第329回 イタリア研究会 2007-09-26
パドヴァ;なぜこの小さな町が世界を惹きつけるのか
報告者:印刷博物館長,東大名誉教授 樺山 紘一
第329回イタリア研究会(2007年9月26日)
演題:パドヴァ;なぜこの小さな町が世界を惹きつけるのか
講師:樺山紘一
司会 329回の例会にようこそおいでくださいました。今日は、皆様、待望のと言ってよいと思いますが、講師をお迎えすることができました。皆さんよくご存知と思いますが、今日の講師は、樺山紘一先生。現在、印刷博物館長をしておられます。東大の名誉教授で、前国立西洋美術館の館長でいらっしゃいます。
今日は、後ろにパンフレットがありましたけれども、今度、ヴェネツィア絵画のきらめきという展覧会が行われますが、それとも関連がある演題ということで、「パドヴァ;なぜこの小さな町が世界を惹きつけるのか」ということでお話をいただきたいと思います。
パドヴァは、ジョットのスクロヴェーニのチャペルで有名なのですが、私の専門の方でも、医学部が大変有名なところでございます。
それでは、樺山先生のご紹介を簡単に申し上げたいと思います。樺山先生は、1941年、東京都文京区のお生まれで、東大の文学部のご卒業です。東大の大学院、修士課程を修了して、専攻は西洋中世史、西洋文化史、1990年に東大文学部教授になられまして、2001年に退官されて、国立西洋美術館長、そして、2005年から現在の印刷博物館長をしておられます。非常にたくさんのご著書がありますけれど、『ゴシック世界の思想像』『カタロニアへの目』『ヨーロッパの出現』『ルネサンスと地中海』『肖像画は歴史を語る』『地中海-人と町の肖像』というように、非常にたくさんのご著書があって、皆様よくご存知だと思います。
今日はパドヴァにつきまして、「パドヴァ;なぜこの小さな町が世界を惹きつけるのか」という題でご講演をいただきたいと思います。それでは、樺山先生、よろしくお願いします。
樺山 ご紹介いただきました樺山でございます。皆さん、こんばんは。9月26日ですか、本当だったら、昨日だと中秋の名月で、向こうが東ですので、よく満月が見えたはずなのですが、今日は従って立待ちの月というのですか。たぶんまもなく見えてくるのだと思います。なぜ知っているかと言いますと、今ご紹介いただきましたように、つい2年前まで、このお隣にあります国立西洋美術館の館長を務めておりまして、何年かここに通ったものですから、昼間はともかく、夜のこともかなりよくこのあたりは知っておりまして、夜に伺う方がふさわしいかなと思っているところです。
今伺いますと、329回というお話でしたが、大変な長さの年月に渡ってこの会を続けておいでになったということは、いくらか伺っておりましたのですが、それにしても300回というのはすごいですね。相手がイタリアですから、300回でもまだまだということではありましょうけれども、この会にこんな形でもってお呼びいただきまして、大変ありがとうございます。
この会のさしあたりの、当面の世話をしておいでになります猪瀬さんからお話をいただきまして、猪瀬君は高等学校の同期生なものですから、こういう同期生から頼まれるのが1番弱いということで、簡単にお引き受けをし、でも猪瀬君がいろいろと世話をしてくれるという話だったのですが、つい2~3日前メールが来まして、ぎっくり腰で動けなくなってしまったと。人をこういうことで頼むものだから、ざまあみろ、バチがあたったというところです。
無駄話をしておりますと、いただいた90分、すぐなくなってしまいますので、それでは、本題に入らせていただきます。
パドヴァという町のお話をいたします。パドヴァはイタリアにありますいくつかの町では、ごく小さいとは言えませんが、しかし、並みの中小の町の1つにすぎません。ローマや、ヴェネツィアや、フィレンツェや、あるいはミラノといったような代表的な、何百万も人口を抱える町とは違いまして、非常に小さな町ではあるけれども、でもなぜこの町に、過去から現在に至るまで、多くの人々が訪れて、多くのものを残してくれたのかということを、少しまとめて考えたいなと思ってお話を申し上げにまいりました。
では、次お願いします。お手元にごく簡単なレジュメとでもいえるか、メモだけですが、周りはたくさん空いておりますが、周りにメモも書いていただけるように白く空けておきました。よくこういうレジュメをお作りになる方は、びっしりとたくさん書いていただいて、資料的価値はあるのだけど、メモに使えないという難点がありますが、たくさん空いておりますので、どうかあちこちにいろいろ、いたずら書きも含めて、書き入れていただいて、お持ち帰りいただければという親心、老婆心、そんなつもりでございます。
北イタリアの、この次に地図ご覧頂ますが、北イタリアには、大変数多くの都市が、もちろんローマ時代から現代の時代まで栄えてまいりましたが、とりわけ北イタリアには、そう巨大な都市はほんのわずかしかないけれども、でも名だたる町、また、歴史上さまざまな意味で価値を持つ町というものがたくさんあり、ある人が、まるでこの北イタリアは都市の真珠飾りのようだと。都市が真珠飾りをつけているのではなくて、まるで真珠飾りのように、いくつもいくつもの真珠が連なっているという、そういう雰囲気があるという、こんな表現をした人がいます。その中の1つがパドヴァということになりますが、次お願いします。
私が申し上げるまでもないと思うのですが、イタリア中部から北部にかけて、こういう形をしています。よく皆さん先刻ご承知の通りかと思いますが、復習ということでもって、ご覧いただきましょうか。
ローマがあり、ヴェネツィアがあり、それからミラノがあるということなのですが、こういう北イタリア、外国との間の国境線がこういうふうになっていますが、この北イタリア、ロンバルディア平原とでも呼ばれるこの平原がありますが、この平原とアルプス山脈との間、ここに昔から、古くから街道が走っていました。現在でも鉄道と高速道路が、ほぼ同じ道を通って走っておりますが、この北イタリア、アルプス沿いの、アルプスのふもとの道と、それから、今1つ、同じミラノから、東南に向かって斜めに走っていくこの道、ミラノ、それからボローニャ、そして最後はアドリア海に達するという、この2つの道は、かねてローマ時代にあっても、また現在にあっても、イタリアの中で最も重要な位置を占める交通路でありました。
もちろんこれはこちらに向かい、あるいは途中でもって南から入ってくる道を合わせながら、文字通りこのロンバルディア平原の南端、南ふちを飾っておりますし、また北側はこういうふうにつながっていくという、こんな両方の道があり、もちろんそれに囲まれたこれらの平原も含めまして、大変数多くの都市が、古代ローマ時代から、中世、そして現代に至るまで、それぞれの繁栄を迎えてまいりました。ミラノ、それから、ベルガモ、それから、ブレッシア、それから少しこちらに参りますと、ヴェローナ、ご承知の通りかと思いますが、ロメオとジュリエットの町です。それから、ヴィチェンツァ、パドヴァ、そして、ヴェネツィアと、こんなふうに小さい、さしあたり小さい町であるにせよ、かつてから現在に至るまで、名の知れた小さい都市が、ずっと真珠の首飾りのようにつながっております。
ついでながら、こちらも同じことでして、ミラノからピアチェンツァ、パルマ、それから、モデナ、ボローニャ、それから少しはずれますが、ラヴェンナというふうに、古くから知られた町がこんなふうにつながっていく、その中にパドヴァがあります。ちょっと地図が小さくて、ご覧になりにくいかもしれませんが、こうしたいくつかの町でも、とりわけ古くからその名がよく知られてきた町の1つでありました。次お願いします。
さて、今ご覧いただいたのは、現在21世紀の地図ですが、少し時代をのぼりまして、15世紀、500年ほど戻っています。でもその当時でもやはり事情はそう変わっておりませんで、ミラノ、それから、南にジェノヴェ、それから、パルマ、今名前をあげたような町は、この当時、500年前でもやはり同じように大きな位置をしめておりました。マントヴァ、それから、フェラーラ、パドヴァ、ヴェネツィアと、ヴェローナと、500年たっても、ほとんどこの真珠の首飾りのつながり方が同じだというのが、大変驚きでありますけれども、こんなふうにつながっておりましたので、当然、パドヴァは他の都市とともに複雑な関係を持ちながら、しかし、お互いライバル関係を保って、繁栄を迎えていった。それは、政治的にも、経済的にも、また文化的にも、さまざまな角度、さまざまな分野で大きな繁栄をしていたということにもなります。
こちらの方が少し見やすいかもしれませんけれども、ここにパドヴァとありますが、すぐ脇にヴェローナがありますし、こちら側にヴェネツィアがある。その距離は、ともにわずか2~30キロに過ぎないという、ごく近い。あえて言うと、東京と川崎くらいの感じ。横浜よりまだ近い。そんな距離でもって、いくつかの真珠の首飾りのその真珠がつながっていたのだと、こんなふうに考えることができます。
こういうふうになっておりますので、当然、長い間強い力を持ってまいりましたヴェネツィアや、ミラノや、あるいは、少し南に参りますと、フィレンツェといったような、こうした大きな国々、あるいは、大きな都市の間の力関係の中に置かれてきましたので、もちろんときには近隣の都市から攻撃を受けて、とりわけヴェネツィアというような隣人から、いろいろな形でもって介入もされましたので、政治的には、または軍事的には、大変不安定な、あるいは、時にはつらい呻吟を経験することもままならなかった。もうしばしばであって、自分たちの運命を自分で動かすことはなかなかままならなかったというのが現実であったようです。
さて、ところで次お願いします。本来はもっと古い時代からお話すべきでしょうが、話を進めまして、中世からお話をします。
もっとも、ローマ時代から実はパドヴァ、パドビエムという名前で知られていた町がありまして、古くローマ帝政の早い時代からこの名前は出てまいります。おそらく同じ場所でもって、ローマ時代の重要な町の1つであったと思われ、とりわけ古代ローマの長い大きな歴史を書きましたリヴィウスという歴史家がおりますが、リヴィウスはその歴史述懐の中でもって、しばしばこのパドヴァの町を引用いたしました。それも理由があることですが、もともとこの歴史家リヴィウスはパドヴァの町の生まれ、パドヴァ市民でありまして、したがって、彼はあちこち故国、自分の故郷のことを歴史の中に書き記しました。
というような経緯がありますので、その後、イタリアからローマ帝国が消滅した後も、この町は直ちに国とともにこの町が消滅したわけではなくて、中世のもっともきわどい厳しい時期も通して、おそらくそれなりの位置を、地位を占め続けたのではないかと思われます。
そうした古い時代のことをいろいろお話しておりますときりがありませんので、話は一思いに中世といわれる時代にまいります。次お願いします。
現在に至るまで、このパドヴァの町に残されている遺跡、もしくは現在、つまり廃墟になったものから現在尚存在するものまで、いろいろな形を見て取ることができますけれども、廃墟になったものはまた別途考えることにしまして、現在でも残っているもの。つまり、パドヴァに行けばすぐ見ることができるものから、いくつかのことを考え、そのことを通して、過去から現在までのパドヴァの歩みというものを考えてみるところから始めることにいたしましょう。
さて、今最初に題字が出ましたように、ラテン語で言えば聖アントニウス、イタリア語ではサンタントニオですか。聖アントニオの教会、礼拝堂と呼ばれるものがパドヴァの町、現在でも町を全体を圧して建っています。サンタントニオの教会といわれますけども、この高さ、大きな2本の尖塔があり、真ん中に建っていますタワーと、そして、それ以外に合わせて、こちら側から見ましてもよくわかりますとおり、5つの円屋根が乗っている教会があります。
一時期、一時に出来上がったわけではないようですが、主には13世紀という時代、1200年代に建てられた教会で、サンタントニオ、聖アントニウスを記念する教会でありました。建物そのものの構造のあり方は、いわゆるロマネスクの形式を取ってますけども、それにしても、大変印象的なのは、この円屋根。まるでたまごをさかさまに立てた、ゆでたまごを立てたような形になっていますが、この円屋根は、イタリアでも大変数少ない、めずらしい建造、建築様式だと言われます。
もちろんこれだけではありませんので、例えば、南のシチリアにまいりまして、パレルモにもよく似た形の円屋根がありますし、また、ヴェネツィアにも、小さい教会ですが、同じものがありますから、例が絶無というわけではありませんが、でもこの13世紀に建てられましたサンアントニオ、聖アントニウス教会の円屋根は、イタリアでももっとも奇妙な、非常に珍しい形をした教会だと言わなければならないと言われます。
さて、ところで、その聖アントニウス、サンタントニオですが、この人物は、その13世紀前半の人物でありました。実は、この聖アントニウス、サンタントニオは、元々はイタリア人でも、またパドヴァ人でもありませんでした。なんと、ポルトガルのリスボン、正確にはリスボンの少し北方のようですが、いずれにせよ、ポルトガルの生まれでありまして、ちょうどその彼が、修行を積み始めた、キリスト教聖職者としての修行を積み始めたちょうどそのころ、イタリアをはじめとして、地中海世界でいくつかの修道会が誕生いたしました。とりわけ、托鉢修道会といいますが、托鉢、鉢を持って、食べ物を恵んでもらいに歩くという意味での托鉢をする修道会、その中でも、その代表例は、聖フランシスコ会、サンフランチェスコのフランシス会ですが、もう1つ、ドミニコ会という2つが傑出しておりましたけれども、その中の1つ、聖フランシスコの元にはせ参じました。つまり、フランシス会の修道士になりました。
そのために彼は、ポルトガルから、やがてはいったんモロッコといった北アフリカに渡り、またフランスからイタリアにも渡ってきて、その間、いわば托鉢修道士としての修行と、またその教えを人々に語って歩く説教師としての活動に従事いたしました。
伝えられるところによれば、彼の説教は、決して激することない、高い調子で話をするわけではないが、諄々とイエスキリストへの道を説き、また、人々がどのような日々の暮らし、日々の祈りの暮らしを行うことでもって、神へ近づくことができるかという、当時中世にあった、非常に有徳な、徳のある聖職者、説教師でもあったと言われます。単に話が上手だ、説教が上手だということだけではなくて、しばしばこの修道士聖アントニウス、サンタントニオは、自分が自ら神の声を聞くことができ、あるいは、遠くにいる聖フランシスコの声も聞くことができるという、ある種の超能力、超越能力を持っていたとして、この人物に対する崇敬が、とりわけ彼が定着した北イタリアで盛り上がっていたよしです。
いくらか長い各地での遍歴と説教の時代を経た後、聖アントニウス、サンタントニオは、このジェノヴァに定着いたしまして、そして、その土地には、その土地の人々に説教を繰り返します。それだけではなくて、近在の人々が彼の説教を聞きにやってくるという、その数はほとんど何千、何万に及んだと当時の記録が書いておりますが、そうしたその当時、その時代、もっとも人気のある、人気といっては申し訳ないけれども、もっともひきつける力がある修道士、説教師でありました。
これも伝えられるところによれば、単にこのパドヴァの町の市民たちだけではなくて、近在から、また遠方から、彼の説教を聞くためにやってきたのだと。
なぜそれがパドヴァなのかと言われると、なかなか説明の難しいところもありますが、もちろんそれまで、それ以前からそこまで、パドヴァの町に多くの人々が住み着いていた。しかも、先ほど見ましたとおりに、北イタリアのアルプスのふもとの交通路にたっている町ですので、もちろん人々の交通も多く、それだけにこの町には、この町に定着した聖アントニウス、サンタントニオの元に、多くの人々が、その説教と、また彼が起こすかも知れない奇蹟を見るために訪れてまいりました。
それは、おそらく今の言葉で言えば、巡礼と言っていいほど。物見たさ、物を見たさだけではなくて、まさにそこに行って、そこでもって、聖アントニウス、サンタントニオに会い、話を聞くことでもって、何か自分が救われるということ。場合によっては、自分が犯した罪が、そこでもって許されるかもしれないという。そういう意味での巡礼の土地にもなりました。
やがて、サンタントニオが亡くなった後に、彼の遺骸はここに納められましたので、遺骨をたずねて、イタリア、あるいはその他の各地から、人々がやってくる。そういう土地、巡礼地にもなります。
ちなみにですけども、私たち巡礼と言いますと、ヨーロッパの巡礼と言うと、もちろんローマの聖ペトロの墳墓、お墓でありますが、であるとか、あるいはエルサレム、あるいはもう1つ逆に、西へ参りますと、サンティアゴ・デ・コンポステラというスペインの僻遠の地とか、いくつか有名な巡礼の土地がありますけれども、でも、キリスト教世界にとって巡礼の土地は何も3つだけではありません。代表的な3つがあるけれども、しかし、このように有徳の聖職者たちが、修道士たちが、そこで説教を行い、奇蹟を見せ、そしてそこで亡くなって、そこで葬られている。そこに向けて人々が群れをなして訪れてくるという、そういう巡礼が実はこの時代、彼の時代以降、大変数多く成立していったのだと言われます。その意味で、この聖アントニウス教会は、12世紀以来、ほとんど現在までですが、大変数多くの巡礼者をむかいいれることになります。そこにこの円屋根の教会が建てられました。次お願いします。
いくつかその聖アントニウス教会、パドヴァの町のど真ん中にありますけれど、それをご覧いただくことにしましょう。逆側から見るとこういう回廊から眺めあげますと、先ほどの円屋根と、その上に立っている十字架が美しく見えます。次お願いします。
先ほどの塔、尖塔がこちら、こういうふうに見えるということになります。次お願いします。
空から見ると、こういう形になりまして、塔もさることながら、向こう側を合わせますと、円屋根は6つありますが、その形、みな同じ形で、大きさもほぼ同じで、この独特の並び方というものが非常に印象的で、1度見ると忘れないほどの独特の印象を与えてくれます。
ついでながら、この円屋根は、いったいどういう起源、どういう系譜を持っているのかということについては、もちろん今までもいろいろな議論が行われてまいりました。おそらく、いずれにせよ、東方、ビザンチン帝国であるとか、あるいは、ことによるとイスラム世界と、東方で開発された建築様式の1つだということはたぶん間違いないだろう。
でも、これだけの円屋根を5つも6つも乗せるというこの発想は、イタリアどこでもたくさんあるわけではありませんので、おそらくは、ヴェネツィアを通って、東方からやってきてヴェネツィアを通してここに伝えられた独特の建築様式であるということは間違いがない。
先ほど地図でご覧いただきましたとおり、このパドヴァは、北イタリアの中でも1番東側に位置しており、ヴェネツィアにすぐ近いと。そして、そのヴェネツィアを通してはるか向こう、つまり、アドリア海からイスタンブール、当時のコンスタンチノープル、あるいは、更には東方のモスクの世界、イスラム世界と、いろいろなつながりがあったというところから、こうした建築様式が開発されたのだということはたぶん間違いがないと思います。次お願いします。
このサンタントニオ教会、内側はこうなっていますが、この外側にありますこの浮彫り、ここも浮彫り、それから、今見えませんが、両側の左側に、右側もそうですが、ブロンズの浮彫りが並べてありますけれども、これは後に後から出てまいりますが、ドナテッロという15世紀の彫刻家の作品です。次お願いします。
これも実はすべてが13世紀のものではないものですから、後々にいろいろ付け加えられた、15世紀のドナテッロもありますし、16世紀に作られたモザイクもありますけれども、いずれにせよこのようなモザイク作りというのも、後ほど話に出てまいりますが、ヴェネツィアのサンマルコ聖堂をはじめとする、ヴェネツィアの建築様式、あるいは装飾様式と非常に合い通じるものがある。なんといってもヴェネツィアからたった20数キロだということもありますので、ヴェネツィアの建築様式の、あるいは、装飾様式が直接受け継がれている教会の1つだということももちろん否定することができません。
次お願いします。さて、このように、中世といわれる時代、もちろんイタリアにも栄えた町がたくさんありますが、その1つとしてジェノヴァ、あるいは、ピサや、そうしたほかの町々と同じような地位をやがて獲得することになりました。
ただし、ジェノヴァとか、ピサとか、フィレンツェが、あるいは、ヴェネツィアもミラノも、こうした町々が、大変大きな経済力を持っていたということに比べれば、このパドヴァは、決してずば抜けた、卓抜な経済力を備えていたのかというと、必ずしもそうではないかもしれません。古来、ローマ時代以来、比較的小規模な、でも、それだけに、大発展もとげないかわりに、没落もしないというような地位を守り続けてまいりましたので、他の町々のように、世界史に堂々と登場するというわけではないけれども、でも、それだけに、実はこの後ご覧いただきますけれども、各時代に残し、またそれが現在まで受け継がれている大変すばらしい文化財、遺産を残すことになりました。
その代表的な例をいくつか、現在残っているものからご覧いただくことにしますが、言うまでもなく、パドヴァの町を世界的に有名にいたしましたのは、当時の、中世の当時のパドヴァの住人、商人でありました。豪商スクロヴェーニと、その友人でありました画家ジョットでありました。次お願いします。
パドヴァの町、現在ではパドヴァの鉄道の駅に近いところに、向かっていくところにありますが、スクロヴェーニ礼拝堂、もしくは、スクロヴェーニ聖堂といってもいいかもしれませんが、小さいこういう形をとっておりますので、礼拝堂と呼んでおきましょう。
スクロヴェーニというのは、もちろん人の名前でありますが、13世紀から14世紀にかけて、このパドヴァにおりました商人だったと言われます。父の代以来の大変なお金持ちだったと言われまして、財産を蓄積し、土地を持ち、この当時のパドヴァの町の第1の金融商人でありました。
伝えられるところによりますと、本当かどうかよくわからないところがありますが、あまりの大金持ちになったそのスクロヴェーニは、その富が実は決して人間の人徳、風格を表すほどの富ではなく、場合によっては、人をだまし、だましてはいなかったろうけども、人と競争し、人を蹴落とす形でもって獲得したたくさんの富がある。この富を自分のためだけに使うのではなく、むしろ、その富を蓄積するに当たって行ったいろいろな罪への償いの意味も含めて、許しを請う意味も含めて、スクロヴェーニ、その当時の当主は、自ら大きな礼拝堂を作りたいと考えたとこう伝えられています。
その礼拝堂は、決して大教会ではないが、ご覧いただきましたとおりに、大きな教会ではないが、しかし、コンパクトな、この建物の中に、内部全体にフレスコ画を配置して、そこで祈りを捧げるための礼拝堂を作りたいと考えたのだと、当時の記録にあります。次お願いします。
現在、この教会は、一時少し壊れたこともありますし、戦争でも被害を受けましたが、現在は完全に修復されまして、ここから入ることができるようになっています。
ついでながらですが、おいでになったことがおありの方たくさんおありだと思うのですが、ずいぶん昔は、あまり人気がなかったということもあるのでしょうか。平気で入れましたし、何時間でもそこに立って、座って、見ることができましたけれども、最近、人の話によりますと、15分限定だそうでして、40人と言いましたか、40人の入れ替え制で、15分限定だという話です。それでも、ことによると、前日から予約をとらなければならなかったり、長い列ができたりということだそうで、大変な人気だそうですが、世界遺産にも登録されまして、イタリアでもっとも人気のある古来の文化財の1つになってしまいましたので、この写真は誰も並んでいませんが、いつどうやって撮ったのかなという感じですが、そんなふうな人気を博すことになってしまいました。次お願いします。
さて、この礼拝堂の壁、天井全体にわたりまして、これを描きましたのは、当時、14世紀の冒頭を、イタリアにあって、もっとも力のある画家と言われておりましたジョットです。
ジョットは、すでにここに至る前に、このパドヴァに来る前に、各地で作品を残しておりましたし、特に、中でも、聖フランチェスコ、托鉢修道士、聖フランチェスコの由来の教会、アッシジの教会ですが、アッシジの教会のフレスコ画を作成いたしまして、聖フランチェスコの一代記を作りました。これは現在でも、少し剥落した部分もありますが、大変よく残されておりまして、ジョットの代表作だと言われますが、その作品で知られてはおりましたが、商人スクロヴェーニは、このジョットに声をかけ、当時まだフィレンツェにおりましたジョットに声をかけて、この町に来て、この礼拝堂を作ってほしいという、こういう依頼をいたします。
その結果、ジョットは、ここの町にやってきて、北イタリアのこの町にやってまいりまして、出来上がったばかりのこの礼拝堂の壁いっぱいに、壁にも、天井も含めまして、あるいは、向こう側の入り口、こちら側の入り口も含めて、全体にフレスコ画の連作を描きました。通常イエスの受難の歴史、イエス伝と言われるものであります。
先ほど、入り口から、あるいは脇からご覧いただきましたように、決して大きい礼拝堂ではありません。たかだか長さ、1番長い部分、縦の部分が20メーターほど、それから、脇は9メーター弱というほど、ほんの小さい礼拝堂、だから40人しか入らない。でも、40人も入ったのが、15分ずつに1時間で計算しますと、160人ということになりますから、1日全部あけておきますと、何千人になってしまう。フレスコ画というのはご承知のとおり、大変弱く、もろいものでありまして、水に弱い。水をかぶったり、あるいは水蒸気に弱いということもありますが、それ以外に、CO2にも、炭酸ガスにも弱いと言われておりますし、アンモニアにも弱いと言われておりますし、光にも弱いと。弱いだらけなのですが。
そういうところでありますから、世界遺産を後世にまで守り続けるためには、一定の制約があるのはやむをえない。そのわりには、光がこんなにあふれていますが、もちろんこれは写真を撮るために光をつけた、照明をつけたのでしょうが。
ついでながらですが、ここにありましても、ことによると運悪ければ見られないかもしれないと言うほど、現在では困難がいろいろ生じておりますが、こんな遠くなくても、よく同じものを見ることができるチャンスもあります。徳島県の鳴門市に、大塚国際美術館というのがございまして、そこには、全くこれと寸分違わない形で、大きさも同じ、それから、色彩も陶板で制作されておりますけれども、非常によくできた陶板で作られておりまして、これと同じものを見ることが可能です。ここは15分1回なんてことはありませんし、べたべた触ることもできますし、昔はここでたばこを吸うこともできました。大塚さんのために一言宣伝させていただきますが、でもやはりパドヴァに行く方がいい。
それは、何と言いましても、ジョットがかつて、今から700年前、本当に筆をふるった。フレスコ画というのは、イタリア語でアッフレスキと言われますが、新鮮な、あるいは新しいという意味でありまして、漆喰で作られた壁に、1日1メーター平方程度の大きさ、人によって、絵によって違いますが、1メーター平方程度の大きさの絵を描きます。水をつけ、顔料でもって描いていきますが、どんなに頑張っても、1日1平米くらいしか描けない。しかしそれは、いったんそこに水をつけ、描き始めたら、途中でやめることができない、休むことができない、明日に回すということができない。その作業をジョットは何ヶ月に渡ってここにこもりまして、これを描き続けたという、そのジョットの筆さばきというのが見える。これは間違いありません。
そんなことで、やはりなんといっても現場に行かなければいけないなという気はするのですが、このジョットのスクロヴェーニ礼拝堂の有名な絵を何枚かご覧いただくことにいたします。
これは、出口の上にあたります部分ですが、信徒たち、あるいは、イエスに付き従う人々が、彼のもとに集っているというこういう画面が、この向こう側のドアと、反対側のドアと、その上の部分に描かれます。
そして、その後が、次お願いします。それぞれの壁、あるいは天井に近い部分にあわせまして、イエスの生涯に合わせた何枚かの、全部合わせますと36枚でしたが、という数に表されていきます。もちろんイエスの誕生から始まりまして、その後、いろいろな形でもってイエスが成長し、受難し、そして、復活するという、その一連のイエス像が描かれますが、もちろんこれはまだ当然のことながら、油絵もなかった時代、油絵の具もなかった時代に、フレスコでもって顔料で描かれます。
今から700年も前のことでありますので、よくこれだけの色彩が残ったという印象が強いのですが、しかし、おそらく、当初はもう少し実はこの青の部分も青かったのだろうなと思います。写真のせいもあるのですが、しかし、後にジョットの青と言われましたような、非常に澄んだ青色が特徴的でありましたので、昔はもっと青かった、青が美しかったのでしょうか。イエスの誕生、マリアさん、イエスの誕生の場面であります。次お願いします。
全部見ていただく時間がありませんので、代表的なものをごらんいただきますが、ジョットの筆を偲んでみてください。
マリアが、新生児、生まれたばかりのイエスをひざに抱えているという、なんかなんとなく変だなという感じがするのは、ぐるぐる巻きになっているようで、日本でも子供をこういうふうに巻く地方があるそうですが、ジョットの筆ではこういうふうになっております。東方の三博士と3人のマギが、それぞれの贈り物を持って、イエスの誕生を祝うべくやってくるという有名な場面ですが、この場面が大変有名なのは、もちろんジョットの筆をもってしても有名だということなのですが、これです。
この星があるために、この絵は歴史上でももっとも有名な絵の1つになりました。ハレー彗星です。1302年、地球にハレー彗星がやってまいりまして、このハレー彗星がやってきたという事実は一部の記録に書かれておりますのでわかっています。わかっているのですが、果たしてどんな形で、どんな方向で飛んだかということについては、当時の記録はそうたくさんのことを語ってはくれません。でも、ジョットは、その当時、まだフィレンツェにいたはずですが、やはり彼も同時代人と同じく、ハレー彗星を見たはずです。そして、そのハレー彗星を描いたのではなく、イエスが生まれた、そして、イエスの生まれたときに、人々は、この星が飛んで、星が落ちたところにイエスが、世界の救い主がいるのだと、こう語ったと聖書には、新約聖書には書いてある。その星、つまりイエスの誕生を記すその星のことを、彼は、かつてフィレンツェで見たハレー彗星でもって表現してみせた。こういうことになります。
実は、ハレー彗星と申してまいりましたけれど、ハレー彗星だという名前ははるかのちに、エドモンド・ハレーがつけた名前でありまして、この当時は、周期的には76年でやってくる星だなんて誰も知りませんでした。でもたぶん、本当にこれだけ明るかったかどうかは、さしあたり別にいたしましても、大変劇的な光景、風景だったことは間違いがないでしょう。もっといろいろな人が描いてくれてほしかったのですが、現在わかっている限り、これだけです。
でも、そのハレー彗星がこの場面に描かれたというのは、大変ドラマチックな事件だと言うことができますよね。その後ハレー彗星は、周期的に訪れてまいりまして、だんだん後には、ハレー彗星の記録も現れるようになりますが、現在わかっている限り、もっともドラマチックで、しかも、最も古いハレー彗星の画像記録、絵の記録だと言われています。
ついでながら、もうすでに10数年前になりましたけれど、アメリカのNASAが打ち上げました惑星探査ロケットが何年か前に飛びましたが、そのロケットには、ジョットと言う名前がつきました。そのジョットという名称は、もちろん言うまでもなく、この絵に即して、この絵のあの彗星の名前をとって、ジョットと名づけられたのです。次お願いします。
これも、ジョットのこのスクロヴェーニの場面でももっとも有名なものの1つですが、ユダの接吻。おそらく昔はもっと青がきれいだったのでしょうが、しかし、それぞれ兵士たちのこのやり、そして、弟子ユダの偽りの接吻と、この場面。これはもちろんまだ14世紀はじめ、1300年代の作品ではありますが、すでにある種の劇的な性格、動きといったものを考えますと、この辺から間違いなくルネサンスが始まったといえるでしょう。
13世紀の末から14世紀のはじめに、イタリアでは何人かの代表的な画家たちが現れますが、マサッチオとか、ジョットとか。こうしたルネサンスのさきがけとなる画家たちの1人であり、その中でもとりわけこの場面は、画面全体の劇的な性格や、あるいは、特に、怒りとか、あるいは、いつわりとかいった抽象的な概念ですが、それを画面で表現することができるような筆の力、筆力ということから考えまして、間違いなくここから、あるいは、この時代から、イタリアのルネサンス、イタリアの美術のルネサンスというものが始まったという、その証拠、証言の1つとして、よく引き合いに出される絵、実はこれもスクロヴェーニの礼拝堂の中に描かれています。次お願いします。
イエスの十字架おろしと埋葬というこの場面ですが、これもよく説明されますが、埋葬されるイエスと、そして、弟子たちの、3人の人々、そして、マリアというこの人々が、その悲しみと、そして、一種の絶望感といったもの、あるいは時には、こんな、右手まで上げてますが、あれーと言って上げているのですが、でもこれは単にポーズではなくて、ある種の感情の表現として、当時の画家たちの先頭を切って、ジョットが新しい表現方法を開発したという、そういうことになるのだと思います。次お願いします。
以上、見てまいりましたように、スクロヴェーニの礼拝堂は、これだけではありませんけれど、1つ1つの1こま1こま、それぞれイエスの生涯、イエスの受難の生涯を表現し、そのフレスコ画はその後現在まで同じ場所で、少しずつ色は褪色したにせよ、ほとんどかつての色彩を保ちながら、人々の前に現れ続けていました。
そんなことがあるものですから、もちろんスクロヴェーニ、豪商スクロヴェーニとその時代の人々はもとよりのこと、現在まで700年間、大変数多くの人々がスクロヴェーニのこのジョットを見てまいりました。
言うまでもなく絵画は、何千何万と作られてまいりましたが、その多くはみなキャンバスや、あるいは他の移動することができる、支持体と言いますが、ものの上に描かれます。でも、フレスコ画は動かすことができません。どんなにスクロヴェーニでも、豪商スクロヴェーニも、ここに作ってもらったら、これをよその町に動かすことはできない。現在でももちろんそうでして、スクロヴェーニを見るためには、スクロヴェーニに行くしかないという。これがフレスコのつらいところでもあり、でも逆に言えば、そうだからこそ、フレスコの持っている一回性といいますか、固有性というか、そこに行って、それを見るほかないという。その強みというのがフレスコ画にあるに相違ありません。
もちろん、スクロヴェーニのこれだけではありませんが、おそらくその後、長い間、いろいろな表現技法が現れ、特に油絵が現れた後は、あまりフレスコ画の傑作というものは表れにくくなりましたけど、そうした中でも、ヨーロッパ美術史の中で、最高の、最大のフレスコ作品の1つだといって間違いないと思います。
さて、話はその次にまいりますが、先ほど申しましたように、この町は、このパドヴァは、北イタリアのいくつかのあの真珠の首飾りの1つですが、中でもとりわけヴェネツィアに近いということ。このことがこの町パドヴァにとって大きな意味を持ちました。幸運でもあり、また不運でもあった。
ご覧いただきますとおり、こちら側はもちろんヴェネツィアの大運河です。向こう側、こちら側は、現在、両方とも現在ですが、こちら側はパドヴァです。見ると同じくらいの大きさではないかという気もいたしますが、そんなことはありません。ヴェネツィアはもちろんあの干潟の上にできた大きな町であるだけではなくて、対岸にも大変大きな領地をもっておりまして、中世からルネサンスにかけて、どんどん成長していき、大きな経済力を蓄えました。
パドヴァだってもちろんそれに負けてはいなかったとはいえ、もちろんこの大きさには限界がありましたけど、でも現在、ちょっとこれを見ておいていただきたいのですが、ちょうど町のど真ん中に、通常現在の言葉では、正義の館とか、裁きの館という名前で呼ばれている、大きなホール、大会堂がありまして、それを中心として広がっていった町であります。ここが中心だとすれば、少しこっちの右側の、歩いてどうでしょう、10分15分ほどのところに、スクロヴェーニ会堂があり、礼拝堂があり、ちょうど逆側にやはり15分くらい歩いたところに、サンアントニオ教会があるという、そんな地理関係になりますが、この2つの町、大きさでもかなり違いますが、でもその特徴から見ても、いろいろ違いがある。この2つの町の関係を少し考えてみましょう。
先ほどはじめにご紹介ありましたけれど、今渋谷のBunkamuraで、ヴェネツィア絵画の展覧会が行われておりまして、この時代よりはもう少し後の時代、16世紀から18世紀にかけての絵画が、美術が出展されておりますけれども、それもご覧いただいてもおわかりになりますとおり、ヴェネツィアは長い間、文字通り、経済的にも、また芸術的にも、イタリアを代表する町でありました。あまりに大きく、また存在感が強いために、その周辺の町はしばしば忘れられがちです。まるでヴェネツィアの大きな光の中に取り込まれてしまったような感じがし、そのためにしばしばこのパドヴァも、ヴェネツィア郊外の町なんてしばしば固有名詞もつけずに、ヴェネツィアの郊外の町にあるスクロヴェーニ礼拝堂なんて書かれて、パドヴァとしてははなはだしく不本意に違いありませんが、それほど実は近いことは近い。それだけではなくて、当然その大きな引力といいますか、影響力に、いつもいろいろな形でもって、妨げられもしたし、また、助けられもしたと思います。
ついでながらですが、ヴェネツィアという町は、ご承知のとおり、その本体部分は干潟の上にあって、そこに作られた町ですので、非常に狭い町です。おいでになった方もたくさんおありと思いますが、どこにお泊りになったでしょう。ホテルが足りなくて、しかも高くて、なかなか部屋が取れない。しかも、もちろん言うまでもなく、あの町には自動車が入れませんので、全部歩かなければならないという、いろいろな不如意もあります。ヴェネツィアのことを悪く言っているつもりではないのですが、人気がありすぎて、本当にびっしり観光客が訪れ、夜も人がわんわんわんとサンマルコ広場に集まっているという。その面白さはもちろん否定できないが、でもうるさいと、やかましいと、そして値段が高いと、いろいろなけちをつけることももちろん可能であります。そういう方はぜひともヴェネツィアに泊まらずに、パドヴァに泊ってください。私も実は、ヴェネツィアの泊るのは避けて、あらましはいつもパドヴァに泊ることにしています。電車で25分ほど。いうなれば、ここから新宿を越えて中野くらい、その程度のごく近い町でありますので、むしろこの町で、少し田舎っぽいかもしれないが、でも、ヴェネツィアに負けないほどのもちろん蓄積がありますし、ホテルもきちんとしていて、お料理も大変おいしい。ということから言いますと、パドヴァに泊るのが賢明だよと、パドヴァの市民のために擁護しておきます。
さてところで、ヴェネツィアとパドヴァ、この関係は、中世以来、少なくとも18世紀まで、いろいろな複雑な関係を結んでおりました。次お願いします。
特にヴェネツィアが中世に経済で栄え、また、ルネサンスの後半部分になりますと、いわゆるヴェネツィア派という名前で呼ばれる美術様式を開発し、その意味で経済的にも、美術的、芸術的にも、吸引力を持った。また、軍事力、政治力という意味でも、ヴェネツィアはやがて自分の狭いあの島の上だけではなくて、対岸に自分たちの領土を持ち、軍事力を持って、あの国は単に海の軍事力、海軍力を持っただけではなくて、陸軍力を持ち、そしてその周辺の町を次々と征服してまいりました。
ヴェネツィアの郊外の町パドヴァもあっという間に飲み込まれてしまいまして、15世紀の末以来、実は18世紀の末に至る実に300年間の間、パドヴァは政治的にはヴェネツィア領土に含まれておりました。ヴェネツィアの支配下にありました。
したがって、もちろんこのヴェネツィアの支配力に対して、いろいろな形でもって反抗や抵抗もあったけれども、しかし、そのたびごとに、このパドヴァも含めて、近くの町々はいずれもヴェネツィアによって、強い軍事力によって抑えつけられ、その影響力を逃れることができませんでした。
パドヴァにももちろん、ヴェネツィアに飲み込まれる前には、パドヴァの町を実質的に支配する有名な貴族も幾人かおりましたけれども、しかし、ヴェネツィアに政治的に、軍事的に征服された後は、文字通り、ヴェネツィアからやってくる代官といいますか、そのもとでもって、パドヴァの市民たちは、ヴェネツィア国家の、ヴェネツィア共和国の一員として、従属的な地位をずっと耐え忍ばざるをえなかったのでありました。
そんなルネサンスの時代に、1人の傭兵隊長がこの町に生まれ、後にこの人物はヴェネツィアに、また、パドヴァに帰ってまいりましたけど、その名前はガッタメラータと呼ばれます。ガッタメラータは実はあだ名で、猫の目をしたとか、猫目というような、なんかへんなあだ名ですが、ガッタメラータという名前の傭兵隊長がおりました。
この人物は、パドヴァで生まれ、すぐにヴェネツィアに行き、ヴェネツィアの政治世界の中でもって暗躍いたしまして、特に傭兵隊、つまり、お金を受け取って戦争を請け負う、戦争請負業というのが当時ルネサンスの世は、大変数多くおりましたけれども、その代表的な人物として、自ら自分の手兵を養い、その人々を使って、ヴェネツィアがあちこちで仕掛けられる、あるいは仕掛ける戦争を請け負っておりました。ヴェネツィアはもちろんあの島の上にあるごく小さい町でありますから、戦争するためには、自分たちの兵力だけでは、市民たちの兵力だけでは足りず、したがって、しばしばあちこちでこの傭兵隊を雇い、傭兵隊にお金を払って、傭兵隊によって、この征服を行い、また、反乱を鎮圧する、そういう仕事においまくられておりましたが、その1人、ガッタメラータは、自らがこのパドヴァの出身であることもあり、しばしばこの町にも訪れ、そして、彼が亡くなった後、このガッタメラータに対しては、大変な賛辞が、ほめ言葉が、ヴェネツィア、あるいはその領土から与えられることになりました。次お願いします。
さて、この上におりますのがガッタメラータですが、青銅、ブロンズの彫刻です。作りましたのはドナテッロ。ドナテッロ自身は、トスカーナといいますか、フィレンツェ出身の彫刻家ですが、ヴェネツィアと、そしてパドヴァの市民たちは、ガッタメラータが亡くなりました後、このドナテッロを招聘いたしまして、この町で、パドヴァで、ガッタメラータの銅像を作成させます。ブロンズ像でありまして、15世紀にできあがりました作品です。回りの家、あるいはそのテントの大きさから見て、あの像が大変大きいということをはかり知ることができると思います。ブロンズで作られました像、銅像の中で、おそらく歴史上もっとも大きい銅像の1つです。
ローマの町には、コンスタンティヌス帝の大きな銅像、青銅像がありますが、それだけは古代以来壊れることなく、現在でも残っておりますが、それに匹敵するほどの大きさでありまして、ブロンズ像というのはご承知のとおりにたくさん作られてまいりましたけれども、鋳造が難しく、したがって、比較的平らな浮彫りに近いものは大きいものを作ることができますが、こういう立体像を作るのは、大変技術的にも困難があります。要するに重いわけですので、壊れてしまう、崩れてしまうのですね。
例えば、この文化会館の向こうにあります国立西洋美術館のロダンの作品ですが、あの「地獄の門」は、ほとんど平らです。もちろん浮彫りですから、まっ平らではありませんが、あれでしたら比較的力学的に安定しています。
それから、同じ地獄の門の反対側にあります「考える人」ですが、あの「考える人」はかなり大きいと思いますが、でもこれの比ではありません。19世紀、あるいは20世紀になって鋳造されましたが、その時代の鋳造能力をもってしても、なかなかこれだけの大きなものを作ることが困難だというほど、技術的にはいろいろな難しい問題があります。
「考える人」でも、当初に鋳造されたものはきちんとしていますが、ずいぶん後になりますと、乱雑な作り方をして、途中で崩れてしまうものもあると言います。「考える人」はもともと無理な姿勢をしていますが、それだけではなくて、やはり大きいブロンズ像を作るということがいかに大変かということなのですが、ドナテッロはこの町にしばらく滞在し、実は幾度も失敗して鋳造しそこないながら、結局このガッタメラータ像を完成させることに成功いたしました。
ついでながらですが、なんでこんなに有名な、これだけ貴重なブロンズ像、こんな危ない上に乗せて、私たちだと地震が来たらどうするのかと思いますが、幸い、地震はありませんが、でも、風が吹いたり、雨が当たったり、あの上から転げ落ちたらどうするのかと思いますが、ずっとここにあります。
ご心配もおありでしょうが、銅像、ブロンズ像というのは非常に強いものです。雨、風、それからCO2を含む大気汚染、光、その他に対して非常に強く、できれば定期的にきちんとワックスをかけて、1年に1度ワックスをことが望ましい。これやっているかどうか知りませんが、そういうふうにすれば、何百年絶対に大丈夫です。コンスタンティヌス像はすでに2000年近くたっていますが、いくらか崩れているところもありますが、大丈夫です。
これも無駄話をしますが、私もそこの美術館長をやったときに、よく皆さんに言われました。あんな大事なロダンを、なぜ雨ざらしにしているのかと。もっと大事にして、家の中に入れて、後世にちゃんと受け渡すべきだとおっしゃるのですが、そんなことありません。きちんとケアさえすれば、500年、1000年は全然心配がないというほど、ブロンズ像は強いのです。
それに比べると、大理石は全く駄目です。雨が当たればすぐに穴があきますし、特に現在、大気汚染のために、特にCO2は水をかぶりますと炭酸になりますので、H2CO3になりますので、それでまた駄目になるという。これほど実は、素材によって彫刻というものは違う性格をもつのだということでありますが、そのガッタメラータ像は、現在でも、先ほどご覧いただきました聖アントニウス教会、サンタントニオ聖堂のまん前に建っています。ちょうどこれをこちらから見ておりますので、後ろを見ると、サンタントニオ教会の円屋根が見えるという場所に設置されまして、現在でも、当初と同じ場所にある。
もう1枚ご覧いただきましょう。少し馬が鈍重だという批評もあるのですが、しかし、ともかく15世紀の彫刻家ドナテッロの最大傑作であることは間違いがありませんし、馬はともかくといたしましても、この鎧から、顔、頭髪に至るまで、当時、ルネサンスの全般の彫刻作品としては、文字通り最高の作品と言わなくてはなりませんが、それがパドヴァの町に、しかもサンタントニオ教会のどまん前にあるということ、したがって、ここに巡礼に来た人々は、たぶん向こう側から来て、まずはこのガッタメラータを見て、その後礼拝堂に入っていくという、こういう組み合わせというか、順序というか、これは意図した、なにか意識してやったのかもしれませんが、現在そこにまいりますと、歴史の奥深さというものをまざまざと感じさせてくれる気がいたします。次お願いします。
さて、スクロヴェーニの礼拝堂と、ガッタメラータ像と見てまいりましたが、話は次に、少し堅い学問の話になります。先ほどすでにお話がありましたとおり、パドヴァは、スクロヴェーニ礼拝堂とともに、パドヴァ大学というこのイタリアを代表する大学によってかねてから知られてまいりました。
文字通り、冷徹な知性、そのセンターと言うべきでありまして、イタリアで2番目に古い大学。伝えられるところによると、1222年と言われますので、今から800年前にすでに創設された大学です。
イタリアは元々ローマ時代以来、知のセンターでもありましたが、中世にあっては、まず最初にできました大学、ボローニャ大学ですが、この大学はいつが創設かいろいろ議論もありますが、少なくとも12世紀の末には、大学としての体をなしていました。したがって、パドヴァのこの大学は、そのボローニャ、イタリアでもっとも古く、言い方によれば、世界でもっとも古い大学の1つであるそのボローニャのすぐあとを継ぎまして、13世紀の前半、1222年に創設されました。現在でもあります。
ボローニャ大学や、あるいはパリのパリ大学、イギリスのオックスフォード大学といったのは、だいたいほぼ同じ時代にできましたけれども、どれもみな800年を経て、現在でも、過去はもちろんのこと、教育と研究の最前線にあるという、このことは驚くべきことだと言わなければならないかもしれません。
もちろんイタリアには、その後、いくつかの大学が創設されて、ボローニャとパドヴァだけが大学ではありませんけども、しかし、その中でも、このパドヴァの大学がイタリアの中で占めてきた位置、あるいは、ヨーロッパの中で果たした役割といったものは、きわめて大きいものがあります。
そのいくつかをお話してみましょう。パドヴァ大学は、先ほど申しましたとおり、1222年ごろにできたと言われますが、その1222年ごろというのは、ちょうど先ほどのサンタントニオがパドヴァにやってきた時期にあたります。
当時、13世紀でありますが、イタリアだけではなくて、フランスでも、ドイツでも、また、イギリスでも、ようやく大学というものが生まれ、その大学は、それ以前の従来の学校とは違って、従来の研究の場所とは違って、町の中、都市の中に生まれました。
それまでの学問は、基本的には、この都市、町の中ではなくて、田舎、田舎と言ってはあれですが、田園の修道院の中で、狭い修道院の1室の中で行われ、そこで、研究も、教育も、行われるのが普通でありました。そこにはもちろん書物もあった。物事を研究し、高い知識を持った修道士もいた。そのお互いの切磋琢磨の中で、学問が行われてきた。それが普通の中世の学問のあり方でありました。
ところが、12世紀の末くらいから、代表的ないくつかの町で、教会に付属した学校、とりわけ大きな教会、司教様がいる司教座教会に付属した学校に生徒たちが集まり、その教会でもって、教会の聖職者として働いていた人々が、みんなとは言わないが、学がある人々が、その人々が学生たちを集めて、教えるという、授業料を取るという、そういう慣習、風習が生まれ始め、やがてそれは大学という制度に発展していきました。
パドヴァ大学も、文字通りそのようにして、北イタリアの田園の中の修道院ではなくて、パドヴァという都市のど真ん中の教会に付属した学校として生まれました。
その時代すでにパドヴァには、その競争相手であるボローニャと向こうをはる形でもって、先生たちと生徒たち、大学はその2つがなければ成り立ちませんので、その両方が訪れてまいりましたが、とりわけ、13世紀から14世紀にかけてこの町で生まれた幾人かの学者たちが注目を浴びることになりました。
あまり名前を知られてないかもしれませんが、パドヴァのマルシリウスという名前の政治哲学者がおりました。Marsilius of Paduaという、パドヴァ生まれだという意味でありますが、パドヴァで生まれ、パドヴァで学び、やがてはフランスのパリにまいりまして、最盛期のパリ大学の学長を務めた人物でもありました。
そのマルシリウスというこの人物は、政治哲学者ですけども、ヨーロッパ中世にあって、おそらくはじめて最初に、政治とか、国、国家というのは、教会とか、宗教とは別物だという。2つはそれぞれ大事だけど、でもお互いは別物だという、大変激烈な、ラディカルな政治学説を唱えた人物でありました。
いうまでもなく、よく知られておりますとおりに、ヨーロッパ中世の社会は、教会、キリスト教会という大変強烈な存在があり、人間生活はこの教会によって、また、教会の聖職者たちによって管轄されており、だから、国家のあり方とか、あるいは、経済のあり方とか、商売に至るまで、これらはみな教会により、また、教会の教えに従って、それにそむかない形で、また、その指導の元にやらなければならない。こう考えるのが、通常普通でありました。
教会がどのくらい強い規制力を持つかということについては、少しずつみな意見が違ったけれども、でも、教会があり、その下に国家がある。聖なる世界があって、その下に俗なる世界があるという、この関係は、国家、政治においても同じだと。だから、キリスト教教会の最高の地位にありますローマ法王様、ローマ教皇が唱えるものは、単に教会のあり方だけではなくて、世俗的な、国家、政治のあり方にまで直接影響を及ぼすのだと。このように普通に考えられておりました。
ところが、パドヴァ生まれのマルシリウスは、そうではないと。ローマ法王をはじめとしてキリスト教聖職者は、教会に対しては言うまでもなく、有効な力を発揮して、教会のあり方を推し進めなければいけないが、でも国家のあり方はそれとは別だと。国家は、人々が、そこに集う人々が、どういう形は取るにせよ、そこに集まった人々が、教会とは別なところでもって、制度をしたて、法律を作り、その世界でもって作り上げていくものであって、教会の介入とか、教会の支援、指導といったものは必要がないのだと、こういう学説を唱えます。
彼が書きました著作「平和の擁護者」、平和を擁護するという意味です。「平和の擁護者」という大著を書きましたけども、この書物は極めて激しいラディカルな理論として、教会と国家の間にははっきりした線を設けて、世俗世界については、世俗の人々の世俗の発想で、法律と制度が出来上がるべきだとこう唱えます。
もっとも、こういう理論は、もちろんマルシリウスが自分が突然発見したわけではなく、さかのぼればはるか古代、ギリシャ時代、あるいはローマ時代に唱えられたさまざまな理論、とりわけアリストテレスという哲学者が、かつてギリシャで唱えた、古代ギリシャで唱えたあの議論を読み返し、それを当時のキリスト教世界のあり方に適用した。そのためには、当然古い議論を丹念に読み解いていく必要がありましたけども、でもそのマルシリウスは、このパドヴァの大学でまだ生まれたばかり、正確には生まれて60年ほどたったばかりのそのパドヴァの大学で勉強し、そして、その理論を人々に広め、説き伏せるためにパリに行き、パリ大学で活躍をした。
そういう人物が、こともあろうにこのパドヴァから生まれた。一方には、サンタントニオという、この奇蹟を起こし、巧みな説教を行う修道士がいたけども、他方には、このように人々の世俗的な生活のあり方というものを早くから主張し、そのあり方を人々に向けて説得した。そういう哲学者が、実はパドヴァから出たということは、パドヴァにとって1つの大きなプライドであり、えたと思います。
さて、それ以後にわたって、このパドヴァと、そのパドヴァ大学は、数多くの理論家、哲学者、科学者を生んでいくことになります。次お願いします。
現在のパドヴァ大学をご覧いただきますが、もちろん現在でありますから、昔の姿ではありませんが、イタリアの代表的な大学の姿をよく残していると思います。次お願いします。
ご承知のとおり、ヨーロッパの大学は町のど真ん中にありますので、キャンパスというものがないのが普通です。突然、普通の家の隣に大学があったり、また普通の家があったり、公園の向こうにまた別の建物があったりという、これが普通の姿でありまして、アングロサクソン系の大学、オックスフォードやケンブリッジ、あるいはアメリカの大学とはわけが違います。
日本でも、例えば、日本大学とか、明治大学は町の中にありますよね。間違えて入ってしまったら、あれが大学だったなんてことがありますが、イタリアの大学も基本的にはみな都市の中、町の市街地の中にあります。次お願いします。
もちろん大学の中には中庭もありますし、庭園もあります。この庭園は、当時かつて作られたパドヴァ大学の植物園の一部分だと言われておりますが、大学そのものもこういう形をしておりました。次お願いします。
さて、パドヴァを語るのに1番重要なことを1番最後にお話しなければなりません。パドヴァ大学の医学部は、ヨーロッパに数ある大学医学部の中で、もっとも長い歴史と、もっとも大きな栄光を持つ歴史を踏んでまいりました。元々大学は、今のように学部10個とか、15とか、そんなたくさんあるわけではありません。近年、なんだかいろいろな学部ができてわからなくなりましたが、国際何とか学部とか、環境何とか学部とか、もう次々新しい名前を作るのですが、もちろんかつてヨーロッパの中世の大学は、大学に入りますと、いわゆる教養学部に相当する基礎学問をやる、基礎七課と言いますが、基礎学問をやるその教養学部に相当するものがあり、基本的にはそれを修了した後、人によってはそれで5年も10年もかかったりするけれども、その後に専門的な学問をやる学部がいくつか作られました。
もっとも位が高く、風格があるのは、神学部。キリスト教の神学部ですが、それに続いて、法学部と医学部。神学部、法学部、医学部、この3つは専門学部として、多くの大学で選択されましたが、でも、医学部というのは、大変専門度が高い学問ですから、どこの大学にも必ずあったわけではありませんが、法学部と神学部は、比較的大きい小さいは別にしましても、どこにでもありました。
パドヴァ大学は、その創設当初13世紀から、はじめは小さかったが、後は大変大きな人員と場所を持つ医学部を併設いたしました。パドヴァは文字通り、その医学部でもって、世界に知られることになります。
まず、医学部でありますから、解剖室から見ていただきましょう。現在の解剖室だそうです。実は私も見たことがないので、誰でも入れてくれるわけではないので、これを写真を引用いたしますが、通常、現在でも医学部というのは、医学部の解剖室というのは、こういう形に近いものを持っているようでして、言うまでもなく、ここで解剖が行われ、両側の階段教室というか、階段というよりもはしごという感じですが、上から見るという。こういうふうにして、解剖の講義、解剖学の講義が行われるのが普通だと聞いておりますが、次お願いします。
実はかつて、パドヴァ大学の医学部の解剖学教室は、こういう形をとっていたそうです。解剖台があり、ここに学生たちは座るのではなく、立って見ていた。この姿は、現在少し改造もされて、このとおりではないという話ですが、いずれにいたしましても、このような解剖室がしつらえられました。おそらく、ヨーロッパの医学部の中では最初に作られた解剖室の1つであり、しかも、少しずつ変更はあったにせよ、現在でも、使おうとすれば使うことができる。長らくにわたって、実際、実用に供されてきた解剖室でありました。
もちろん医学部にとっては、解剖は最も重要な分野の1つですが、でも、解剖は、単に教育のためにあるだけではなくて、まさしくこの解剖室で、医学者たちが解剖を行って、そうすることでもって、人間の身体の構造を分析し、調査いたしました。
次お願いします。それだけではなくて、このパドヴァ大学には、植物園がありました。でもこの植物園は、今の植物園とは違いまして、主には薬草園。薬草を生育し、その薬草を取って、薬学、医学と同じことになりますが、この医学としての薬学を実験する場所でもありました。
15世紀に作られましたこの植物園、薬草園は、大学の薬草園、大学の植物園としては、世界最初のものでありまして、これ見てご覧いただいてすぐわかりますとおり、パドヴァです。あの円屋根がございますので、こういう場所に薬草園が作られました。
ルネサンスの時代には、この植物園とか、あるいは、動物園、これはフェラーラの町で最初に作られたといわれますが、こうした動物、植物、あるいはそれ以外のさまざまな自然物、いわゆる博物学と言われますけども、こうした学問をする場所というものが、大学の中に取り入れられ、医学部や、あるいは他の学部の付属併設施設として、役割を果たすことになりました。次お願いします。
さて、このパドヴァ大学で学んだ人々。あるいは、パドヴァ大学で教えた人たち。というものが実はほとんど綺羅星のようにたくさんいます。代表者だけ4人上げておきましょう。
まずはコペルニクス。それから、その下のガリレオ。コペルニクスは元々ポーランド人でありますが、北イタリアへやってまいりまして、都合10年近く、このパドヴァ大学を中心とし、他も含めまして、イタリアで勉強しました。もちろん、彼の天文学は、決してパドヴァ大学で直接教えられたわけではないけれども、でも、天文を考える、天体を考えるための力学とか、あるいは、天体を観察するためのいろいろな数学的知識とか、といったものはもちろん大学で学ばれたものであります。
まだヨーロッパのどの大学にも天文学部なんていうのはありませんでした。天文は、これを観察するいずれかというと、星占い、占星術に属する人々の経験的な知識によって高められておりましたが、コペルニクスはもちろんその人々からも学び、また、それを、そこで学びえた事実を数学的に解釈して、数学的に説明するための学問をイタリアで、とりわけ、パドヴァで学びました。
彼コペルニクスは、このパドヴァで学んだ後、故国ポーランドに帰りまして、有名な天体回転に関する理論を、つまり地動説を発表することになります。
ガリレオは、文字通りコペルニクスが唱えた地動説を、更に理論的に整備し、特に望遠鏡を開発いたしまして、惑星をはじめとする、望遠鏡で見ることができる星を観察して、その結果として、コペルニクスの地動説が正しいということを確信した。
よく知られておりますとおりに、それでも地球は動いていると言ったという、これたぶん嘘のようですが、それでもともかく、地球が動いているというふうに考えないと、いろいろな現象を説明できないという、その数学的、科学的に考えてというその手法は、間違いなく大学で学ばれたものです。
ガリレオ自身は実は学んだのはパドヴァではありませんが、後にこの学説を携えてパドヴァにやってまいりまして、パドヴァ大学の教授を幾年かにわたって務めました。医学部の先生、あるいは、医学部の学生ではないにせよ、パドヴァの大学で学び、医学部を含む当時のサイエンスの波をくぐっていたのでありました。
今2人の人物、ヴェサリウスとハーヴェー。ヴェサリウスは、元々はフランス人で、正確には現在のベルギー人というのが正確でしょうが、北方の人でした。このヴェサリウスもやはり同じようにこのパドヴァにやってまいりまして、ここでお医者さんになるべく勉強いたしました。
ここで彼が発見しましたのは、当時、あの解剖台で行われていた人体解剖学でありまして、自らこの人体解剖についてのさまざまな知見と経験を蓄え、その結果、人間の筋肉、骨格、あるいは、内臓などについて、きわめて精緻な、細かい解剖知見を残し、現在ではヴェサリウスは解剖学の父、あるいは、近代外科学の父として、崇敬されておりますが、そのヴェサリウスの経験と知識とは、ほとんどは実はこのパドヴァ大学で学ばれたものであります。
また、ハーヴェイは、これまたこちらもイギリス人でありまして、イギリスからパドヴァにやってまいりました。パドヴァ大学の医学部に長らく在学し、そこで蓄積されたデータや、あるいは学説について学び、その結果として、ウィリアム・ハーヴェイは、人間の心臓はあたかも動力ポンプのように血液を送り出し、血液を吸い込み、こうすることでもって血液が人体を循環するという、血液循環説といわれるものを構想いたしました。今ではごく当たり前のことになりましたけども、それまで、血液が心臓を元として、ぐるぐると人体を回っているというこの事実は、発見もされておりませんでしたし、仮に思いついた人がいても、それが実証されていたわけでもありませんでした。彼ハーヴェイは、このパドヴァで行われていた人体解剖を元にして、心臓と心臓の出るところには弁がある。この弁がどんな役割を果たしているかということを通して、血液は身体の中をぐるぐると回っているに違いないと、こう考え、そのことを実証しようと研究を進めた。その成果は、17世紀になってからのことでしたが、このウィリアム・ハーヴェイの人体血液循環説をはじめとして、多くの学説がこのパドヴァから生まれました。
もちろんヨーロッパには、パドヴァ大学の医学部だけではないいくつものものがあることはありましたが、でもこれだけの人々が在籍し、また教授していたということは、当然、他の人々を呼び込んだということでもあります。
今さっき見てまいりましたとおり、ガリレオはイタリア人、いかにも生粋のイタリア人で、気質から見てもイタリア人でありますが、何を言っているかおわかりいただけると思いますが、なんとなくイタリア人風なのですが、でもそれ以外の人々、コペルニクスはポーランド人、ヴェサリウスはベルギー人といったらいいか、フランス人といったらいいか、ハーヴェイはイギリス人、というふうに、世界各地から、はるか遠方から、このパドヴァ大学を目指して、医学、あるいは広くサイエンスを学ぶために、多くの人々がやってまいりました。
この人々は実はほとんど同じ時代、コペルニクスが1番早いですが、コペルニクスからガリレオ、ハーヴェイの間は1世紀もありません。その時代に、相次いで世界中から、ヨーロッパ中、すべてからこうした人々がやってくる。そういう場所でもあった。
世界はなぜこんな小さい町にひきつけられたのか。それは、経済力とか、政治力とかいった側面もなくはないだろう。でも、経済力、政治力はヴェネツィアにはるかに劣ります。ヴェネツィアという大きな太陽の中に巻き込まれていて、ヴェネツィアが大きいものだから、あちちと感じたのですが、でも実は、そのヴェネツィアの大きな牽引力、引力の中にも、こういう特別な位置を占める町があったということ。そして、現在もまた、決してその栄光をすっかり忘れたわけではなくて、つまりは、あの解剖室は現在でもありますし、スクロヴェーニ礼拝堂は今でも15分に40人ずつ入るという、こういう大変な吸引力を持ち続けました。
次お願いします。そのような町でありましたので、当然のことながらこの人々は、キリスト教という独特の世界とは一線を画した世俗合理性とでも言えるような教えを守り続けることになります。少し読み方は難しいですが、ラテンアヴェロエス主義とよんだのですが、イスラム世界から伝えられた合理主義を、自分たちなりにあみなおした独特の世俗理論、この時代の人々はサイエンス科学とともに学び、当時、そのパドヴァという町は、サイエンス科学とともに、このように物事を合理的に説明する、さかのぼってみれば、あのマルシリウスがそうであったように、教会の世界は教会の世界、でも、世俗の合理的な世界は合理的に説明しようではないかという、この大変強い確信とか、執念とかいったものが、パドヴァ大学の文字通りの背骨だと思われておりました。
さて、最後にまいります。パドヴァの町を少し歩いてみましょう。実際おいでいただくのが1番いいのですが、ここだけはぜひともご覧いただきたい。スクロヴェーニとか、サンタントニオはもうご覧いただいたといたしまして、町のど真ん中に参ります。
正義の館と、あるいは、裁きの館と、あるいは、裁きの宮殿と言ってもいいでしょうか。1番わかりやすく正義の館と言っておきますが、もちろん正義の館というのは、この中に正義さんが住んでいたわけではなくて、簡単に言えば裁判所です。つまり、物事を争って、物事に決着をつけるために、両当事者が集まる場所、つまり、正義がここでは判定されるという意味で、正義の館と呼ばれましたけども、右側にありますのは、その正義の館です。いやあ大きい。先ほどいくつかご覧いただいたこともあるかもしれませんが、現在風に言えば、4~5階建て。長さも長く、両側には広場があります。少し古い写真で恐縮ですが、必ずこの正義の館の周りには、市場が出るものでありました。次お願いします。
この高さ、こんな大きさの裁判所が必要だったのかどうか、なんとも不思議な気がいたしますけれども、でもこの建物は実は、先ほどお話しましたあのパドヴァ大学が生まれたころ、あるいは、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画が描かれたころからここにあり、この形をしていたそうです。
もちろん、戦争があったり、いろいろなことがありましたから、修復も行われ、時には一部分欠けてはおりますが、でも基本的にはその形は全く変らずに、800年間ここにあり続けた。別の言い方をすれば、パドヴァのマルシリウスもこれを見ました。ハーヴェイも、コペルニクスも、ガリレオも、ヴェサリウスも、皆これを見た。ガッタメラータを作ったドナテッロもこれを見たという。文字通りそのものが今でもあるというのは、大変驚きです。
でも、建物だけではないのです。実はもう12~3世紀のころから、この建物の話が話題になると同時に、その前の広場にあるこの市、マーケットが、大変いつも話題になってまいりました。
この建物のこちら側がフルーツの広場。フルーツの市場、フルッタ市場、それから、この向こう側に、ちょうど対照形で向こうにもこういう形があるのです。そちらは野菜の市場。果物と野菜どこが違うのかと言われると、ちょっと難しいところがありますが、当時からそういう風に呼ばれておりまして、もちろん、果物と野菜だけではなかったのだと思います。それを中心として、もちろん衣料品から、靴にいたるまで、いろいろなものが売られていたにせよ、向こう側とこちら側とは名前も違い、管轄も違いました。
その広場が現在でも残っており、現在でもそこに市場が出ているという。800年間同じことをやってきたということになります。次お願いします。
斜めから見るとこういう形になります。毎日、日曜日だけではありません。毎日、この広場には、テントを張った屋台が出まして、不思議なことに今でも野菜と果物を売っています。次お願いします。
ちょうどその正義の館、中に入りますと、実はこちらはずいぶんと中の壁も荒れておりまして、退色も激しく、よくわからないのですが、これもたぶん間違いなくジョットとそのお弟子さんたちが描いたもの。このジョット・ブルーと言われる青が少し残っておりますので、ここからもたぶんそうだろうと思われますが、ジョットのお弟子さんたちが中心となって、この正義の館の内側の壁にフレスコ画を描きました。次お願いします。
その正義の館、今ではそこで裁判が行われるわけではありませんで、お店が出たり、それから、いろいろなイベントの会場として使われておりますが、イタリアどこでも見ることができるように、長いこういう市場がたっておりまして、朝から買い物客で賑わいます。2~3枚ご覧いただきましょうか。
生ハムですよね。お腹がすいてきました。次お願いします。文字通り、かつてフルッタの広場だったものが、今でもフルッタの広場だという。800年前から同じだという、不思議なことですね。
ついでながら、本題と関係ないお話をしますが、これトマトですが、トマトって野菜でしょうか、果物でしょうか、というこの議論がよくありまして、日本では野菜ですよね。八百屋さんで売っています。でも世界中、果物屋さんで売っているところたくさんあります。最近私も気がついたのですが、お隣の国韓国、お隣の国中国、あらまし、すべてではありません。かなりなところでトマトは果物屋さんに、あるいは果物売り場にあります。みかんとスイカの間にトマトがあるという。ものは考えようですから、それで一向に構わないけど、トマトを探して、どうしても八百屋さんにないと思って行ってみると、果物屋さんにあるという。ところ変れば品変るということなのでしょうか。本題には関係ありません。
以上でしょうか。
かなりの無駄話ばかりでもって、パドヴァの話をしてまいりました。もちろんイタリアにはパドヴァだけがあるわけではありません。先ほどご覧いただきましたとおり、北イタリアでも、まるで真珠の首飾りのように、1つ1つ味わうことができるたくさんの町があります。でも、その中でやはりパドヴァが他の町に対しても、プライドを持って主張することができるのは、ともかく世界中からいろいろなひとびとがやってきた。かつては世界といっても、もちろんヨーロッパだけでありましたが、そこにはコペルニクスも来ました。ハーヴェイも来ました。あるいは、先ほど見ましたように、ポルトガルで生まれたはずのサンタントニオが、ここで活動し、ここで亡くなり、ここに埋められました。
こういう小さい町が、イタリアにはたくさんあり、しかも、ヴェネツィアという巨大都市の脇にあって、まるでやけどをしそうなところにいるにもかかわらず、ヴェネツィアとは違う学問を作り、ヴェネツィアとは違う芸術を作り上げていったということは、否定しがたい事実であります。
どうか皆さん、もし機会がありましたら、ヴェネツィアに泊らずに、パドヴァに泊っていただき、ヴェネツィアは翌日に行っていただくと、電車は25分程度、あっという間に着きますので、こういう町がイタリアにはたくさんある、その代表的な例として、ご覧いただくことができるかと思います。
ご清聴ありがとうございました。
司会 樺山先生、本当にどうもありがとうございました。大変面白いお話を、ジョットの偉大さを再認識したという感じがしました。せっかくですから、ご質問をお受けしたいと思いますが、どなたか。
質問 今日はどうもありがとうございました。本当に勉強になりました、2つお聞きしたいのですが、まずマルシリウスという政治学者、今日はじめて名前を知ったのですが、彼が唱えた理論というのに対して、教会はどういう態度をとったのかなというのを、ちょっと興味深く思いました。もう1つは、そのパドヴァの魅力というのを本当によくわかったのですが、どうしてパドヴァだったのだろう。パドヴァが何が違うのだろうというのを、とても最後までずっと、先生のお話の背景にあることだと思うので、ぜひ教えていただきたいと思います。
樺山 マルシリウスの件からですが、あまり日本で知られてないかもしれません。実は私、何十年前に大学を出ましたときの卒業論文がマルシリウスの政治理論というタイトルだったものですから、大変私自身にとっても思い出深いパドヴァの理論家なのですが、もちろんこの理論に対しては、キリスト教会は全面否定です。ちょうど実は、まだヨーロッパにおいてキリスト教会が強い影響力を持っていたときですから、この書物に対しては、大反論もありますし、ただまだ後に言われるようないわゆる異端審問制というものが完成しておりませんので、直接その身に危険が及ぶことはなかったにせよ、理論的には全く相手にされない議論だったけれども、でもこれに対する賛否は両方ありました。特に、これに対する賛成論は、当時、ローマ教皇と争っておりましたドイツの人々。特にドイツのバイエルンの理論家たちが、大変この教えに賛同を示しまして、マルシリウスをバイエルンに呼ぼうという計画もあったようです。バイエルン、ミュンヘンですが、結局行かなかったようですが、でも、彼マルシリウスのもとに数多くの若い理論家たちがパリへ集結いたしまして、パリはその意味では、もちろん教会といろいろな関係があるにせよ、こうした世俗理論の中心地になっていく、その出発点の1つでありました。
さて、パドヴァはなぜパドヴァなのかというと、それは難しいですね。パドヴァの町のすぐ脇にヴェローナという町がありますね。この町もよく知られており、古代以来、ずっと栄えてきた町ですが、ヴェローナには有名なバルコニーがあります。ロメオとジュリエットの有名なバルコニーの場面。あそこだと言うのですが、これまるっきり嘘でして、シェークスピアはイタリアに行ったことがあるわけでも何でもないのですが、でもあれだと言われているバルコニーがあります。そこで、ロメオとジュリエットが交わす有名な会話があります。「ロメオさん、ロメオさん、どうしてあなたはロメオさんなの」それはね、薔薇が薔薇という名前だからという、「薔薇の名前」というのはそこから来た小説名ですが、という話があります。パドヴァはパドヴァだからとしか言いようがありません。ロメオがロメオであるようにと。いろいろとお話した中から説明するしかないと思うのですが、もちろん、例えば、交通路の要衝にあったとか、数ある科学者たちが、外来の科学者に先立ってここに集まったとか、いろいろなこと言えますけども、こういう説明は凡庸ですから、いくら数え上げても説明にならないので、ロメオさんがロメオだったからと同じように、パドヴァさん、それはパドヴァだったからだということにしましょうか。
司会 先生、ラブレはパリ大学を石頭だといって痛烈に批判していますが、この当時は、そうすると、パリ大学は結構先進的だったということなのでしょうか。
樺山 時代によって違いますけども、少なくとも、先ほどのマルシリウス、14世紀の冒頭ですが、そのころから、その前後から、そのころ14世紀いっぱいは、もっとも先進的な学問だったと思います。ただその後、ルネサンスは南方で起こりますし、また、パリ大学はどちらかという保守派といいますか、守旧派の牙城になりますので、ずいぶんとあちこちからくさされましたけども、ただやはり学者、研究者の相対的な数は圧倒的にパリに多かったですので、その意味では、進んだものもあれば、遅れたものもあるかもしれませんが、やはり大きなお城だったことは確かだと思います。
質問 会員の高木でございます。特にパドヴァに1~2回行ったこともあるし、とても興味深く伺いました。お尋ねですが、最後の正義の館というのですが、裁判というのは、昔はそれこそ宗教裁判とかいうように、宗教が主だったのかなと素人ながら思っていたのですが、この裁判所は、どういう立場で行われたか、ちょっと興味を持ちました。よろしくお願いします。
樺山 もちろん中世にもいろいろな形の裁判がありまして、今お話のように、宗教裁判。つまりキリスト教教義に関わる、聖者を決めるための裁判ももちろんあります。ただもちろん一般的にいえば、裁判というのは刑事事件、それから、民事事件といった人間生活に関わる部分ですが、それらのほとんどは、いわゆる領主裁判と言われまして、領主が裁判権を持っていました。特に農村で農民たちが関わっているいろいろな事件は、農民の領主が裁く。領主は、ほとんどの場合に、その土地から年貢をとる権利を持っていると同時に、その土地の人間を裁く権利、裁判権を持っていました。だから、領主の場合には、事件がおこる、刑事事件であれ、民事事件であれ、起こったときには、自ら領主が出かけていくか、あるいは領主のところに出かけていって、領主が裁判を行う。当然、これには裁判手数料というのか、お金を出さなければやってくれませんので、民事であれ、刑事であれ、そして、例えば、刑事事件の場合には、罰金というペナルティがありますね。その罰金は領主に払うのです。この領主裁判というのは基本でして、だから、都市に参りましても、基本は領主裁判でした。都市の領主が裁判をすると。その都市の領主が裁判権を放棄するか、あるいは、弱くなってくると、それに代わって、都市の名望家といいますか、都市の支配者たちが、裁判権を持って、代行して行うということで、したがって、この都市の領主たちは、政治的な支配者であると同時に、司法的な支配者でもあるということになりますから、今のいわゆる三権分立ではありません。立法も、行政も、司法も、1つのところに集まっていますが、そうした人々が実は、たぶん領主、正義の館でもって、おそらく順番制とか、あるいは、その専門性によっていろいろ仕組みはあってにせよ、あの中でもって行って、都市領主として、都市の支配者として裁判を行ったという、こういうことなのだと想定されます。ということなのですね。
質問 イタリア研究会の篠原と申します。私は樺山先生の大ファンで、前NHKで都市と大学というシリーズやってらっしゃいましたよね。その前に、十数年前ですか、先生、ダイエットをなさって、ランニングをなさって、いつも時代の先取りをしてらっしゃるので、もう本当に、
樺山 今時代に後れています。
質問 いえいえ、そんなことはありません。今日、私非常に感銘を受けましたのは、そこで大学の知の中心であって、学んだ人、そして、教えた人、コペルニクスはポーランド人、ガリレオはイタリア人、それから、ヴェサリウスがフランス人、それからハーヴェイがイギリス人、当時、イギリスとか、ポーランドとか、どのようなルートを来て、しかもここに大学があるというインフォメーションは、今のようなパソコンでも、それから、新聞社があるわけでもない。どうしてそんなところにいた人が知れたのか。それから、教えた人、あるいは、学んだ生徒も、いろいろな国から来ているけども、その教授はラテン語で授業をなさったのでしょうか。その2点教えていただきたいと思います。
樺山 そうなんです。もちろん現在に比べればはるかに輸送手段もなく、輸送手段以上に、通行の安全が極めて危険でした。通行証を持っていても、それで誰かが守ってくれるわけではありませんので、もちろん自分の身で守らなければならないので、大変な危険な時代だったにもかかわらず、おそらく普通に考えられている以上に、実は人間の移動、これは、例えば、商人が移動するというようなものも含めてですが、移動が多かっただろうと思われます。特に、この学問世界。これは、キリスト教に関わるものから、サイエンスに至るまでですけども、これは、どこで、どんな先生が、どんな授業をやっているかということは、非常に敏感に、早く、駆け巡った情報のようです。したがって、もちろん今のインターネットと違いますから、今度はパドヴァへ行こうなんていうふうにはならないにしても、うわさはうわさを呼び、パドヴァに行けば、ヴェサリウスがいると、コペルニクスがいるというようなニュースは、非常に早く各地を駆け巡りました。それは、おそらく1つは、知的な渇望といいますか、なんとか知的な情報によって、自分も身を立てないし、またそのことによって世界を理解したいという、そういう知的な渇望があったことも確かですが、同時に、今お話、最後にございましたとおりに、当時、大学はすべてラテン語です。授業も、またそのノートを書くのも、試験の答案も、全部ラテン語で書かれました。この風習は中世だけではなく、かなり長い間そうでして、イギリスの大学なんか、18世紀くらいまで、ラテン語で授業もし、答案も書いており、手紙もラテン語なんてことはよくありましたけれども、日常生活だけはさすがにたぶん母国語でやったのでしょうが、あちこちから来ていますから、母国語では通じないということで、結局、ラテン語というのは、ヨーロッパ共通語ですので、学問上の言葉ももちろんのこと、飯を食いに行こうかというのも、たぶんお互いにはラテン語でやるのが1番安全だったのだろうと思います。そのラテン語という共通語、単に言葉が共通であるだけではなくて、ラテン語で表現される世界観というのが、それを共有していたということが大変大きかったのだと思いますね。そのために、ヴェサリウスがいても、コペルニクスがいても、ラテン語で、あるいはラテン語で表現される世界観を仲立ちにすれば、会話が成立するという。そういうことだったのだと思うのですね。
質問 でも先生、ラテン語を学べる人というのは、やはりアッパークラスではないですか。
樺山 ええ、もうアッパーアッパーですけども、もちろんそのためにはまずは、いわゆるグラマースクールという、グラマーというのは文法という意味ですが、このグラマーはラテン語の文法のことです。それを初等教育として、これはわざわざパドヴァに行く必要はないけど、自分の近くの町で、ラテン語の初級文法は勉強するにせよ、それ以上は、やはり大学に行かないと、トレーニングが受けられないということで、その数はきわめてわずかでした。でも、きわめてわずかだけども、ともかく、田園の中の修道院ではなくて、都市の中にいて、ある程度の経済的な余裕のある人たちが、その子息を大学に送った。そして、その子息たちは、もちろん多くの場合には、その学校に行って、就職口を探すことが目的でしたので、主には医者とか、それから、法律家とか、あるいは、神学部もいずれかといえば、つまり、教会で身分を立てるためという、こうした当時であっては、ものを読める知識があることによって獲得できる職業が念頭にあったのですね。数は少なかった。でも、こうした人々の探究心というか、あるいは、知的な上昇志向と言ってもいいと思うのですが、これは大変なものだったと思いますね。それがやはり大学の成功につながった。今の大学生がそれとどうかというよく議論がありますが、それはそれ、これはこれですね。
司会 先日、ハーバードの卒業式に行きましたら、卒業生がラテン語であいさつしていましたね。ですから、しゃべるラテン語、いまだに生きているのだということにびっくりしました。
樺山 そうですね。ラテン語ラテン語と、とても難しいとお思いになりますでしょうが、それは外国語ですから難しいにしても、ローマ人が普通にしゃべっていた言葉ですから、ローマのホームレスさんもラテン語をしゃべっていたので、そんなに大げさに考えることはないのだと思います。
質問 イタリア語の翻訳をやっております中村と申します。2つほどお伺いしたいのですが、1つは、スクロヴェーニが自分の礼拝堂にフレスコ画を依頼しましたジョットにしても、ガッタメラータ像を依頼しましたドナテッロにしても、フィレンツェの出身なのですが、フィレンツェが当時、そのルネサンスの中心だったということからなのでしょうか。あるいは、そのパドヴァという都市国家とフィレンツェという都市国家が何かつながりがあったのでしょうか。それが1つです。もう1つは、ラテンアヴェロエス主義というので、そのアベロエスというのは、私はちょっと存じ上げませんで、手元にあった広辞苑をひきましたところ、スペイン生まれのアラビアの哲学者で、医学者でもあったと。このラテンアヴェロエス主義というのが、そのパドヴァで広まっていったというのは、それはやはり医学部があったということから入っていったのでしょうか。
樺山 はじめの質問、大変いい質問で、難しい質問なのですが、おそらく14世紀から16世紀、ルネサンスの初期からルネサンス最盛期にいたるまで、この芸術家たちの地理的な移動というのか、あっちで仕事をし、こっちで仕事をして、この移動がきわめて多かったということがあるのだと思うのですね。もちろん自分の町で生まれて、自分の町で作品を作る、比較的凡庸な芸術家たちはたくさんいたと思いますが、あちこちの政治指導者たち、あるいは、都市の人々が、あの芸術家を呼ぼうではないかと。それで、何もそこに5年も10年も住んでくれという話ではないと。作品を1つ作ってくれと。そのためには一定の支払いも約束すると。ネゴシエーションもすると。そういう形で、芸術家たちがあちこち動くという例は、きわめて多かったのですね。芸術家の方から見ましても、1つの町で作品を作るとすぐ飽きるでしょう。しかも、当然、当時のことですから、一生涯に渡って年金をくれて、自由に作ってくれなんてことはあるわけありませんので、芸術家としても、より条件のいい、これは支払いがいいという意味でもあり、また、自分の芸術を理解してくれるという意味でもある。その条件のいいところをめざしてあちこち動くと。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチなんていうのは、フィレンツェでもありますし、ミラノにも行きましたし、ローマにも行った。とうとうフランスまで行っちゃった。フランスで死んじゃったと。こういうような芸術家がたくさんおりましたので、そのひとこまとして、ドナテッロも、あるいは、少し前になりますが、ジョットも、イタリア各地をめぐって、仕事をしたのだと思いますね。
それから、ラテンアヴェロエス主義のアヴェロエスというこの人ですが、今お話がありましたとおりに、スペイン、コルドバ生まれのアラブ人です。したがって、作品は全部アラビア語で書かれました。今のこの時代よりも少し前、12世紀の末から13世紀にかけての人物でしたが、このアヴェロエスは、元々はアラビア語でものを書きました、ものを考えましたが、元々ギリシャ、古典ギリシャの作品、特にアリストテレスをアラビア語を読んだ。ギリシャ語はたぶん読めなかったようです。でも、アラビア語にほとんどすべてのものがすでに翻訳されていて、アラビア語でアリストテレスを読み、このアリストテレスの学説を新しく適用して、世界を解釈しようとした。そういう人の1人だったのですね。お医者さんでももちろんありました。この考え方は、本人アヴェロエスはそう考えなかったにせよ、それを受け取ったヨーロッパ人たちは、アリストテレスの考えに従って、目で見える、手で触れることができる、つまり世俗的なものは世俗的な原理で考えようと。でも、確かにそれでは見えないものもあることはあるけど、そちらはそちらとして、つまり、神様の領域として分けて別に考えようという。これは、アヴェロエスは単純にそう言ったわけではないのだけれども、それを受け取ったラテン世界の人々は、じゃあ世俗の世界と神様の世界は別々だと。神様の世界は教会でいい、聖書でいい。でも、世俗の世界はアリストテレスでやっていこうと、プラトンでやっていこうと。こう考えたわけで、これを通常、アヴェロエス主義というのですが、正確には、幾度も同じことを言いますが、アヴェロエスはそう言ったわけではないにしても、それを受け取ったラテン世界の人々は、これを2つ分けて考えようと。こういうふうにラディカルに突き進めて、それを普通ラテンアヴェロエス主義と言っています。ちなみ、アヴェロエスというのは、元々この人はイブン・ルシュドという名前のアラブ人でして、そのイブン・ルシュドがどうしてアヴェロエスになってしまったのかというと、ずいぶん訛ったのですが、これを読んだラテン世界の人々は、イブン・ルシュドとは言わずに、アヴェロエスと言いました。このアヴェロエス主義は、最初、パリで大変な盛りを見まして、13世紀の末から14世紀にかけて。その後、いくつかの世界で大変うまれたのちに、次のセンターがパドヴァへやってきたと。ラテンアヴェロエス主義は、その意味では、パリで栄え、少し時間があった後に、パドヴァで第2のピークを迎えたということができるかもしれません。先ほどのマルシリウスがパドヴァで生まれて、パリで教えていたというのとちょうど同じように、2つの町は文字通りヨーロッパ世界におけるアヴェロエス主義のセンターであったと言っても過言ではないと思っています。
質問 イタリア研究会の奥と申します。よろしくお願いします。パドヴァはずいぶん前に1回行ったきりなのですが、
樺山 もうスクロヴェーニはありましたか。
質問 はい、ありました。
樺山 うそうそ、ジョークです。
質問 アントニウス聖堂なのですが、こちらに行ったときに、ちょっと不思議だったのは、普通聖遺物というのはどこの教会にもたくさんあるのですが、その他に一般の信者の方の亡くなった形見とか、お写真とか、すごくたくさん飾られていたのですね。教会の周りにも、何と言うか、特別なろうそくみたいなものもたくさん売られていたのですが、ここはそういう巡礼のための教会みたいな、塔別なそういうのがあるのでしょうか。
樺山 パドヴァだけではないのですが、いくつかそれで知られているところがあります。それはやはり巡礼なのですね。もちろんサンタントニオ、聖アントニウスという修道士に対する巡礼でもあるのですが、あえて言うと、偉大な先祖に対する、自分の先祖に対する巡礼でもあって、それは、キリスト教の教会の理論からいくと、ちょっとまずいなというところがもちろんあります。教会には、聖職者以外の聖遺物、あるいは、それ他、遺骸等はおいてはならないというのが基本的なルールでしたから。でも、あそこで納められているのは、中世から最近に至るまで、いろいろなものが実は納められ、たぶん骨も、遺骨も、あるいはその他、その身体の残されたものも、かなり実は、あのお墓みたいになっている、ちょっとアパート墳墓みたいになっていますが、ああいうところにも納められていまして、これは、理論的にはまずいかもしれないけれど、しかし、巡礼に行く人々にとっては、聖なるアントニウスもそうだけど、自分の先祖ももちろんその中に含まれている。誰でもいいわけではないけども、特にその品格、風格があった先祖であるとか、あるいは、自分たちが尊敬してきた誰かとか、いったものを、教会に納めること自体は、風習、慣習としては、大目に見られていたようです。おっしゃるようなのは、ちょっと私も正確な記憶がないのですが、聖アントニウス教会であればありうるなという感じがいたしますので、そうです、ちょっと今ご指摘もありましたから、何かまた私も機会があったら、他のところも含めて、観察してみたいと思っております。ありがとうございました。
司会 それでは、そろそろお時間となりましたので、これで今日の例会を終わりにしたいと思います。それでは、もう1度、皆さん、拍手をお願いしたいと思います。先生、どうもありがとうございました。