという誓いをたてて生やした時期の肖像です。こちらはメディチ家出身の《教皇レオ10世の肖像》(フィレンツェ ウフィツィ美術館)ですね。この二人の下で、ラファエロは活動していくわけです。ラファエロには、建築家のブラマンテという先生がいて、サン・ピエトロ大聖堂の改築は、そのブラマンテが設計していたものを受け継ぎ、ブラマンテの死後、ラファエロもその設計を手がけます。ラファエロはローマに来てから、かなり建築を手がけます。その後、ミケランジェロやサンガッロ(Sangallo)といった建築家たちが別の案を出しまして、結局その折衷案がバロック期に採用され、今のような形になっています。ですから、今のサン・ピエトロ大聖堂に行っても、ラファエロの設計通りではないのですけれども、一時、関わっていたのです。キリスト教の総本山としてヴァチカンの威信を高め、高揚させ、再興していくという一連の流れの中で、ラファエロが偉大な作品を残していくことになります。
ちょうどラファエロがローマに入ったとき、システィーナ礼拝堂の天井装飾が描かれつつありました。では、ラファエロのローマでの活動をまとめてご紹介しておきましょう。まず1509年からヴァチカン宮殿の居室、スタンツェという教皇の居室の4つの間を手がけます。残念ながら最後の2つの間は工房により仕上げられ、一部だけがラファエロ、あるいは着想だけがラファエロのものです。「コンスタンティヌスの間」などは、ラファエロの死後に完成されますから、ほとんど着想なども弟子たちによるものです。「署名の間」と「ヘリオドロスの間」に、本人の手がかなり見られると考えていただいたらいいと思います。
それからシエナ出身の銀行家、アゴスティーノ・キージという人の私邸、ヴィッラ・ファルネジーナやその回廊、ロッジアを装飾しています。さらに今お話した通り、ブラマンテの後を継いで、14年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任になります。そして15年から16年、今回も大きな作品が一枚来ていますが、システィーナ礼拝堂側壁下方を飾るタペストリーの制作も手がけています。15年には、古代物監督官に就任して、古代の皇帝ネロが作ったドムス・アウレア(Domus Aurea)といわれる黄金宮殿を調査します。そこで発見されたグロッタ、洞窟の装飾を模倣したグロテスク文様と呼ばれる装飾を、その後、様々に展開していきます。それは、このビッビエーナ枢機卿のロッジェッタとか、小浴室(スオゥフェッタ)に描いた装飾や、ヴァチカンのレオ10世のためのロッジャ、回廊の装飾に結実します。この時期に、グロテスク文様を国際的に有名にしていく作例を手がけていくわけです。
このように教皇やローマで活躍した名だたる銀行家など富裕な貴族たちの注文を一手に引き受けて、ラファエロは非常にたくさんの作品を短期間に手がけていくわけです。それには、先程お話したように、ペルジーノから引き継がれた実践的な工房の運営というものがかなり功を奏したようです。ラファエロの工房は、ペリン・デル・ヴァーガやジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)など、数々の有名な弟子たちを輩出していますね。今回の展覧会にたくさんの作品が来ていますけれども、一人でも立てる重要な芸術家たちを育てたという意味でも、ラファエロは重要な工房の運営者だったわけです。その代表作とされるヴァチカンのスタンツェを見ておきたいと思います。
ここは、ローマにいらっしゃった方なら、システィーナ礼拝堂と同じく、必ずと言っていいほど訪れる場だと思います。ここは、もともとはソドマ(Sodoma)というシエナ出身の芸術家が描き始めていたところを、あるいはそれ以前にロレンツォ・ロット(Lorenzo Lotto)、ブラマンティーノといった芸術家たちが絵を描いていて、それらが全部消されて白塗りされ、ラファエロという若い画家が起用されて、描き変えられてしまいました。ロレンツォ・ロットを専門に研究してきた私としてはいささか悲しいエピソードでもありますが、この作品こそがラファエロを国際的にも有名にしたのです。
この「署名の間」の装飾がもっとも難解といいますか、考え抜かれた思想を込めてプログラム化されています。先程お話したように、教皇ユリウス2世は、古代異教の文化というものを吸収して、それを総合する形でキリスト教文化を汎世界的なもの、普遍的なものに仕立てようとしたわけです。異教文化をも取り込むキリスト教の普遍性という考えの中で、真・善・美という古代の哲学者たちが追究した美徳を、「真」に相当する「神学」と「哲学」、「善」に相当する「正義・法学」、「美」に相当する「詩学」という人間の4つの学問、知的領域に置き換えて、それを歴史と寓意と象徴によって絵画化しようとしたのが、この間になります。つまり歴史は、4つの壁面に歴史画として4つの美徳が描かれていて、さらに天井には寓意像と、そして象徴的にこの4つの美徳を描いた像があり、それらに図像化されているということです。ですから、天井と側壁で、歴史画、寓意画、象徴画という表現の仕方が構想されている複雑な形になっています。それをラファエロはまず、半円形を4つの面に繰り返すことで、非常に調和の取れた空間を創出し、空間の真ん中に立ったときに鑑賞者を遠近法によって絵画の奥行きへと誘うような構図をとっています。
これが逆の、向かい側ですね。まず最初に手がけた《聖体の論議》と言われる画面ですけれども、これは後でつけられた名前で、本当の意味としては聖体の秘蹟の勝利、教会の勝利という寓意を描いた、まさに啓示された真理、神学、テオロジーを描いたものです。これは下の層と雲間に浮かぶこの層と、そしてさらに父なる神のいる最上層と、3層に画面が3分割されていて、下の方では「戦う教会」の寓意が描かれています。つまり地上にいる人は神を見ることができないけれども、聖体、聖なる身体、キリストの身体を象徴するホスティア、ミサのときに皆に分かち与えられるそのホスティアを通じて、神を観想するという地上のありかたが示されています。そのホスティアを中心として、人々が信仰を極めていくというのが、「戦う教会」、地上の教会のあり方です。
それに対して、上層ではキリストと、精霊の鳩と、父なる神という「三位一体」が縦軸に描かれていて、下層のホスティアと上層の三位一体が実は同じものなのだと、聖体にはこの本当のキリストと神と精霊という三位一体が実在するのだという議論をしているわけです。こちら側は預言者や聖人たちが居並ぶ、まさに天上の世界、教会の勝利を象徴する超越的な天上世界が描かれているわけです。ここでは縦軸と遠近法によって見事に統合された、非常に古典的な表現が見られるのです。
ヴァチカンのスタンツェの4つの間の装飾を手がけるなかで、時間の推移とともにラファエロは変容していきます。今ご覧いただいている間は最初の時期のものなので、左右対称で、求心的で、遠近法も合理的で、ある意味で古典的な描き方です。その代表がまさに有名な《アテナイの学堂》と言えるかもしれません。これは「哲学」を象徴するさまざまな古代の哲学者たちが一堂に会している場面です。ラファエロの建築の先生であるブラマンテが構想しつつも、結局は未完成に終わった設計をもとにして、求心的、ルネサンス的な建築を背景にしています。そこに、アポロンとミネルヴァという学芸を司る古代の神々を配しています。その下には、プラトンとアリストテレスなど古代の哲学者たちを描いています。まさにどれ一つを取り除いても全体の均衡が崩れるかのように、非常に個々のパーツパーツ、そしてパーツと全体が調和をみなぎらせています。その中にも、さまざまなポーズ、さまざまな色彩、さまざまな動きというものが見事に表されていて、まさに多用なるものの統一、合一、調和といったものが見られます。
ここでおもしろいのが、ラファエロはそうした神学的な理念を描きつつも、さらに同時代の人物の肖像を画中に描き入れている点です。有名な話ですけれども、プラトンがレオナルドの肖像であったり、ヘラクレイトスがミケランジェロであったりと、同時代人を称揚する肖像画を挿入していく。ブラマンテであったり、ラファエロ本人であったり。プラトンが天上を指さして仄めかしているイデアを、アリストテレスは地上のあらゆるものの中に具体化するものとしてマテリアリスム的、物質的に考えるわけですが、そのことを示す身ぶりを取っていますね。このように古の、今や実在しない哲学者を、現在に生きている人たちの肖像と交えて描くことで、理想たる世界と現実の人間の世界というものを、あるいは古代とキリスト教というのを結びつけているわけです。
さらにもう一つの画面は、「正義と法学」を描いています。上が美徳をあらわす寓意像、下が「聖と俗」の法律の公布を示しています。この画面の着想はラファエロのものと考えられていますが、制作は工房によるとみなされています。剛毅と賢明と節制と正義という四つの枢要徳、そしてそれぞれのプットーたちが、慈愛と希望と信仰、神に対して必要な三つの対神徳を描いています。さらに下の画面には、ユスティニアヌスの古代ローマの法典、俗なる法と、そして聖なる教練法――教練集のというような、聖なる法律ですね――を描いています。これもグレゴリウス9世という昔の教皇を描きながらも顔は同時代のユリウス2世なのですね。こういうふうに現在と過去というものも、ここで総合、統合させているわけです。
さらにパルナッソス、これは詩学を表した壁面ですが、ここでも古今の詩人たち、ルネサンス期のペトラルカ、これがダンテですね。ダンテもいればオウィディウスとか、サッフォーとか…アポロンの司るオリンポスの山に、古今の文人たち、詩人たちが一堂に会しているのです。このように、4つの人間の学芸というものを象徴している歴史画が描かれていますが、ここには、ミケランジェロのひねった蛇状身体、S字型身体というものを思わせるような像も見られます。
この名高いスタンツェの図像は、実際に当時、この居室に入ることはかなり限定されていましたから、ラファエロの着想が国際的に普及し高く評価されたのには、このような版画(マルカントニオ・ライモンディ《パルナッソス》)の存在があったことを見過ごすことはできません。この重要なメディアたる版画は、今回、展覧会にたくさん来ています。これもラファエロの原作は失われて残っていないのですけれども、有名な《パリスの審判》を描いたマルカントニオの版画です。後にマネの《草上の昼食》に翻案された有名な作例ですよね。古代との競合の中で、ラファエロが考えた構想を、原作を見ることができない人たちも、弟子たちの版画によって知ることができたわけです。
「署名の間」では、それぞれの壁面に、神学と哲学、史学、神学、正義に関わる歴史画が描かれ、天上には各壁面に呼応して、やはり哲学、史学、神学、法学を象徴する寓意画と擬人像が対応するように描かれました。このように、キリスト教というものが古代をも吸収しつつ、自らを高めていく理念が、ラファエロの古典主義の中で結実したわけです。
「署名の間」以後の装飾は、しだいに教皇レオ10世の介入の下に描かれていくのですが、「ヘリオドロスの間』は、どちらかというと象徴性は強くはなく、数世紀にわたる時の流れの中で神がローマ教会に与えた特別の恩恵=庇護を四つの歴史的逸話により表現することで、教会の威信を正当化しプロモートしていく図像が増えていきます。画面は、ミケランジェロ的に劇的な躍動感のあるものになりますね。建築自体は古典的だけれども、人体が非常にアクロバティックになっていきます。《聖ペトロの解放》の場面は、今回、弟子の作品が来ていますけれども、三つの光を描き分けるという離れ業にラファエロは挑んでいます。夕焼け、暮れなずむ自然の光、そして松明の光や兵士たちの甲冑に反射する光、そして天使がかもし出す超越的な神の光、神聖な光ですね。こうした3つの光を描き分けることが試みられて、非常に凝った画面が生まれているわけです。
残念ながら時間の都合上、細かなお話はできませんが、「火災の間』は、レオ10世の治下に制作され、ラファエロの介入は乏しくなります。ここでは特に《ボルゴの火災》――この間の名前になった画面が重要です。ここにはラファエロの手がかなり入っているといわれています。遠近法的には不思議な構築なので、実際の神殿の高さに比べて人体がすごく大きいというのもお分かりになると思います。近隣であった火災に逃げ惑う人たちを描いていますが、ここで教皇レオ4世が祈りを奉げることで鎮火したという教皇の奇跡を描くことで、教皇庁をプロモーションする狙いがあります。ミケランジェロ的な筋肉隆々とした身体が重なり合う、アクロバティックな表現、あるいは風にふくらんで翻る古代の彫刻のような、ヘレニズム彫刻のような表現が、まさにラファエロの新たな展開を示唆しています。古典的で優美なラファエロから、しだいにその古典主義を超えて、ダイナミックで、ミケランジェロの影響も加味しながら、劇的なマニエリスムに近づいていく、そういう萌しが見られる画面です。
展覧会では、これらの図像がいかに流布したのか、応用芸術たるマヨリカ陶器などにまでいかに広まっていくのか、ラファエロの着想というのは絵画だけではなく、宝石やアクセサリーの装飾、あるいはお皿や食器などの工芸品、さらには聖体顕示台などの聖具にまでいかに影響を与えていたのかも見ることができると思います。残念ながら割愛しますが、画像をちらっと見ておいてください。《ガラテイアの凱旋》を描いたお皿も来ていますね。聖母子像もローマ時代になると、複雑な演出に変容していきます。特に、ローマを拠点とした円熟期の巧みな演出を示すのが《サン・シストの聖母》(ドレスデン 国立美術館)です。甘美さとともに威厳に満ちた威風堂々たる聖母子は正面を見据え、智天使の群れなす雲間から今にも歩みだそうとしています。画面の内と外の境にだまし絵的に描かれたカーテンと欄干によって、あたかも鑑賞者は、聖母子の奇跡的顕現にあずかっているかのような錯覚に導かれます。今、カーテンが開かれて、聖母子が顕現したかのように感じさせる凝ったプレゼンテーション、演出がなされているのです。教皇冠を載せた欄干は、ユリウス二世の棺の蓋にも見えますが、その上に手を置いているように見える天使は有名ですよね。ですが、かわいらしいだけではなく、カーテンと石棺が現実空間と神聖な絵画空間の境をなし、天使や聖人の巧みな視線の動きによって雲間に浮かぶ聖母子へと見る者を誘う凝った構想で描かれています。とりわけこの作品は、後の新古典主義の時代にアングル(《ルイ13世の誓願》モントーバン大聖堂)によって翻案されてもいます。ラファエロはこの時代に非常に高く評価されて、アカデミズムのまさに代表、象徴とされます。
それから先ほども見た《ユリウス二世の肖像》は、ラファエロが描いた《カーテンの聖母(ロレートの聖母)》(シャンティイ コンデ美術館)と対幅にして、16世紀の一時期、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂に公開展示されたことがあります。いわゆるルネサンスの芸術的追究というのは、単に私たちが考える芸術的な価値の問題だけではなくて、宗教的な価値をも取り込んでいきます。というのも、この二作の並置展覧は、ローマに古くから伝わる像儀礼を再演したものだからです。聖母被昇天の祝日に、ラテラーノ聖堂サンクタ・サンクトールム礼拝堂の救世主像がサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の聖母子像のもとに運ばれ、並置展覧されるという古い儀礼があります。二作はともに、聖ルカの手に帰される奇跡像で、この儀礼は、死の床にある聖母の魂を迎えに行くキリストをなぞったものです。この儀礼を髣髴させることで、ラファエロの聖母はしだいに奇跡力を認められ、多くの巡礼者を集めましたが、やがてはラファエロの「芸術」を嘆賞する美的巡礼へと変容していきます。宗教と芸術がいまだ分かたれずに微妙な均衡を保つなかで、この優美な聖母子の画家は、古代のアペレスをも、聖ルカをも凌ぐ、奇跡の画家として、まさにその名を不朽のものとしていくのです。
それからタペストリーについても少しだけ触れておきます。システィーナ礼拝堂は、天井画には律法以前の創世記の場面が描かれ、側壁には律法以前の旧約聖書のモーセの場面と、キリスト伝、すなわち律法以後の新約聖書の物語、そして最期の審判、キリストの再臨という最期の場面が描かれていますね。その間をつなぐ使徒たちの行い、特に聖ペトロと聖パウロという最初の弟子たちの行ったことを描くのが、側壁下部を覆うタペストリーで、全体の構図として、キリスト教会を築いてきた旧約聖書から新約聖書に至るまでの主要な人々を称揚する場として構想されたシスティーナ礼拝堂を最後に完成させるのが、このタペストリーだったのですね。この制作がやはりラファエロに委ねられ、このような原寸大の原画、カルトンを描きます。現在はロンドンにありますけれども、全ては残っておらず、10枚のうち7枚しか残っていません。これらのカルトンをもとに北方のピーテル・ファン・アールストという人の工房で織らせて、見事なつづれ織りが完成されたのです。今回、展覧会には、ご覧いただいているものとは別の場面が来ていますが、非常に保存状態もよくて、専門家でもびっくりするほどです。今ご覧いただいている《奇跡の漁》の場面は、先ほどの奇跡力を認められた聖母との関連でとりわけ興味深いものです。キリストのこの横顔も、実は奇跡をおこす像として、その真正性を訴える様々な伝承がルネサンス期に練りあげられ、後々にも横顔だけが独立して出回ったりもしました。美的な価値と宗教的な礼拝価値というものが、ラファエロの作品においてはしばしば交差するのですが、こうした視点も今後、ご紹介する機会があればと思います。
さて、さらにローマ時代の偉業を手短にご紹介しましょう。先にも触れましたが、皇帝ネロの黄金宮殿が1490年代に発掘され、グロテスク文様や、蠟で描く蠟画法という技法なども発見されました。それをいちはやくラファエロは学びとり、今回、展覧会にきているビッビエーナ枢機卿――この人も枢機卿なので、ヴァチカン宮殿に住んでいたわけですね――の浴室「ストゥフェッタ」に、蠟を使った技法で、グロテスク文様と、はめ込み絵のような、ポンペイなどによく見られる画中画のような絵を描いています。そしてグロテスク文様を回廊、ロッジェッタにも展開させていきます。グロテスク文様は、この後、マニエリスムという時代がやってきますけれども、そこで国際的にヨーロッパ中に広まっていきます。その最初のモデルを、ラファエロが提供したのです。
そして今回の展覧会では、晩年の作品として小作ですけれども、非常にダイナミックで、存在感のある《エゼキエルの幻視》が来ています。幻視を見ているエゼキエル自身は、ここで小さく描かれていますが、彼の夢の中でキリストが、後に福音書記者の4つの象徴になっていく動物とともに、ヴィジョンとして現れたという絵を描いているわけです。
あるいは最晩年の、亡くなる前のラファエロ本人とその友人を描いた作例も、今回、展覧会に来ています。友人は、弟子のジュリオ・ロマーノだという説が近年は強いです。自らの工房を託すという意味合いもあって、ラファエロは若い弟子の肩と腰もとに手を置き、非常に親密な姿で描かれています。晩年のラファエロの最後の自画像と言っていいと思います。
展覧会に来ていませんけれども、彼の絶筆は《キリストの変容》(ヴァチカン美術館)という作品です。ライヴァルであった、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo)の《ラザロの蘇生》(ロンドン ナショナル・ギャラリー)との対作として、競合して描いたものです。キリストがこの世で、初めて聖性を発現した、つまり弟子たちに自分がこの世のものでないことを示したシーンです。そして、弟子たちがどうしても治せなかった悪魔憑きの少年を、キリストが治すことで、奇跡はキリスト、神にしか起こせないことを語るこの後の場面が下方に描かれ、2つの物語が組み合わされています。ここで注目すべきは、甘美な優美なラファエロというよりも、まさにミケランジェロの精髄も自らのものとして、非常にダイナミックな構図の中に、2つの奇跡を見事にS字型に連ねているところです。こういうS字型に複雑に奥行きをうむ構図というのが、この後のマニエリスム、1520年代以降16世紀を通じ展開していく美術様式のなかで、さらに推し進められていきます。
ラファエロの芸術というと、どうしても美しい甘美な聖母像という印象が強いですけれども、ローマ時代に大きなプロジェクトに関わりながら、大工房を運営し、数多くの作品を手がける中で、おそらくもっと長く生きていたら、こういった画風をもっともっと追究したであろうと思われる、新しい画風を、最後に私たちに残して亡くなったわけです。たった数日間の発熱で、彼は最期、あっけなく命を落としたと言われていて、37歳という若さで亡くなっています。絶筆とされるこの作品はヴァチカンに行って見ることができます。非常に迫力があって、印象に残る作品だと思います。
時間を超過しましたが、このように、ウルビーノという宮廷都市で、両親を早く亡くしつつも早熟な才能を示し、フィレンツェ、ローマのルネサンスの表舞台で華麗に活躍したラファエロの画業を見てきました。レオナルドやミケランジェロとはまた違って、宮廷文化や教皇庁に早くから親しみ、若くして亡くなったとはいえ、歴史に残る作品を描いた、素晴らしい画家だと思います。
ラファエロに関しては、後世、どう受け継がれてきたかという視点も非常に面白いですし、いろいろな語り口がありうると思います。この展覧会期中、おそらくさまざまな講演会の企画があると思いますので、またご興味ある方は足を運んでいただけたらと思います。今日は時間を延長してしまい申し訳ありませんが、これで私の拙い話を終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
【橋都】水野先生、どうもありがとうございました。初期の作品から、複雑なイコノロジーを含む、ヴァチカンの晩年といいますか、若くして亡くなりましたが、その作品まで語っていただきました。あまり時間はありませんが、お2方くらいから質問をお受けしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
では僕から一つ質問したいと思います。最後の頃の作品になりますと、一歩マニエリスムに踏み出したようなところもあるように思うのですけれども、これはやはりミケランジェロからの影響というのは大きかったのでしょうか。
【水野】そうですね、確実にそれは言えると思います。やはり、ダイナミックに回転する身体であるとか、あるいはそれをアクロバティックに組み合わせていく表現であるとか、《最後の審判》はまだ幕を下ろしていない段階ですけれども、色々なかたちで情報は得ているので、ときにはミケランジェロの作品が公開される前にラファエロが新しい様式を講評してしまうこともあったようです。マニエリスムというのはラファエロの死後、1520年から始まるといわれるのですが、ラファエロのとりわけこの晩年の様式とミケランジェロの様式というものを一つの定型、型、マニエラとして展開していく時代ですので、そういう意味でこの晩年の様式は、ミケランジェロと同様に重要な一つの境地だと思います。
【橋都】他にいかがでしょうか。よろしいでしょうか。どうぞ。お名前を。
【上野】上野と申します。ラファエロはいろいろな人から影響を受けたとお話がありましたけれども、逆にラファエロに一番影響を受けた後世の画家というのはどういう人でしょうか。
【水野】時代が近い方がよろしいでしょうか。やはり弟子にはなりますけれども、ジュリオ・ロマーノであるとか、ペリン・デル・ヴァーガとか、今回の展覧会にもきていますけれども。ただラファエロの影響は非常に広大で、アカデミズムの中でも理想とされました。原作を見られなくても版画が流通しますので、それを通じた間接的な影響という点では膨大なものがあります。もちろんニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)をはじめ、バロック期の古典主義的様式を示す芸術家なども影響を受けています。アカデミズムの芸術家たちにも、ラファエロの構図であるとかポーズであるとか、あるいは塗りつくしたきめ細やかな表面の仕上げなどは、影響を与えています。ですから、ラファエロの芸術は、後世に影響を与えたという意味ですごく息が長いと思います。
【橋都】どうも、ありがとうございました。ちょっと時間がなくなりましたので、今日はこれで終わりにしたいと思います。もう一度水野先生に拍手をお願いします。実は僕もまだ展覧会見ていないので、ぜひ行きたいと思います。